経済数学

5 経済数学

5−9 資本主義の論理

 経済は国家観によって定まる。

 資本主義体制と言い、自由主義体制と言うが、何を資本と言い、何を経済的自由というのかが定かではない。
 資本や経済的自由の意味も解らずに、資本主義や自由経済の是非を問うても始まらない。先ず資本と経済的自由の意味を明らかにする必要がある。意味を明らかにするためには、資本と経済的自由の根拠を知る必要がある。

 資本は、会計的概念である。つまり、資本主義とは会計制度上で発展した経済体制といえる。資本主義は、制度的思想なのである。それが資本主義を解りにくい思想にしている最大の理由である。
 一般に思想や哲学というと日常的な言語体系の上に構築されている。つまり、資本とは何かという定義は、日常言語による幾つかの命題によって為される。しかし、資本主義は別である。資本の定義は、会計用語によって為されなければ、正確にはできない。それが資本主義の本性なのである。

 会計的思想には、期間損益主義と現金主義の二つがある。この期間損益と現金主義を分かつのは、会計的時間の概念による。会計的時間は、任意に設定された単位時間に基づく概念である。

 資本主義は、期間損益上に成り立っている思想である。現金主義的な概念では定義できない。
 この事からも資本の概念が会計的、制度的概念であることが解る。

 資本主義経済の文脈を構成する文法である簿記にも単式簿記と複式簿記がある。単式簿記が現金収支を記録するのに対し、複式簿記は、期間損益を計算するのに用いられる。複式簿記は、常に、取引を二つの要素に分解することによって成り立っている。

 つまり、資本は、複式簿記の文脈の上に構築された概念である。そして、資本主義は会計的に定義された資本を核として成立した思想である。即ち、資本主義は、近代会計制度の成立に伴って確立されたのである。

 資本主義においては、資本を核にして資産、費用、負債、収益は、機能している。

  現在の資本主義体制には、現金主義と期間損益主義が混在している。即ち、財政と家計は、現金主義であり、経営主体、即ち市場は期間損益主義である。そして、財政や家計と市場とは、制度的に不連続なのである。この制度的不連続制が色々な問題を引き起こしている。
 その意味では、現在の資本主義は、純粋な形での資本主義ではない。

 経済的自由とは、私的所有権が保障されることによって実現する。
 生産手段の私的所有権が保障されることによって近代企業は成立する。株式会社の株は、生産手段の私的所有権の一形態である。
 資本主義体制とは、資本の生成過程から生じる経済体制である。

 経済というのは、生きる為の活動である。生きる為の活動を支える社会的仕組みを経済体制という。
 資本主義体制も自由主義体制も貨幣経済体制と市場経済体制の上に成り立っている。すなわち、貨幣経済体制や市場経済体制は、資本主義体制、自由主義体制の前提となる。

 経済的価値とは、差によって生み出される。

 価値とは、位置である。位置とは差である。故に、価値は、差によって生み出される。
 経済的価値には、人的価値、物的価値、貨幣的価値がある。
 人的価値は、労働価値であり、単位労働当たりの所得差として表される。
 物的価値とは、財の持つ物理的差、効用の差であり、数量によって表される。また、質、量、密度として測られる。
 貨幣価値というのは、財の持つ貨幣的位置付けである。貨幣的位置付けは、価格差として表される。貨幣価値は無次元の量である。

 人的価値、物的価値、時間価値は、アナログな量である。それに対して、貨幣価値は、デジタルな量である。即ち、経済的価値を貨幣価値に換算すると言う事は、アナログの実体をデジタルな量に変換する。即ち、デジタル化すると言う事を意味する。

 資本主義体制や自由主義経済は、人、物、金、時間の四つの次元から成る経済体制である。
 例えば、所得(人)、数量(物)、価格(金)、金利(時間)である。或いは、経済主体(人、需要と供給)、生産手段(物、生産と消費)、分配手段(金)、過程手続(時間)である。
 経済的価値で言うと人的価値、物的価値、貨幣価値、時間価値の四つの価値基準である。

 中でも時間価値が、資本主義経済を形成するのに、重要な役割を担っている。時間価値とは、時間によって作り出される差である。
 時間価値とは、時間差によって生じる価値である。時間差とは、過去、現在、将来の時点間の差を意味する。時間的価値の差とは、過去価値、現在価値、将来価値の差である。
 時間価値は、金利に依って形成される。

 期間損益や借金の技術は、収入や支出、費用の平準化を目的として編み出された技術だとも言える。
 そして、この平準化の技術にこそ近代化を推進させた鍵が隠されていると言ってもいい。それ故に、経済は、時間の科学だとも言える。

 実物価値が資産を貨幣価値が負債を労働価値が収益を時間価値が費用を形成する。
 資産と費用は、実体的的価値であり、収益と費用は、名目的価値である。
 資産と費用、負債と収益を区分するのは、長期、短期の時間の働きの差である。
 資産と負債、費用と収益は、貨幣の働きを介して相対勘定となり、表裏の関係を形成する。

 物の価値は、使用価値であり、実質価値である。貨幣価値は、交換価値であり、名目価値である。

 実質的価値は、外在的因子によって変動し、名目的価値は、内在的因子によって変動する。

 問題なのは、実質的価値と名目的価値が常に一致していないことにある。時間と伴に、実質的価値と名目的価値が乖離し、それぞれが独自の価値を構成する。それを調節しているのが貨幣の流れである。

 時間価値とは、時間によって作り出される差である。この様な時間価値の水準を決める指標は、金利である。金利は名目的勘定である。しかし、実物価値は、名目的価値のように一定していない。外的要因によって絶え間なく変動している。

 配当が金利を上回れば投資に資金は向かうし、配当が金利を下回れば返済に資金は向かう。

 資本は、実質的価値と名目的価値の差額勘定であると言う性格と返済を前提としない負債という性格を併せ持つ。

 差額勘定という視点から見ると資本は、長期利益なのである。

 資本その物に資産価値があるわけではない。資本は、差額勘定であり、返済する必要のない負債とも言える。つまり、資本は、影なのである。

 不良債務の問題は不良債務の問題でもある。単に名目的価値だけの問題として捉えていたら解決できない。
 実質資産価値と名目資産価値の乖離の問題が隠されているのである。
 経費を削減し、投資を抑制したからと言って資産価値が上昇するわけではない。なぜならば、資産は外的要因によって変動するからである。経費や投資の問題は内的要因であり、むしろ、収益力によって左右される。競争力にあるわけではない。
 金利を収益に対応させる方策が必要なのである。
 金利を配当に置き換えたことが資本の成立原因でもある。即ち、固定的な金利を実物市場に併せて変動することを可能としたのが資本なのである。

 長期負債には、返済を前提とした負債と返済を前提としない負債がある。
 金融機関の収益というのは、金利から成るのである。貸付金を回収されても収益には結びつかない。

 返済を必要としない長期負債が資本化するのである。そして、資本化した負債を基にして支払われるのが配当である。配当は利益から支払われる。即ち、利益も時間価値である。

 景気が悪化した時、一番困るのは、金融機関が長期負債の回収にかかることである。収益が悪化している時に、長期的資金を回収されたら資金繰りが成り立たなくなる。収益が悪化している時こそ、長期資金を補充すべきなのである。
 最近、金融機関の多くが、不景気で融資先がないとこぼしている。融資する先がないのではなく。融資するための思想や構想がないのである。信念がないのである。どの様な産業や企業を育てるべきか。志や理想がないのである。金融機関としての戦略構想がないだけなのである。
 かつての銀行は、自分なりの国家観、産業間に基づいて融資先を選別していた。

 最終利益というのは清算価値でしかなく。継続を前提としないかぎり、金利を支払続け、費用を負担し続けることはできない。
 要するに、実際に経営や財政が破綻しているかどうかは、清算してみないと解らないのである。しかし、清算してしまったら、元も子もなくなってしまう。

 なぜならば、経営も財政も事業を継続することに意義があるのである。事業を継続することで本来の役割を果たすことができるのである。

 それに、資金が供給されているかぎり、経営も財政は破綻しない。
 ただそれが財政を限りなく膨らませてしまう要因の一つでもある。

 経営においても、財政においても累積している負債が大きすぎて金利負担を収益によって吸収できなくなるのが問題なのである。

 では、負債が問題だからと言って限りなく負債をゼロに近づければいいかというと、そうとは限らない。負債と資産というのは相対勘定である。負債とは、負の資産でもあり、資産は、負の負債でもある。
 かつては、無借金経営は、経営の理想的な形と思われたが、今日では、キャッシュフローという観点からみると、むしろ現金を効率よく活用しているわけではないとみられる。

 財政問題において期間損益を確定するためには、単位期間の費用をどう設定するか、特に、償却費をどう設定するかが重要なのである。プライマリーバランスというのは、収支上において新規の借入金を除いた収入から過去の借金の元利払いを除く歳出を比較した結果のであるが、それは期間損益とは異質なものである点を見逃してはならない。
 財政を資本主義的な観点、即ち、期間損益の基準に基づいて判断するならば、償却費をどうすべきかを明らかにする必要がある。

 これまで資本主義経済は、都合良く現金主義と損益主義を使い分けてきた。それが混乱を引き起こす原因となっているのである。

 資本主義体制というのは、人、物、金の価値、及び、時間価値の均衡によって成り立っている。

 金利(時間価値)による時間価値を前提とした経済社会では、時間価値によって時間の経過と伴に、物価(貨幣価値)が上昇する。物価が上昇することは費用の増加を意味する。費用の増加が年々続くことを前提とすると個人所得(人的価値)を年々上げていかなければ、生活水準(物的価値)を維持する事ができなくなる。
 一定の率で個人所得(人的価値)が年々上がることを前提とした場合、販売している財の単価(貨幣的価値)を上げるか、数量(物的価値)を増大する以外に利益(時間価値)を維持する手段はない。
 財の標準化によって差別化が困難であり、単価の上昇が見込めない場合、販売数量の増大を測る以外に収益を維持する手段がなくなる。
 それが、過激なシェア争いをまねき、大量生産が市場を過当競争状態に陥らせ、市場が無秩序な状況に陥らせる。市場が無秩序な状態に陥るとかえって単価の下落を招く場合も予想される。
 金利を考えずに時間価値を想定しなくていい時代では、例えば、小売店では、使用人を雇っても人件費の上昇を見込んで事業を拡大する必要はなかった。だから、老舗と言われるような商売が成り立ったのである。しかし、時間価値を前提とした社会では、そう言うわけにはいかない。時間価値を前提とした経済体制は、成長し続けることが要求され、成長、発展を止めれば淘汰されてしまうのである。
 大量生産、大量販売型社会のジレンマである。
 では、金利や個人所得の上昇を抑えればいいかというと、時間価値が抑制される上に、消費の減退も招く。金利や所得が抑制されれば、今度は企業利益が圧迫を受ける。何よりも金融機関が収益を上げられなくなる。なぜならば、金融機関の収益原は金利だからである。
 企業は、通常の営業活動によって利益が確保できなくなれば、資産を操作して会計上の利益を計上しようとする。金融機関は、金融資産を操作することによって収益を確保しようとする。通常の経営活動によって得られる利益は、営業利益である。結果的に、企業は、通常の経営活動によって営業利益が確保できなくなると資産に資金を移動するようになる。これがバブル現象を引き起こす一因となる。

 経済に対する根本的な考え方を変えないかぎり、資本主義的悪循環を断ち切ることはできない。

 鍵となるのは、人、物、金、時間の均衡をどの様な仕組みによって保つかなのである。

 所得は、費用であり、実質的価値であるが給与等によって貨幣化される事で名目的価値に転化され収益化される。

 労働効率は、労働意欲の問題である。労働意欲は、労働の価値をいかに評価するかにかかっている。労働の価値の評価は、個人所得に還元される。故に、労働価値は、所得差として表される。

 資本主義にかぎらず、社会主義も含めて現代経済は、なぜ、機能不全に陥るのであろうか。

 時代劇には、悪徳商人、悪家老、悪代官は、多く登場としても、悪地主、悪名主、悪藩主はあまり登場しない。
 一般の認識をよく表している。
 士農工商的な商業蔑視を象徴している。
 古来から商業や資本は、政治や生産、労働という観点から見ると一段低くみられる傾向がある。
 商業、或いは、資本は、いつも悪役にされてしまう。商業や資本という者が得体の知れないものに思えるからであろう。
 政治家や生産者、労働者から商売人や資本家が低くみられるのは、ある種の偏見だと言えなくもない。ただ、そう言う側面だけでなく。商業や資本に対する偏見は、商売人や資本家の責任がないわけではない。
 経済、即、金の問題だと思われがちである。それが、商売人や資本家が金の亡者のように言われてしまう要因がある。
 経済というのは、本来、生きる為の活動を言う。つまり、経済の本質は、生きる事にある。ならば経済的価値というのは、生き甲斐に結びつく価値でなければならないはずである。その様な価値は、本来、貨幣価値にあるわけではない。貨幣というのは、あくまでも価値を測る道具に過ぎない。貨幣を用いるのはあくまでも手段であって目的ではないのである。
 拝金主義的な傾向は、何も資本主義に問題があるわけではなく。資本主義の歪みがもたらしているのである。資本主義の歪みは、貨幣や労働に対する価値観、捉え方に問題があるから生じるのである。商業道徳、消費者道徳の問題でもある。

 商売というのは、無償の行為を有償の行為に、無料の物を有料の物に置き換えることから始まる。だから、何でも金かと言う事になる。
 しかし、有償化するにせよ、有料化するにせよ、そこに行為や物がなければならない。又、その行為や物がお金を取るのに値する行為、物であることを認めさせなければならない。そこに商売の本質がある。商売人が一人勝手に有償化したり、有料化するわけにはいかないのである。商売人が、ただ、金儲けのみを目的としたら商売というのは成り立たないのである。
 金儲けばかりを目的とする商売人が、蔓延(はびこ)るから、悪徳と言われるようになるのである。商売人にも社会における役割、責任がある。

 お金、つまり、価格だけで、それも何でもかんでも安ければいいと決め付ける風潮が蔓延している。それが、商業道徳や消費者道徳を廃らせているのである。
 ただ安ければ良いというのは、資本主義にとって危険な思想である。それは、量のみを追求して質を忘れた経済である。

 良い品を適正な価格で消費者に提供するのが商売の本質なのである。安かろう、悪かろうというのでは駄目なのである。
 商品を、安い、高いに依ってのみ判断するのではなく。適正な価格というのは何かを売り手も買い手も判断する目を養うべきなのである。
 ただ、問題になるのは、情報の非対称性である。だからこそ、公的機関、公的制度の必要性がある。規制は悪い悪いと言って闇雲に廃止するのは、心得違いである。
 要は、品質を見抜く目を養えるような経済体制となっているかが鍵なのである。
 最近、食の安全が問題とされているが、安物には、安く売れるだけの要素があるのである。悪貨は、良貨を駆逐すると言われるが貨幣のみに当て嵌まるわけではない。粗悪品が横行するようになれば、高品質の財は、市場から駆逐されてしまうのである。そうなると市場が貧相になる。
 品物だけでなく。店にも言える。見た目ばかり気にして、固有の信念がない店が増えている。古くからあった老舗が淘汰され、均一的なチェーン店に市場が独占されつつある。何もかも安易になっている。
 人間もただ格好だけで内容のない人間が増えている。品がなくなっているのである。
 財の品質を保つためには、当然、適正な情報が提供されているかは、重要な要素となる。

 原価割れの販売は、掟破りである。
 ただ、採算ばかりを追求し、経費節減ばかりを追い求めるのは、働く者の生活や成長を無視していることである。

 今の経済は、不義理、不人情な経済である。それが、経済が立ちいかなくなる最大の原因である。
 つまりは、人間性を欠いているのである。人間性を欠いているから、特のない経済、礼のない経済になるのである。要するに、自分がないのである。主体性がない、と言うよりも主体性を否定したところに、社会の仕組みを構築しようとしていることに本質的な間違いがある。

 なぜ、社会主義国が破綻したのか。又、社会主義的政策が上手く機能しないのか。それは、人間性を無視しているからである。しかし、同様の問題は、資本主義国においても抱えている。

 客観主義、唯物論、功利主義の最大の過ちは、怠惰を美徳とすることである。労働を罪悪視することである。労働は、忌むべき事であり、可能な限りなくしてしまうことが良いことだと思い込んでいることである。

 その結果、ひたすらに休日を増やし、働けないようにする。そして、雇用が減少するのである。労働は、自己実現の手段である。働く事は、社会に貢献することであり、働く事で社会に貢献する喜びを得るのである。それが社会における個人の存在意義でもある。働く場所を失うのは、自己の存在意義を見失うことでもある。働く場所を奪うことは犯罪にも等しい。ところが、現代経済は、労働に対して否定的でしかない。

 労働者の国とと言いながら、労働を苦役として、蔑視している。労働者は、過剰な労働を強いられることによって労働に喜びを見出せなくなっていただけである。労働者が、自分の労働に喜びを見出し、誇りを持てるような環境を作ることが真の労働運動なのである。労働を忌避し、蔑視することを促すような労働運動は、邪道である。労働者は、一律同等な扱いを受けることを望んでいるのではない。自分の労働に対する正当な評価を望んでいるのである。労せずして富を得る事を否定しているのであり、労働そのものを否定しているわけではない。

 同様なことは、資本主義にも言える。人間は、お金儲けのためだけに働いているわけではない。労働は、自己実現の手段なのである。
 定年退職と言う事ほど残忍な仕打ちはない。一定の年齢に達したら、自分の人生が中絶させられるのである。それまでの全てが否定され、消去(リセット)されてしまう。そして、全てを最初からやり直すことを強制される。こんな残忍な仕打ちをおまえのためだされる。自分が銃殺されるとき、銃殺用の弾の代金を請求するような所業である。

 近代経済思想は、身体の仕組みばかりを対象とし、生命の尊厳や精神的問題を省みない医学のようなものである。それを近代科学というならば科学は、偏向している。
 主体と客観は、表裏を為すものであり、いずれか片方だけで成り立っているわけではない。

 自由というのは、主体性を前提としているのに、自由主義の名の下に主体性を否定する。それが科学主義だというのであろうか。報道の公平性、中立性というのは、自分の立場を曖昧にすることではない。自分の立場を明確にすることである。

 疎外というのは、物事の本質と実態とが乖離することによって引き起こされる。その根本は、客観主義的な発想である。人間は、本来自己から切り離されて考えられる存在ではないのである。

 労働は、自己実現の手段である。しかし、資本主義者も社会主義者も労働は、金儲けの手段としか見なさないから、労働は、実態と本質が分離してしまうのである。
 故に、どこに勤めているかが問題となっても、どんな仕事をしているのかは問題でなくなる。仕事なんて、ぢれがやっても同じだとされてしまうのである。必然的に労働は、空疎なものとなり、人々は、仕事に対して生き甲斐が見出せなくなるのである。しかし、仕事以外に何に生き甲斐を見出せと言うのであろうか。そこに欺瞞がある。嘘があるのである。

 自由主義、社会主義、資本主義と唱えながら、その本質を逸脱している。だから、社会が機能不全状態に陥るのである。

 いい仲間といい仕事を終生する事が理想である。
 社会主義者は、労働者の為と言いながら、労働を否定しているのが間違いなのである。仕事や労働を否定する事は、人生を否定する事でもある。

 飛行機のパイロットは、自分が操縦している飛行機の高度や速度、飛んでいる方向を知る事ができる。それを知る事ができなければ、飛行機のパイロットは、自分の仕事、飛行機の操縦に責任が持てないであろう。
 医者は、体温や血圧、脈拍を測ることの意味や目的を知っている。さもなければ、医者は、医者としての倫理観を保つことができないであろう。医者は、人体実験をすることを目的としているわけではない。
 しかし、大多数の銀行家や会計士、徴税者、経営者は、利益の意味や資本の意味を理解していない。儲かっていると言うだけで税金を徴収し、損しているというだけで、融資を断り、資金を引き揚げる。投資家も、本当のところ自分が何に対して投資しているのかさえ定かではない。
 問題の本質はそこに隠されている。

 銀行や会計士、経営者、投資家にとって利益や資本の意味は曖昧であった方が都合がいいのである。
 利益や資本の定義が曖昧であれば自分の責任が問われることもなく、又、良心の呵責に苦しめられることもない。

 銀行家や会計士、経営者に、利益の目的や意義を試みに聞いてみれば解る。大多数の銀行家や会計士、経営者から満足のいく解答を得ることはできないであろう。

 銀行家も、会計士も、経営者も利益や資本の持つ意味を知らない。つまり、事業と言う行為が何を目的としているのか、どこに向かって走ってるのかも知らずに、利益を追求しているのである。
 この様な行為は不道徳の極みだ。自分達が追求していることによって破滅的な結果が招かれようとも彼等には関知ない出来事なのである。なぜならば、彼等は、自分達に求められたことを忠実に実行しただけだからである。自分達は、定めに従っただけだと抗弁するに違いない。たとえそれがどれ程、罪深い行為だと知っていたとしてもである。

 彼等は、神の前に立たされ利益をなぜ追求したのか。そして利益を追求した結果どの様な事態を招いかと問われた時、どの様な申し開きをするつもりなのであろうか。
 イエスキリストが十字架に掛けられようとして時、「神をお許し下さい。彼等は自分達のしていることの意味を知らないのです。」と許しを請われたことを忘れたのであろうか。そして、又、十字架に掛けようと言うのか。

 利益や資本は、会計技術の問題ではない。会計思想の問題である。

 利益と資本は、任意に設定できる値なのである。だからこそ利益と資本の意味や目的をどこに設定するかが、重要となるのである。

 利益も資本も確定した値ではないのである。機械的に計算すれば、一定の答えがでるわけではない。設定の仕方一つでいかようにでも変わる値なのである。これが大前提である。そして、これが資本主義の本質を明らかにする上で重要な事柄なのである。

 つまり、利益や資本は、技術的に決まる問題ではなく。思想的に決める問題なのである。社会的合意によって利益や資本は、決めるべき問題なのである。つまり、国民国家においては、国家的な手続を前提としている。
 利益は誰のために、何のために、どれくらい必要なのかは、社会的、国家的な課題である。

 利益や資本は、自然現象のように自明な前提によって導き出される値ではない。任意な前提に基づき恣意的に導き出される値なのである。

 利益や資本の設定の仕方で、国家の有り様や経済の状態にも違いが生じる。故に、利益や資本に対する認識は、思想的なものなのである。

 それは、国民の生活の原資である所得は、費用によって生じ、その構成に基づいて分配されるからである。

 資本主義というからには、資本をどう定義するかにかかっている。問題なのは、資本というのは、会計的な概念だと言う事である。しかも、会計的概念にも期間損益主義と現金主義とがあり、資本は、期間損益主義から派生した思想だと言うことである。
 会計的に資本を言うと資本は、出資金と利益からなる。故に、資本主義においては、利益と資本の定義が根底を成すのである。

 利益や資本を導き出す基盤となる座標軸は任意に設定されるものなのである。何を起点とし、何を原点とするかは任意に設定されるのである。
 ところが、事業を始めるにあたり、その始点を設定する際、何を原点とするのか、つまり、ゼロの位置が明確に設定されているわけではない。何を起点として測定すべきかが明らかなわけではないのである。何から何を測るのか、その根拠は何かが、最初から明らかではない。

 利益は、妥当か否かが問題なのであり、多寡が問題なのではない。ひたすらに低収益を求めることは、社会的正義に反する場合もある。問題は、企業の果たすべき社会的責任の問題である。

 量としての利益だけではなく。質としての利益も求められるのである。
 又、資本主義では、事業の継続が前提となる。事業を継続することによって労働の提供と分配の機会を与えることが、事業体の責務であるからである。故に、国によっては、事業体を破綻させることは犯罪行為と等しいと考えられる。これも、思想である。
 資本も事業を継続するために必要なものである以上、必要なだけの質と量を蓄えておく事が要求される。

 利益も資本も反資本主義者が言うような、必要悪ではないのである。必要なものに悪はない。

 企業が継続を前提とした時から経営や経済の中に無限や極限の概念が入り込んできた。それは、経営や経済の中に微分的発想や積分的発想を取り込む事を意味する。

 利益や資本は、何を原点として考えるべきなのか。つまり、何をゼロとするのか。
 ところが、資本主義の担い手達は、ゼロの位置も意味も理解しようともしていない。だから、現代の資本主義には、善悪の基準が存在しない。それこそが重大な問題なのである。ただ、技術的に利益を追い求めることだけが、是とされるのである。つまり、現在の資本主義には、思想が欠如しているのである。
 利益を得るためには、何を、起点としてゼロとするのか、何によってプラスとなり、又、マイナスとするのかが重要となる。ゼロというのは、原点なのである。

 投資とは投げ出すことを意味する。一度、財産を投げ出すのである。所有権を投げ与えることで利益を得る権利を得るのである。
 つまり、投資の目的とは、本来は、経営権とそれから生じる配当にあったのである。株の資産価値は副次的なものであってのである。

 元々、投資は、配当が目的だったのである。株の売買益が目的なのではない。そのためには、投資家は利益から配当を受けることを原則とし、利益の意味を予め知っておく必要がある。
 そして、重要なのは、株の資産価値よりも長期的に見た企業の価値であり、事業の将来性や社会的価値なのである。

 ところが、株の投機的取引が盛んになるにつれて、株の資産価値が重視される傾向が強まり。企業の短期的な業績が重視される様になってきた。短期的な業績が重視されることによって長期的事業としての基盤が損なわれるようになってきたのである。それは資本対する思想の変化による。資本とは何かは、資本主義の基盤を構成している根本思想なのである。

 利益は、内部要因と外部要因の差によって決まる。内部要因だけで決まる値ではない。利益は、費用だけで決まるわけではない。いくら費用を削減してもそれだけで利益が上がるわけではない。
 外部要因は、独立変数である。外部要因を左右するのは、市場の仕組みである。外部要因を内部要因によって決定することはできない。市場の仕組みを構築するのは、国家の役割だからである。

 多くの人は、資本主義と社会主義を対立線上で捉える傾向がある。しかし、社会主義も資本主義も唯物主義、或いは、近代主義、国民国家主義という点において同一線上にあり、究極的な姿においては、双子のようによく似ているのである。

 資本主義も社会主義も中小企業や個人事業主が邪魔なのである。即ち、経済的に自立している個人は、阻害要因でしかない。
 資本主義は、大企業によって支配された方が会計上、或いは、生産効率からみたらわかり易いであろうし、社会主義は、計画的に経済が運営できた方がいい。しかし、経済というのは、会計や計画だけで決められるほど画一的ではない。なぜならば、経済は、人間一人一人の生活や生き様が集合したものなのだからである。

 つまり、資本主義も社会主義も究極的には、組織的、かつ、機能的な方向を目指しており、何等かの形で全ての国民が組織化されることを前提としている。そして、統一された規格や組織によって管理する事を目指しているのである。ある意味で、目的地は同じであり、手段が違うだけと言っても差し支えはない。

 自由主義と資本主義は等しいわけではない。

 市場原理主義とも資本主義や自由主義は異質である。又、市場原理主義は規制なき競争を市場原理とするが、市場は競争が全てではない。又、規制がなければ競争は成り立たない。故に、市場原理主義者が市場を擁護しているというのもあたらない。その意味では、市場原理主義というよりも競争原理主義といった方が妥当だと思われる。

 過当競争に陥った市場では、個々の企業の力によって競争を自粛するのは困難である。
 一次産業が衰退し、一次産業の労働者が行き場がなくなったことで二次産業が発展し、後進国が参加することで二次産業が競争力を失い。三次産業へ移行するという考え方がある。

 天上を極めた天龍より、これから飛躍せんとする飛龍の方が勢いが良いと易では考える。そう考えると先進国よりも途上国の方が経済状態は良いとも言える。

 技術革新が進行中の産業、市場が拡大している産業と成熟産業とでは取るべき施策が違う。

 株というと相場物、投機の対象、もっと言えば、ある種の賭け事のように思われている。投資家は、相場師であるように思われ、胡散臭い人物、博打打ちかの如くみられる。
 しかし、本来の投資家とは、何等かの事業に投資する者を指していたはずである。投資家というのは、ただ単に、金を出したと言うだけではなく、事業に共感したという面がなくては成らない。
 投資家の夢とは、単なる金儲けではなく。事業と事業から得る利益にあったはずである。金というのは、本来、事業の成果の結果、影なのである。
 投資家が相場師に変わったのは、そのまま、資本主義の変質を意味している。

 もし仮に、資本主義や社会主義がより人間的なものに変化するとしたら、それは、経済の視座を人間の生き様や人生、そして、道徳に向けた時であろう。
 その時にこそ、経済本来の在り方が見えてくるのである。

 儒教には、中庸という思想がある。何事も極端を排して均衡を重んじる思想である。極端に純粋であったり、均質な体制は、かえって偏りを生み、均衡に掛ける場合がある。むろん、極端な格差は、社会に階層、階級を生み出す原因となる。森林も雑木林の方が環境の変化に適用ができる。
 経済体制というのは、いろいろな形態の経営主体が混在していた方が効率が良いのである。この場合の効率というのは、生産性とか、採算性という意味ではない。生活をする上での効率である。生活に必要な物を効率よく社会に分配するという意味である。生産性ばかりを重んじて生活を忘れてしまえば、効率の良い分配はかえって阻害される。経済というのは、いかに多くの物を生産するかが重要なのではなく。いかに豊かな生活を多くの人に実現するかが重要なのである。







       

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