経済数学

2 人的経済と数学

2−1 人生とは


 人生一路。一度しかない人生。人の生は一生なのである。自分は一人、唯一の存在である。

 リーマンショックの時、「百年に一度の危機」と言われた。それでなくとも、危機という言葉は頻繁に使われる。危機という言葉は頻繁に使われる割に、危機が去ったという認識はいつまで経ってもできないでいる。それが現代社会に得体の知れない不安感を醸しだしている。その得体の知れない不安が現代人のストレスの根源にある。

 現代社会は、物と金が中心の世界である。物と金ばかりが尊重されて、人が忘れ去られている。人の心が軽んじられている。だから、人々は、心の病になるのである。
 これ程物質的に恵まれている社会で鬱病や自殺者が急増している。
 人間は、物や金では、豊かになれたかも知れないが、人の心は貧しくなってしまったのかもしれない。

 人間が生み出す空間が忘れ去られているのである。
 親の面倒は、人を雇うなり、施設に入れるなりして、他人に任せればいい。少子化対策も保育園を増やせば事足りる。結婚しない理由は、女性が安心して外に働きに行ける環境がないからだ。
 要するの、人と物の問題だと言いたいのである。
 親の面倒も、子育ても、結婚も、根本は、人の心の問題なのである。愛情の問題なのである。そして、愛情があるから物や金に関わる数字が生きてくるのである。
 物というのは物質的な実体である。人間で言えば、肉体である。肉体は、魂があってはじめて用をなす。魂のない肉体は、ただの骸(たましい)である。肉体は、魂を失えば醜く朽ち果てていく物なのである。

 哀しいことだが、老いというのは衰えを同時に意味している。だから、年寄りを大切にし、労らなければ社会の釣り合いはとれないのである。

 現代社会の危機というのは、経済や社会が魂を失いつつあることに起因している。言うなれば、死の病である。それも心の病に起因した死の病である。だから深刻なのである。

 人の作り出す空間は、家族の内部、社会の内部にある。共同体内部は、非貨幣的空間でもある。本来が自給自足の社会だったのである。その非貨幣的空間に貨幣的関係が入り込んだことが共同体の崩壊を招いているのである。

 親の介護は金でするのではない。親子の情愛は雇用関係から生じる感情ではない。夫婦関係は、金で片付けられる関係ではない。女房は、娼婦ではないのである。子供への愛情は、お金に換えることはできないのである。師弟関係も同様である。友情を金で測れば、測った瞬間に友情は消え去ってしまう。

 現代人は、思い違いをしているのである。勘違いをしている。錯覚をしているのである。目眩をしそうな社会、それが現代社会の不安の根底にある。
 だから、心から信じ会える友達など望みようもなく。愛し合える伴侶に出逢える可能性は少ない。

 お金のための仕事というのは、一義的な仕事ではない。二義的な仕事である。なぜならば金儲けは手段であり、目的ではないからである。一義的な仕事というのは、自己実現のための仕事を言うのである。

 現代人は、働く事がきらいだ。文化の基準としてどれ程多く休めるかを競っているようにもみえる。ひたすら休日を増やし、年をとればなるべく早く隠居をさせようと画策する。

 仕事こそが人を生かしているという事を忘れている。長生きを人いる人々の多くは、現役で仕事をしている人々である。少なくとも、働いている人々は生き生きとしている。

 人材、人材と言うが、それは、物的、金銭的意味ででしかない。生身の人間も確率統計的対象、物でしかなくなってしまったのである。
 人は、必要とされていると思うからこそ安心して働けれのである。自分は、誰からも必要とされていないのではないのかと思い出すと人は憂鬱になり、深い闇の底へと落ち込んでいくのである。それが疎外である。人は、物ではないのである。人は歯車のような無機的な部品ではない。

 昔は、親の働いている姿を見て子供は育った。今は、親は自分の働いている姿を惨めだと思って見せないようにしている。
 働くと言う事で、自分が何等かの形で、社会や家族から必要とされている事を認識できる。しかし、働けなくなると厄介者扱いである。それでは、長生きするのも苦痛である。

 経済は、人々を幸せにするための活動である。何がその人の人生にとって必要なのかを忘れたら経済は、存在意義かなくなる。

 無縁社会というテレビ特集があった。
 近い将来、男性の三人の一人、女性の四人に一人は、生涯未婚になると予測されている。その結果、無縁死、無縁仏、孤独死が急増すると言われている。
 無縁社会という特集を見て感じるのは、家族の絆や縁を否定してきた者が、社会の絆や縁を言う虚しさや怪しさである。戦後育ちの我々は、家族の絆を否定してきた。血縁関係を非近代的な関係として頭から全否定してきたのである。そして、家族的な在り方、企業の家族的経営という思想、封建的思想を否定してきた。これは何も日本だけではない。近代化したという国々において多かれ少なかれ家族という関係を否定し、それに代わって雇用関係を人間関係の中心に据えたのである。外に働きに出るというのは、外聞はいいが、結局、無償の労働をやめて雇用関係を結ぶというのに過ぎない。そこから、全ての人間関係は、金銭的関係に置き換わったのである。それは唯金主義といっても良い。そして、人間関係の基本は、使用者と労働者と言う関係でしか測れなくなったのである。
 無縁社会という特集も、結局、家族の絆というものを問い直す事なく終わっている。現代人が、唯金的世界観の呪縛から逃れられない証左でもある。
 人間と人間と繋がりを否定し、ただ、物や金の関係でしか経済を見られない。その自分達を直視しない限り、無縁社会は静かに浸透していくであろう。
 大切のなのは、人と人との関係である。そして、その上に経済は成り立っているのである。
 いくら金を貯めたとしても孤独に死んでいくのでは意味がない。金とは、貯めるだけでは効果を発揮しないのである。
 現代人の多くは、無償の仕事が信じられなくなってしまったようである。しかし、労働の本質は、無償の仕事にこそある。その典型が家族である。家族というのは、無償の世界である。親が子にする働きこそ無償な行為なのである。それを否定しきったところに現代社会は成り立っている。
 愛という言葉が氾濫している。しかし、現実の世界からは愛が失われつつある。あるのは虚しい言葉だけである。それが現在を象徴している。
 家族や友達には、心配や迷惑がかけられない。家族や友達の世話にはなりたくない。心配も迷惑もかけたくないと言うのは、あなたを必要としないと言うようなものである。誰の世話にもならないというのは、人間社会を拒絶していることである。家というのは、そこに生活する人々の臭いがあってこそ暖かいのである。
 現代社会は、不人情な世界だ。義理も人情も関係ない寒々とした荒涼として拡がっているのが現代社会なのである。

 結婚というのは、苦労をするためにするのである。親に迷惑をかけない子供はいない。しかし、その苦労や迷惑が幸せの根源であることを知らないし、誰も教えようともしない。現代社会は不人情な世界に成り下がってしまったのである。
 信仰の欠如である。

 一生、苦労を掛けないと結婚するのは間違いで、一緒に苦労をしてくれと言うのが正しい。

 苦労や迷惑を取り除こうとすればするほど、人は不幸になっていく。金のために、苦しみや迷惑に耐えるのではない。愛するが為であり、生きる喜びのために耐えるのである。

 若者達が結婚をしなくなったのは、楽をしたいからである。苦労や迷惑を取り除くことを望むように教えられたからである。心の問題であって、物や金の問題ではない。

 結婚は、快楽を得るためにするわけではない。楽になるためにするのでもない。精神の安息と生きる目的を知るためにこそ結婚するのである。

 親は子を必要とし、子は親を頼り、妻は、夫を支え、夫は妻を護った。家族は、互いを思いやり、助け合って生きてきたのである。それが根源的絆である。
 その絆の延長線上に地域社会があり国家があり世界があった。
 日本ではその関係を義理と人情と言って大切にしてきたのである。

 その関係は、歴史を作り、伝統となり、仕来りを生み、礼儀作法にと言う形式に結実した。その全てを否定しさろうとするところに現代の危機の原因がある。

 あなたが居なければ生きていけない。あなたが必要なのというのが本音。自分だけで生きていけると思うから誰からも必要とされなくなる。世話を掛けないと言うのは、おまえなんか必要ではないと言われるのと同じ。人間は一人では生きていけないと言う自覚があるから、経済は成り立っている。

 おまえは必要ではないと言われて、辞めさせられることがどれ程辛いことなのか。

 自分の為だけに働こうとすることこそが不幸の始まりなのである。愛する人の為に働くから生きる喜びがあるのである。それだからこそ、自分の限界を超えて新たなことに挑戦していくことができるのである。生きる勇気が湧いてくるのである。
 人は、自分が誰からも必要とされていないと言う寂しさによって死んでいくのである。年寄りを孤独にし、寂しい環境に追いやる社会は貧しい。その貧しさを克服するのが経済である。決して、経済は、金と物だけでできているのではないのである。
 経済の主は、人である。人の心である。心ない経済は、真の経済ではない。それは、愛情のない夫婦、家族に象徴される。

 金儲けの目的は、金を儲けることではないのである。金を儲けるのは、自分が幸せになるための手段である。なぜ、何のために、誰のために、人は生き、働くのか。

 かつての数学者は、数学の中に神を見出していた。神を怖れる心を持っていた。現代人は、神を怖れることを忘れた。それが、現代社会の本源的な危機なのである。

 現在の社会では、生活のために必要な物を手に入れようとしたら、何等かの貨幣取引が介在する。だから、「お金」、「お金」、「お金」である。欲しい物は、「お金」がなければ手に入らない仕組みになっている。
 だから、経済というと貨幣取引が全てだと思い込んでしまう。ともすると、経済というと「お金」の話だと錯覚してしまう。
 しかし、経済は、貨幣取引や市場取引ありきではない。取引というのは、経済的手段の一つでしかない。取引は手段たりえても、目的にはなりえない。取引以前に人間として生きる為の活動、即ち、生活があるのである。生きる為に必要だから、取引があるのである。

 人は、パンのために生きているわけではなく。生きる為に、パンを食べるのである。況や、人は「お金」のために生きているのではなく。生きる為に「お金」が必要なのである。

 「お金」は必要だが全てではない。本質は、人間の人生である。よりよい人生をおくるために、「お金」を必要としているのである。人生を台無しにしてまで、自分の人間としての尊厳や誇り、信念、価値観、信仰を捨ててまで「お金」を求めるのは、本末の転倒である。「お金」の奴隷になっているのに過ぎない。

 そうは言っても貨幣経済下では、「お金」がなければ、生きていくことはできない仕組みになっている。だからこそ、人々が、自分の信念や誇りを保ちながら、生きていくことのできる経済の仕組みが重要となるのである。

 今、経済というとやたらと数字が並んでいて無機質な現象に思われている。数字が並んでいる割に数学と経済というのは無縁に思われているのは不思議である。経済と数学との関わりというとせいぜい統計学程度しかない。しかし、数学と経済は本質的な部分を共有している。

 経済活動の根本要素は、生・病・老・死にある。経済とは、生を考えることであり、死を考えることである。人は、老いた時、どの様な、生活を送るべきなのか。
 介護施設や介護制度が景気に与える影響を考えるのは、経済の本質ではない。根本は人としての生き方であり、人間の尊厳である。故に、経済は、文化であり、道徳なのである。
 経済を考えることは、人生を考えることであり、人生を考える時、経済は欠くことのできない要素なのである。

 子供達をどの様な環境で、どの様に育てたいのか。それを考えるのが経済である。金を与えておけばいいと言うのは経済ではない。それは、経済の目的を実現するための手段の一つである。
 「お金」は、子供達を育てるための環境を整備するために必要な物であり、制約条件である。故に、環境の話をする時は、金銭の話を介して現実化される。だから、経済の事象は、貨幣を介して表現される。それは、思想を表現する時の言葉の働きと、貨幣が、同じ働きをしていることを意味しているのに過ぎない。言葉は、思想を表現するが、言葉が思想の本質ではない。言葉の背後にある考え方、価値観が本質なのである。

 人は、どの様な場、環境、状況に置いて死を迎えるべきなのか。近代的な施設の中で誰にも看取られずに寂しく死んでいくことを選ぶのか、家族に看取られて自分の家で死にたいのか。それを考えるのが経済である。

 年金さえ与えておけば、自分の責任は果たせたと言えるのか。それとも、伴に生きる事を選択するのか。それは金銭的問題以前の問題である。

 故に、経済とは、哲学を具象化したものなのである。
 経済問題というのは無味乾燥した事ではない。金銭取引の背後に隠されている、人々の生き様が経済の本質なのである。

 「お金」の話しに囚われて、人々の生き方、人生について考えることを忘れた時、経済は、その本質を失う。

 人々の生活、生き様は、経済体制にとって魂のような存在である。経済体制は、経済の肉体である。人々の生活があって経済体制は成り立っている。魂のない肉体は、ただの骸にすぎない。ただ、醜悪なだけで、そのままでは、朽ち果てていく運命にある。肉体は、魂があって保てる物である。

 魂は、肉体を等して外に表れる。肉体のない魂は、亡霊のような存在である。だから肉体が大切であり、必要とされるのである。しかも。健全な肉体こそ望まれるのである。そして、魂と肉体が一体となった時、経済は、正常に機能するのである。

 経済と数学は切っても切れない関係にある。だからといって経済というのは、無機質なものだと捉えるのは浅はかである。

 経済の根底には、人間の生業がある。つまり、人間が生きていくための活動がある。それが経済の本質である。経済は無機質な事象ではない。
 これは数学にも言える。現代数学というのは、専ら、物理や工学というところで威力を発揮してきた。しかし、日々の暮らしの中にも数学は不可欠である。暮らしの中にこそ、数学は息づいているのである。
 日々の生活の中にとけ込んでいる数学は、生々しい現実や人々の欲望を反映し、高邁な真理とは縁遠く思えるかも知れない。しかし、それこそが生きた数学なのである。

 経済をただ数値だけの現象として限定的に捉えれば、経済はその本質が失われ、自壊してしまう。良い例が、企業収益である。企業から収益や利益の本来の働きが失われ、収益構造が成り立たなくなる。
 ただ計算上の利益だけが問題とすれば、働いている人々の権益、人間性は無視されることになる。労働に対する評価は、単に、単価と単位時間の積となり、人間としての属性は損なわれる。
 重要なのは、数値の背後にある人々の暮らしなのである。それは、現実であって空想的世界ではない。

 人々は、有限の世界で生きている。無限な対象があったとしたら、その範囲を限定し、自分達の身の丈にあった物に変換した上で、活用している。だからといって有限な物を低次元な事象とするのは傲慢である。

 人の世を機械的なものとして捉えるのか、生き物として捉えるかによって人生観や世界観に差が生じる。
 経済の仕組みや経済主体を共同体的な集団としてみるか、機械的な集団として見るかによって経済の根本に対する思想が変わるのである。

 福祉とは何か。それは、金銭的な問題であろうか。それとも、人間としての生き様の問題であろうか、人と人との関係、即ち、社会、文化の問題なのであろうか。その見極めもないまま、福祉に関して議論することは、空疎な議論である。

 人の世は、物と物との関係によって成り立っているのではない。人と人との関係によって成り立っているのである。経済で肝心なのは、人と人との結びつきをどう捉えるかである。金と金との結びつきによって経済を捉えることほど愚かなことはない。
 故に、経済の根本は、人と人との関係である。

 物と物の関係も、金と金の関係も、人と人の関係の上に成り立っているのである。
 人は、主体的な存在である。人は生きているのである。人は、一人では生きていけないのである。人は生きるためには、食べ物を必要としている。
 人間としての在り方こそが経済の根本なのである。

 人と人との関係は、人間関係における位置付けと役割を定める。そして、現実の社会は、人と人との力関係が決定的な働きをする。
 人は、一人では生きられないのであるから、人と人は結びつき集団を形成する。集団は、順序づけられ、序列ができ、秩序が確立される。それが組織である。つまり、組織は、きわめて数学的な存在である。

 人間関係を形成するための要素は、人間の属性である。人は、人間の属性によって関係を構築する。人間の属性とは、生きる為に必要な、或いは前提となる性質である。

 唯物的経済というのは、或いは、金だけの経済というのは、人間としての属性を取り去ったところに成り立つ経済である。しかし、経済というのは、人間の生きるための活動である。だから、人間持つ属性というのを削ぎ落としてしまった経済などあり得ないのである。それは、魂のない肉体のような物で屍に過ぎない。経済は、生きているのである。

 人と人とを結び付けているのは、人間性、即ち、属性なのである。家族を養う必要があるから経済が必要なのである。食べていかなければ肉体を維持できないから働くのである。家がなければ寒さや暑さを凌げないから家を建てるのである。一人では外敵から身を守れないから徒党を組むのである。一人では寂しすぎるから、人を愛するのである。
 人と人とを結び付けるのは人間としての属性である。それを切り捨ててしまったら人間の経済など本質的意味を失ってしまう。

 故に、経済の大前提は、自分が人間であるという事実である。

 人間は、主体的生き物である。注意しなければならないのは、人間と主体的存在とは、別物だという点である。
 人間という事と主体的存在と言う事を混同している場合がある。人間というのは、他に置き換えて考えることができるが、主体性というのは他に置き換えることのできない属性である。つまり、自分の本質は、他人になれないと言うことである。心理学的な問題や外形的な問題は別である。名前を変えたり、又、心理学的には、別人格になりうるかも知れない。しかし、自己の主体性を他人と入れ替えることはできない。それが主体的存在である。
 そして、この様な主体的存在は有限な世界に存在しているという事を前提としている。
 自分の一生には、限りがあるし、自分の能力にも限界がある。自分が知りうることにも限りがあり、自分が所有できることにも限りがある。自分が活用できる資源も限りがある。自分が移動できる空間にも限りがある。自分が生きられる空間にも限りがある。自分は、食べ物を食べなければ生きられないし、父と母が居なければ生まれてこなかった。つまり、世の中との繋がりが断たれれば存在し得ない、自分とは、そう言う存在なのである。

 自己というのは統計的な存在ではない。他人の死は測れても自分の死は測れないのである。万人に一人の病と言ってもその病にかかった人は、当事者に過ぎない。
 自己は、その他大勢で片付けられる存在ではない。己としての、個として一なのである。
 全体としての一と己としての一、この二つの一によって成り立っている。

 人の経済は、人間の一生の一に始まる。

 人の本質は、自己である。人間とは、自己の存在の延長線上にある存在である。
 故に、人間の在り方は、自己という制約の上に成り立っている。
 人に一生は、限りがあり、人間の能力には限界がある。人間か知りうることにも限りがある。人間が活用できる資源にも限りがあり、人間が生きられる空間にも限りがある。人間が与えられた時間も有限なのである。人間は、誰もが、いつの日か死ぬのである。
 そして、時間は不可逆な現象である。人間に与えられて時は、不可逆である。いつか人は、死すべき運命にある。
 自己とは、主体である。自己とは唯一の存在であり、他にない。これが全ての認識の前提である。
 自分を生かす経済こそが真の経済である。自己という存在を忘れたところには、経済は成り立たない。
 その人の人生は、その人の物でしかない。この世の中にはいろいろな人がそれぞれの人生を歩んでいる。しかし、その人の人生は、その人でしか責任が負えないのである。その人に与えられて資源以上の生き方はできない。
 人を羨んでも仕方がないのである。他人に代われる事ではない。

 人生五十年と幸若舞「敦盛」の一節を口ずさんで桶狭間の合戦に織田信長が臨んだのは有名な話である。信長の時代では、人生は五十年だった。今日の日本では、それが七十、八十と伸びてきている。確かに人間の寿命は延びたかも知れない。しかし、生・病・老・死の宿命から逃れられたわけではない。

 自己が他との関係の中でしか生きられないとしたら、人間は、他との繋がりの中でしか生きられない。例え、科学が進化し、父母を必要とせずに人が生まれることが可能になったとしても、他との関わりなく生きていくことが可能になるわけではない。人間は、根本的に社会的存在なのである。そして、自己が生きていく為の営み、即ち、人間が生きるための活動を経済とするならば、経済は、自己と他との関わり、人間と他との関わりを前提として成り立っていることとなる。そして、自己と他との関係は、人間の外形的属性に基づく。
 生きる為には、食べていかなければならない。食べるという行為は、人間の肉体を維持するための行為である。食べるという行為は外部から肉体を維持するために必要な酔え文、栄養を補給する行為である。食べるためには他との関わりが必要となる。つまり、生きる為に必要な行為を基として自己と他者との関係は成り立っている。生きるとは、自分の肉体を保つための行為となるからである。人間の属性は、人間の制約にもなる。故に、経済にとって重要なのは、自己の属性、即ち、人間としての属性なのである。
 父でも、母でもなく。親でも、子でもない。その様な関係の一切合切を否定してしまった経済は、本来成り立たないのである。
 経済の核は家族なのである。

 経済と数字というと金の話かと思われる人が多いかも知れないが、経済的な数字とは金ばかりを言うのではない。むしろ人の一生に関わる数字の方が本筋だと言える。

 自己の生きる目的の一つは、自己実現である。経済とは、自己実現の為の活動だとも言える。自己実現は、自己の属性を前提としている。それは人間としての属性、即ち、人間性でもある。

 人間としての属性を削ぎ落とす事は、即ち、自己の属性を削ぎ落とす事でもあり、それは人間から生きる目的を奪い取ることにもなる。故に、その様な経済は、自己否定的、自滅的経済である。

 経済の根本は、人の一生にある。どの様にして生まれ、どの様にして生き、どの様に働き、誰をどの様に愛し、どの様に生み、育て、どの様に病み、どの様に死んでいくのか。その一つ一つの事柄が、経済を決めていく要素なのである。
 つまりは、経済とは、人間の生き様の事であり、人生のことなのである。そして、人々の暮らしや生活の問題なのである。

 人生において最も資金が必要とされているのに、出産資金、教育資金、結婚資金、闘病資金、住宅資金、老後資金等である。つまり、人生の岐路に立つ時、人は資金を必要とするのである。それが経済である。お金は使う目的が重要なのである。そして、その目的を自覚して生きているかどうかが問題なのである。それが経済である。

 人生は一つしかない。このかけがいのない一生を与えてくれたのは、父、母の二である。新たな命を生み出すには、もう一つの一生、即ち、新たなる一が付け加えられる必要がある。一は、二から生じ、二は、新たなる一の創生を前提とする。それは、新たなる始まりを意味するのである。

 人生いかに生きるべきか、それが、経済に対する根本的な問い掛けなのである。故に、経済とは哲学なのである。
 人的経済の根本は人生観である。

 経済というのは人間の営みであって金だけの問題ではない。金儲け以前に人間は生きていくために為さなければならないことがある。金儲けは生きていく為に必要なのであって、人間は金儲けのためにし来ているわけではない。

 人間の一生の大きな流れは生・病・老・死によって定まる。人は、生まれて、生きて、病して、老いさらばえ、死んでいく。その過程にこそ人間の経済はある。
 人間が生きていく為の活動、それが経済である。
 経済の根源には、流れと周期がある。生きる為の営み、それが経済である。故に、その流れや周期を引き起こすのは人間の欲望である。即ち、食欲、睡眠欲、性欲である。故に、経済には、朝と夜との周期が生じる。

 経済とは、金の問題だと思い込んでいる連中がいる。逆に、だから経済学は賤(いや)しい学問だと蔑(さげす)む連中もいるのである。
 しかし、経済の本質は、金だけの問題ではない。ただ、価値が貨幣に還元されるから表面的には経済は金銭的な問題を扱っているように見えるだけなのである。現代社会は貨幣経済を前提として成り立っている。故に、経済というと貨幣価値、即ち、金銭によって表示される事象、現象を意味しているように錯覚しがちである。
 その証拠に、経済的な数値とは、何も金銭的に表されたものだけを指すわけではない。例えば、石高も経済的数値の一種である。
 それから、金の問題は賤しい問題ではない。賤しいところがあるとしたら人間の心にある。

 貨幣というのは貨幣価値の割り符のような役割を持つ。貨幣のもう一方に価値がある。貨幣価値は、貨幣と価値との二つの要素が合わさって成立している。
 そして、貨幣の今一方にある価値が重要なのである。値する価値である。貨幣が示す物は量である。価値が示すものは質である。質は、人間の必要が生み出すものである。それが価値である。

 考えてみれば、数の数え方も一通りではない。一匹、一個、一人、一双、一竿、一振り、一束、一冊、一軒、一丁。数の数え方は、質と量、単位を表す。それが経済数学である。

 人生には、数値に表せない部分がある。人間は、統計的な存在ではない。

 人的経済というのは、人々の生活に根ざした根源的な経済である。人的経済は、共同体の経済である。組織の経済である。人的経済は、市場経済や貨幣経済が成立する以前から存在していたし、市場経済や貨幣経済の前提となる経済である。

 人的経済の根底には国家観がなければならない。
 人的経済は、人口数、人口構成、人口分布と言った人口問題や民度、祭礼といったに文化に関わる問題、育児や教育、医療といった人間社会の基盤に関する経済現象や労働時間、賃金、労働条件といった労働に関する経済問題、個人所得や生活水準、消費者金融、家計と言った消費に関する経済現象などからなる。つまり人間の生き方に関すること全般に関わるのが人的経済である。

 また、消費者の経済である。

 人口の減少が経済にどの様な影響を与えるかが問題なのであり、人口減少の是々非々を論じることが目的なのではない。人口を問題とする場合も人間不在の議論が横行している。つまり、人口の減少を純粋に経済の問題として捉える傾向である。人口にあった経済ではなく。経済にあった人口を問題としているのである。だから、妥当な解決策が見つからなくなる。
 人口減少がいい事か、悪い事かは、経済的問題と言うより、文化論的問題、或いは、思想的、哲学的問題と言っていい。

 経済は、助け合って生きていくことが本義である。だから家族が基本となり、社会が築かれたのである。ところが、貨幣経済の時代になるとあたかも貨幣が主役であるかのような思い込みが蔓延した。そして、助け合うという事を忘れてしまった。その結果、家族や社会が崩壊の危機にさらされているのである。
 金のために、家族や社会を切り捨てていくとしたら、本末転倒である。金は、手段に過ぎない。経済の本当の意味は、助け合いながら生活を伴にすることにあるのである。
 孤独死した老人の部屋を片付けていたら、箪笥の中から大金が出てきたなどと言う笑えない話も聞いた人がある。使えない金など貯めたところで、何の意味もない。誰のために働き、何のために金を儲けるのか。それこそ、金が生き甲斐すら奪うのならば、金は、経済に何の役にも立っていないことになる。金のために、魂までも売り渡したら、金はかえって毒である。経済の本質というのは、金の背後にある人間の生き様、人間模様にあるのである。
 金があれば一人で生きていけると言う思い込みこそ経済の根幹を否定する事に繋がるのである。

 経済を考える上で、最も重要なのは、人間の生き様である。どの様な暮らしを、生活を、想定するかである。人間としていかに生きるかを忘れてしまったら、経済そのものの本来の意味が失われてしまう。
 現代経済の不幸は、金銭的問題が先行して人間本来の有り様が置き去りにされていることである。

 人は、豊かなる時、神を侮り、貧しくなると神を呪う。しかし、神は神である。
 人の不行跡の結果を神の責に帰すのは罪深いことである。
 神を必要としているのは人であり、神が人を必要としているわけではない。

 車を運転するのは、人間であって神ではない。車の運転をしていて事故を起こしたからといって神を怨むのは筋違いである。

 市場に神は存在しない。神が存在するのは、人々の信仰の内である。
 市場を造り出したのは、人間である。市場の不始末は、人間自らが正さなければならない。その時問われるのは、人間としての道徳心である。




       

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