経済数学

1 経済数学

1−5 最大、最小


 最初の一とは、全体の一であり、二番目の一とは、最小単位の一である。即ち、最大の一と最小の一が定まることから数は、始まる。

 一は、最大という意味と最小という意味の二つを併せ持つ。一は、全体を意味すると同時に、部分をも意味するからである。そして、一は、単位でもある。

 一によって二が生じ、二によって三が生じる。それが数の始まりである。数は、物と結び付けられることによって実体を持つ。

 一対一とは、一と一である。

 量には、主体的な量と客観的な量、そして指標的な量がある。主体的な量は、認識主体が一とする量である。それに対し、客観的な量、物的量とは、一となる量である。そして、指標的な量とは、仲介的量であり、一を指し示す量である。単位とは指標的な量である。

 単位は合意に基づく数量である。単位が成立する為には、単位を決め、単位を認める主体と単位となる対象、単位を示す印が必要となる。

 単位とは、ある対象の全体を一とし、その部分の一つを一とすることによって成立する。全体の一と部分の一との比によって単位は、成り立っているのである。単位が定まると二が生じる。二が定まると三が生じる。この様にして数は認識されるのである。

 故に、単位は比が基である。そして、比の基でもある。単位は、故に基準となるのである。つまり、単位は比較できる物ならば何でもいいのである。それが単位である。つまり、単位とは、基(もと)なのである。

 ある一定の長さがあれば、単位は成立する。それが足の長さでも、指の長さでも、歩幅でも、棒でも単位になりうる。紐の長さでもいいのである。ただ歩幅は一定しているとは言い難い。それでも原始的な社会であれば大マカでも長さや距離、即ち、位置がある程度、解れば単位として成り立ってきた。それがフィートという言葉に残っている。
 長さを計算するために、一度決めた単位を何度も変更することすらあったのである。例えば、紐の全長を一つの単位とし、それを二つに負った長さを又単位とすると言った具合である。
 つまり、単位とは基準となる量なのである。絶対的な量を指しているわけではない。

 即ち、単位とは、任意な量であり、公式に博く認められた単位とは、社会的合意に基づく量なのである。つまり、公式に博く認められた単位というのは、社会的な数値なのである。所与の量ではない。ただし、一度社会的な合意が成立すると固定量として社会的前提が成立するのである。

 単位というと我々は、物理的単位を思い浮かべる。しかし、本来単位というのは決まったものではなく。物を測るための基準に過ぎない。かつては、物理量もその時点時点で決めていたのである。
 物理的単位が定まったのは、それほど遠くない時代である。貨幣単位に至っては、未だに何等かの物理的実体があるわけではない。十進法に収まったのも最近のことである。

 一つの何等かの全体を対象とした場合、その対象の範囲を特定する必要がある。そこで重要になるのは、最大値と最小値である。最大値と最小値で一番大きいのは、無限大と無限小である。しかし、現実の問題、特に、経済では、基本的に有限な事象を対象とする。故に、最大値と最小値が問題となるのである。つまり、対象の規模である。つまり、最大値と最小値は、限界と境界線を意味するのである。

 人の一生には限りがある。人の欲望には、限りがない。限りある人生を限りない欲望に委ねてしまえば、人は目標を定めることができなく。まず、生きられる範囲の中で人は自分の目標を定めなければならない。人生の目標が、自分の立ち位置を決めるのである。

 最初から無限という概念があったわけではない。人は、自分が認識できる範囲で対象を識別する。最初は、割り切れる範囲で対象を識別し、単位を定めようとした。しかし、現実には割り切れない範囲があるのである。
 割り切れない範囲ができた時、世界は開放され、無限の広がりを見せるのである。

 貨幣価値は、一本の数直線として現れる。貨幣価値は、自然数の順序集合である。自然数は無限集合である。貨幣価値は、抑制がなければ無限に拡大する。貨幣価値を抑制するのは、物的集合と人的集合である。

 物質的、人的資源は、有限集合である。貨幣価値と、物的集合、人的集合が一対一に結びつくことによって貨幣価値の集合は抑制される。

 即ち、貨幣価値の総量の限界、境界線は物的要素、人的要素によって確定される。それは、必要性の最小値と可能性の最大値である。必要な資源は、最小限確保されなければならない。欲望には際限がないが、供給可能な資源の量には限りがある。
 いずれも主観的な基準である。故に、客観的基準は設定しにくく、取引という行為を通じて裁定するのである。

 現代経済規模は、爆発的に拡大している。しかし、経済規模には限りがある。そして、その境界線を確定するのは、物的経済と人的経済である。なぜならば、貨幣には際限がないからである。つまり、物的経済や人的経済は、その存在内部に抑制するための仕組みがあるのに対し、貨幣的規模を抑制するものがないからである。
 資源は、有限であり、人間は、生存できる範囲に限りがある。しかし、貨幣価値は、生産しようと思えば限りなく生産することが可能なのである。だからこそ、貨幣経済の規模を特定する必要があるのである。

 何も生産しなくとも、働かなくても、お金を生み出すことはできる。そして、厄介なことに、市場に物が供給されている限りにおいて、「お金」さえあれば、市場から必要な物は手に入れることができるのである。

 最近、実際は、生産的なことは、何もしていないのに、何等かの物を生産している、或いは、投資をしているように見せ掛けて資金を集め、集めて資金を巧みに操ることで人を騙し続ける詐欺事件が見られるようになった。この様な事件は、「お金」さえあれば、とりあえずは事業が成り立つことを証明している。その典型が、所謂、「ネズミ講」である。しかし、金融というのは、本質的に、抑制力に乏しい性格がある。それは、規模を抑制する要素が貨幣自体にはないからである。貨幣経済を抑制するのは、物的、人的経済、そして、人間の理性と社会の仕組みである。

 経済的価値は、物の供給と人の必要性(需要)によって決まる。貨幣価値は、経済的価値の指標の一つに過ぎないのである。

 現代では、景気対策として潜在需要の掘り起こしとして公共事業が行われる。公共事業をしさえすれば景気が良くなるように錯覚している人達もいる。
 潜在的需要というのは、必要性から生じるのであり、資金量によって生み出されるものではない。ただ、潜在需要が蓄えられても貨幣が行き渡っていなければ、潜在需要を引き出す手段がないのである。
 いくら金があっても欲しい物がなければ財布の紐はゆるまないのである。ただ単なるばらまきたい策では、借金が増えるばかりである。

 物も、人も、有限なのである。有限な存在なのである。貨幣価値だけが無限の広がりを持つ。限りある資源を無限の価値に置き換えてしまえば、資源は、無制限に浪費されてしまう。人間は、その危険性に気がつくべきなのである。
 貨幣の量が問題なのではない。最初から実体のない物に、実体があるかの如く錯覚するから問題となるのである。貨幣は、資源を分配するための指標に過ぎない。有限の資源を無限の秤で測ろうとするから際限がなるのである。
 人間が活用できる資源には限りがあり、人間の欲望には限りがない。それが問題なのである。それを、人間が、自覚できないことが問題なのである。

 生きる為に最低必要な資源は何か。人間が活用できる資源はどれくらいあるのか。そこに最大と最小の範囲がある。最大と最小は、限界である。

 一人の人間が生きていく為には、世界中の土地を必要とはしていない。生きていく為に必要な食料はどれくらいなのだろうか。それを測る基準、単位は何にすべきなのか。一人の男が必要とする女は、一人で充分なはずだ。だとすれば、一組の男女を基準に家族制度を考えれば、設計すればいいのか。それは思想の問題である。
 人間は一人では生きていけない。ならば、最低必要とする人の数はどれ程なのであろうか。最大と最小は、表裏を成す数値である。そして、それは境界線を示す数字でもある。

 現代企業は、利益の最大化を目的とするという。利益を最大化を目的とする根拠は何か。なぜ、利益の最大化を計らなければならないのか。それが肝心である。

 利益には正もあれば負もある。即ち、絶対的な数値ではない。近代資本主義というのは利益の最大化を計ることに目的を置いているといっていい。しかし、利益の最大化と言っても利益をもたらす物の基準は曖昧である。それが資本主義最大の弱点である。自分達が目的としている事象の本質が見極められていないのである。

 利益というのは、思想である。利益は、現金と言った実体があるわけではない。
 収入というのは、現金を受け取ることである。現金という実体がある。しかし、売上は、売ったという認識による。強いて言えば、認識を示す証書があるだけである。利益によって企業の経営実績を測るのであるから、つまり、利益は、任意な尺度であり、ある意味で相対的な単位である。
 では利益によって何を測るのか、それが、本来の問題なのである。ところが、現代の会計は、利益を目的化してしまい。利益本来の尺度としての意味を見失ってしまっている。利益をあげることを唯一の目的であるかの如く錯覚し、利益によって何を測ろうとしているのかを忘れているのである。

 利益の最大化が計られる一方で、利益の最小化も測られる。それが現代の自由主義経済である。余剰の利益は認められないのである。一定の利益を超えれば税として社会に還元される。利益は、資本家と金融機関と社会と経営者に還元される。資本主義体制とは、そう言う仕組みなのである。
 利益を最大化しようとする力と利益を最小化しようとする働きの均衡の上に市場は成り立っているのである。この均衡が崩れると市場は荒廃する。

 分析とは、全体を要素や部分に分解し、個々の部分の性質や量を明らかにし、全貌を再構築する行為である。つまり、全体を部分に分解することを前提とする。それが対象を理解することに繋がるのである。大切なのは全体と部分の関係である。どちらか一方だけで成り立っているのではない。全体と部分の相関関係によって成立するのが単位である。
 利益は、取引の総和によって生み出される指標である。利益だけを目的としても得られるものではないのである。利益の背後にある企業全体の社会的働き、機能が重要となるのである。

 経済的価値は、幾つかの制約の上に成り立っている。経済的価値は、制約がなければ価値は成立しない。制約によって経済的価値は成り立っているとも言える。第一に、資源には限界があるのである。経済的価値は、単純な価値ではない。貨幣を絶対的なものとして捉えたら経済は見えてこない。
 全ての土地を所有することは、全ての土地を所有していないのと同じ結果をもたらす。

 経済的資源は、有限なのである。経済的資源には、時間も含まれる。一人の人間に与えられた時間も有限なのである。
 限りある資源をいかに有効に活用し、如何にして、最大限の効用を引き出せるか。それが経済の課題である。
 最大限の効用を引き出すためには、いかに、資源を公正、公平に、効率よく分配するかが鍵となる。分配するための一つの手段が貨幣なのである。

 経済的場、経済的空間は、閉ざされた空間である。即ち、有限な空間である。資源にも、人の一生にも限りがある。活用できる範囲というのは、予め限られているのである。限られていることを知る事が、認識の始まりである。

 経済現象は、閉ざされた空間内部での出来事なのである。

 認識された現象は、限られた空間での出来事だから、相対的現象なのである。つまり、比が基本にある。限られた空間というのは、認識に限界があることを意味する。存在に限界があるわけではない。存在の限界は不可知な領域にある。
 経済的現象は、限られた空間の出来事であるから、相対的な現象である。経済的価値は、相対的価値であり、示される数値も相対的な数値である。絶対的な数値ではない。
 経済的資源は有限であるから、経済の対象となる経済的資源には、最小限と、最大限がある。
 経済的資源には、元来、負の資源というのは存在しない。

 経済的資源には、限界がある。無限ではない。それが前提条件である。しかし、貨幣は、数値的価値である。数字は、無制限に設定できる。即ち、物理的な限界を持たない貨幣、不兌換紙幣のような貨幣は際限がない。規律がなくなれば抑制することが困難になる性格を不兌換紙幣は持っている。

 有限な資源を際限のない貨幣を仲介して分配する。それが資源分配の歪みや偏りを生み出す。

 人間が必要な資源にも、人間が生み出す資源にも限りがある。ところが、それを分配する道具である貨幣には際限がない。

 いくらでも金は作れるのである。しかし、金の使い道には、限りがある。金を分配する手段にも限りがある。必然的に余剰の貨幣価値が生み出される。余剰の貨幣価値が社会に偏りを生み出すのである。一日の食事を手に入れる金すらない貧しい人々がいる一方で、一生使い切れない金を持つ者がいる。住む人のいない家が余っているというのに、住む家がない人々で街が溢れている。
 この様な現象は、貨幣の振る舞いによって引き起こされているのである。つまり、最小と最大がかみ合っていないのである。

 貨幣の役割は、取引の仲介をすることである。貨幣は、物と物とを交換するための手段、道具である。貨幣は、交換価値を表象した指標である。
 貨幣が有効に機能する為には、資源を必要とする人々に万遍なく、資源を手に入れるために必要な貨幣が手渡されていなければならない。
 そして、貨幣は、使用されることによって効能を発揮する。貨幣価値は、取引によって生じる価値なのである。
 貨幣が効用を発揮するためには、貨幣が社会全体に行き渡り、循環し続けていることが前提となる。
 この様な、貨幣は、偏りや停滞を一番嫌うのである。

 有り余った金は、資源の価格を高騰させ、経済に偏りや停滞を引き起こす。それがインフレーションである。

 市場に流通する貨幣の量が変化しても、その時点に市場に流通している資源の量が、直接、変化するわけではない。ただ、価格が変化するのである。そして、価格が変化することによって資源の配分に変化が起こり、やがては、生産や消費の量を変化させるのである。

 貨幣価値は、取引によって生じる価値である。取引を成り立たせているのは、第一に、買い手と売り手の存在、第二に、資源の存在、第三に貨幣である。そして、これらに時間と場所の差が関わることによって貨幣価値は生じる。

 市場取引には限界点がある。買い手の限界、売り手の限界がある。必要とする資源には限りがあり、資源にも限界がある。
 満腹してしまえば、食欲が減退し、食料を必要としなくなる。生産にも限界がある。獲りすぎれば獲物はいなくなる。お金だけが際限なく作り出される。
 それが経済の周期を生み出す。
 取引に限界があるのに、際限なく貨幣は市場に供給され続ける。貨幣の供給を制御する仕組みがないからである。
 物が売れなくなるのは、人々が物を必要としなくなったからである。お金がないからではない。しかも、限界点は前触れもなく訪れ、その直前まで需要は旺盛なのである。人々が、物を必要としなくなっても、物の生産は続けられ、貨幣は供給され続ける。その為に、物の価格は下落する。物の価値と貨幣の価値のいずれか、或いは、双方が下落するからである。それがデフレーションである。

 景気が良いといっても、持続する保証はない。次の瞬間に、突然、物が売れなくなると言う現象が度々起こるのである。
 最も需要が高まったところが、限界点なのである。俗に言う天井である。天井をつくと、多くの商品は、急速に需要が減退する。

 あれ程、お腹が空いたと騒いでいたのに、満腹になった途端、何も食べなくなる。それが経済である。それでも食べさせようとするのが以上なのである。

 大量生産、大量消費というのは、常に、余剰の資源を抱えている。それが深刻に事態を引き起こしているのである。

 住む家は、一つあればいい。二つ、三つを必要としていない。それを必要としているのは、消費者ではなく。売り手なのである。なぜならば、売らなければ資金が廻らなくなるからである。

 住む家が行き渡れば、急速に、家の需要は減退する。それなのに、需要があるかの如く見えるのは、需要を必要としている者が需要があるかの如く見せ掛けているからである。

 余剰な貨幣は、その捌け口を求めて、仮想的取引を生み出す性格がある。なぜならば、現代の資産は、正と負の資産からなるからである。正の資産が減退しても負の資産は、増殖し続ける。負の資産の増殖を抑制しない限り、正の資産と負の資産との間に生じた差を実物市場だけでは補えなくなる。その為に、貨幣市場によって仮想の取引を作り出して、実物市場に不足する部分を補おうとする。

 金融商品は、その最たる例である。金融そのものには正の実体はない。金融を商品化することによって負の資産を正の資産に置き換えるのである。しかし、金融商品そのものに実体があるわけではない。あるのは権利という信用だけである。金融市場は、本来、実物市場を補完する市場である。余剰の資金を資金が不足する主体に循環するのが役割である。金融市場が歪み以上に膨張すれば、実物市場に流れる資金が停滞する結果を招く。実物市場に金が流れなくなれば金融市場は破綻する宿命にあるのである。

 戦争や災害によって現代の経済は、活性化する。それは、復興需要が発生するからである。だからといって、戦争や災害を望むのはおかしな話である。戦争や災害が必要だとする仕組みは、どこか狂っている。

 食べた物を吐き出させても、作った物を食べさせようとするような経済は、異常な経済なのである。人間の生理的な部分まで否定するのは、人間性が欠如している証に過ぎない。

 明らかに限界を超えているのである。自らの限界を知らぬ者は、破滅するしかない。腹も身の内である。いくら美味しいからと言って偏った食事ばかりを摂っていたら体を壊すのは目に見えている。食べ過ぎは、不健全の極みである。現代の社会は、当に餓鬼道である。それを進化というのならば、進化は堕落以外の何ものでもない。

 野生の動物は、必要な物を必要なだけ獲る。不必要に狩りをするのは、残忍な行為である。野生の鷹は、食べ過ぎると絶食すると聞いた。ただ必要もなく、自分達の趣向だけで不必要な食事をするのは人間だけである。それは人間の業と言ってもいい。

 貨幣は、経済単位を表す指標である。経済空間は閉ざされた有限な空間である。即ち、貨幣は、比率を示しているのである。比は、差を生み出す。それが経済的位置である。差が拡大すると比に偏りが生じる。偏りが拡大すると貨幣は経済単位としての効力を減退し、やがては効力を失ってしまう。

 差がなければ、経済効率を最大限に引き出すことはできない。しかし、格差を最小限に留めないと経済の効能を消失してしまう。この最小と最大をどの様に設定するかが、政治の役割なのである。

 貨幣単位というのは、きわめて特異な単位である。
 貨幣単位は、量によって定められた単位ではなく。操作によって定まる単位である。故に、単位は、量的なものではなく、操作的なものであり、量によって規定された単位ではなく、操作を規定することによって成立する単位である。

 この様な貨幣単位は、一定の値を持たず、個々の取引という行為を通じて定まる相対的単位である。

 不兌換紙幣を基盤とした貨幣制度における貨幣単位は、取引、即ち、交換という操作によって定まる値である。貨幣単位自体が何等かの物理的実体を持っているわけではない。貨幣単位は、何等かの量に基づく対象によっているわけでもない。

 今日の貨幣単位は、操作によって定まる単位であるから、基準となる物質的対象や実体を持たず、市場取引を根拠とした単位である。

 操作的単位である貨幣単位は、構造的な単位である。
 今日の貨幣制度では、複数の単位貨幣が並立している。ここの貨幣単位は、各々独立した貨幣制度を基盤として成り立っている。故に、貨幣単位の数と同じだけの貨幣制度が存在する。つまり、貨幣単位と貨幣制度とは、一対一の関係にある。貨幣制度は、独立した貨幣空間を形成する。
 貨幣単位は、単位貨幣間の取引、及び、財との取引を通じて操作的に定まる。この場合の操作とは、交換と手続によって構成されている。故に、貨幣単位は、貨幣と貨幣、貨幣と財との交換によって設定される構造的単位である。

 例えば、ドルや円、元は、独自の貨幣単位を持つ。ドルや円、元は、独立した貨幣制度によって固有の通貨圏を形成している。単位貨幣の価値は、ドルと円、円と元、元とドルの取引によって定まる。通貨間の取引は、国内の経済状態、及び、海外との交易、外貨準備高等によって定まる。つまり、ドルや円、元は、市場取引によって定まる経済的単位である。

 金本位制度下の貨幣は、金という実体に貨幣価値は、結び付けられていた。しかし、その場合、金が持つ財としての価値、即ち、貨幣価値以外の要素によって貨幣価値が振り回されることになる。また、市場の急速な拡大や市場環境の急激な変化に通貨の供給量を制御できなくなる場合が生じる。本来、貨幣価値は、その働きから見て市場の規模に連動する値でなければならない。

 つまり、貨幣価値というのは、量ではなく、比に基づく単位なのである。

 故に、取引が成立する前提条件、市場空間の規模、通貨の量に併せて貨幣単位という尺度は、伸び縮みするのである。

 即ち、貨幣単位とは、操作的、相対的、構造的な単位である。

 国民国家が確立されるに随って最大多数の最大幸福を実現するのが近代経済の目的となった。
 数の論理、多数決の原理などの根底に、この最大多数の最大幸福の実現の思想がある。
 しかし、そこで言う最大とは、何を基準とし、又、幸福とは何を意味するのかが、判然としない。そこに危うさがある。

 経済では、最大値や最小値ではなく、最適を求めるべきなのである。そして、最適値の中に、最大値や最小値が含まれる場合があるのである。

 純粋数学では、最大値と最小値を問題とするが、経済数学で重要とされるのは最適値である。
 例えば、利益で言えば、最適利益が問題なのであり、利益の極大値や極小値が問題なのではない。

 何でもかんでも安ければ善いというのはおかしい。市場原理主義者の中には、利益や費用の極小値を善とする風潮がある。又、逆に、利益の極大値を求めるのも利益の持つ意義からして無意味である。問題は、利益の持つ働きから適正値を求めるべきなのである。価格と費用の適正値を算出することである。その為の手段として取引があり、市場があるのである。

 また効率性を例にすると、多くの人は、効率性の基準を正確に理解していない様に見える。理解していないと言うよりも明確に定義していないとも言える。

 効率性や生産性を明確に定義しないで、やたらと数値を振り回す者がいる。そして、数値を振り回すことで、自分は数学的だと見せ掛けている。しかし、それは見せかけである。本当に数値で重要なのは、前提条件であり、言葉の定義なのである。効率性を問題とするならば、先ず、何に対してどの様なことを効率的というのかを事前に明らかに捨て置く必要がある。それが演繹的態度である。効率性とは、合目的的な概念である。故に、効率性は目的に応じて要件定義されるべき概念なのである。

 経済性とか、生産性とか、効率とか言うが、何を以て経済性や生産性、効率を測るのかが明らかにされていない。つまり、経済性を計るための目的すら曖昧なのである。要するに最初に結論ありきで、数字を自分の説を通すために都合よく利用している場合が多い。そこで振り回される数字は、虚仮威しの数字である。本来の根拠の地盤が軟弱なのである。

 生産性や効率性を計る指標には、最大の利益、最大の売上、最大の占有率、最大の生産、最大の成長、最大の雇用など多種多様なものがある。その中で何の指標に重きを置くのか。或いは、どの様な指標を組み合わせるのか。それによって効率性や生産性の意味や値は、随分と違ってくる。

 効率性を定義するにあたって重要なのは、効率性の基準を最大値に置くのか、最小値に置くのか、最適値に置くのかである。
 結果が出てから、効率性の基準を最大値に置いたり、最小値に置いたり、最適値に置いたのでは、最初から意味がない。強引な人は、あたかも、効率性の基準は最初から決まって多寡の如く振る舞う。そして、数値を使用していることを以て科学的と自称する。しかし、その様な態度は非科学的な態度の最たるものである。
 多くの場合、効率性の基準を暗黙に最大値や最小値に置いている。

 不況に陥ると企業は効率性を追求して人員を削減する。それは、費用の最小値を追求した結果である。つまり、その場合の効率性は、費用の最小値の追求を意味する。次ぎに好景気になると生産力の増強を計る。その場合の効率性とは、生産の最大値の追求を意味する。
 経営者は投資家に対して経営の効率化を約束する。その場合の効率性は、利益の最大化を意味する。
 この様に、効率というのは、何等かの値の最大化か、或いは最小化を意味している場合が多い。しかし、費用、生産、利益のいずれかを最大化しようとすれば、他の要素が規制になることが多い。つまり、効率化というのは、自明な基準ではないのである。各々が自分の都合で使い分けているのに過ぎない。

 本来、効率性というのは、最適値を意味する値であるべきなのである。最適値というのは複数の要素が複合されることによって得られる値である。だから、効率性は、関数なのである。そして、それが経済なのである。
 特に、重要な要素は、分配である。多くの企業経営者や為政者は分配の効率性を言わない。分配の最適値は、市場に委せておけば自然に定まると最初から決め付けているのである。だから、経営者や為政者は、生産に必要な数学を重視しても、分配に必要な数学を確立しようとしないのである。

 極大極小という発想は、無限という思想に結びつく。しかし、経済が扱う対象は有限な物である。有限だから、経済の対象となりうるのである。そして、数と量も有限であるから意味を持ってくるのである。

 科学が無限を追究するならば、技術は限界を追求する。では何の限界を追求するのかである。

 経済数学は、本来世俗的なものである。真理を探究すると言うよりも、実用を追い求める。人の生活に役に立つことが優先されるのである。
 かつては、実用性のない学問は疎んじられてきた。現代は逆である。学問というのは、本来、無用な物であり、実用を追い求めるのは、邪道だというのである。
 どちらもおかしな話だ。実用ばかりを追い求めていたら、学問としての深みはなくなるであろうし、実用を軽んじたら学問の用をなさないであろう。どちらも大切なのである。
 経済数学は、人々の生活実態に根ざしている。有限の資源の活用が根底にある。だから、本来、世俗的で生々しい数学なのである。科学と言うより、技術を重んじる数学である。実用を軽んじる社会の風潮に相俟って今や風前の灯火である。経済学を学ぶ者の多くが数学の基本すら学ばなくていい時代になりつつある。嘆かわしい事態である。

 経済性という言葉もあるが、現代の経済性からは、節約や倹約という思想が失せている。それは、経済的財の有限性を無視しているからである。現代社会で言う、経済性とは、大量生産、大量消費の代名詞に過ぎない。経済は、限界の上に成り立つ数学なのである。

 ところが現代人は、資源を無限だと錯覚している。それは、経済を学ぶ者が、経済上の数学を理解していないからである。

 効率を追求すればするほど、国も民も貧しくなる場合がある。それは、何を基準にして効率性を追求したかに関わるのである。






       

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