経済数学

5 経済数学

5−8 費  用


 経済の教科書には、希少だから価値があるというような記述がよく見られる。
 希少性に価値があるわけではない。経済性は、希少性だけに依存しているわけではない。生産にかかる費用が価値を構成するのである。希少な物は、それだけ費用がかかっているのである。
 何が何でも安ければいいというわけではない。適正な利潤を上げる事が目的なのである。適正な利潤というのは、適正な費用に基づく。収益に合わせていたら適正な費用は維持できなくなるのである。今日、経済を破綻させている一番の原因は、適正な費用を維持できないことにある。
 会計は、期間損益を計算するために、現金収支を加工した数値である。期間損益を加工する過程で利益を操作することができる色々な要素が混入した。会計上の費用を操作して利益を出すことが、大企業ほど容易くなったのである。その為に、適正な費用を維持することが困難になってきたのである。
 問題は、利益操作によって市場を独占しようとする傾向が高まり、健全な企業や産業の育成が難しくなったことである。それが、市場を荒廃させ、産業を衰退させる原因となっている。
 流通の段階にまで、生産における効率基準を持ち込むのは、間違いである。
 例えば、料理を工場で作る製品と同じように扱うのは間違いである。ファーストフードで扱う料理の中には、工場の製品と同じように扱える商品もある。だからといって全ての料理を流れ作業によって企画通りにつれば良いというのは乱暴である。
 費用は、費用を掛けるだけの意義があるのである。その意義の最も核心的な部分は、人間の本質的な部分と重なっているのである。
 その核心的部分は、人間、いかに生きるかという点にあり、どの様な空間に生きていこうとするのかと言う問題よって構成されているのである。
 ただ費用は削減すればいいと言うのではない。費用がどの様に人間の生き様や社会と関わっているのかが重要なのである。

 景気は、費用によって左右される。

 不景気になると費用や借金は、何かと目の仇にされる。兎に角、借金や費用を減らせと言う大合唱が起こる。そして、合理化の名の下に経費や人員の削減が行われる。
 それが経済的合理主義だといわれる。しかし、本当に経済全般から見て、経費や人員削減は、いい効果をもたらすのであろうか。

 費用というのは、分配を担っている。負債と費用は、まるで、厄介者扱いをするが、実は、自由主義経済において重要な機能を果たしている。
 貨幣は、交換の手段であると同時に、分配の手段である。分配は、貨幣経済において重大な次元を形成している。

 費用というのは、裏返してみると所得である。費用を削減すると言う事は、所得を削減すると言う事と同義なのである。
 経費を削減すれば、取引相手の収益は減少する。人員を削減することは、雇用の減少を招く。取引は、連鎖によって成り立っている。費用を削減すると言う事は、負の連鎖の始まりを意味するのである。

 費用が経済の実体的部分を担っているとも言える。費用を削減しすぎると実体経済に支障が生じるのである。生産性や効率性も突き詰めすぎると景気の停滞を招く。それを避けるためには、費用の実際の働きを知る必要がある。

 費用を成立させている対象や要素は、人々の活動を成り立たせている要素なのである。その基準は、必要性なのである。費用が成立しなくなれば、生活が成り立たないのである。

 費用というのは常に悪者扱いを受ける。しかし、費用こそが経済の原動力なのである。費用を裏返せば所得であり、消費である。所得と言う事は分配である。つまり、費用を削減することは、所得や消費を削減する事を、同時に意味するのである。安直な費用の削減は、所得や消費の偏りをもたらす。それが問題なのである。

 経済的合理性というのを単に利益の追求だというのは間違った思い込みである。経済は、単に金儲けを意味するのではない。又、物の分配だけが問題なのではなく。所得の分配も重要な経済の役割なのである。

 経済の根本は分配にある。それも、物の分配だけでなく、所得の分配も意味する。そして、所得を保証することは、経済的自立を意味し、身分を保証することにもなる。それは自由を保証することでもある。

 合理性というのは、一定の前提に基づいて論理的手続きに従って結論を導き出そうとする精神を言う。短絡的に利益を絶対視するような姿勢を言うのではない。重要なのは何を前提とするかである。前提を間違えば、必然的に結論も間違うことになる。だからこそ、その前提が問題意識を構成するのである。

 借金や費用というのは、経済的には負の働きがある。しかし、負の働きがあるから、正の働きが機能する。負の働きを是非善悪で捉えるのは危険なことである。
 貨幣経済は、正の価値と負の価値の均衡によって成り立っている。つまり、正の働きと同量の負の働きがあって経済は成り立つのである。負の働きを抑制すれば、同量の正の働きも抑制されるのである。

 利益は、収益と費用の差である。収益の主たる部分は、売上である。利益は、売上と費用の差額だと言える。そして、経営の目的を利益の追求だと割り切ってしまうと、経営目的は、収益の極大と費用の極小の追求と言う事になる。又、その様に思い込んでいる経営者や経済学者が現在では、多数派をしめている。
 それは、利益中心主義的な思想によって経済学が支配されていることによる。利益中心主義に立てば、費用に否定的にならざるをえない。

 しかし、経済の本質は、収益の極大化と費用の極小化を意味するのではない。経済の生産の効率という観点ばかりで経済を見ると経済本来の役割を見失ってしまう。
 ひたすら利益を追求するとなると、費用というのは限りなく少なくなればいいという事になる。しかし、それはともすると不経済に繋がる。だから、使い捨てによる無駄遣いが横行する一方で、合理化による雇用の削減がまかり通るのである。人が生きていく上で、何が必要で、何が不必要なのかという視点が、経済から抜け落ちてしまっているのである。
 間違ってはならないのは、利益も、生産性も、本来社会的概念だと言う事である。生産というのは、社会にとって有用な物を社会に必要なだけ経済的に効率よく生産することを意味している。この場合、経済的生産性とは、単純に時間あたりの生産量ばかりを意味しているわけではない。
 利益というと金銭的な問題である。そして、生産性は、物の経済である。しかし、一番肝心なのは、人の経済である。それは、労働と所得の問題である。
 現在でも、所得を分配するために、わざわざ仕事を創出しているのである。しかし、一番大切なのは、社会の中に、労働と分配を結び付ける仕組みが組み込まれていることなのである。無理に、或いは、無駄に、仕事を創る必要はないのである。

 経済を単に、利益の極大化だなどと考えると経済の本質が見えなくなる。経済の根幹は、労働と分配であり、分配も、物の分配だけでなく、所得の分配があることを忘れてはならない。
 即ち、費用と所得は、表裏をなすものである。そして、所得は消費と貯蓄の原資である。
 一つの企業の内部取引の結果として損益を考えるから、費用の役割が見えなくなるのである。市場経済を構成する取引は、企業にとって外部取引の方が主たる取引なのである。
 自分の支出があるから他者の収入があり、他者の支出があるから、自分の収入が計れるのである。自分の支出をひたすら減らせば、結果的に、他者の収入を減らすことになるのである。
 支出は、他者の所得となり、他者の所得は、消費と貯蓄の原資となる。消費は、生産者の収益となり、貯蓄は、金融機関に対する貸付、融資となる。このように経済は取引の連鎖によって成り立ち、取引の連鎖によって貨幣は、社会の隅々まで循環するのである。
 経済は内部取引と外部取引の均衡の上に成り立っていることを忘れてはならない。

 経済は、生きる為の活動をいい。人々が生きる為に必要な物資を分配する仕組みが、経済制度なのである。物資を分配するための手段として貨幣があり、その貨幣を労働に基づいて配分するのが国家や事業体なのである。お金儲けは手段に過ぎず。目的ではない。言い換えると利益は手段に過ぎず、目的ではない。そして、所得の分配において重要な役割を果たしているのが費用の部分なのである。費用は邪魔な部分どころか、最も肝心な部分なのである。

 費用というのは無駄な出費を意味するのではなく。費用こそが経済の根幹をなす要素なりである。この点を正しく理解していないと経済を在り方を見誤ることになる。今日の経済が停滞する最大の理由は、費用を過剰に削減してしまうことにある。

 聖書にも落ち穂を拾うなと書かれている。つまり、経済というのは、分配の仕組みなのである。それを前提として適正な利潤をあげるために会計制度はある。それがいつの間にか、競争力をつけることばかりが偏って重視され、費用を最小限に抑えることに目的がすり替わってしまった。

 今日、我々が通常使用する費用とは、会計上の概念である。つまり、費用は貨幣的な概念である。しかし、貨幣制度が定着する以前は、必ずしも、費用を、貨幣的な概念と認識していたわけではない。
 本来、費用の元となる概念には、物的な対象や人的な対象を含んでいた。つい最近まで、医者に対する謝礼を「お金」のない者は、物で支払っていたし、又、借金の形(かた)に人が取られたりもした。税金の多くは物納や使役であった。
 農作業は、村中、総出で行ったりした。つまり、「お金」が全てではなかったのである。費用が、「お金」で考えられるようになったのは、貨幣経済が浸透し、又、会計制度が確立されてからである。つまり、費用の根底には、貨幣以外の要素が働いているのである。ただ、それは、貨幣経済に支配されるに従って経済の表層から埋没してしまったのである。

 「お金」のない時代、世界では、今日的な意味での費用の概念は成り立たない。

 「お金」のない時代は、猿のような群を作る動物のように、人間も、家族を中心にして集団を組んでいたのであろう。その様な時代や世界では、食料の採取も家を建てるのも共同作業であり、お互いの協力関係や力関係によってそれぞれの役割が決められた。つまり、労働や必要物資を商品、即ち、貨幣価値のある物として認識されていなかった。
 しかし、費用の本質は、貨幣のあるなしに関わらず存在していたはずである。つまり、費用の対象となる物や行為は、貨幣とは関係なく存在しているのである。
 貨幣価値に換算されない労働は、非貨幣的労働である。
 今でも、家庭内労働は、非貨幣的労働である。その為に、家庭内労働を費用として、翻って言えば、仕事として社会的に認知されていない。そのために、家庭内労働に従事する者が、隷属的な地位におかれている。それが問題なのである。

 経済は、オリンピックではない。勝つことや記録を作る事に目的があるわけできない。そのオリンピックにも、規則はある。競争は規制を緩和することなどと言うのは世迷い言である。規制をなくすことで公正な競争が保証されるのではない。むしろ、逆である。規制をなくせば公正な競争ではなくなる。ただ、規制がなければ、規制に対して防いではないと言うだけである。それは不正な行為を正当化する詭弁に過ぎない。
 競争の重要性というのは、競争の為の規制があってはじめて意味がある。その為には、適正な利益をいかに算出するかが肝心なのであり、その根拠となるのは、適正な価格である。

 つまり、重要なのは利益の追求よりも適正価格の維持にあるといえる。

 そして、適正な価格は、需給関係からのみ導き出されるわけではない。適正価格の核となる部分は、むしろ費用である。そして、費用の中に操作が可能な勘定科目が入り込んでいることに注意すべきなのである。
 費用の中には、基準によって値が変化するものがある。又、設定条件によっても違ってくる。表に現れない費用もある。又、資金の流出を伴わない費用もある。これらを操作することによって見かけ上の収益や費用、その結果である利益は操作することが可能なのである。

 需要と供給は結果であって原因ではない。需要と供給だけで適正な価格が定まるというのは、幻想以外の何ものでもない。価格を決定する仕組みを需要と供給の働きだけに委ねるのは無謀なことである。
 価格が反映されるのは、期間損益である。そして、期間損益に決定的な働きをするのは、需給関係よりも固定費と変動費の費用構造である。また、期間損益の中には、短期的な需要や供給に影響されない科目もある。利益を出すだけならば、需給に依らなくても可能である。要するに、需給関係のみで価格決定の仕組みを捉えていたら、価格決定の本当の仕組みが見えなくなる。価格決定上において重要なのは、費用が適正に価格に反映されているかである。その為には、単価に対する固定費が適正に配分されているかが、鍵となる。

 適正な価格を形成するために、適度な競争が必要である。しかし、何でも度をすごすのは良くない。確かに、競争がないのも良くないが、過度の競争も問題がある。

 それは利益が操作することが可能だからである。利益が操作することが可能である以上最初から公正な競争など成り立たない。しかも無理な競争は、実質的な利益を損なう危険性があるからである。その為に本来還元されるべき費用が費用が還元されずに体力のない者から淘汰されてしまう危険性があるのである。つまり、競争は、不正を行う者に有利に作用することがある。

 現在市場で決められている適正な価格というのは、会計上において適正と言うだけである。

 会計は、適正な費用の算出と維持にあると言っていい。利益は、収益と費用の差に過ぎず。実体はない。収益は、取引の結果であり、費用は、価格の原因である。
 その為に、競争が有効なのである。なぜならば、費用は相対的な値だからである。しかし、競争によって必要な費用まで賄えなくなったら、それは本末転倒である。マスコミは、競争を煽り立て、何でもかんでも安ければ良いという風潮がある。しかし、過度の安売り合戦は、市場を荒廃させ、経済に壊滅的な打撃を与えることもあるのである。

 肝心なのは、何を競うべきなのかである。価格なのか、サービスなのか、品質なのか、それとも、アフターサービスなのか、安全なのかである。今日では、情報や環境、資源保護なども重要な要素となりつつある。これらの要素を無原則な競争に委ねていいのか、甚だ疑問なところである。

 公正な競争を維持するためには、適正な収益構造が保たれることが前提となる。
 収益構造というのは、裏返してみると費用構造でもある。

 経済的指標で重要なのは、費用に占める管理可能費と管理不能費の割合である。管理可能費と管理不能費の是非が問題なのではない。管理不能費の比率が大きくなればなるほどその産業や企業の費用は硬直的となるという事が重要なのである。管理不能費は、固定費を構成し、管理可能費は変動費を構成する。
 管理不能費が大きい、即ち、固定費が大きい産業や事業は、その原因を解明する必要がある。固定費は、費用を硬直的にするからと言って闇雲に削減すればいいと言うわけではない。費用というのは分配を担っており、所得の原資でもある。費用を闇雲に削減することは、所得の減少をも招くのである。

 固定費と変動費を見る場合、注目すべき点は、変動費と固定費の動きが、全体で見た場合と製品単位あたりで見た場合では逆転すると言う事である。つまり、内部構造の動きが全体と部分では逆転するのである。
 それが収益構造に重大な影響を与え、営業活動に決定的な作用を及ぼしている。この点を見落とすと公正な競争は維持されなくなる。つまり、単価の維持か、量の拡大かの分岐点を意味するのである。

 競争は手段であって、目的ではない。況や、原理ではない。競争は、適正な価格を維持するための手段である。即ち、競争の目的は、適正な価格を維持することにある。競争によって適正な価格が維持できなくなった場合は、競争以外の手段を講じるべきなのである。競争を絶対視するのは危険なことである。

 適正な価格を維持する手段として競争が有効に機能するためには、公正な競争を実現できるかにかかっている。公正な価格を実現する為には、市場のルール、規律が守られることが前提となるである。
 即ち、市場に要求されているのは、公正な競争力である。やたらに競争力ばかりを追い求めるのは、経済政策としては、邪道である。
 その為には、費用構成においてどこまで公正さが維持されるかが重要となる。その時、重要な指標となるのが、管理可能か、管理不能かの比率である。

 管理が不能だと言う事は、外的要因によって費用が支配されていることを意味する。そして、その外的要因が何かによって取るべき経済政策が変わってくるのである。

 例えば為替の変動や原油価格の高騰は、個々の産業や企業にとって不可抗力な要素である。その様な管理不能な変動に対しては、何等かの公的な施策が求められるのである。

 公正な競争を実現するためには、前提条件が大事なのである。
 例えば労働条件が違う市場では価格は当然違ってくる。低い賃金を求めて労働条件の悪い国に生産拠点を移すことは、結局、自国の労働条件の悪化を招いたり、貧困や公害の輸出と言った事態を招く事になりかない。それは、両国にとって不幸なことである。

 公正な競争を維持するためには、原価が問題となる。製造原価と流通経費には、質的な違いがあり、同次元には語れない。
 また、国内市場と国際市場とでは条件も事情も違う。

 人件費のような国内市場でのみ通用する費用もある。所得や物価が極端に低い国とでは、競争のしようがない。しかも、労働条件が各国の制度に委ねられている以上、標準化するのは困難なのである。

 障壁となるような規制は、自由な交易を阻害する。しかし、市場間に制度的な歪みがあることも事実である。

 単純に保護主義が善いか悪いかではなく。前提となる理念と条件こそが重要となるのである。

 費用は、原則的に支出を伴う勘定であるが、単位期間内の支出の伴わない費用もある。予め、支出されている費用もあれば、単位期間後に支出が予定されている費用もある。

 時間価値を付加する費用の扱いが重要になる。そして、時間価値を付加する費用の典型的なものが金融費用や地代、家賃である。ただし、金融費用や地代、家賃というのは、その対価としての労働を持たない。即ち、不労所得である。

 又、会計上の費用である減価償却費の果たす役割も正しく認識しておく必要がある。逆に、費用として表に現れてこない出費が果たす経済的効果、作用も見落としてはならない。

 費用の果たす役割、社会的機能を知るためには、費用とは何かと言う事を明らかにする必要がある。
 第一に、費用というのは、収益から直接控除、即ち、差し引かれる勘定である。
 第二に、費用とは消却される財である。
 第三に、費用とは支出、或いは、支出を前提とした勘定である。
 第四に、費用とは所得である。
 第五に、費用とは消費である。
 そして、第六に、費用は会計的概念だと言う事である。

 費用を個々の製品に按分するための適切な配分方法を定式化したものに原価計算がある。

 費用を区分する基準には、第一に、固定と変動がある。第二に、直接と間接がある。第三に、原材料、労務費、経費の別がある。第四に、管理可能費と管理不能費がある。第五に、形態別と機能別に分類することが可能である。第六に、資金の流出、現金支出を伴う費用と、資金の流出、現金支出を伴わない帳簿処理上の費用がある。第七に、物に関わる費用と時間に関係する費用、人に関わる費用がある。第八に、全体的な費用と部分的な費用に区分できる。第九に、損金に算入される費用と損金に不算入な費用、即ち、税制上認められた費用と認められていない費用がある。

 費用に対するこれらの基準が費用の果たす役割の性格を形作っている。つまり、費用が産業や労働の質を確定するのである。

 例えば、固定費と変動費の別である。

 固定費と変動費の構成比が産業の性格を決める。

 固定費を構成する要素には、労働費と償却費がある。労働費の比率が高い産業は、労働集約型の産業、償却費の大きい産業を設備集約、資本集約型産業という。

 費用を構成する要素は、原材料(仕入れ)と人件費、そして、経費に分類できる。そして、それぞれの要素は、固有の働きがある。

 また、各々の費用が何と関係しているのか、その相関関係が経済に重要な影響を与えている。
 償却費の増減は、設備投資や再投資と関係している。即ち、投資に影響がでる。労務費は、雇用や所得に関係している。雇用や所得の裏側には、消費と貯蓄がある。

 設備投資は、減価償却費と金利を発生させる。また、一定の額の元本の返済資金が借入金をの返済が終わるまで一定期間、固定的に発生する。
 また、減価償却費というのは、投資をすると償却が終了するまで、好不況に関われなく発生し続ける。故に、設備の更新投資は、長期間にわたって費用を累積する傾向がある。ただし、会計の処理の仕方によってある程度の調整が利く費用である。

 又、減価償却というのは、あくまでも会計的尺度であり、実際の設備の老朽化や陳腐化と等分の関係にあるわけではない。その為に、実際にかかる支出と減価償却との間がかいりする場合が生じる。
 貨幣経済と物の経済の違いである。

 労務費というのは、年齢、技能、資格、経験、労働環境、生活環境と言った属人的要素が強い。又、その国、その地域、宗教や民族、風俗習慣、労働慣行によって支配されている部分も多く含んでいる。この様な労務費は、下方硬直的な性格を有する。故に、単純に一律の費用と見なす事はできない。貨幣経済と人の経済の違いである。
 不況期には、人員の削減によって調整される傾向のある費用である。人件費は消費に繋がる費用であるから、人員の削減は、不況を更に深化させることになる。

 労働市場は、需給だけで決まるような単純な仕組みではない。大体、労働市場という場が存在するかどうかも疑わしい。労働の場というのは、市場と言うより、組織体、共同体と言った方が相応しい。

 全ての経済事象を市場的現象として認識する事にはどだい無理がある。
 貨幣も、労働力も、はじめは、余剰、補助的なものだったのである。経済の主体は、共同体にあり、市場にあるわけではない。共同体の内部は、取引の場ではなく、非貨幣的空間である。貨幣制度が確立する以前においては、労働も賃金労働ではなかった。
 現在でも家内労働は、非賃金労働である。だからといって価値がないわけではない。

 家族を路頭に迷わすという事が現実の問題だったのは、家内労働が非賃金労働であり、賃金労働の担い手が父親に限られていたからである。

 費用とは、貨幣的な概念である。費用は貨幣化された部分である。貨幣化されるとは、数値化それた部分である。逆に言うと、費用とは、貨幣に返還された部分を言う。つまり、費用に換算されている経済的価値というのは、氷山の一角に過ぎないのである。費用として、或いは、収益や資産として水面上に現れている部分だけで、経済現象を捉えたら経済の本質を理解することはできない。

 市場経済というのは、取引の連鎖によって形成されている。その連鎖反応を引き出す触媒が貨幣である。連鎖反応によって生じるのが収益と費用である。その結果、利益が生まれる。
 この様な連鎖反応を制御するためには、触媒である貨幣の量を調整することと、連鎖反応を引き起こす費用の構成を変化させることである。

 費用は、付加価値を形成する部分でもある。つまり、国民総生産を形成する部分であることを忘れてはならない。

 供給は、物的関数であり、需要は人的関数である。供給力は、物の生産力に依拠し、需要は、人々の欲求に依拠している。欲求の根源は、必要性である。必要性の質によって需要の質も定まる。つまり、必要不可欠な物なのか。できれば必要な物なのかによって財の性格も決まる。
 この様に需要と供給の関係は、必ずしも貨幣経済に依拠しているわけではない。

 人的関数は、所得、人口、消費量等によって構成される。
 物的関数は、生産力、生産量、物流費用等によって構成される。
 金は、資金の流通量と物価、為替等で構成される。

 景気を左右しているのは、ある意味で費用構造である。

 費用のどの部分が何に対して連動しているかを見極める事が重要となる。

 物価に連動して変化する費用もあれば、為替に連動する費用もある。その年の天候や災害、自己に連動する費用もある。株価や原油価格に連動する費用もある。つまり、費用は、何に感応するかによって費用構造は変わるのである。そして、それは経済や産業構造に重大な影響を及ぼす。市場の背後では、費用構造の変化が、景気に作用しているのである。

 又、費用が資金の調達と流出とどう関わっているのかも認識しておく必要がある。

 我々は、電気製品を扱う時、電子の流れる量や方向を問題としたりはしない。電子の流れが引き起こす、働きや運動を問題とするのである。経済も同じである。貨幣の量や流れる方向も重要だが、貨幣の流れが引き起こす働きや運動こそが肝心なのである。その働きや運動を自分達の目的に応じて活用するために、貨幣の量や流れる方向が重要になるのである。

 設備投資において資金が必要とされるのは、初期投資と運転費用である。設備投資には、初期投資の時点で多額の資金が一時的に、かつ集中的に必要となる。この資金を負債で賄うか、資本によって調達するのかによってその後の資金の流れが変わる。初期投資にかかる資金は、費用ではなく。資産に計上され、相手勘定として借入によって調達された場合は、負債に、増資によって調達された場合は資本に計上される。
 そして、一定期間、減価償却費として費用計上され、資産から費用計上された部分が控除、削減される。その為に、減価償却費は、資金流出を伴わない費用のような見方がされている。しかし、実際は、借入金の返済部分がこの減価償却費に相当するのである。ただし、設備投資に、不動産、即ち、非減価償却費が含まれる場合、この部分の返済部分は、資産の減価に含まれない。その為に、不動産部分が資本で賄われていない場合は、借り換えによって対応する必要がでてくる。つまり、資金が堆積されるのである。
 又、元本の返済額と減価償却費は同値ではない。

 この様に、設備投資は、初期投資の段階で貸方から借方の方向に資金が流れ、以後は、借方から貸方方向に資金は流れる。この資金の流れを見ないと景気の動向を見誤ることになる。

 資金の流れを適正に保つためには、費用が維持される必要がある。この様な費用を維持することによって景気は保たれている。収益は、費用を維持するためにある。適正な費用が維持できなくなると景気は後退し、最悪の場合破綻してしまう。

 言い換えると、収益は、適正な費用を維持されるために必要な仕組みである。費用が収益に比して適正であるか否かを判定する基準が利益である。

 つまり、会計というのは、適正な費用を算出する仕組みと言っていい。適正な費用が維持されることで健全な経済情勢が保たれるのである。適正な費用を保護するために会計制度はある。

 一方で住む家がなくて困っている人達がいるのに、もう一方において家の在庫が過剰で取り壊していたり、又、生産力があるのに、あえて建設をしない。
 多くの人が仕事がなくて貧困に喘いでいて、その為に消費が拡大しないというのに、利益をあげるために、人員を削減せざるをえない。仕事がなくて困っている時に、仕事を減らすのである。これこそ不経済である。
 物が不足しているわけでも、生産力がないわけでも、需要がない、つまり、必要としている人がいるというのに、人員を削減し、生産を抑制しなければならないのは、必要としている人に資金が行き渡っていないからである。「お金」が偏在しているのでる。
 現代社会は、物が溢れている(rich)のに、否、物が溢れているから貧乏(poor)なのである。豊漁貧乏。なぜ、この様な事態が起こるのか、それは収益構造、即ち、費用構造を維持する仕組みに問題があるからである。
 食糧不足によって餓死する子供達が沢山いるというのに、もう片方で、やれ、グルメだなんだで飽食する人達がいて、大量の食料が捨てられている。これが現実である。
 なぜ、食べることがないかと言えば、要するに「金」がないからである。「お金」が廻ってこないのである。

 この様な経済が正常だと言えるであろうか。いずれにしてもただ利益をあげればいいと言って費用を削減することは、本当は経済的なのか。実際は不経済な行為ではないのか。

 個々の市場には固有の仕組みと規則がある。市場の参加者は、この仕組みや規則を尊重すべきなのである。
 いつの日か世界は一つの市場に統一される時代がくるかも知れない。しかし、現代のように、生活環境や生活水準、また、所得水準に格差があり、価値観や習慣が多様である時代に無理をして市場を統一しようとするのは、危険な行為である。

 競争は、同じ条件の下で行われるから有効なのである。

 収益が上昇している状況では、比が重要となり、収益が下降している状況では、幅が重要になる。なぜならば、収益が上昇している時は、一定の収益構造が一定の比率だとしても、又、多少、収益構造が悪化しても費用を吸収することは可能であるが、収益が下降しはじめると利益幅を圧迫するからである。
 この事は、市場の拡大期と縮小期にも見られる現象である。収益が下降したり、市場が縮小したからと言って費用を圧縮するのは簡単ではないのである。だから、政策の重要性がある。
 収益が悪化した状況、条件から収益の悪化した原因を解明せずに、ひたすら費用を削減し、負債の軽減を求めることは、かえって事態を拗(こじ)らせるだけである。かといって、資金援助をすれば事態の改善が望めると言うほど単純なことではない。

 収益、即ち、価格が問題だとしても、価格を下落させた原因として、市場の過当競争、需要の減退、急激な技術革新、過剰設備、為替の変動、人件費の安い国からの輸入の増加といった多様な事象が考えられる。
 しかも、個々の要因が表に現れるまでには、時間がかかる上に、個々の要因毎に、現れるまでの時間にも差がある。

 利益とは、費用対効果の結果なのである。

 利益を計算する上で何を変数とすべきかの問題である。

 何を変数とするかは、資産、費用、負債、収益の変動と取引との関係が、どの様に利益に影響を与えているのか、その度合いによって決まる。

 適正な利益が確保できない原因は、第一に、費用の要因がある。第二に、収益の要因がある。第三に、資産の要因がある。第四に、要因の問題がある。第五に、資本の要因がある。
 費用の問題にも、固定費の要因と変動費の要因がある。
 原因によって取るべき対策はまったく違った施策になる。闇雲に、費用の削減、負債の回収などとやれば、壊滅的な打撃を与えるだけである。
 腹が痛いからと言って何でもかんでも手術をしてしまえと言うのは乱暴である。

 費用というのは、ある意味で気配りである。思いやりである。費用を軽視すれば社会的弱者が虐げられることになる。その結果、格差が拡大する。それは、社会的配分が不均衡になるからである。強い物は、更に強くなり、富める者は、更に富む。それこそが不経済なのである。

 利益を追求することだけが、経済的合理性だと錯覚している者が結構いる。そういう者は、経済的指針は利益しかないと思い込んでいるのである。収益も、費用も、利益をあげるための手段でしかないと決め付けている。
 そう言う人が、経済的合理性というと限りなく費用を削減することでしかない。費用の働きなんて一切認めないのである。
 そして、経済的合理性をすぐに結果である利益に結び付けて解釈しようとする。結果、安直に費用の削減に走るのである。
 しかし、合理性を検証する根拠は、論理の前提、設定にある。結果は、前提や設定に則って論理的に導き出される結果である。前提や設定を変えれば、まったく違った結果が導き出される。

 費用は、利益をあげるための必要な要素である。費用を梃子として収益をあげ、費用を確保することで利益が計上されるのである。不必要な物でも、排斥される物でもない。又、費用には、経済活動を支える重要な要素が含まれている。
 ただ、費用が際限なく拡大すると経済の規律が失われるのである。それは、財政や公共事業に端的に現れている。だから、費用は抑制される必要がある。その為に、費用対効果を検証するために利益が大事になるのである。
 費用には、収益をあげるための根源という働き以外に所得の分配という機能がある。所得は、経済の活力源である。所得が縮小すれば経済は活力を失うことになる。経済的合理性と言って経費削減や人員削減を推し進めれば、かえって景気は悪化する。それは経済的合理性でも何でもないのである。最初の利益設定に問題があるのである。
 費用を極端に削減すれば、経済的な活力が削がれることになる。つまり、不経済なのである。

 会計は、本来企業活動を保護する為の仕組みである。その会計が、費用の働きを計算できないと事業を圧迫する要因になってしまうのである。それはあたかも費用を不必要で無駄な物という認識に基づいているからである。
 費用こそが、利益や経済の源なのである。






       

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