会して議せず。議して決せずという言葉がある。これが間違いである。議するばかりが会議ではない。決するばかりが会議ではない。会議の目的とは、本来多様なものである。
日本人は、会議というものを誤解している。そして、その延長線上において民主主義も勘違いしている。日本人は、話せば解ると思い込んでいる。だから話し合って決めるという。それが民主主義だというのである。これは、会議の本質を理解していない証拠である。
会議が成立するのは、話してもわからないからである。だから、会議を開くのである。会議と無原則な話し合いとは違う。厳密に言うと、予め決め方と、ルールを明確にしておいて話し合うのが会議である。何の取り決めもなく話をすることではない。そんなことをすれば、何も決まらなくなる。そして、予め決められたルールに従って話し合い、決定するのが会議である。だから、公開で討論を行うのが会議である。
民主主義の大前提は、話しても解らないである。だから、予め会議の規則や手続を決めておいて一定の時間や手続きが済んだら決議にはいるのである。決議の仕方も最初に決めておく。勝負が始まったり、決着がついてからレートやルールを決めるなどというのは馬鹿げているのである。レートもルールも試合が始まる前に決着しておくことなのである。
日本人は、話せば解る。だから会議を開くのだと思い込んでいる。しかも、それが民主主義だとも思い込んでいる。話せば解ると言うことを前提としているから、日本人は、何でも全会一致、満員一致、全員一致を建前とする。話しても解らないと言うことを前提としたらこんな結論には成らない。ちなみにユダヤ人は、全員一致は否決されると効いたことがある。全員一致というのは、あり得ない。あり得ないことが起こるのは神の意志に反すると言う事らしい。
とにかく、全員一致を前提とするのは、日本人だけと言わないまでも、他の民族は少ない。なぜならば、全員一致では物事が進まなくなるからである。こんな事が成立するのは日本が島国だからである。
民族も、宗教も、人種も違う人達が入り交じった国で全員の合意が取り付けられなければ決まらないなんて事になったら、混乱を増長させるだけである。
だから、言いたいことを言わせたら速やかに採決に移る。採決で決まったことには従う。それが民主主義なのである。
しかし、日本人は、全員一致を建前とする。だから話せば解るなのである。会議というのは話し合いの場だと思い込んでいるからである。だから、いつまでも会議をダラダラと続けているばかりで何も決められない。俗に言う小田原評定である。挙げ句会議ばかりが多くなる。
それでいて重要な会議は、単なる儀式となり、俗に言うシャンシャンの会議で終わる。
全員一致には、最初から無理がある。無理があるから事前に根回しをしておくことになる。なんて事はない、結論は会議を開いて出すのではなく。会議を開く前に決まっているのである。大勢に逆らえば、よくて村八分、悪くすれば抹殺される。だから、会議は単なる儀式と化すのである。
儀式と化した会議は、上の人間の意見をただ御拝聴する講演会か、演説会になってしまう。
その結果、決定という過程と話し合うという過程が別々に為されることになる。
日本人は、決めると言う事と、話し合うという事を分けて考える方が定着してしまった。そして、日本人は、話し合いで決めるというのが苦手になってしまったのである。
話し合いは話し合い、決定は決定。そして、話し合いの場と違うところで予(あらかじ)め決めておいて、後で承認を取る。その為に、意思決定の会議が、儀式化、儀礼化してしまう。
おかしな事に、会議では決められたこと以外、決められないという事になる。これでは何のために会議をしているのか解らない。
また、話し合ったことと、決められた事が、まったく違うことになっていても、気が付かないことすらある。そう言うことに疑問を感じない。要するに、話し合ったとか、話を聞いてもらってから良いではないかという事である。自分の話を聞いてもらったという既成事実があれば面目が立つのである。話し合いとはその程度のことである。つまり、話し合いと決め事とは、別物なのである。
それは、予め、決定の仕方や話し合いのルールが合意されていないからである。だから、話し合っても決められないのである。だから、最後は力関係で決めようとする。それでは、最初から話し合う意味がない。
しかも、正式な会議というと、儀礼化した会議、儀式と勘違いしている人間が多くいる。それが総会屋のような商売を生み出している。
それは、先にも述べたように話し合いって決める事ができないからである。決定の場面が儀礼化してしまっている。予め決められたシナリオ通りに行かないと気が済まない。うまくことが運ばないのである。総会を担当する者は、決められたとおり、決められたように、決められた時間通り事が運ぶように要求される。しかし、これでは会議の本質は失われてしまう。会議は、やりとりがあって成り立つのである。最初から結果の解っているスポーツやゲームは、予め結果が明らかになっている事自体で破綻している。会議も同様である。
逆に、非公式の会議は、話し合いだと思っている。だから、意味もなく、目的もなく、ひたすらに話し合う。結論も出ずに、何も決まらない。目的もへったくれもない。会議というと話し合う事だと思い込んでいる。極端な話、議論すると言う事だと錯覚している。議論することだと錯覚すると、延々に話は決まらなくなる。何しろ、議論すること、話をすることを目的だと思い込んでいるからである。こうなると、話し合う事、議論することが目的化する。挙げ句、話し合ったからいいかとなる。こうなるとまとまる物もまとまらなくなる。
議論し、話し合うけれど、そこで議論された事、話し合われた事とは、全く別の次元で仕事や作業が進む。誰もが、会議は、通過儀礼であり、無意味なもの、形式なものだと思い込んでいく。かくて、会議は踊るのである。
日本人は、一事が万事この調子である。だから、日本では、手続は、形骸化してしまい単なる形式でしかなくなってしまう。それは、管理という過程と事務手続という形式が結びつかないからである。
それで形式が悪いと否定するのは本末転倒である。手続が上手く機能していないから組織が円滑に動かないのに、組織が機能しないのは手続の性だと手続を、更に、軽視するから、ますます問題がこじれるのである。
国会のような会議の専門家の集まりのはずのところでも変わらない。人の話を聞いて自分の意見を決めると言う事ができないのだから、自分の所属する政党が予め出した結論に黙って従うしかない。こうなったら、始めから話し合いなんて成立しようがないのである。
ただ、党利党略でしか国会は動かなくなる。そうなると人の数だけが問題となる。結局、選挙で選ばれた政治家だと言っても員数でしかない。
政治家が目指すのは、大臣の位だけに陥ってしまう。
会議がうまくいかないのは、会議の目的を取り違えていることである。そして、会議の趨勢は、会議の事前に決まる。それは、会議が人の集まりであり、情報処理の場だからである。何の準備も用意もしていなければ、考えの基盤も利害も違う人間が、全く違う認識前提に上に立っていたら話し合い以前の問題だからである。ただ、日本人社会は、極めて高い合意の上に成り立っている。しかも無意識の合意の下にである。話し合いや会合を成立させる上で、必要な、常識や言葉、風俗、習慣、文化、言語と言った基本的素養の多くを幅広い共有している。それ故に、何の確認事項もとらずにいきなり話し合いに入れる。しかし、それが問題なのである。余りにも高いコンセンサスがあるから、会議の前提、お膳立てができないのである。また、面倒くさがったり、適当にしてしまうのである。それが、信頼関係だとも思い込んでいる。つまり、黙っていても承知していると思うのである。その為に、会議の基盤ができない。
話し合いをした上で決める事ができないのは、話し合いの規則、決め方の規則を明らかにできないからである。話し合いの規則、決め方の規則は、目的によって違ってくる。その目的も、会議を成立させている過程や組織全体との関わりによって違ってくる。
そして、目的は、空間のレイアウト、時間のレイアウト、構成のレイアウト、人のレイアウトにも重大な影響を及ぼす。
先ず会議を開くには、目的を明らかにする必要がある。目的が明確でない会議は、開くべきではない。目的を明らかにしないで会議を開くことは、かえって、マイナスになることが多い。
会議は、単独で存在するわけではない。大体一つの事柄を決するのに、最低でも三回から四回ぐらいの会議が必要である。会議の目的は、一定の過程の中に位置付けられることによって決まる。例えば、五回の会議を想定して、第一回の会議の目的を立ち上げ、キックオフ、顔合わせとし、第二回目の会議で、計画の骨子を定め、役割分担をし、第三回の会議で実施計画を検討し、第四回の会議で、準備状況の確認をする。第五回目の会議で結果の報告と打ち上げをするという具合にである。
また、本会議で採決する前に、事前の予備会議、委員会で話を煮詰めておく、案を絞っておく。そして、本会議、委員会、予備会議の目的が決まる。本会議は、本会議、予備会議は予備会議、委員会は委員会で目的が定まるのではない。
よくあるのが、提出される資料も金太郎飴のように同じ資料がただ、順繰りに上がってくるだけと言うものである。例えば研修旅行の計画を立てるにしても、同じ場所を決めるのでも打ち合わせの場所もあれば、集合場所、宿泊場所、研修場所、中継地点、食事の場所、解散場所といくらでもある。しかも、研修旅行中の場所だけでなく、事前の打ち合わせの場所や事後の反省会の場所もあるのである。そして、それぞれに資料が必要となる。
多くの人は、会議を単独で考える。単独で考えるとどうしても目的が抽象的なもの、総花的になる。目的は、相対的なものであり、絶対的なものではない。会議の前後の作業や状況、会議によって目的は定まるのである。絶対的な会議の目的というのはないのである。
予算があっても利益を上げることはできないが、予算がなければ利益を上げることはできない。
予算を立てることを目的とする者と経営することを目的とする者の違いである。予算は、二次的な目的であり、経営は、一時的な目的である。会議も同様である。会議も開くことが目的なのではない。会議を開く目的は別にある。ただ、滞りなく会議を終わらせればいいと言うものではない。ところが、議論も、揉め事もなく、話し合いもなく、何事もなく会議が終われば成功だと思っている日本人が多くいる。だから、日本では会議が成立しにくい。また、会議を土台とした民主主義も実現しにくい。
無事というのは、何事もないという事である。会議を無事終わらせるというのは、何事もなく終わらせるという事に通じるのである。しかし、何事もない会議というのは、それ自体自己矛盾である。会議は、何事かあるから開かれるのである。また、会議中何事か起こることを期待して開かれるのである。何事もない。即ち、何の変化も起こらないのならば会議など時間の無駄である。
表面的な会議の目的は、二次的な目的である。その背後には、一次的な目的が隠されている。そして、二次的な目的は、一次的な目的に従属している。ただ、一次的な目的は、会議を計画し、運営する際、直接的な施策に結びつかない場合が多い。多くの人は、二次的な目的に捕らわれると一次的な目的を見失って手段を目的化してしまうことがある。逆に二次的な目的にとらわれると具体的な施策がとれなくなる。一次的目的と、二次的な目的を構造的に捉えてはじめて、会議は目的を成就することができるのである。
予算を立てることを会議の目的として、立派な予算を立てたからといってそれが直ちに利益に結びつくものではない。予算を立てた後、絶えず予算と実績を対比するための会議を開いて軌道修正をしなければ、利益を実現する事は難しい。しかし、多くの者は、予算を立てることを会議の目的としてしまい。利益を実現する事を二の次にしてしまう傾向がある。逆に予算を立てることは無駄だと言って無軌道な経営に走りがちである。予算は、予算としての機能を発揮してこそ役に立つのである。そして、予算を司る会議は、予算の働きを最大限に引き出してこそ意義がある。
また、定例化した会議の中には、目的が形骸化しているものもある。しかし、形骸化しているとしても、何らかの目的がなければ会議は開かれない。
例えば、多くの日本の株主総会が好例である。多くの株主総会は、形式化し、形骸化している。予め決められたシナリオ通りに消化しているだけに見える。しかし、形骸化した株主総会にも開催するには、歴(れっき)とした目的はある。シャンシャンシャンの会議でも、開かなければ違法になる。問題は、本来の目的が見失われている事にある。しかし、本来の目的が必要だから、生きているからたとえ形式的でも開催しなければならないのである。
儀式化された会議にも意味がある。儀式化された会議は、意思決定をオーソライズしていく、権威付けしていく、公式化していくことに重大な意義がある。権威付けすることによって意思の統一を計り、決定された事を周知徹底し、効力のあるものとする。
民主主義が発達する以前の会議の多くは、儀式化されものである。儀式化されるとは、形式化され、様式化された会議である。そこでは、礼儀作法が、細部に至るまで細かく決められている場合が多い。しかし、会議が、あまりに形式化され、様式化されてしまうと、会議本来の機能が損なわれることがある。会議が硬直化し、ただ権威付けのための目的だけに使われるようになると、組織は、衰退していく。会議の形式化、様式化は組織の病状の末期的症状である。しかし、それでも無目的、無原則な会議よりはましである。
大切なのは、儀式化された会議の目的、役割、機能である。そして、株主総会は、象徴的だが、株主総会を開催するためには事前に何やっておく必要があるのは何か、株主総会が終了した後に何をしなければならないのか、それを見極めると、株主総会の真の目的が見えてくるのである。株主総会の前にあるのは、取締役会であり、株主総会の後にあるのは、利益処分である。そのことから、株主総会の目的が明らかになる。つまり、株主総会は、経営の実態を株主に報告し、株主の承認をもって、その上で利益処分を確定することである。経営者が株主に経営報告をして、自分達の前期の経営を承認し、引き続き、経営をしていくこと許可してもらうことが目的なのである。
この様に会議の目的は、単独では確定できない。一つの過程の中で位置付けなければ成立しないのである。
会議の目的には、細かく言うと意思決定、分析、教育、検討、審議・審査、問題解決、相談、連絡、指示、通知、広報などがある。しかし、要約すると会議の目的には、第一に意思決定。第二に、調整。第三に、情報交換。第四に、情報伝達。第五に、情報整理、問題解決の五つがある。
会議の本質は、情報である。会議の本来の機能は、情報の伝達と処理である。会議の目的は、この機能に沿って決まる。それ故に、会議の目的は、情報の処理の仕方に関わることである。
さらに、会議には、公式的な会議、正式な会議と非公式な会議がある。公式の会議は、会議の背後にある事業や組織の規則や運用を公式に決める場である。公式に決めると、社会的な拘束力が生じる。正式な会議の決定事項は、契約に準じる。社会的な拘束力を持つ為に、正式な会議が成立するためには、正式な手続きが必要である。それ故に、公式の会議は重要なのである。
もう一つ重要なことは、会議は、集会だと言う事である。つまり、人の集まりだと言う事である。更に言えば、目的を持った人の集まりだと言う事である。この一人一人の目的が、会議の目的を決める。ただ、一人一人の目的は、一つに統一されているわけではない。出席者一人一人の目的を一つに要約するのは、会議の在り方である。つまり、仕様である。
会議の仕様は、要件によって定義する。会議の要件とは、会議を成立させる条件である。第一に、会議の目的。第二に、会議の日程。第三に会議の場所。第四に、出席者。第五に、議題。第六に、会議の主催者(招集権者)。第七に、議長。第八に、発言者である。更に、記録係が通常は加わる。また、資料も必要に応じて要件になる。この中で会議の目的は、他を決定付ける要因となる。
会議の目的は、会議の機能、位置付けによって決まる。位置付けとは、会議を成立させている要素の中の位置を確定することである。会議を成立させている要素とは、事業や組織である。会議の目的は、会議を成立させている事業や組織の目的に準じる。
公式の会議は、目的によってその在り方も違ってくる。立法の為の会議、司法のための会議、行政のための会議では、会議の在り方も構成も機能も全く違うものである。
この様に公式の会議は、目的に支配されている。それに、元々会議は合目的的な集会なのである。