経済数学

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6 おわりに


 貨幣経済というのは、虚構である。経済を実態たらしめているのは本来生活である。貨幣の働きが生活から乖離したら、貨幣経済は虚構だけになってしまう。つまり、経済は幻想になってしまうのである。

 祭りは、経済である。祭りこそ経済である。祭りを知る事は、経済を知る事である。祭りの在り方は、経済の在り方を端的に表している。祭りは思想である。祭りは経済思想の表れである。
 万国博覧会やオリンピックが、なぜ、経済の起爆剤になるのか。映画やディズニーのような娯楽施設が先進国において一大産業となりうるのか。名所旧跡、景勝地といった観光は、なぜ資源となるのか。カーニバルや祭礼によってなぜ、人々は集まるのか。神社仏閣はなぜ門前町を形成するのか。そこに経済の本質が隠されている。
 多くの人々は、祭りのために生活を切りつめたりする。祭りは共同体の在り方を象徴しているからである。
 祭りは経済である。特に、市場経済において祭りは重要な役割を果たしている。

 なぜ、経済は祭りなのか。それは、経済は非生産的な部分によって成り立っているからである。祭りは、非生産的な事象である。祭りは、非生産的行為を成り立たせているようその一つなのである。そして、市場経済は、非生産的な部分を必要とする社会的要請によって形成されるのである。
 市場は、元々非生産的な空間である。市場は共同体の外に成立した。つまり、化外の空間なのである。生産的空間は共同体内部にあった。現代でもその本質は変わらない。ただ、共同体の範囲が狭められているだけである。
 市場は、共同体の外にある空間だから、取引も共同体の外にある事象なのである。貨幣は、取引の手段である。市場経済は、市場という空間において取引を通じて形成される。貨幣経済は、貨幣の仲介によって成立する。貨幣価値は、自然数の集合である。故に、市場経済は数学的な現象である。
 市場経済は、数学的虚構の上に成り立っている。数学的虚構を成り立たせているのが貨幣である。貨幣経済は、虚構である。貨幣経済は、人間が生み出した虚構の上に成り立っている。この点を正しく理解していないと経済の問題は解らない。

 経済を金の問題だと錯覚している人が沢山いる。しかし、経済は金の問題ではない。経済は、分配の問題である。
 生産財を、いかに偏りなく、社会の隅々まで万遍なく、行き渡らせるか、言い換える配分するか、それが経済本来の問題である。

 原始的経済とは、自給自足が原則である。共同体内部で生きていく上で必要な物資を全て生産し、消費する。

 しかし、農耕や牧畜などによって共同体内部の生産効率が高まると全ての人間が生産活動に従事しなくても、全ての人口を養うことができるだけの物資を生産することが可能となる。その結果、生産労働に従事しなくてもいい、或いは、生産労働に従事できない人達を生み出すことになる。
 しかし、非生産的な労働に従事していないからと言って生きていく上で必要な物資を配分しないわけにはいかない。故に、生産物をいかに分配するかの過程で経済は成立したのである。余剰生産物が近代的経済を生み出したのである。そして産業革命と貨幣経済の発展は、この非生産的な部分を極限にまで高める事になる。その顕著な例が国家、軍隊、金融である。国家や、軍隊、金融は、非生産的部分の象徴的部分である。

 経済は、虚の部分において発生し、形成される。経済の働きは、負(虚)であり、物や人の働きが正(実)なのである。
 だから、経済の実相は、貨幣、即ち、お金にあるのではない。物や人にあるのである。物や人の働きや動きを写像した結果が貨幣的現象なのである。

 経済が配分の問題だから、数学が威力を発揮するのである。数字に置き換えることによって価値を統一し、異質の財を交換することを可能とするのである。その為には、生産財の価値を一旦全て数量化する必要が生じる。数量化する過程で貨幣が生じたのである。
 貨幣は交換の手段である。その意味において貨幣は、決定的な役割を果たしている。しかし、経済において、お金が全てではない。お金は、分配を円滑に行うための手段に過ぎないのである。
 ところが価値の比重が物や人から貨幣価値に転移してきた。その結果、共同体が崩壊の危機に曝されているのである。

 経済の目的は、人々の生活を成り立たせることである。
 必要な物資が、必要としている人に、必要としている時、必要なだけ提供される様な仕組みが構築されているかどうかが、問題なのである。
 経済の仕組みが整合性を失うと生産財の分配が滞ったり、偏ったりする。時には、必要な物資が行き渡らなくなり、生活が成り立たなくなる人達が生じる事態が生じる。そうなると経済は、破綻する。
 貨幣は、所得という形で人々に分配される。所得は、対極に社会への貢献が求められる。社会への貢献度合いによって所得は配分される。所得の量は、交換できる権利の量を表している。
 貢献の度合いは、労働の質と量によって決定されることを原則とする。
 つまり、経済の問題は、労働と分配の問題に還元されるのである。
 金はあくまでも交換のための手段である。

 生産の仕組みが成熟すると人手をあまり必要としなくなる。そうなると、確かに、人々は、苦労せずに多くの財を生産することが可能となる。
 しかし、反対に生産的局面において所得を得る手段が限られることになるのである。所得が得られなくなると交換手段を手に入れる機会が失われる。実は、それが最大の問題なのである。
 つまり、所得を得る機会を作らなければならなくなる。所得を得る機会とは、働く場をつくる事に他ならない。
 働く場を創出するのに効果があるのが、教養や娯楽なのである。だから、祭りは、経済に対して絶大な効果を発揮することがあるのである。

 つまり、経済というのは、ある種の虚構なのである。それは、人々に交換の手段を配分するための口実を与えることなのである。
 問題は、一つの経済圏の住人に生活に必要な物資を偏ることなく、万遍なく分配する事なのである。
 生産的な仕事に就けない者にも、何等かの仕事や権利を生み出さざるを得ないのである。

 経済は、虚構である。お祭り騒ぎのようなものである。経済は、無駄によって成り立っているとも言える。経済というのは、不経済な部分によって維持されていると言ってもいい。

 だから、今日の市場経済は、無駄遣いや浪費を美徳する。遊興や賭け事、投機が最も経済的な行為ともてはやされるのである。環境を破壊すればするほど景気は良くなる。こうなると自暴自棄になる。人間が生存できなくなるのは、神の責任ではなく。人間の業の為せる結果である。責めるべきは自らである。

 馬鹿の一つ覚えのように、何でもかんでも競争させればいい、或いは、逆に、何でもかんでも統制すればいいと言うのではなく。競争して良い部分と競争させてはならない部分があり、しかも、産業のよって、或いは、置かれている状況や地理、段階などによって違いがある。
 それを判断するのが会計であるが、会計もご都合主義であったり、教条主義的であったりして、本来の会計の役割を見落としている。見落としていると言うより、元々会計の目的など無自覚だったのかもしれない。
 何を、どこで競わすかが問題なのである。何をどこで競わすかという事を検討する上で重要な鍵を握っているのが配分の問題である。
 経済とは、配分の問題である。例えば、所得で言えば、税による所得か、家計による所得か、企業の所得なのかが経済を考える上で重要な問題となる。それは絶対額が重要であると同時に、配分も重要となるのである。なぜならば、必要量の生産と公平な配分が経済の根本的役割だからである。人口の増加と生産量、或いは、供給量の増加が均衡しているか。また、生産物や供給物が適正に分配されているか、それが経済の状態を決定付けている。それに伴って、貨幣が適正な量、適正に分布されているかによって経済の状態は、定まるのである。貨幣が適正に分布されるためには、適度な労働が確保される必要がある。
 また、政府支出か、企業支出か、家計支出かも重要になる。支出が投資的な性格の物か消費的な性格かによっても働きが違ってくる。

 消費の対極にあるのが、収入、所得であり、収入、所得の性格を決めるのは、その資金源が投資的なのか、融資的なのか、消費的なのかである。それによって資金の流れる方向に違いが生じる。
 同じ収入でも借金による収入か、売上に基づく収入なのかも重要になる。一旦、投資された資金は回収される。その回収資金は、借入金か、売上による。売上金は、消費による資金である。借入金は、融資、或いは、再投資である。どちらの資金が経済にとって有効なのかは、一概に言えないのである。

 国家的に見れば、収入は、増税するか、或いは、国債を発行するか。支出は、減税するか、補助金、手当で出すか。
 これらは、朝三暮四的なものである。

 戦争は、破壊することだけの行為である。しかし、戦争によって多くの産業が発達する。又、技術革新が起こる。それは、軍事という経済行為が、虚の部分を多く持つからである。ならばこの虚の部分を破壊的な方向ではなく。建設的な方向に向けられればいい。
 人間は、鍋釜に投資することを卑しむが、国家財政を傾けても、軍艦や戦闘機、原子爆弾に投資することを厭わない。根本は、思想である。そして、経済に対する考え方である。

 競走馬に万金の金をはたいても、農耕馬には目もくれない。

 役人というのは、無駄が嫌いである。無駄なことを一切しようとしない。サービスなんて無駄なことは大嫌いである。だから、客である国民に対しニコリともしない。その結果、役所というのは最も、効率的でない場所にななる。こんな逆説めいたことが経済ではよく起こる。

 その行き着いたところが軍隊や国家である。軍隊や国家というのは、非生産的な機関である。非生産的な機関だから、公共的なのだとも言える。つまり、生産的機関ならば、儲かるはずであり、何も公共でやる必要はない。儲からないから税金を力尽くで奪い取る必要があるのである。
 軍や国家という存在ほど不経済な存在はない。軍や国家は、不経済な存在だから権力が必要だとも言える。

 それに、戦争や犯罪というのは、人為的危機、人間が作り出した危機である。つまり、自分達で作り出した危機の上に、軍や国家は成り立っていると言える。

 なぜ、この様な無駄が蔓延るのかというと経済が虚構だからである。つまり、経済という仕組みは、分配を前提として仕組みだからである。

 私は、軍や国家という機構を国防や政治と言った理念で無駄と言っているのではない。ただ経済的観点からすると無駄だと言っているのである。そして、その無駄な部分、或いは、生産的観点からすると不経済だと言わざるを得ない部分によって経済は、成り立っていると言わざるをえないのである。

 それを理解しておかないと財政破綻は解消のしようがない。そして、恒久的平和も築けない。また、軍隊や国家の経済的な役割も理解できない。

 国家も軍も現在の経済の仕組みにおいては、不可欠な存在となっている。現在の経済は、非生産的な部分があって成立している。しかし、非生産的部分が生産的な部分を圧迫し、成り立たなくなるようにしたら、土台から崩れてしまうのである。そして、昨今の金融や軍事、財政の在り方を見ていると経済の実態的な部分を侵蝕してしまっており、それが、経済を危機的な状況に陥れているのである。

 軍隊は、一種の産業なのである。非生産的な産業なのである。

 かつて軍隊は、余剰生産物によって成り立っていた。軍というのは、余剰労働力によって維持されている。この余剰労働力は、社会の生産力、効率が向上すればするほど派生する。社会が豊かになればなるほど軍や国家は巨大化する。それは、余剰生産量を余剰人口に分配する手段が限られているからである。そして、余剰労働力が肥大化して余剰生産力を上回ると戦争が生じるのである。

 際限のない軍事力の拡大競争は、人類を破滅するまで止まることを知らない。軍事力競争を抑止しうるのは、人間の叡知以外にない。国防という理念が確立されなければ、軍事は、虚構の世界を押し広げていくであろう。何から、何を守るべきなのか、その境界線を見極めることが、肝心なのである。

 一人の労働者が生み出す、生産財によって複数の人間を養えることになれば、余剰の労働者を生み出し、それが失業者となる。それは、労働と分配に不均衡を生じる。その不均衡は、格差や貧困の原因となる。そして、失業者の増加や貧困は、社会不安を生み出す原因となるのである。
 分配をするだけならば、手っ取り早いのはお金である。お金をばらまけばいい。しかし、それでは、汗水垂らして働いていることが馬鹿らしくなる。そうなると労働意欲は低下する。

 だから、非生産的な仕事を作り出す必要が生じるのである。非生産的な部分を組織化し、そこに貨幣的空間と市場を造り出し、生産的部分の延長線上に非生産的部分を組み込むしかないのである。その為には、貨幣を社会全体に浸透させる必要がある。金を流す必要があるのである。

 産業革命による生産力の飛躍的向上は、必然的に虚の部分を拡大した。そして、それが軍事革命をも引き起こしたのである。
 さらに、貨幣が不兌換紙幣を基とした表象貨幣制度に変質したことに伴って虚の部分は、物的制約から開放された。

 非生産的な労働を組織化し、受け容れる先の重要な部分が軍であり国家であり、金融なのである。故に、軍と国家と金融は、権力を構成するのである。

  市場経済は、虚の部分があることによって成り立っている。しかし、虚の部分だけで成り立っているわけではない。
 経済には、実体的対象、生産的実態が必要とされる。売る物がなければ市場経済は成り立たないのである。
 虚の部分は、実の部分を補うために存在しているのである。ところが生産性が向上すると虚の部分が増大して実の部分を圧迫し、侵蝕するようになる。時には、虚の部分が実の部分を支配しているような様相を呈してくることがある。しかし、それは病気である。経済は、実の部分を基礎として成り立っていることには変わりがないのである。経済の地盤、実態が瓦解すると物価の急上昇や恐慌といった現象が引き起こされるのである。

 忘れてはならないのは、金銭と関わりのないところに経済の実相があると言う点である。経済の実相は貨幣以外の事象にあるという事を忘れてしまうと、経済現象は、純粋に貨幣的現象だと思い込むことになる。その様な思い込みは、経済を実相から乖離させ、貨幣だけの現象としてしか経済を理解することができなくしてしまう。そして、経済の実体を見失い経済は、幻想と化すのである。人間は、霞を喰って生きているわけではない。又、生きられるわけではない。

 日本は、先進国の仲間入りをし、世界で第二位の経済大国だと言われている。ところが市場は、安売り業者に支配され、生産拠点は海外に移転した。その為に、国内の雇用は危機に瀕している。それはなぜか、経済の質、文化の質が経済の規模に見合っていないのである。虚構ばかりが増えて実が伴っていないからこの様な事態になる。マスコミは、何でもかんでも安ければいいともてはやす。生活の質の向上を促してはいないのである。結局、安物が蔓延る経済は、安物経済なのである。

 生産力が向上し、生産的部分が、余剰の生産力を持つと、非生産的な部分を生み出すのである。非生産的な部分は、生産的な部分を支配することで、自分達が生活するための資源を力によって確保する。非生産的部分は、自分の力では、経済的に自立できない。非生産的部分は、生産的な部分を必要としているのである。逆に、生産的部分は、非生産的部分を必要としていない。経済的に自立できない部分が経済的に自立している生産手は部分を支配するのであるから必然的に力に頼ることになる。それが権力である。

 問題は、生産的部分がどれくらい非生産的部分を負担しきれるかである。生産的部分は、多くの場合、非生産的部分に支配されている。又、非生産的部分の負担が生産的部分に過大にかかれば、必然的に生産力は低下する。

 貨幣主義経済が浸透する以前は、税も物納であり、軍事予算にも、物理的限界があった。しかし、貨幣経済が浸透することによって、又、表象貨幣が普及することによって担税力の範囲を越えて軍事力を強化することが可能となった。実際、国債の発行の端緒も財政破綻の原因も、軍事的理由が多くを占めている。

 他国を侵略したり、軍を駐留することは、どの様な大国でも経済的には割りが合わない。現に、国家財政を破綻させたり、疲弊させる原因の多くは、戦争や軍事費である。皮肉なことに、国防のための費用が国を疲弊させ、破綻させるのである。少なくとも、長期にわたる派兵や戦争、軍の駐屯はまったく経済的には割りが合わない。それだけは事実である。

 他国に対する侵略や進駐が経済的に負担になるのは、何も軍事だけに限ったことではない。経済的な侵略も同様である。

 分配という観点から考えると問題は、お金が流れる領域である。ただ金をばらまけばいいと言うのでは駄目である。重要なのは、お金が流れる領域と経路である。その上で、事業の質が問題となる。
 確かに、公共事業で見かけ上、建設業が有効なのは、建設業界は裾野が広くお金が流れる領域が広いからである。
 しかし、いくらお金の流れる領域が広くても掛けた費用に見合うだけの効果が期待できなければ、結局は資金を浪費した事に変わりはない。

 狭い日本に五十カ所以上の飛行場を作って何の意味があるのであろう。また、人気ない山中に環境を破壊してまで高速道路を作る意味があるのであろうか。
 飛行場は、単独に考えられるものではなく。鉄道や道路、港湾と言った飛行機以外の交通手段と合わせて、日本の交通網をどの様に効率よく組み立てるかに基づいて考えられるべきものである。何の脈絡もないままに、テンデンバラバラに会社や地方自治体、政府が開発を推し進めれば、航空機会社も鉄道会社も道路も、皆、破綻してしまう。かといって、独占寡占も経済効率を低下させる。
 なにも、飛行場や道路と言った公共事業に限らない。バブルの時に狂ったようにゴルフ場建設に狂奔した。バブルが弾けると、それが、日本経済を頸木となって苦しめているのである。ゴルフという遊興のために、日本の国土は、乱開発され、流行がされば放置され荒れ果てていったのである。
 公共、民間を問わず無駄な投資というのは、長期にわたって国民生活を圧迫する。それは、単に貨幣的な問題だけでなく、環境や資源と言った物質的にも、人間の人生観や道徳と言った価値観にも計り知れない傷跡を残す。
 大切なのは、国家構想である。子孫にどの様な国土を残すかである。それが文化である。思想、哲学の問題である。国民の品性の問題である。

 特に、公共投資は、国防、防災、国民生活の社会基盤の整備と言った観点からなされるべきであり、景気対策のような施策は副次的なものであり、利益誘導のような不純な行為は、厳に戒めるべき事である。

 むやみやたらに飛行場を建設したり、なんの目算もなく道路を作ったり、年に数回しか上演されないオペラのために、オペラハウスを建設することではない。なにが、その土地、その地方にとって必要なものなのか。人々は何によって生きていこうとしているのかを見極めることである。百年先、二百年先を見据えた国家建設こそが課題なのである。
 欧米の物真似ではなく。その国、その地方の歴史や伝統文化に根ざした物でなければならない。何よりも生活に根ざした物でなければならない。
 大型のスーパーやショッピングセンターの競争によって地域の商店が衰退してしまった。しかも、大型スーパーやショッピングセンターは、採算が合わなくなればすぐに撤退をする。その為に、その商店街を利用していた地域住民の生活に支障が生じている。この様なシャッター街と言われる商店街の活性化や都市計画や再開発こそ、真に求められている事業なのである。都市を考えることは文化を考えることである。だからこそ哲学が問われるのである。
 現在、要求されているのは、量から質への転換である。それこそが真の豊かさである。

 沖縄の軍事基地を問題とするならば、沖縄の人々が、沖縄の自然や文物によって生活ができるような環境を作り出すことが肝心なのである。その上で、国防を国民が一体となって真剣に考えられる土壌を作ることなのである。

 軍事費と公共投資は本来違う。なぜならば公共投資は、社会資本の充実に向けられるからである。しかし、公共投資も根底に国家構想や国家理念がなければ、無駄になる。社会資本の持つ性格は、巨額な資金を必要としている上に、資金の回収に超長期間かかるような設備や構築物である。その様な社会資本は、長期的な展望をもって計画的に建設され続ける必要がある。さもないと、費用対効果の適切な判定ができなくなるうえ、資金の回転に齟齬を生じさせ、適正な貨幣の流量を維持することを困難にする。無目的な公共投資は、軍事費以上に財政を圧迫する。又、国土を荒廃させる。

 軍や国家がなければいいと言っているのではない。国力や国防目的に見合わない過大な軍や国家は、国家を疲弊させ、衰退させる原因になると言っているのである。過大な軍や国家は、国防という目的に反して軍や国家の負担によって破綻してしまう。それこそ自己矛盾である。

 軍や国家の役割には、自ずと限界がある。その限界を見極めないと、国家経済を破綻させる原因となるのである。

 軍や国家や金融は、生産的実体を持っていないという事で虚なのである。その意味では、経済的に、必要と言えば必要であり、必要ないと言えばそれでである。つまり、国家も軍も観念的な存在であり、国家や軍隊に存在意義を与えるのは、国民国家であれば国民なのである。
 国家や軍隊、金融は、それ自体が生産的部分を持っていない。つまり、経済的には自立していない。社会に寄生しているのである。国家や軍隊、金融は、社会に貢献することによってのみ存在価値がある。
 国家や軍隊は、合目的的存在であり、目的があってこそ存在することが可能なのである。だからこそ、国家や軍隊には、国家国民に対する崇高な理念が求められるのである。また、金融に携わる人間には、高い倫理観が求められるのである。

 理屈だけでは、平和も、安全も守れないのである。戦争や紛争の原因の多くは経済的問題なのである。なぜ、経済が軍や国家を必要としているのかを理解しておかないと、平和は維持できなくなる。そして、経済も破綻してしまう。

 現在では、生産的部分が非生産的部分を圧倒している。それが経済を混乱に導いている一因である。非生産的な部分によって生産的な部分が成り立たなくなりつつあるのである。それが、経済の根源的な問題なのである。

 もう一つ貨幣経済で考えなければならないのは、経済の最小単位の問題である。それは経済の本質的在り方の問題でもある。

 今、結婚をしない若者が増え、少子化が問題となっている。なぜ、結婚をしようとしない若者が増えているのか。それは、経済の在り方に問題がある。
 中には、女性が差別され、女性の働く環境が整備されていないことが原因だとわけの解らないことを言っている者もいる。女性の働く環境とは何か。それは、保育園だというのである。保育園を増やせば、結婚をするというのである。結婚をしない原因を保育園の数にするのは、風が吹けば桶屋が儲かる式の論理である。
 第一、結婚をしないのは女性ばかりではない。男性にも原因がある。

 現在、一番、贅沢な生活をしているのは、正職に就いている独身者である。収入のほとんどを自分の為に使えるのである。しかも、実家から通勤している者は、家計がほとんどかからない。
 しかし、結婚をしたら別である。男でも女でも自分の自由になる所得は、独身時代の十分の一以下になってしまう。だから、結婚をしない。それが実利的である。経済的合理性である。生活に何も困っていないのに、自分から進んで経済的に厳しい状態にする必要はない。要するに、結婚をする必然性がないのである。だから結婚をしない。結婚をすると困るけれど、結婚をしなければ何も困らないのである。結婚をする動機がない。

 経済体制は、所得構成で決まる。所得構成は、消費傾向を決める。貨幣収入に結びつく仕事だけにしか意義を見出せなくなれば、貨幣収入に結びつく仕事ができない層は、必然的に社会から排除されることになる。その最たる存在が、幼児や母親、高齢者、障害者、病人である。

 では、幼児や母親、高齢者、障害者、病人に金を渡せば事は済むであろうか。或いは、施設を建設すれば問題が解決されるであろうか。それは、単に社会から隔離しているのに過ぎない。

 何でもかんでも、個人に帰せば、結果的に貨幣収入を得られない層は、自分達の居場所を失う。社会から、排除され、或いは、隔離されるのである。

 もともと、経済の単位は共同体にあるのである。貨幣収入は補助的手段に過ぎない。ところが、貨幣的空間が非貨幣的空間である共同体内部まで浸透することによって共同体が本来の機能を果たせなくなりつつある。それが最大の問題なのである。

 共同体は、道徳的空間なであり、市場は、非道徳的空間である。だから、市場は自由だと錯覚している。自由は、非道徳的行為を言うのではない。自由を成り立たせているのは内面の規律である。故に、自由は、むしろ道徳に重きを置く思想なのである。
 共同体の崩壊は、道徳の崩壊を招く。それは自由の制約に繋がるのである。つまり、外的制約(外圧)によって公共の秩序を維持しようとする傾向を高めるのである。

 根本にあるのは、経済を構成する共同体によって、人々の生活や秩序が保たれる状態を維持することなのである。幼児や、母親、障害者や病人、高齢者の面倒や世話を組織的に行うは、本来、共同体の重大な使命、役割なのである。

 市場経済によって支配される以前は、最終的な生活は、家族、即ち、共同体において担われていた。貨幣収入は、補助的な手段だったのである。だから経済は正常に作用していた。つまり、ある程度、社会的秩序に基づいて分配がされていたのである。正義や道徳が機能していた。しかし、貨幣が全てである社会では、正義や道徳に変わって貨幣価値が支配する社会になる。

 経済の最小単位は、共同体である。経済主体の単位は個人だとしても経済を成り立たせている単位は共同体である。共同体というのは、非貨幣的集団である。
 経済主体は、個人に帰すことができても、経済行為の最小単位は、共同体としなければならない。一つの共同体を単位として生活の組み立てなどをするのである。なぜならば、労働力を市場に提供し、幼児や高齢者のように貨幣取得、貨幣収入を得られない主体が存在するからである。又、例え、貨幣所得や収入を得ることが可能だとしても生活の基盤を個人に帰すことは理にかなわないからである。家事の全ての外注にすることは経済的合理性に反する。
 故に、経済の最小単位は共同体である。そして、その最小単位である共同体の在り方によって社会体制はある程度の制約を受ける。

 元々運命共同体、つまり、家族があり、そこで生活が営まれていた。基本は自給自足であり、足りない分を外で働いて、そこで得た金によって賄っていた。余所で得た金は、一旦家計に入れられて、生活に必要な物は、共同体内部の決まりによって改めて分配されていたのである。
 決まりは、共同体内部の規範や序列に基づいて行われていた。
 それが元来の公平である。

 現代は、貨幣収入が稼げない層は、圧倒的差別される。それが共同体を否定した社会のなれの果てである。そのうえ、倫理観が喪失するのである。

 先にも述べたように、今一番豊かな消費生活を堪能しているのは、正職に就いた独身者である。手取の所得を全て小遣いにした上で、生活に必要な費用は親に依存している層である。彼等は、職場では、若手に属するから、食事など驕られる側の人間である。それに対し、今一番大変なのは、子育てをしていて、正職にも就けない層である。彼等は、生活に必要な経費を抜かれた上に、後輩の面倒まで見なければならない。
 なぜ、そうなったのかと言えば、分配上から生活の必要性という価値観が失われたからである。
 それが、人間という属性を無視したところに成り立つ経済的論理である。
 これでは、結婚どころか家族も維持できない。又、社会的立場などないに等しくなる。

 金が全てだと錯覚するから、生活ができなくなるのである。金が全てだと錯覚するから人間関係が保てなくなるのである。金が全てだと錯覚するから、社会秩序が崩壊するのである。金が全てだと思い込むから、人を愛せなくなるのである。

 今や人間は、虚構の世界でしか生きられないのである。今更、自給自足の生活に戻りたいていっても戻れはしない。無人というに行って一人で暮らそうと言っても、その無人島すら国家権益によって縛られている。自給自足しようにも自分が自由にできる土地すらないのである。
 人間は、虚構の世界でしか生きられないと言うのならば、その現実を受け容れるしかない。受け容れた上で、よりよい生き方ができるように虚構の世界を変えていくしかない。それこそが現実なのである。

 糖尿病患者が甘い物を欲しがるからと言ってお菓子を沢山やる奴があるだろうか。
 国が病んでいる時に、国民に苦い薬を飲ますことができる者こそ真の政治的指導者である。






                          

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