経済数学

4 貨幣的経済と数学

4−1 貨幣とは

 貨幣、即ち、お金というのは不思議な存在である。

 貨幣というのは、貨幣価値の割り符みたいな物である。貨幣それ自体は、価値を持たない。価値は、何か他の物と交換される行為に対して価値を持つのである。ある意味で交換価値を純化した物である。

 数の概念は、数単独に成り立つ概念ではなく。自己と対象と関係や認識の操作から派生する構造的概念である。これは言語も同様である。故に、数も言語も操作によって成り立っている体系のである。
 主観的数の観念と対象のもつ形式的属性が結びついた時、数の概念が確立される。

 貨幣は、経済的価値を数字に置換するための手段、道具である。貨幣は、基本的に物を使用する。故に、貨幣は、物としての制約を受ける。表象貨幣は、急速に、情報化、即ち、記号化、電気信号化している。即ち、無形化している。その為に、物としての制約から開放されつつある。しかし、それでも本質的な部分でまだ物としての制約を受けている。

 表象貨幣を構成する要素は、量と数、数字、貨幣である。数量は、数と量によって構成されている。量とは、長さとか、体積、面積、質量、温度、時間と言った何等かの実体を持つ全体からなる。量は比である。数というのは、他と明確に区別できる部分の集合である。数字は、数を表象した記号である。数量は、数字化されることによって演算が可能となる。
 表象貨幣を構成する要素は、各々、固有の制約がある。即ち、量には、量の制約があり、数には、数の制約があり、数字には数字の制約があり、貨幣には貨幣の制約がある。
 量には、一つは、長さや面積、質量、時間といった物理的な制約がある。もう一つの制約は、量は、同じ種類の単位を共有する対象間でしか、演算ができないという事である。例えば、労働量と生産物を足したり引いたりはできないという事である。
 数の制約とは抽象化による制約である。対象を抽象化するために、対象の持つ属性が削がれてしまう。
 数字化による制約は、記号による制約である。記号化されることで、数字によって数が具現化され、固有の属性を持つ事が可能となる事である。
 数字は、際限がない、物理的制約を受けないという事である。理論的に言えば天文学的な価格をつけることも可能である。
 貨幣は、経済的価値を数字に置き換えた物である。数値的価値を物に置き換えることによって交換が可能となった。
 反面、物に置き換えた事で貨幣は、物としての制約を受ける。即ち、貨幣は、物であることによって貨幣が表象する価値は、自然数と言う制約を受けることになる。そして、貨幣を基礎とした会計は、結果的に残高計算が基本とならざるをえなくなる。それが複式簿記会計の成立要件となるのである。

 単位とは、任意の量である。当初、単位は、今日の様に定められた一定の量ではなく。必要に応じて任意に定められる量である。今日でも、貨幣単位にその名残がある。

 貨幣は、属性を持たない、無次元の量である。

 貨幣というのは、決済の道具、手段なのである。貨幣は、決済のための道具であり、支払のための準備である。そして、貨幣は、支払準備だからこそ価値を持つ。支払のための準備であるから、支払のための保証が必要である。即ち、貨幣は何を担保としているかである。金を担保としているのが金本位制である。また、不兌換紙幣の発行とは、国家の信用、支払い能力を担保して発行されるのである。国家の信用を裏付けているのが土地と言った国の資産や徴税権、或いは、次の年の収穫等、そして、国が発行する債券、国債である。
 又、通貨圏間の決済は、外貨準備に依って為される。
 金本位のように実物貨幣の場合は、金をもって通貨間の決済に使用する事が可能である。しかし、変動為替制度では金を共通の通貨として使用することができない。その為に、基軸通貨が重要な役割をしている。
 通貨圏の取引に用いられる基軸通貨も貨幣の信用を裏付ける重要な要素である。

 貨幣は、貨幣単体で価値を形成する物ではない。貨幣価値は、取引によって生じる。取引とは、財と貨幣、貨幣と財、財と財、貨幣と貨幣を交換する行為である。
 この様な、財と貨幣、貨幣と財、財と財、貨幣と貨幣から生じる権利や責務、即ち、債権と債務が貨幣価値を構成するである。
 故に、貨幣の流量が問題なのではなく。貨幣が生み出す貨幣価値の総量が問題なのである。貨幣価値を生み出すのは取引である。つまり、取引は媒介する物として貨幣には、重大な役割があるのである。

 貨幣は、財と結びつくことによって量を持つ。貨幣は、財と一体となっる事によって貨幣価値を持つ。
 量は比較によって成立する。故に相対的である。
 貨幣は、貨幣価値を指し示す値であり、財は、交換価値を形成する実体である。即ち、貨幣価値の本質は交換価値であり、貨幣価値とは、交換価値を数値的価値に置換した値である。
 故に、財は量としての次元を持つ。貨幣空間とは、物理的空間に貨幣軸が加えられた空間である。貨幣価値は、物理的量と貨幣単位とを掛け合わせた値である。故に、貨幣は一つの次元を構成する。
 交換価値というのは、主体的価値である。主体は、自己の本性である。主体は自己に宿る。交換価値の本質は、自他の関係より生じる。故に、交換価値は、市場を媒体とするのである。

 貨幣価値は、交換という属性を持つ。交換という属性が正と負の働きを生み出す。この関係が理解されてはじめて貨幣経済は関数として確立される。

 貨幣は、交換価値を等質の値に変換するための手段、道具である。つまり、媒体である。
 貨幣価値は、交換取引によって実現する。
 貨幣経済では、量を比較して、値を決める場が市場である。故に、市場は一つの機関である。そして、貨幣経済下の市場は貨幣取引によって成り立っている。

 貨幣取引とは、貨幣と財との交換を意味する。

 貨幣は、交換価値を仲介する媒介変数(パラメーター)である。
 貨幣単位は固定的単位ではなく、変動的単位である。貨幣単位は、量的単位ではなく。操作的単位である。

 財の価値は、前提条件によって変わってくる。価値は、何かを基準として成り立っている。その基準の設定の仕方によって財の価値は違ってくる。

 食事を例にして考えてみよう。食事代として一人あたり五千円は大金かという問題を考えてみよう。それが朝食なのか、昼飯なのか、晩餐なのかで違ってくる。又、何等かの記念日なのか、或いは大切な人を招いての食事なのか。例えばその国の生活水準や物価も為替相場によっても違うだろう。この様に前提によって違ってくる。その根本は、何と比較してと言うところに行き着く。

 数には、一つ二つと数えられる数と、一つの全体があって、その一部分を一として分割する事によって成り立つ数がある。前者は、個としての数であり、後者は比としての数である。貨幣は、本来、後者である。

 数というのは、数えるとか、比較するという操作によって形成される。即ち、数は、操作的な概念である。数は、比較するにせよ、何と比較するか、又、数えるにせよ何によって数えるかが、重要となる。即ち、何を基準とするかである。基準とは単位である。
 その上で、なぜ、比較するのか。何を数えるのかによって比を求めるか、数、即ち、差を求めるかを決めるのである。

 貨幣は、経済的価値を統一するための手段である。

 貨幣制度とは、個々、多様な財を任意な基準によって統一された場に変化するための仕組みである。財の価値が均質に変換されることによって事によって異質の財の間の演算が可能となる。例えば、自動車とホテルのサービスを足したり、引いたりすることが可能となるのである。

 対象から数を抽象化するというのには、何等かの目的がある。なぜならば、数は、操作的な概念だからである。その典型が貨幣である。貨幣は、物的価値を取り除いてしまえば、無次元の量になる。

 貨幣は、財の交換価値を表象化するという目的によって数を抽象化された物である。

 貨幣価値に還元し、企業実績を分析しようとした場合、比率が重要な意味を持つ。それは、貨幣がパラメーターだからである。

 経営を分析する比率には、推移比、構成比、回転率、相関比、同業者比、平均偏差等があり、目的に応じて活用する。

 貨幣は、負としての作用を持つ。財は正としての作用を持つ。

 即ち、貨幣取引は、貨幣の流れる方向とその反対方向に流れる財の二つの流れによって成立している。それは、債権と債務の流れの根源ともなる。

 一つの取引に対して二つの行為を成立されるためには、貨幣に対する志向と財に対する志向が必要である。

 この貨幣に対する志向と財に対する志向は、主体性から発生する。故に自己による。貨幣に対する志向は自己が売り手となることを意味し、財に対する志向は、自己が買い手になることを意味する。
 自己が買い手となれば必ず対極に売り手となる相手が存在することを意味し、自己が売り手となることは、必ず対極に買い手となる相手がいることを意味する。自己を市場に写像する事によって売り手と買い手の関係は客体化される。
 そして、この売り手と買い手の関係は、複式簿記の下地となる。

 現金というのは、貨幣価値を実現した値、或いは、現在的貨幣価値を指し示す物である。

 金。金。金。我々を取り囲む生活はお金を抜きには考えられない。お金に取り囲まれて生活していると言っても過言ではない。しかし、実際の手持ち資金というとそれほど多くはないのである。

 商店には、沢山の商品が溢れている。我々は、買い物に行くと商店の棚に並んでいる商品全てに価格が設定されていてそれだけの価値がある。つまりは、お金と同じ物が並んでいると錯覚に陥りがちである。しかし、実際には、取引が成立しない限り貨幣価値は、生じない。しかも、取引が成立し、現金の受け渡しが終了するとその直後から商品価値、即ち、商品の貨幣価値は劣化しはじめるのである。
 その上、流通性が乏しかったり、すぐに陳腐化する商品、鮮度が重要とされ商品は、貨幣価値その物を喪失してしまうことさえあり得るのである。そうなると貨幣価値とは何なのかという事になる。

 豚に真珠、猫に小判と言うが、猫や、豚は、真珠、小判のために殺し合いをしたりはしない。人間と豚や猫、どちらが真珠や小判の価値を知っていると言えるのであろうか。

 何千万円もする高級時計を盗んでも換金できなければ貨幣的価値は生じない。そして、盗人にとっては、盗人が手にした現金が盗んだ高級時計の価値でしかないのである。
 2006年、4億円はするだろうとされるヘンリー・ムーアの彫像が盗まれ、鋳潰されて22万円で売り払われたという事件が起こった。4億円のヘンリームーアの彫像も盗人にとって価値は、22万円の価値にしかならないのである。

 つまり、貨幣価値を決めるのは貨幣ではないという事である。貨幣の背後に存在する財である。それは、人々のとって必要な物や用役を指しているのである。

 何のために、道を拓き、鉄道を敷き、堤を築き、空港を作り、運河を穿ち、トンネルを明け、水道を通すのか。金のためではない。金は本来の目的ではないのである。それを忘れてはならない。

 経済において何を護るのか。経済によって護るべきものを失うとしたら本末転倒である。金は生きる為に必要なのであり、金のために命を捨てるのは愚かな行為である。

 現代という時代は、貨幣経済を前提とした時代である。だからこそ貨幣の持つ真の意味を正しく理解しておく必要があるのである。

 貨幣というのは、その時点での貨幣価値を表示した物である。現金とは、その時点での貨幣価値を実現した物である。

 なぜ、通貨を無制限に発行できないのかというと経済財が有限だからである。逆に言うと通貨が無制限に発行できないことは、経済という現象は閉じられた空間の現象であり、経済財に限界がある証拠だと言える。

 もう一つ重要なことは、貨幣価値は、指標的な価値であり、表示された数値は指標を象徴した物だと言うことである。つまり、貨幣価値は、従属的な価値だという事である。
 貨幣価値は従属的変数であり、独立変数にはなりえない。その様な貨幣価値は、比を表したものである。

 貨幣は、対象から象徴化された数の上に成り立っている。

 現代社会において貨幣の働きを知るためには、現代社会がどの様な仕組みによって貨幣を生成し、流通、循環させ、回収しているかを明らかにすることである。

 現代社会制度においては、財政、家計と企業会計との間に制度的な連続性がない。財政と家計は、現金主義に基づき、企業会計は期間損益主義に基づくからである。

 財政と企業会計とは制度的に断絶している。

 なぜ、中央銀行に発券機能を持たせる必要があるのかというと財政制度と企業会計制度には、制度的連続性がないからである。

 貨幣の働きにとって貨幣の生成、流通、回収の仕組みは決定的な役割を果たしている。貨幣の生成とは、貨幣の発行であり、この段階で貨幣は、性格付けられる。そして、流通を担うのは、金融機関であり、回収は政府が分担する。

 この点を考えると貨幣の働きは、中央銀行の財務構造を分析すればある程度解明できる。
 重要なのは、貨幣は、中央銀行にとって資産ではなく、負債だと言う事である。それは国家財政の性格にも影響を及ぼしている。

 また、貨幣の流れは、家計と企業、銀行の決済書の構造を照合すると見えてくる。銀行では、家計や企業から預かる預金は負債なのである。家計、企業から預かった貨幣を資金が不足する企業や家計に貸し付けることによって資金を循環するのが金融の役割である。循環させるための誘因が金利なのである。

 元々、市場価値というのは、市場取引に付随した補助的価値に過ぎない。それは、貨幣の働きをも制約する。貨幣は。補助的手段に過ぎず。貨幣価値は、経済全体を規定するものではない。

 貨幣価値というのは、人間の意識が生みだした価値なのである。

 複式簿記の原則に従えば、貨幣価値は、取引によって生じ、借方、貸方勘定は、常に均衡する。即ち、取引勘定によって生じる貨幣価値の総和は、常に零(zero-sum)なのである。

 期間損益、即ち、複式簿記を基盤とした経済は、必ず、対極の勘定を見なければ判断できない。
 正には負、負には正、陰には陽、陽には陰の勘定が対応している。
 収入には支出が、消費には所得が、債権には債務が、売りには買いが、貸しには借りが、受取には支払が、対応しているのである。

 貨幣の流れには、波がある。貨幣の流れの波は、経済の不安定要素である。その波を整流するのが経済主体である。
 経済主体には、貨幣の流れは、収入と支出として現れる。収入と支出を期間損益に置き換える事によって資金を調節するのが、経済主体の役割である。

 貨幣は、資源となった時、資金となる。

 資金の流れで重要な事象は、流れる方向と流量と速度である。
 多くの人は、貨幣価値を静止した価値、外形的価値から判断しようとする。外形的価値というのは、例えば、決算書に表示された価値である。しかし、貨幣の実際の働きは、取引に関与した時に発揮される。故に、資金の流れをいかに捉え、計測するかが重要となる。

 経済において、静的な要素と動的な要素を分けて捉えることが重視されているのは、決算において損益と、貸借とをなぜ分けたのかを考えると解る。
 つまり、現在の市場経済は、期間収益を基軸とした経済体制だと言え事である。だから、期間費用が重要なのである。期間収益に貢献しない物は、経済行為から除外する思想なのである。そして、その基盤、根拠は、市場取引の実績を素としていることである。故に取得原価主義を原則としている。
 それは、市場取引を介さない取引を経済的な価値の根拠とすると経済的価値とすると恣意性を妨げないからである。

 元々、会計的価値は、計算上に現れた数値である。
 会計上の事象と現実の事象とは、異質な事象であり、必ずしも一致しているとは限らない。事実は、清算してみないと明確に現れないのである。
 期間損益は、あくまでも会計的事実を根拠とするという合意に基づいているのである。

 当座型企業を基本要素とした経済体制から継続型企業を基本要素とした経済体制に変化したときから会計の本質は変わったのである。当然、会計制度を基盤とした市場の質も変わった。そして、期間損益が確立されたのである。

 当座という一回限りの事業を、事業が完結した時点で清算する思想から、継続事業として、基本的には、期間を永続的な長さ、即ち、無限の先まで引き延ばした時点で、損益、貸借関係は積分となり、利益は、微分となった。
 しかも、清算されない限り、事業の実際は、実績と照合されなくなり、期間損益は、純粋に計算上の数値現象、即ち、数学的現象となったのである。

 問題は、その様な会計の関数的関係によって資金の流れがどの様な影響を受け、また、どの様な運動、働きをするかである。

 資金の流れは、収入と支出によって連鎖的に伝わっていく。収入と支出は、表裏をなす作用である。つまり、ある経済主体の支出は、受け手の側の収入となり、また、収入は、出し手の側の支出となる。又、貨幣の流れの逆方向に財は流れる。この運動が貨幣の流れと物流の流れの基本行き関係である。財の価値は、一度、貨幣に換算されるとそれが、貨幣価値の元と見なされる。それが歴史的原価(historical cost)である。

 企業収入は、借入と増資、収益の和であり、支出は、貸出(預金)、投資、費用の和である。家計の収入は、所得と借金であり、支出は、消費と貯蓄、借金の返済、税金である。財政の収入は、税収と事業収入、国債であり、支出は、投資と費用、国債の返済である。

 資金には、短期的な周期で回転する短期資金と長期的周期で回転する長期資金がある。短期的資金は、消費や消耗品などの財を対象として資金であり、長期的資金は、不動産や設備、耐久消費財などを対象とした資金である。
 短期的資金と、長期的資金では、資金の運用から派生する働きに違いがある。一つは、時間的価値である。もう一つは、貨幣価値の質の問題である。消費や消耗品は一時的な価値しかもたないが、不動産や設備、耐久消費財は、持続的な価値を持つことになる。その為に、長期資金の流れは債権と債務を生み出す。必然的に長期資金と短期資金とでは働きに差が生じる。

 この様な資金の流れる方向は、長期資金の働きにも影響する。長期資金は、潜在的経済価値を形成する。長期資金は、マグマのように経済の地底を蠢いている。

 又、短期的資金は、費用として処理されるが、長期的資金は、債権(資産)、債務(負債)に計上された上、利益処分、資本(純資産)によって清算されることになる。

 企業会計では、総資本、総資産の増減によって資金の流れる方向を見極めることができる。総資産、総資本の現象は、資金が返済、回収方向に流れていることを意味し、総資産、総資本が増大していることは、資金が、投資、運用側に流れていることを表している。

 家計では、短期資金は消費として可処分所得から処分され、長期的資金は、固定的支出として処理される。

 金融機関は、短期資金を集めて長期的資金に運用する働きがある。

 銀行に対する取り付け騒ぎは、資金の流れ回収側に促す事象です。それは、短期資金の急激な流動化によって長期資金が融解するからである。

 また、収入や支出には波がある。得に、収入には、大きな波があり、しかも、波の形成には、予測が難しい要素、不確実な要素が多く作用する。それに対して、支出は固定的なものが多い。
 収入は不確実なのに、支出は待ったなしに要求される。不確実な収入をある程度固定的なものとし、固定的な支出に対応させようとするのが企業などの経済主体である。

 即ち、企業は、波のある収入を調節して支出を整流する働きがある。
 企業は安売りのためにあるわけではない。

 収入と支出を一定化する操作の過程で期間損益が計算され、費用が確保されるのである。費用は、所得と消費と表裏をなす勘定である。つまり、費用を基準にして収益は計られるのである。その目安が利益である。利益が上がらなくなれば、収益構造を見直す必要がでてくるのである。ただし、それは、単純に費用や人員の削減に結び付ける事を意味するのではない。なぜならば、費用は、社会的観点から見ると所得と費用の源泉だからである。

 所得は、経営主体によって定収化される。それによって安定的な収入が家計は、保証されることになるのである。

 紙幣は、債務、即ち、負債の根源である。元来、紙幣は、公的債務、即ち、借金である。紙幣が供給されるのに従って債務、即ち、負債と担保、即ち、資産は増大する。紙幣が回収されるのに従って負債と資産は減少する。
 紙幣を発行する際に担保するのは、国債である。国債が担保しているのは、将来の税収と事業収益、国有財産である。
 国債が無原則に増大するのは、借金の技術が稚拙だからである。

 投資の側に資金が流れれば、実質的価値が増大するのと同量の名目的価値、即ち、負債が増大する。貨幣価値を増やす手段は、実質的市場に資金を廻すことだが、それ以外に元金を担保して借金をする事でも可能である。実質的市場に資金を回せなくなると金融機関は、名目的な負債を増やすことで貨幣価値の増殖、即ち、収益をあげようとする。

 家計の金融資産は、金融機関の負債であり、金融機関の負債は、企業の負債であり、企業の負債は、他の企業と家計の所得なのである。

 家計の消費は、支出であり、企業の所得、収入となる。家計の貯蓄は、金融機関の負債となる。家計の借入は、金融機関の貸出、投資であり、企業の収入、所得に転化する。

 借入金の返済も、預金も資金の流れから見ると同方向に流れる行為である。ただし、借入金の返済は、強制力を持つが、預金は、選択的だという違いがある。

 消費も、借入も、投資も、資金の支出という点では、資金の流れる方向は同一である。

 収入、支出には、約定に基づく収入と支出、相場(市場取引)に基づく収入と支出がある。

 収益が減少したことで資産を売って借入金の返済に充てることは、回収方向に資金の流れを変えることである。

 緊縮財政を敷いて、規制を緩和するのは、市場を最も収縮させる政策である。なぜならば、収益を悪化させる上に資金を回収側に向ける政策だからである。

 自己資本規制は、資金を回収側に向ける政策である。なぜならば、総資産の規模に一定の枠を設定する施策だからである。この様な施策は、総資産の増大に一定の歯止めを掛けることになる。

 時価会計は、その時点での景気の動向を加速させる作用がある。
 デフレーション下の時価会計は、デフレーションを加速する。

 積極財政は、通貨の流通量を増やす反面、財政支出を増加させる。
 緊縮財政は、通貨の流通量を減少させる反面、財政支出を減少させる。

 公共投資は、雇用を創出し、雇用を高める。反面、財政支出を増大させる。又、公共投資に支出された資金も再投資に向けられないで返済に廻されれば、乗数効果は期待できない。単に負債を民間から国家に移転したに過ぎなくなる。

 購買力は貨幣が生み出す力ではない。購買力を生み出すのは、人と財である。それに対し貨幣は、購買力を裏付け、発現させる。

 財政政策は、その時の前提条件、即ち、景気動向や資産の動向を確認し、収入と支出両面に与える影響を考慮に入れて判断すべき事である。増税が収入の増加に繋がるとは限らないし、減税が収入の減少に繋がるとも限らない。

 競争を促進するような規制(規制緩和策)に変更することは、市場取引を活性化させる反面、企業の利益率を低下させる。競争を抑制するような規制(規制強化策)に変更することは、利益率を向上させる反面、市場取引を沈静化する。

 固定費と操業率の関係が産業の性格を考える上で重要になる。初期投資が巨額にのぼる産業は、損益分岐点が高く、勢い、操業率を高めることによって利益を確保しようとする。その為に乱売合算に陥り、自らの収益構造を悪化させて、自滅してしまうことがある。この様な産業は、規制が必要とされるのである。

 金融政策は、通貨の流量を加減する。

 実際に市場に流通している貨幣の量と発行された貨幣の量は必ずしも一致しているとはかぎらない。貨幣が実質的に流通している量と発行された量との比率、及び、貨幣の回転数が貨幣の効率を表している。

 市場が拡大している時は、通貨の流量を増大し、市場が縮小している時は、通貨の流量を減少させるように調整するのが原則である。

 流量を増やして栓を閉めれば破裂する。
 金利を下げ、量的緩和策をして、規制を緩和すれば、過剰流動性が発生する。貨幣の流量を増やして、収益を悪化しすれば、貨幣の圧力が高まって破裂するのである。

 貨幣が不足すると物流に支障、齟齬が生じ不況となる。

 金利の上昇は、企業の収益力を圧迫するが、時間価値を上昇させる。金利の低下は、企業の収益力を向上させるが、時間価値を下降させる。

 単位貨幣は、通貨圏を形成する。通貨圏には境界線があり、その境界線を境にして、内と外とが区分される。
 通貨の交換価値は、通貨間の取引によって決まる。通貨の交換価値とは、貨幣の内的価値と外的価値の両面を構成する。取引には、境界線をまたぐ取引と境界線の内部で完結する取引とがある。内部で完結する取引は、内外の貨幣価値の変動、即ち、為替の変動の影響を原則として受けない。逆に、境界線をまたぐ取引は、為替の変動の影響を妨げない。

 単位貨幣間の濃度は等しい。円とドル、ユーロ、元の濃度は等しい。

 円高には、二重の働きがあった。対外の貨幣価値が高まり、購買力が強くなった反面、輸出産業の収益を悪化させた。低金利政策によって貨幣の量が増加し、輸入品の低下と輸出不振による本業の収益の悪化が、資産市場、資本市場への資金の流入を加速した事がバブルを引き起こした一因と考えられる。

 為替の変動の影響を見る場合、第一に、為替の変動によってどの部分が何に対してどの様に変化したかを分析する必要がある。特に、人件費が梃子の働きをするので重要になる。日本の人件費にとって円高は、国内においては、実質的な変化をもたらさない。反面、対外的に見て費用の上昇もたらす。輸入品は、所得に対して相対的な低下するが、輸出品に対しては、費用の増加をもたらす。これらの影響を鑑みながら施策を立てる必要がある。

 経済現象は、人の経済、物の経済、金の経済が複合して起こされる現象である。インフレーションにもインフレーションを引き起こす、要因が、人の経済、物の経済、金の経済、各々にある。

 物の購買力を決めるのは、貨幣ではない。人の消費意欲である。人の消費意欲は、必要性から生じる。人が必要だと思えば、購買力は高まり、必要でないと思えば、購買力は低下する。故に、貨幣の流通利用を増やしただけでは、消費は高まらず、貯蓄ばかりが積み上がってしまう。つまり、根本は人の経済である。

 増税は、基本的に可処分所得を減少し、財政収入を増加させる。減税は、財政収入を減少させ、可処分所得を増加させる。ただし、増税が、即、財政の増加に結びつくとも限らないし、減税か、即、財政の減少に結びつくとは限らない。
 増減税が景気にどの様な作用を及ぼすのかによって財政収支の変化は決まるのである。
 ただ、財政収入は貨幣の回収を意味し、財政支出は、貨幣の放出を意味していることを忘れてはならない。

 税にも現金主義に基づく税や期間損益主義に基づく税、物的経済を基礎とした税、人的経済を税とした税などがあり、各々その働くところが違う。税が作用を及ぼしている部分が重要なのである。

 例えば、法人税、企業の所得税の増税は、長期借入金の原資を返済を圧縮する。その為に、資産の流動化、或いは、借入金を増加させる。

 リース分割払いは、資金から見ると借入金と同じ方向の資金の流れや同じ働き、同じ性格を持つが、損益上、借入金の元本の返済が利益処分と減価償却費から処理されるのに対し、リースや分割払いは、固定的費用となる。当然、納税額にも影響する。

 この様な資金と損益の働きの違いは、経営者の行動規範に微妙に差を生じさせる。利益処分か費用処理かで資金繰りに重要な違いが生じるからである。

 必要な物資が不足すれば物価に上昇圧力かかかる。物が過剰になれば物価には下降圧力が働く。物が不足すれば物の値段が上がるこれは当然の理である。

 物の供給が不足すれば物価は上昇する。

 市場が機能するためには、市場を適度な数の企業が競合している状態に保つことが要求される。

 生産拠点、輸出拠点が特定の地域や企業に集中したり、偏ることは、経済の公正上、望ましくない。

 個々の国家は、経済的に自律している事が要求される。生産に偏ったり、消費に偏ることは好ましくない。その為には、自給できる物資は、極力自給できるようにするのが妥当な政策である。

 輸出可能な物資と輸入しなければならない物資(必要物資)とを明確に区分しておく必要がある。

 経済的に不安定な要素を安定化するのが金融や企業、政府と言った経営主体の役割なのである。

 貨幣は、財産たり得ない。なぜならば、貨幣の価値は、金利がつかない限り、時間の経過と伴に減価するからである。
 貨幣は、使用されることによって市場で価値を発揮する。貨幣は、市場に循環していない限り、機能しないのである。
 当に、金は天下の回り物なのである。

 人類は、まだ、貨幣の本当のありがたみを知らない。だから、私利私欲に従って貨幣を独り占めし、手にした貨幣を他人に廻そうとしなくなるのである。そうすると貨幣は、本来の働きをしなくなる。人間が、貨幣によって欲をかけば、欲をかいただけ、貨幣は、人間に報復するのである。貨幣は使うことによって効力を発揮するのである。
 貨幣は、公の道具である。貨幣は、分配のための手段なのである。個人が私し、独り占めできるような性質の物ではない。故に、貨幣には個性が求められないのである。

 所得は、労働の対価として支払われるのが原則なのである。
 問題となるのは、労働の対価として支払われる所得と生活していく上に必要とされ、消費される費用とが均衡しているかどうかなのである。

 所得は、費用であり、実質的価値であるが給与等によって貨幣化される事で名目的価値に転化され収益化される。

 貨幣価値と言うが、それでは価値とは何かと言われると判然としていない。判然としていないままに、貨幣価値を是非を論じていることが多い。貨幣価値を問題とするならば、先ず価値という概念の構造を明らかにする必要がある。

 価値は、価値を認識する主体と価値を認識される対象によって構成される。そして、価値を表現するためには、価値を表す象徴が必要となる。価値を表す象徴は、言葉や数字等である。
 貨幣価値においては、貨幣を表す基準が貨幣体系である。

 価値は、自他の認識の差を認めたところから始まる。
 価値とは、差であり、違いであり、変化である。

 貨幣価値で言えば、安価な物より高価な物の方が価値がある。無償な物より、有償な物が価値がある。時間価値で言えば、将来、値が上がる物の方が価値がある。前者は差であり、後者は変化である。不味(まず)い、美味(うま)いは違いである。

 価値とは、位置である。位置とは差である。故に、価値は、差によって生み出される。
 経済的価値には、人的価値、物的価値、貨幣的価値がある。
 人的価値は、労働価値であり、単位労働当たりの所得差として表される。
 物的価値とは、財の持つ物理的差、効用の差であり、数量によって表される。また、質、量、密度として測られる。
 貨幣価値というのは、財の持つ貨幣的位置付けである。貨幣的位置付けは、価格差として表される。貨幣価値は無次元の量である。
 時間価値とは、時間によって作り出される差である。時間価値とは、時間差によって生じる価値である。時間差とは、過去、現在、将来の時点間の差を意味する。時間的価値の差とは、過去価値、現在価値、将来価値の差である。
 時間価値は、金利として表される。

 自由主義経済は、人、物、金、時間の四つの次元から成る経済体制である。
 経済的効率は、この四つの次元の均衡上に成り立つ基準である。偏りは非効率を意味する。

 効率を測る尺度は、生産性だけにあるわけではない。例えば労働効率である。

 労働効率は、労働意欲の問題である。労働意欲は、労働の価値をいかに評価するかにかかっている。労働の価値の評価は、個人所得に還元される。故に、労働価値は、所得差として表される。

 経済効率の良し悪しはは、人、物、金、時間の四つの次元が偏りなく均衡している状態か、否かによって測られる。

 日本は空港に巨額の投資をすることによって空港の効率を低下させたのである。それは、空港の効用と貨幣価値の効率とが均衡していないからである。

 貨幣価値で重要なのは、貨幣価値の効率である。

 実物価値が資産を貨幣価値が負債を労働価値が収益を時間価値が費用を形成する。資産と費用は、実体的的価値であり、収益と費用は、名目的価値である。資産と費用、負債と収益を区分するのは、長期、短期の時間の働きの差である。資産と負債、費用と収益は、貨幣の働きを介して相対勘定となり、表裏の関係を形成する。

 金利によって時間的価値は、先導され、実質的価値は、時間価値を軸にして測られる。

 原価主義と時価主義の違いは、原価主義は名目的価値に依拠し、時価は、実質的価値に依拠しているという点である。
 原価は、確定的で負債に連動している。時価は変動的で資金に連動している。時価は、実物市場を反映している。

 価値とは、効用である。効用とは、価値を認識する主体にとっての有用性である。対象となる事象に有用性を認めなければ、対象は無価値となる。

 豚に真珠、猫に小判と豚や猫を馬鹿にするが、それは、人間の価値観である。人間は、金のために人殺しまでするが、豚や猫は、相手を殺してまで手に入れるほどの価値を金に認めないだけである。では、豚や猫と人間、どちらが真の価値を知っているというのであろうか。自分達の価値観を絶対視し、相手を馬鹿にするのは傲慢なだけである。
 有用性は、相対的であり、個人差がある。即ち、価値とは、本来、主観的なものである。
 価値が生じるのは、価値を見出すものにとって対象となる事象が何等かの有用性を持つからである。

 効用、即ち、有用性には、使用価値と交換価値がある。
 使用価値とは、対象となる物や行為の実際の働きから発生する価値である。交換価値とは、対象となる物や行為を交換するときに発生する価値である。
 貨幣は、交換の基準であり、交換の手段、道具である。交換は、貨幣にとって働きでもあり、交換手段でもある。つまり、貨幣価値というのは、価値を測り交換の仲立ちをするという働き、即ち、使用価値と交換手段、即ち、交換価値という二重の意味で交換に関わっているのである。

 貨幣価値に二つの意味がある。一つは、貨幣その物の価値である。もう一つは、貨幣価値の働きによる価値である。なぜならば、貨幣は、価値を表す尺度、基準だからである。

 この様な貨幣価値の持つ二面性から貨幣価値が、貨幣によって表現された価値と対象その物の持つ価値の二つの価値から成り立っていることが明らかになる。

 貨幣その物が持つ価値とは、というのは、言い換えると貨幣の効用である。では貨幣の効用とは何かである。貨幣の効用とは、交換の仲介にある。貨幣は交換手段なのである。

 貨幣の働きが持つ価値とは、貨幣の効用によってもたらされる価値である。貨幣の効用とは、交換によって成立する価値である。

 交換が成立するためには、先ず交換の対象となる物や行為がなければならない。さらに、交換の対象となる物や行為の出し手と受け手がいなければならない。

 問題なのは、物や行為そのものの価値と、出し手が認識している価値、受け手が認識している価値が一体でないという事である。つまり、貨幣価値は、三つの価値が各々独立して存在しているという事を意味する。それを一体化する行為が市場取引なのである。

 貨幣価値とは、象徴的、抽象的価値であり、価値の実体は、物そのものの側にある。故に、貨幣価値は、名目的価値と言われ、実質的価値は、物そのものの側にあることになる。

 例えば、自動車の有用性は、自動車の側にある。自動車の価格に有用性があるのではない。自動車の価格は、自動車の取引、即ち、自動車と貨幣とを交換する際に基準となる指標である。

 経済行為の中で、貨幣が機能するのは、交換を必要としている部分に関してのみなのである。交換を必要としない部分に貨幣が偏ると貨幣が社会全般に万遍なく行き渡らなくなり、貨幣の循環に障害が生じる。

 貨幣の働きは、交換を元として成立している。貨幣価値は、交換価値なのである。
 貨幣価値には、象徴的な要素が含まれる。しかし、その象徴性も交換を前提としなければ成り立たない。
 所有価値とは、所有することによって生じる価値である。しかし、所有という概念それ自体が交換を前提として成り立っている。
 希少価値も、交換価値の一種だと見なせる。なぜならば、希少性も交換を前提としなければ意味がないからである。
 希少と言う事から派生する効用、所有すると言う事から生じる効用も交換を前提として価値を形成するのである。

 貨幣というのは、決済の道具、手段なのである。決済とは、貨幣と財とを交換することによって貨幣価値を実現する事である。この場合の貨幣価値とは、交換を意味する。即ち、貨幣の効用とは交換の媒介にあるのである。この交換という行為を通じて貨幣は、色々の働きを発揮する。つまり、貨幣の働きは、交換によって副次的に発生する作用である。この点を誤解し、交換を前提とせずとも貨幣自体に交換以外の何等かの効能を持たせようとすると貨幣は本来の働きをしなくなる。その好例が、滞貨である。
 貨幣価値の本質は差である。差によって貨幣価値は生じる。故に、貨幣価値には序列が成立する。

 貨幣価値は、数値によって表された体系である。

 貨幣価値は、連続量である。又、貨幣価値は、順序集合である。
 貨幣価値は、数直線として表すことが可能である。
 貨幣価値というのは、自然数からなる一様な数直線に置換できる。
 一物一価を原則とすると物の貨幣価値は、貨幣価値を表す数直線上のいずれかの点によって位置付けられる。
 この様な数としての特性が貨幣価値の性格を形成している。

 一つの制度は、一つの領域、圏を形成する。
 一つの通貨制度は、一つの通貨圏を形成する。それは必ずしも行政圏とは重複しない。

 貨幣価値は、一つの通貨圏においては、一様である。
 問題は、通貨圏を跨いだ取引である。
 通貨間を跨いだ取引というのは、複数の貨幣制度、貨幣基準が作り出した通貨圏間の変換を前提とした取引だと言う事である。

 重要なのは、一つの物の貨幣価値が一定していないで、数直線上を変動しているという事である。
 この様な変動は、時間や空間の変化によって引き起こされている。そして、変動によって利益は形成されるのである。その媒体となる行為が交換である。

 空間による変動は、複数の通貨圏や複数の市場の存在によって引き起こされる。

 為替をいじくり廻すのは感心しない。為替は安定が一番大切である。なぜならば、為替の変動は、経済構造の深部に重大な損傷を与える危険性が高いからである。

 為替制度の問題とは、なぜ、複数の通貨圏が成立したのか。又、なぜ、複数の通貨圏が必要なのか。言い換えると、なぜ、複数の貨幣制度が必要なのかという事が問題なのである。

 複数の通貨圏が存在することの利点と欠点を比較することが肝要なのである。

 それは、なぜ国家が成立し、必要なのかという問題と同質の問題でもある。
 国家の基盤が違うと言う事がある。国家の基盤とは、建国理念の違いと言ってもいい。又、文化や地理的要件の違いもある。文化の違いとは、歴史や伝統、風俗や習慣、宗教等の違いである。地理的要件とは、天然資源の有無や気候の変動、地形的な問題等を言う。
 世界主義、地球主義というのは、文化や建国理念の違いを本質的な違いだと見なさないことによって成り立っている。必然的に世界を一律、統一的制度によって統合しようという思想に繋がる。この様な考え方は、国際共産主義や一神教的な思想を背景にしている場合が多い。
 国家は、国民国家が成立することによって確立された概念である。国民国家は、制度によって一様な力が働く領域、範囲が画定されることによって成立する人的空間である。
 これらの点は、複数の通貨圏が存在する要因ともなる。
 通貨圏の問題とは、文化の問題であり、主権の問題なのである。かつて、共産圏と自由経済圏は、通貨制度においても断絶していた。それが、国際社会の目に見えない壁を築いていたのである。

 通貨圏は、排他的な空間を前提とする。排他的な空間は、内と外との境界線を持ち、境界線の内部では一様な力が働いてくような仕組み、制度が存在する。

 複数の通貨圏や複数の市場が存在することによって物の価値と通貨圏間や市場間の貨幣価値の調整が必要とされる。
 本来物の価値は、同一であるはずである。ただ、通貨圏や市場をまたがることによって交換価値が変化してしまうのである。

 日本国内で円を使う場合、日本人は、円が何を担保しているかなどと言うことを意識することはない。円の有効性は、日本という国に対する信認に依って保たれているのである。しかし、日本以外の国で円を使用しようとした場合は違う。
 円以外の通貨圏から物を買う時、円の価値を何が保証するのか、円は、何によって担保されているかが重要となるのである。
 金貨であれば、金の価値と貨幣の品位が問題となる。兌換紙幣であれば、紙幣を発行した国がどれだけの金を支払準備として所有しているかが、問題となる。変動相場制であれば、基軸通貨をどれだけ支払準備として所有しているかが重要となるのである。
 為替の問題、ひいては、貨幣性での根幹は、この支払準備、言い換えると決済の仕組みに要約されるのである。

 貨幣は、決済のための道具であり、支払のための準備である。
 そして、貨幣は、支払準備だからこそ価値を持つ。支払のための準備であるから、支払のための保証が必要である。
 即ち、貨幣は何を担保としているかである。金を担保としているのが金本位制である。また、不換紙幣の発行とは、国家の信用、支払い能力を担保して発行されるのである。国家の信用を裏付けているのが土地と言った国の資産や徴税権、そして、国が発行する債券、国債である。

 金本位制度というのは、政府が所有する金を担保に借金をしているのと同じような事である。
 担保するという観点からすると担保する物は何も金とはかぎらない。土地でもいいのである。

 金本位制度からすると金が大量に国外に流出すると貨幣の信認が失われる危険性が生じるのである。

 変動相場制というのは、国家の信用で資金を融通しあっているようなものである。金本位制と変動相場制は、貨幣に対する根本的な思想が違うのである。

 通貨圏間の決済は、外貨準備に依って為される。通貨圏の取引に用いられる基軸通貨も貨幣の信用を裏付ける重要な要素である。故に、通貨間に於いては、外貨準備が担保される場合がある。

 金本位のように実物貨幣の場合は、金をもって通貨間の決済に使用する事が可能である。しかし、変動相場制度では金を決済に使うことはできない。金の変わりに基軸通貨や国際決済貨幣が用いられるのである。

 基軸通貨国は、お金を輸出して物を輸入する。この事は基軸通貨国にはシニョレッジが発生していることを意味している。そのシニョレッジを国際経済にどの様な還元するかが、基軸通貨国の責務でもある。基軸通貨国がその責務を果たせなくなった時、基軸通貨体制は瓦解する。

 国際通貨制度というのは、複数の自立した通貨制度が存在することが前提となる。通貨制度とというのは、一つの貨幣価値の尺度を基礎として成り立っている。個々、独立した基準をどの様に整合性を持たせるのかの問題である。
 一つの考え方は、任意に一つの貨幣基準を選んで、それを基軸とする仕組みである。又、任意に複数の基準を選んで、その平均に基ずく仕組みである。或いは、決済調整専用の貨幣を用いる仕組み、貨幣その物を一つの基準に統合してしまう仕組み。統一的貨幣を任意に設ける仕組み。二国間で、調節する仕組み等がある。

 為替の対応関係は、一対一、一対多、多対一、多対多の対応関係である。

 為替制度には、基軸通貨制度、通貨ブロック、通貨バスケット制度、決済通貨制度、統一通貨制度、通貨統合等がある。
 統一通貨とは、国内の通貨の別に統一通貨を定め、統一通貨と国内の通過をリンクさせる制度である。

 外部から物を調達する為には、調達する物の価値と同量の価値の物を交換する為に用意しなければならない。物を貨幣に変えても同様である。

 経常収支と資本収支は、表裏の関係にある。

 基軸通貨国は、貿易相手国と対を為す関係にある。基軸通貨国が貿易黒字の場合は、資本を輸出することによって相手国に基軸通貨を供給する必要があり、基軸通貨国が貿易赤字の時は、相手国から資本を輸入して、基軸通貨を回収する必要がある。
 この循環が上手く機能しなくなると基軸通貨国も相手国も苦境に陥ることになる。

 経常赤字が累積すれば基軸通貨の価値の下落に繋がり、外貨準備高の実質価値が縮小するという悪循環に落ち込む。

 留意しなければならないのは、貨幣は、絶対的基準ではなく、相対的基準だという点である。

 貨幣価値は、限界や制約の存在を認め、前提条件を設定する事で貨幣の品位が保たれる。

 複数の通貨圏が存在する。言い換えると複数の貨幣制度が存在する理由の一つは、貨幣価値が相対的基準だという点がある。
 貨幣価値の単位は、一メートルとか、一リットル、一分と言った何等かの物理的実在に基準を於くことができない。
 かつては、金と貨幣価値とを結び付けて貨幣価値の絶対化を計ったが、結局、失敗した。なぜならば、金には、金という物のとして価値があり、貨幣基準とは別の交換価値、実質的価値を持っているために、貨幣価値、名目的価値が二重構造になってしまうからである。金本位とした場合、金の価格の変動の影響を受ける。
 貨幣単位が相対的な量になるのは、経済的価値が、財の生産量や需要量と言った有限で変動する相対的な量を対象としているからである。貨幣価値は、市場に供給される財の量と需要量によって決まる相対的な価値なのである。

 変動相場制度というのは、複数の貨幣制度の均衡によって成り立つ制度だとも言える。一つの絶対的な基準が存在しない以上、複数の基準の相互牽制によって貨幣価値全体の調和を保つ仕組みが変動為替制度なのである。

 国際通貨制度には、本位制度、国際決済通貨制度、単一基軸通貨制度、複数基軸通貨制度、無基軸通貨制度、単一通貨制度などがある。









       

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