経済数学

1 経済と数学

1−1 経済と数学

 経済数学の基本は四則の演算である。俗に言う高等数学ではない。経済に用いられる演算自体は、極めて初歩的、基礎的な操作ではあるが、問題は、量を数に還元し、更に貨幣価値に換算する過程が重要なのである。その過程に労働と分配、生産と消費が組み込まれ、経済が実体化するのである。それ故に、経済は数学的事象だと言えるのである。経済の本質は、確率統計や微分積分というようなところにあるのではなく。和・差・積・商と言った最も原初的な数学、有り体に言えば算数にある。
 だからこそ、経済と数学は切っても切れない関係にある。経済は数学だと言っても過言ではない。現に、経済は数学と伴に、数学は経済と伴に発展した。ところがいつの間にか、経済と数学は乖離し、あたかも別物であるように捉えられるようになってしまった。だからこそ会計を数学的事象として認識できなくなったのである。

 不思議なことに、本来、数学を日頃使い慣れているはずの経済学者や会計士ですら、数学的な発想に基づいて経済や会計を捉えようとしていない。
 多くの経済学者や経済評論家は、表面に現れた統計的数値に囚われているだけである。

 ただ、経済が数学的現象だというのに、外見を数学的に装うだけで、経済を数学的に理解しようとしないことが問題なのである。
 人類にとって科学と経済は、いずれも数学を発展させた礎だというのに、なぜ、経済的な数学というものを数学者は軽視するのか。数学者が経済を正当に評価しないのは、人類にとって最大の不幸である。

 貨幣経済は、数学的現象である。貨幣経済が数学的現象というのは、貨幣価値が数値によって表現されると理由だけではない。人的にも、物的にも数学的な論理が基盤にあるからである。そして、貨幣経済が数学的現象だと言う事が、貨幣経済の可能性でもあり、限界でもある。

 20世紀も終わろうとしていた1998年、ロングタームキャピタルが巨額の赤字を出して破綻した。
 数学に堪能であるはずの著名な学者、ノーベル賞受賞者までいるヘッジファンドが破綻した時、世間の人々は唖然とした。しかし、なんて事はない、彼等は、経済事象の不確実性を身を以て証明したに過ぎない。
 100%リスクがないという事はない。しかし、リスクを軽減する数学的技術はある。その数学的技術とは、数値処理だけではない。より重要なのは、数学的現象の根底にある考え方である。それが数学的現象の実体である。
 我々は、学校で数学的定義をあたかも自明のことのように教えられている。しかし、数学は、まだ発展途上にあり、完成されてはない。一見自明に見える命題も、一定の時点における一学説に過ぎない。だからこそ、数学を学ぶ時は、数学の歴史を同時に学ばなければならないのである。

 経済を動かしているのは、数の働きなのである。その意味では、数論的な部分こそ、経済の基盤となるべきなのである。
 そして、数に表れていない経済の実体と数値に表れている部分との関係を知らなければ、関わりを知らなければ、経済の真の姿を捉えることはできないのである。それが、経済の可能性と限界を知る事なのである。

 今、問題なのは、物の経済ではない。人の経済でもない。貨幣経済なのである。だから貨幣経済が重要なのである。物にも、人にも、数に還元する以前に実体がある。しかし、貨幣は、純粋に数の上の現象なのである。

 貨幣制度も会計制度も仮想空間、抽象的空間における現象なのである。貨幣的現象、会計的現象は、数学的空間における現象である。この点を充分留意しておく必要がある。

 貨幣的現象というのは、虚構なのである。
 財政赤字が天文学的にあると言っても全ては、数字上の虚構なのである。その点を正しく認識していないと貨幣的現象の本質は理解できない。虚構でありながら、決定的な影響を経済に貨幣現象は与えるから重大なのである。

 足し算、引き算は、同じ種類、同じ質、同じ単位、同じ集合の要素でなければ、演算は成り立たない。(「算数再入門」中山理著 中公新書)
 異質な財の演算を成り立たせるために、貨幣はある。貨幣価値に還元することによって異質な財の演算が可能となるのである。それが貨幣の重要な働きの一つである。

 生鮮食品、工業製品、エネルギー、原材料、労働やサービス、無形な権利、土地や設備等、異質な財を貨幣価値に換算し、還元する過程が重要なのである。そして、その過程こそ経済数学なのである。

 貨幣経済も会計制度も分配の法則と交換の法則が重要となる。

 何を等しいとするか。数学や経済を考える場合、何を等しいとするかは、重要な鍵を握る。
 そして、等しいという事の意味は、ゼロの持つ意味にも通じる。ゼロには、第一に無と言う意味がある。第二に位取りの意味がある。第三に、基準という意味がある。等しいという意味は、これらの意味の各々に相当し、又、変化する。それは均衡であり、次元であり、原点である。

 何を等しくするかによって分配の法則や交換の法則は、その意味が違ってくる。特に会計においては、何を等しいとするは、どの様な次元において、何が均衡し、どの様な状態を原点とするかを確定する。

 変化や関係は、一定なものとの関係によって捉えられる。変化や関係は、何等かの基準を設定し、それを一定とすることによって解明される。一定とする尺度が設定されていなければ変化や関係を測りようとすることができない。
 何を一定とするのか。第一に、単位である。第二に、和を一定とする。第三に、差を一定とする。第四に、積を一定とする。第四に、商を一定とする。
 単位を一定にするとは、何を元とするか、また、何を基準とするかを意味する。
 積が一定の関係とは、反比例の関係であり、商が一定の関係とは、比例の関係である。
 比例関係とは、割合関係や、比率関係と言い換える事もできる。

 現代は、任意な単位から普遍的単位への変遷によって始まる。ただ、貨幣単位は、一意的に定まるのではなく。為替や市場の仕組みによって構造的に決まる単位だと言う事である。それが、経済という数学を一見単純に見えて、実際に当て嵌めると複雑なものに、構造的なものにしているのである。

 掛け算には、同数累加と言う意味と次元を加えるという働きがある。同数累加は、基準単位を幾つ分、加えたのかという意味である。

 経済においては、時間が重要な働きをする。つまり、時間軸をいかに掛け合わせるかは、経済現象を解明するために重要な鍵を握っているのである。

 経済においては、時間の働きは、長さによって性格が変わる。経済的事象は、時間の働きは、長さによって性格付けられる。故に、会計では、時間は長さを基準にして測られる。

 掛け算やわり算を考える場合、何から何を掛けるのか、或いは割るのか、そして、その結果として何を求めようとしているのかに、重要な意味がある。掛け算にとって重要なのは、何を一定とするか、何を基準とするか、何を単位とするかである。変化や関係を知るためには、何を基準とするかが大前提となるのである。

 なぜ、わり算をする必要があるのかを考える。わり算が成立する要素には、経済を成り立たせている重要な概念が多く含まれているのである。

 掛け算は、ある一定の基準を単位としてそれを何倍にするかを求める演算である。この様な行為を計量という。

 わり算は単位を求める演算だと言う側面がある。このわり算の持つ性格は、経済数学を考える上で含蓄がある事象である。

 中山理は、「算数再入門」の中で分数のわり算は、逆数の掛け算と同じだと言うことを証明するために、六つの仕方を提示している。この六つの証明の仕方は、経済数学にとって重要な概念である。
 第一の仕方は、わり算の性質を使って除数を一にすることである。第二に、掛け算の逆と等式の性質を使うことである。第三に、通分とわり算の性質を使うことである。第四に、比の性質を使うことである。第五に、面積の割合を求める計算を活用することである。第六に、わり算を割合として、一に当たる数を求めることである。

 そして、これらを前提とした上で、わり算をする目的の一つとして割合を導き出す事が上げられる。割合という概念が重要なのである。そして、特に経済現象を考察する上で、この割合が持つ意味が鍵となる。
 割合という概念には、基本的に二つの概念がある。一つは、包含的関係を意味するもの。今一つは、比の関係を意味するものである。割合関係を理解する上ではこの二つの概念を明確に分けて考える必要がある。そして、経済現象はこの二つの概念を正しく理解することが肝心となる。

 割合は、比較量を基準量で割ることによって求められる。つまり、何を基準とするのかが重要なのである。特に、経済においては、何を基準とするかが重要な意味を持ってくる。

 比例関係を解明する手段には、第一に何を倍するのかを知る。第二に、帰一法を用いる。第三に式から求める。第四に図から導き出すと言った四つの方法がある。(「算数再入門」中山理著 中公新書)この四つの方法も数学の本質をよく表していると同時、経済の在り方に対して色々と参考になる。
 特に、何を一とし、どの様に一を認識するかが経済数学にとって重要であるかを端的に表している。又、図や式を活用することが数学の原点であり、又、経済でも重要であることを示唆している。

 一を全体としてみるか。部分としてみるかによって、一の意味も、働きも変わってくる。

 経済上でも、何を一定とするのかが重要な意味を持つ。貨幣価値を一定とするのか。市場規模を一定とするのか。通貨の流通量を一定とするのか。収益を一定とするのか。負債を一定とするのか。時間、期間を一定とするのか。
 経済は、何を一定するかによって様相ががらりと違ってくる。何を基準とするかは、何を基盤として経済は成り立っているかを意味するからである。

 ビジネスの世界では、数学と言うより数字は必須である。数字が解らないとビジネスの社会では、一人前のビジネスマンとして相手にされないくらいである。しかし、数字に精通しているとしている人の多くは、数字をひけらかし、数字で誤魔化しているのに過ぎない場合が多い。

 ビジネスの中では数字は必須の事柄だとされている。しかし、数学は、必須とされているかというと甚だ疑問である。近年では、大学の経済学を受験する際、数学は必須科目でなくなったりもしている。場合によっては、数学は、中学までの学力で充分だと言う事にすらなる。

 経済において数学が重要だと言われるのは、単に、数値によって表現されると言うだけではなく。数学的な論理、哲学が重要な働きをしているからである。

 数学は、理科系の分野だと見なす傾向があるが、文化系の分野、特に、経済にとっても数学は、大学受験で必須であるか、否かに関わらず、必須の学問である事を忘れてはならない。

 数学は、理工学的な学問で文化系的学問になじまないと思っているものも多くいる。現に、文化系大学から数学が閉め出される傾向すらある。その原因として人為的な現象は主観が混じるために、客観的な数値に置き換えにくいと言う点を上げる者がいる。
 しかし、競馬や、競輪というのは、人工的な場で行われるからこそ予測がしやすいのである。同様のことはスポーツでも言える。
 経済や政治と言った人為的な空間において数学が成り立ちにくいのは、政治や経済に携わる人間の思惑に囚われやすいからに過ぎない。経済や政治が数学的対象にならないことを意味しているわけではない。

 むしろ、現代経済は、数学の上に成り立っていると言ってもいいのである。

 その証拠に、ルカ・パチョーリは数学の教科書である「スムマ」で簿記を取り上げ、それが簿記の嚆矢だとされている。つまり、簿記は数学の一部として教えられていたのである。

 近年、確率統計の技術が発達し、それに伴って多くの統計資料が整備されるようになってきた。統計資料が整備されるにつれて経済現象を統計資料に基づいて数値的に表現し、或いは説明する事が増加した。
 その結果、経済を確率統計的な側面からのみ捉えようとする傾向がある。しかし、確立統計だけが数学の全てではない。又、経済は確立統計だけで捉えきれるものではない。

 確率統計も重要ではあるが、経済と数学との関係は、もっと根本的な部分でこそより深く関わっていることを念頭に置いておくべきである。
 なぜならば、現在の経済は、表象貨幣を基盤とした貨幣経済であり、表象貨幣は、自然数の集合だからである。貨幣単位、及び、貨幣価値は数直線として表現できる。
 表象貨幣を基盤とした貨幣経済における経済現象は、物理的現象よりもより純粋数学に近い現象といえる。貨幣経済は、数論、及び集合論、代数と言った基礎数学が重要になる。

 数学とは、読んで字の如く数(すう)を基本的要素として成り立つ学問である。
 数は、経済が経済として形成される当初から関わってきた概念である。と言うよりも数に触発されて経済は形成されてきたと言ってもいい。経済は数学だとも言える。

 経済は、数学と伴に発展してきたと言える。数学者の多くは、数学を哲学的なものとして捉えたがる傾向があるが、数学は、きわめて経済的なものであり、経済的だからこそ哲学的たりえるとも言えるのである。

 物理学的に見ると、経済は、流体力学、熱力学的な性格を持っている。

 表象貨幣は、無次元の量である。

 対象の性格や質と言った部分を削ぎ落とすことによって量化される。
 対象は、物としての実体、形や性質を持っている。対象と数とを一対一に対応させることによって対象に数という性格を加えた上で数という概念だけ抽象するのである。
 一対一に対応させるための物は、数を象徴させる物ならば何でも言い。できれば、小石とか果物と言った均一の性格によって属性が隠れている物が良い。経済では、それが貨幣なのである。
 その操作は、先ず対象の数を数えることによって対象の性格に数という性格を付け加える。その上で数という性格だけを抽象化するのである。
 そして、数の概念が確立されると数の概念が独立した概念となり、無形な対象にも敷延化していったのである。
 当初は数は対象と一体だった。或いは、従属していたのである。その段階での数とは自然数に限定されていた。貨幣価値は、この時の性格を以前として残している。

 貨幣価値も同様の操作によって成立する。ただし、貨幣価値には、貨幣価値を指し示す者と貨幣価値を受け容れる者(容認する者)の二者の合意が必要となる。その合意に至る過程が取引なのである。

 スーパーで、一個、百八十円のリンゴを二個三百五十円で売っていたので四個買った。同じ店で百グラム四百三十円の牛肉を買い。途中で本屋によって一冊千二百円の本と三百五十円の雑誌を買った。
 この様に、個々の商品には、固有の属性がある。そして、本来ならば、肉やリンゴを足したり引いたりは、できない。しかし、貨幣という数に換算することによって異質な物の演算が可能となる。その為には、貨幣価値というのは無次元の量である必要がある。そして、貨幣価値は数直線として表せる事が可能となる。財は、貨幣に換算されることによって、物から属性が削ぎ落とされるのである。無次元の量だから、足したり、引いたり、掛けたり、割ったりができる。比較検討することもできるようになる。

 我々は物を購入する時、無意識に頭の中で、品名と数量、単価によって貨幣価値に換算する。数量は、外延的な数であり、単価は、内包的な量である。数量は、基本的に、連続量であり、単価は、分離量である。

 数学には、神秘的なところがある。そして、古来から世界各地でこの神秘的な部分に対して神の存在を感じ、崇める人々がいた。
 今日でも、数学を絶対視する人々が少なからずいる。しかし、数学というのは、あくまでも観念の所産である。数学そのものに力があるのではなく。数学を成り立たせている存在にこそ力があるのである。

 今日、数学というと、純粋数学を指して言う場合が多い。しかし、純粋数学だけが数学なのではない。多くの科学同様、数学も理論的な部分と技術的な部分の二つから成り立っている。数学を重んじる人々の中には、純粋数学を神聖視するあまり、数学の技術的な部分を世俗的なものとして軽んじたり、中には、数学として認めない傾向すらある。しかし、数学は、元々、世俗的なものとして発達してきた。そして、数学の威力、効用は、世俗的な部分でこそ発揮されてきたのである。

 むろん、純粋数学が実用的でないとして軽んじるのも問題だが、数学の技術的な部分を切り捨てるのは論外である。純粋数学と算術とは、不離不可分の関係にあり、両者が一体となって数学は成り立っているのである。

 数学というのは、本来、世俗的なものである。科学万能というのは、間違った信仰である。万能な存在は神でしかない。経済は尚更のこと世俗的なものである。

 科学的な数学と技術的な数学がある。科学としての数学が無限を追究すれば、技術としての数学は、限界に挑戦をする。いずれにしても数学は数学であり、かつては、数学と言えども実用性が重んじられたのである。経済で尊重されるのは、現在でも零を含む自然数であるし、有限な範囲での数学である。だからといって経済数学を軽んじるのは間違いである。経済は、経済で独自の数学の世界を発展させてきた。それが会計の世界である。

 数を数えるとか、物を測るという行為そのものが経済的行為でもあり、数学的行為でもある。故に、経済と数学は同根の概念だと言える。

 なぜならば、数える、測るという行為そのものが経済活動の端緒といえるからである。
 数えるという行為は、獲物や収穫物を分けるという行為から派生する。そして、分けるという行為は、社会の存在を前提した政治的、経済的、組織的行為である。

 そして、数学は、純粋数学に確立されるに従って経済から遊離し独自の世界を形成していくのである。
 しかし、経済は、以前として数学的なものである。そして、それが政治と決定的に違うのである。政治とは、どちらかと言えば質的な世界であり、経済は、量的な世界だとも言える。

 また、カール・フォン・クラウゼヴィッツは、戦術は、算術だと言い。軍事と数学が切っても切れない関係にあることを示唆した。そして、それは同時に、経済と軍事との関係をも意味している。つまり、軍事と経済は数学的な部分で繋がっている。

 価値は、主体と対象の存在を前提とする。主体と対象との関係によって認識は導き出される。価値は、主体の対象に対する認識から生じる。価値は、主体と対象との関係から生じる。

 認識主体である自己にとって存在すると事と認識すると言うことは同義である。即ち、認識主体にとって認識できる対象は存在するし、認識できない対象は存在しない。

 数字には、人的な数字と物的数字、指標的数字がある。指標的数字とは、尺度的数字であり、貨幣的数字である。
 人的な数字とは、主体的数字である。即ち、認識主体が一とする数字である。それに対し、物的数字とは、客観的な数字であり、一となる数字である。そして、指標的な数字とは、仲介的数字であり、一を指し示す数字である。

 経済数学というと、一般にお金、即ち、貨幣価値を思い浮かべるが、経済的価値の根本は、お金にあるわけではない。貨幣価値というのは、経済的価値を貨幣という次元に写像した陰影に過ぎない。つまり、貨幣価値というのは、経済的価値の一断面に過ぎない。

 経済的価値は、一人一人が生きていく上での有用性に求められる。有用性は、前提条件によって違いが生じる。故に、価値は相対的なものである。有用性の本質は、必要性であり、必要性の実体は使用価値である。交換価値は、使用価値の一部が転じることによって生じた価値である。貨幣の本質は、交換価値である。なぜならば、貨幣は、交換手段の一つだからである。

 経済現象には、人的経済、物的経済、貨幣的経済があり、現代の市場経済は、この三つの経済を会計制度によって結び付けている。
 故に、経済的価値には、人的経済価値があり、物的経済価値があり、貨幣的経済価値がある。そして、個々の価値を定義付けているのが会計基準である。

 そして、人的経済は、労働と分配が基盤であり、主として消費の場である家計に反映される。物的経済は、生産と消費が基盤であり、主として生産現場の核である企業を中心にして展開する。貨幣的経済は、貨幣の発行と流通の管理が主で財政や金融を基盤とする。現金収支を基準としている。
 貨幣経済の基準は現金収支であるのに対し、会計は、期間損益であり、その前提となる論理体系は、現金主義とは、位相を別とした体系である。

 人的経済というのは、人々の生活に根ざした根源的な経済である。人的経済は、共同体の経済である。組織の経済である。人的経済は、市場経済や貨幣経済が成立する以前から存在していたし、市場経済や貨幣経済の前提となる経済である。

 人的経済は、人口数、人口構成、人口分布、民度、文化、祭礼といったに人間社会の基盤に関する経済現象や労働時間、賃金といった労働に関する経済現象、個人所得や生活水準、消費者金融、家計と言った消費に関する経済現象からなる。

 物的な経済とは、財の生産に関わる経済である。即ち、生産性や効率性、資源開発と言った物理的経済である。故に、使用される数学は物理量が基本である。

 貨幣的経済とは、貨幣の発行や流通に関する経済である。金利や物価、為替と言った問題を取り扱う経済である。故に、使用される数学は貨幣価値を基本としている。一般に狭義の経済というと貨幣的経済を指す場合が多い。

 人的経済、物的経済、貨幣的経済は、いずれも数量に還元される。数量に還元するためには、対象を数値化する必要がある。

 数値化とは、対象の持つ一定の性質を数に置き換える、操作、又は結果を言う。

 数には、数えるという側面と測るという二つの側面がある。数えると言う事と、測ると言う事の違いは、分離量と連続量の違いであり、数の本となる対象が連続した対象か、不連続な対象化の違いでもある。
 数値とは、量と比を表している。数えると言う事は、対象を一個の全体として先ず認識する事にある。次ぎ、それを自己と対象との間で一対一として認識する事である。そして、其の後、最初に認識した対象と他とを比較することである。故に、数の最初の認識は、他との比較に基づく。

 先ず、一という事、一の成り立ち、一の持つ意味が重要である。一は単位になる。何を一とするのかが重要となる。そして、それを何と比較するかである。比較する対象は、相似的対象である。

 他との比較は、対象の識別の始まりである。識別とは、分割、分別、分類を前提とする。即ち、数とは、分割、分別、分類によって生じる。

 自己と対象の存在に対する認識が在って、その認識上において自己と対象との一対一の関係は成り立っている。
 まず、対象と自己と一対一の関係によって対象を名付け、識別する。その上で、識別した対象から数と言う性格を抽出する。数は、自己と対象との関係から抽象化された性格、概念、認識である。数は又数詞によって識別される。

 経済的行為は、経済的価値を数えること、測ることに始まるとも言える。そして、経済的価値を数量化した物が貨幣である。

 数値化する事によって経済的価値は再構成することが可能となる。

 計算という行為が経済的行為を発展させる。捉えた獲物や収穫物を分解し、それを再構築して分配する。それが数を数えるという行為の根底を成す。
 ある全体を一とし、それを分割した部分をも一とする。全体の一と部分の一とを比較する事によって単位を設定する。それが一の始まりである。そして、数は一より始まる。

 計算は、その様な生きる為の活動、生活の要請によって成立する。生きる為の活動とは、即ち、経済である。故に、経済は、数学的な行為である。

 数学と経済との関係は、算盤(そけばん)に象徴される。算盤は、計算をするための手段、道具である。そして、経済行為には、欠くことのできない道具である。しかし、算盤は、技術的な範疇を超えることができなかった。読み書き算盤と言われ、社会生活の基盤、リテラシーとなりながらも学問の域に達することができなかったのである。結局、和算も学芸の域を超えることはできなかった。経済に関わる数学もまだ、技術の域を脱していない。経済がより高度な次元に到達するためには、数学をその身の内に取り込む必要がある。

 分割、分別、分類した要素を集め、再構成する事によって貨幣価値は成立する。故に、貨幣価値は、集合によって表現することが可能である。

 価値とは、位置である。即ち、位置で重要なのは、順序であり、差である。経済的価値は、貨幣的価値の位置によって優劣が評価される。

 貨幣というのは、その時点での貨幣価値を表示した物である。現金とは、その時点での貨幣価値を実現した物である。

 経済的尺度である貨幣は、尺度である貨幣自体が価値を持つのが物理的尺度との違いである。

 価格は、経済財の経済的価値を貨幣価値に置き換えた値である。価格は、一回一回の取引によって定まる数値である。

 そして、貨幣価値によって経済的価値に時間的価値が加わる。時間的価値は、変化を意味する。時間は連続量であり、時間的価値は、基本的に差か、比である。
 金利で言えば、単利か複利である。ただし、時間の性格からして時間的価値の基本は比である。即ち、複利である。

 時間は、連続量である。故に、時間的価値を加えるために、期間という時間の単位を設定した。期間には、時間、日、週、月、年、会計期間などがある。又、期間を設定するためには、始点と終点を定義し、設定する必要がある。

 期間を設定することによって期間損益の概念が成立した。期間損益の概念が成立することによって企業は、継続性を前提とすることが可能となったのである。

 企業が継続を前提とした時から経営や経済の中に無限や極限の概念が入り込んできた。それは、経営や経済の中に微分的発想や積分的発想を取り込む事を意味する。




       

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