経済数学

5 経済数学

5−7 収益について


 無闇と数字を操る経済学者ほど数学の本質を理解していない。

 物事を単純化することが科学の一つの方向性である。そのことを多くの経済学者は理解していない。その為に、単純なことをかえって複雑にしてしまっている。

 現代人は、経済というと貨幣的現象だと思い込んでいる。金が全てだと信じて、疑らない。とかく、この世は金次第。命よりもお金が大切だと思っている者すらいる。
 しかし、経済の実体は貨幣にあるわけではない。物としての価値にあるのである。貨幣が前面に出ることで、物としての価値が見失われたことが、現在の経済の問題を複雑にしてしまっている。

 経済の実相は、貨幣上の現象にあるのではなく。生活の実態上に現れる。生活が影なのではなく。貨幣こそが影なのである。

 餓死する者がいる一方で余剰の食糧が大量に発生するのは、経済の仕組みに問題がある証拠である。それはお金の問題ではない。お金の仕組みの問題である。

 数は、一般化、抽象化を突き詰めたところに成り立っている。しかし、現実の世界は、特殊化、個別化、具象化された現実である。

 数量は等質である。貨幣価値は、数値的価値であり、等質である。

 貨幣というのは、いうなれば、目印となる石のような物である。

 貨幣というのは、無意味な物である。要するに、数を表象しただけの意味しかない。図柄や形式に芸術的価値や希少価値を見出す者がいたとしてもごく限られている。

 お金には色がないという。言い換えると数字は数以外の属性を持たないという事である。色がないことでお金はいろいろな働きをする。しかし、色がないだけではお金は何の意味もない。つまり、お金は色がないから便利だけれど、お金は色がないだけでは役に立たないのである。
 つまり、最初に色をなくして使うときだけ色づけをする。それが、お金の特徴である。

 現実の世界は、連続的な世界である。それに対し、貨幣は、分離量である。

 収益の根本は、売買取引である。売買取引は売りと買いからなる。
 売るという行為は、財を渡して金を受け取る行為である。買うという行為は、金を渡して財を受け取る行為である。
 売買取引というのは、財と貨幣の双方向の流れを意味する。又、財と貨幣の二つの要素がなければ成り立たない。それが大前提である。
 又、財と貨幣価値は等価であることが前提となる。どちらか一方の流れだけを見ても取引の実体はつかめない。
 貨幣は、交換を促すことによって価値を顕現する。貨幣その物価値があるわけではない。同時に、交換が価値を持たないと成立しない。逆に言うと交換が成り立たないところでは貨幣価値は生じない。

 我々は物を購入する時、無意識に頭の中で、品名と数量、単価によって貨幣価値に換算する。数量は、外延的な数であり、単価は、内包的な量である。物によっては一個、二個と数えられる物があるが基本的に、数量は、連続量であり、単価は、分離量である。

 スーパーで、一個、百八十円のリンゴを二個三百五十円で売っていたので四個買った。同じ店で百グラム四百三十円の牛肉を買い。途中で本屋によって一冊千二百円の本と三百五十円の雑誌を買った。
 この様に、個々の商品には、固有の属性がある。そして、本来ならば、肉やリンゴを足したり引いたりは、できない。しかし、貨幣という数に換算することによって異質な物の演算が可能となる。その為には、貨幣価値というのは無次元の量である必要がある。そして、物から属性が削ぎ落とされるのである。無次元の量だから、足したり、引いたり、掛けたり、割ったりができる。

 貨幣が物としての属性から交換価値を抽出し数値化するのは、市場において交換を可能とするためである。そして、その結果、物の価値の演算が可能となったのである。しかし、物の持つ本来の価値は、交換に限定されているわけではない。交換価値はむしろ、二義的、副次的価値である。交換取引が完了すれば、物は本来の物としての価値、働きをすることが要求される。そして、そのもの本来の働きこそが経済における一義的な価値なのである。

 貨幣制度は、金、銀本位性から金本位制へ、そして、兌換紙幣の時代、そして、非兌換紙幣へと歴史的に変遷してきた。それに伴って貨幣は、実物貨幣の時代から表象貨幣の時代へと変遷してきた。実物貨幣の時代では、貨幣には、貨幣としての価値以外に物としての価値が合わせてあった。

 実物貨幣の時代では、物として価値と貨幣との価値が必ずしも一致していたわけではない。それが、経済的混乱の原因となってきた。

 実物貨幣の時代におけるインフレーションの原因として貨幣価値下落が上げられる。
 物としての貨幣の価値が上昇したのか。それとも貨幣価値が下落したのかをよく見極める必要がある。物としての価値を有する貨幣は、物の価値としての相場が立つ。物の価値が上昇すれば、貨幣の物としての価値も上昇する。その結果、額面と乖離し、逆に貨幣価値は下落するのである。金が上昇すると金貨の貨幣としての価値は下落する。
 表象貨幣は、物としての価値を貨幣から削ぎ落とすことによって成り立っているのである。

 貨幣的価値と貨幣とを同一視すべきではない。貨幣とは、貨幣価値の尺度に過ぎない。尺度が価値を持つのではなく。
 貨幣的価値とは、貨幣その物を指すのではなく、貨幣が指し示す対象にあるのである。しかも、貨幣価値は、固定的なものでも絶対的基準でもない。貨幣価値は、その時、その時の条件によって変化する。即ち、相対的価値である。貨幣価値は、取引によってその時点その時点で決まる数値である。

 変易と不易。

 今日の経済は、変化を基礎としている。つまり、時間的価値の増大を前提としている。その為に、企業は、成長し続けなければならない。
 企業が成長し続けると言う事は、増収増益を続けることが要求される。その為に、経済が成熟し、成長が止まると途端に経済が立ちいかなくなる傾向がある。

 現代人は、変化に生活の基盤を置いている。それでありながら、今の状況が永遠に続く事を前提にして生きている。そこに現代人の危うさがある。
 土地が高騰している時は、更なる土地の高騰を前提して、土地を買いあさり、株が高騰している時は、株の取引に狂奔する。それが一度反転し、下落し始めると周章狼狽して、将来に悲観的になる。時流に逆らって将来を見通すことは、極めて困難である。
 現代の経済は、変化に基礎を置いている。基礎とする変化も定型的変化ではなく、不定型な変化である。
 不定型な変化は、不確実な要素が多く、変化の先を読み通すことができない。予測がつかない変化を基とする判断は、当然、投機的、博打的な判断にならざるをえない。その為に、堅実で、計画的な経済運営が困難になるのである。
 変化をどう捉えるかが、現代では運命の分かれ目なのである。そして、変化は、時間の関数として表現される。
 実際、経済の根底を成しているのは、衣食住と言った日常品、必需品である。日常品、必需品の多くは、消耗品である。日常品や必需品を扱う市場、産業までもが変化の波に洗われている。それが経済の根底を揺るがせているのである。
 変化する部分と不変的部分をどう経済体制の中に組み込んでいくか。位置付けるか、それが経済の根本問題なのである。

 費用の一部、特に、人件費が下方硬直的である。なぜならば、人件費は、所得という側面を持ち、所得は、消費に関わる変数でもある。故に、削減が困難な要素なのである。人件費を無闇に削減することは、総所得の現象を招き、或いは、消費の減退を招く。処が、目立った変化がなければ、人件費を上げ続ける原資の確保がおぼつかなくなる。

 成熟した市場では、利益率を重視した経営をすべきだとしながら利益重視の経営を国や世間が許さない。儲けというのを罪悪であるかの如く考える思想こそ経済をおかしくする元凶である。損得の問題を善悪の問題にすり替えるのは、危険な思想である。利益をあげることは悪い事ではない。

 経済が一様に成長し続けるのではなく。状況によっては、経済は成熟し、或いは縮小することもあり得るのだという前提に立たないと、経済は停滞が始まった時、破綻する運命にある。

 変化に価値を見出すのか。不変的なものに価値を見出すのか。その時々の状況による。
 ただいずれの状況においても、変化している部分と不変的な部分を見極めることが重要となる。

 近代会計制度の基づく自由主義経済というのは、基本的に収益を中心にして組み立てられている経済体制である。その点を常に、念頭に置いておく必要がある。

 収益の値に影響を及ぼす要素は何か。
 一つは、市場の環境、即ち、需給関係である。今一つは、費用である。費用の根源は、付加価値である。付加価値の主要な部分は労務費によって占められる。
 費用というのは、突き詰めてみると労働費に還元される。労務費は、人件費である。人件費は所得である。それは、費用の持つ本来の機能を示唆する。即ち、費用構造とは分配構造なのである。

 収益とは、分配のための原資であり、費用とは、分配の実現である。そして、経営は、分配のための手段である。その実体を測定するのが会計である。
 原資が少なく、実現が多ければ、当然、経営は成り立たなくなる。故に、利益が必要となるのである。つまり、利益というのは、原資と実現の差である。
 また、経営機関は、分配のための機関であるから、分配のための道具である現金を貯蓄する機能は持ち合わせていない。現金は、経営機関を通過して循環するのである。いわば経営機関は心臓であり、心臓に血液がたまるのは心臓の病気であるように、経営機関に現金が貯まるのは、経営機関の病気だといえる。

 収益は不確実な要素が多く。費用は確実な要素が多い。収益は変動的部分が大きく、費用は、固定的部分が多い。尚かつ、情報は、送り手と受け手の関係は非対称である。故に、市場には規律が必要なのである。規律は、法と道徳によって守られる。

 期間損益というのは、単位期間を設定することによって、短期的資金の働きと長期的資金の働きを区分することによって成り立っている。

 期間損益においては、単位期間が重要な意味を持つ。金利で言えば、単位期間ないでは、金利は単利に設定され、単位期間を超えると複利に働くように設定される。つまり、単位期間内では、差が基本となり、単位期間を超えると比が基本となるのである。差が基本と言う事は、演算は、加減により、比が基本と言う事は、乗除によることになる。
 単位期間を超えると指数的変化に変わる。

 収益は、単位期間内において消費される資金と単位期間を延長して効力を発揮する資金の働きとを、会計基準に則って仕訳することによって成立する。

 そして、期間損益では、資金の働きの結果が収益に反映されてはじめて評価が定まる仕組みなのである。

 現在の経済政策で問題となるのは、短期的資金の働きと長期的資金の働きに対する認識が混乱していることにある。その為に、短期的資金に対する対策と長期的資金に対する対策が混ざり合い、明確に区分されないまま場当たり的に行われている点にある。

 例えば、補助金のような形で資金補填をしても収益に反映されなければ、一時的な効果しか発揮されない。抜本的な対策というのは、企業が収益を維持できるような環境を作り出すこと以外にないのである。

 時間価値は、付加価値に現れる。又、付加価値によって作用する。

 費用の中にも長期の働きと短期の働きが入り込んでいる。
 費用構造で決定的な役割を果たす要因は、長期的な観点からすると人件費と設備投資である。短期的には、原材料と為替の変動、金利が景気動向の方向付けをしている。
 基数の変化としては、着工件数を例にとると新設需要を基数とするか更新需要を基数とするかによって違ってくる。

 年功序列、終身雇用は、成長経済だから成り立つ制度である。成長によって年功制度の歪みを是正することが可能だった。
 つまり、長期と短期の貨幣価値の均衡が計れなくなるのである。

 長期的な経済変動に与える費用は、人件費が核となっている。なぜならば、購買力と物価の上昇をもたらすからである。購買力と物価の上昇は、通貨の上昇をもたらす。また、人件費の水準は、生産拠点の移動にも結びつく。

 経済学の中に経営学を取り込んでいく必要がある。

 経営責任を問題にするが、誰がやっても利益が上げられない環境というのもある。経営者が問題なのか、経営環境が問題なのか、その点をよく見極めて対策を立てないと、経営者の倫理観もおかしくなり、結局、経営者も、環境も問題となるような事態になる。そうなると経営者の責任ばかり追及しても問題の根本的な解決にはいたらない。

 自動車産業が好例であるが、かつては、個性的な自動車メーカーが成り立つ余地があった。しかし、現在の状況は、個性的な企業が成立する余地がどんどんと狭まり、市場は、寡占、独占的状況に向かいつつある。
 手作りの自動車や改造自動車を専門とした自動車メーカーが収益をあげられるような下地作りが重要なのである。

 量から質への転換ができなければ、市場は荒廃し、均一化される方向に向かうであろう。

 赤字になったことばかりの責任を問うて赤字になった原因を問題としていない。確かに、経営者の責任もある。しかし、どんな経営者にも避けられない出来事があるのである。
 地震が起こったことの責任まで経営者に問うような仕打ちは酷なことである。
 為替の変動や原油価格の高騰は、経営者にとって不可抗力な出来事である。

 成熟した市場と成長過程にある市場が混在し、収益構造に歪みが生じていることが問題なのである。しかも、国家間の歪みを適正に調節できないのが問題を更に深刻にしているのである。成熟した市場の国は成長過程にある国に対し、費用上や為替上に競争力において常に不利な立場に立たされる。その為に防御上、保護主義的にならざるをえない状況にある。工業化が進めば技術力の差は決定的な要素にはならない。

 成熟した市場を持つ国や地域の収益には下方圧力がかかる。
 成長過程にある市場の国や地域の収益には、上昇圧力がかかる。
 収益構造、即ち、費用構造をどう認識するかに依って施策は違ってくる。
 成熟市場を持つ国は、過去の成長に基づく奢りがある。

 適正な収益を維持するためには、収益を支える柱が必要となる。収益というのは裏返すと費用構造である。又、利益は時間価値であり、その基準は金利である。金利が維持されなければ時間価値は消滅する。かといって金利の設定を間違うと急速な物価上昇を招く。
 収益を維持するのは、会計制度と市場の規制である。単純に、規制と保護主義を同一視するのは間違いである。逆に、保護主義的色彩が強い規制は、市場の機能を破綻させてしまう。保護と言っても自国の産業を保護するためではなく。市場の働きを保護することに眼目がある。

 無原則な競争を奨励すれば、市場は規律や秩序が保てなくなり、荒廃するだけである。品質や安全、メンテナンス、サービスに於いて規制すべきなのである。

 日常品で、必需品ほど時間と伴に、収益力が悪化する。逆に、贅沢品や希少品、非日常品ほど付加価値が高くなる傾向がある。それが現在の経済の問題なのである。日常品や必需品の収益が時間と伴に収益が悪化するのは、時間価値が収益に反映、換算されないからである。収益は頭打ちなのに、費用には時間価値が加算される。故に、利益率は時間と伴に悪くなるのである。

 発展段階が相違した市場が混在する経済情勢で収益を維持するための仕組みの好例は、変動為替制度である。今日問題なのは、為替の変動が制御不能な状態に陥らせる動きが存在する事である。

 産業は発展期には、安定するが、成熟期には不安定になる。発展途上国の経済が活性化し、先進国の経済が衰退するのは、先進国から発展途上国への富の転移である。高きから低きに水が流れるのように、ある意味で歴史的必然である。

 それは、産業構造の問題である。つまり、産業の収益構造の問題である。特に、長期資金が産業に与える影響をよく理解しないと対策は立てられない。重要なのは、その産業が果たしている国家的、社会的な役割をどう評価するかにある。

 なぜ、航空会社は赤字になるのか。多くの鉄道会社が赤字となり、清算された。又、国鉄も大赤字になり、民営化された。
 民営化されると黒字化する産業もある。逆に、民営で成り立たなくなり、国営化される場合もある。
 民営、民営と馬鹿の一つ覚えのように、民営化は、万能薬のようにもてはやされるけれど、なぜ、航空会社や銀行の一部、又、GMの様な製造業を国営化せざるを得なくなったのか。

 どこから、どこまでを民間に委せていいのか。又、経営責任とは何か。経営者の報酬の妥当額はどれ程なのか。それはある意味で思想的問題である。

 航空会社の国際線は、人件費の差が競争力の差になる。

 人件費の基盤の差は為替である。内的費用と外的費用は、為替の変動によって顕著に現れる。内的費用は、内部において固定的費用でも、外部に対して変動的である。外的費用は、内部に対して変動的でも、外部に対しては外部の変動に伴って動く費用である。この事は、為替の変動に対して、顕著に現れ、為替の変動は、通貨圏内部では、内的に費用に対して陰に作用し、外的費用に対して陽に作用し、通貨圏の外部に対して内的費用は陽に作用し、外的費用は陰に作用する。

 医療の問題や年金問題も深刻である。公的機関でうまくいかないから民営化してしまえと言うだけでは、根拠が薄すぎる。

 経済制度というのは、基本的に、相互牽制と均衡の仕組みである。相互牽制と均衡が市場の働きを規制し、産業の構造の重要な要素なのである。
 それを念頭に置いて収益構造を考えるべきなのである。なぜ、何のために期間損益が形成されたのか。それは、期間損益を通じて経済の相互牽制と均衡を測る為なのである。
 収益構造は、数直線として表すことができる。

 収益構造は時間の関数でもある。収益は、時間的価値である。

 時間と時刻は、変位と位置を表す。位置は時刻で変位は時間である。時間は、連続量であり、時刻は、分離量である。この関係は、損益と貸借に端的に現れる。損益は時間の関数であり、貸借は時刻の関数である。損益は時間が陽に作用し、貸借は、時間が陰に作用する。

 期間損益は、貨幣の長期的働きと短期的働きを区分したものである。

 貨幣の働きを決定する要素には、第一に、長期と短期、第二に、固定と変動、第三に、位置と変化、第四に、比率と差、第五に、相対値と絶対値がある。

 そして、経済活動は、回転×率に還元できる。例えば、成長は、総資産回転率と利益率の積である。

 経済の動きを知るためには、国内総所得と通貨の発行残高をどう結び付けるかが重要なのである。そして、鍵を握っているのが回転率である。

 金融機関が貸付金を負のように見るのは、とんでもないことである。貸付金は金融機関にとって利益の源泉のようなものである。
 問題は収益の悪化にある。仕事を斡旋してでも収入や所得の確保を計るべきなのである。

 会計上の価値は、調達された資金がもたらす価値が全てでそれ以上でもそれ以下でもない。調達された資金とは、負債と資本と収益によって調達された資金の量である。
 経済的価値の中には、非貨幣的価値が多く存在する。しかし、会計上は、その非貨幣的価値は計算されない。計算されないのは、計算できないからである。
 会計上の価値は、書籍を例にとるとどんな名作も駄作も、どんなに崇高な作品も不道徳な作品も売上、即ち、数量×単価の総量によって計られる。つまり、総売上高が大きい書籍の方が価値が大きいことになる。それがメディア会の本性である。しかし、それだけが価値の全てでないことは自明である。真の価値の全体は、会計上に全て表れるわけではない。それを見誤ると上っ面だけの社会になってしまう。

 生産の効率は、製造業で図られるべきであり、分配の効率は、流通業、消費の効率は、家計とサービス業の分野で図られるべきなのである。効率の基準を一様に考えるべきではない。

 流通業は、流通の効率化を計るべきなのである。流通の効率には、物流の効率化だけでなく、所得の効率的配分と雇用の促進が含まれている。
 その意味で、無原則な競争は、流通の効率を阻害する。

 人気なく薄暗い巨大な倉庫のような店舗とセルフサービスによるファーストフード、そして、失業者が又に溢れる社会を理想とするのであろうか。それとも、賑やかな市場と事が行き交い、社交の場としての商店街のある社会を描くのか。重要なのは、どの様な社会を基本とするのかである。その上での効率性や生産性である。

 人は、他人の不幸に自分は、無関係でいられると思い込みたいものである。しかし、隣に不幸な人がいたら、自分の幸せが保てるという保証はない。幸せな時は、自分だけで実現できる状態ではないからである。

 安売り業者が跋扈している。安売り業者ばかりが栄えて街の小売業者や百貨店は衰退している。その為に、販売の質は、どんどんと低下している。
 日本は、お金があって、物が豊かなはずなのに、なぜ、国民生活が貧しく見えるのか。安売りが横行する背景で使い捨てや、大量消費が横行している。浪費は美徳とされ、物を大切にしようという精神が忘れ去られていこうとしている。
 サービスは、セルフサービスに基本になりつつある。サービスに価値が見出されなくなりつつあるのである。要するに、サービスなんていらないのである。
 豊かさとは、生活の質にある。価格だけで生活の質を判断することはできないのである。安ければ良いという発想の根底には、精神の貧しさがある。
 ゆとりのある生活というのは、ブランド品を買いあさる一方で粗悪品を使い捨てするような生活を意味しているのではなかった。質素でも品質の良い物を丁寧に大切に使っていく生活を言うのである。私は、物を粗末にするとこっぴどく親に叱られた経験がある。食べ物も食べ残すことは許されなかった。使い捨てと飽食が奨励される社会は、精神的に未熟であり、どこか歪(いびつ)に私には、思える。

 いい本とよく売れる本とは違う。

 全ての価値を計数化、計量化するのは、分かり易い反面、間違いや錯覚を犯しやすくもする。

 書籍の価値は、書籍の値段や販売数量、売上高で決まるわけではない。書籍の価値は、本来、書籍の内容で決まるものである。映画の倫理性は、興行の是非によって判断されるべきものではない。制作者の道徳性の問題である。
 本質とは、まったく別の次元で経済的価値が測られている。
 金儲けのためなら、何をしても良いというわけではない。
 それは、経済の問題ではなく。倫理観の問題であり、政治や社会の問題である。経済的価値は、倫理性や社会性から切り離されて存在するものではない。犯罪は、犯罪なのである。強盗も泥棒も犯罪なのである。麻薬を売ることは犯罪なのである。金が儲かるからといって許されているわけではない。
 ところが、今のマスメディアは、何でもかんでも金銭的価値によって是々非々を判定しようとする。それは文化的退廃を意味する。文化的退廃は、経済、市場を荒廃する。
 なぜならば、経済とは、生きる為の活動だからである。文化的退廃は、生活の質を劣化させる。それに伴って経済も劣化するのである。道徳観なき経済は、経済ではない。

 値段が安いか、高いかだけで議論をするのは愚かなことである。
 要は適正な価格であり、過剰な利益が発生していると判断されれば競争を促進し、利益が不足していると思えば競争を抑止する政策がとられるべきなのである。一番、拙いのは、政策が硬直的になり、一方向的に規制することである。危険なのは、思い込みである。
 競争競争と市場を煽り、結果的に寡占、独占的市場を現出させている。
 競争を闇雲に煽れば過当競争的市場になる。しかし、それはやがては淘汰され、寡占、独占におちいるのは解りきったことである。少し頭を冷やして考えれば、子供でも解りそうな道理である。
 だからこそ、市場の規律を守るために、細心の注意を払ってきたのである。それを、規制緩和の大号令の下に根底から覆してしまった。その結果に対して誰も責任をとろうとはしていない。

 差は加減の元となり、比は、積と商の元となる。
 収益を見る時、幅が重要なのか、率が重要なのかを見極めることが肝要となる。

 比率には、全体に占める割合という意味と、変化の度合いという意味がある。
 税率や国債比率、流動比率をどちらとして考えるかによってまったく違った見方ができる。

 総資産と費用、負債、資本、収益の比率は、産業や企業構造によって差が生じる。
 総資本が利益に与える働きが鍵を握っている。それは、資産と費用との関係から求められる。それは資産がどの様に、どの様な費用に転化するかによって決まる。そして、その費用の在り方と長期借入金、長期資金との関わり方が利益に及ぼす影響が問題となるのである。いずれにして、鍵を握っているのは収益の確保である。なぜならば、費用と言った短期資金や借入金の返済といった長期資金の回収を賄っているのが収益だからである。

 景気の変動の背後には、収益構造の変化が隠されている。

 収益が経済に決定的な働きをしている。収益には、経営努力によるよって改善される要素とそうでない要素がある。経営努力によって改善できない要素は、社会的問題である。故に、景気を維持するためには、収益構造と働きを明らかにする必要があるのである。

 収益に対して影響を及ぼす要素にはどの様な要素があるか。それを明らかにすることが収益の構造を考える上で鍵になる。

 物としての価値と貨幣価値は必ずしも一致しているとは言えない。そこに問題がある。単純に経済的価値を需給関係に求めると経済の実相を見失うことになる。
 空気は、人間が生きていく上で不可欠な物であるのに、市場価値は小さい。それに対し、ダイヤモンドは人間が生活する上でなくてはならないというわけではないのに、市場的価値は高い。
 空気は、常に、無料というわけではない。水の中では、空気も有料となる。その時、空気の価格の基礎となるのは、空気を水中でも使用できるようにするために必要とされた費用である。市場だけが価格を決めているわけではない。

 収益は、単価と数量の積である。故に、収益は、単価を構成する要素と数量を構成する要素によって変動する。即ち、収益は、単価的要因と数量的要因によって構成されている。単価的要因は、市場価格、取引価格であり、数量的要因は、生産量や販売量、在庫量を言う。
 単価とは、単位価格である。単位価格に影響を及ぼす要素の一つが為替である。為替は、貨幣価値の濃度によって決まる。

 収益というのは、売上が主たる要素である。故に、収益と収入とは、異質な要素である。なぜならば、収入の伴わない売上もあるからである。

 単価は、内包量であり、数量は外延量である。売上は外延量である。

 単位量と変動率を掛けた解が、運動量である。運動量は積によって求められる量である。

 売上は、単価×数量、或いは、単価×単位時間の量によって表される。
 売上の単位は価格である。

 価格は、経済財の経済的価値を貨幣価値に置き換えた値である。価格は、一回一回の取引によって定まる数値である。

 価格と取引は一対一の対応である。取引は、作用反作用の関係を生み出し、対称性を持つ。つまり、一つの取引の裏には、必ず反対取引が存在する。そしてそれは価格に反映する。

 価格には、固定した価格、即ち、定価と市場の相場によって決まる変動価格がある。

 我々は、観光に行くとよく観光地料金というのに出会す。観光地では、おみやげ物の価格や飲食代が、通常の料金よりも割高に設定されている場合が多いからである。
 また、季節の変わり目では、バーゲンセールは好例になっている。一見定価で売られていると思われる商品でも自棄や場所によって違いがある場合が多い。
 定価販売というのも貨幣経済が生み出した形態の一つだといえる。
 価格というのは、相対的であり、個々の取引によって決められていると言っていい。つまり、価格という単位は、普遍的単位ではなく、個別的単位なのである。

 経済取引では、内包量は、必ずしも既知でも、一定な数字でもない。また、値の決め方、決まり方が重要となる。

 価格は単独に形成されるものではない。価格を形成するのは、財を構成する外的制約、及び、内的構造である。
 外的制約というのは、市場環境と市場の仕組みなどを言う。内的構造とは、収益の構造である。

 収益を左右する構造に原価構造がある。原価というのは工業簿記上、一つの製品を製造するためにかかる費用である。原価と商業簿記上の費用とは、必ずしも一致しない。
 また、一個あたりにかかる費用と総原価とは違う。

 原価計算の仕方によっては収益構造は変化する。
 原価構造に一定の歯止めをしないと大量生産型の企業が、会計上は、圧倒的な競争力を発揮する。初期投資による固定的費用は、販売数量に関係なく発生するから、損益分岐点からみて、可能な限り、生産し、販売することが利益に貢献するからである。

 固定費が高い、投資資金を早期に回収しようとして薄利多売に陥る場合が多い。
 製造業には、損益分岐点があり、分岐点を超える数量まで販売数量を伸ばそうとする。分岐点に達するまでは、採算がとれないのである。又、投資した資金の回収もされない。大規模な装置によって大量生産をする事によって単位あたりの費用を抑えようとすればするほど、初期投資、固定費のは巨額になるのである。その結果、市場は熾烈な争いの場となり、資金が続かない、即ち、資金力がない中小企業から淘汰されてしまう傾向がある。

 流通業と製造業では、費用構造が違う。必然的に会計構造も違ってくる。収益源も国内の市場を基盤とする業種と海外を基盤とする業種には差がでるのが当然である。同じ土俵で取り扱う方がおかしい。内需型産業と外需型産業とは収益の在り方が違うのである。
 流通業は、一般に市場は狭く、局地的、ローカルな規模である場合が多い。逆に、製造業は、市場が広く、世界的な規模になる場合が多い。その為に、為替の変動の影響を製造業は直接的に受けやすい。

 小売業者や個人事業主がやっていけない、つまり、小売りや個人事業が成り立たなくなったら流通事業は、味気ないものになってしまう。第一公正な競争が成り立たなくなってしまう。

 価格は市場だけで決められる値ではない。市場は、あくまでも需給関係を調整するのが基本的働きである。製品を製造するため、或いは、開発するための費用は、原則的に斟酌しない。
 利益は、会計計算上創作される値である。前提や基準によって大きく変化する。また、利益を算出する上で根拠となる費用は、原価計算の仕方によって大きく違ってくる。損益分岐点では、大量生産をすればするほど単位あたりの固定費を抑えることができる。そうなると数量を重視した価格設定によって大量販売を企業は、画策するようになる。
 その結果、過当競争、乱売合戦になり、大資本による大量生産型企業によって価格は、原価を割り込んで低くなる。
 資金力ない中小企業は淘汰され、市場は寡占独占状態になり機能が低下する。

 市場原理主義者、即ち、市場は、無規制な場として無原則な競争だけに価格の決定権を委ねようとするという考え方にたつと、収益は限りなくゼロか、最低限度を目指すことになる。

 市場原理主義者には、適正という概念が欠落しているのである。市場に求められているのは規律であって、放置、放任ではない。それが法治主義である。

 重要なのは、一定の範囲であり、一定の幅である。一定の範囲と一定の幅の中に収まるように調節することが重要となる。それが適正な価格の決め手である。

 又、考慮しなければならないのは、情報の非対称性である。市場の情報には、非対称性がある。しかも、規模の拡大は、情報の非対称性を深化させる。市場であろうと、組織であろうと規模が拡大すれば、情報の非対称性は、拡大するのである。
 規模が拡大すればするほど、情報の非対称性は、深化する。故に、品質の保証は、市場の信認を維持するために規制されなければならなくなるのである。
 自分の身の回りで生起する出来事に対しては、良く熟知しているが、遠くで起きた出来事に対しては、情報が稀薄となる。或いは、定型化し、標準化した情報しか得られなくなる。その為に、象徴化されたものを先行する傾向が強くなる。個性的な店舗よりも、チェーンかされた店舗を信頼するようになったり、テレビコマーシャルの頻繁に出る商品を信じるようになる。これは政治の世界でも現れる。その結果タレント議員やプロスポーツ出身の国会議員が増えることにも成る。
 いずれにしても情報の非対称性は、財を財その物の持つ価値から、財が表象している価値へ財を選ぶ基準を転移させてしまう。





       

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