経済数学

2 人的経済

2−3 労働について


 労働には、第一に、公的、社会的、外的、所得(収入)、貨幣的労働と第二に、私的、家庭的、内的、非所得(支出)、非貨幣的労働がある。どちらの労働も労働には変わりなく、分配を受ける権利がある。ただ、分配の手段が違うのであり、前者は、貨幣を用いて所得として行われ、後者は、実際的な物や用役を介して行われる。

 仕事や仕事場を神聖な行為、場として位置付ける事ができなくなったことに現代人の不幸がある。労働は、労働そのものに価値がある。労働は、対価によってのみ測るべきではない。反社会的に労働は、いくら報酬がよくても真っ当な労働と評価するわけにはいかない。

 娼婦一晩の稼ぎが労働者の年収を軽く上回るようでは、道徳も地に堕ちる。

 労働は喜びである。労働は、自己実現の手段である。その労働が空疎となり、苦痛でしかなくなった時、経済は頽廃、堕落するのである。

 現代人の最大の過ちは、経済を金儲けのことだと思い込んでいることである。そして、労働を金儲けの手段だとしか認識していない点である。子供達が、勉強を試験に合格するための手段だと思い込んでいるようにである。勉強は生きる為にするのであり、労働は、生きる為の手段なのである。

 生き物にとって経済というのは、生きる為の活動である。植物は、大地から養分や水分を吸収し、光合成によって生命力を得ている。それが植物の経済である。
 草食動物は、餌を求めて移動し、肉食獣は、獲物を捜して活動をする。それ以外の時は、体を休めている。それが野生動物の経済の在り方である。

 お金の価値など人間以外の生き物には、無価値なのである。猫に小判、豚に真珠と言って猫や豚を嘲笑うが、猫や豚は、小判や真珠のために、人を傷つけたり、人殺しをしたりはしない。

 猫や豚は、金儲けを経済だとは思っていない。彼等は生きる事で精一杯なのである。それが、彼等の経済である。

 野生の鷹は、生きていく為に必要な時以外、他の生物を襲ったりはしないという。必要でもないのに、金のために動物を殺すのは人間だけである。その為に資源が涸れつつある。自分の享楽のために、貴重な資源を無駄にするのは不経済な話である。愚か者のすることである。ならば、野生の鷹と人間、どちらが愚かだと言えるだろう。人間は簡単な計算もできないのではないのか。資源はかぎりがあるのである。

 経済というと人間はお金に結び付けて考えるが、経済の根本は、お金ではない。生きる事である。経済とは生きる為の活動である。
 それを金儲けの手段だと思い違いした時から、人間は、経済の本質を見失ったのだ。
 そして、経済的行為を賤しいことのように蔑んだ。しかし、それは、経済を金儲けだと思い違いをした人間が下劣なのであり、経済が下劣なのではない。
 野生の鷹の経済は、気高く、誇り高い。厳しい自制と抑制がある。それが経済である。

 経済の本質は、人間としていかに生きるかである。つまり、経済とは、生きる為の活動なのである。

 なぜ働くのか。労働は金を儲けるための活動ではない。生きる為の活動である。人間らしく生きる為の活動が働く事なのである。

 生きる為の活動という事は、生きる為の働きと生きる為に必要な物資を調達することに要約される。それを貨幣経済では媒介する手段が貨幣であり、その範囲において貨幣は、有効であり、重要なのである。

 金に人間の一生が支配されてしまったとしたら、哀れなことである。

 貨幣の存在が、人間として生きていく為の仕組みの障害になるのではかえって貨幣の存在は有害なのである。それは一種の病だと考えるべきなのである。貨幣は、貨幣としての必要な機能を果たしている範囲内において有益なのである。
 例えば、人間の免疫のための機能が、かえって人間の生存を危うくする働きをしてしまうことがあるのと同じ事である。

 現代人は、経済的価値の集合と貨幣的価値の集合と同値、等価だと錯覚している。しかし、経済的価値と貨幣的価値は同値、等価な集合ではない。

 経済は、人間が生きるために必要な労働を創出し、必要な物資を分配する仕組みによって成り立っている。その仕組みによって経済体制は決まるのである。

 経済というのは、物を分配する仕組みであると同時に、所得を分配する仕組みである事を忘れてはならない。

 経済の一つの側面は、労働問題である。
 つまり、労働の対極に何を設定するかの問題である。それは、言い換えると所得とは何か、所得にどの様な働きを求めるかなのである。

 まず第一に、報酬なのか、生計費なのかである。労働に対する評価という観点からすれば報酬と見るべきなのであろうし、生活に必要な物資の分配という観点からすれば、生計費なのである。
 しかし、それは比率の問題であって、どちらの要素も必要なのである。

 人間の才能をどう評価すべきなのか。
 野球に例えてみれば、守備位置によって一律的に報酬を決めるが妥当なのか、それとも、成績や実績に基づくべきなのか、貢献でによるのか、経験や年齢を基礎とすべきなのか、登板回数を土台とすべきなのか。

 又、人間としていかに生きるべきか。人間らしく生きていく為には、何が必要なのかの問題でもある。

 所得は、本質的に分配の問題であり、雇用の問題でもある。しかも、消費や貯蓄、収入や支出と表裏をなすものなのである。そのうえ、家計や財政とも連関しているのである。
 家計は、非貨幣労働の場でもある。つまり、所得の中には、非貨幣労働である家内労働の評価を、どの程度、加味すべきなのか重要になる。つまり、一家の所得の中には家内労働に対する部分も含まれているのである。

 だからこそ、一概に、所謂(いわゆる)市場の効率性からだけで人件費を割り切ることができないのである。
 所得を労働の対価、単なる報酬だと割り切ってしまえれば計算は簡単である。つまり、単位時間×単価、或いは、数量×単価で良いのである。
 しかし、所得には属人的な要素を多分に含まざるをえない。その点を忘れてはならない。経済の本質は、労働と分配の問題なのである。

 この様なことは、賃金体系に端的に現れている。つまり、賃金体系というのは、経済の縮図であり、国家理念を体現する体系でもある。だからこそ、一企業単独では決められないのである。それを市場の原理だけに委ねるのは乱暴であり、国民国家の趣旨に反する行為なのである。
 ならば国家は、人件費を支払っても尚利益が上げられる体制を維持することが責務になる。

 自由主義経済は、貨幣経済と市場経済を基盤にして成立している。この様な自由主義経済下では、生活、即ち、生きていく為に必要な物資は市場から貨幣によって調達することが原則となる。
 その為には、貨幣をどこかで、先ず、調達、つまり、稼がなければならない。金を稼ぐと言う事は、所得を得ることを意味し、基本的に働く事を前提としている。

 労働と分配をどう結び付けるかが、経済の最大の問題である。
 この労働と分配を結び付ける拠点が、経済主体である。企業と家族と国家なのである。

 その意味で事業体というのは、生きる為の活動の場の一種であり、主となるのは労働と分配であり、利益というのは副次的な指標に過ぎない。

 分配と言っても一律均等というわけにはいかない。寒冷地と温暖な地方では必要とする物資に質的な違いがある。個人差や個人の趣向を同一に語ることはできない。選択の自由の本質は、自己実現、人間の尊厳の問題なのである。機械的に処理すべき問題でも強制できる問題でもない。根本は、人間の意志の問題であり、主体性の問題である。

 利益をあげることが目的なのではなく、人々を養うのが目的なのである。
 優秀で能力のある人間や特殊な技能を持つ者ばかりではない。多くの人間は、平凡な技能しか持ち合わせていないのである。
 単に能力や成果だけで人間の価値を測れば、自ずと雇用は限定的なものになる。無能な者は切り捨てられてしまうのである。
 かといって人間の能力の差を認めなければ、自己実現はできなくなる。
 いずれにしても、人件費から属人的な要素が削ぎ落とされてしまうのである。

 労働とは何かを突き詰めると人間性に行き着く。つまり、人間とは何か。人間はなぜ働くのかという根源的な問題に行き着くのである。

 その証拠に労働を一定の単位で単純に割り切ることはできないのである。

 単に人件費を費用としてしか見ないような経済的合理主義を突き詰めると単価×時間、或いは、単価×成果物だけで評価することが妥当になる。
 対極にあるのは、妥協なき実力主義をとるのか。

 競争、競争と言うが、競争に何を求めるのか。経済効率を低価格に求めるのは思慮に欠けている。経済の目的は、低価格を実現する事にあるわけではない。
 経済の目的は競争にあるわけではない。生きる事にある。それも人間らしく生きる事にある。どうすれば人間らしい生き方ができるかを考えるのが経済学である。
 その根底は、倫理である。金儲けのために、人間として堕落せざるを得ないような経済体制には必ず、どこかに欠陥がある。
 人間として自己実現ができるような仕組みこそが真の経済体制なのである。

 競争力だけを追求し、価格の低減化ばかりを優先すれば、労働の基準は単価に収斂する。
 労働費も単位時間×単価に還元されてしまう。そうなれば、量として換算できない質的な部分は切り捨てられることになるのである。

 企業再生や産業の再編が単なる会計上の問題か、物理的生産性の問題としか捉えられていないのは、不幸なことである。
 企業再生は、人的問題であり、人道的問題であり、道義的問題である。つまり、会計上の問題である以前に哲学的問題なのである。
 人間を無視して経済を語ること自体、不道徳な事であり、また、不経済な事である。経済の本質は、労働と分配である。むろん、お金は大事だけれど経済の変質は、お金の問題ではない。むしろ、金のために、経済の本質が失われるのが怖い事なのである。

 かつて、沖縄では、石油スタンドは、量も過剰で、サービスも過剰だと言われた。しかし、裏返してみるとそれだけ、雇用を生み出し、サービスの質の向上を計っていたという事にもなる。それが規制を緩和し、過当競争を煽った結果、石油スタンドの数は激減し、サービスもセルフ化された。元々、沖縄は、失業率が高く、石油スタンドは、雇用対策にもなっていたのである。しかも、過当競争は、スタンドの経営そのものまで成り立たなくしようとしている。
 なぜ、そこまでして安売りを強要する必要があるのか。そこに経済に対する錯誤がある。経済的に求められているのは、適正な価格であり、安ければ良いという短絡的な発想ではない。その地域社会が経済に対して、価格に対して何を期待しているかなのである。過当競争は、結局、市場の寡占化、独占化を招く。それは市場の終焉をも意味するのである。市場原理主義者が市場経済にとどめを刺すのである。

 何かと付加価値労働、付加価値労働と言うが、付加価値の高い労働に適正のある者ばかりがいるわけではない。
 付加価値、付加価値という者の多くは、単純肉体労働を蔑視しているか、嫌悪している者である。
 根本的に労働というものを理解していない者か、或いは、働くことがきらいな者の考えである。

 単純反復的肉体労働賀が適している者もいる。しかし、そのことは、その人間を差別する理由にはなれない。それに、単純反復的肉体労働は、誰にもできるという労働ではない。向き、不向きの問題である。日本中の労働者をコンピューター技術者や銀行員にする必要はないのである。需要なのは、世の中にとって必要な仕事であることである。必要な仕事ならば、仕事の成果に応じた報酬を受けるのは当然の権利である。

 コンピュータ立国、金融立国など馬鹿げた妄想に過ぎない。
 第一、金融技術というのは、特殊な技能を前提とした技術であり、当然、金融業界に所属する者は、特殊、専門技術を要求されることになる。この様な技術は、万人が等しく修得できる技術ではない。第二に、金融市場、及び、その周辺市場だけで全人口の雇用を充たすことは不可能だという事である。

 人間には、個性があり、適正がある。その人、その人の個性や適正をいかせるように職業を選択することができる仕組み作りが経済の根本の問題なのである。能力も好みも違う。違うと言う事において平等なのである。一人一人の違いを前提としたところに平等は成り立っている。
 人間の個性や適正を押し殺し、人は皆平等だと叫ぶのは、平等の真の意味を理解していない。人間は存在において平等なのであり、自分らしい生き方を選択できるという点で平等であるべきなのである。一人一人の違いを無視したら平等なんて成り立ち得ない。男と女は違う。それを前提としたところに男女の平等は成り立つのである。

 人件費は、単価と時間、又は、成果物で単純に割り切れるような性格のものではない。人件費の裏側に生活が隠されているのである。労働は、生きていく為の権利を構成する。
 人件費を単純に労働費と規定できないのは、労働以外に属人的な特性が人件費には隠されているからである。

 労働は、本来、生産的なものである。同時に労働は生き甲斐でもあり、自己実現でもある。自分の仕事に誇りの持てない者は不幸である。労働に喜びを見出せず、苦役でしかない環境が悪いのである。それは経済の問題と言うより、社会や政治の問題である。

 金の儲けかたばかりを問題として、金の使い方を考えていないから労働の本質が見えてこないのである。

 生活があって金を儲けるのであって、金を儲ける為に、生きていくわけではないのである。あくまでも、生きる為に金を儲けるのであり、その為に働くのである。つまり、労働の本質は生きる事にあるのである。

 人間は、生きなければならないのである。生きなければならないから働くのである。

 経済を維持するために必要な費用の維持にある。そして、その費用の核となるのが人件費なのである。

 労働の持つ経済的意義を知るためには、労働が生み出す価値を知ることが肝心なのである。
 労働の生み出す価値には、労働を提供することによって生まれる価値と労働によってもたらされる価値の二つがある。労働を提供することによって生まれる価値とは、財を意味する。労働によってもたらされる価値とは、所得を意味する。
 財は、資産を形成し、所得は、現金収入になる。一定の所得が長期に渡って保証されることは、長期の借入の保証となる。この事は、資金の長期的需要を構成する。長期的資金は、固定的な資金の流れを作り出す。
 また、日常の必需品、消耗品は、生計を形成する。この様な生計によって消費が形作られる。消費は短期的資金の流れを形成する。消費の水準が物価を形成する。短期的資金は、流動性を生み出す。
 流動性で重要なのは、可処分所得である。
 支出にまわされない資金は、預金として金融機関に投資される。

 重要なのは、生活していく上で必要最小限、どの程度の資金が必要かである。それは、労働条件を構成する重要な要素となる。

 又、労働が生み出す財は、実物経済を形成する。生活に必要な財を生産し、社会に供給する。それが労働の持つ社会的機能である。

 つまり、労働は、生産と消費を結び付ける重大な役割を果たしている。

 なぜ、労働の果たす社会的役割が重要なのかというとそれは、労働が権利を生み出す本となるからである。働かざる者、喰うべからずと言う格言があるが、それは、裏返すと労働者の権利を意味していることでもある。

 しかも、働くと言う事は、賃金労働、即ち、貨幣的労働だけを指すのではなく。非賃金労働、即ち、非貨幣的労働も含まれているのである。即ち、労働と所得はイコールではない。

 又、労働と生産力の関数でもある。
 結局は、人口密度と生産力の相関関係の問題に帰結するのである。
 それは、人口問題という人類の根源的問題に行き着くのである。

 国際分業と言っても物質的に恵まれている地域とと貧しい地域があることを忘れてはならない。

 そこに住む者が地域の特性を生かして経済体制を構成していく必要がある。何もかも一緒、同じというわけにはいかないのである。

 経済の究極的目的は、完全雇用の実現と言うが、完全雇用は、未だに実現したためしはない。なぜならば、完全雇用という概念そのものが曖昧だからである。完全雇用という概念は、雇用関係を前提としなければ成り立たない。雇用関係というのは、賃金労働が前提である。ところが、労働は、賃金労働だけを指しているわけではない。元々、賃金労働というのは補助的な労働であり、家族や主従と言った共同体を中心とした人間関係に重点があったのである。

 余剰の労働力は非貨幣的な場に吸収されていたのである。故に、失業率と言っても見かけ上の数字でしかない。

 貨幣経済が確立される以前は、労働と分配を直接、生産物や用役によって行っていた。
 以前は口減らしの目的で奉公に出された。その時代は、兎に角、寝る場所と食べ物を与えられていれば満足していたのである。

 金でばかり評価されるのが労働ではない。見返りのない、無報酬の労働もある。古来、無報酬の労働こそ尊ばれきたのである。全ての労働を金でしか評価できなくなったからこそ経済は行き詰まったのである。つまり、労働の目的が金儲けでしかなくなってしまったのである。だからこそ深刻な疎外感が生じた。労働は生きる事であり、労働に生きる事の意義や生き甲斐が見出せなくなったからである。

 歳をとるとなるべく早く仕事を辞めることが求められる。それが、当人にとっても社会にとっも良いことだという。欧米人は、遊んで暮らすことに価値を見出しているようである。しかし、日本人は、働く事に生きる価値を見出してきた。そして、働く事によって仲間や家族との絆を作ってきたのである。その絆が強制的に断ちきられ、人生を中断させられてしまう。

 働く場所を失った人間は惨めである。運命を共有する仲間を失った者は哀れである。行き場所も居場所もつまりは生きる場所を失ってしまう。
 母親は、死ぬまで母親である。子供が独立したら、親子の絆まで失ってしまうとしたらあまりにも哀しい。
 世の為、人の為に働く事ができてこそ人間は、自分の存在意義が確かめられるのである。現代経済の愚かさは、労働を否定したことにある。労働を否定し、何でもかんでも、機械化してしまえと言う思想がどれ程野蛮な思想かを理解していないことにある。

 働く事の権利を守ることこそ国家の使命である。雇用が重要なのではない。働く場が確保されることが重要なのである。そして、それが生きる事であり、経済なのである。

 福利的事業は、あくまでも補助的なものとすべきなのである。基本的には、所得は、労働の対価と考えるべきである。福利的事業は、所得の偏りを是正するための所得の再分配の一環として捉えるべきである。不労所得は、社会に多大な負担を強いることを忘れてはならない。経済の本質は、労働と分配にこそあるのである。

 なぜ、何のために、そして誰のために働くのかは、なぜ、何のために、そして、誰のために生きるのかと同じ事である。

 極端な所得格差は、結局、国家も、国民も、疲弊させる。貨幣経済が発達する以前は、農民は、自分の収穫物で生活をしていたのである。必要な物は自給自足し、その中から納税もしてきたのである。何等かの原因で生活に必要な物が得られなくなり、その結果、土地を取り上げられても、必要な物は自分達で生産してきたのである。それが叶わないとき、金に頼った。賃金労働者というのは、社会の最下層に属していた。
 それが貨幣経済が発達することによって全ての収穫物は一旦現金化し、それを賃金として支払われる様になった。それは、貨幣収入が全てであり、その為には、賃金労働だけが労働であるかのような幻想をもたらしたのである。
 この様な状況で格差が広がれば、分配に偏りが生じるのは必然的帰結である。
 大地主のような富裕層にとっては、土地はタダのように安い物でも、貧困層にとっては、一生働いても手に入れられないほど高価な物になる。そうなると物は動かなくなり経済は停滞する。格差が拡大して得する者はごく限られた特権階級だけである。そうなると経済は活力を失い。停滞する。

 私の父は、縁という言葉を大切にしろと私に常々言う。縁とは、人と人との関わり合い、結びつき、絆である。そして、一緒に仕事をする人達とよく同じ釜の飯を食った仲間ではないかと励まし合ってきた。そして、最後に頼りになるのは家族なのだと言い聞かされてきた。
 親兄弟にも言えないことを話せるのが仲間であり、遠く離れていてもいざという時、助け合えるのが、親子、兄弟、姉妹なのである。仲間と家族、それが経済の核となる主体である。
 愛し合い、信じ合い、助け合える仲間と家族、それが経済の原点なのである。その根幹に夫婦、父母、友達がいる。
 経済の中心となる主体は、仲間と家族である。その本質は、友愛であり、家族愛、夫婦愛である。つまり、経済の本質は愛なのである。そこに経済の持つ公共性の意義がある。それを失った時、経済は、不毛なものとなり、市場は修羅場と化す。市場は、自分の欲望を満たすためだけの醜い争いの場となるのである。その様な市場で勝ち残れるのは、金を儲けるためならば、親子兄弟、仲間を売ることのできる者だけである。争いだけを市場に求めるのは愚かなことである。金儲けのために、道徳を犠牲にすることは、経済の本義でない。
 不景気になった時こそ、仕事仲間は一致団結すべきなのである。不況だからと言って仲間を切り捨てるのは不経済な話である。それは経済の目的が金に移った証拠である。苦しいからこそ、仲間を見捨てることができないのである。
 経済とは、生きる為に苦楽を共にする覚悟をすることなのである。決して金儲けのための手段ではない。金を儲けることは、仲間を守り、家族を守るための手段である。金儲けのために仲間を売り、家族を捨ててしまうのでは、金を儲ける意味がない。経済の本質が失われているのである。金儲け主体の経済は、魂のない肉体のようなものである。タダ、醜悪なだけであり、いわば怪物である。
 経済は、世の為、人の為にある。だからこそ、働く事に意義があり、喜びが見出せるのである。
 金そのものには意味がない。金は、使い道によって意味が生まれるのである。自分の邪悪な欲望を満たすために金を使うか、人を助け、家族の幸せのために使うかを決めるかは、金を使う者の側の問題である。
 貧しいか、豊かは、金の問題ではなく。心の問題なのである。
 現代社会の病根は、経済を金を儲けることだと錯覚したところにあるのである。経済とは、生きることであり、その人の人生そのものである。如何にして金を儲け、どの様に、金を使うかは、その人の良心の問題である。
 労働の価値は、その人の生き様によって測られるものなのである。

 なぜ、何のために、そして、誰のために働くのか、その答えこそ経済の本質を表しているのである。そして、その答えを自分として選択できるようにするそれが自由経済の本意である。その為に経済的自立を保障するのである。

 なぜ、何のために、そして、誰のために働くのかの答えを金に求めることほど愚かなことはない。答えのない問い掛けを、無限に繰り返すことになる。生き甲斐を金に求めても意味がない。金儲けは手段なのである。目的にはなりえない。勉強は手段なのである。目的ではない。勉強のための勉強は、目的を持ち得ないのである。同様に金儲けも手段である。目的にはなりえないのである。金を儲けてもそれだけでは幸せにはなれない。経済の目的は生きる事なのである。

 貨幣は、非道徳的な物である。市場は非道徳的空間である。神は善悪を超越した存在である。貨幣や市場に道徳を求めるのは愚かである。道徳は、貨幣を使う側にあるのである。道徳を求めるのは家庭や社会である。善悪を決めるのは人間である。その結果に対して責任を持つのは自分である。

 いつから人間は、これ程、働く事を嫌うようになってしまったのであろう。労働を卑しむあまり、労働者と奴隷との見分けもつかなくなってしまったようだ。兎に角、遊べ、休めである。休日をとらずに働こうとすると強制的に休もうとする。先日も、馬鹿な首長が率先して休むと宣言をしていた。
 私は、遊びと労働とは、本質的な違いはないと考えている。要は、楽しんでいるか、金を得ているかの違いである。金儲けは、辛く哀しい、だから、金をもらっているのだと金儲けの言い訳にしているだけに聞こえる。アマチアは、楽しんでいるのだから金をもらう資格はない。プロは苦しんでいるのだから、金をもらう資格があると言いたいのだろうか。
 だから、同じスポーツでもアマチアでいる時は、気楽に楽しめるけれどプロになったら、苦しいだけだと言う事になる。練習が厳しいことは、プロもアマチアも違いがないと私は思う。
 オリンピックでさえ、プロとアマとの境目が判然としなくなり、結局なくなってしまった。オリンピックは、参加することに意義があると言われたのに、金をもらうようになると勝負に拘るようになった。プロは仕事であって、アマチアは遊びだからか。仕事としてやるのは悪いが、遊びなら良いのか。
 つまりは、金を儲けるという手段が生きる目的として目的化してしまったから、問題なのである。そして、スポーツの本質が忘れられてしまったことである。
 勉強も試験に合格することが目的化され、受験は、競技化されてしまった。子供達は、なぜ、何のために勉強しているかの意義が解らなくなった。大人が、子供達になぜ、何のためにと言う問い掛けさえ許さなくなったしまったからである。
 どうして学問の質を問題にすることができようか。
 労働は、喜びである。仕事場は、自己実現の場である。仕事は、生き甲斐である。働く事によって自分が世の中、社会、家族から必要とされていることを実感することができるのである。だから、働く事は権利である。職業を選択する自由は、保障されなければならないのである。

 問題は、労働が苦痛にしかならないような環境や条件である。勉強が子供達にとって拷問でしかないような環境や仕組みが問題なのである。

 我々の祖先は、山の木を切る時、山の神に祈りを捧げ、神の許しを請うた。そして、切り株には、枝を添え木したのである。それが経済である。経済とは、神聖な行為である。それは生きるための活動だからである。その根本にある労働は神聖な行為である。故に、日々働けることを神に感謝し、神に祈りを捧げたのである。それを経済というのである。労働を卑しむ者は、自分の人生を卑しむ者である。

 経済的自立とは、自分の持つ労働という資源を活用して生活に必要な資金を得ることにある。そして、その機会を保障するのが国民国家の役割とするのが自由経済の鉄則なのである。

 経済の本質は、人と物にある。
 今日のように貨幣経済が発達する以前では、日々の糧を得た時に神に感謝し、日々の糧を消費する時に、又、神に感謝した。賃金、給与として貨幣によって労働の対価が支払われるようになると人々は、神に感謝することを忘れた。そして、驕慢になったのである。

 しかし、経済の本質に何ら変わりはない。日々の糧は、神の恵みであり、人々が汗、水垂らして働いた賜物なのである。経済の実体は、人と物にある。金のことばかりに思い煩う現代人は、貨幣という影に怯えているだけなのである。
 我々は、生かされているのである。我々は金によって生かされているわけではない。日々の糧を与えてくれる存在によって生かされているのである。神に対し感謝しながら、日々精励する姿勢を失わなければ生きることの本質を見失うことはない。そして、それが経済なのである。







       

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