経済数学

2 経済数学

2−4 組織の問題


 天地人。天の時、地の利、人の和。そこに組織経済の要諦はある。

 易に太極あり。太極から両儀が生じる。

 道は、一に始まるも、一にしては、万物は、生ぜず。故に、別れて陰陽と為り、陰陽合和して、万物生ず。故に曰わく、一は二を生じ、三は万物を生ず。(「淮南子」天文訓)

 一陰一陽これを道という。

 情報革命の背後には、新しい数学の出現を予感させるものがある。
 新しい数学を予兆させるのは、二進法的空間と新たなアルゴリズム、そして、階層的空間である。
 そして、この新しい数学が情報革命の裏に潜んでいる。産業革命の背景には、組織革命があった。同じように、現代進行している情報革命の根底では、組織革命が同時に進行している。

 意思決定の基本は二者択一である。その意味では、意思決定は二進法の世界である。
 真善美とは、真偽、善悪、美醜である。又、判別の基本は、是非、正否である。いずれにしても意思決定は、二者択一である。それでも曖昧な部分があると思われるかも知れない。しかし、曖昧な部分は、非決断であり、やるかやらぬか、のるかそるかと言う点で言えば二つに一つである。、
 意思決定や情報の場は、二進法的場である。yesかNoか、陰か陽か、いずれにしても二者択一的な判断を表す。
 会計空間は、二進法的場と十進法的場が階層的に重なり合って形成されている。

 二は、認識の始まりである。

 一とゼロからなる二進数は、あらゆる数学の原点だといえる。
 二進数は、意志決定体制や論理の基盤である。

 二進数では、負は補数である。
 二進数において、正と負は補数関係にある。正と負が補数の関係にあることは、二進数が数学の始源であることを意味する。又、この関係によって事象の均衡は保たれるのである。

 ゼロには、基準のゼロ、位取りのゼロ、無のゼロがある。
 はじめに一、二が生じ。次ぎに、ゼロ、一が生じた。ゼロが発見される以前は、一、二。ゼロが発見された後はゼロ、一。
 一と二は、個別の一と二であり、独立した一と二であり、数としての一と二である。ゼロと一は、無か、有か、或いは、ゼロから一、即ち、任意の地点までを意味する。そこから、三つの方向に数学は分岐した。離散数と連続数に分岐し。更に、是か非か、或いは、任意の基準、単位とに分岐したのである。またいずれにしても、一には、全体と部分の意味がある。

 そして、意思決定、論理の仕組み、メカニズムは、イエスかノーか、是か否か、つまりは二進法によって成り立っている。それはアルゴリズムと数学とを結び付ける原点でもある。故に、二進法こそ数学と現実の世界との接点だといえるのである。

 我々の生活する空間は、十進法によって支配されている。その為に、知らず知らずのうちに十進法を基礎とした思考に慣らされてしまっている。
 情報通信工学の世界は二進法の世界である。そして、この二進法の世界から、新たな数学が生み出されようとしている。
 実は、この事が我々の思考回路の中に重大な変化を引き起こしているのである。そして、この二進法的論理は、人間の意思決定等直接的に結びついている。
 それは、数学的な発想を我々の生活に直結する働きがある。それが情報革命の本質でもある。それは従来の数学の枠組みを越えて数学が我々の世界に入り込んでくることを意味している。それが新しい数学を生み出す原動力なのである。

 情報、通信の世界では数学は観念ではなく現実である。そして、現実が観念より優先される世界である。故に、プログラムのような体系を数学の大系として認識する事ができないでいるのである。
 しかし、プログラム言語は、数学の一種と見なすべきなのである。

 情報や通信の世界は、論理的空間である。そして、情報や通信の世界では、集合の論理関数がごく自然に活用されているのである。

 これらの発想は、ネットワークやプログラムの技術を通じて直接的に現実の世界に反映されている。ここでは、数学は抽象的な概念ではなく。現実なのである。
 プログラムは一種の方程式である。

 プログラム言語は、数学の一つの方向を示している。数量から離れ、働きを核とした数学の在り方である。

 例えば、情報工学の世界では、関数とは、決められた処理を行う命令の集まりである。関数に関する従来の数学の考え方とはまったく異質な思想がある。

 情報工学における等号が意味するのは、同じであるではなく。同じとするである。この点にも従来の数学には見られない発想がある。
 等号の意味は、単に等しいという意味を表象しているだけでなく。代入という概念を基礎としている。そして、従来の等しいという機能は、前提条件があることによって成立する。

 又、変数とは、何等かの値を入れるための器、文字通り、空間である。値とは、数値のみを指すのではなく、象徴化された、記号化された情報である。象徴とは、対象から抽象され何等かの要素である。要素とは、性質である。
 そして、変数の性格は、変数を成り立たせている条件、要件によって決まる。つまり、変数の性格が限定、絶対化されるのではなく、条件付けられる事によって相対化されるのである。

 定数というのは、名前を付けられた値、或いは、名前によって特定された値を言う。翻って言うと定数とは、値に付けられた名前である。

 論理を構成する部分は、即ち、単位は、入力、演算、出力によって形成される。
 論理を制御する仕組みは、第一に、順序、第二に、条件、第三に、反復、繰り返しである。つまり、条件に基づいて判断し、順次に実行すると言う事と、同じ事を繰り返すという事である。部分の順序が重要になるという事は、配列が意味を持つことになる。

 この様に個々の部分極めて単純に作られている。だからこそ、複雑な処理が可能となるのである。

 この様なことを鑑みると、情報通信工学の世界から、まったく新しい数学が生まれようとしている事が予兆される。
 それは、数量から数学が開放され、働きを基盤とした数学が、インターネットやプログラム技術と言った情報技術を通じて現実の世界の中で実現しつつあることである。
 情報産業の発達は、無形で抽象的世界にひきこもりがちだった数学に肉体を与え、新たな魂を吹き込もうとしている。

 情報系において重要な要素の一つに階層性が上げられる。
 情報系を支える数学の基礎は、群論である。群は集合であり、集合は空間を生み出す。そして、その空間が階層を形成するのである。その為に、新しい数学には、階層が重要な役割を果てしている。

 例えば、インターネットは、一般に七つの階層を持つと見なされる。第一層が、物理層。第二層が、データリンク層。第三層がネットワーク層。第四層が、トランスポート層。第五層がセッション層。第六層がプレゼンテーション層。第七層が、アプリケーション層である。
 さらに、第一層から第二層までがネットワーク・インターフェイス層、第三層がネットワーク層、第四層が、トランスポート層、第五層から第七層までがアプリケーション層を構成する。

 情報系は、空間を構成する。情報系が形成する空間は、ベクトル的空間である。ベクトル的空間であるという事は、線形的空間でもある。
 つまり、距離と時間が重要な働きをする。距離とは、単に、物質的距離を指すのではなく、価格や作業と言った観念的な距離も意味する。この様な距離を定義するのは、その場その場の前提条件、要件である。故に、情報系の定義は、原則的に要件定義となる。

 情報系は、線形的的空間を形成するため図形によって表現する事が可能となる。

 組織は、情報系の一種だと見なす事もできる。
 故に、組織効率は、情報効率でもある。そして、情報工学の発展が組織革命を促しているのである。

 組織は、二進法とアルゴリズムのによって成り立っている。

 組織とは合目的的な機関である。機関とは、自律的仕組みである。
 組織は、全体であり、部分でもある。
 組織は、自立していなければならない。つまり、意思決定、統制、制御、保護の機能を持っていなければならない。

 組織は、集合である。組織は、複合的集合である。組織は、幾つかの要素が複合された集合である。
 まず第一に、組織は、人の集合である。第二に、働きの集合である。働きの根本は仕事である。第三に数の集合である。第四に権限の集合だと言う事である。これらは独自の場を構成し、階層化する。
 仕事の集合とは、作業の集合である。

 組織という言葉から何を想像するであろうか。
 組織図やネットワーク、フローチャート、相関図ではないだろうか。組織からイメージされるのは、図形化された組織の姿である。
 組織は、グラフ、ネットワークと言った図形によって表現することができる。又、図形化する、即ち、視覚化することによってより組織の概念を深化する事が可能となる。

 組織を成立されているのはアルゴリズムである。アルゴリズムを定型化し、具象化したのが手続である。そして、それを管理するのが事務である。

 従来の組織では働きよりも数が基本とされてきた。組織の論理とは数の論理である。しかし、その数の論理が急速に崩壊し、数の論理から機能の論理に取って代わろうとしている。つまり、衆を束ねる長制度からそれぞれの役割や働きを中心とした職務制度へと変貌しつつあるのである。そして、その過程で近代スポーツは成立した。
 その好例が軍事である。軍は、数の力から性能と力へと急速に変わりつつある。それに伴って軍事思想も変わりつつあるのである。

 組織におけるゼロの位置が重要なのである。

 組織は、人の集まりである。即ち、集団である。組織を動かすのは人である。人が系統だって動くことによって全体は、一体となり秩序だって動くことが可能となる。
 人を点だとすると組織を構成する点は、先ず人としての要素と役割からなる。組織の占める位置なよって定まる働きが職務である。職務は、仕事として実現する。仕事は作業の集まりである。

 人が系統的に動くためには、それぞれの役割を明確にする必要がある。組織を構成する部分の要素には、5W1Hがある。
 なぜ、何を、誰が、どの様に、何時するのか。それに費用が加わる。それが組織の一点を構成する要素である。
 なぜとは動機、動因を意味する。何時とは時間、時刻、始点、終点などを意味する。何をは、物を意味する。どの様には手段、操作、行為、作業、動作である。これらの要素が組み合わさることによって組織は統制のとれた全体としての動きが可能になるのである。

 組織はネットワークである。組織の機能は、共通、共有した部分と固有の部分とから成る。
 共有部分は、普遍的、一般、日常的、平時的、定型的、受動的、汎用的部分と言い換えることができる。固有の部分は、専門的、特殊、非日常的、有事的、非定型、能動的、合目的的な部分とも言える。

 組織が形成する階層には、場の規範部分と働き部分の二つの場ががある。働き部分では、第一に、共通部分、第二に、固有部分の二つか場が形成される。

 場の規範を形成する場は、組織を運用するための基準や決まりを定める働き。民主的組織では通常会議体を指す。
 会議体を司る役割には、会議を取り仕切る議長、記録を受け持つ書記からなる。
 法や規則の制定、改廃は、手続に則って行われる。

 企業では、資本家層、経営者、役員層、実務家層というような階層が見られる。
 働きの場を構成する第一の共通部分には、組織の仕組みを維持するための働き。共通部分の働きには、第一に、組織管理。第三に、統制、制御。第四に統一がある。
 第二の固有部分は、組織の目的を実現するための働きをする場である。

 組織は、動かなければその機能を発揮し、目的を達成することはできない。組織全体を動かすのは、組織を構成する部分の人である。個々の人の動きが組織全体の動きを決する。

 組織を実際に動かす働きには、全体(仕事、作業)の統御、人の制御、物の管理、金の運用、外部との接続がある。

 通常これらの名称は全体の統御を総務、人の制御を人事、物の管理を管理、金の運用を経理、外部との折衝を渉外(営業)等とする。

 人は、能力、実績、意欲があり、適正や能力は、配置によって、実績は、評価によって、意欲は、教育によって測る。
 作業を測る基準には、正確さと速度がある。

 人、物、金は、運営、管理、経営によってなされる。

 交換と分業は、経済の構造化の端緒である。

 組織や会計は、自己相似的集合である。自己相似的集合である故に、一般化され、標準化され、平準化され、部品化することが可能なのである。又、互換性もあるのである。

 組織は、合目的的体系である。組織の目的は、事業にある。事業とは仕事の集合体である。故に、仕事から組織を見ると組織は時間と仕事の関数である。
 組織を仕事という観点から見ると、仕事も一つのネットワークとしてみることができる。
 組織は、合目的的作業の集合体である。
 全体の事業は、複数の単位作業から成る。単位作業には、始点と終点がある。そして、作業には、構造と配列がある。つまり、始点と終点以外の単位作業には、前後の作業がある。
 始点は、開始手続があり、終点には終了手続がある。手続とは、定型化された一連の作業である。
 組織的作業は、複数の並行作業からなり、作業の分岐点と集合結合点が複数存在する。
 作業は、人、物、金、時間、仕事、場所の要素から構成される。これらの要素は、それぞれ独立した部分、場を形成する。

 又、作業は、自己相似的であり、順序が重要となり、条件によって処理が変化する。又、基本的には、作業は、単純、反復、繰り返しである。
 
 プロ野球を例にすると、プロ野球リーグがある。プロ野球リーグ、プロ野球球団とリーグの運営組織、審判団の集合である。プロ野球球団は、プロ野球チームとフロントの集合である。野球チームは、一軍と二軍の集合である。チームは、監督、コーチと選手集合である。野球は、ルールの集合である。野球は、守備位置の集合である。野球は、打撃の順序集合である。野球は、選手の集合である。
 この様に、プロ野球組織というのは、幾つかの要素が階層的に複合された集合である。

 何でもかんでも大きければいいと言うわけではない。規模による利益のみを追求する時代は、過ぎたのである。
 アメリカは、本来、スケールメリットの追求と同じくらい分立を重んじる国である。集中と分散、一見対立した概念を統合する概念こそ、仕組みにあるのである。そして、それが民主主義の原理である。

 組織効率は、単に、生産効率ばかりに求められる基準ではない。組織効率は、生産効率、分配効率、消費効率の均衡によって求められる。そして、組織に於いて生産、分配、消費の効率を均衡させるためには、情報効率が重要な働きをしている。故に、組織効率は、規模の拡大ばかりを追求しても高まらない。組織には、適正な規模があり、その規模の範囲は、情報の伝達速度によって決まる。

 組織を効率よく制御するためには、組織は、基本的単位に分割する必要がある。基本的単位に分割された集団を制御・管理する仕組みが組織である。即ち、組織は、線形的、階層的な集団である。

 また、分配の効率とは、労働と生産、消費をいかに効率よく結び付けるかにある。

 組織効率という観点からすると規模の拡大は、効率を低下する場合が多い。それは、管理部門の範囲の拡大と情報伝達の速度の問題に関連する。
 又、同様に、分配という観点からも組織の拡大は、効率を低下させる。合理化がともすれば人員の省略化に繋がるからである。
 大量生産型社会が必ずしも効率的社会とは言えない。
 その典型が市場の効率である。市場の効率を突き詰めてしまえば、独占、寡占に至ることがある。競争煽り、競争を過熱化させることよりも如何にして、競争状態を保つかが重要になる場合がある。

 競争にも物の価値を規定し、価格によって競争させる場合と価格を規定して物の価値で競わせる仕方がある。単純に競争を価格だけに限定する必要はない。

 市場は、取引を通して情報を伝達する場である。取引の前提は、競争である。競争が働かない市場取引は、一方的な伝達に過ぎない。競争によって相互牽制作用が機能するのである。
 競争関係を維持するためには、適正な数の競合関係が求められる。適正な数は、市場の規模と、範囲と取引量によって規制される。
 過度の競争、過当競争は、かえって市場の寡占、独占を促進する。寡占、独占は統制経済を招く。
 統制経済は、国家独占を意味し、国家独占の典型は、従前の共産主義における計画経済である。むろん、共産主義体制や社会主義体制でも市場経済を機能させることは可能である。

 組織にとって重要なのは、情報を共有する事である。自分一人、解っていればいいと言うのでは組織は動かない。組織というのは、言い換えると共同作業の集まりなのである。共同で作業するためには、共通の認識、情報を共有する必要がある。自分一人解っていて、自分一人納得しているのでは、組織は必要とされないのである。だからこそ組織は、目的を明確にする必要が生じるのである。
 その為に、一つの仕事を幾つかの要素に分解し、共同で作業をしなければならないような仕組みを構築するのである。それが分業の基本であり、分業を支えているのは、情報である。

 組織効率は、集中と分散によって計られる。集中と分散という相反する働きを調和させるのは組織の仕組み規則である。故に、組織には、統制と規律が重要な役割を果たしている。
 組織の集中と分散は、組織の在り方、即ち、集権的か、分権的かによって決まる。組織の集中度や分権度の適正は、一概に規定されるものではない。集権的な組織が是か、非か、分権的な組織が是か、非かは、組織の置かれている環境や組織を形成する目的によって違ってくる。

 組織には、目的から構築される演繹的組織と外的環境から導き出される帰納法的組織がある。
 集権的組織は、組織は、統制と規律によって制御される。集権的組織の原則は、上意下達である。軍事組織は、規律と統制を重んじる。それは、軍事組織が演繹的な組織だからである。軍隊にとって命令は絶対である。しかし、この様な軍事的組織が総ての組織に当て嵌まるとはかぎらない。
 民間企業は、外的環境に素早く適合することが求められる。その為に、個々の局面状況に合わせて自律的に判断することが要求される。この様な企業は、分権的で帰納法的組織の方が適合している。 

 貨幣は、情報を伝達するための道具である。人と人、人と物の関係を結び付ける為の手段が情報であり、その道具が貨幣である。

 現代人は、経済的組織というと金銭的な繋がりのある組織と限定しがちである。しかし、経済的組織にも非貨幣的組織は、多くある。むしろ、非貨幣的組織の方が、経済の基盤となっている例が多い。
 経済的組織というのは、本来、共同体である。その好例が家族である。
 近代という社会は、共同体を否定するところから出発している。その為に、共同体と経済とが効率よく結びついていない。
 単純に考えても、経済を構成する労働、分配、消費の三つの要素の内の一つである。消費の部分は、非貨幣的要素が強い。

 分配には、組織的分配と市場的分配がある。組織的分配は内的分配であり、市場的分配は、外的分配である。
 市場的分配は、交換行為を介した分配である。交換される物は、常に同等に価値を有するという合意が前提となる。交換的分配に置いて貨幣を介して行われる交換を貨幣取引と言い、直接物と物とを交換した場合は、物々交換という。

 内的分配と外的分配を区分する基準は、共同体にある。内的分配は何等かの基準に基づいてなされ外的分配は、取引を通じて為される。そして、交換のための手段が貨幣なのである。

 経済が社会的に未分化されていた時代は、自給自足を原則としていた。その時代には、貨幣は、基本的には、必要とされていなかったのであり、その時代の貨幣は、現代の貨幣と違う機能、即ち、交換的機能よりも象徴的機能や呪術的機能、儀礼的機能の要素の法が強かった。

 市場が成立し、市場に貨幣が用いられるようになると交換が促進され、分業化が深化した。交換は、社会的分業を促すのである。
 建設業なども、つい最近まだ、半農の従事者が多くいた。建設の仕事があると建設の労働に従事する。仕事がないときは農業するという具合である。問題は、建設の仕事が、一時的、臨時的な仕事か否かである。建設の仕事が恒常的な仕事に転化すると専業者が出現するのである。
 何も建設業だけではなく。かつては、出稼ぎが一般に行われていた。今でも季節工のような仕事がある。
 かつての農民は、税も物納か使役で納めていた。貨幣が一般に交換の手段として定着したのは、比較的近い時代のことである。
 貨幣が定着する以前の組織というのは、非貨幣的集団である。

 かつての日本では、狩りに行って捕った獲物を皆で分配し、家を建てるときは、村中総出で建てた。それ以前は、家そのものも複数の家族で集団生活をしてきた。それが経済の原点なのである。組織とは、本来生活共同体の側面を持っている。その上での機関なのである。
 近年、組織が単なる機関に化してしまった。それが組織効率を低下させている要因の一つなのである。
 経済には、貨幣に換算できない部分が多くある。早い話、家事労働を総て外注すれば家計は成り立たなくなる。財政も同様である。国家の仕事を総て貨幣に置き換えたら、財政が破綻するのは必然的帰結である。







       

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