プロローグ

 日本人は、よく会議が下手だと言われている。しかし、会議の上手下手を言う前に、日本人は、会議そのものを理解していない。その証拠に、会議に関するボキャブラリーが日本語には著しく不足している。
 日本語で会議を表す言葉は会議以外に打ち合わせや談合、寄り合い、評定、会合ぐらいしかない。しかも、それぞれの言葉の意味に実体が余りない。評定というのは、死語である。

 それに対し、英語には、会議を表す単語として、先ず、ミーティングがある。次に、ギャザリング、アセンブリ、シンポジウム、フォーラム、パネルディスカッション、ディスカッション、レビュー、ディベート、ネゴシエーション、セッション、コート、コミッティ、コングレス、コンファレンス、コンベンション、ボード、サミット、ブレーンストーミング、パーリメント、パーティー、テーブルとあり、更に、オリエンテーション、ブリーフィング、ガイダンスとこれだけある。しかも、それぞれに何らかの実体を持っている。

 日本人は、余り会議が好きではないようだ。会議は嫌いだけれど、長談義や井戸端会議は好きである。と言うより、正式な会議かできないから、非公式な話し合いが長くなると言った方が当を得ているかもしれない。つまり、会議と言うよりも話し合いである。ただダラダラと意味もなく、時間を無駄にして話をしている。油を売るとも言う。最後には、いつまでも話をしていても無駄だと唐突に行動を起こす。何のために話し合っていたのか解らない。

 日本人が会議が苦手な証拠に、会議のことを体系的にまとめた本がおそろしく少ない。あったとしても、会議の開き方とか、心構えと言ったハウツウ本だけである。
 欧米には、公認会議士(Certified Meeting Planner)の様な資格まであるというのにである。日頃、コミュニケーションの重要性が言われていながら、正式、公式なコミュニケーションの手段である会議の技術に関して全く疎(うと)い。結局、だから、非公式なコミュニケーションの手段、宴会や付き合いというのが重視されるようになる。会議で居眠りをしている癖に、宴会に行くと俄然(がぜん)と元気なると言う類である。ノミニケーションなどと馬鹿なことを言っている。会議がちゃんとできれば、夜飲み過ぎて体を壊すなどという事はなくなる。

 だいたい、会議は、会議単体で成り立っているわけではない。会議は、いわばパーツ、部品に過ぎない。会議には、一連の作業が繋がっている。つまり、会議は、一塊(ひとかたま)りの仕事の一部に過ぎない。会議の目的や機能は、全体の過程の中に位置付けられてはじめて確定する。一つの会議を見ただけではその果たした役割や働きは判断できないのである。前後の経緯や作業、全体の脈力の中ではじめて機能を発揮するそれが会議である。
 故に、会議を設定する時は、一体全体どの様な過程の中で、どの様な働きを期待されていて、どこに位置付けられているのかを明らかにしなければならない。ところが、多くの日本人は、一つの会議をその会議でしか見ないで前後の仕事を見ようとしない。故に、会議が有効に機能しない。
 特に、会議は、仕事の節目・節目に開かれる。俗に仕事は、会議に始まり、会議で終わるとも言われるぐらいである。しかも、会議は、段階や目的によって姿を変える。最初の会議と最後の会議は、機能も設定も全く違うものである。会議には、いろいろな種類があるのである。つまり、会議は、必要に応じて設計されなければならない。それも予(あらかじ)めにである。

 日本人は、会議というと堅く考えすぎるか、さもなくば反対に、何も考えないかのいずれかに偏りがちである。その結果、予め決められたシナリオ通りに議事の進行をこなすだけの儀礼的な会議、俗に言うシャンシャンシャンの会議にするか。いつまでも、同じところを堂々巡りする際限のない話し合いになってしまう。
 結局、総会屋の暗躍を許したのも、株主総会をどう運営したらいいのか解らないからである。予期せぬ意見や、反対意見が出たら反論できない。つまり、破落戸(ごろつき)の言い分に太刀打ちできないのである。議を以て闘うと言う事を日本人は知らない。男は、黙ってなんてくだらないことを言っているから言い負ける。国際社会では、言い負けたら、負けなのである。口で敵わないからと言ってすぐに暴力を振るぐれた亭主みたいなものである。無法無頼なだけだ。
 会議を使って意見や情報の交換をしたり、指示を伝えたり、相談をしたり、連絡をしたり、物事を決定すると言う事が日本人は、苦手である。だから、根回しや下工作が盛んで、肝心の会議は、形式的なものになってしまう。面と向かって意見を闘わすことができないのである。
 会議は、道具である。うまく使えば、組織を効率よく運営することができる。頑なに、難しく考えるのも良くないが。だからといって何の準備もしなくてうまくいくはずがない。極端すぎるのである。

 しかも、日本人の会議には、その場の雰囲気とかいった妙な物がついてくる。その場の雰囲気や状況によって会議の結論が左右される。明確に自分の意見を述べられずに、婉曲的な意見で、その場の雰囲気が形成されていく。堂々と反論もできないまま、いつの間にか、出席者の合意が取り付けられ、なんとなく決定が下される。後で聞くと、全員が全員、実は、反対だったなんて事がある。大多数の日本人は、会議で自分の意見を堂々と主張するのが苦手である。キジも鳴かずば撃たれまいと下を向いてしまう。

 それでいて、日本人、特に、戦後の日本人には、会議に対して妙な幻想を抱いている。つまり、何でも会議で解決できるというような会議に対する過大な期待がある。それも何の根拠もなしにである。話せば解る。話せば解ると、話し合い、話し合いである。会議に話しをかけただけで問題が解決したような気分になる。会議で結論が出たらそれで全てが終わったような錯覚に陥るのである。しかし、通常、会議は、始まりに過ぎない。つまり、いろいろな問題解決や仕事の入り口にあるのが会議である。問題は、会議が終わってからである。会議で決めたことをどう実行するからにある。それなのに、会議で結論が出たら、誰も何もしない。会議で決まったのだからと他人任せである。一度、決まれば誰かがやってくれると思い込んでいる。しかし、決めたら自分達でやらなければならない。決めた事に責任を持たなければならないのである。ところが共同で決めると言う事の意味がわかっていない。皆で渡れば怖くないと思っている。違う。決めた事に会議に参加した者一人一人が責任を持たなければならないのである。それが会議である。会議を開くことで責任が分散するのではない。逆に会議に参加することだけで責任が生じるのである。
 むろん、出口にも会議はある。しかし、最初にクリアしなければならないのは、入り口にある会議である。そして、そこで決まったことを誰がどう実行するかまで詰めて、決めて意味がある。会議に全勢力をつぎ込んで、会議で決まったら、皆忘れてしまうのでは、会議をする意味がない。会議で結論が出てからが仕事が始まるである。

 何でもかんでも会議で解決できると思い込んでいる人間は、会議を乱発する。結局、会議が長くなる。小田原評定、公家の長談義という言葉が日本にはあるが、ひたすらに話し合うばかりで結論がいつまでも出ない。と言うよりも出せない。なんでも、時間が解決すると思っている。結局、問題が先送りされていく。会議をすることで責任逃れをしようとする。ならば会議など開かない方がいい。責任をとれなければ会議は無駄である。
 日本人は、とにかく会議が苦手である。できれば、避けて通りたいと思っている。

 しかし、民主主義にとって会議は大切である。また、国際社会も国益を賭けた会議が連日開かれている。会議場は、実質的な戦場なのである。各国は、可能な限りの知力、テクニックを駆使して会議を戦い抜いているのである。武力による戦いに頼れない以上、日本は、会技術を磨かなければ、国際社会を生き抜くことができない。

 会議を知らない日本人は、会議に対する間違った認識を沢山持っている。それが、また、会議を混乱させる原因となる。
 その最も典型的なのが、意見は、反対意見を言うものだという錯覚である。この様な錯覚を持っている者に意見を聞くと必ず反対をする。自分の意見が賛成であろうと、なかろうと、とになく、条件反射的に反対をする。意見を聞かれたら反対するものだと勝手に決め付けているのである。よく聞くと同じ意見なのに反対だという。こうなると始末に負えない。自分が反対しているのか、賛成しているのか当人にも解らなくなっているのである。つまるところ。意見を聞かれたから反対したんだと言うだけなのである。
 会議は討論会だと思い込んでいる。意見を闘わすところだと思っている。いつまでたっても結論が出ない。延々と議論を続けるのである。討論しているのである。終(しま)いには、論旨もへったくりもなくなってしまう。感情の応酬になる。会議のルールが決まっていないのである。
 質疑応答と意見の発表とを履き違えている。質問はありませんかというのに意見を言う。ここは、意見交換の場ではなく、質疑応答の場だというのに訳が解らない。国会中継を見るとよく出会す風景である。延々と自説を述べて質問をしない。結局、自説を述べただけで、自分の時間を使い切ってしまう。そう言う人間に限って時間がないとのたまう。
 会議というのは、一種類しかないという思いこみがある。しかも、その一種類だと思いこんでいる会議でさえ、実際は、会議とは名ばかり異質の集まりだったりする。
 日本人が、会議というとすぐに思い浮かべるのが、国会であろう。しかし、日常生活の中で国会のような会議を開く事は稀である。どちらかというと日本人が思い浮かべるのは、会議というより会合である。集して議せず。議して決せずと言うが、会議と会合とは違う。会合というのは、俗に言う話し合いの場であって、会議というのは違う。何処が違うかと言えば、最初にルールが決まっていない。だから、会議と称して集まっても会議にならず、何を話し合い、打ち合わせたのか、ひどい場合、記録すら残ってない。あったとしても、メモ程度のものだったりする。資料や準備も主催者に出席者の恣意や任意による場合が多い。こうなると、会合も成り行きまかせである。慣習や慣行に支配された会合になり、融通がきかなくなる。会社のような公的機関の正式な会議ですらこのていたらくである。私的な集まりの場合、会議と言うより簡単な打ち合わせに過ぎない場合がほとんどである。大体、日本では、正規の教育で会議は、教えてすらいないのが実状である。民主主義国なのにである。
 日本人は、何でも会議、会議と会議の一言で片付けようとしている。打ち合わせとか、会合と言っても、実質的な違いは余りない。会議の準備というのを日本人にとって、厄介で、面倒なことなのである。

 つまり、会議で何をしたらいいのか理解できないで居る。会議の準備と言えば、テーブルを準備して、飲み物を用意するくらいだと思っている。そして、ありきたりの会議資料である。会議資料と言っても目的に応じて作るものではなく、先例に従って準備する。結局、慣習的な資料しかできなくなり、定型的な会議、惰性的な会議しか開けなくなる。

 多くの人が、会議の準備というのは、議題や話す内容、会議そのものに限定的に捉えている。事前に話し合う必要があるのは、会議のルールである。その事が日本人は解っていない。規則やルールは、所与の原則、自然の法則のように思い込んでいる。話し合いが始まってから話が違うと叫んでも手遅れである。

 また、多数決が表決の全てだと思いこんでいるものもいる。極端な話、民主主義は、イコール、多数決だとも思い込んでいる。多数決というのは、表決の仕方の一つに過ぎない。第一、多数決の取り方にもいろいろある。問題は、表決をどの様なやり方で取るかであり、それは、暗黙の全員一致によって成り立っている。また、それは、会議の事前に合意に達しておくべき事である。表決の取り方が合意に達している時は、その取り方に従っている限り問題ないのである。神のご託宣であろうと、くじ引きであろうと、指名一任であろうとかまわないのである。重要なことは、表決の取り方が事前に合意されているか否かである。

 会議には、いろいろな種類がある。それを目的や状況に応じて使い分けなければならない。公式の会議だけでも、議会型、閣議型、裁判型、円卓型、交渉型と言った種類がある。これらは、構成から配置、目的に至るまで全て違う。ただ、公式な立場にいる者は、これらの違いを理解し、使い分ける必要がある。非公式な会議の方は、更にある。それを一つの会議しか思い浮かばないようでは、組織、集団を動かすことはできない。

 会議は、格闘技である。だから、会議には、ルールが必要なのである。会議が格闘技だという認識が日本人には欠けている。つまり、会議は話し合いの場だと思い込んでいる。しかし、ただ話し合うだけでは会議は成立しない。ところが大多数の日本人は、それが解っていない。会議では、話し合えばいいと思い込んでいる。だから、会議で結論が出ない。話しがまとまらないのである。何の準備もしないで、資料も持たないで、集まってしまう。集まって話し合うだけである。それは、会議ではない。ただの集まりである。
 これが国際会議だと、準備してきた者には敵(かな)わない。話し合う前に負けているのである。しかも、日本人は、人が良いことに、話し合えば必ず道理が通ると思っている。しかし、神を信じるか信じないか。信じる神によっても道理は変わってくるのである。手前味噌の道理など通るはずがない。だから、事前にルールを決めておく必要があるのである。国際社会では、お人好しという事は、世間知らずのアホだという事である。

 話し合えば解るというのであれば会議はいらない。話し合っても解らないから会議によって決着をつけるのである。話し合って理解し合えるならば、話し合えばいいのである。しかし、考え方の根本が違う人間同士がいくら話し合っても同じ考え、合意に達するのは難しい。早い話、何を信じるかでも争いが起こるのである。話し合っても同じ結論に達するのは難しい。前提からして違うのである。話し合っても結論が出ないから会議があるのである。だからこそ、予(あらかじ)め会議のルールを決め合意に達しておく必要がある。
 会議は、結論が出てからでは遅いのである。会議で大切なのは、会議を始める前である。会議が始まってしまったら、会議のルールを決めるのは不可能である。それは、スポーツが始まってからルールを決めるようなものである。会議は、スポーツ以上に参会者の利害が絡んでいるのである。
 日本人は、何でも、最初、曖昧にして、しばらく様子を見てから決めようとする癖がある。事前には、何も決めないで、後で決めようとする。だから、もめるのである。やってしまってから、そんなつもりはなかったと言っても、日本人以外には通用しない。事実以外問題にならないのである。戦争を始めてから、戦争をする気がなかったなど言うのは子供じみた言い訳である。非武装だと言っていたら相手が攻撃してこないなんて真剣に言ったら相手にされるわけがない。新手の新興宗教かと思われるのがオチである。前提条件が違えば結論は違ってくるのである。
 話し合いに決着をつけたければ、話し合いのルールを予め決めておかなければならない。大切なのは、前提条件である。そのルールの結果、自分の思わない結論になったとしてもそれに従わなければならない。それが、会議である。前もって何のルールも決めていない話し合いは、会議ではない。
 世界は、話し合っても解り合えないのである。だからこそ会議が必要なのである。話せば解るというのは、その前提として予めにルールを決めておけばという事である。ルールを決めておかなければ、話し合いは、揉め事を引き起こすか、増長するだけである。

 話し合いと会議は、違う。日本人には、その違いが解っていない。話し合いには、ルールも役割もない。だから、責任がない変わり、何も決まらない。
 会議には、体系だった技術が必要である。ハウツウ式の技術では、会議の多様性に対処することができない。そして、民主主義は、会議の技術の上に成り立っている。会議の技術に長(た)けているかどうかが国力にまで影響を及ぼす。会議が先導できなければ、国家の舵取りもおぼつかない。会議の技術は、それほど重要なのである。
 日本人は、話し合っていれば会議になると錯覚している。民主主義は、会議の思想である。会議がまともにできなければ、民主主義は機能しなくなる。
 いつまでも日本人は、会議は、苦手だ、嫌いだなどと言っていられないのである。そんなことを言っていたら、国家すら守れなくなる。




        


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