エピローグ(会議は、なぜ、失敗するのか。)

 会議は、なぜ、失敗するのか。それを考える前に、会議にとって失敗とは何かを考えてみよう。会議は、合目的的集まりである。最初から目的もなく、解らないままに、会議を開いたら、失敗も何もあるまい。
 今日の会議どうなっているかと聞いた時、あれは会議ではなく、打ち合わせですと言った者がいた。しかし、打ち合わせも会議である。会議だと言わなければ、会議ではないと思ったり。会議だと言えば、ただの話し合いも会議だと思い込む。また、会議だと言われると議長がいて、書記がいてとワンパターンな会議しか思い浮かばない。会議の失敗とは何か考えるにしても、何が、会議なのか解らなければ、これも成功も失敗もない。

 組織のあるところに会議がある。株式会社は、株主総会(会議)に始まり、株主総会(会議)に終わる。組織は、会議体だと言っても過言ではない。なぜ、組織に会議が不可欠なのか、それは、会議は情報の共有が不可欠だからである。

 打ち合わせたいことがあるから、打ち合わせる。話し合いたいことがあるから、話し合う。相談したいことがあるから相談する。即ち、必要があるからやるのである。この必要性が忘れられる。この傾向は、学校生活が長ければ長いほど強くなる。つまり、学校の勉強は、必要性によっているわけではないからである。少なくとも、表面的な目的は違う。しかし、本来、目的は、必要性によってもたらされるものである。打ち合わせる必要があるから会議を開く。話し合う必要があるから、話し合う。実際の世の中では、必要がないことは無意味なのである。会議こそ、その典型である。必要性のない会議ほど無駄なものはない。なぜ会議を開く必要があるのか、それが問題なのである。

 会議は、一つの機関である。会議は、単体で成り立っているわけではない。なぜならば、会議は、会議を開く事が目的ではないからである。会議を開くことによって、何かを決めたり、検討することが目的なのである。会議の鍵を握るのは情報である。
 つまり、会議を成立させているのは、情報の流れである。この情報の流れをいかに制御し、効率よく処理するかが、会議の目的や在り方を決める。会議は、目的によってその機能や働き、そして形式が違ってくるのである。それを漠然としたイメージで、会議を一律的に捉え、無目的に開いたとしても会議は、成功するはずがない。例えうまくいったとしてもそれは偶然の所産にすぎないのである。

 日本人は、会議で物事を決めると言う事が苦手なようである。えてして日本人の会議は、意思決定を目的とした会議でも、なんとなく、漠然とした合意(その場の雰囲気や勢いと言う奴)に達したら、それに基づいて力のあるものが、結論を勝手に出して指導していく。だから、話を煮詰めるとか、煮詰まるというのである。つまり、その場の雰囲気や勢いによって決断らしい決断もせずに行動を起こしているというのが実体である。
 会して議せず、議して決せずと言うが、果たして、日本人は、会議を意思決定の場として認識しているであろうか。会議は、話し合いの場であり、皆の考えを確認する場に過ぎない。下手をすると、事前に話し合いが付いていて、合意事項を確認するだけの場になっていることもある。
 戦後の日本人は、話せば解る。そして、会議は、話し合いの場だと言う。しかし、本当に話せば解り合えるのであろうか。話し合いの場で話せば解り合えると思い込んでいるから会議が成り立たないのではないのか。
 元々、会議は、話し合っても解り合えないから開くものなのである。話せば解るのならば会議などいらないのである。つまり、いくら話し合っても埒があかないから会議を開くのである。となると、話し合っても解り合えないと言うのが会議を開く大前提となる。だから、多数決なのである。そして、会議には、厳格に法が働いていなければ成立できない。なぜならば、話し合っても埒があかないことを話し合った上で、結論を出そうというのだからである。

 日本人は、会議がうまくいかないと思っている。会議を開いても失敗するのがオチで、うまくいった例しがないという。その証拠に、会議を開いたけれど一向に意思の統一が図れず、意見は対立したままだという。それがおかしいのである。会議を開いても意見の対立はそのまま残る事の方が多い。会議は、たとえ意見が対立していても決着しなければならない事を話し合って結論を出す場なのである。会議が終わったからと言って意見が一致するとは限らないのである。ところが、日本人は、会議によって意思統一が図られなければならないと思い込んでいる。そうなると、会議で対立意見が出るのは甚(はなは)だ困る。だから事前に根回しをして、会議では異論が出ないように会議を開く前に調整してしまう。
 これは、日本人以外が見るとおかしな事である。なぜならば、異論が出るから会議が成り立っていると日本人以外の者は思っているからである。こうなると、何を会議といい、何を失敗というのか解らなくなる。

 その典型が国会である。国会は、結局、議論の正否ではなく、議員の数なのである。だから、余程のことがない限り、結果は、事前に分かっている。だから茶番に見えるのである。

 国民国家は、議会、閣議、裁判と言うように、各種の会議を組み合わせて成り立っている。つまり、国民国家が、有効に機能するためには、会議が重要な鍵を握っているのである。そして、この様な会議を成り立たせているのは、選挙制度である。

 選挙によって代議士を選出すればいいと言うのではない。選挙によって選ばれた者が、国会において、実質的な討議ができず、自分の意志で採決に参加できずに、所属する政党の指示に服さなければならないとしたら、それは、議会制民主主義ではなく、政党政治である。つまり、それは、選挙した時に所属する議員の数で政党の勢力が確定し、選挙した時点以後、選挙民は、民意を反映できなくなる。代議員という名が示すように、国会において国民に変わって意見を闘わすのが代議員の職務、職責である。国家での採決権、発言権を最初から担保されたのでは、民主主義の実質は失われてしまう。

 もし仮に、会議という過程を通じて物事、案件の処理が行われず。会議にかかる以前に結論が出ているとしたら、民主主義自体が形骸化する。つまり、選挙に勝った政党が、会議を通じないで事実上の問題を処理を行っていたとしたら、それは、議会制民主主義が有効に機能していないことを意味する。

 戦後日本は、民主主義を標榜し、国民の意志の上に国家を運営していることを建前としている。つまり、日本は、国民国家である。それでは、民意は、何処に反映されるのか、それは、会議である。国民の民意は、選挙の予って選ばれた代議員によって国会において反映されるのである。国会、議員という言葉が示すように、国民国家の基礎は会議によって作られる。

 ある意味で会議の在り方が、民主主義の在り方を規定する。会議の在り方を頑(かたく)なに考えていたら、民主主義は、硬直的なものになり、実質を失う。民主主義は、手続きである。民主主義を実効あるものにするためには、一体の過程を経て結論を導き出す事が要求さる。そして、その過程が民主的であるか、否かが、問題となるのである。

 会議決定で重要なのは過程である。我々は、会議における意思決定の方法についても先入観に捕らわれすぎている。採決を予め回数を決めておいて行うやり方もあるのである。最初に採決をとっておいて、問題がある議題、また、議案、項目を一度抽出し、抽出された問題を審議検討した上で再度提案し、それでも合意に至らなければ、修正案を出して採決を繰り返すという具合に、結論に至るまで何度でも採決を繰り返すというやり方もあるのである。一回の採決で何もかも結論を出すだけが、会議の議決方法ではない。

 重要なのは、結論に至る過程で何処まで、出席者の意志を反映できるかである。それで民主的であるか否かが決まる。会議が始まる前に一定の結論が出されていたら、民主主義は成立しようがない。そして、会議は、セレモニーに成り下がるのである。

 会議にとって作法は重要である。民主主義というと礼儀とか作法と無縁、ないし、対立した事柄だと決めてかかる者がいる。しかし、それは、民主主義を知らない者だ。民主主義国ほど、会議の作法を重んじる国はない。そして、作法と同じように、会議では、礼儀や規則が重んじられる。
 それは会議は、対立した意見を調整する場だからである。話し合えば解るのではなく。ただ話し合っても解らない相手だから、予め、ルールを決めて話し合いの場を持ち、その上で、ルールに従って決着をつけるのである。いわば喧嘩とスポーツほどの違いがある。そのことを日本人は解っていない。話し合えば解ると言う前提に立てば、話し合えば、必ず全員が一つの結論に帰結するという確信がなければ成り立たない。しかし、会議は、その確信が持てないから開かれるのである。そして、会議の礼儀、作法、規則が確立された時、民主主義はも国民国家は、成立するのである。




        


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