会議の原則に絶対というものはない。なぜならば、会議そのものが相対的な集まりだからである。会議は、それ単体で成立しているのではない。他の会議や作業との組み合わせによって成立している。この様な会議の機能や目的は、他の会議や作業、また、上位の事業や組織によって決まる。そして、会議原則は、他の要素との関連で決まる。それ故に、絶対的法則は会議にはない。それが会議を複雑なものにしている。会議の形態は、至って単純に見える。しかし、その実体は極めて複雑なのである。
会議は単なる人の集まりではない。最近、何かと会議、会議と言うが、会議の出席者の役割が不明瞭な集まりが多い。責任者も、主催者も、議長も、書記も、事務方も明らかでなく、ルールも予め決められていない。それは、会議ではなく、単なる集会である。
特に、日本人には、会議を単なる話し合いの場だと錯覚している人が多い。そして、話せば解ると思い込んでいる。話しても解り合えない部分があることが会議の大前提である。だからこそ、会議は、原則に基づいて組織的に行われなければ換えって災いになるのである。
会議は、民主主義体制の要である。会議の有り様が国民全体に理解されていなければ、民主主義は実現されない。民主主義とは絵に描いた餅ではない。民主主義とは、単なる理念でもない。民主主義は現実なのである。ルールを覚えても野球の醍醐味が解る訳ではない。ルールに基づいて試合をしてはじめて野球の本質は理解されるのである。民主主義は、現実の政治の中でこそ実現されるのである。会議を理解するのはその手始めである。
会議原則とは、普遍的な法則とは違う。個々の会議の性格に基づいて任意に決められた法則、決め事なのである。全ての会議に通用する法則というのはない。会議は、人為的な集まりなのである。故に、会議原則は、都度明確にされ、了承されなければならない。
要するに、個々の原則の是非が問題なのではなく、該当の原則を採用するか否かか問題なのである。
会議の原則には、第一に、定足数に関する原則。第二に、過半数議決の原則。第三に、会期不継続の原則(会期独立の原則)。第四に、一事不再議の原則。第五に会議公開の原則。第六に、議員平等の原則。第七に、発言自由の原則。第八に、発言の範囲(種類)に関する原則。第九に議題外の発言の禁止。第十に、交互討論の原則。第十一に、発言中に他の発言を許さない原則。第十二に、一議題の原則。第十三に、議長の中立公正の原則。第十四に、委員会審査独立の原則。第十五に、採決は可を諮る原則。第十六に、不在表決の禁止の原則。第十七に、条件付きの表決の禁止の原則。第十八に表決の訂正禁止の原則。第十九に、修正案の採決に関する原則などがある。(「新しい地方議会」加藤幸雄著 学陽書房)
会議原則で有名なのは、一事不再議の原則である。しかし、この原則も絶対ではない。この原則の採用は、会議の性格による。ただ、この原則を採用する場合は、会議の冒頭で明確に宣言する必要がある。
会議を公開とするか秘密会とするか。これも会議の性格や出席者の申告によって変わってくる。何でもかんでも、情報を公開すればいいと言うものではない。議題の内容や出席者、発言者の要望によって機密に取り扱われるべき議題もある。これらは、会議の始まる前に、情報公開の原則を採用するかどうか、状況によっては、議題毎に話し合って事前に決めておく必要がある。むろん、会議の最中でも、必要に応じて、機密会に切り替えたり、記録から発言を削除することを求めることは吝(やぶさ)か、妨(さまた)げるものではない。
定足数には、会議を開き、会議を成立させ、議事を進行するのに必要な出席者数を指す「議事定足数」と会議の採決に必要な「議決定足数」の二つがある。(「新しい地方議会」加藤幸雄著 学陽書房)定足数も会議を開く前に合意に達しておく必要がある。この様な合意は、一般に、慣例、恒例、慣行、慣習や一般に公正妥当と見なされた原則に最初は則って行われる。この点は、議長が「慣例に基づき」と言うように冒頭に断る必要がある。
会議の進行、議事には、過程がある。規則の一つは、会議の過程、進行に関わる、制御する基準である。
原則同様、規則にも一般的なものはある。しかし、普遍的なものはない。
会議の規則で有名なのは、ブレーンストーミングの規則である。ブレーンストーミングは、大凡、次の四点に集約される。第一に、批判は行わない。出されたアイデアに対する批判や判断、意見はブレーンストーミング中は、極力行わない。
第二に、大胆な意見、奔放なアイデアを歓迎する。つまらないアイデア、乱暴なアイデア、見当違いなアイデアを歓迎する。
第三に、アイデアの量を求める。つまり、質より量を重んじる。アイデアは多ければ、多いほどよいとする。
第四に、他の人の意見に便乗する。他人の意見や考えを修正、改善、発展、結合していく。出されたアイデアの改善案や組み合わせなども歓迎する。即ち、自由奔放に意見を出させることを目的とした会議である。
この様なブレーンストーミングは、アイデアを発散し、問題の解決や創造的な仕事に役立てようと言う目的で開かれる会議の形式である。ブレーンストーミングの会議の規則は、一連の命題でワンセットとなる。この様に、目的に応じて、組み合わされて規則に基づいて開かれる会議もあるのである。
つまり、会議の規則というものは、合目的的で相対的なものであり、普遍的なものではない。ところが会議というと、一つの形か思いつかない、ワンパターンな考え方の者は、会議と言われると一定の会議しか準備できない。結果的に、会議が成立しなくなる。この傾向は、日本人に強い。会議が設計できないのである。会議の規則は、一種類ではない。組み合わせによって無数にある。会議の規則体系の数だけ会議の種類はある。故に会議の種類は無数にあるのである。だから、会議は設計されなければならない。
会議のルールには、第一に、議事の進行に関した規則と第二に、採決の方法に関した規則の二つがある。
議事の進行は、議長の指示に従わなければならない。議事の進行は、動議に基づかなければならない。
会議の規則や原則に関して、暗黙の合意事項が多く隠されている。それが会議の成立前提を曖昧にしている。しかし、この暗黙の了解事項、合意事項は、重要な要素を多く含んでいる。また、会議の設計や進行に関わる基礎的な前提条件を構成している。それ故に、これらの前提条件を会議の冒頭に確認する必要がある。
暗黙の了解というのは、作法・仕来りになる。しかし、現代人は、この作法・仕来りに否定的である。何でも論理で決着をつけようとする。しかし、何でも始まりというのは、前提があり、その前提は、論理では片付けられないものが多いのである。早い話、科学が好例である。科学を論理の権化だと信じている者が多くいる。科学の前提は仮説である。自明という言葉や任意という言葉で表される。いい加減のである。だから、立証責任が生じる。しかし、根本的には、一つの決め事が始まりであることには変わりないのである。科学的、定義も然りである。約束事、決め事なのである。始まりは、何でも決め事、約束事である。それを前提として会議も組み立てなければならない。
会議の始まりは、麻雀の始まりによく似ている。麻雀だけでなくゲームの始まりは、暗黙の約束、仕来りのような決まり事がある。
皮肉なことだが、賭け事というのは、公正、公平を追求する。賭け事には、人は厳しいのである。麻雀の始まりは、だから厳格である。いい加減さは許されない。しかも、極力恣意的な操作を排除しようとする。
麻雀には、ローカルルールが多い。最初に相手の流儀やローカルルールを確認しておかないとトラブルになる。そして、賭け麻雀の場合は、レートを決めておく必要がある。
会議は、宣言に始まり、宣言に終わる。会議の宣言は、会議の時間的区切り、範囲を特定するものである。どこから何処までが会議であり、そして、出席者が、どこから何処までに対して責任を負わなければならないのかを識別するには、会議の範囲が特定されなければならない。その時間的区切りを明らかにするのは開会と閉会の宣言である。これもスポーツによく似ている。スポーツも審判の宣言に始まり、宣言に終わる。これも会議のルールである。
会議の始まりも、先ず、会議のルールからはいる。会議の規則は、事前に合意がとられなければならない。賭け麻雀のルールに厳しい者でも会議のルールには甘いものが多い。そしてトラブルになる。なぜ、規則を決めたり、確認することを億劫(おっくう)がるのであろう。トラブルを避けたいならば、最初に規則を明らかにし、その規則に従う意思を表示しなければならない。それが法治主義の原則である。自分に都合が悪いことが決まるのが嫌だから、また、会議の決定に従うのが嫌だから、会議で決まったことに責任を持つのが嫌だから、会議のルールを決めたくないと言うのでは、最初から話にならない。会議というのは、話し合いの場なのである。そして、採決をとった場合、自分の反対意見が採用されることもある。それが大前提なのである。それでも、一度決まったら、決定事項に従い、決定事項に責任を持つことは、出席者にとって最低限の責務なのである。だから冒頭で規則を明らかにする。その規則に従えない者は、最初から会議に参加できない。それが取り決めである。
会議は、法治主義の象徴なのである。
特に、決定事項が含まれる会議は、最初に決定方法を決めておく必要がある。日本人は、基本的に多数決をとるのが苦手だ。そのくせ、物事を責任を持って決める事も嫌がる。強いて言えば、その時、その場の雰囲気で決めてしまう。後で確認すると誰がどの様にして決めたのかもハッキリしない。その場の雰囲気、勢いだという。
だいたい決定しようにも決定の仕方が解らない。その場を支配している人間が気に入らなければいくらでも決定は覆(くつがえ)る。話にならない。話にならないところで会議がされているのだから、結果は見えている。その場を支配するのある者に都合の悪いことは決まらない。それでいて、誰がその場を支配しているかも解らない。
よく鶴の一声という。鶴の一声で決まったという。鶴の一声とは何か、と言えば天の声だと言う。これは会議ではない。寄り合いである。大体無法である。
会議は、ルールでするものである。採決にも厳格なルールが必要である。そして、採決に際し、そのルールに従う覚悟なければ会議など開かない方がいい。
出席者の判定には、賛成、反対、棄権がある。出席者は、採決に際し、必ずいずれかの判定を下さなければならない。これも決め事である。故に、最初に採決の方法に関する承認が必要となる。少なくとも採決をとる前に採決の方法に対する承認を求めなければならない。承認もなしに、いきなり、多数決をとるというわけにはいかないのである。この辺は、手続きである。つまり、会議は手続きで成り立っているのである。
それを面倒くさいと言えばそれまでである。会議は成立しない。ルールを覚えるのも、従うのも面倒くさいと言えば、麻雀もスポーツも成り立たない。それと同じである。
ちなみに博打打ちは、賭場の掟には厳しい。そうしなければ、場が維持できないことを知っているからである。だから、博打打ちほど、仕来りや作法に厳しい。一般社会人の方が余程ルーズである。
故に、会議の冒頭は、会議の成立要件の確認と会議の規則についての説明と合意、了承から始まる。成立要件には、定足数がある。出席者の権限と資格問題がある。議長権限の確認がある。
絶対的な決め方、普遍的な決め方というものはない。くじ引きでも、占いでも、決闘でも合意があればいいのである。問題は、事前の合意である。この合意は、全会一致で為されなければならない。なぜならば、会議を成立させるための大前提だからである。決定事項に最初から従えない、従う意志のない者は、会議に参加しても意味がない。問題は、事前、冒頭での合意事項である。それには、出席者全員が従わなければならない。
決定には、裁定、判定、選定、認定、評定、票定、公定、策定、査定、検定、予定、暫定、制定、設定、専決がある。決定のやり方には、表決、票決、評決、選挙、入札、一任、神占、勝負がある。
議案の採択には、通例、多数決原則か、全員一致原則が働く。今日の民主主義は、多数決原則が働いている。
多数決にも、単純多数(相対多数)、絶対多数(過半数)、特別多数がある。単純的多数というのは、相対的多数である。それに対し、絶対多数というのは、過半数を超えるものをさす。現在の会議での議決方法は過半数主義大多数である。三分の二とか四分の三の賛成を必要とするというのが、特別多数である。
全員一原則にも、単純全員一致と、全員一致(満場一致)とがある。単純全員一致というのは、有権者全員の一致を意味し、全会一致(満場一致)とは、会議内での全員一致である。この場合、会議の成立要件が重要となる。
多数決以外には、少数決がある。
通例、多数決にせよ、全員一致にせよ、少数決にせよ、二者択一的な議案に限られている。社会一般の処理では、多数決は余りとられない。なぜならば、実際に判断しなければならない事例が、二者択一的な事柄ではないからである。日常的に起こる事例で二者択一的な事例は少ない。多くの選択肢の中からいろいろな条件を加味することによって最小的な結論に導き出す場合が多いのである。我々が公的な会議、多数決原理に違和感を感じるのは当然なのである。そして、それが会議に対する概念の混乱を招いている。
会議規則というと公的な会議を思い浮かべるが、公的な会議規則や原則は、そのままでは、民間企業や日常生活には、適合できない。
多数決イコール民主主義だと錯覚している日本人が多くいる。しかし、多数決というのは、採決上の技術的問題に過ぎない。基本的には、多数決と民主主義とは関係ない。貴族が多数決で結論を出したからと言って民主的に結論を出したとは言わない。民会などなら全員一致の方がむしろ民主的だとも言える。また、議会で全会一致が全く行われないとも言えない。採決の可否については、全会一致を問うている。それでも、まとまらない時、議長の職権を持って採決を強行するのである。それでも民主的でないとは言えない。それ以前に、会議規則が決まっているからである。つまり、多くの日本人は、手続き上の問題だと思っている。確かに、手続き上の問題かもしれないが、意味のない手続きではない。
多数決的社会とは、基本的に二者択一的社会である。しかし、現実の社会や仕事は、二者択一的なものではない場合が多い。二者択一というのは特別な世界である。会議の規則や原則を二者択一的なものに頼っていれば自ずと限界が生じる。
多様な社会に適合するためには、単記非移譲式投票のような選択的な採決法を採用する必要がある。単記非移譲式投票というのは、複数の案から出席者が一つの案を選んで投票し採決する方法である。フリー百科事典「ウィキペディア」(Wikipedia)
民主主義イコール多数決だと思いこんでいる者は、多数決で決まって事は絶対だと思い込む。多数決で決まったことは正しい。正しいも、正しい。善だという事になる。
多数決と善悪は、関係ない。多数決で決まったから正しいというのではない。会議というのは、善悪を判断するところではないのである。あくまでも集団的な意思決定の場である。それを間違うと、多数決で決まったことは何が何でも正しいというふうに錯覚してしまう。会議の決定は、集団の意志であり、個々人の倫理とは別の次元の問題である。それ故に、会議の原則も普遍的、絶対的な原則ではなく。相対的な原則なのである。
大体、この世の中は、二者択一的な世界ではない。そもそも、善玉と悪玉が明確に区別できる世界ではないのである。
現代国民国家の危機は、思想信条の問題なのだろうか。それよりも、行政の在り方に、と言うより意思決定の仕組みに問題があるのではないのか。問題は、主義主張なのだろうか。そうではなくて、予め予算が決められてしまうと、後は、事務的に処理されてしまう機構に問題があるのではないのか。収入と関わりのないところで、支出が決められていることに問題があるのではないか。それは、収入と支出とを調整する会議が、存在しないことに問題があるのではないか。なぜ、民営化が叫ばれるのか。それは、民営企業と公営とは、機構的な差があり、その差の原因は、二者択一的な思考、機構にあるのではないだろうか。つまり、現在の公的機構は、何らかの事業や組織を貫徹するための機構ではないと言うことである。
公的な会議の原則は、民間企業や日常的な問題の処理には適していない。公的な会議は、環境や状況の変化を想定していない。一年も前に、全ての事象を読みとって予算を立てるなどという事は、民間企業では考えられない。そんな事をすれば、すぐに倒産してしまう。状況や環境の変化に速やかに対応するためにこそ会議はあるのである。
教育制度が好例である。学校教育というのは、行政機関内部で処理する問題でも、処理できる問題でもない。最も、教育の影響を受けるのは、地域住民と保護者である。そして、子供に最も影響を及ぼすのは、教育者である。ならば学校の運営や教育者の採用に、最も影響力を行使すべきは、保護者と地域住民である。そして、保護者と地域住民の声を反映するためには、幾つかの幾層かの会議を経る必要がある。ところが、保護者や地域住民の声は、ほとんど反映されない。反映されたとしても事後処理的か形式的なこと、また、些末なことであり、教育方針や予算については、全くと言うほど参画できないような仕組みである。校舎を建てるにしてもカリキュラムを決めるにしても、全くと言って無視されている。そして、肝心な事は、予算を消化する過程で行政が決めていくのである。これで実のある教育など出来はしない。教育の現場を知らない者が観念で教育の実際を決めている。しかも当事者には事後承諾的である。もし、民主的な運営をしたいのならば、先ず会議の在り方を改める必要がある。それが民主主義なのである。
ゆとり教育が善いとか、悪いとか言う問題ではなく。その教育方針やそれに基づくカリキュラムが、どの様な経緯、過程を経て決められたのかの問題である。民主主義は、その経緯、過程にこそあるのである。そして、その民主的な在り方を担っているのが会議なのである。
会議に関する本を見ると会議の規則と心得の区別がついていないものが大多数である。会議の開始、五分前には、受付を終わらせておく。発言時間を三分とする。発言時間を制限する。発言時間を予(あらかじ)め決めて、議長に報告する。これらは、規則である。それに対し、私語を慎む。議事に関係ない話はしない。と言ったことは心得である。むろん心得と言っても議事の進行の妨げになる事に対しては、議長が裁定を行うことはある。採択の場合、権利を剥奪された上、退場させられる。しかし、規則と心得は明確に違う。
会議の規則は、第一に、会議の根拠、招集手続きの正統性についてである。例えば、国民国家の場合、当該国国民の要請により、憲法に定められた手続きの基づき、行政府の長が当会議を招集すると言ったようにである。第二に、会議の成立要件に関してである。会議の成立要件とは、定足数とか、会議の主催者と言ったことである。第三に、出席者の権利と義務に関してである。これは、発言権や採決権に関してである。第四に、会議の組織と役職に伴う権限と責任である。特に、議長権限は、明確にする必要がある。第五に、動議の種類と定義である。第六に、裁決の方法と手続きである。第七に、議事進行上の注意事項である。第八に、発言上の規則である。第九に、決定事項の効力、及び処理に関してである。第十に、会議規則の、人的、空間的、時間的、物理的な効力とその適用範囲である。
また、会議原則の採用の有無は、規則に準じた扱いを受ける。例えば、一事不再議の原則は、第六の、採決規則に準じる。また、会期不継続の原則は、第十の時間的適用範囲に準じる。
つまり、会議の規則の構成は、第一に概念の定義。第二に、場の定義。第三に、構成員の定義。第四に、構造の定義。第五に、規則の定義からなる。第一の概念の定義は、主旨、目的、会議の役割、機能、位置付けである。第二に、場の定義は、時間的、空間的、人的範囲、そして、定足数と言った成立要件である。第三の構成員の定義は、出席者の権利と義務である。第四の構造の定義は、組織の定義、又は、組織に基づく権限と責任である。第五の規則の定義は、議事進行上の規則と、議題の処理の規則である。更に、会議を運営する上の事務手続きである。それらは、動議と手続きによって表される。
規則上の定義は、要件定義である。要件定義とは、会議とはなんぞやといった抽象的な命題によって定義するのではなく。必要な項目を具体的、網羅的にあげて行う定義である。例えば会議の定義は、一つ一つの会議の名称をあげて、開催日、開催場所、出席者名、議長名をあげ、それによって定義することである。
日本人は、何でも曖昧にしておくことが好きである。しかし、会議というのは、曖昧では進まないのである。一つ一つの論点を明らかにし、何らかの判断を下すことが要求される。そうした、意思決定の積み重ねが、会議の成果になるのである。その為には、最初に規則、ルールを確立しておく必要がある。日本人は、予め決められていることに従う事は得意だが、自分達で話し合って、原則や規則を決めるのが苦手である。しかし、最初の会議、また、会議の冒頭では、この規則、約束を確認し、了承することから始めなければならないのである。つまり、会議は、最初の契約によって成り立っているのである。