経済数学

4 経済数学

4−3 通貨の流れる方向と量



 金は天下の回りものと言われる。貨幣は、循環することでその機能を発揮する。貨幣経済にとって貨幣の流れが重要なのである。
 信用乗数が好例である。貨幣が循環することによって信用が拡大する。それが信用乗数である。
 貨幣の回転する速度、即ち、回転率によって貨幣の効率は計られる。

 通貨の問題は、電力問題によく似ている。発電量ばかりを取り上げて、必要量を忘れている。必要量は、使用量に基づいて割り出される。使用量は、何に対してどれだけの量の電力を費やすかによって導き出される。
 貨幣も量的問題ばかりが注目され、貨幣が何に対し、どの様に使われているかの問題が等閑(なおざり)にされている。それでは、貨幣本来の機能が発揮されるはずがない。なぜならば、肝心なのは、発電量でも、発電能力、送電量でもなく、電力をいかに効率よく活用するかなのである。使用目的も考えずに、発電効率や送電効率ばかり問題にしても意味がないからである。

 また、電力使用者が存在しなければ、産業として成り立たない。初期の頃は消費者が少ない。だから、電力の使用者の増加に全力が尽くされる。しかし、一旦、電気網が確立されたら、効率の良い電力制御が求められるのである。

 貨幣も当初は貨幣の信認を高め、社会に浸透させることが求められる。しかし、一度、信認が得られ貨幣が浸透したら、その次は、流通する量の制御と管理が求められるようになるのである。
 政府が直接発効する紙幣と、現行の紙幣との違いの意味が隠されていてる。紙幣は、当初、政府の借用書として流通するのである。現行の貨幣制度を理解するには、紙幣発行の仕組みが重要な鍵を握っている。

 今、問題なのは、物の経済ではない。人の経済でもない。貨幣の経済なのである。だから、貨幣経済が重要なのである。貨幣経済とは、貨幣を基盤とした経済を指すのである。貨幣を基盤としない経済とは、まったく違う仕組みで経済は機能している。だから、現在の経済を理解するためには、貨幣経済を理解する必要があるのである。その意味では、貨幣経済というのは、自明の体制、所与の体制ではない。人為的体制である。
 物の経済ならば、生産効率を高めることが重要となるし、人の経済ならば、組織効率や労働効率が問題になる。
 貨幣経済というのは、貨幣だけで成り立っているわけではない。貨幣経済で重要なのは、貨幣の役割と特性なのである。

 貨幣がない時代、或いは、あっても、部分的にしか貨幣が通用しない時代とでは、経済の在り方が大分違う。
 又、貨幣と言っても実物貨幣、兌換紙幣、不換紙幣と言った貨幣の性格によっても経済の有り様は違ってくる。
 つまり、貨幣経済というのは、貨幣があって成り立つ経済なのであり、貨幣経済が成立する以前の経済とは異質な経済であるし、貨幣の有り様によっても経済現象は変化するのである。

 貨幣経済では、貨幣経済固有の問題が発生する。
 貨幣経済には、貨幣固有の問題に端を発している事象が多くある。それを経済全般の問題と取り違えると貨幣経済の背後にある本質が見えなくなってしまう。
 「金」の問題だけれど「金」だけが総てではないのである。

 売るという行為は、財を渡して金を受け取る行為である。買うという行為は、金を渡して財を受け取る行為である。
 売買取引というのは、財と貨幣の双方向の流れを意味する。又、財と貨幣の二つの要素がなければ成り立たない。それが大前提である。
 又、財と貨幣価値は等価であることが前提となる。どちらか一方の流れだけを見ても取引の実体はつかめない。
 貨幣は、交換を促すことによって価値を顕現する。貨幣その物価値があるわけではない。同時に、交換が価値を持たないと成立しない。逆に言うと交換が成り立たないところでは貨幣価値は生じない。

 貨幣の流れを見極めないと経済を理解することはできない。そして、今日の中軸的貨幣は、不兌換紙幣である。
 貨幣には、実物貨幣、兌換紙幣、不兌換紙幣があり、各々性格が違う。それを一緒くたに取り扱うから経済がおかしくなるのである。

 厳密とに言うと実際に流れている貨幣は、ごく一部であり、大半の貨幣は流れているのではなく、充たされているといった方が妥当である。そして、銀行間のおいて決済されているのである。故に、決済の仕組みが重要となる。
 この点を鑑みると、労働と財、通貨の市場に流通する量、水準と流れる方向が均衡しているかによって経済の状態は決まると考えられる。

 市場を構成する貨幣価値には、動いている部分と静止している部分がある。貨幣は、動いている部分と静止している部分がある。そして、貨幣は、動いている部分と静止している部分では、働きに違いがあるのである。

 貨幣経済は、貨幣価値、即ち、数が貨幣という物的対象によって実体化されることによって成り立ってきた。

 実物貨幣や兌換紙幣は、数量に制限があり、貨幣その物が商品相場を形成する。不兌換紙幣は、基本的には物理的数量の制約がない。又、為替相場はあるが、商品相場の影響は受けない。

 紙幣は、貸出と公共投資によって市場に供給される。その元は、いずれも借金である。最初から紙幣が存在しているわけではないのである。

 公共投資は、大量の紙幣を市場に供給する。供給された紙幣は、初期投資以後、長い時間を掛けて回収される。回収の手段は、税金ではなく、返済である。返済の原資は、基本的に収益によって賄われる。即ち、紙幣は、投資によって市場に供給され、収益の範囲内で回収されるのである。投資された時点で市場に供給され、返済によって回収される。言い換えると投資によって紙幣は、市場の側に流れ、返済によって回収の側に流れる。日々の経済は、市場に流通する貨幣によって機能している。故に、市場に流通する通貨の量と流れる方向、回転数が経済状態を決定する。

 経済においては、時間の働きは、長さによって性格が変わる。経済的事象は、時間の働きは、長さによって性格付けられる。故に、会計では、時間は長さを基準にして測られる。

 投資が長期資金の流れを形成し、消費が短期資金の流れを形成する。投資と消費の比率が資金の働きを決定付ける。
 長期資金の働きは、市場に流通する資金を一定量に保つことである。短期的資金は、市場の分配機能を発揮させることである。そして、分配機能を有効にするためには、所得と消費を均衡させることである。それは、収益と費用の関係によって実現する。それが市場経済の構造である。

 消費は費用となり、収益に還元される。貯金は、投資となり負債に還元される。

 投資によって供給された紙幣は、消費に向けられて効果を発揮する。消費は、費用や収益、所得に転じるからである。消費によって分配は完結するのである。

 長期資金の回収は、収益の中から捻出される。つまり、収益は、長期的資金の回収を前提として設定されるべきものである。ところが長期的資金の回収、長期的資金の返済は、期間損益上は表面に現れてこないのである。そのために、収益が悪化したり、市場競争が激化すると長期資金流れが滞るようになる。挙げ句に、金融機関は、長期資金を引き揚げようとする。その為に、市場の資金が枯渇する現象が起こるのである。

 税の働きは、通貨の循環と所得の再分配である。所得の再分配の役割は、通貨を効率よく循環させることである。

 紙幣を公共投資によって市場に供給する期間と回収する期間とに時間的な隔たりがある。この隔たりを利用して長期的資金、即ち、市場に流通する紙幣の量を調整するのである。

 貨幣は、あくまでも経済活動の道具である。それ自体を蓄積することに目的があるわけではない。

 市場に流通する紙幣には、常に回収圧力が働いており、その圧力によって紙幣は、市場を循環しているのである。しかし、回収するだけでは、市場に流通する貨幣の量は、減少し続けることになる。故に、一定の投資を継続する必要性が生じるのである。しかし、闇雲に公共投資をすればいいのかというとそれでは、紙幣が市場から溢れ出してしまう。それ故に、供給する紙幣の量には、経済規模、市場規模に応じた制限がある。

 貨幣価値は分離量であり、数量は連続量である。

 貨幣は、循環することで効力を発揮する。
 債権、債務の働きと貨幣の流れによる働きを明確に区分すべきである。そして、それが会計の原則でもある。
 貨幣の運動量は、貨幣が流れる量と速度の関数である。速度は、時間と距離から求められる。貨幣の速度は、貨幣が循環する速度でもあるから、貨幣の速度は、回転数として表現される。

 市場が貧相になっている。只、貨幣を循環させればいいと言うのではない。貨幣が循環する過程で起こる働きが重要なのである。貨幣の循環によって成立する市場がどの様な働きをするかが問題なのである。
 消費だけが通貨を循環させているわけではない。預金や決済も通貨を循環させる働きをしている。そして、消費や預金、、決済によってどの様な現象が起こるかを見極める必要があるのである。

 貨幣の働きは、貨幣制度の仕組みによって制御される。貨幣制度の仕組みとは、貨幣の発行から回収に至る過程にある。

 経済制度というのは、基本的に、相互牽制と均衡の仕組みである。相互牽制と均衡が市場の働きを規制し、産業の構造の重要な要素なのである。
 この様な相互牽制や均衡の仕組みは、経済量を表す数直線を比較することで解明することが可能である。
 貨幣単位は、数直線で表される。貨幣価値は数直線で表される。価格構造は数直線で表される。収益構造は、数直線で表される。費用構造は数直線で表される。

 経済現象は、数列として表現される。経済現象が継続を前提とした時から経済を表現する数列は無限数列となったのである。

 数列も一つの線分からなる数列と幾つかの線分を積み上げた線分からなる数列がある。

 貨幣は、流通循環することによって効能を発揮する。
 経済体制とは、貨幣が流通、循環することによって動く仕組みである。経済は人為的仕組みである。自然に成る法則ではない。人々の合意の上に成り立つ仕組みである。
 貨幣は流れてることによってその働きを発揮する。貨幣は停滞することは、効能を発揮するどころか弊害にすらなる。
 故に、企業は、手持ちの現金は、決算書に記載されている資金の総量に比べて少量である。資金繰りに失敗すれば、簡単に企業は潰れてしまう。そう言う仕組みに企業はなっているのである。
 決算書には、多額の金額が記載されているが、それらの多くは、潜在的貨幣価値を表しているのに過ぎない。

 貨幣は、資源化されることによって資金となる。資源化するという事は、現金化されることを意味する。つまり、流動性を持たされることによって貨幣は資源化するのである。貨幣価値は、流動性がなければ、名目的、即ち、見かけ上の働きしかしないのである。
 経済上計上される貨幣価値の量と市場に流通する資金の量とは一致しない。

 貨幣の運動量は、貨幣の流量と働きのである。

 経済主体が、貨幣を流通、循環することによって貨幣経済は成り立っている。

 故に、常時、企業や家計には、資金が供給され続けなければならない。その資金の源泉は、収益や所得が基本でなければならない。つまり、借金や贈与、相続は、臨時的なものであることが原則なのである。

 貯金は、負債に、投資は、資本に、消費は収益に置換される。負債と資本は、長期資金として調達され、収益は、短期資金の調達に結びつく。可処分所得は、消費に向かい、非可処分所得は、長期資金の返済に向かう。

 経済上の運動量を規定するのは、貨幣の流れである。

 貨幣は、資源となった時、資金となる。

 資金の流れには、流れる方向と、速度がある。貨幣の流れる方向と速度は、貨幣の総量から求められる。貨幣の流れる方向と速度を求める手段は微分であり、総量を求める手段は積分である。

 資金はベクトルであり、故に、資金の外形的量だけで経済を解明することは不可能である。重要なのは、資金の流れる方向である。

 全体の力の方向性と個々の力の方向性が問題なのである。全体と部分との力関係、つまりベクトルの問題である。

 市場経済では、市場の運動は、取引として現れる。
 取引とは、物と貨幣価値とを一対一の対応によって結び付ける操作である。貨幣は、取引を仲介する媒体である。
 物とは三次元的対象である。貨幣価値は、無次元の量である。取引とは、三次元敵対象を無次元の量に変換する操作である。

 貨幣価値は、方向と量を持った数値的価値である。数量を示す方向性と非対称性が複式簿記を考える上で重要となる。

 ベクトル空間では、始点を原点とし、働きの方向と量を測る。

 何が起点なのか。何が基点なのか。何が、原点なのか。何が始点なのか。何が中心なのか。
 経済分析の多くは、統計資料を基として成される。統計に基づいて経済分析をする際、統計の前提をよく確認する必要がある。統計は、距離が重要な概念である。つまり、統計とは、範囲の問題であり、中心の問題であり、バラツキ、偏りの問題なのである。

 貨幣が生み出すベクトル空間に時間軸が加わることによって貨幣は効力を発揮する。

 貨幣の運動量は、距離と時間の関数である。仕事量は、運動量と時間で決まる。
 
 資金の流れには、流れる方向と、速度がある。それが固定性と流動性、長期、短期の違いを生み出している。

 資金は、流動性と流れる速度によって働きに違いが生じる。
 流動性とは、換金化されるのにかかる時間の差によって生じる基準である。即ち、流動性が高いというのは、換金する時間が短いことを意味し、必然的に、現金が最も高い。それに対し、換金に時間がかかる多くの固定資産は流動性が低いことになる。
 流れる速度とは、回転する速度を言う。長期的資金、即ち、回転速度の遅い資金と短期的資金、回転速度の速い速度では、働きと役割に差が生じる。

 貨幣の時間的働きの違いが、長期的資金と短期的資金の差を形成するのである。長期資金とは、単位期間内では、時間が陰に作用する資金を言う。短期資金とは、単位期間内で時間が陽に作用する資金を言う。資金の動きによって短期か長期が決まる。

 資金の流れは、調達から、運用・投資への方向に流れる流れと回収から返済に流れる流れがある。
 経済の仕組みとは、本来、灌漑設備のようなものである。

 投資はキャッシュフロー、生産手段に対して支払われる資金の流れである。
 財務キャッシュフローが表すのは、取引や経営に必要な資金の調達と貯蔵、そして、返済(回収)として活用される資金の流れである。
 営業は、労働と分配に対する資金の流れである。

 貸付金の減少は投資の収縮を意味し、預貯金の増加は、消費の減退を意味する。目安となるのは、超過預金額である。

 貨幣は交換手段、資産は、生産手段、所得は、分配手段である。

 労働の対価として所得が支払われ、それが、消費と貯蓄にまわされる事によって貨幣は循環する。所得は、労働の質と量に対する対価として支払われる。

 長期的な場というのは、必ずしも現金の動きを伴っているとは限らない。過去の現金取引の名残や返済義務のような部分が多分に含まれている。それらが、債権や債務を形成し、資金の流れる方向を決定付けている。

 長期資金は資金の流れる方向に作用する。

 長期資金には、運用圧力と回収圧力が常にかかっている。運用圧力は、利益に還元され、回収圧力は、金利に還元される。利益は、資産が、費用化され収益に転じる過程で生じ、金利は負債が費用に転じる過程で生じる。クロス取引である。
 圧力は、金利と元本の返済によって発生する。金利と元本の働きは、働く部分に違いがある。期間損益に基づくと短期資金に作用するのが金利であり、長期資金に作用するのが元本の返済である。

 金利と配当では構造的に共通している部分があるが、根本が違う。大体、元本は返済されるが、資本は返済されない。なぜ、株式投資をするのか。キャピタルゲインは最初から期待されていたわけではない。

 期間損益というのは、費用対効果の関係を明確にすることによって資金の流れを円滑にする目的によって形成された。故に、期間損益を真に有効たらしめるためには、貨幣の流れる方向と損益の関係を明らかにする必要がある。
 その為に、近年キャッシュフローが重視されてきたのである。しかし、現状を見るとキャッシュフローを明らかにすることの本当の意義が理解されているわけではなさそうである。それがキャッシュフロー万能の様な誤解や、又、現金収支、資金繰りとキャッシュフロートを混同する様な混乱を招いている。
 実際の資金の動きを知りたいならば試算表を解析するに限る。
 ならばなぜ、キャッシュフローを改めて計算する必要があるのか。それは、短期、長期で資金の動きがどの様に変化するかを知りたいからである。キャッシュフローというのは、資金の働きによって資金の流れを分類したものである。
 資金の働きをキャッシュフローは、営業と投資と財務キャッシュフローに分類する。

 金利と利益の力関係によって資金の流れ方向は変わる。

 資産価値の低下を招いているのは、資産の質の問題か、流動性の問題かを見誤ってはならない。

 レパレッジ効果とは、見かけ上の価値を増幅することで利益を嵩上げしているのであり、元の利益率は低い場合が多いのである。

 レバレッジを利かせれば見かけ上の価値は増幅される。

 国債は、借金なのであろうか。国債は、紙幣の裏付けではないのか。借金だと認識するから、国債の働きを正当に評価できず、かえって、国債の量を無用に膨らませてしまうのである。

 負の部分が貨幣循環の原動力となる。負の部分の働きが資金の流れる方向に決定的な作用を及ぼしている。負の部分の働きを定めるのは、資金の流れる周期、即ち、長期的資金であるか、短期的資金であるかである。

 国債は、表象貨幣制度において貨幣の流通に伴う、反対作用である。つまり、国債があるから表象貨幣制度は成立し、かつ、安定する。
 国債の働きは、紙幣の流通量の総量を制約する。金利の動向を定め、金利の下限、上限を制約する。
 国債は、通貨の総量を規制し、財政は、通貨の増減を調節する。
 それによって物価や景気を制御する。又、公共投資の有り様によって国債の性格は、負債に近いものか資本の近いものかを確定する。
 また、国債は、外貨準備金を用意し、経常収支の過不足を補う。国債が外貨建てか、自国通貨建てかでその働きに違いが生じる。
 
 貨幣を直接、国家が発行すると債権と債務の関係が成立せず。通貨の流れる方向と流量を制御する手段が限定的になる。即ち、国家と通貨の発券機関を別にするのは、技術的問題である。

 経済で問題なのは、人的経済、物的経済、貨幣的経済が一体でないことである。人的経済の運動量は労働量であり、物的経済の運動量は生産量であり、貨幣経済の運動量は、貨幣量である。これらの三つの量を均衡させることが経済の仕組みに求められているのである。

 財政問題は、収入と支出の不均衡の問題である。収益と費用の不均衡によるのではない。

 収入と支出とは、現金収入と現金支出を意味する。つまり貨幣の放出と回収である。財政の本質とは、この貨幣の放出と回収に他ならない。なぜ、貨幣を放出した上で回収しなければならないのかというと、貨幣の働きは、循環することによって発揮されるからである。そして、貨幣を回収しなければ、貨幣の量を制御できなくなるからである。

 貨幣価値は、無次元の量、即ち、自然数の集合である。
 故に、貨幣価値は、上限が確定されていないと無限に発散してしまう。
 紙幣の発行量は、貨幣価値の総量を制約する。
 財政問題の基本は、貨幣の流通量をいかに制御するかの問題である。貨幣の流通量を制御する仕組みは、貨幣の発行の仕組みと金融の仕組み、財政の仕組みからなる。金融の仕組みは、貨幣の循環の仕組みであり、財政の仕組みは、貨幣の放出と回収の仕組みである。
 貨幣の発行量が発散傾向を持つか、収束的傾向を持つかは、財政構造による。そして、その根本は、数学的問題である。
 貨幣の供給量に制限を加えるのが国債なのである。

 貨幣経済体制においては、貨幣の流通量と方向が経済的働きを決定している。そして、債権や債務は、資金の流れる方向に作用しているのである。

 市場や経済の規模に対して適切な量の貨幣が偏りなく供給される事が経済状態を安定させる条件となる。経済が不安定なる原因の一つには、市場規模や経済規模に比して過剰に貨幣が供給されたり、又、逆に貨幣の供給が途絶したり、又、偏りが生じるといった貨幣の供給の齟齬にある。

 市場の拡大や収縮に併せて貨幣の流通量は調節されなければならない。

 財政の健全さを分析するためには、収入と支出の問題は、一旦、切り離して考えるべきである。

 財政収入は、手段による制約を受ける。財政収入の手段は、通貨を回収する仕組みによる。つまり、財政収入の問題は、通貨を回収する仕組みの問題である。
 通貨を回収する仕組みは税制と事業収入、そして、通貨発行益、即ち、シニョレッジ、株式発行益である。株式発行益は、国営事業を民営化する際に発生する。貨幣発行益は、公的債務と公的債権を形成する。通貨発行益(シニョレッジ)や株式発行益は一時的収入である。また、通貨発行益は、財政上に発生するとは限らない。通貨発行益は、通貨の発券機関に帰すからである。
 ただ、いずれにしても財政を立て直すためには、通貨発行益(シニョレッジ)や株式発行益の活用が鍵を握る。

 又、財政の健全さを保つためには、税制は、経済規模を捕捉できると同時に、経済の方向を調整できる仕組みが組み込まれた制度でなければならない。

 負債は、資金調達手段の一種である。長期負債と、短期負債とでは、働きや運用に違いがある。国債であれば、長期国債と短期国債は、目的によって区分される必要がある。

 表象貨幣の根源は、無期限の負債であり、紙幣の起源は、借用証書である。
 紙幣の発行によって、同量の公的債権と公的債務が発生する。即ち、貨幣の発行によって生じるのは、貨幣、公的債権、公的債務である。
 公的債権は、紙幣の正の働きを公的債務は、紙幣の負の働きを表現している。

 借金は、必ず返済しなければならないと言うのは思い込みである。国債のような、公的債務は必ずしも返済を前提としていない。なぜならば、公的債務の対極に公的債権があり、通貨量の上限を画定する働きが公的債務にあるからである。問題は、公的債務が無限に発散する場合である。
 これは企業経営にも言える。企業経営にとって負債は、障害ではない。ただ、問題は、収益が悪化した時に、長期的資金を回収されたりして資金が行き詰まる場合と際限なく負債が増殖する場合である。しかし、長期資金が回収されるのは、経営上の問題と言うより金融上の問題である。

 重要なのは、公的債権、公的債務と流通する資金の量が経済規模に適合しているかである。公的債務、公的債権、流通する通貨の量が不均衡になると物価の上昇を招いたり、財政破綻を引き起こしたりする。又、国債の量を抑制することができなくなる。その目安は、プライマリーバランスにある。

 企業経営においては、債権、債務に対する利益や金利の比率である。

 国債を清算する手段は、税や事業収益、株式発行益によって通貨を回収することである。貨幣を清算する手段は、負債の返済による通貨の回収である。
 国債の残高、財政収入と支出、貨幣の供給と回収、これらの均衡が保てなくなると国債は、際限なく発散する。

 財政支出は、財政の機能によって求められる。財政の機能とは、行政機能と所得の再分配機能、そして、社会資本に対する投資がある。
 故に、財政支出を構成するのは、所得の再分配の原資、公共投資、行政費用である。
 つまり、財政支出の問題は、第一に、直接所得と所得の再分配をどう結び付けるかの問題、第二に、再生産、再投資に結びつく社会資本かどうかの問題、第三に、行政支出(国防費、教育費を含む)の効率化の問題の三つの問題といえる。

 所得の再分配が問題になるのは、所得と再分配の原資が乖離している場合である。再分配に所得の変化を反映できないと直接所得と再分配が連動しなくなる。その為に、不景気になり、直接所得が減少しているにもかかわらず再分配のための原資が膨れあがるという現象が引き起こされる事象が生じるのである。

 又、公共投資の問題は公共投資が拡大再生産や再投資に結びついていない事が主たる要因である。既得権益との結びつき、また、公共投資が硬直化することも問題なのである。
 公共投資は、国家構想に基づき長期的展望に立ち、その年度その年度の景気の状態に併せて勘案されるべきものである。場当たり的な景気対策として活用すべきものではない。

 財政を悪化させるもう一つの原因は、行政支出が過大である場合である。
 特に国防費は、その上限を画定しにくい科目である。それは、国防費は、費用対効果の測定が難しい上に、何分にも相手がいることだからである。
 国防は、国防思想に基づくものであり、国防思想は、建国の理念から導かれるものであることを忘れてはならない。その上で軍事行動は、最も財政を破綻させる要因であることを念頭に置いておく必要がある。

 財政赤字が解りづらいのは、民間企業と違い、赤字が現金収支を本にしているからである。現金主義では、資金の長期的働きと短期的働きが区分できない。その為に、費用対効果が曖昧になるのである。
 財政における会計的問題は、長期資金と短期資金との切り分けがされていない事に一因がある。
 行政の費用対効果を測定するためには、行政支出の一部を期間損益主義に切り替えるのも一つの策である。
 財政の基本である現金主義と期間損益主義の違いは、現金主義が単年度均衡主義なのに対し、期間損益主義は、長期均衡主義である。故に、現金主義と期間損益主義の違いは、長期資金に対する扱いに端的に現れる。
 期間損益に切り替える目的は、長期資金と短期資金を切り離し、費用対効果を明らかにすることにある。当然最終的には、労働と分配を結び付けることに帰着する。つまり、利益という思想を公共事業に導入するのである。その手段の一つが民営化なのである。その目的なくして、何もかも民営化してしまえと言うのも乱暴である。要するに、民営化の効果は、事業の働きと目的によるのである。

 経済の異常現象の原因は、物質的な要因として、過剰生産と物不足の二つがある。貨幣的観点から見た要因は、貨幣の過剰供給と貨幣不足。人的要因から見ると過剰消費と買い控えである。
 人、物、金の動きが一方に偏った時、経済は抑制を失うのである。この様な偏りを防ぐために市場の仕組みと規制が必要となるのである。

 また、規制にも、物に対する規制、金に対する規制、人に対する規制がある。

 物不足は物不足である。金に振り回されていると物不足の現実が見えなくなる。物不足の原因も配分に偏りが生じているのか、絶対量が不足しているのかによって規制の在り方にも違いが出る。
 物流は、差によって起きる。しかし、物流を滞らせるのも差である。差の働きに期待しながら、いつの間にか解消できない差が付いてしまう事がある。

 必要な物が、必要なだけ(量)、必要な時に、必要としている人のところに供給される仕組みが経済の仕組みの土台となるべきなのである。

 所得の差がなくなれば流動性は低下する。極端な格差は、貨幣の偏りを生み貨幣効率を低下させる。いずれも貧困の原因となる。貧困とは、生活に必要な物資が乏しい状態を言う。
 それは、単に貨幣の過不足の問題とは限らず、生産の問題か、所得の問題か、消費の問題かそれを見極めて対策を立てるべきなのである。

 第一次大戦後のドイツのハイパーインフレも金本位制度下における金不足に起因している部分があると思われる。

 規制というのは、非常に繊細である。どの様な効果を期待し、何を、どの様な局面を、どの様に規制するか、それによって規制の効果は微妙に違ってくる。
 例えば、バブルを潰そうとして執行された金融規制の際、ノンバンクと農林系金融機関に対する規制がもれたために、その後、ノンバンクと農林系金融機関が大打撃を受けることになる。
 規制を有効ならしめる為には、市場の仕組みに熟知している必要がある。市場の仕組みを上手く活用しないと規制は有効に機能しない。市場の仕組みに逆らえば、当初期待した効果を上げられるどころか、逆効果にすらなりかねない。

 市場を成立するために必要なだけの貨幣を供給する局面と市場に必要なだけの貨幣を供給した後の局面では、市場環境に違いがある。必然的に、仕組みも、施策も規制も違ったものになる。

 表面的な現象に目を奪われがちであるが、実際の市場取引は、思われているほど複雑なものではなく、単純である。即ち、売りと買いが原則である。売り圧力が強いか、買い圧力が強う科によってお金の流れる方向が決まり、金の流れる方向によって全体の水準が上下するのである。

 この様な市場取引の性格と市場の仕組みを前提として考えると、直接的に取引に介入するような規制は、リスクが高い上にあまり効果が期待できないので得策とは思えない。
 例えば、変則的(イレギュラー)な取引を規制したいと考えた場合、変則的な取引が発生する原因や仕組みを変えるべきなのである。取引そのものに働きかけたり、取引そのものを規制しようとしても狙った効果が上げられるとは限らない。変則的な取引と言えどもその取引が発生した要因がある。又、どの様な副作用、影響がどこに出るかの予測がかえって付きにくい。
 異常な取引が資金の流れに起因している事象ならば、資金の元を閉めるとか、資金の流れに何等かの負荷をかけるとか、資金の流れる方向を変えたり、分散させるのも一つの手段である。又、障壁を設ける手もある。基準を変えるのも効果的である。資金の流すパイプを太くするのも手段である。取引の前提となる条件に範囲を特定したり、制限、制約を設けるのも一つである。規制というのは、仕組みに対して構造的な掛けるものであり、力ずくで抑え込むことではない。
 現代経済の混乱は、負と規制の働きを認めないことに起因している。

 新興国の景気が良くて先進国の景気が悪いというのを言い換えると新興国では物がよく売れて先進国では物が売れないという事である。考えてみれば、これは当然のことである。市場が成熟した先進国では物が売れず、拡大期に入った市場の新興国で物が売れているだけである。問題は、物の流れに対して金の流れが追いついているかである。
 一つは、所得の問題がある。停滞した市場から拡大している市場により多くの物が流れるのは道理である。しかし、その為には、拡大している市場に多くの交換手段、即ち、貨幣の供給がされていなければならない。その為に、所得が新興国の市場に転移する。その時に生じる落差が経済的混乱を引き起こすことがある。
 つまりは、新興国と先進国の市場の問題は、物の問題であり、所得の問題である。それに対して、景気の動向は金銭的な現象だと言う点にある。人、物、金の問題が乖離して別々の動きしてしまうことが問題なのである。

 以前の日本人は、お互い様、お世話様、お陰様と挨拶を交わすことによってお互いの人間関係を確認してきた。このお互い様、お世話様、お陰様という言葉は、双方向の働きを内包している。つまり、日本人はかつて、双方向の人間関係を前提としていたのである。ところが、近年この言葉が廃れてきている。それと伴に、人間関係が一方通行の働きになり、それに連れて人間関係が対立を基礎とした関係に移行しつつある。つまり、社会の行動規範が対立と競争、闘争を基礎とした社会に変質してきた証左である。
 市場競争は、必要である。市場競争は、必要ではあるが、市場の働きの全てを支配しているわけではない。市場競争が有効なのは、貨幣価値が相対的であり、市場取引における相互牽制によって市場価値が定まるからである。しかし、競争が激化するとこの相互牽制が利かなくなる場合も生じるのである。その場合は、競争は、かえって弊害となる。
 何が何でも競争は正しい。競争させればいいといった頑なな態度では経済の実相を掴むことはできない。
 真実を直視する柔軟性こそが重要なのである。





       

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