経済数学

1 経済数学

1−8 平均


 よく平均的日本の家族とか、平均的な日本人と言ったことが言われる。しかし、平均的な家族とか、平均的な日本人と言うのは、考えてみると得体の知れないものである。
 何を以て平均的というのか、何を基準、分母にして平均として言うのかが、多くの場合明確にされていないからである。
 大体、平均的というのは、あくまでも想定上でのことであり、架空の事象である。また、あらゆる要素を平均的にしてしまうと一般化されすぎ、実際には、平均的な家族などどこにも存在しないとも言えるのである。

 しかし、その平均的という言葉が一人歩きし、いつの間にか、我々の生活を支配している事が多い。平均的という言葉を常識や良識に置き換えて見ればわかる。常識や良識という意味には、平均的という意味も含まれているのである。

 平均と言う概念は、思想的な概念である。つまり、何に対し、何を基準として平均を出すのかによって平均の持つ意味がまったく違ったものになるからである。
 そして、平均の出し方は、現代経済に重大な影響を与えるからである。

 平均の定義、平気の出し方が思想だというのは、平均の定義、出し方が正常か、異常かの基準に結びついているからである。

 平均値を決める定義や前提は、任意なものである。それがあたかも所与の原則であることのように扱われ、平均的であるか、否かによって、正常か、異常かが判断されてしまっている。
 平均という基準は、あくまでも、任意な前提の上に成り立っていることを忘れてはならない。そして、平均の基準等に対する定義は、事前の合意に基づかなければならない事象なのである。つまり、結果から遡及されるべき値ではないのである。

 平均の持つ意味や役割を知るためには、平均値が、なぜ必要とされるのか。平均を導き出す必要、目的を明らかにすることが先決となる。
 即ち、何に対し、何の平均を出すのかである。それは、平均値を出す為の母となる対象、集合、空間を意味し、又、その範囲を特定する事を意味する。

 平均を出す目的は、多様である。
 平均を出す目的として第一に比較することがあげられる。例えば、子供の成長を年齢別に見る為に、学年毎に平均身長を出すとか、また、学力を他の学校と比較するために、成績の平均値を出すと言ったことがある。
 第二に、基準値の設定である。例えば、会計では、在庫残高を確定するために、仕入額の平均を出すと言った事が求められる。
 第三には、予測や推測があげられる。過去の平均気温から将来の気温の推移を予測すると言った事がある。

 これらから平均の意味は、第一に均衡点、第二に、基準点、第三に、中心点、第四に、根拠、目安などがあげられる。

 要は何を中心とし、どれくらいの幅で、どのくらいのバラツキがあるか。又、収めるかの問題である。

 平均に対する考え方には、算術平均、幾何平均、調和平均、荷重平均等があり、どの考え方に基づくかは、平均値を出す目的に依る。故に、平均というのは、合目的的概念であり、思想なのである。
 平均は、空間と範囲に関わる値だと言える。

 算術平均は、線形的な平均であり、幾何平均は、指数的平均である。時間的平均を考える上で、幾何平均は重要な意味を持っている。

 平均の出し方も、多様である。

 平均には、空間的平均と時間的平均がある。

 空間的平均の出し方には、単純平均と加重平均の別がある。
 また、時間的平均、時系列的な平均の出し方には、移動平均というやり方もある。移動平均には、単純移動平均、加重移動平均、指数移動平均、三角移動平均、正弦移動平均、累積移動平均などがある。平均の出し方と言っても単純ではないのである。初期設定によって全然違った値にもなる。

 平均を空間的、時間的な値だとすると、平均は、単に、単次元的な値として捉えるだけでなく。多次元的な値として認識する必要がでてくる。故に、平均値の出し方は一律に規定できないのである。

 平均化するためには、平均化が可能でなければならない。平均というのは、あくまでも量的な概念である。つまり、平均化するためには、対象が数値化されている必要がある。それが前提である。

 平均とは、数値を根本とした空間で意味を持つ値である。現実の社会では、平均という概念は、あまり実体的ではない。良い例が、食料である。いくら平均したところで現実に食糧が不足した時間が長ければ意味がないのである。
 それはお金でも同じである。必要な時に必要なだけのお金がなければ意味がないのである。

 平均という概念は、必ずしも実体を反映している数字ではないと言う点を忘れてはならない。

 反面、貨幣という数値的価値を基盤とした社会においては、平均という概念は重要な役割を担うことになる。

 数値は、現代人に対し、ある種の魔力があるように思われる。数値で示されると多くの人は、射すくめられ反論できなくなる。
 私の父は、最近の若い医者を信用しようとしない。なぜならば、最近の若い医者は、パソコンの方ばかり見て、自分を見ようとしないと言う。初老の町医者は、自分の顔を見て診断してくれる、信頼している。この信頼や安心と言う事がどれだけ常用なのかを最近の医師は忘れている気がする。
 数値は、方程式が与えられていれば初期設定によって決まってしまう。つまり、実際に重要なのは、方程式以前の問題、前提条件をどの様に設定し、何を問題とするのかなのである。

 数学を成り立たせた要因には、物理的な要因と、社会的要因がある。社会的要因の中でも経済的要因が果たした役割は大きい。ところが、現代の数学では、社会的要因、動機が忘れ去られている。その為に、数学は、役に立たないと言った偏見が持たれているのである。また、数学者は数学者で経済や社会にかかわる計算なんて愚にもつかないことだとなめてかかる傾向がある。
 しかし、数学というのは生きた学問であり、現実の社会で数字は、生きていく為に欠かす事のできない必需品、道具なのである。
 経済に数学を生かすことは、数学、経済、両分野の人間の使命だとも言える。

 平均という概念は、均衡という概念にもなる。均衡とは、安定した状態である。平均化というのは、この安定した状態を作り出す条件にもなる。安定かというのは、取り方によっては、不活性化にもなる。故に、安定と活動というのは、なかなか結びつかないのである。

 企業分析でも成長性と安定性は、二律背反の関係としてみられる場合もある。ただ言えるのは、是々非々の問題ではなく、前提条件、即ち、どの様な環境を前提としているのかの問題だといえる。

 現代社会において平均は、世の中の中心の所在や偏りを測る上で欠かせない概念だからである。
 平均の所在によって事象や現象の中心や偏りが測られる。それが意図的に為されれば、平均によって社会や経済の中心や偏りがつくられることになるからである。何を基準に、どの様にして平均を決めるかは、現代社会を考える上で重要な意義を持っているのである。

 率直に言うと平均という概念が成り立たなくなると経済体制の基盤が揺らいでしまうのである。それくらい平均という概念は、重要な機能を現代社会では、果たしている。

 平均というのも一つの思想だと考えるべきなのである。その前提に基づいて平均の意味を定義する必要がある。自明な事のように平均という言葉を使われると平均化の意味と弊害を見落とす危険性があるからである。

 何を基準に、何に対して平均化するのかという事を明らかにするのが、平均化をする上での前提条件となるのである。何を分母とし、何を分子とするかが重要なのである。

 平均は、統計的な概念でもあり、集合を前提として成り立っている。

 平均を確定するためには、範囲を設定する必要がある。また、平均の意味を定義する必要がある。それらが前提条件である。

 平均化という概念から、標準化、平準化という概念が派生する。その標準化、平準化が現代の経済の鍵を握っているともいえる。
 又、平均化は、一般化にも通じる。この様な平均化には、偏りをなくし、格差を是正しようとする働きがある。

 物事は、平均化されることによって安定化をえる。
 現代社会は、平均化されることによって安定した社会の上に成り立っているとも言える。

 一例を上げると、現代社会は、収入が平均化された事よって成り立っているとも言える。

 収入や支出をいかに平均化するかと言う事は、現代経済を考える上で重要な課題である。
 経済体制を構築していく上で、何を基準に、何に対して平均化するのかという事の前提条件となるからである。
 それは、期間損益を確立する上での前提となるからである。つまり、収入を平均化することによって期間損益は確立されたのである。

 そう考えると、収入や所得の平均化と言うのも一つの思想だと考えるべきである。そして、平均化の前提は、経済的価値の数値化と一元化である。経済的価値の数値化と一元化の為の手段が貨幣なのである。

 収入を平均化するという事は、経済的価値を平均化することに繋がる。それが期間損益を成立させるための前提となる。経済的価値を時間的に平均化することは、時間的価値の単位化に繋がるからである。

 収入の平均化は、収益や所得の概念の前提となる。

 収入の平均化を実現するために、先ず、大前提になるのは、経済的価値を貨幣価値に一元化すると言う事である。つまり、貨幣、即ち、「お金」を現代経済の前提条件とする事によって成り立つのである。
 それが、貨幣価値と経済的価値を同一視したり、貨幣価値が経済的価値を決定しているかの錯覚をもたらしているのである。金に換算されないものは、現代経済体制では経済的価値を持たない。
 経済的価値が貨幣価値に一元化された事に伴って経済的価値の性質も変わった。経済的価値は、量の問題に転化したのである。
 又、貨幣の質も変化したのである。この貨幣の質的変化に現代人は無自覚である。つまり、貨幣は、それ自体が価値を有するのではなく。経済的価値を数値によって表す表象、指標でしかなくなったのである。

 貨幣価値が数値的価値であることによって経済は、数値的な現象、経済的価値は、数値的価値だと言う思い込みを生み出したのである。

 そして、貨幣価値への変換は、価値の数値がだと言う事を意味する。経済的価値が貨幣価値に一元化された時点で経済は数学化されたと言っていい。そして、経済は、数学的現象として捉えられるようになったのである。数学的というのは、抽象的事象だという意味もある。つまり、数学化は、経済の抽象化も意味する。

 賃金、即ち、労働を貨幣価値に置き換えることによって所得の平均化が計られた。その反面において、労働の抽象化が進んだのである。労働は単なる時間の関数でしかなくなりつつある。つまり、労働から個性が失われつつあるのである。労働は、きわめて人間的な行為だというのにである。近代経済とは、数値的経済なのである。

 支払手段である貨幣が一定の所得と言う形で定期的に支給されるという体制は、経済を考える上において重要な意味を持つのである。
 一定の収入が定期的に支給されるという事実は、経済の仕組みにおける核となるのである。それによって借金や消費と言った生活の基盤が計画に構築できるようになる。
 又、近代税制も確立されたと言える。
 その背景にあるのは期間損益という思想である。

 期間損益は、収入と支出を平均化するための必要性から生じた思想である。

 以外と見落とされている企業の機能が、収入の平均化という働きである。企業経営者が利益を平準化したいという動機は、収入と支出を平均化するという企業の働きにもよるのであり、あながち否定的にとらえることとは言い切れない。

 即ち、企業には、経済現象を整流化するという役割があるのである。不安定な収入や支出の流れを一定な流れに整流する働きが企業にはある。そして、一定の幅に資金の流れを調節することによって経済の仕組みを極端な変動から保護しているのである。
 そして、一定の幅に整流化された所得を基盤にして税制度や金融制度は成立しており、又、金利や地代、家賃、配当と言った時間価値は構築されているのである。

 月給取り、給与所得者は、貨幣経済の成立によって生まれた。
 日本で言えば、明治維新以後である。それまでは、武士は俸給を受け取っていたが、それは、家禄であり、月給というのとは違う。
 月給、給与を成り立たせている要件は、第一に、契約に基づいているという事である。第二に、労働に対する対価だという点。第三に、貨幣によって支給されているという事である。第四に、一定の基準によって定期的に支払われているという事である。第五に、最低限の支給額が保証されているという点である。第六に、一定の期間の雇用が保証されているという事である。
 つまり、契約によって長期的に一定額の賃金が定期的に支払割れる仕組みが確立されているという事が重要なのである。そして、この様な分配機能を前提として経済の仕組みの基盤が構築されているのが近代の経済体制なのである。
 今日では、総理大臣も、個人事業者も給与所得者と見なされる。それは、給与所得が社会制度の前提になりつつあるからである。

 この様な雇用体制が確立されることによって信用制度の基盤が整い、住宅ローンや割賦と言った長期、短期の借入制度が可能となるのである。又、所得税を課すことも可能となる。保険制度や年金制度、医療制度と言った社会保障制度も可能となる。

 安定した所得が維持されなくなった時、税制も金融制度も破綻し、財政や企業、家計が成り立たなくなるのである。それが信用不安である。

 この様な事を鑑みると、所得の水準が経済に決定的な影響を与えていることは明らかである。
 又、給与の構成が重要となるのも頷ける。給与明細を見て明らかなように、支給額と手取に差があり、手取と可処分所得にも差があるのは、意味のないことではないのである。

 期間損益というのは思想である。期間損益という思想によって今日の経済は、支配されている。重要なことは、期間損益が基盤としているのは、収入と支出ではないという事である。期間損益を成り立たせている収益と費用という概念と収入と支出という概念は別のものである。
 そして、期間損益の基準にそって収益や費用の値が導き出され、期間損益計算によって導き出された数値に基づいて所得が設定されているという事である。しかも、課税対象や投資、投資の基準が所得や収益におかれているのである。
 この点を正しく理解しておかないと現代の経済現象を解明することはできない。

 未実現利益や減価償却費は、内部取引、即ち、架空取引であり、外部取引、即ち、市場取引の実体を伴わない。実際の貨幣の移動がないのである。この様な取引は、数学的操作にすぎないのである。

 収益という概念も収入という概念とは違う。現金収入という点からすれば、借入金も収益と同様、収入になる。それでは、借金と売上の見分けがつかなくなる。だからこそ期間損益が生まれたのである。財政には、この借金と収入の区分が明確にされていない。だから、財政赤字と国債残高の関係が判然としないのである。

 会計的な観点から平均という概念が与える影響を見ると、在庫評価などは、平均と言う思想が重要な役割を果たしている。また、減価償却も費用の平均化の手段といえないこともない。
 いずれも、科目や基準を変更するといった操作で、巨額の利益が出たり、損失が出たりする。また、会計と税制との乖離が問題にもなる。
 なぜ、この様なことが問題となるのかというと期間損益は、実際の資金の動きに連動しているわけではなく。単位期間の収益と費用を平均化したものだからである。それ自体が問題なのではなく。平均化の持つ意味と効用、影響を理解せずに、企業を経営したり、或いは、経済政策や金融政策を講じていることなのである。
 平均化の影響は短期的視点からだけでは理解できない。目先の利益をおって長期的な平均化の影響を理解していないと収益と費用が均衡しなくなり、長期的に安定した利益を確保することができなくなる。平均化というのは、長期的均衡を前提とした操作なのである。

 費用の平均化という事を正しく理解していないと、企業の資金繰りや景気の変動に深刻な影響を与えることがある。

 期間損益というのは、この様に抽象的概念から成り立っている。即ち、数学的、会計的思想なのである。




       

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