数値化

 現代社会の特徴の一つが数値化である。つまり、数の力である。この傾向は、欧米、とくにアメリカに強くある。
 近代社会の基礎は、数値化によって築かれたと言っていい。また、近代社会の土台は数字によって形成されている。
 数値化という行為がこれ程博く浸透している今日、数値化の意味を避けて通ることはできない。数字の持つ意味、長所と欠点、特性をよく理解しておく必要がある。

 そして、数値化は、科学、会計、民主主義、近代スポーツの四つの要素にも共通した性格である。と言うよりも数値化によって成立されたと言っても良い。数字は、近代という時代の鍵を握っている。

 例えば、野球で言えば、試合に出場できる選手の数は、一チーム、九人であり、一試合九回を単位として九回で同点の場合は回を延長することができる。一回の攻守の交代は、スリーアウトとすると言った具合にルールの基本は、数字で事細かに決められている。

 民主主義は、選挙、即ち、数の力によって決まる。それ以外にも、民主主義は数の力が大きく作用している。

 数値化とは、第一に、抽象化である。第二に、量化である。第三に、単純化である。第四に、単位化である。第五に、単一化、均一化である。第六に、標準化である。第七に、平均化である。第八に、情報化である。第九に普遍化である。

 数値化と、数学化とは少し意味が違う。数値化は、数学化の前提ではあるが、数値化された者が全て数学的かというと必ずしもそうとは言い切れない。とにかく、数値化というのは、対象から量的な要素を抽出することを意味するのである。
 数値化の前提は、単位化と単位の統一である。物理学的な単位の統一は、度量法の確立をもってする。単位が確立されると尺度が成立する。つまり、単位を定義することは尺度を確立することを意味する。
 つまり、数値化の基本は、単位の統一にある。そして、一定の単位が確立され、統一されることによって基準、尺度は統一される。
 その点、貨幣単位は、確立されているわけではない。それが市場経済、貨幣経済を不安定なものにし、共通の場の確立を阻害している。

 数値化の意義は、計数化、計測化にある。数値化することによって対象を数えたり、測ることできるようになる。即ち、数字によって計測することが可能となることを意味している。この事は、即ち、対象の四則の演算を可能とすることも併せて意味する。

 数値化とは、量化でもある。量化というのは、定性的属性を剥ぎ取り、量的なものに特化することである。それによって対象の定量化が可能となる。反面において質的な部分が無視されたり、考慮されなくなったりもする。一つの仕事でも、仕事の成果よりも価格や費用の面だけが問題とされて、できばえや質が考慮されない場合がある。

 価値の数値化は、価値の抽象化である。それは、価値の単一化でもある。数値化は、対象の象徴化である。象徴化とは、記号化でもあり、情報化である。情報化は、信号化をも可能とする。

 価値を単一化すると異質な物を足したり、引いたり、掛けたり、割ったりすることができるようになる。
 例えば、土地と労働と設計といった抽象的概念、情報、時間と言った異質のものを、合計することが、できるようになる。また、時間だの、費用だの、能力だの、権利だのと言った本来、分割できないような対象を分割することが可能となる。
 我々は、まったく性質の違うものを、足したり、引いたりすることに何の違和感も感じなくなった。
 考えてみれば、おかしな事なのである。有形なものと無形なものを足したり引いたり、目に見えるものと、目に見えないものを、掛けたり割ったりするのであるから。しかし、それによって現代の経済は、市場を成立させることが可能となったのである。

 そして、数値化することは、対象の一般化でもある。普遍化でもある。一円という価値は、どこに行っても一円という価値を持つと言う事である。ただ、ここで言う価値は、貨幣としての価値である。
 貨幣化の意味は、価値を数値化する事による価値の単一化である。価値を単一化するから、異質の価値の演算が可能となるのである。

 数値化することによって数学的技法や数学的論理が、経済や政治に持ち込まれることになる。最近では、金融工学という分野まで確立されるほどである。つまり、数値化は、数学的な論理による支配でもあるのである。
 数値化すると数式化する事が可能となる。それは数学的な認識や考え方の影響下にはいることを意味する。その結果、何でも数字、数字となる。数字が万能の力を発揮し始める。

 ただここで勘違いをしてはいけない。数字というのはあくまでも抽象概念であって、それだけで成り立っているものではない。対象となるものから価値を抽出することによって成り立っている。また、その価値に意識が意味を持たせることによって意味が生じる価値なのである。つまり、意識が創り出したものであって、意識が働いていない世界では貨幣価値は、存在しないという事である。

 不良債権の多くは、金融機関が生み出している。不良債権として認識されることによって不良債権化する。不良債権として認識することによって不良債権化していく性格がある。それは貨幣価値が認識の問題であることを象徴的に示している。貨幣価値は、認識によって生じるのである。

 数値化の最たるものが貨幣である。貨幣は、数値情報である。即ち、数である。貨幣は、対象の交換価値を量的に抽象化した物である。ただし、価値は時間と伴に変化する。故に、貨幣価値は、現在の貨幣価値を現している現金と、貨幣が指し示している物と貨幣価値を認めている主体とによって構成される抽象的概念である。

 この事から貨幣価値は、基本的には、見かけ上の価値である事がわかる。また、貨幣価値は、相対的価値であり、貨幣が指し示す物と貨幣価値を認める主体とに依存する価値であり、貨幣単独で成立する価値ではない。

 それ故に、貨幣は、貨幣のみでは、実体的価値を形成することはできない。貨幣価値は尺度に過ぎないのである。数字を成立させている実体がなければ成り立たないのである。数字だけが一人歩きし始めた時、数字的価値は実体を失う。貨幣は、貨幣そのものの価値と貨幣が指し示す物の価値、そして、その価値を認める者の三つの要素のよってはじめて成立するのである。この三つの価値が、常に一体で一致していれば問題ないのであるが、この三つの価値が乖離し、バラバラに変動することがある。それが、経済現象を複雑にしている最大の原因である。
 数値化によるリスク、それは、価値と実体との乖離である。その典型が貨幣価値である。そして、貨幣価値が、それ自体が価値として振る舞うことがバブルと言った現象の原因となるのである。

 この様な貨幣価値は、必然的に、相対数である。絶対数ではない。価値が指し示す対象によって規制されている。どんなに値段が高騰しても対象となる財には変わりがない。貨幣価値が上昇したから品質が良くなるとか、増殖すると言う事はない。また、財の総量が変化するわけではない。ただ、価値上昇が情報となってその価値を認識する者の価値判断が変化するだけである。
 相対数と言う事は、結局比率の問題であり、取り分の問題に還元されるのである。石油価格が高騰することで、産油国、石油会社、消費国の取り分に変化が現れるだけである。そして、その取り分が格差の本質なのである。格差は、取り分に現れる。また、格差は、価値を細分化する。価値がなかったものが価値を持つようになる。格差がなかった時は、牛肉の差はほとんどなかったのに、格差が広がると銘柄牛が価値を持つようになる。つまり、ブランドが重要になるのである。しかし、それは牛肉そのものが価値を変えたのではない。ただ価値を認める者が現れたことによって貨幣的に差がついただけである。

 貨幣経済が進んだ社会は、数値化が浸透した社会でもある。貨幣的価値というのは、数字的価値に他ならない。故に、金というと、いくらいくらと数字で表現される。そのことに何の違和感がなくなるくらい貨幣的価値は、世の中の隅々にまで浸透してしまっている。

 数値化された物は、数字の性格によって普遍化される。故に、貨幣価値も普遍化され、国際化される。

 貨幣価値というのは、数値的価値である。言い換えると10進法を基本とした数という属性以外、何ものも持たない価値だと言える。極端な話し、情報化してしまえば、何等かの記号化、信号でしかなくなってしまうという事である。そして、この数という属性以外、何も持っていないが故に、博く普及したし、また、普遍的な価値にもなったのである。数という属性以外を持たないという事は、純粋に相対的な価値だという事である。貨幣にはいろいろな種類があり、また、国によって違う。しかし、数以外の属性を持たないという点で共通している。共通しているが故に、国家間の取引が可能になったのである。

 金融工学には、誤魔化しが多い。先ず何を前提とするかが、重要なのである。物理学者は、数式に全てを委ねたりはしない。しかし、経済学者は、全てを数学に委ねてしまった。元々、経済は、人間の意識が生み出したものである。仮定を絶対視すれば、結果は自ずと明らかである。それこそ、神を冒涜することである。
 現実に基づいて数式はたてられる。数式によって現実は作られるものであってはならない。
 どんなに、複雑に見える数式も前提と原則に基づいて展開される。故に、何を前提とし、何を原則としているかが重要なのである。

 貨幣価値は、関数として表せる。貨幣価値の単位は、単価である。単価は、単位あたりの財と単位あたり価格を掛け合わせた物である。この単価に数量を掛け合わせたのが、貨幣価値である。

 経済空間は、財によって形成される場と貨幣によって形成される場からなる。その場を結び付けている媒体は、個人の意識である。そして、これらが創り出す空間に時間軸が加わる。

 財には、質と量が関係してくる。貨幣は、量だけである。そして、この関係を:決定付けるのが意識である。意識は、時間によって変化する。

 景気、不景気によって我々の生活は左右される。しかし、不思議なのは、物の世界では、大きな変化がないのに、景気が大きく揺れ動くことがある。確かに、農産物は、天候に左右される。しかし、生産量に大きく変動がない。あるいは、収穫量は減っても、充分蓄えがあるはずなのに、景気が大きく揺れ動くことがある。財の場は、変化がないのに、景気に変動があることがある。それは、貨幣の振る舞いによるのである。

 貨幣の振る舞いとは、数値、数式に依拠している。それが重要なのである。数値を絶対視するのは、人間である。数値の問題ではない。しかし、数値は、実体ではない。影である。それも人間の意識が生み出した影である。
 数値や数式を過信してはならない。数学は万能ではない。数学を、手段、道具として使いこなせたら絶大な力を発揮する。しかし、数学によってこの世を支配できると思ったら、数学は必ず報復する。数学こそ、神の恩寵である。不可思議な体系なのである。
 ベトナム戦争において、数学によって戦争を支配しようとアメリカは、試みた。その結果、アメリカは、ベトナム戦争という泥沼から抜け出せなくなったのである。クラウゼビッツは、戦術は、算術だと言った。それは、戦略目標や政策が明確な時にこそ威力を発揮する。しかし、最後に決するのは、人間の意志であることを忘れなければである。同様のことは、金融工学にも言える。金融技術によって破綻したのは、人間の業である。金融工学が悪いわけではない。
 数値や数式を過信する者ほど、悪い結果が出た時に、数値や数式の責任にする。数式の結果や数値は、前提が変わればいかようにでも変わるのである。

 人間は、自分の限界をなかなか認めようとしない。自分を全知全能の存在だと錯覚している。科学によって全ての謎を解き明かすことが可能なのだと思い上がっている。人間は、人力の及ばない存在があることを認めなければならない。
 数学によってこの世の何もかもが支配できるというのは、思い上がりである。その思い上がりが経済の混乱を引き起こしているのである。
 金融の世界は、数値によって支配されている。それは、金融が貨幣市場であり、貨幣価値という数値的価値を土台としているからである。しかし、貨幣価値というのは、本来表象的価値である。貨幣価値は実体を反映した影に過ぎないのである。
 現実の世界は、結局、人間の力を超えたところに存在していることを忘れてはならない。そして、それは神の賜物なのである。

経済と方程式


 現代の市場経済現象、貨幣経済現象には、次のような特徴がある。 

 第一に、市場に現れる経済現象は、貨幣価値に還元、即ち、数値化が可能な現象、あるいは、数値的現象であるという事である。
 市場経済、貨幣経済を成立させている経済的価値は、数値的価値である。
 数値的価値というのは、量化可能な価値、数量に還元できる価値だと言う事である。

 貨幣経済における経済的価値は、財と貨幣価値の積である。物理的量と貨幣的量の積として表される。

 第二に、数値化が可能な現象は、方程式化が可能な現象だと定義づけできる。
 市場価値や貨幣価値を構成する量は、物的な量と貨幣的量に分割できる。そして、それは、物的な量と貨幣的な量の積として現される。

 第三に、市場経済における貨幣価値は、取り引きによって成立する。取り引きによって実現した貨幣価値、及び、その価値を数値的に表象した物を現金という。
 経済現象は、取り引きが成立した時点では、均衡しているという事。即ち、等式として表現することが可能な現象だと言う事である。

 第四に、経済現象は、何等かの構造を有し、経済構造は、等式の左辺と右辺に表れると言う事である。経済構造は、経済現象を構成する部分、要素に分割できることを意味する。そして、個々の部分の働きは、全体と部分との占有率、比率によってある程度、解明できるという事である。働きは、個々の部分を構成する要素を更に方程式化し、その方程式の構成によって把握することが可能である。
 例えは、粗利益率は、売上高に占める粗利益の占有率を表したものである。粗利益は、売上高から、仕入れを差し引いた数値である。売上高は、販売数量と単価の積である。販売数量というのは、量を表し。単価とは、単位あたりの価格を意味する。
 この様に、経済的価値は、物理的量と貨幣的量の積として表される。
 また、経済的物質的価値は、財の質と量によって決まる。量的な性格は、質な性格によって規定されてるのである。物的な質は、時間の関数である。例えば、生鮮食料は、質的な劣化は、数量と単価の減少に結びつくと言う性格を持つ。
 物価は価格の変動を表したものである。価格は、財と貨幣価値の積である。故に、インフレーションには、財が原因で起こるインフレーションと貨幣価値が引き起こすインフレーションと双方が引き起こすインフレーションがある。

 社会全体の物価の変動、動向、即ち、インフレーションやデフレーションは、市場の状態と貨幣の振る舞いによって起こる。

 財自体、物自体の価値も貨幣の価値も相対的な価値である。財の価値は、質と量によって決まる。市場価値は、市場に対する財の需要と供給によって決まる。貨幣価値は、貨幣の需要と供給によって決まる。財の重要と供給は、生産と消費によって決まる。生産は、生産力によって決まる。消費は市場の規模によって決まる。貨幣の需要は、支出、即ち、投資と貯蓄によって決まる。供給は、収入、即ち、所得と借入によって決まる。

 財の質とは、個々の財の性格である。財の性格は、生産に関わる要素と流通に関わる要素、在庫・保存に関わる要素、市場に関わる要素、消費に関わる要素、リスク要素から成る。
 生産に関わる要素とは、生産速度やその費用、原価構造(労働力、設備)から構成される。
 流通に関わる要素は、大きさや重量。有形、無形。運搬方法、手段と運搬にかかる費用等である。
 在庫、保存は、財の寿命の長さ、保存が出きるものが否か。保存にかかる費用等である。
 消費に関わる性格による分類には、消費の速度から第一に、消耗品、第二に、耐久消費財、第三に、不動産に分類される。財の必要度から必需品と贅沢品に分類される。

 取り引きは、取り引きが成立した時点、時点で均衡している。故に、その時点その時点の取引上では、利益は発生しない。利益は、取り引き間にある何等かの差によって生じるのである。特に、時間差である。差がなくなれば利益の消滅する。

 原材料と労働力を投入し、財と所得に変換する。それを媒介する手段が貨幣である。この関係から生じる量は、本来、等しいのである。

 この様に本来等しい価値が、時間的価値によって利益を生み出している。経営主体の働きは、労働と財の分配にある。利益は、その過程で生まれた残余価値であり、余力である。利益の働きは、経営力の蓄積である。当然、利益を追求すると言っても過剰利益も問題になる。過剰な利益は、何れは、清算される。

 なぜ、独占、寡占状態が悪いかというと市場は、取り引きによって成り立っており、取り引きは、価格に対する上昇圧力と下降圧力が働くことで均衡している。
 市場が、独占、寡占状態になると独占者、寡占者側の力が一方的に強くなり、適正な状態で価格が均衡しなくなるからである。例えば、生産者側が独占状態だと、市場は、生産者側に有利に働く。

 逆に過当競争は、差がなくなることによって終焉する。故に、過当競争は、価格の下落に歯止めがかからなくなる。

 第五に、経済現象の多くが、固定的な数値と変動的な数値によって構成されていると言う事。これは、定数と変数の問題に還元できることを意味する。
 何を定数とし、何を変数とするかは、等式を構成する要素と要素間の関係によって定まる相対的なものである。
 例えば、負債は、元本と金利に区分できる。収益は、利益と費用に区分できる。費用を構成するのは、固定費と変動費に区分できる。

 第六に、また、定数が、変数と連動しているか、独立しているかによって、定数、又は、変数の性格が形成される。

 変数は何に関連付けられるかが、重要なのである。

 変化の種類も一様ではなく、多様である。変化には、質と方向性がある。変化の質と方向性、即ち、有り様が、事象の現れ方を規定する。変化は、空間と運動と位置に現れる。

 変化には、流動と静止、固定(フローとストック)がある。向上と劣化がある。拡大と縮小がある。増加と減少がある。上昇と下降がある。流入と流出がある。加速と減速がある。消費と蓄積(残り)がある。変化には、前と後がある。

 温度は上昇と降下。上昇と下降という運動は、温度の性格を現している。気体は、拡散と凝縮。拡散と凝縮という運動は、気体の性格を現している。品質には、向上と劣化がある。向上と劣化は、品質の性格を現している。為替や株式相場には、上昇と下降がある。上昇と下降は、為替と株式相場の性格を現している。

 変化の性格が方程式の演算の基礎的部分を形成する。

 変化には、第一に、変化が、状態に還元されるもの。第二に、変化が、運動に還元されるもの。第三に、変化が位置に還元されるものがある。

 主体間の関係から生じる運動や働きには、例えば、為替の変動のように、主体によって反対方向に働く運動や働きがある。また、ゼロサムゲームの様な主体間で均衡している働きがある。

 第七に、変数には、内生的な変数と外生的な変数がある。
 変数は、内生的な要素によって変化するのか、外生的な要素に影響されているのかによって内生変数と外生変数に区分される。それは、基本的にその変数の要素が内生的な要素か、外在的要素かを決定付ける。

 第八に、経済現象の多くは、時間の関数だという点である。
 時間には、一定の期間を単位とするものと連続的な時間を元とするものがある。

 市場経済や貨幣経済は、利益を基準とする。利益は、期間損益として表される。期間損益は、一定時点間の経済的価値の差によって計算される。市場経済、貨幣経済における経済的価値は、時間的価値だとも言える。

 第九に、市場は確率統計的な局面がある。つまり、不確実な世界である。利益は、リスクにある。経済体制の本質は、リスク管理にある。

 現実の世界は、不確実な要素を取り除くことができない。確率統計的な世界である。人間の社会も不確実な要素が満ちている。むろん、だからといってこの世の中に確実なものは何もないと言うのは短絡的である。

 経済は、変化によって成り立っている。しかし、あらゆる部分が変化しているわけではない。全体を見渡してみると変化する部分と変化しない部分がある。変わるものと変わらないものがある。それを見極めることが経済を理解することです。
 変化する部分を易学では、変易と言う、変わらない部分を不易という。そして、その根底にあって物事を結び付けている法則は易簡なのである。

 変わらない部分は、何で、変わる部分は何かを区分することが大切になる。次ぎに、何が変化を引き起こす要因、動因なのかを見つけだすことである。逆に、なぜ、変化しないのか。変化を阻害する要因を探し出すことである。そこで、重要になるのは、時間である。時間の作用が、陰に作用しているか、陽に作用しているかである。

 変わらない物事は、予測ができる。予測ができることは、備えることができる。備えることのできない不足の事象がリスクの根源である。しかし、反面、予測できないことだからこそ利益が生じるとも言えるのである。経済は、その不測に備えることによって成り立っている。不足なことは、リスクである。故に、経済の根源は、リスク管理だとも言える。
 リスクは、確実な事象が不確実な事象に変化することによって生じる。不確実な事象とは、捕捉不可能、予測不可能な事象である。

 多くのことはあらかじめ予測することが可能である。しかし、予測不可能な事をなくすことができず。その不測の事態が全体の動きに重大な影響を与えているのである。

 不確実なものを確実なものとして見せ掛けるから問題なのである。不確実な事象は、不確実な事象として、それにどう備えるかが重要なのである。

 市場は取り引きの集合である。故に、集合としての数学的性格を持っている。

 人間には、価値観があり、各々は、自分なりの信念に基づいて行動している。一人一人の決断や行動は、何等かの根拠に基づいた確信的なものだとしても、それが、社会という集合体になると確率統計的な運動になる。

 人間の市場における行動は、確率統計的な運動としてしか認識されなくなる。人間には、意志があり、感情があることを忘れている。
 市場の行動は、確率統計的ではあるが、集団に作用する感情の力の影響を排除することはできない。人間は、理性によって判断し、感情によって決断しているのである。

 第十に、市場的価値は、相対的な価値である。

 経済的価値は、二者択一的なものではない。例えば、確実なものか、不確実な物かを決め付けられるものではない。勧善懲悪的なものではない。損か、得かではなく。その場において何が適切かの問題であり、何が有効かの問題である。
 経済的価値は、相対的なものであり、それが成り立つ前提が重要なのである。

 重要なのは、前提条件である。前提条件をどう設定するかは、認識の問題である。その上で何を基準とするか、基準をどうするかのかが問題になる。それは選択の問題である。
 状況や前提によって金融機関は、担保主義から収益還元主義への転換が、あるいは、逆に、収益還元主義から担保主義への転換が必要である。外的、内的信用が拡大している場合は、担保主義は有効である。反面に、外的、内的信用が収縮している場合は、収益還元主義が有効である。
 成長段階では、信用が拡大している。この様な時は、担保となる信用も拡大しているから担保主義は、それなりの妥当性がある。しかし、成熟期や衰退期になると信用は、横這いになるか、収縮する。その場合は、収益が返済力の基礎となる。
 むろん、一概に担保主義が良い、収益還元主義が良いと決め付けられない。それは、状況や環境と言った前提条件をどの様に設定するかによって決まるのである。

 数値化というのは、本来、認識の必要によって派生する。認識とは、対象を相対化することによって成り立っている。故に、数値化は、数値化された時に、相対化されるのである。

 経済的価値は、数値、即ち、量的な価値として表現されるが、実際の経済的財は、量的な要素だけで成り立っているわけではない。
 現実の市場では、むしろ質的な部分の方が問題となる。料理の経済的価値は、価格に還元されるが、実際に我々が料理を選ぶのは価格によってではなく、自分の嗜好であり、味であり、見た目である。我々は、値段を食べるわけではない。価格を決定する要素は、財の質である。それを忘れると経済の本質が見失われる。

 対象は、密度がある。密度とは、質と量から構成される。数値化というのは、個々の対象から量的な部分を抽出し、象徴化する、即ち、抽象化である。

 経済には、密度がある。市場にも密度がある。市場経済や貨幣経済は、この経済や市場の密度の量的な部分を抽象化することによって成り立っている。

 質とは、個性である。個々の属性を言う。数値は、この個性を直接的に表現できない。故に、数値的に表現された対象に質的な部分を加えなければ、経済的な価値の密度は、再現できない。
 経済的価値は、金が全てではない。しかし、表に顕れる経済的価値は、金である。
 労働力が典型である。労働の成果は、時間と労力の積として表される。しかし、そこには、質的な要素が欠落している。
 故に、職人的熟練仕事は、排除されることになる。仕事は、単位作業にバラバラに解体される。単価としての価値しかなくなる。つまり、そこには、労働者の個性は喪失するのである。

 大体経済学には、前提上の間違いが沢山ある。その最たるものが経済人の設定、前提である。多くの経済学は、人間は、合理的、功利的に行動するという事を前提としている。人間は、合理的、功利的に判断する存在ではない。人間は、合理的に行動すると言っても自分の価値観を前提として行動するものであり、その価値観は、多分に、社会や地域、宗教的な慣習や伝統、信条に基づいて経験的に形成されるものである。経済的価値観だけに基づいているわけではない。天才や聖人を前提とした社会は成り立たない。社会を構成する大多数の人間は、何の取り柄もない平凡な人間なのである。

 経済を成り立たせているのは、何等かの差である。経済的価値とは、その差の持つ意味をどう評価することにある。

 金が全てであるような基準では、人間性と言った質的部分は失われる。そして、量的な部分しか残されなくなる。報酬は、単に単位労働と時間の積でしかなくなる。そうなると、労働者は単なる部品でしかなくなる。

 利益の追求を第一義としていながら、利益とは何かという事を忘れている。そこには、利益に対する悪意、また、私的企業に対する悪意がある様に思える。
 利益にどんな働きを求めているのか。なぜ利益が必要なのか。利益は、誰のものかという問題がある。
 利益を企業の成績としてしか捉えなければ、属人的な部分は、どんどん削減されてしまう。
 好例が人件費である。利益とは何かという問いは、本来、人件費とは何かに結びつかなければならないはずである。
 利益にも、質と量がある。つまり、利益の密度が問題なのである。

 金が全て、即ち、金銭的、貨幣的効率性のみを突き詰めると量的な部分だけに極限化され、経済における質的な部分が削ぎ落とされることになる。
 人件費で言えば、個性や生活、年齢、経験、家族、技能といったものが削ぎ落とされ、或いは格付けされて、画一化されてしまう。しかし、それは、経済の持つ質的な部分を削除したに過ぎない。そして、経済の本質は、質的な部分にこそあるのである。

 親が家族が健やかでいることを願うのは当たり前だった。経営者が、社員が豊かになる為に働くのは当然だった。国が国民の幸せを祈るのは、何の不思議もなかった。それが愛情である。しかし、今は、いがみ合うことが当たり前だと想われている。愛が全てだと言いながら、愛情がない。利益が上がれば上がるほど人間関係は悪くなる。
 家族や社員、国民の幸せを目的とするのと、単に所得は競争の結果と割り切るのとでは、利益の持つ意味が違ってくる。
 組織や、共同体を構成する仲間の世話をする事、それが組織の論理であり、共同体の論理であり、組織や共同体の経済の目的である。利益を上げるのは、人間関係をよくするための手段に過ぎない。分配に差を付けるのは、働きに対する評価だからである。それも、組織や共同体を維持するための手段である。評価が組織の効率を高めると考えるからである。

 なぜ、経営者は、一般従業員より高給を取る必要があるのか。それは、組織の長だからである。それが、組織の論理である。人間の心理による。つまり、意欲を引き出すための仕掛けなのである。市場の論理ではない。市場が合理的な仕組みならば、組織も合理的な仕組みである。市場と組織に働く原理が違うのである。

 共同体内部では、金銭的取り引きは基本ではない。共同体内部では、仕事は、互助的な労働である。故に、その対価は、謝礼であって報酬ではない。それが、市場取り引きに変質すると報酬となる。報酬になれば、量的なものでしかない。感謝という質的な部分は失われる。

 プロとアマとの違いはどこにあるのか。プロとは、職業として恒常的に所得を得ている者を指し。アマとは、職業として恒常的に所得を得ていない者をいう。プロは、労働の対価として報酬をもらう。そこには、経済的な取引関係しかなく。取り引きが成立し、決済されたところで解消される。しかし、アマ、素人は違う。貸借関係が成立し、それは継続的な関係の基礎となる。内面の動機が違うのである。

 現代の経済学は、人間の欲求を無視しているつまり、人間は、自己実現を求めて生きていると言うことである。人間には感情があり、誇りがある。そして、認められたいという欲求がある。その欲求が経済の原動力である。だからこそ、評価を一律均等にすることはできないのである。その人間性を現代の経済学は無視している。それは、経済学者が自らを超然たる存在、即ち、神の如き存在に擬しているからである。

 自分の事だけを考えて競い合えぱ、自然に調和するなんて妄想に過ぎない。市場も人間関係の上に成り立っている。市場は、量だけの世界ではない。市場で重要なのは、質と量、即ち、密度である。

 市場は、量だけを求めているわけではない。消費者は、質も求めているのである。むしろ、消費者にとって重要なのは、質である。そして、それが経済の変化の鍵を握っている。つまり、量的な拡大は、質的な変化を市場にもたらすのである。その質的な変化に適合して市場の在り方も変化する必要がある。変化できなければ、市場の構造は、歪んでしまうのである。

 自動車を購入する動機や目的は、一台目と二台目とでは、違う。家も然りである。一軒目と二軒目では、建てる意味が違う。そこに質の違いがある。極端に言えば、二台目や二軒目は、不必要なのである。しかし、生産者側が二台目や二軒目に依存するようになると市場や経済の状態は、変質する。それは、必要性を前提とした市場や経済では成り立たないことを意味する。

 市場が過飽和になれば、消費者は、量よりも質を求めるようになる。それがブランド、高級品が成り立つ要因である。ブランドや高級品は、一定の質を保つことによって価格を維持している。つまり、量から質への転換をいかに行うかが、成熟した市場を確立するための鍵を握っている。重要なのは、廉価品と高級品が混在する市場をいかに維持するかである。

 資本の効率、生産性の効率は、結局、平準化、標準化の上に成り立っている。
 小さな街の小売業者は、大資本の前に淘汰されてしまう。その結果、財の多様性は失われる。

 成長経済から成熟経済への移行時には、量から質への転換が求められる。即ち、大量生産、大量消費といった量の経済から質の経済への転換が求められているのである。それは、環境問題や資源問題からの要請にも基づく。つまり、これまでとは全く逆の経済の在り方に転換する必要がある。
 大漁貧乏、豊作飢饉と言う現象がある。つまり、収穫や生産が大きすぎるとかえって貧乏になるという事である。それよりも内容が重要になる。

 数学的な論理で割り切れない、不合理な部分を多く含んでいるのが、現実の市場経済であり、それを無理矢理、割り切ろうとするから、経済がおかしくなるのである。経済の本質は、人間関係の上で成り立っているのであり、数学的論理の上に成り立っているわけではない。それを前提として考えて始めて、数値をリテラシーとした貨幣経済は成り立ちうるのである。

 利益にも質がある。それは、利益の源と用途である。利益が何によって生み出され、そして、どの様に活用されるかである。そして、用途で一番重要なのは、労働に対する対価と将来に対する投資である。
 賃金労働には、所得の平準化という意味もある。そして、そこに利益の持つ意味もある。ある程度の利益が確保されることによって、所得の平準化が図れる。所得の平準化は、利益を時間的に平均化することを意味するからである。儲けと所得とを切り離し、平準化することによって成立している。所得が平準化されることによって長期的な借入も可能となる。また、長期的な展望に立って人生設計や生活設計が可能となるのである。
 利益は、単純に企業成績を表す指標ではない。増収増益を企業は、運命付けられているが、何のために、誰のために増収増益をはかるのか。それは、労働と分配を関連付けるためである。そこに利益の質がある。

 経済の意義は、労働と分配にある。故に、経営主体の核は、労働主体にある。労働と所得の関係は、貨幣の相互作用を示している。
 労働と報酬とを切り離して考える思想がある。極論すると報酬を一律均等にしてしまえて言う思想は、労働と報酬を切り離していると言っても良い。また、共同体論の中には、私的所有権の否定と同時に、労働と評価を別のものとして結び付けない思想もある。さらに、貨幣は、単なる交換の道具だという考え方で、労働とは関係なく配布するという思想もある。それを突き詰めると貨幣そのものをなくしてしまえと言う事になる。
 しかし、それは、経済の意味を理解していない。労働は、存在意義である。最近、やたらと休日を増やし、労働を否定的にしか捉えない風潮があるが、それは、生きることの意味を理解していないからである。労働は、自己と他者、自己と社会とを結び付ける絆である。労働とそれに対する評価によって人間は、自己を社会の中に位置付けることができるのである。その評価に貨幣的に実態をあたえた物が対価である。そして、それが経済の礎である。

 需要と供給の均衡関係は、市場の状況や環境、前提によって変化する。一律に決まるものではない。
 市場原理主義者は、市場は、効率的であるとする。そして、需要と供給の間には、パレート効率が成り立つと仮定する。しかし、需要と供給のパレート効率が、必ずしも成り立つとは限らない。
 先ず、パレート効率が成立する前提は、第一に、家計も経済も功利主義的、合理主義的に行動すると言う事である。第二に、収穫は、逓減するという前提である。
 パレート効率が成り立たない要因は、第一に、情報の非対称性がある。生産者と消費者との間には、情報の非対称性がある。また、情報の伝達には、時間差がある。金融商品のように実態の見えないような財は、この情報の非対称性は、決定的な働きをする場合がある。
 第二に、財の個性、独自性の問題がある。同じ財でも、ブランドによって需要と供給に差がでる場合がある。また、生産工程によっては、需要と供給の即時的に均衡が図れない場合がある。
 第三に、パレート効率は、収穫の逓減、即ち、費用の逓増を前提として成り立っている。しかし、実際の市場は、費用が逓増するとは限らない。つまり、収穫は逓減するとは限らないのである。むしろ、技術革新は、費用を逓減させる場合がある。また、大量生産、大量消費型経済では、操業度によって収益と費用に差が生じる。また、損益分岐点が一つの指標となり、費用に差がでる場合がある。また、「範囲の経済」や「規模の経済」、学習によっても費用は逓減する。(「資本主義の暴走をいかに抑えるか」柴田徳太郎著 ちくま新書)
 第四に、不確実性の問題がある。現代の市場経済では、多額の初期投資を前提とする産業が多い。設備投資をする時に、他者の戦略的な意図を予測することができない上、一度設備投資をすると、その資金を回収するまで生産を拡大する必要が運命付けられてしまう。つまり、供給力は、不確実な要素によって予め設定されているという事である。

 第五に、在庫の効果がある。市場の評価は、期間損益によって為される。利益は、在庫量によって左右される。在庫を調整することによって需給の均衡を調節することがある。

 総生産は、販売数量と在庫に分類できる。総支出は、消費と投資、貯蓄に分類できる。生産は、供給を意味し、支出は、需要を意味する。需給の調整は、在庫量が決定的な機能を果たしている。この在庫の働きを無視しては、パレート均衡は成り立たない。

 つまり、景気政策を判断する上で、需要を喚起する為には、販売と在庫と消費と投資と貯蓄に対してどう働きかけるかが重要になる。更に、公共投資というのは、投資の中の一要素に過ぎない。
 しかも、販売、在庫、消費、投資、貯蓄の要素は、複雑に他の要素と結びあっている。公共投資だけに頼って景気を改善することはできない。
 販売、在庫、消費、投資、貯蓄の各局面に対して、どの様に働きかけるか、つまり、構造的に対策を立てることが重要なのである。

 第六に、人間は、功利的合理性に基づいて行動するとはかぎらない。人間は、むしろ、戦略的に行動する。

 需要と供給の均衡点は、損益分岐点が重要な意味を持つ。大きな錯覚があるのは、需要と供給の均衡点は、単式簿記と複式簿記の世界では微妙に違うと言う事である。単式簿記、即ち、現金主義的な世界では、収支の均衡点であるが、複式簿記では、損益分岐点が均衡点になる。現金主義では、現金で清算された時点時点で取り引きが成立したと見なされるが、実現主義は、取り引きという行為が認識された時点で取り引きが実現したと見なされる。故に、現金上の清算が終わったわけではない。その為には、取り引きの実現と現金による清算、決済が時間的にずれる場合がある。その為に、現金主義では残高が基準になるが、実現主義では、利益が基準となるのである。これは、実績評価に対する根本的な考え方に大きな差があることを意味している。
 故に、複式簿記を基盤とした市場経済では、損益分岐点が一つの指標になる。
 また、費用に占める固定費の比率が産業毎に違う。また、同じ産業でも業態が違うと違ってくる。生産方式、工場生産か、手作りかによっても損益分岐点は違ってくる。
 そして、この構造が景気に決定的な働きをもたらす。つまり、大量生産型、大規模の設備投資を前提とした経営主体と多品種少量型、また、小規模の設備投資の経営主体が混在した市場では、一律に需給が確定するわけではない。大量生産型企業は、損益分岐点をこえる事が最大の目標になるために、市場に対し、洪水のように製品を放出する。それに対し、小規模生産型の経営主体は、生産力に限界があるために、競争力には当然限界がある。この様な市場では、供給力が市場に対し、決定的な働きをする。

 産業革命は、質から量への時代だった。産業革命によって人間は、物質的には豊かになったかもしれない。しかし、工業化は、環境破壊や資源問題を引き起こしてもいるのである。大量生産、大量消費は、過剰生産、過剰消費を意味している場合もあるのである。現代は、量から質への時代の転換が求められている。
 大量生産から多品種少量生産へ、大量消費から省力型節約型時代へと移行していく必要がある。大量に安くから、少なく売って大きく儲けるへ価値観を変えていくことをも意味する。

 現代人は、経済を数値的現象として捉えがちである。それは、経済的価値が貨幣的価値に還元され、数値的価値と同一されることに起因する。しかし、実際の経済現象は、数値、即ち量的な働きよりも質的な働きの方が重大な影響がある。
 数値というのは、あくまでも対象の量的な部分を抽象化したものであって全てではない。世の中、金が全てではない。肝心なのは、内容である。

 経済危機にせよ、金融危機にせよ、危機という割れるような事態が起こる前には、必ずと言ってモラルハザード、倫理観の喪失が見られる。倫理観がなくなったから危機的な状況となったのか、危機的な状況へと向かっているから倫理観がなくなったのか、何れにしても、現代社会では徳が失われつつある。徳は、人間の行動を抑制する。その徳の働き失われたことが経済を退廃化させ、市場を荒廃化しているのである。

 現代の学問には、徳がない。現代の経済にも徳がない。それは、現代経済が、質を無視しているからである。それ故に、学問も経済も抑制が効かないのである。そのことに早く気がつかないと科学も経済も破局へと向かうことになる。

 還元率(回収率)=倍率×回転率×時間価値これが経済基準の基本である。

 経済現象や経営の構成は、方程式にするとよく表れる。そして、経済現象を表す方程式は、還元率(回収率)=倍率×回転率×時間価値である。例えば、経営指標としてよく用いられる株主資本利益率は、ROE=還元率(回収率)=レバレッジ比率(倍率)×総資本回転率×利益率として表現される。この利益率とは、時間価値である。時間価値には、利益、配当、金利、物価上昇率などがある。
 つまり、経済は、価値の倍率と回転と時間価値の積として考えられるのである。

 貨幣は、元々、金の預かり証に始まる。つまり、担保とした金によって信用を倍加し、それを回転させることによって金利という時間価値を生み出したのである。これが今日の貨幣経済の根本的運動である。そこで重要になるのが、倍率と回転率と時間価値なのである。

 金融危機やバブルは、金融機関が本業で収益をあげられなくなったという事がある。もっといえば金融機関だけでなく、多くの企業が市場の成熟に伴って収益、金融機関は金利、即ち、時間価値が喪失してしまった。その結果、レバレッジ比率(倍率)を高めて利益を確保せざるを得なくなったのである。資金の嵩をレバレッジによって以上に高め、忙しく資金を金融市場で回転することによってのみ利益が確保できなくなった。回転が一度止まれば、残されているのは、以上に倍率が高められた信用だけである。必然的に信用収縮が起こるのである。
 需要なのは、時間価値を市場の仕組みによって維持することなのである。

市場経済にとって数値化が意味するものは


 利益は、自然の法則のような真理ではない。思想の所産である。
 利益は、会計的に設定された基準の一つである。また、それ以上のものではない。利益は、合目的的な数値基準である。つまり、利益の設定には、何等かの人間の意志が働いている。利益の設定は、設定する者の価値観が働いていおり、その価値観が、前提とされているからである。故に、利益は、思想の所産である。
 利益は、目的に応じていかようにも設定できる。だから会計目的を確認する事が重要なのである。
 利益というのは、スポーツのスコアのようなものである。つまり、事業の存在価値を測る物差しである。その存在価値は、収益と費用との差に求められるというのが期間損益という思想なのである。故に、利益の定義が重要になる。そして、利益の定義は、貨幣価値を実現させる要素に基づく要件定義である。

 市場経済下における景気は、利益をどの様に定義し、利益計算の方法をどの様に設定するかによって大きく左右される。市場や企業の都合によって会計基準をいじくり廻すのは危険な行為である。
 試合の結果や特定の選手の意向によってルールを変えるのに等しい。重要なのは、経済をどの様に導くかの構想なのである。

 経済現象が理解しにくいのは、経済情報を合目的的な情報として認識しないからである。経済は、人間の行為が寄り集まって引き起こされる現象である。経済的事象は、自然に成るのではなく。人間の行為の結果なのである。つまり、経済現象に責任を持たなければならないのは人間であって、神でも自然でもない。

 市場は、利益を上げる事を前提として成り立っている。

 時間的価値が失われれば、市場は、均衡し、利益を得る機会は失われる。時間的価値を附加するのは、市場の仕組みである。

 理数系の人間は、経済を自然現象と同一視して説明しようとする傾向、癖がある。
 エンジンのような機械は、自然に成るものではない。植物や動物とは違う。人間が作り上げたものである。その上でエンジンの働きがある。エンジンの働きは、エンジンの仕組みがあって始めて観察されるものであり、自然状態で観察されるものではない。市場の働きも同様である。市場の仕組みが作り出されることによって市場の現象は観察されるのであり、自然状態で市場の現象が観察されるわけではない。
 人間が作り上げた仕組みが前提となり、その上で確率統計的な手法が活用されているのである。

 機械の性能と天気予報の精度とを混同している。

 会計上において利益が計上できるように設定するから、利益は上がるのである。もし仮に、利益が計上できないように設定されれば、利益は計上できなくなる。問題は、前提条件である。現代の市場経済は、成長や変化を前提としている。前提が変われば利益が計上できなくなる仕組みになっているのである。成長や変化を前提とする仕組みによって成長や変化を促しているのである。
 しかし、成長や変化が止まったら途端に歯車は逆回転を始める。成熟や不変を前提とした市場の仕組みではないからである。

 市場や経営主体が、儲からない仕組みだったら、儲からないのである。むろん、経営努力による部分もある。しかし、経営努力だけではどうにもならない部分もあるのである。状況や環境によって仕組みを変えるから、機械は制御できるのである。上昇する時も、水平飛行する時も、下降する時も同じ体勢では、失速するのは当然である。

 市場原理主義者の多くは、市場は効率的だと決め付けている。市場は効率的だと言うが、それは結果論に過ぎない。株価が下がったから経営破綻したのか。経営が破綻したから株価が下がったのか、どちらが原因で、どちらが結果なのかは、決め手がないのが実態である。

 会計情報を作成するのは、手段であって、会計情報を作成することが目的なのではない。しかし、会計情報だけ資金が調達できるとなると会計情報を作ること自体が目的とするようになる。また、自分達の都合が良いように会計情報を創作するようになる。また、会計情報の方が経済の実体に化してしまう。

 市場原理主義者は、淘汰される側の経営者を無能だと決め付ける傾向がある。しかし、必ずしも無能だから敗北するとは限らない。事故や災害のような予期せぬ事態に見舞われる事もある。また、不運もある。不可抗力な事象もある。有り体に言えば、常識的で良識的であることも淘汰される原因となりうるのである。
 市場原理主義者は、自分達は、公平で、中立的だと思い込んでいるが、多くの場合、自分達が馬鹿にしている伝統的、勧善懲悪的発想なのである。
 現実は、結果に過ぎない。善悪の基準だけでは、現実を理解することはできない。況や、進化という基準で全てを説明することは不可能である。

 社会にとって必要な事業が淘汰されたり、本来は、利益が上がっていない企業が利益を上げているように見えたりする。また、優良な企業が、悪質な企業に呑み込まれたりもする。それは、会計情報を目的を明らかにしないままに過信することが原因なのである。
 こうなると適者生存などというのは、戯れ言に過ぎなくなる。

 お伽噺にでてくる悪い大臣は、善良な王に取って代わろうとしている。しかし、視点を変えると有能な人間が無能な指導者にとって代わろうとしているとも言える。何が正しくて、何が間違っているかは、主観の問題であり、その人その人の立場によって違うのである。

 同じ会計情報も、株主、金融、取引業者では、見る視点が違う。

 金融危機と言われる現象の多くは、株式相場の暴落に端を発している。これ程重要な影響を与えている株式相場とは何なのか。また、なぜ、株式相場は、経済に影響を与えているのであろうか。

 株式市場の論理は、会計的文法によって成り立っている。同じようにも金融市場も会計的文法を基盤としている。取引市場も会計的文法を基礎としているのである。

 企業は、資本家のもの、株主のものと決め付ける風潮があるが、それは、企業の一面でしかない。会計の論理を基礎としているのは、資本市場だけではない。金融市場だけではない。取引市場だけではない。それぞれの市場の働きの均衡の上に市場経済は成り立っているのである。

 投資家の多くは、企業経営に失敗し、企業経営者の多くは、投資に失敗している。この事が何を意味しているか。それが重要である。
 企業は、少なくとも投資家のものだけではない。投資家の視点だけで、会計の働きを規制しようとすれば、自ずと市場経済に偏りが生じるのである。金融危機の根底には、この市場の偏りがある。

 投資家、即ち、株主は、企業は、株主のものであり、投資家を保護することが最優先だという考え方を前提としている。
 しかし、投資にもいろいろな目的がある。事業目的に投資する投資家もいれば、キャピタルゲインを目的とする投資家もいる。配当を目的とする投資家もいる。M&Aを目的とする投資家もいる。
 投資というのは、本来、長期的な利益を目的とし、固定的資産の裏付けとなるべき資金を提供することである。
 しかし、現代は、投資を目的とする投資家は少数派である。株の値上がりを目的とした投資家が大多数である。彼等にとって、事業目的や事業理念なんてどうでも良い。株価が値上がりする情報が必要なのである。

 それに対して、経営者にとって必要なのは、経営を継続するための情報である。その為には、長期的な均衡に必要な情報が重要なのである。

 近年、時価会計が流行である。特に、金融商品が発達したことによって時価会計を導入すべしと言う傾向が高まった。

 時価会計を推奨する人達は、経営実態を正確に知るためにという事をその理由としている。しかし、時価会計にすれば、正確に経営実態、あるいは、企業価値を計算できると言えるであろうか。
 時価会計が正確に経営実態を反映するためには、幾つかの前提がある。
 まず第一に、経営実態の全てが会計情報の上に表れるという前提である。しかし、経営実態が会計基準上に、全て正確に反映されるとは限らない。
 経営実態が正確に会計上に表れるためには、経営実態を反映する情報とは何かが予め明らかにされていなければならない。
 経営実態とは、経営の目的によって決まる。つまり、会計の目的と経営の目的が一致していなければ、経営実態は、定まらない。経営目的とは、事業目的でもある。なぜ、何のための、誰のための事業かが定まって、はじめて、会計目的は定まるのである。
 その目的から見て、時価を基礎とした情報に意味があるかが問題なのである。その為には、時価とは何かが予め定義されていることが前提となる。
 会計基準は、自然の法則とは違う。結果を説明するために、会計基準はあるのであり、結果から会計基準は、導き出されるわけではない。なぜならば、利益と言う結果は、会計基準に基づいて導き出される数値だからである。
 第二に、投資家の目的である。投資家は、何のために、経営実態を知る必要があるかである。これは、経営実態の何を知りたいのかを左右する。
 投資家にとって一番の関心事は、投資した資金をどの様に回収するかである。
 投資家が経営実態を知りたい最大の動機は、本来、経営が継続されるかである。もし経営が破綻すれば、投資した資金が回収できなくなるからである。故に、経営が破綻されたら投資家は、元も子もなくなる。しかし、今日では、株を長期にわたって保有する株主は少なくなった。そうなると株を保有する目的が変質する。
 当座企業を対象とした投資ならば清算価値が重要であるが、企業を清算することによって投資した資金を回収するのは、継続を前提とした企業では無意味である。
 そうなると、投資家は、配当か、キャピタルゲインによって資金を回収すると考えるのが妥当である。

 今日、キャピタルゲインを目的とした投資家がほとんどである。そうなると投資家の大多数は、事業内容よりも、結局、株価の日々の動きに注目するようになる。日々の株価の動きが、彼等にとっては、投資の問題だという事になる。この様な投機家に多くは、短期的な株の売買によって利益を上げる事を目的としている。そうなると長期的な利益を目的とするよりも短期的で即物的な利益を上げる事が株価の目先の上昇に繋がる。彼等には、長期的な事業観と言うよりも短期的な利益の方が重要なのである。

 しかも、株価の下落が、資金調達を困難にし、結果的に企業を破綻させることがある。その様な事態を避けるためにも、目先の上辺の利益を上げる必要があるのである。
 投機家にとっては、会計情報の在り方も短期的な利益を上げる事を目的とした在り方の方が重宝なのである。
 要するに、短期の利益の動きに対して賭をしたいが為に、時価会計を推奨しているのに過ぎない。

 株価の暴落の原因よりも、株価が暴落するような事態が問題となる。では株価が暴落するような事態は、どの様にして訪れるかである。
 株価の下落のキッカケの多くは、会計情報によって引き起こされる。故に、株価の下落を招くような情報にならないような基準を採用しがちになる。

 結果的には、その会計のあり方が企業を疲弊させてしまうことになる。なぜならば、企業は、本質的に継続を前提とし、長期的均衡を目的としているからである。長期的な投資や蓄えがどうしても後回しになってしまう。

 第三に、企業を継続すること、その為に資金を調達することが目的ならば、その為の情報に限定すればいいのである。何も、時価で評価する必要はない。
 また、目先の利益によって長期的な視野を欠くことは、本末転倒となる。長期的な視野にかけ、目先の利益ばかりを投資家が追うようになったために、企業経営が行き詰まったのだとも言えるのである。こうなると会計情報の在り方にも影響がでてくる。短期的な売買によって目先の利益を追う投資家のために作られた会計基準によって株式市場が混乱し、その結果、実物市場も混乱したとしたら、それが景気を株式市場が先取りしたと言えるであろうか。それは、資本市場が経済の混乱の原因になったに過ぎない。

 元々、株価は、固定資産の裏付けのためにあるものだから、それが目先の利益に囚われ、長期的な展望が持てないことが問題なのである。

 会計情報は、提供する相手が経営内部と外部の人間とでは、情報の量と質が違ってくる。また、会計情報を作成する側と提供される側とでは、当然、目的が違ってくる。

 経営というのは、状況や前提によって評価が別れる。バブルに乗る方が悪いと言うが、バブルに乗らなければ、その時点で破綻している。
 環境や状況を無視して、経営をすることはできないのである。しかし、その環境や状況、ルールが、行政や政治の都合で猫の目のように変わり、その為に、不良債権が発生したとしたら、それは災難である。
 良い例が相続税に対する考え方である。また、土地税制も然りである。為替の変動も同様である。
 まるで、優秀な選手がでたらルールを変えてその選手の成績を悪くするようなものである。

 経営者は、投資家や金融機関から資金を調達したり、取引上の与信力を高めるために、また、納税のために、経営をするために会計情報を利用しようとするであろうし。株主は、投資先を見つけるために会計情報を活用しようとするのに対し、銀行は、最終的には、金利が稼げた上に貸した金が戻ればいいのであり、行政は、税金の他にこれといった主体性がない。
 今の投資家や債権者、公的機関にとって事業はどうでも良いのである。とにかく、自分が儲かればいい。それしかない。その為に、経済が上手く機能しないのである。
 行政にとっては、本来、会計情報を作る目的には、債権者保護や雇用の確保、資源や環境の保護と言ったことが考えられる。
 故に、会計情報を作成したり、開示する目的が今一つハッキリしない。根本にある事業観、事業計画がどこかへ行ってしまっているのである。

 金融危機というのは、経済危機の末期症状であり、その先にあるのは破局である。金融危機が起こる前提は、金融機関が適正な利益を計上できなくなる事である。それは、金融市場が成熟し、競争だけでは、適正な利益を上げられなくなることが原因なのである。
 金融機関は適正な利益を上げられなくなると資本市場や資産市場に新たな収益源を求める。それが資本市場や資産市場の急激な拡大、即ち、バブル現象を引き起こすのである。それは、利益の設定の仕組みに問題があるからである。

 本来、会計情報は、合目的的のである。つまり、目的があって会計情報は作られているのである。本来会計情報というのは、多様なニーズ、要求があってそれに応じる形で作成されるものである。
 その会計情報を作る目的がどうでもよくなっている。何のために、会計情報が作られ開示されているのかがわからなくなっているのである。
 会計情報の評価は、会計情報を作成する必要性、目的に照らして為されるものである。ところが、その必要性や目的を蔑ろにしていて情報の適正を評価しようとするのであるから、本末を転倒してしまうのである。

 経済本来の目的に反する行為は、結局、不経済な結果をもたらす。たとえば、投機目的で土地やゴルフ会員権を買うと言った行為である。
 投機目的で土地やゴルフ会員権を買うと言った行為を、なぜ、行うのかというと過剰な利益や余剰な資金が、市場に発生してたことである。
 また、将来に備えて資金を形を変えて溜め込もうとすることである。また、税として資金の流失を防ごうとする。
 しかし、利益の中から全額、費用となるわけではなく。一時的な利益の増加を解消することにはならない。恒常的に費用が発生することになる。また、元本の返済は、費用化できない。
 これらは、金融市場や資本市場の投機的な市場の動きとも共通している。

 市場というのは、本来信用によって成り立っている。市場取り引きは、信用制度を前提としているからである。その信用が損なわれる様な行為は、当然規制されなければならない。

 会計情報を作成する目的が株価対策に限定されている事が問題なのである。会計情報は、本来、事業の継続に活用する事を目的とすべき情報なのである。会社を淘汰し、潰すことを目的としているわけではない。

 経営の継続に必要なのは資金である。期間損益ばかりにこだわって資金の問題を忘れている。会計情報を作成し、開示する目的は、資金の調達にある。もう一つは、税である。収益、借入、投資、納税が会計情報作成の目的である。その点を忘れてはならない。

 資金調達の手段は、収益と借入(融資)、投資による。そして、それぞれに応じて会計上を作成するための基準が違ってくる。
 そして、会計情報の目的の根本は、収益を計る事、投資家に対する説明責任、借入をするための手段である。それと納税のための基礎資料の提供である。

 事業の継続を前提とするならば、長期的視野に立った会計情報の方が重要であるはずである。

 例えば、工場として使用している土地は、工場が操業している間は売れない土地である。地価の動向は、直接、操業に関わっているわけではない。ところが、含み益を抱えていることすら悪いという事になる。国は、その含み益に課税しようとすらする。
 そうなると本来事業とは直接関わりのない地価や株価の動向によって経営が左右されることになってしまう。

 何をもって不良債権というのか。何を基準として不良債権を判定するのか。不良債権と言ってもそれは視点によってその評価は別れる。

 短期的に見て不良債権でも長期的に見れば問題がない場合がある。創業期は、大体、不良債権である。

 問題なのは、事業に対する基本的な考え方、思想が確立されていないことである。

 経営というのは、長期均衡を目指しているのに対し、株価というのは刹那的だという側面もある。

 市場の機能は、交換と分配にある。競争は、手段であって機能、働きではない。市場が機能しなくなったのは、競争が機能しなくなったのではなく。資金が流通しなくなったからである。
 会計情報の目的は、市場競争に勝敗を付ける為にあるわけではない。株の相場の乱高下によって一喜一憂するのは、株が、勝負事のように思われている証拠でもある。会計情報の公正とは、何のための公正なのか、博打のための公正を言うのであろうか。

 金融危機は、短期利益、目先の利益ばかりを追求した結果だとも言える。市場が停滞した時は、長期的な展望に立った施策を採る必要がある。金融機関に関して言えば、そもそも金融機関の果たすべき役割り使途は何かが根本になければならない。
 経済情勢が悪化し、短期的に収益が悪くなって資金繰りが困っている企業に不足している資金を供給するのが金融機関本来の役割である。その前提は、長期的な展望に立った事業観である。利益を上げているときに不必要な資金を貸しておいて、それを、ただ儲かっていない、担保が足りないと資金を引き揚げるのは、犯罪行為である。だから、銀行は、晴れているときに傘を貸し、雨が降ってきたら傘を取り上げると揶揄されるのである。
 森羅万象、千変万化。変化は世の常である。万物は流転する。
 要するに、変化は、常態なのである。それは、時間が変化の単位であることに象徴されている。時が流れるところに、変化はつきものなのである。

 私的企業は、国家に対して責任を持ちきれるものではない。私的企業は、利益の追求を前提として成立している。利益が上げられなくなれば淘汰されるのである。その利益の質は、私的企業は、独自には、決められない。利益の質を保つのは、市場の仕組みや会計の論理である。

 市場の仕組みや会計制度が、社会や経済、市場の目的や役割と一致していないことが問題なのである。その根本にあるのは、国家目的であり、国家の役割である。国家の目的や役割を明らかにした上で、企業の社会的役割を基礎とした市場の仕組みや会計制度に改めるべきなのである。





                    


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