議    会

 会議というと、一般に思い浮かべるのは、この議会型である。それでいて実際の議会型の会議が開かれるのは、稀なことである。

 会議の雛形として、議会を想定しながら、実際に正式な形で会議が開かれることが少ないから、会議のやり方に慣れない。

 お互いに、言いたいことを言って、採決をとるというのが議会の正しい在り方ではない。議会とは、議を尽くし、議論を極める場所である。それには、ルールがある。何の目的もなく、ただ集まって議論をしたり、話し合いをするような場を会議というのではない。

 日本で政治的とされる事で、日本以外の民主主義国では政治的ではないとされる事がある。例えば、日本では、自己の考えを曖昧にして結論を出すことを政治的と言うが、日本以外の民主主義国では、自己の主張を明らかにすることを政治的とするからである。日本のように自己の主張を曖昧にしたままで結論を出す国の議会は、必然的な特殊なものになる。

 日本人は、言葉や集団の背後に得体のしれない力が働いていると思っている。しかも、始末が悪い事にその力は普遍的な力ではない。相対的な力なのである。その場の状況や環境によって左右されてしまう相対的な力なのである。
 つまり、その場の空気や雰囲気、ムードという得体の知れない力によって集団の意思決定が少なからず影響を受ける。と言うよりも支配されてしまう。

 日本では、選挙そのものが空気やムードに支配される傾向がある。

 更に、日本人には、言霊信仰というものがある。一度口にされた言葉によって現実の現象が起こる。又は、支配される。言葉には、得体の知れない霊力があるという事である。その為に、直接的な表現を避け、婉曲的な表現をする傾向が日本人にはある。特に、忌み語は、極端に嫌われる。しかし、現実の世界では、忌み事こそ話し合わなければならない。忌み事、嫌なことを避けていては、現実に対処することはできないのである。

 何でもかんでも話し合えばいい。話せば解る式の考え方を日本人はする。そして、話し合いイコール会議だと思い込んでいる。話し合う事と会議とは違う。話し合いと会議を混同するから、会議の真の意味が理解できないのである。会議は、話し合っても結論が出ないから開かれるのである。話し合っても結論が出なければ、すぐに、会議に切り替えるべきなのである。

 会議というのは、話し合いと言うより、討議である。つまり、戦いである。話し合うだけでは決着が付かないから、会議をするのである。だから、ルールが必要であり、重要なのである。スポーツにルールがなければ、ただの喧嘩、果たし合いに過ぎないように、会議にルールがなければ、ただの話し合いか口喧嘩、罵り合いに過ぎないのである。
 ところが、戦後の日本人は、この点を誤解している。つまり、話し合いイコール会議であり、話し合えば解るはずだから会議をするのだと教え込まれ、思い込んでいるのである。

 日本の国会だけでなく、アジアの多くの国で議会が紛糾し、暴力沙汰まで引き起こしている。それは、話し合いの基本ルールが確立されていないからである。

 会議場は、スポーツのフィールドのようなものである。ルールがなければ成り立たない。場なのである。

 個々の議員は、自分の意思に従った行動するのか、それともあくまでも、所属する政党の指示、決定に従うのか、それによって、議会の性格も全く違ったものになる。

 議会の性格は、議会を構成する議員の資格、権限、在り方によって決まる。議員の資格、権限、在り方は、選挙制度によって確定する。故に、議会の性格は、選挙制度に深く関わることになる。

 議会の性格は、行政、ひいては、首長の在り方をも規定する。
 議員が所属する政党の一部で自分の意見考えで投票ができないとしたら、議員は、単なる員数に過ぎない。選挙結果によって議会の趨勢は確定するのである。それが、政党政治である。それに対し、議員が独自の考えで投票できるとなると、政党よりも、議員個人の人格の方が優先することになる。

 議員個人の意見なのか、それとも所属した政党の意見なのかが重要なのである。それは、民主主義に対する考え方の根幹に関わることなのである。

 政党政治においては、政党の意思の方が優先される。となると党議が重要となり、首長は、党の指導者も兼ねることになる。それに対し、議員の個人の意見が優先される場合、首長の支配力は弱くなる。その為に、民意を反映するためには、内閣の総辞職や解散総選挙が前提となり、議会での討議は、選挙を前提としたものなる。反対に、議員が独自の判断をできるとなると、議会での議論は実質的なものとなり、議員の身分保障が重要となる。また、首長は、議会から独立した権限を持つ必要がある。前者が議院内閣制であり、後者が大統領制である。
 日本の郵政民営化の議論がその好例である。郵政民営化に反対した自民党の議員は、追放され、中には、政治生命が断たれた者さえいる。

 議会は、通常、専用の場所を持っている。古来は、広場で行われたこともある。都市国家では、議場を中心にして、都市計画は作られた。つまり、議会は、民主主義国家の中心なのである。

 会議場のレイアウトは、第一に、議長を中心に扇型のもの、第二に、ラウンド型、円形のもの、第三にイギリス型がある。

 議会型の会議は、基本的に議長と書記からなる。また、その機能は、意思決定にある。議長は、民主主義国においては、大変な権威がある。それは、民主主義国における議会の位置による。民主主義国において議会は、国権の最高機関である。故に、大統領制においても議会の議長は、大統領に次ぐ権威を持つ。また、国によっては、議長が首長を兼ねることもある。それだけに、民主主義国では、議長の職権を明らかにし、その任免の手続きを明らかにしておく必要がある。

 会議は、論理的であるべきである。それは、民主主義が法治主義を前提としているかぎり、制定された法、命題に基づかなければならないからである。それ故に、議会制民主主義体制は、論理的な体制にならざるをえないのである。民主主義の論理を支えるのは、法であり、その実際は、立法の過程で実現されなければならない。更に、それを執行するのが行政であり、管理するのが司法である。

 議会の論理的展開は、ディベートが基本である。つまり、発言者、論者は、自分の立場を明確にした上で自分の主張を展開するのが基本である。しかし、議会の討論は、単純なディベートではない。最終的に採決、意思決定に結びつくものでなければならない。

 討論、ディベートの論理は、通常科学論文や数学で使われる論理展開とは異質である。いわゆる、討論、ディベートで用いられる論理は、弁証法である。

 テーゼ(定立)、アンチテーゼ(反定立)、アウフヘーベンから成るのが弁証法である。つまり、命題、反命題、止揚と言う展開である。

 一定の命題から論理的に結論を導き出すのが、演繹法である。一定の事実から推論によって結論を導き出すのが、帰納法である。つまり、一般から特殊への流れが演繹法であり、特殊から一般への流れが帰納法である。通常、科学論文や数学に用いられる論理は、この演繹法か、帰納法である。どちらも、論理的、かつ、実証的でなければならない。それが論理実証主義である。

 それに対し、弁証法は、科学的な意味で論理的である必要も、実証的である必要もない。なぜならば、アンチテーゼをしたところで論理的飛躍、論理的中断が前提とされているからである。もともと弁証法は、議論、対話を前提としたものであり、構造的なものなのである。直線的な論理ではなく。いろいろな角度から対象を捉え、その是非を検討するための論理である。その弁証法の在り方を理解せずに、弁証法を活用すれば、弊害が派生するのは当然のことである。弁証的であれば、科学的、論理的というのは間違いである。
 弁証法というのは、会議、討議、対話の場でのみ有効な論理である。

 弁証法というのは、議会、対話においてこそ有効な論理である。弁証法は、二者択一的な展開に有効だからである。通常の論理は、一対一の展開によって為される。つまり、一つの命題を根拠に一定の法則によって結論を導き出す。
 議会の論理は、ディベート的な展開になる。つまり、案件に対して賛成意見、肯定意見を述べた後、反対意見を述べ採択をとる形式がとられるからである。

 議会型の会議の採決方法は、基本的に多数決である。しかし、だからといって多数決が全てではない。多数決イコール民主主義と捉えることは、民主主義の本質を見誤ることになる。つまり、民主主義の原理を数の原理にすり替えてしまうことに成りかねない。民主主義は、数の論理ではない。民意に基づく体制を指して言うのである。そして、数に民意が必ずしも反映されるとは限らないのである。強権的な国家が、強権を持って多数を形成した事例は、歴史上多くある。多数決は、悪用されれば、独裁者の行動を正当化することにも使われるのである。多数を征するだけでしなく、どの様な手続きによって為されたかが重要になるのである。

 多数決とは、基本的に二者択一的な決議方法である。議決権を持つものは、一つの案件に対し、賛成か反対、棄権の中から一つを選択する。
 議会制民主主義と多数決は同一のものではない。しかし、議会の機能に、二者択一的な意思決定は、向いているし、事実、二者択一的な案件が多い。それ故に、議会における意思決定は、多数決によってなされる場合が多くなるのである。その為に、議会制民主主義と多数決とを同一視する傾向がある。しかし、議会の本質と多数決は違う。多数決は、決議方法の中の一つに過ぎないのである。

 ディベート、討論の基本は対立である。対立的だからこそ、複数の視点によって対象の問題点を浮き上がらせることができる。日本人は、対立よりも和を重んじる傾向がある。その為に自分の立場を曖昧にし、争点をぼやかす。しかし、和では議論は成り立たない。自分の立場が曖昧で、争点がぼやけていては、問題の本質は明らかにできない。しかし、対立したままでは、問題はいつまでたっても解決されない。だからこそ、会議が必要であり、会議にルールが必要なのである。

 事象、現象を対立的に捉える見方がある。つまり、斥力だけで、一面的にしか物事を認識しようとしない態度である。彼等は、テーゼとアンチテーゼの関係しか見ない。ひどい場合、アンチテーゼだけである。自称進歩主義者や反体制主義者に多い。とにかく何でもかんでも反対すればいいと思い込んでいる。意見イコール反対意見であり、賛成意見ではないと思い込んでいる。こうなると反対することが目的になってしまう。是では議論が成り立たない。彼等は、元々話し合う気がないのである。この様な者が参加した場合、会議そのものが成り立たない。最初から話し合う気も、会議のルールにも従う意志がないからである。弁証法は、アウフヘーベン、止揚されてはじめて意義がある。
 反対のための反対する者は、会議から排除しなければならない。彼等は、会議に参加する権利を最初から放棄しているのである。権利を放棄している以上、主催者は、守るべき義務を負っていない。議事の進行を意味もなく妨害する者に対し、議長は、毅然たる態度で臨むべきである。
 現象は、引力と斥力、作用反作用の均衡の上に成り立っている。相反する力の作用だけで、つまり、斥力だけで現象や事象を捉えたら現象や事象の均衡は失われる。物事を二律背反的に解釈をするのは、対象の一面しか捉えていないことになる。力の均衡とその背後にある構造を見極めることが肝心なのである。そして、会議は、会議の構造によって支えられている。会議の正当性は、会議の構造によって保証されるのである。

 議会は、民主主義の母胎である。1787年、アメリカの憲法制定会議。フランス革命におけるテニスコートの誓い。古代アテネの民会。会議は、民主主義を建設する過程で重大な役割を果たしてきた。そして、そこで争われたことは、民主主義の本質に関わることであった。憲法を制定し、民主主義を設立するための会議、その会議をせずに民主主義は、成り立ち得ない。憲法制定会議こそ、議会の原型であり、そこで繰り広げられる葛藤、議論こそが、民主主義の産みの苦しみなのである。そこで先ず、問題となるのは、会議の在り方であり、採決の問題なのである。
 それ故に、議会は、全ての会議の手本となるのである。

 日本人は、法や規則、契約書というものを敬して遠ざける傾向がある。法令に至っては、難解な文章で、専門家でも解釈に窮する代物である。勢い、法学は、解釈学になる。こんな事は自然科学では考えられないことだ。現象を無視して、法則を解釈するなどあり得ないからである。日本の法曹界の者で、自分達は、科学的で、合理的精神の持つ主だと主張する者がいたら、余程、道理をわきまえない者である。現代の日本の法は、一種の宗教の聖典、教典に近いものである。それは、法が現実の社会、世界から乖離しているからである。日本人にとって法や規則、契約書というのは、近寄りがたい、お経や祝詞のようなものであり、それを活用するのは、僧侶や神主のような専門家に頼まなければならない、そんな代物なのである。
 しかし、民主主義の基盤は、法であり、規則であり、契約である。法や規則、契約書を敬して遠ざけていては、民主主義社会は成り立たない。事実、日本で頻繁に起こる問題の多くは、法や規則、契約書をよく知らないことに起因する。生命保険の問題など好例である。また、日本が国際社会で問題を起こすのも、法や規則、契約に疎(うと)いからである。
 なぜ、法や規則、契約に日本人は、疎いのか。それは、自分達で法や規則、契約書を作ろうとしないからである。人任せ、専門家任せにしているからである。だから、文面が、お経のように意味不明でも平気でいられるのである。要するに、日本人は、法や規則、契約そのものを問題にしている、信じているのではなく、間に立つ人を問題にし、信用しているのである。
 しかし、それで問題がなければいいが、現代社会は、法や規則、契約の穴を悪用するものだらけである。と言うよりも、法治国家では、人の倫理観よりも法の効力の方が強いのである。道徳上問題があったとしても法律に問題がなければ、法の解釈に従わなければならない。
 法や、規則、契約に疎い癖に、多くの日本人は、トラブルが生じて後で、法や規則、契約を問題にする。間に立った人を信じたのだと言っても、後の祭りである。契約書の内容が不備だった、説明が不十分だった、相手の言っている意味がわからなかったと主張しても、弁明にはならない。一度取り交わしたら、何らかの効力が発生するのである。難解ならば、解りやすい言葉に置き換えさせればいい。それが民主主義なのである。専門家や特権階級に頼らない。自分の意志で自分が判断する。また、自分で判断できるようにする、それが民主主義である。人民が主人でなければならないのである。そして、その根本が立法行為である。立法の過程が、国民全てに理解できないようでは、民主主義は成り立ち得ない。そして、立法の過程は、議会の仕組みに支えられている。議会の在り方、会議の在り方を理解することは、民主主義の根幹を理解することなのである。その上で、自分達も立法に参加していく。会議に参加していくことが求められるのである。民主主義の根本は、自分が会議に積極的に関わっていくことなのである。そして、自分達で法を制定し、規則を作り、契約を交わす。法を一部の専門家の専有物にしてはならないのである。
 議会は、民主主義の根本なのである。




        


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