会議とは、人が集まって情報を処理する場である。情報の処理とは、第一に意思決定。第二に、調整。第三に、情報の交換。第四に、情報の伝達。第五に、情報の整理である。
第一の意思決定には、採択、否決、保留、承認、信任、認可、許可、裁決、判決、評決、選挙、票決、表決などがある。第二の情報の調整には、修正、訂正、変更、追加、削除、改正、廃棄、廃止、調停などがある。第三の情報の交換には、連絡、相談、懇談、諮問、査問、議論、討議、討論、協議、審議、弁論、公判、審理、検討、確認、聞き込みなどがある。第四の情報の伝達には、指示、命令、通告、通知、布告、上申、報告、提案、弁明、教育などがある。第五の情報の整理には、分類、選別、統一、統合、絞り込みなどがある。
会議は、部品である。仕事や、事業は、一つの情報系である。また、組織の情報系である。仕事には、過程がある。仕事には、段取り、手順がある。組織や仕事と言った情報系の節目・節目に入って組織的、体系的意思決定や情報の交換、伝達、調整、整理を行うのが、会議である。この様な会議は、それ自体で成り立っているのではなく。仕事や事業、組織の一部、パーツ、部品にすぎない。つまり、会議は、自己完結的なものではない。逆に言えば、プロセスのない、自己完結的な集まりは、会議ではない。
議会、閣議、裁判は、会議体である。しかし、一つの会議を指しているのではなく、複数の会議の集まりを指していっている。議会にせよ、閣議せよ、裁判にせよ、一回の会議で全てが処理されるわけではない。複数の会議が集積されて一つの仕事が構成され、決定が出されているのである。逆に、一つの会議に見えても複数の要素が集まって成立している場合もある。会議それ自体もパーツならば、会議も幾つかのパーツによって構成されている。この様に、会議は、構造的な集まりなのである。
つまり、会議は、幾つかの会議、幾つかの作業からなる一塊(かたまり)りの全体、構造の一部としてみないと適正な評価はされない。
その全体とは、第一に、仕事、事業であり、次に、組織である。
そして、会議は、情報系の一部である。故に、会議は、情報の集積点である。幾つかの情報や作業の流れの合流点に会議は、設定される。故に、会議の機能や目的は、その情報や作業の流れの中で果たすべき働きから決められる。
だから、会議に絶対的な機能はない。会議の機能は、相対的なものである。そして、会議とは、合目的的なものである。いきなり、特定の会議の形を定めて、会議とは、かくあるべし的な議論を展開するのは、無意味である。なぜならば、会議の在り方に、普遍的な形はなく。機能や目的に応じて決められるからである。故に、会議の在り方を決めるためには、前提条件が重要となる。
また、同様に、会議の原則や規則にも普遍的なものはない。会議は、合目的的な集まりである。故に、会議の目的は、目的に応じて設定されるものである。この様な会議の原則や規則は、必ず会議が開かれる前に確認されなければならない。
この様な会議は、都度、事前に設計され、準備されていなければならない。会議というのは、何の準備も、用意も、打ち合わせもなく会議を開けば、その時点で、その会議は破綻している。会議は、合目的的な集まりであり、目的に適合した時その効力を発揮する。
会議を設計するとは、都市計画に似ている。現に、欧米の都市計画、ひいては、国造りは、会議場(議会、政庁、裁判所)、広場を中心にして組み立てられた。つまり、会議の設計は、国造りに通じるのである。
日本人は、本来の会議の在り方を知らないから、質問と意見の相違も解っていない。質問を求められているのに、自分の意見を言い続けてみたり、自分の意見を述べなければならないところで、的はずれな質問をして、会議を混乱させる者が多くいる。しかも、何を注意されているのか、意味のわからない。これらは、会議を設定する時、充分に考慮し、事前にルールを決めておく必要がある。意見交換の場なのか、質疑応答の場であるのか、事前に周知しておかなければならず、また、発言者もわきまえておかなければならない。
日本の会議は、儀礼的なものが多い。と言うより、日本人が会議を儀礼的な会合にしてしまっている。その為に、実質的な議論が会議でなされないケースが多々見られる。会議をやたら形式的な者、権威主義的なものにしてしまい。あたかも、宗教か、何かの式典のようにしてしまう。
会議は、本来、スポーツのようなものである。競技である。自分の持てる力を尽くして自分の主張を立証する行為である。和をもって尊しとなすを信条とする日本人は、面と向かって言い争うこと、対立することを怖れる。そして。婉曲的な表現で相手を傷つけまいとする。しかし、結局、それが相手を傷つけてしまう。対立を怖れては、何も決まらない。結局、曖昧なままで問題を先送りする。意見が違うから話し合い結論を出す必要があるのである。また、だからこそ、ルールが必要なのである。さもないとただの喧嘩になってしまう。時として、日本人の会議がただの喧嘩になってしまうのは、日本人が会議のルールや技術に習熟していないことに原因がある。しかも、日本人には、その自覚すらない。だから、正しいことを言っているのに、なぜ、自分の主張が通らないのか、訳が解らない。相手の意見も冷静に聞けない。最後は、感情や意地が先走る。これでは会議は成り立たないのである。勢い、会議を儀礼的な集会してしまう。会議は、儀礼的な集会になった時、実を失うのである。結果、日本人にとって会議は、欠伸(あくび)の出る退屈極まりない集まりになってしまうのである。
会議は、一つの過程の中で設定される。会議それ自体が目的なのではない。会議を開くためには、会議を開くこと以外に目的がある。その目的が明確でなければ、会議は開いても意味がない。
特に何らかの意思決定を目的とした会議は、そのお膳立てが重要である。会議は、過程、プロセスである。それも一連の過程、プロセスである。会議には、その前後の作業や会議と何らかのつながりがある。つまり、会議には、経過がある。
また、会議には、手順・順序がある。最初の会議と最後の会議とは、目的も、形式も、やり方も違う。会議には、一貫性がなければならない。会議と仕事との間に脈絡がなくなったら、仕事も組織も一つの全体を保つことができなくなり、割れてしまう。故に、会議には、整合性がなければならない。また、会議は一つの情報系の一部である。組織も仕事も一つの情報を共有する必要がある。情報を共有しなければ、一つの仕事、組織を保てなくなる。国が割れたり、組織が分裂するのは、一定の情報や規則、原則の整合性、統一が保てなくなるからである。その為に、情報の伝達、集中、調整、交換、統一を図るのが会議の重要な役割の一つである。
日本人の多くの会議は、無目的に、儀礼的に開かれる会合である。この様な会議は、会議本来の機能を見失わせる。そして、会議を無意味な寄り合いにしてしまう。そこでは、会議によって情報を統一させたり、集中させるのではなく。むしろ発散、分散させてしまう。会議が、ただ議論の場とかしたり、親睦の場となる。また、指導者の一方的な演説、講演の場になりがちである。それは、会議を一つの機関、部品と見なしていないからである。
会議のことを良く理解する必要がある。議会、裁判、閣議、団体交渉、二国間協議、国連、いずれも会議体である。つまり、民主主義も国際社会も会議によって保たれていると言っても過言ではないのである。会議の基本的な知識も技術も持っていなければ、世の中は良くならないし、また、日本は、国際社会の中で生き抜いていくことができないのである。独立も保てない。会議の術に長(た)けてない者は、国際社会では無力である。
かつて、志ある者は、会議に命がけで臨んだ。会議場は、真剣勝負の場なのである。そこで国家の命運も決まるのである。一歩間違えば、不平等な条約を結ばれ、領土を奪われ、国民の主権も蹂躙される。戦争にもなる。だからこそ、会議に臨んだ者は、身命を賭して戦ったのである。
平和は、会議から生まれる。