機能主義

期間損益の確立と機能の変化


 現代経済は、市場経済、貨幣経済の上に成り立っている。資本主義経済も例外ではない。そして、市場経済や貨幣経済が今日の体制を整えられたのは、時間的価値と機能の要素が制度的に確立されたことによる。一定の期間という概念が確立されることによって一定の機能が発揮されることが約束されたのである。

 市場は制御されなければならない。制御するためには操作されなければならない。操作するためには、仕組みが重要なのである。市場が制御装置を持たないという事は、操縦席のない飛行機のような物である。

 構造全体の維持、制御を考える上で重大なのは、個々の部分を構成する要素の働き、即ち機能である。構造を成立させるためには、個々の部分が持つ働きが重要なのである。
 この働きを重視した考え方が機能主義である。

 市場を制御するためには、市場の機能の基礎を成立させてい期間損益が、なぜ、確立されたのかを明らかにする必要がある。期間損益を成り立たせているのは、会計制度である。故に、資本主義経済は、会計制度の上で機能していると言っても良い。そして、会計制度が期間損益を要請したのである。

 資本主義と言っても元々は、当座企業を土台としていたのである。貿易商人が、貿易を通じて得た利益を一回一回清算していたのである。イギリス東インド会社も発足当初は当座企業であった。しかし、それでは面倒臭いしリスクも高いので、幾つかの航海をまとめて清算するようになった。それが、継続企業の始まりである。継続企業になったら、航海毎の利益をとのように評価すべきかが問題となった。そこから、期間損益の必要性が認められたのである。しかし、根本には、資本の配当と清算という思想は、残ったのである。
 また、株の譲渡、権利の譲渡が可能だったから、期間損益は成立した。この流動性というのが重要な要素の一つである。さもなければ、返済する義務のない資金を提供する者はいない。いるとしたら、親子、兄弟と言った運命を共有する人間くらいである。事実、資本関係というのは、同族関係を意味することは今でもよくある。

 資本主義経済は、期間損益によって成り立っている。この期間損益の上で機能していないのが、家計と財政である。それが、現代経済にいろいろなところで歪みを生じさせる原因となっている。
 故に、期間損益がなぜ確立されたのかを明らかにすることは、財政や家計の問題を解決することにも繋がる。

 期間損益が確立された理由の一つは、収支では、説明が付かない部分があるからである。特に多額の資金を必要とした場合において、単年度では、収支が均衡しなくなってしまったからである。また、適正な利益を計算する基準がわならないからである。
 そこで、初期投資された部分を一定の期間で償却して単年度の利益を計算することが考案されたのである。最初に投資された資金は、一旦資産に計上され、それを一定の割合で取り崩し、償却していく。それが費用性資産であり、減価償却費である。
 もう一つ重要なのが、初期投資に投入された資金の出所である。それが借入であれば、負債とし、投資であれば、資本に計上されるようになったのである。
 重要なことは、収入が、収益だけではなくなったという点である。つまり、収入は、負債や資本が含まれるようになった。そして、資本と負債、資本の収支は、貸借勘定として損益から切り離されたのである。
 この事の意味は、収入の中に、収益と区分された上で、借金によるものが組み込まれたことを意味する。現代の経営の資金の流れの中には、常に、負債による収入が働いていることを意味する。借金経営と言われる由縁である。借金による収入を想定しないと経営に必要な資金が廻らないことを意味するのである。期間損益、利益を土台にしてから、金融機関は、企業の死命を握ることになる。
 期間損益が確立される以前は、元手と収入の範囲内で商売をしていた。期間損益が確立されると、借金をすることによって資金をレパレッジすることが要求されることになったのである。
 期間損益が確立される以前の金融機関と以後の金融制度とでは、機能の本質が違ってきたのである。つまり、期間損益が確立する以前では、資金が不足した時に補ったり、為替取引が金融機関の役割であり、金融機関がなくても経営は成り立っていたのに対し、期間損益が確立し、借入による資金が経営上における不可欠な資源の一つになったという事である。つまり、金融機関からの資金の供給が途絶えると経営は成り立たなくなる仕組みになったのである。
 もう一つは、利益を計算する上で収益の相手勘定である費用に負債の元本の返済額が計上されていないという事である。つまり、資金繰り上において、重要な要素である元本の返済は、損益計算上に現れてこないことを意味する。その為に、資金の動きが損益計算上からは見えてこないという事である。
 また、税が利益を基礎にして計算されているという事と、利益は、経営資源に廻さず、外部、即ち、投資家、国家、経営者に分配されてしまうという事である。
 元々、収入に占める利益の比率は小さい上に、税金や配当という形で外部に流出してしまう。収入を経営資源に活用したくても活用できずに、負債や資本という外部資金に頼らざるをえないという事になる。儲かったからと言って資産を購入しても結局残ったのは、借金だけだと言う事になる。つまり、その分、利益を上げる必要性が低くなるのである。

 資本主義体制下では、最初に資金を調達した者が優位に立つ。早い時期に多くの資金を調達できるかどうかで勝負がつくと言っていい。その為には、自前のの資金だけ出にはなく。他人の資金をどれだけ多く集められるかが鍵を握る。つまり、基本的に借金、負債ができるかどうかが鍵を握っているのである。
 それは、国家も同じである。そうなると現金収支というのは、その時点時点の事業収益よりも借入とその為の根拠に重きが置かれる。
 特に、戦争は、多額の出費を伴い、資金の多寡によって戦争の結果も左右される。誠に、戦略とは算術なのである。しかし、戦争を遂行する者は、銭勘定を嫌がる。それ故に、軍費は、歯止めを失いがちである。戦争を抑止したければ、予算を抑えることである。
 また、今日の財政は、最初に予算ありきである。つまり、家計は、予め決められた所得を基本にして収支が立てられる。しかし、財政は、あくまでも不確定な予測の上に予算をたてて、それを執行する。始めに資金ありきなのである。そこに政治が介在すれば、つまり、政治的に、必要な資金を先に決め手から予算を立てるのであるから、財政が赤字になるのは、必然である。この政治的にと言うのが、また、曲者である。誰にとって、なぜ、必要なのかが、政治利権や既得権益に支配される危険性が高い。
 そして、支出には必ず返済がつきまとう。つまり、資本主義以前は、収入と収益、支出と費用は一致したものであったが、一旦、資本主義体制が固まると収入は、収益に資本や負債が加わった額となり、支出は、費用だけでなく、債務に対する返済額が加わるからである。この事によって市場にストックの部分が蓄積され、形成されていくことになった。更に会計制度や税制がストックの部分を補強、強化していく。そして、フローの部分がストックの部分の支配下に置かれるようになる。しかも、このフローは、必ずしも資金の流れを意味しているわけではない。損益上の流れを意味している。しかし、実際に企業を動かしているのは、現金収支である。故に、重要なのは、キャッシュフローの中に含まれる返済額の占める割合である。
 ところが、損益上にも、貸借上にも金利は、報告されるが、返済額は、報告されない。これは、最大の謎である。また、欠陥でもある。
 なぜならば、資金収支こそが経営主体の死命を決しているからである。最近、キャッシュフローが重視されてきた事情もその辺にある。
 借金、負債を負った者が有利なる。それが、現在の金融資本主義を支えている。負債を追った者は最初は有利になるが結局は、金融機関や資本家の支配下に置かれることになる。それは、実業の世界は、常に一定の返済義務を負わされるからである。

 現代社会は、借金を裏付けに成り立っているという点を見落としてはいけない。
 損益を基礎として成り立つ以前、即ち、収支を基礎としていた時代では、とりあえず、現金さえ残っていれば、生活が出来た。
 その時代の金融機関と言っても、所謂、金貸しであったのである。つまり、不足した現金を貸し借りしたに過ぎない。債権、債務と言っても直接的取引が介在して成り立っていた。故に、金さえあれば、事業は成立した。逆に、手持ち資金の範囲でしか商売は成り立たなかった。故に、小僧に対する賃金は、決まった物でなく。生活に必要なだけという事になる。それは、仕事ではなく、奉公であり、口減らしに過ぎなかったのである。
 それに対して、損益を基礎とした社会では、債権、債務関係を基礎としてそこから、損益計算をするのである。金融機関は、債権と債務と、所得と消費を別々にし、それぞれが生み出す時間的価値を経営の実体とみなすのである。
 この様に、期間損益が確立されることで、合理的な費用計算、即ち、費用対効果の測定が可能となり、賃金労働が確立されたのである。それによって、労働者の所得も安定したのである。ただし、この場合の賃金の計算根拠は、費用対効果でしかなく。属人的にものではない。
 つまり、損益というのは会計制度に基づいて導き出された概念に過ぎないのであり、収支とは別の物なのである。つまり、期間損益というのは思想なのである。問題は、体系的な理論の上に成り立っている思想ではなく。実務の上に成り立っている思想だと言うことである。
 現代金融機関は、債権債務を仲介する機能を果たしている。そして、現代経営の評価基準は、利益であり、現金ではない。この点が重要なのである。故に、いくら、収入が見込めても利益が上げられなければ、金融機関からの資金の供給が止められ会社は清算されることになる。つまり、経済や経営の土台にあるのは、債務なのである。その債務が、経済を経営を動かしていると意って過言ではないのである。故に、債務状態が経済を判断する上で重大となる。これは、国家経営でも同様である。

 市場経済が発達する以前においては、貨幣価値が生じるのは取引が成立した場合に限られ、所有するだけでは、貨幣価値は生じなかった。しかし、市場経済が浸透した今日、取引関係が成立していなくて、所有するだけでも債権、債務関係が生じる。

 戸籍や登記簿の整備は、近代税制度の前提となる。つまり、全国民の全ての資産は、国家に登録され、登録されることによって価値を生じる。同時に、登録されることによって貨幣価値を顕現化し、債権債務が生じる。

 支出は投資と消費になる。投資は、資産、消費は、費用である。資産は、貨幣的資産と非貨幣的資産に分類される。また、費用性資産と非費用資産とに別れる。
 収入は、負債、資本、収益からなる。負債と資本は、債務であり、収益は、取得である。資本は、返済する必要がなく、譲渡可能であるから、収益に近い性格を持つ、ただ、経営権のような定性的権利を持つ債務である。収益は、実現収益と未実現収益からなる。収益は、単価×数量によって算出される。

 負債や資本は、債権・債務関係を生み出し、資産の会計的な位置を確定する。収益と費用は、会計的運動を成立させ、損益を導き出す。

 費用性資産は、費用の塊(かたまり)とみなされ、減価操作される。それが減価償却であり、内部運動が費用処理されることによって顕在化される。これが期間損益の始まりである。

期間損益におけるフローとストック

 期間損益が確立される過程でフローとストックが分離された。フローとストックの部分が分離されることによってフローの部分とストックの部分が乖離したのである。
 そして、フローとストックが分離されることによっていろいろな問題が引き起こされている。

 ストックとフローの違いは、流動性の違いである。つまり、期間損益における単位期間を境にしてストックとフローは区分される。その一定の期間において現金に換算しうるか、否かの問題なのである。その時点に開ける貨幣価値を実現するためには、何等かの取引が成立しなければならない。それが市場経済の原則なのである。つまり、流動性というのは、取引を前提として成り立っている。

 流動性と固定性は、なにも、貨幣的分野だけの問題とは限らない。人事でも、物流でも、重要な問題である。それが、ストックとフローの問題になる。

 フロー、即ち、期間損益とは、現時点における貨幣価値を実現した収益と現時点における貨幣価値として発生した費用との差額である。ストックというのは、未実現利益、即ち、潜在的価値である。期間損益が実現できない時は、ストックの潜在価値を顕現化することによって利益を補完する。潜在的価値とは、取引が前提とされていない。つまり、ストックというのは、将来、取引が予定されている財を指して言うのである。
 期間損益は、本来は、長期的均衡の上に成り立つものであり、短期的には、不均衡に陥ることがよくある。

 債務超過というのは、債権の水準と債務の水準の均衡が崩れた状態である。債務の水準と債権の水準は、元々、相対的な水準であるから、一定の水準に保たれているわけではない。一般に資本は、資産価値、債権価値が、債務を上回った状態で均衡するが、その意味では、債務超過状態は、資本が均衡するのと同程度あり得るのである。それを予防しているのが、時間的価値である。

 ストックとフローの乖離とは、ストックの動きとフローの動きが必ずしも連動せず自律的な動きを見せる場合があるという事である。むろん、これは、現象面からの話で、ストックとフローは、構造的に結びついており、現象面では、ここ自律して見える運動でも、実際は、何等かの作用を相互に及ぼしあっている。重要なのは、その仕組みを割り出すことである。
 不良債権は、債務と債権の不均衡が原因である。債務と債権の不均衡は、必ずしも、経営上の問題によって引き起こされるのではない。
 為替や原油価格、地価の高騰、株価の下落などのような外部要因によって引き起こされることがある。ストックとフローの不均衡が経済の不均衡を招く原因となっている。その様な変動からいかに市場や企業を守るかが、政府の重要な課題である。

 ストックデフレとフローインフレ、ストックインフレとフローデフレ、ストックデフレとフローデフレ、ストックインフレとフローインフレの組み合わせがある。

 ストックとフローは、相関関係にある。故に、ストックとフローとの動きは、相対的に見るべきなのである。
 バブルは、フローに対しストックが異常に高騰した時に起こる。フローとストックが乖離した頂点で逆にストックの収縮が始まる。ストックインフレから、ストックデフレへと転換するのである。
 ストックが膨張する時、資産効果が、フローに影響を与えるが、それは、一種の躁である。根拠はない。ストックが収縮する時、逆資産効果が現れ、それが経済の土台にダメージを与える。それは津波のようなものである。

 潜在的価値とは、ストック部分にある。現金価値というのは、流動性がなければ形成されない。故に、ストックから現在価値を引き出すためには、ストック部分を流動化する必要がある。それが債権と債務を生み出すのである。

 潜在的価値は、市場に現れてはじめて効用を発揮する。故に、成熟した市場においては金融技術が発達するのである。しかし、それにも限界がある。収益に結びつかない限り、市場に現れた効用も利益に結びつかないからである。

 収益の水準、技術の水準、為替の水準などに関数であり、費用水準は、為替の水準、原油に代表される原材料の水準、在庫の水準、物価の水準などの関数である。
 この様な収益や費用は、内部要因だけに左右されるのではなく、むしろ外部要因左右される部分が多くある。

 先ず、収益水準は、頭打ちになる。それに対し、費用水準は、物価上昇分、上昇し続ける。その上昇分を補うために、資産価値の上昇部分は、表面化させる。その為に、資産水準が上昇する。しかし、資産水準の上昇は、未実現利益であるから、現金収入の裏付けがない。その為に、債務水準が上昇する。債務水準が上昇すると資産の上昇分で収益の不足分を補填できなくなる。その結果、債務超過状態に陥るのである。そうすると金融機関は、融資を渋るようになる。この様にして実体経済に資金が廻らなくなる。
 そうなると、金融機関は、金融市場で利益を上げようと画策する。

 また、家計でも所得水準に対し、経費の水準が上昇する。また、不動産や耐久消費財の需要が高まり、同時に、借金の技術が向上する。その為に、家計も借金による収支を前提として組まれるようになる。一度、負債が組み込まれると借入を前提とした生活になる。そして、月々の返済が、可処分所得を圧迫しだす。失業や急な出費などで所得が減るととたんに生計が成り立たなくなり、借金に依存した家計に陥る。

 肝心なのは、適正な収益水準と所得水準が維持されることを前提としており、しかもこの水準は、時間的価値を前提としていなければならない。そのうえで、企業も家計も投資水準を考慮しなければならない。

 収益の水準は、価格の水準である。
 最も危険なのは、価格水準の乱高下である。価格水準というのは、飛行機で言えば、気圧のようなものである。エアーポケットのようなところに落ち込むと乗客が危険な状態になる。乱急流にもまれて安定して飛行ができなくなる危険性がある。
 価格の乱高下は、経営の安定を著しく損なう上に、資金の供給を危うくする。適正な価格維持こそ重要なのである。

 価格に関しては、ただ安ければいいと言う認識がメディアを中心にある。安売りが全て悪いとは言わないが、以上に安い価格というのは、それなりの理由がある。不当な廉売は、市場の規律を乱す原因となる。目玉商品として、原価を割って販売されれば、製造元の信用を著しく傷つけることにもなる。また、長い目で見れば結局消費者にツケが廻されることにもなる。
 それもこれも、適正な価格という発想が欠如している。その為に、乱売合戦に陥り、適正な価格が維持できないという事態を招く。何でもかんでも競争させればいいと言うのは短絡的な発想である。安ければいいと言うのは、あまりに単純すぎる。

 適正な価格が維持されていれば利益は上がるのである。なぜ、適正な価格を維持しようとすると咎められるのであろうか。利益が確保されなければ、雇用も維持されないのである。また、税金も集まらなくなる。儲けることは悪い事ではない。ただ、不正な行為をして儲けることは不正義である。
 適正な価格水準が維持できないから企業も、家計も、財政も、赤字などと言う事態が起こるのである。企業は、適正な利益を維持することによって雇用を守り、取引業者に適正な対価を支払い、金利を支払い、納税をすることができるのである。
 利益が維持できなくなれば、人員の削減、下請け苛めなどが起こり、赤字になれば不良債券化し、納税もできなくなる。

 債務が増大して債権の流動性を圧迫し、その為に、資金が循環しなくなった場合は、収益を維持して利益で、債務を解消する必要がある。その為には、競争を抑制して、収益の水準を維持する必要がある。ただ、価格を強権的に維持しようとすると市場が機能しなくなるから、市場の側に価格を維持できる仕組みや規制を組み込む必要があるのである。

 適正な価格というのは、その商品に費やされた労働量に比例した価格である。つまり、適正な分配を可能とする額である。

 また、収益や費用の水準は、市場間、国家間の比較が重要である。そして、それに応じて、適正な処置がとられるべきなのである。市場は全てを決定付ける場ではない。また、過重に市場に対し期待すべきでもない。

 この様な利益水準は、企業の内部要因だけでは均衡しない。それ故に、潜在的価値をいかに流動化し、収益に組み込むのかが重要な要素となる。

 フローとストックが分離されることによって自前の資金、資産によるのと借金をした場合とでは、本質的な差が生じにくくなった。
 借金をしても自前でもフロー上は変わらない。むしろ資金を多く集めた者の方が初期投資が大きい分だけ優位に立てる。そうなると重要なのは、資金を多く集めることであり、資金を多く集めた者が有利になる。償却資産は、費用となるし、非償却資産は、損益上、金利部分しか現れてこないからである。
 そうなると、借金をした方が商売上、優位に立てる。故に、借金儂たものが勝つのである。しかし、借金をすると、その後、返済に追われるようになる。

 ストックとフローが分離される以前、即ち、近代会計制度が成立する以前は、自分の土地に店を建て、残りの現金の範囲内で商品を仕入れ、細々と商売をしていた。また、原材料を仕入れてきて家内で製造できる仕事をやってきたのである。しかし、資金が集められるようになると初期投資に資金を投入することが可能となった。そこから、大量生産時代が到来するのである。

 ローンが発達したから生活が豊かになった。それは、経費の後払いによって効用を先に受け取ることが可能となったからである。しかし、それは、借金に生計が支配されることを意味する。債務というのは、両刃の刃みたいなものである。

貨幣と循環作用


 金は天下のまわりものと古来言われる程、「お金」は、循環してはじめて効能を発揮すると信じられてきた。

 回収率=倍率(レバレッジ比率)×回転率×時間価値は経済の基本式である。回転というのは、経済の速度である。回転は、経済の基本運動であり、経済の循環を生み出し、循環は回転運動となる。回転は、経済の原動力であり、回転運動によって経済は動くのである。

 百年に一度と言われた2008年、リーマンブラザースの破綻に端を発する金融危機は、金融機関の経営環境の変質が背景にある。金融機関、本来の収益源である金利による収益が見込めなくなった金融機関が、倍率と回転率を高めることによって金融市場において資金の効率を高めようとしたことが根底にある。
 金融機関にとって預金は、借入と同じなのである。借入だから、預金によって得た資金を
運用しなければならないのが金融機関なのである。資金が回転しなくなったら、途端に金融機関は、破綻してしまうのである。
 金融危機で最大の問題は、資金の循環が止まってしまうことなのである。現実に、インターバンク内での資金の流れが止まったことが最大の危機だったのである。

 金融機関は、資金の循環を司っている。いわば、市場の循環器官である。金融機関が立ちいかなくなれば、資金は循環しなくなり、市場は機能不全に陥るのである。

 我々は、生まれた時から貨幣経済の中で育っている。その為に、かえって貨幣の持つ意味や役割が見えなくなっている。現代の経済を理解するためには、貨幣の持つ意味を改めて認識し直す必要がある。
 貨幣は、交換手段である。交換手段と言うだけならば、我々でも貨幣を作り出すことはできる。現に、私的な意味で、貨幣を代用していると見られる物は、結構ある。例えば商品券などは好例である。しかし、それは、一部に流通しているだけで、正式な意味では貨幣とは言えない。貨幣には、単に交換の手段と言うだけでなく。それに付加された機能が隠されているのである。その第一は、貨幣は、社会的、或いは、国家的な仕組みの一つだと言う事である。つまり、貨幣は、構造的な基準だともいえる。

 市場経済で問題になるのは、インフレーションとデフレーションである。そして、何れも貨幣的な現象である。故に、貨幣と貨幣の働き、動きを理解する必要があるのである。
 貨幣は、いわば、経済における血液のような存在である。貨幣が貨幣としての働きを維持するためには、貨幣は、常に循環していなければならない。
 故に、貨幣制度においては、貨幣を生み出し、循環させる仕組みが重要になるのである。

 貨幣を成り立たせている仕組みを明らかにするその前に、貨幣とは何かを、明らかにしておく必要がある。

 第一に、貨幣は、交換手段である。つまり、交換する行為、交換する物、交換相手を前提としなければ、貨幣は成り立たない。交換する行為とは、取り引きであり、交換する物とは、財であり、交換相手とは取引相手である。
 そして、交換という行為は、貨幣の流れとその逆方向の物の流れを生み出す。

 財があっても貨幣がなければ、取り引きは成立しない。それが貨幣経済の鉄則である。故に、需要は、交換手段がどれ程、浸透しているかによって左右される。
 その為に、不況の時に公共事業が有効なのである。

 第二に、貨幣は、交換価値を表象した物だと言うこと。ただ、今日は、この物が情報に置き換わりつつある。つまり、表象貨幣の本質は情報だと言う事であり、貨幣の流れは、情報の流れを意味していると言える。

 貨幣は、交換価値を表象した物だという事である。故に、貨幣の働きを理解するためには、交換価値の働きを理解する必要がある。交換価値の重要性は、交換は、専業を促し、分業を深化させる働きがあることである。
 交換価値には、補い合う作用があり、これが専業を深化させるのである。

 また、物から情報への変化は、革命的な変化だと言う事を念頭に置いておく必要がある。
 なぜ、革命的であるかというと、貨幣は、物としての性格を持っていたが、そのものとしての性格が失われるか、変質するからである。
 先ず、物としての性格は何かというと第一に、有形だと言う事である。つまり、目に見える形があるという点である。第二に、質量、密度を持つ。即ち、大きさや重量を持ち、その運搬や保存に物理的、空間的な要素を必要とするという事である。第三に、移動に時間がかかると言う事である。
 それに対し、情報とは、無形であるという事である。貨幣が数値や信号という無形な物になることによって目に見えない動きが増えることになる。情報は、瞬時に移動することができる。
 これらの変化が、経済の持つ、物理的、時間的特性に変化を与えるのである。それは、市場の持つ機能を根底から変えるだけの影響力がある。

 第三に、所得とは、貨幣を獲得する、つまり、交換所得を得ることである。そして、所得は、何等かの対価である事が前提となる。
 所得とは、交換手段、即ち、貨幣を獲得することである。その交換手段の獲得のためには、何等かの交換対象を前提としている。つまり、所得を得るためには、対価を必要とする。
 なぜ、何等かの対価として支払われなければならないのかといえば、それは、貨幣が交換手段であり、交換する物と交換相手を前提としているからである。
 この事は、単純に貨幣をばらまけばいいという発想では、貨幣の機能は発揮できないことを意味している。そこで重要なのは、所得は、労働や財の対価として支払われなければならないと言う原則である。
 ヘリコプターから貨幣をばらまけば景気が回復するというのは幻想に過ぎない。また、施しとして金をまいても一時的な効果に過ぎないという事を意味している。戦争のような破壊的行為は、当事国の経済に壊滅的な打撃を与えるだけである。

 貨幣は、本来、価値のない物に価値を付与するものではない。交換する必要ない財は、貨幣的には無価値なのである。

 多くの仕事があって市場は有効に機能するのである。仕事がなくなれば、市場は、機能しなくなる。ある意味で市場は、非効率を好むのである。生産性の効率ばかりを計って、仕事をなくせば、市場は、すかすかになる。密度が薄くなるのである。

 第四に、貨幣価値は、相対量だという点である。貨幣を絶対量と捉える者がいるが、それは間違いである。貨幣は、元々、交換を前提としている。交換は、財と財との比較の上に成り立つ行為である。故に、貨幣は、相対的な量である。
 しかも、貨幣価値は、何等かの物理的な単位に基づく尺度ではなく。市場取り引きの結果に基づく、相対的尺度だと言う事である。即ち、単位は、一定でなく、常に、市場の状況によって伸縮しているのである。

 貨幣は、無制限に流通すれば、貨幣としての機能を失う。貨幣制度は、制限、制約があるから成り立つのである。

 金本位制から離れ貨幣が不兌換紙幣になり金による制約は受けなくなったが、税収という制約はある。

 通貨量は、収入と借入を基盤としているから抑制できるのである。政府紙幣のように税にも借入も基盤としていないような貨幣は、抑制することができない。

 第五に、経済体制には、全体があって、市場も貨幣もその経済体制の一部である。貨幣は、手段である。貨幣、金が全てではない。貨幣は、支払(交換)手段、貯蓄手段、決済手段である。貨幣は、手段であって、貨幣そのものが価値を持っているのではない。価値を持つ実体は、貨幣が指し示す財である。

 金には、万能の力はない。金があれば何でも手にはいるというのではない。金は、金の価値を認める者がいてはじめて成り立つ。貨幣は、取り引きの手段に過ぎないのである。
 
 何もないからインフレーションになる。物が溢れているからデフレーションになる。実在する財を無視しては、貨幣経済は成り立たない。いくら金があっても交換する財がなければ、取り引きは成立しないのである。ただし、インフレーションもデフレーションも貨幣の振る舞いによって起こる貨幣的現象である。
 金融市場は、その財そのものが無形で、観念的な物、即ち、人間の意識が創り出したものであり、その財の価値は、仮想的な価値である。

 貨幣市場の規模は、財の市場の規模によって規制されている。故に、財の市場の規模を上限とする。財の市場を上回る貨幣の量は、過剰流動性の原因となる。インフレーションもデフレーションも実物市場の規模に対する貨幣市場の伸縮によって引き起こされる現象である。

 公営事業は、無限の資本を前提として収益を考えている。それ故に、財政の規律は保たれないのである。我々が活用できる資源は、有限である。それを前提とし、それに見合った貨幣の量を維持することが経済を安定させることになる。収入を考えない支出、生産を考えない消費、需要量と関係のない供給と言ったことが経済の混乱の本なのである。

 公共事業に投下できる資金には限界がある。その限界は、国民総生産、国民総支出、国民総所得と国家収入との関係から導き出される。

 通貨の流量は有限だという事である。また、貨幣は、有限であることを前提として成り立っている。つまり、無限に開かれた量ではなく、一定の範囲に閉ざされた量だと言う事である。

 なぜ、税が必要なのか。また、政府が直接紙幣を発行しない方が良いのか。貨幣は、循環させる必要があるからである。税をなくし、紙幣を政府が直接発行することは、貨幣を、一方通行的に垂れ流すことを意味する。それでは、紙幣を回収する術がなくなると同時に、貨幣の量の制限がなくなる。それは、貨幣価値の相対性を失わせると同時に、貨幣の政府による信認を失わせる結果になるからである。限界がないという事は、価値がないというのと同じなのである。
 貨幣制度においては、発券と同じくらい回収も重要な意味がある。回収とは、決済を意味するからである。そして、この信用の創出と決済という機能を果たすのが金融制度である。

 第六に、何等かの単位に基づく尺度だと言う事である。それは、交換を必要とする財を結び付けられることによって機能を発揮する基準だと言う事である。貨幣は、貨幣単体では成り立たない。貨幣は基準、尺度なのである。秤(はかり)は、測る物に依存して成り立つ。そして、それは何等かの単位を前提としている。単位を前提とするという事は、単位を構成する基準が存在することを意味する。現代は、為替基準が単位となっている。つまり、貨幣が貨幣の基準となっているのである。貨幣間の相対的価値が貨幣の基準単位なのである。

 貨幣は、貨幣価値を実現した物である。それが、現金である。貨幣そのものが価値を持つのではなく。貨幣が指し示した財の現在的価値を実現している物にすぎない。貨幣は、貨幣価値の尺度である。

 貨幣価値は、還元主義的なものである。対象から価値を抽象化し、量に還元したものである。
 価値を貨幣価値に還元する事によって、土地や食料、サービス、時間、音楽と言った質の違う財の価値を足したり、引いたり、掛けたり、割ったりすることが可能となる。

 第七に、表象貨幣の素材の価値ではないという事である。表象貨幣は、一種の情報であり、情報を伝達する媒体である。その媒体となる物が必要とされなくなれば、表象貨幣は、純粋の情報になるといえる。

 表象貨幣価値には、実体はない。会計制度は、表象貨幣価値を基とした制度である。故に、会計制度には、実体はない。企業は、会計制度の上に成立した機関である。故に、企業に実体はない。その証拠に企業は、清算されると債権と債務以下、跡形もなく消滅する。それが、資本主義経済の前提である。

 紙幣は、証券の一種である。故に、紙幣は、証券としての属性を持っている。また、紙幣の証券としての属性が、所謂、実物貨幣との違いでもある。
 証券を構成する要素は、第一に、紙、或いは物、第二に、権利(価値)を保証された物だと言うことである。第三に、その価値を証明されている。又は、何等かの主体、権威によってその価値が証明されている物である。第四に所有権の移転できると言うことである。この様な紙幣は、信用制度を基盤として成り立っている。

 第八に、万遍なく浸透している必要があるという事である。貨幣社会化成り立つためには、貨幣が、社会の隅々まで行き渡っていることが前提となる。なぜならば、交換を前提として成り立つ国家は、交換手段を全ての国民が持っていなければならないからである。つまり、交換手段を持つことは、国民の権利であり義務でもある。

 分配が市場を通じて効率よく行われる為には、通貨が、ある程度、均等に分配される必要がある。通貨の遍在は、分配に不均衡を生み、市場の働きの効率を悪くする。

 格差は、支払手段である貨幣の分布に偏りを生み出す。この様な偏りは、財の物量に歪みをもたらし、経済活動を停滞させる。特に低所得者の消費構造は、生活必需が占める割合が大きい。生活に必要な財の最低限の量を下回るようなことになると需要が弱まり、需給の均衡が崩れ、社会全体の生産性が低下する。また、社会秩序を保つことが困難になる。

 市場経済が発達する以前は、交換ではなく、分け合うこと、つまり、分配が経済の中心であった。分配は、主として共同体内部で組織的に行われた。

 故に、共同体内部では、交換手段は必要とされていなかった。あるとしたら、感謝の気持ちである。それは、最近まで、身近にあった。金ではない。金で評価できない。金にしたら意味のない行為が存在したのである。愛や信仰に基づく行為が典型である。これらの行為は、何物にも変えがたい行為だという意味がある。
 特に、共同体への奉仕は、無料であり、無料だから認められるという事である。それが公という思想である。この公と私の分離が不明確に成りつつある。それが共同体を崩壊へと導いているのである。

 市場経済が発達する以前は、一方に、必要な物が手に入らずに困っている者がいて、他方に、その物を持つ者がいれば、持たない者に持てる者が、必要な物を分かち合い、助け合ってきた。
 しかし、一度、貨幣が浸透すると、例え者があっても交換手段である貨幣がなければ、交換しない。又は、交換できない。それが不況の原因にもなっているのである。
 2008年のサブプライム問題も、一方に家を欲しがる者がいて、片方に、余剰な住宅があったとしても、それらを分配する手段がないという、おかしな現象なのである。

 第九に、現在通用している貨幣は、表象貨幣である。表象貨幣は、信用を裏付ける物が前提となることである。つまり、紙幣は、信用貨幣でもある。
 国民の権利であり、義務である交換手段は、国家によって保証される必要がある。それは、国家が貨幣に信用を付与することである。

 生産財は、有限である。消費者も有限である。市場の範囲も有限である。そして、貨幣価値は交換価値である。通貨の量も有限である。故に、無限な基準に信用を付与することはできない。即ち、貨幣価値の総量は有限である。貨幣価値は閉ざせれたかちであり、循環することによって成り立っている。
 自分に自分の信用を付与することはできない。故に、通貨の発行権を持つ主体と通貨に信用を付与する主体は、個々独立した主体である必要がある。
 行政府が通貨を直接発行することは、通貨の信認を危うくする。

 貨幣は投入した以上には増えない。なぜならば、貨幣を発券する権限は、発券銀行にしかないからである。貨幣は、増殖しないが、貨幣価値は増殖する。貨幣価値を増殖するのは、時間と信用である。

 資金が投入され、時間価値が信用によって加えられる貨幣価値が増殖される。貨幣が核となって信用価値を生み出している。その鍵は時間にある。

 実物貨幣の時代は、貨幣は、その時点その時点の決済の手段であった。しかし、信用貨幣の時代になると、貨幣価値には、時間軸が加わり、信用を創造するようになった。信用を創造することによって貨幣価値を何倍にも増殖することが可能となったのである。

 第十に、貨幣は、環流する事によって機能を発揮する、価値を実現するという事である。貨幣は、退蔵されてもその価値を発揮しない。

 資金は、循環した範囲内で需要を喚起する。言い換えると、需要は、資金が循環し範囲内でしか喚起されない。金融市場でしか資金が循環しなければ、金融市場内でしか需要は喚起されない。資金が周辺の市場に流れて始めて、金融市場の外部の需要を喚起できるのである。
 これは、公共投資や公的資金を活用する際に充分に考慮すべき点である。
 公共投資や公的資金を活用した時、資金が流れる範囲がどこまで及ぶかが政策の効果が及ぶ範囲だと言う事である。

 貨幣には、内部貨幣と外部貨幣がある。内部貨幣とは、内部流通貨幣でもある。

 いくら貿易収支が改善しても国内に資金が循環していなければ、景気が好転したとは言えない。いくら企業収益が良くなったといっても利益が社員や関係者に還元されていなければ企業業績が良いとは言えない。家計において、いくら資産価値が上がったとしても収入や可処分所得が改善しなければ、豊かさは実感できない。

 通貨の流れには、方向と量と力と速度がある。流れの方向は、債務と債権の働きによって決まる。また、財の流れと逆方向に流れる。通貨の流れが財の流れを促す。

 貨幣を機能させるための仕組みを考える場合、単純に貨幣をばらまけば良いという仕組みでは駄目だということが解る。垂れ流し状態では、貨幣は機能しない。それは、貨幣が交換手段だからである。そして、ある全体の一部を構成するという性格を持つからである。即ち、貨幣は有限な量を前提として成り立ってると言う事、相対的基準だと言う事である。また、貨幣が情報機能を持ち、フィードバック機能を持つ必要があるからである。つまり、貨幣は、血液と同様、回収されることを前提として成り立っているという事である。

 景気は、需要側からも、供給側からも、市場からも、制御されなければならない。需要を喚起するために、公共投資を行うのも有効な手立てではあるが、万能の手段ではない。また、公共投資には一時的な効果しか望めない。
 需要(消費)側を調整するよりも供給(生産)側を調整する方がより確実で効果的である。また、市場の規律を取り戻すことが企業の収益を改善するための重要な基本的手段である。

 公共事業は、生産者、供給者側から資金を投入する手法であり、減税は、需要者側から資金を投入する手法である。金融機関に資金を注入しても、金融機関の破綻は防げるかもしれないが、実物市場に即資金が廻るわけではない。

 景気の動向を決定付ける要素は、消費意欲と財と通貨である。つまり、人、物、金、それぞれの要素が相互に作用することによって景気の動向は形成される。
 それぞれの要素か過剰か、一定か、不足しているかによって景気の状態は、左右される。財の性格によっても違う。
 例えば、必需品で消耗品が不足し、通貨が過剰な場合、消費意欲は衰えないから、インフレーションが発生する。量が一定で通貨が不足しても他に節約できる財があれば、インフレーションになったとしてもハイパーインフレーションになる可能性は小さい。ただし、情報の流れ方次第では、インフレーションが加速する危険性はある。

 人間は、感情の動物である。人間は、不合理な存在である。人間には欲がある。その欲が人間の行動に重要な影響を与えている。人間は、理性で判断し、感情で決断する。この様な人間性を、現代の経済学は、無視している。
 人間は、自己実現を求めて生きていると言うことである。人間には感情があり、誇りがある。そして、認められたいという欲求がある。その欲求が経済の原動力である。
 この様な衝動によって人間の経済的行動は、左右される。だからこそ、人間の行動を一意的に予測するのが難しいのである。しかし、反面、人間の行動の傾向や方向性は、ある程度予測することは可能である。その為には、経済は、人間性に重きを置く必要がある。その人間性を現代の経済学は無視している。それが現代経済の病巣である。人間は物ではない。人間を人間として認識しない限り経済は理解できない。

 企業の寿命、三十年という説がある。あながち根拠がないわけではない。現在の会計制度に従えは、企業は、三十年くらいで寿命が尽きる。その寿命を延命するのは、多分に会計操作である。

 第一に、人件費の高騰がある。高齢化が進むことによって企業の人件費は高騰する。年齢や勤続年数が増えるのに従って生産性が向上するかというと必ずしも生産性は向上すると言い切れない。むしろ、ある年齢を境にして生産性は低下すると言っても良い。
 第二に、技術革新である。技術革新は、企業が蓄積した知識や、設備、技術を陳腐化し無価値な物にしてしまうからである。
 第三に、設備の寿命である。そして、それに伴う設備の更新である。更に、償却不足である。減価償却費というのは、償却資産の費用化であるが、それが設備の老朽化の速度、借入金の返済の速度との間に不適合があり、資金の流れと必ずしも一致していないという事である。それが、運転資金の調達と運用の周期に微妙な影響を与えている。この影響も順調に企業が成長拡大しているうちは良いが、成長が低下したり、横這いになると致命的な影響を及ぼすことがある。

 未実現損益の問題がある。未実現損益というのは、資金の流出入のない損益である。つまり、未実現損益とは、会計が、取り引きを前提としながら、取り引きによらない損益なのである。

 第四に、長期借入金の返済である。長期借入金の元本の返済が、長期的に資金繰りを圧迫し、景気の節目で資金ショートを引き起こすことである。俗に言う、資金繰り倒産、突然死の原因である。

 以前のように、土地を、財産を購入する感覚で購入すると失敗する。それは、現行の複式簿記を基礎とした会計制度は、債権と債務の均衡を前提とし、土地の購入のために借り入れた資金の返済は、損益上のどこにも表れてこないからである。それでありながら、売却益は、収益に加算されてしまうからである。故に、資金繰りを恒常的に圧迫し続ける原因となる。

 よく地価の下落によって借金が返済不能に陥ると言うが、地価の下落と伴に返済不能に陥ることが問題なのである。
 返済額が収益の範囲の中で納まっているのならば、問題はない。地価の下落と伴に、返済不能に陥るという本来の意味は、地価の下落に伴い、収益が減少したことを意味しなければならない。ところが、多くの場合、収益は減少していないのに、返済が滞る事態が生じる。それは、当初予定していた返済計画と違う要素が加わるからである。一つは、返済額、返済計画の変更である。もう一つは、返済計画が収益以外の収入に頼っていたという事である。
 大体、返済が滞らなければ、本来問題はないはずなのである。ところが、将来返済が滞ることを想定して早期返済を強制するのが、俗に言う貸し剥がしである。また、新規の借入を渋るのが貸し渋りである。この様な行為は、経済原則や倫理に反する行為である。それ故に、貸し剥がしや貸し渋りは、景気に悪影響を及ぼすのである。
 いずれも元本の返済が絡んでいる場合が多い。

 企業は金持ちにはなれない。なぜならば、企業は、実質的に現物を所有することができないからである。企業が持っているのは、所有権という権利である。また、企業の手元現金は、想像以上に少ないのである。
 複式簿記では、企業が所有するのは、権利であり義務、責務である。即ち、債権と債務である。そして、債権と債務は、取り引きが成立した時点で常に均衡している。企業を清算すると言う事は、債権と債務を清算すると言うことである。企業が清算されると権利と責務以外は何も残らない。つまり、企業というのは、物的実体を最初から持たない組織、経済的機関なのである。
 つまり、正と負の資産は、常に均衡され、相殺された状態にあるのが企業の実態である。企業は、情報に過ぎないのである。
 そして、貨幣は、使われてはじめて機能を発揮する。貯蓄されている貨幣は、その位置によって権利としての効力を持つが、それは潜在的な力に過ぎない。その意味で、企業は、手持ちの現金の残高を増やしても経営効率は良くならない。かえって悪化するのである。それが流動性の問題である。
 自分がいくら金を持っているかの問題ではなく。いくら使ったかの問題なのである。

 第五に、成長と成熟の分岐点である。

 現在の会計制度は、企業の継続を前提とした仕組みから株主価値の極大だけを目的とした仕組みに変質したのである。
 老舗企業の多くが淘汰されつつある。

 過当競争から独占、寡占への変化は不可逆的な変化である。国家権力のような力による介入がない限り、独占や寡占体制は妨げられない。

 経済を成り立たせているのは、何等かの差である。差によって貨幣や物の流れが生まれるからである。経済的価値とは、その差の持つ意味をどう評価することにある。
 差が小さくなれば、経済活動は、低下し、停滞する。差が大きくなれば、経済活動は過熱する。差が固定的なものになれば、換えって貨幣や物の流れを阻害する要因となる。

 キャッシュフローが流行っているが、キャッシュフローが重要なのは、何も企業だけではない。国家経済においてもキャッシュフローは、重要である。
 資金は、量だけでなく、方向性も重要である。

 経済の実態を明らかにするためには、収益と言った外形面だけに注目しても不十分である。重要なのは、通貨の流れである。通貨の流れる方向と量である。

 通貨は、循環することによって機能を発揮する。(電気が環流しなければ、電力を発揮しないようにである。)貨幣は環流する事によって機能を発揮する。流れる事が重要な要素なのである。つまり、一方向に対して流れたり、部分的に流れるだけでは機能しないのである。

 債権と、債務が発生すると同時に取り引きが成立した時点の貨幣価値が実現する。それを物質化したのが貨幣である。現在は、その物質かされた物が情報化されつつある。その貨幣が流れる方向が問題なのである。

 土地を購入すると土地の所有権という債権が生じるのである。そして、土地を購入するために調達した資金は、債務を生じる。調達された資金は、地主に支払われる。ここで注意しなければならないのは、土地を購入する資金は、どの様な形で調達されても複式簿記上は、債務を派生させるという事である。つまり、費用処理されないという事である。

 金融機関から借入をして工場用地を購入した場合、資金は、元の地主の所得となり、土地は、金融機関の担保に取られる。投資家から資金を調達した場合でも土地は、資本である。土地は、資産価値を持つと言っても売却しなければ、実現しない。門生町の資産は、原則的に稼働中は、売却を前提としていない。つまり、企業というのは、媒体としての実体しか持たないのである。所得は、支出と蓄えになり、蓄えは、金融機関に回収される。また、支出は、消費と投資となる。
 また、借入金は、一定の期間おき決められた額を返済されなければならない。貨幣が生み出す与信というのは、貸出、借入が成立した時点が頂点であり、時間と伴に減少していく。
 つまり、返済が始まると資金の流れは、逆方向の流れになるのである。

 実物市場から金融機関へと資金は、環流するのである。この環流によって物流が起こり分配という機能が働くのである。

 資本市場や金融市場は、資金の流れが双方向に発生する。実物市場と違い、資本市場や金融市場は、貨幣対貨幣、或いは、貨幣対貨幣と同等物、貨幣対金融商品と貨幣、或いは、貨幣と同等物の交換を前提として市場である。

 その点が実物市場との相違である。実物市場は、資金の流れの反対方向に物の流れ、物流が生じる。
 それが、貨幣が経済の物の流れを促す作用である。その作用によって物の流れと分配を制御するのである。
 しかし、金融市場や資本市場は、貨幣が貨幣の流れを加速する働きを持つ。金融市場というのは、貨幣の働きを蓄積し、力を充填する場でもある。所謂(いわゆる)、経済の心臓部でもある。
 ただ、金融市場や資本市場は抑制を失うと自己増殖する危険性を常に孕んでいることを意味する。

 おかしな話だが、財政赤字を問題とする場合、財政赤字と経営赤字とを混同している事が多い。財政赤字というのは、現金主義、即ち、収支上の赤字であるのに対し、経営赤字というのは、実現主義、即ち、損益上の赤字である。根本の思想も計算方法も違うのである。
 現金収支で赤字になれば経営は、即、破綻する。ただ、財政の場合、国家収入を土台にしているわけではなく。税収を基礎としている。その点が見逃されている。

 国債の問題も発行額ばかり問題にして、返済額、償還額、回収額を問題にしていない。つまり、資金の流れる方向を問題としていない。発行高だけでなく、国債がどこに蓄積され、実際にどれだけ流通しているかが重要である。国債が通貨をどの程度増殖したかが実際に経済に与える影響なのである。

金融の仕組み


 貨幣的市場を考える上で重要なのは、貨幣が流通する経路である。どの様にして、貨幣は、生じ、どの様にして市場に流れていくのかの仕組みである。

 金融制度の役割とは何か。
 第一に、貨幣の役割の本質は、交換手段だと言う事である。市場の問題は、交換機能が上手く機能しなくなることで生じるのである。
 そして、市場経済では、生活に必要な物資は、市場から調達せざるをえないという事である。また、交換に必要な貨幣が、市場に流通していることが前提となる。そして、貨幣を分配する仕組みの存在が前提となり、また、貨幣の持つ価値が市場の信認を得ていることが前提となる。

 また、貨幣的(金的)市場は、金融市場を土台にして成立している。金融制度は、貨幣的(金的)市場のインフラストラクチャー、基盤である。つまり、金融制度の目的は、貨幣の働きを目的にそって正常に発揮させることである。

 金融市場が成立する為には、第一に、一定量の貨幣が、市場に流通している事。第二に、貨幣が市場に循環している事。第三に、貨幣が、消費者に行き渡っている事。第四に、貨幣価値が信認されている事。第五に、貨幣価値が安定している事である。

 故に、金融制度の役割は、第一に、貨幣を発行し、市場に一定量の貨幣を流通させる事。第二に、貨幣を市場に循環させる事。第三に、貨幣を生活者に万遍なく行き渡らせる事。第四に、貨幣価値の信認を維持し、貨幣が有効に機能するような環境を整える事。第五に、貨幣価値を安定させる事である。

 金融制度の役割を果たすためには、貨幣が流通し、循環する過程が重要となる。貨幣が市場で働く個々の過程の局面で、いかに、貨幣の量と働きを制御するかが、金融制度の役割を有効たらしめるかを決めるからである。つまり、金融制度は、貨幣の流通する過程と、貨幣を流通させる仕組み、そして、貨幣の働きが鍵を握っているのである。

 貨幣が流通する過程は、第一に、発券がある。第二に、市場に対する供給がある。第三に、配分がある。第四に、循環がある。第五に、回収がある。第六に消却がある。
 そして、貨幣市場を構成する要素には、第一に発券機関がある。第二に、供給機関がある。第三に、配分機関がある。第四に、貯蔵機関が必要となる。第五に、消費機関がある。第六に、回収機関がある。第七に、消却機関がある。

 重要なことは、金融制度の基幹的な部分である金融機関や財政機関は、実体的、直接的生産手段を持たないという事である。金融機関や財政当局は、サービス機関だと言う事である。

 金融危機は、金融市場が正常に機能していない事が原因である。金融市場が正常に機能しないのは、目的と手段、当事者の現状認識の不整合にある。貨幣を流通させるどの局面、また、仕組みのどの部分で、貨幣の流量や貨幣価値の水準をどの様な手段で制御するかが重要なのである。また、通貨の状態をどの様に、何を基準にして監視するかが鍵を握っているのである。

 金融制度では、貨幣が決定的な役割を果たしている。金融制度が成り立つためには、基本的な前提がある。
 故に、貨幣の本質と金融制度を成り立たせている前提に基づいて金融制度の役割を明らかにする。

 また、貨幣の働きを引き出す要素として、金利が重要な役割を果たしている事を忘れてはならない。

 貨幣には、交換手段以外に、支払手段、受取手段、貸付手段、借入手段、決済手段、分配手段、貯蓄(保存)手段と言った手段がある。

 金利は、交換、支払、貸付、借入、決済、分配、貯蓄(保存)の各局面で重要な働きをしている。

 金利の働きには、第一に、資金循環の促進。第二に、投資の誘因。第三に、決済の促進。第四に、貯蓄の動機付け。第五に、時間的価値の形成がある。これらの働きは、金融市場の本質的な働きを支えている。金融市場は、金利によって成り立っているとも言える。

 市場を構成する者は、貨幣を介して交換手段や支払手段、受取手段、決済手段、貸付手段、借入手段、分配手段、貯蓄(保存)手段を所有することができる。

 貨幣の最終受取手の多くは、市場から直接、貨幣を受け取るわけではない。何等かの機関や組織を介して貨幣は、所得として、分配されるのである。故に、市場だけが貨幣や財の分配を行っているわけではない。
 最終消費者は、むしろ、貨幣は組織を通じて、財は市場を通じて、調達している場合が多い。

 近代的貨幣経済は、初期段階において戦争、税制、国債、体制の変革と言った要素が、複雑に絡み合って成立した。それは、貨幣の市場に対する供給や浸透が社会や国家構造と密接な関係があることの証左である。
 そして、社会的混乱が伴って貨幣制度は確立された事を忘れてはならない。

 貨幣は、貨幣の量と価値を制限することによって市場に信認される。故に、貨幣は、貨幣の量と価値を制限するために、何らか裏付けとなる物、担保する物が必要となる。
 担保する物として有名なのは金である。金の他には、国債、公債(鉄道債のような事業債等)、徴税権、土地、権利(特許権)、預金などがある。明確に、担保する物が示されていない場合は、国債か徴税権が担保されているとして仮定される。

 貨幣は、空気のような存在では市場では機能しない。貨幣は、それ自体が交換価値を持つ必要がある。その為には、貨幣は有限でなければならない。貨幣が有限であるためには、貨幣には、何等かの制約が働き、その上に、何等かの保証と強制力が働かなければならない。

 「お金」というのは、湧いてでるものではなく。作る物である。
 価値は、本来、必要性を測る基準である。市場経済が確立されるに従って市場の働きが価値を形成するようになる。市場の働きの第一は、需要と供給を調整することである。

 通貨量の制御が問題なのである。通貨量が生産力を上回らないように制御する必要があるのである。

 市場に流通する貨幣の量は、発行された貨幣の量を超えることはない。市場における貨幣価値の総量は、供与された信用の総量である。即ち、債務の量の和である。
 例えば、企業の総資産、総資本の量は、負債と資本の和だと言うのと同じである。

 商品券、プリペイドカード、手形、譲渡可能な預金、小切手なども、表象貨幣の一種、或いは、変形した表象貨幣といえる。その証拠に、商品券、プリペイドカード、手形、譲渡可能な預金、小切手などは、補助貨幣として使用される事が往々にしてある。
 故に、紙幣の仕組みは商品券やプリペイドカード、譲渡可能な預金、小切手などを観察するとよくその特徴が現れている。
 商品券を例にとると、商品券を発行すると、商品券を介して同量の債権と債務が発生し、発行元は、同量の現金(紙幣、或いはコイン)を手に入れることができる。これらの債務、及び、債権は、商品と商品券が交換され、実際の取り引きが実現し、また、取り引きが完了して、商品券が商品券の発行元に回収されることによって解消される。
 商品券が担保しているのは、商品券の発行元が保証している商品取引の対象商品である。そして、商品券の発行元と顧客との関係を成り立たせているのは、商品券の発行元に対する顧客の信用である。更に、商品券の発行元に対する顧客の信用関係は、契約によって保証されている。
 ただし、商品券は、表象貨幣としての機能が制約されている。商品券の機能が制約を受ける原因の一つは、商品券の発行主体と取り引き主体が同一だという点である。発行主体と取り引き主体が同一な場合、流通する範囲や効用の範囲が特定され、限定的になる。
 商品券を介した取り引きが通常の取り引きと違うのは、商品券を発行することによって手に入れた現金を運用することができることである。
 この点が商品券を発行する動機である。動機であると同時に責務でもある。つまり、運用益が充分に得られない場合は、負担だけが増加するのである。そして、その運用益をもたらす最大の要素が時間なのである。時間の運動の一部は、金利や回転として表現することができる。
 運用の範囲と責務の範囲が商品券の発行量を制約する。運用の範囲と責務の範囲は、時間の関数で表される。
 この様な商品券の特性は、表象貨幣の特性をよく反映している。

 金融制度の役割には、第一に、貨幣の発行、発券がある。第二に、貨幣の流通の促進、循環がある。第三に、貨幣価値の維持、保証がある。第四に、貨幣価値の蓄積、貯蔵がある。第五に、貨幣の流通量の調節がある。第六に、貨幣の貸与、即ち、与信管理がある。第七に、貨幣の出入管理がある。

 支払手段は、消費を、受取手段は、所得を決済手段は、取り引きの完了を意味する。
 取り引きによって同量の債権と債務が派生し、それを仲立ち、仲介するのが現金である。故に、取り引きが成立した時点では、貨幣価値は、常に均衡している。利潤は、時間的差や地域的差と言った市場に派生する格差によってもたらされる。

 貯金、預金、貯蓄とは、支払手段を保存、貯蔵すると同時に、支払手段の権利を貸与する行為でもある。
 銀行を他の金融機関と区別する特徴の一つに預金の受け入れがある。それは、預金が銀行の本源的機能、業務の一つだからである。つまり、預金とは、市場を通じて消費的部分から資金を吸い上げ、それを生産的部分に環流する手段だからである。そして、銀行は、消費的部分から生産的部分に資金を環流する装置、機関なのである。

 貨幣制度を確立するためには、貨幣を市場に循環させる必要がある。その為には、貨幣をどの様にして市場に供給し、どの様にして貨幣を市場から回収するかが重要となる。貨幣は、財政施策、即ち、国家の支払によって市場に供給され、納税によって市場から回収される。その為に必要とされるのが公共事業や行政費用、福祉政策である。つまり、国家事業、行政、所得の再分配といった事業を通じ貨幣は市場へ供給される。
 市場に存在する貨幣価値の総量は、民間の債務の総量である。民間の債務の総量は、銀行の借入、即ち、預金の総量である。預金の総量は、財政期間における通貨の回転数によって決まる。

 貨幣が流通するためには、貨幣を発券したところから、市場に何等かの形で放出される必要がある。
 そして、貨幣は、回収されることによって環流する。また、回収を前提としたところで信認される。ただ、出しっぱなしでは、貨幣は、環流しないし、また信認されない。つまり、貨幣の流通、管理に関して、貨幣を発行したところが、責任を持つから貨幣は信認されるのである。その為には、貨幣の一部は回収される必要がある。

 貨幣の回収において税制度の働きがある。税の働きは、税の仕組みや性格に左右される。税を課す対象、税の構造、税の回収手段などが貨幣の働きに及ぼす影響によって市場の有り様、経済現象に違いが生じるのである。 

 税の働きは、単に、財政上の支払手段を得ると言う事だけではなく。貨幣を市場に循環させるという働きも重要な働きの一つなのである。その為に、所得の再分配という働きを忘れてはならない。この点から見ても貨幣の分配は組織的要素が強い。

 先ず、紙幣は、支払手段として市場に放出され、受取手段として市場に浸透し、交換手段として流通する。
 また、支払手段の一部は、受取手段に転化する段階で、日本では、税として回収される仕組みになっている。受取手段は、更に、支払手段と貯蓄手段になる。
 貯蓄手段は、貨幣価値を保存すると同時に、金融機関に対する貸付手段をも意味する。貸付とは、支払手段を貸与することによって金利を得る行為である。

 支払手段として支出された紙幣は、預金となって銀行に蓄積される。この預金が、貸出、即ち、信用を供与する根拠となる。

 金融機関に蓄えられた貨幣は、経営主体や家計、企業に貸し出されて生産手段や生活手段に費やされる。

 貨幣その物は、生産手段や生活手段を持たない。貨幣は、生産手段や生活手段を得る手段なのである。

 金融機関に貯められた貨幣は貸付手段として経営主体や家計へ供与される。ただし、この際、貨幣が現金という形で直接、経営主体や家計へ供給されるのではなく。銀行から見て貸付金と言う債権、受けてから見て借入金という債務として証書ないし、帳簿上において処理され、貨幣は、金融機関内部に留められる。実際には、大部分は、一定の期間が経過した後、銀行間において決済され、一部は現金として引き出され、消費にまわされる。
 そして、会計上においては、借入側、即ち、受け手側は、貸方側に名目勘定として計上され、借方に実質的勘定として計上される。

 実物資産と言っても現金があるわけではない。売れば、その時点の現金価値に相当する資産があると言うだけである。そして、実質的価値は絶えず変動している。

 時価会計というのは、内在的価値を顕在化する手法であるが、それは実体のない取り引きを前提とすることになる。また、内在的な時間価値にも限界がある上に、ストックの価値の上昇を前提として成り立つことになる。そのため、一度、ストックの価値が下降しはじめると逆効果になる。

 貸付には、設備投資のような長期資金と運転資金のような短期資金がある。家計にも住宅資金のような長期資金と生活費のような短期資金がある。
 長期資金と短期資金は、性格を異にする。長期資金は、債権と債務を形成し、ストック部分を形成するのに対し、短期資金は、主として消費に使われ、フローの部分を形成する。 ストック部分の動きは、貸借上に現れ、フロー部分の動きは、損益上に現れる。

 長期資金というのは、社会資本や経営資本を形成する資金であり、通常、流動性が乏しく、表面に現れてこない資金である。それに対して、短期資金というのは、日常的経済活動の原動力となり、流動性の高い資金である。長期資金が流動化すると短期資金の流動性が低下するという関係にある。

 フローというのは、主として金利によって構成され、ストックの部分の名目的価値が実在すると仮定して成立しているのである。ストックの部分の名目的価値が既存している、或いは、実在しないという事になると途端に成立しなくなる。その場合は、ストックの部分にまで返済圧力がかかることになる。元々流動性というのは、フローの部分を指して言うのであるから、ストックの部分まで含めて流動性を求められれば、即、資金は涸れてしまう。

 金利は、金融制度がその働きを発揮する個々の局面において重要な役割を果たしている。故に、金融機関の役割は、金利の管理といっても過言ではない。

 金利の働きの中で重要な働きの一つが、財に、時間価値を附加することである。

 金利によって付加価値が生み出され、時間価値が貨幣価値に附加される。故に、金利は時間の関数として表される。金融機関は、借入、貸出の金利差を活用し、また、金利の時間的働きを利用して、貨幣の流通を促進する。そして、金利を制御する事によって金融機関は、収益を生み出すことが可能となる。

 また、景気を占う上では、投資先や投資の構成が重要となる。投資には、設備投資、住宅投資、公共投資、在庫等していった実物投資の他に、株や債権、不動産、商品相場と言った投機的投資がある。投機的投資というのは、名目的資産に対する投資である。この様な投資は、名目的価値に対する投資、貨幣に対する投資を意味し、過剰流動性の原因となる。つまり、実体を伴わない投資となりやすい。

 もし、景気の回復を計りたいのならば、実体のない投資や予測のつかない投資、つまり、博打のような投資は、避けるべきである。原則は、既存の基幹産業の収益を改善するような投資を優先すべきであり、予測がつかない新規産業への投資は、慎重にすべきなのである。

 貸付というのは、一般に、原則として現金取引でないことに注意する。つまり、銀行間取り引きである。その為に、銀行間の内部決済市場の存在が前提とならなければならない。
 金融危機は、この内部決済市場の流動性が喪失することによって起こる場合がある。内部決済市場の流動性の喪失を防ぎ金融制度を維持するためには、内部決済市場の流動性が低下したときに資金を供給する仕組みが必要となる。内部決済市場で資金が不足した時を想定した場合には、銀行間の決済取り引きを保護する機関を予め設置しておくことが有効である。それは、中央銀行の役割の一つとすることも可能である。

 金融機関には、預金と同量の現金が、常に、蓄えられているわけではない。金融機関は、資金を環流させるための装置に過ぎない。故に、金融機関に蓄えられている現金の量は、預金量に比べてごく僅かである。

 貨幣の回転が市場価値を増幅し、取り引きの量が市場における貨幣価値の量を決定する。
 預金は、資金の回転によって発生する残像であり、名目的価値を形成する。それが乗数効果を派生させる。
 銀行の貸借対照表上の預金と言う科目に記載されている金額の現金が、銀行にあるわけではない。

 現金取引でないという事は、信用取引だと言う事を意味し、実際に必要とされる通貨量(貨幣量)は通常、限定的だという事である。ただ、信用不安が発生すると大量の現金通貨が必要とされる場合があり、決済資金が不足する危険性がある。その様な場合は、貨幣の発行権を持つ機関が直接資金を供給する様な処置を講ずる必要がある。

 銀行の不良債権が処理されても銀行の名目的債務が減少しない、言い換えると実質的勝が減少しても名目的価値が減少しないのは、銀行の借入金、すなわち、預金が減少しないからである。つまり、銀行の貸付金と預金とは連動しているわけではないからである。銀行の不良債権を貸付先が処理しても、損益に計上され、預金が減額されるわけではない。
 銀行から見て貸付先、つまり、借り手にとって銀行の不良債権は、不良借入であり、不良資産でもある。この様な不良資産、例えば不動産を処分してもそれを購入した先は、通常、預金を取り崩すのではなく。新たな借入をして購入することになる。いずれにしても預金が減少するわけではない。むしろ増加するくらいである。しかも不況は、それでなくとも消費を控えて預金を増やす傾向が高くなる。
 重要なのは、銀行預金と貸付金は連動していないという事である。この点を理解しておかないと資産価値が下落して引き起こされる、つまり、実質的価値の下落によって引き起こされる金融危機に対する対処の仕方を間違うことになる。つまり、いくら不良債権を処理しても資産価値が下落し続けている限りは、実質的価値と名目的価値は乖離幅が増大し続けると言う事である。しかも不良債権を処分すればするほど資産価値の下落に拍車がかかることになる。

 金融市場というとどうしてもその入り口にある企業貸付に目がいってしまう。しかし、金融市場においては、その出口である消費も重要な働きをしている。中でも消費者金融は、金融制度の半面を形成している。それでありながら、消費者金融の概念すら確立されているとは言い難い。しかも、消費者金融は、家計に直結している。
 景気の動向を云々する時に、消費の動向は、常に問題とされながら、経済学において、消費の仕組みは問題にされる事は少ない。それでは、景気の抜本的な解決はできない。

 家計は、消費を主導すると同時に、銀行に預金として資金を供給する。預金は、銀行にとって借入金であるから、預金量に応じて資金を運用しなければならない。つまり、預貸率が銀行にとって重要な指標となる。また、運用先が問題となる。
 故に、家計の動きは、銀行の経営を左右する重要な動きの一つである。特に、インフレーション時、デフレーション時の家計の動きと構成には、充分留意する必要がある。

 物の生産と消費、それに対する通貨の市場への供給、そして、消費者の欲求、必要性、それが景気を決定付ける要因である。これらの要素の均衡が崩れると景気が変調する。
 例えば住宅市場である。サブプライム問題の本質は、住宅問題であり、それに関連した住宅ローン、消費者金融の問題である。
 住宅市場においてどの様な過程、仕組みによって不良債権、不良債務が発生したか、発生しているかが鍵を握っているのである。
 その背景には、住宅市場の状況がある。住宅市場を改善しない限り、サブプライム問題は解決できない。そして、住宅市場の環境は、住宅市場の成熟度の問題という側面も持つ。
 住宅も着工件数が一巡すればストックが蓄積され、新規の住宅需要は低下するるのである。必然的に、新規の住宅需要開拓は難しくなる。だからといって既存の住宅を壊してしまえという発想は乱暴である。既存の住宅があるから市場の拡大が阻害されているのだから、戦争によって既存の住宅を焼き払ってしまえと言う事になりかねない。市場が成熟したら仕組みや規制、ルールを変える必要があるのである。

 いずれにしても、住宅に対する国家構想であり、社会的合意である。一体、国民生活における住宅をどの様な状態にしたいのかと言った構想や思想が、前提になければ住宅問題は解決できないのである。

 そして、消費者の嗜好が家計の構成、動向を決め。景気に対して決定的な影響を及ぼすのである。根本にあるのは、消費者の思想であり、行動規範である。それが金融制度の在り方の方向性を決める。

 貨幣制度は、国家を単位とするのが基本である。貨幣単位が国家を単位とする事によって金融制度も国家を単位として形成される。その為に、国家間の貨幣価値の変動や金融制度の違いを調整する必要が生じる。

 金融機関には、国際間を調整する機能と機関が設定されている。また、国家間の決済を取り仕切る国際決済制度が確立されている必要がある。
 この様に、世界が一定の条件で交易を継続するためには、国際的な共通基盤を必要とする。必然的に超国家的な機関の存在を前提とせざるを得なくなる。そうしないと金融単位内の仕組みの整合性が保てなくなる。

 紙幣による貨幣制度が成立するためには、一定量の紙幣が市場に流通していることが前提となる。
 
 一定量の紙幣が市場に流通した後は、銀行の債務、即ち、預金を担保とした貸出、借入の量を調整する事によって通貨の流通量を調整する。その手段とし使われるのが金利と国債である。

 一定量の紙幣を市場に流通させる為には、何等かの貨幣制度が成立していることが前提となる。
 表象貨幣である紙幣を基盤とした貨幣制度が成立する為には、実物貨幣が市場に浸透していることを前提とする。

 注意しなければならないのは、金貨、銀貨の様な実物貨幣を基礎とした貨幣制度と、紙幣のような表象貨幣を基礎とした貨幣制度では、貨幣制度の本質が違うということである。 第一に、実物貨幣というのは、貨幣その物が、物としての価値を持っており、それ自体が価格を形成するのに対し、表象貨幣は、貨幣その物には価値がなく、その時点その時点の貨幣価値を指し示す指標に過ぎないという点である。つまり、表象貨幣は、貨幣としての信認を失えば、無価値な物になってしまうのである。それは、表象貨幣というのは、貨幣と言う機能に特化した物だと言うことである。
 第二に、実物貨幣は、物理的な制約があるのに対し、表象貨幣は、物理的な制約を受けないという点である。表象貨幣は、物理的制約を受けない変わりに、市場の信認を前提とせざるをえない。

 表象貨幣が市場の信認を受けるためには、初期の段階では、表象貨幣は、何等かの物や権利を担保する必要がある。それが兌換紙幣である。
 担保する物や権利には、金、銀と言った貴金属や国債や徴税権といった将来の所得を得る権利等がある。
 金を担保した制度を金本位制という。

 現代の貨幣制度は、金銀本位制、金貨本位制、金地金本位制、金為替本位制、不兌換制度(変動為替制度)と変遷してきている。

 通貨は、権力である。通貨の発行権は、国家主権の一つである。通貨の発行権が複数に分散することは、権力の分散を意味する。ただし、通貨の発行権が権力を形成する点を忘れてはならない。

 貨幣の発行、発券は権利であり、貨幣の発券、発行の権利は、権力を生じさせる。

 貨幣は、市場の信認を得ると、同時に、貨幣取り引きに関して何等かの強制力を付与する必要が生じる。

 紙幣を市場に流通させる手段は、一つではない。しかし、その手段や手続が重要な意味を持っている。

 紙幣が成立した初期の段階では、金や国債を担保にして中央銀行や市中銀行が預かり証として紙幣を発行した。

 その他に、市場に貨幣を供給する手段は、国家が、支払手段として直接紙幣を発行する場合などがある。

 また、武力を背景にして支払手段として強制させる例もある。

 貨幣の発券、発行の権限を何処におくのか。第一に、国家がある。第二に、中央銀行がある。第三に、民間銀行がある。第四に、軍のような何等かの公的機関がある。第五に、国家権力以外の外部権力がある。

 アメリカでは、1913年に連邦準備制度が発足するまで、国法銀行が銀行券を発行していた。国法銀行といっても民間銀行である。(「アメリカの金融制度 改訂版」 高木 仁著 東洋経済新報社)

 現在、世界的に見ると基本的に、中央銀行制度を採用している国が多い。
 それは、通貨の発行主体が分散した場合、第一に、通貨の価値を安定が損なわれる危険性があるからである。第二に、通貨の量を管理ができなくなる可能性があるからである。第三に、第一と第二の結果、複数の民間銀行や軍のような機関、国家権力以外の外部権力が発行権を握ると貨幣制度の統制がとれなくなる危険性があるからである。

 なぜ、国家が直接、貨幣を発行しないのか。
 一つは、財政を司る部署と通貨を司る部署が同一だと、財政と通貨政策・金融政策のけじめを付けることが難しくなるからである。

 政府に発券、発行権があると通貨量が、政治的な影響を受けやすい。また、国家が直接市場に通貨を放出した場合、通貨の流量を管理し、通貨のを循環を維持させることが難しくなる。即ち、通貨の働きを維持するためには、通貨の発行権の独立性を保つことが重要になる。

 国債を基に紙幣を流通させようとした場合、国債の発行元には、国債という債務と紙幣という債権が生じる。紙幣の発行元には、国債という債権と紙幣という債務が生じる。つまり、国債の発行元と紙幣の発券元とは、債権と債務がお互いに均衡している仕組みを作るのである。それが中央銀行という仕組みである。

 通貨の発行に関しては、政治的中立性を保つ必要がある。通貨の量と価値を維持するためには、通貨の発行権の独立が保証される必要がある。それが政府と別の機関に発行権を持たせることの根拠となる。

 そのもの自体が物としての価値を有さない表象貨幣は、取引上の決済行為や交換行為を国家権力によって強制されなければ、貨幣として成り立たない。

 印刷物としての価値しか、本来ない紙幣を貨幣として通用させるためには、国家権力が、紙幣による取引上の決済行為を強制する必要がある。その為には、通貨の発行権は、国家権力による何等かの統制が必要とされる。その為には、貨幣を発行する部署は、なんらかの国家機関ないし、国家機関に準ずる機関である必要がある。

 この様な機能を果たすには、中央銀行制度が現時点では最も適切と考えられるので、基本的に中央銀行制度を採用している国が多いのである。

 アメリカの連邦準備制度(Federal Reserve System)は、中央銀行の中でも異色な存在である。

 国債を使って中央銀行が紙幣を市場に流通させる手段には、以下のようなものがある。
 国家が国債を発行すると同時に、中央銀行が、何等かの財を担保に紙幣を発行して市中銀行に貸し出し、その紙幣をもって市中銀行が、購入する国債を担保に国債を購入する。国家は、国債を貸し付けた資金で支払を行い、紙幣を市場に流す。
 この様な複雑な手続によって紙幣を市場に流通させるのは、貨幣を金融機関を通じて市場に供給することによって金融機関の組織化と機能化を計るためである。要は、発券手続を通じて中央銀行とその他の銀行を組織化することである。
 また、国家が国債を発行し、その国債を中央銀行が直接、購入する手段があるが、現在日本では、法的に禁じられている。なぜ、日本において法的に禁じられているかというと国債を日本の中央銀行である日銀が直接引き受けることは、財政の規律が失われ、通貨の供給量を制御できなくなる危険性があると考えられているからである。通貨の供給を制御できなくなれば、景気を制御する事ができなくなると考えられる。
 故に、通貨の発行権や供給権の政治的独立が叫ばれるのである。

 財政赤字は国の借金によって発生する。故に、財政、赤字の問題は、基本的には国債の問題である。国債は、紙幣制度の根源に存在する問題である。なぜならば、国債は、紙幣の発生源、原因であり、紙幣の流通は結果だからである。
 つまり、国債の問題で一番重要なのは、実は、紙幣の流通量なのである。紙幣の実質的流通量をどの様に制御するのかが、国債の最大の課題である。そこから、国債の残高の影響と、国債の償還率を考えるべきなのである。借り換えのための国債の資金をどこに求めるかによって市中に流通する紙幣の量は違ってくる。そこに、中央銀行の国債の直接引き受けの問題点が隠されている。

 紙幣の発行は、歴史的に見ると、原則、国の借金による。高木仁氏は、その著書で、「連邦準備券は連銀が発行する負債だが、同時に国民に対する合州国の負債であると、法律は規定している」(「アメリカの金融制度 改訂版」高木仁著 東洋経済新報社)と述べている。
 国家の借金という意味では、紙幣は、国債の発行が端緒となる場合が多い。その場合、紙幣を直接国家が発行するのではなく。一旦、国家が国債を発行し、その国債を担保として中央銀行が紙幣を発行する事例が多い。それは、国の資金が不足することを動機として、銀行から借り入れる形式をとることによって紙幣を発行する権利と根拠を明らかにし、紙幣の信認を受けるのである。
 また、金融機関を経由することで、金融制度の基礎を確立することにも繋がる。つまり、銀行を一つの体系にまとめ上げることを可能とするのである。
 中央銀行の基本的機能は、紙幣の発券し、国家に必要な資金の提供する。そして、資金を提供することによって貨幣を市場に流通させることである。
 それに対して、中央銀行以外の銀行の機能は、預金によって、貨幣を回収すると同時に、貸付によって、貨幣を市場に環流することである。もう一つ、中央銀行以外の銀行の重要な役割は、取り引きの決済と信用の創造である。この事によって発行された通貨が強要する貨幣価値以上に貨幣価値、信用を市場に生み出すことが可能となる。そして、市場は、金融制度が生み出した信用、貨幣価値の範囲で取り引きを実現するのである。

 また、通貨の発行には、シニョリッジseignorage 、即ち、通貨発行益が生じることも忘れてはならない。シニョリッジの解釈は一様ではない。ただ、解釈や会計処理の仕方では、莫大な利益にもなる。つまり、シニョリッジをどの様に会計的に処理するかが重要になる。
 また、シニョリッジをどこに帰属させるかも金融制度を設計する上で決定的な鍵になる。シニョッリッジは、貨幣の発行元に原則発生する。
 政府が直接、貨幣を発行するとこのシニョリッジが政府に帰属することになる。その為に、財政不足が生じた時、紙幣を濫発する動機にものなる。それ故に、通貨の発行権を中央銀行に置き、シニョリッジを通貨の運用益に限定する事によって紙幣の濫発を防ぐのである。そして、原則、シニョリッジは国民に帰属させると言う思想である。
 つまり、紙幣は、国家の国民に対する負債であると同時に、資産でもあるのである。

 問題なのは、中央銀行をどの様な機関の支配下に置くのかである。また、中央銀行をどの様に性格付けするかである。完全な独立を確保するために、政府や議会から独立した機関とすべきだとする思想と、行政の支配下におくべきだという考え方と議会の支配下におくべきだという考え方が存在する。いずれにしても、どの様な制度を採用するかは、思想的問題である。そして、これは世界中央銀行に繋がる思想である。
 世界経済は、統一的な金融制度の統合されない限り安定しない。これは思想である。

 金融制度というのは、金融機関が相互に連携することによって成り立っている。その為に、一つの金融機関の破綻が連鎖的に金融制度全体に波及する危険性がある。この様な危険性を回避するためには、個々の金融機関だけを対象にするのではなく。金融制度全体を何等かの形で統御する必要性がある。中央銀行は、金融機関の中枢となる機関である。中央銀行が発券銀行となることによって、貨幣が必ず中央銀行を経由しなければならない体制が確立されるのである。中央銀行が市中銀行に連結されていないと、金融機関を組織化し、統制することができなくなる。結果的に、システミック・リスクを阻止できなくなる。

 今日の金融制度というのは、個々の金融機関が単独で独立して機能する体系ではなく。全ての金融機関が連結され、連携することによって成立している。
 今日の貨幣制度を考える上で、先ずこの前提を認めるか、否かが重要なのである。そうしないと金融機関の役割について理解することができなくなる。
 それは、なぜかというと、金融制度というのは、その背景として信用制度が確立されていなければ成り立たないと言う事を意味しているからである。
 つまり、金融制度というのは、信用制度を基盤として貨幣を供給する仕組みなのである。言い換えると、貨幣を必要とするところに、必要とするときに、必要とするだけの量を供給できなくなったら金融制度は成り立たなくなるのである。

 そして、金融制度の役割は、資金の量と水準を制御する事である。市場の流通する通貨の量を調節することによって物価や所得の水準を一定に保つのが金融制度の重要な役割なのである。

 また、金融機関は、資金の引き出しに対して一定の資金を準備しておく必要がある。貨幣は、市場における交換手段である。この交換手段を絶えず供給することは金融機関の使命でもある。

 金融機関の働きは、資金の供給と信用の供与である。

 金融機関同士で資金を融通し合うための市場と仕組みが必要となる。この内部市場に対する金融機関からの資金の供給が滞ったことが、1997年の日本の金融危機や2008年リーマン危機の原因の一つと見なされている。

 貨幣経済を基盤とした市場経済下では、貨幣の供給が絶たれると生活に必要な物資を手に入れられなくなる。また、自分の財産の所有権も維持できなくなる。この様に貨幣経済を基盤とした市場経済においては、通貨は、生活を営む上での大前提となる。この様な通貨を供給するのが金融機関の重大な役割の一つである。

 金融独裁を怖れるあまり、金融制度全体の統制を軽視する考え方が、一般に、強くある。確かに、金融独裁は危険なことである。しかし、通貨の量を制御し、流動性を確保するためには、金融機関を全体して管理、制御する中央機関は、不可欠な存在である。独裁がなぜ、悪いか。独裁のどこが悪いのか。独裁は、どの様な仕組みによって成立するのか。問題は、独裁の弊害と、その弊害をいかにしてなくすかである。それは、あくまでも構造的な問題と人間の能力の限界の問題であり、個人の資質や道徳の問題ではない。
 金融制度が統制を欠き、無政府な状態であることを放置することが、一番、危険なのである。金融制度は、信用を基盤とした制度である。無秩序な状態にあっては、信用そのものが成り立たなくなるのである。

 特定の機関に権力が集中することを防ぐためには、個々の金融機関の経営基盤を確立することである。金融制度を構成する個々の金融機関の独立性が維持されてはじめて金融独裁は防げる。その意味では、金融機関の経営基盤が重要となる。

 金融制度で重要なのは、金融機関の収益構造である。金融機関の経営は、金利収入だけに依拠すべきなのかである。それは、金利のみに収益を依存していると、どうしても金融機関は、権力機関化する危険性を拭い去れないからである。
 金融機関自体が自己目的化し、権力機関となると、金融機関の暴走を抑止することが困難になる。そうなると、金融機関は、貨幣市場を擁護する事のみを目的とする機関になってしまうのである。

 銀行という商売は、端で考えられているほど割りの良い商売ではない。また、よくなくなってきている。それは、銀行という商売の在り方に原因がある。
 銀行は、元来が、金利差を基礎とした商売である。市場が成熟してくると金利はは縮小する傾向がある。更に、金利の低下も追い打ちをかける。長期資金、短期資金の金利の変動も影響する。また、長期的な金利の均衡も収益を圧迫する。
 大体、取り引きの均衡によって銀行の収益源である在来の産業の収益が低下する。

 企業業績と直結していない経済対策など意味はない。金融行政は、金融機関の業績と密接な関係がある。金融機関の経営業績が悪化すれば、必然的に、金融行政に影響がでる。逆に、金融行政の在り方は、金融機関の経営に重大な影響を与える。税効果基準や不良債権の判定基準のような会計基準を変更しただけでも、金融業界の再編を促す結果をもたらす例さえあるのである。

 預金は、運用を前提とした銀行の借入である。故に、銀行は、常に、資金を運用として金利相当の利益を上げ続けることを前提としている。ところが、市場が成熟すると成長を前提とした仕組みで、既存の産業は収益をあげられなくなる。
 その為に、資本市場や金融市場、不動産市場、商品市場に資金を投入し、相場の格差を利用して利益を上げざるを得なくなる。
 その上に、レバレッジを効かせて見かけの利益を嵩上げする必要が生じるのである。その行為が過剰流動性を発生させるのである。

 金融機関、本来の役割は、余剰の資金を持っているところから資金が不足しているところへ、資金を融通することである。ところというのは、空間的な意味だけでなく時間的な意味がある。つまり、余剰の資金を持っている時から資金が不足している時に資金を供給するという意味である。
 ところが、現実には、資金が不足している所から資金を回収し、余剰の資金を持っているところに資金を融通したり、資金が余っている時に融資を進められ、資金が必要な時になると資金が引き揚げられると言うようなことが頻繁に起こる。
 不況、不景気、恐慌になると、貸し渋りや化し剥がしが、横行するのが典型的な例である。金融機関の使命は、市場に資金が不足した時、市場に資金を供給することにある。また、優良な事業なのに、一時的に資金が不足した企業に対して資金を融通することにある。ところが現実には、逆の事を金融機関はしている。何が原因でその様な現象が起こるのか、それを明らかにしない限り、抜本的な解決はできない。それを、金融機関の企業論理、金融機関に携わる人間の道徳観にだけ求めるのは、短絡的である。よしんば、企業論理や金融機関に携わる人間の道徳を問うにしてもその企業論理や道徳観がどの様にして形成されたのかを明らかにしない限り、それは個人の問題の領域内の問題に過ぎないのである。つまり、特殊な問題であって一般的、普遍的問題にはなりえない。

 貸し渋りや貸し剥がしといった投資時や融資時における金融機関の判断の問題は、個々の金融機関の問題と言うより、構造的な問題、市場の歪みや市場の仕組み、金融機関や経営主体の収益構造に問題があるといえる。
 投資するにも融資するにもその基となるデータ、情報が前提となる。情報と判断基準が鍵を握っているのである。

 その顕著な例は、投資や融資基準に現れている。現行の投資や融資の基準は、短期的実績を基礎としている。その為に、短期資金需要が基本になる。しかし、事業の基盤は、長期的投資である。
 結果として現れる経営実績が悪ければ、金融機関は、投資や融資が抑制され、場合によってはできなくなる。しかも、法や規制によって強制な制約を受けている事例すらある。
 短期実績と、長期見通しの調和がとれなければ、投資や融資はできない。その点を考慮して、利益構造や会計基準は設定される必要がある。
 ちなみに、利益構造は作られるものであり、会計基準は設定されるものである。しかも、利益構造や会計基準は、法や規制、制度によって実現されるため、強制力を持つことになる。

 融資や投資の基準として増収増益を前提としている傾向がある。それは、経済成長や市場の拡大を前提としてい事を意味するのである。増益増収を前提としている事自体が問題なのである。企業経営上、黒字であれば少なくとも問題ではないはずである。また、赤字であっても原因が明らかならば問題にならない。増収増益を常に前提とした経済というのは、成長を目的化した経済である。成長を目的化した経済は、成長が止まった時、破綻してしまう。

 いくら大手企業の見かけ上の収益が改善しても景気は上向かない。なぜならば、消費を拡大するのは、国民の可処分所得だからである。人員を削減し、下請けを整理すれば収益は上がっても国民の所得は、上昇しない。しかも、輸出関連産業が主力だとなると国内の市場に影響を及ぼさないからである。
 景気を好転するのは、人員削減や経費削減によらない収益の改善なのである。

 収益の健全化を計るには、競争を抑止し、規制を強化して市場の規律を取り戻すことである。私は、競争を否定するつもりはない。競うべきところは競うべきである。品質やサービス合戦は望むところである。ただ安易な乱売合戦や採算を度外視した安売り合戦は、市場を荒廃させるだけである。

 無駄な競争、無意味な競争ができないから、合併するしかなくなるのである。それはかえって独占、独裁を招く。一人では競争はできないのである。
 未来社会を描く映画やドラマ、漫画に出てくる社会は、なぜに、着ている服も、食べる物も、街も、建物も一様に描かれるのであろうか。それは、現代社会が知らず知らずに単一な世界に向かっているからではないだろうか。
 かつては、多様な世界があった。服装も多彩であった。地域や、文化、歴史、伝統の違いによって多様さが保たれてきた。現代社会は、男女の違いすら頑なに、認めようとしない。違いを認めることと、差別することとは違う。むしろ、差を認め合うからこそ差別はなくなるのである。差を認めないことこそ、ある意味で差別を生み出すのである。
 人間には、一人一人、違う顔があるのである。その違いを認めるからこそ、人間の社会は成り立っている。将来、人間の顔を、皆、同じ顔に付け替える技術が発達するかもしれない。しかし、その様な技術は本当に人間を幸せにするであろうか。

 保護主義にも市場を保護するという考え方と産業を保護するという考え方があり、両者の考え方は、結論において全く違ってくる。重要なのは、市場を保護することであり、産業を保護することではない。それも、市場の規律を保護することである。それが引いては、産業を保護することに繋がる。

 大資本と弱小資本が、同じ場、同じ条件で競争するのならば、大資本に何等かの制約、ハンディキャップを付けるのが公平なのである。ところが現代は、逆である。弱小資本に制約が付けられてしまっている。そして、中小企業や個人事業者は、行き場を失い。大資本に呑み込まれているのである。その結果、世界中どこへ行っても変わりばえのしない空間である。

 度重なる金融危機によって銀行の印象が悪くなった。なぜ、金融機関の評判は悪化したのであろうか。信用を基盤とした貨幣制度において、貨幣の動きを仕切る金融機関の信用が低下するのは、貨幣制度その物の基盤を揺るがしかねない大事である。
 貨幣経済下で貨幣を司る者が、ある程度の権力を掌握することは、必然的帰結である。それが悪徳だというわけではない。悪いのは、権力を濫用して私腹を肥やしたり、私利私欲のために、他人の権益を侵すことである。
 しかし、それは制度や仕組み、法を整備すれば、防げるものである。

 現在の金融危機の背景には、金曜機関の信用の失墜がある。土台、金融制度は、信用制度を基礎としている。その金融機関への信用の失墜は、信用制度という基盤をほり崩してしまう危険性がある。
 金融機関が信用を失墜させた背景には、反権力主義や反権威主義の影響が見て取れる。権力に迎合するのも問題だが、何でも、かんでも、経営者や、行政官、為政者、政治家を悪役に仕立てて、世の中の不具合の責任をとらせようというのは、悪しき習慣である。いずれも公平さに欠けている。
 しかし、昨今の金融機関の人間の行状には、世の風評を裏付けるような言動があることも否定できない。李下に冠を正さずと言う。金融機関に働く者は、信用を土台にして成り立っていることを肝に銘じ、自らの行状を慎まなければならない。

 金融機関の人間が金の亡者の様に思われがちなのは、「お金」の役割を見失い、貨幣価値を絶対視することに起因している。しかし、金融機関の人間が「お金」を上手に使っているとは思えない。「お金」は、使われることによって価値を持つのである。

 100人分の食べ物を与えられても、一遍に食べきれやしない。この世の全ての土地を与えられたとしても無意味だ。必要以上な物はないに等しい。
 愛する人は、一人で良い。何万人もの伴侶を得たら生きていけなくなる。いくらもてたところで、愛する事を知らなければ、ただ虚しいだけである。
 所詮人間に与えられた時間には限りがある。限りある人生だから充実もする。「お金」は所詮「お金」なのである。全てではない。価値を表象した物にすぎないのである。
 「お金」を仕切ることで、何等かの独占が生じたとしても無意味である。独占そのものが経済を停滞させるからである。金融機関が市場を独占したところで、市場を死滅させるだけである。市場は相対的な価値によって動かされる。絶対的基準を持ち込もうとする独占は、市場を機能させなくなるからである。
 金融独裁と言うが金融機関が産業を支配したとしても意味がない。金融は、所詮、物を生産する力がないのである。経済の実体は、実物の経済にある。

 独裁がなぜ、悪いか。それは、あくまでも構造的な問題と人間の能力の限界の問題であり、個人の資質や道徳の問題ではない。
 しかし、独裁は、人を孤独にし、人の心をも蝕むものである。真の豊かさは心の中にある。「お金」では得られない。

 問題は、金融を司る者の心であり、心を蝕む動機である。そして、その根源にあるのは、金融機関の収益の悪化である。

 自動車のような多くの機械・装置がそうであるように、金融機関というのは、扱い方を間違うと凶器となる。だからといって金融機関は、悪いと決め付けていたら人類の進歩は止まる。自動車同様に、上手に活用することを考えるべきなのである。

 貨幣的市場は、放置すると均衡に至る。それは、市場を構成する一つ一つの取り引きが取り引きが成立した時点・時点において均衡しているからである。市場の活力を維持するためには、人為的に変化や格差をつくり出す必要がある。ただ、変動は、戦争のような破壊的な変化では、物的な経済や人的な経済に壊滅的な打撃を与える。また、固定的な格差は、市場の活力をかえって削いでしまう。変化は、建設的なものでなければならないし、格差は流動的なものでなければならない。

 俗に、戦争景気と言うが、それは、戦争に巻き込まれていない国の事である。第一次大戦後のドイツ、フランス、ロシアを見ても、まだ第二次世界大戦後のイギリス、フランス、ドイツ、中国、日本を見ても、ベトナム戦争がアメリカに与えた影響を見ても解るように、生産手段を徹底的に破壊し尽くす戦争の惨禍は、何世代にもわたって経済に壊滅的な打撃を与え続ける。それは国民の精神、道徳、文化に対しても癒すことのできない傷を負わせ。しかも、国家、国民の間に何世代にもわたる怨恨を残すことになる。
 戦争は、戦争当事国にとって戦争をしていない他国を利するだけである。戦争によって、経済を活性化しようなどと言う馬鹿げた考えは起こさないことである。

 極端な格差や戦争は、不経済である。兎に角、非生産的な事は、実物経済から見て、基本的に不経済である。実物経済こそ、経済の実体である。ゆえに、格差や戦争は不経済である。金融制度は、故に、格差や戦争をなくすように働く必要がある。つまり、貨幣が市場に偏りなく、潤滑に流れるようにすることが、金融制度の使命なのである。貨幣が循環する途中で滞留したり、閉塞すると、途端に経済は壊死してしまう。金融機関は、役割とは、貨幣を市場に絶え間なく循環させ続けることなのである。

為替(国際金融)の仕組み


 最近は、募金活動が盛んになっている。私が子供の頃は、災害時に、古着や保存食と言った援助物資を送ったものだが、今は、金を送った方が喜ばれる。極端な場合は、受取を拒否される。
 神様に対するお布施や賽銭も「お金」である。医療費をお金でなく、つい最近まで物で払っていたこともあった。
 街で倒れている人を見てもまず「お金」である。「お金」がなければ医療も受けられない。「お金」がない時代は、まず、助けることが先決だったのである。
 結婚の引き出物や葬式のお返しも最近は、物でなく。カタログから選ぶようになってきている。むろん、お祝儀や香典は「お金」であることが常識である。心を込めて贈答品を選ぶなどという事は野暮なのである。花嫁も、花嫁道具ではなく、持参金が重要になる。つまり、「金」「金」「金」の世の中なのである。

 市場経済を前提とした貨幣経済下では、先ず貨幣を手に入れることが前提となる。市場経済を前提とした貨幣経済下では、貨幣を手に入れなければ、何もできないのである。
 人助けや助け合い、救援、援助ですら、「お金」がなければできない。それが市場経済を前提とした貨幣経済の原則なのである。
 物の価値が稀薄となっているのである。物の価値が稀薄になればなるほど貨幣価値の重要性が高まる。また、物の価値の本質が失われていくことにもなる。しかも、その貨幣単位が統一されていないのである。なぜ、貨幣単位が統一されずに、また、統一されないことによってどの様な弊害が生じているのか。それが為替の問題の本質である。

 為替の仕組みとは、この「お金」の交換に関する仕組みである。

 貨幣は、物と物との交換を仲介するために成立した。交換をするためには、何等かの基準が必要である。その基準が貨幣単位である。

 長さや重さ、時間には、統一的な単位がある。
 我々は、物理的単位を何気なく使っている。あたかも、物理的単位は、所与の物であり、自明な基準であると受け止めている。
この様な物理的単位もかつては、国毎に違っていた。国どころか、鯨尺という例を見ても解るように、同じ国の中でも地域や産業が違うと単位も違ったのである。現代でも、メートルではなく、ヤードを基準とするスポーツもある。
 長さや重さ、熱さの単位が各国マチマチだと不都合、不便だという事で世界の科学者が集まって1875年にメートル条約を締結し、MKSA系に単位を統一する事に決めたのである。

 物理的単位は、この様に統一された基準を持つ。それに対し、物と物とを交換する基準である貨幣単位には、統一された、共通の単位は設定されていない。つまり、貨幣単位は、共有されていないのである。
 つまり、経済の世界では、まだ統一的な空間が構成されていない。それが大前提である。

 一つの単位は、一つの空間を成立させる。

 為替の本来の意味は、時間的、空間的に離れた地点での取引を決済するための仕組みである。
 貨幣がつくり出す空間が一つであれば、即ち、貨幣単位が一つであれば、貨幣と貨幣の交換は必要とされない。貨幣空間が複数あるから、必然的に、貨幣と貨幣の交換が必要となるのである。
 この事は、貨幣空間の内と外との空間の存在をも前提とする。

 故に、ここの貨幣単位が形成する通貨圏の内部では、その通貨圏でしか通用しない貨幣が沢山ある。その為に、貨幣と貨幣とを交換しなければ経済行為が成立しないのである。
 つまり、交換を役割とした貨幣を交換するための仕組みが為替制度なのである。

 為替というのは、通貨と通貨を変換、置換、交換することである。なぜ、通貨と通貨を変換する必要があるのかというと、複数の通貨が流通しているからである。

 為替を考えると経済の相対性、取引の作用反作用、市場が集合体である点、価値の均衡などといった経済の根幹にあたる部分が明確になる。
 貨幣活動には、双方向の働きがある。交易活動、特に通貨圏間の取引は、如実にこの事実を現している。

 新聞紙上でよく円高、円高と騒がれる。しかし、円は、単独で安かったり、高かったりするわけではない。円は何に対して高いか安いか、必ず相手が存在するのである。そして、円が高くなれば相手は必ず安くなり、円が安くなれば必ず相手は、高くなる。その相手によって円高の効果も違ってくるのである。一般に、円高と言えば基軸通貨である米ドルに対して割高か、否かの問題である。しかし、円の対象となる通貨は、米ドルだけではない。経済的効果を知るためには、米ドルだけでなく、他の通貨に対しても相対的にどの様な動きを示しているかを知る必要がある。

 市場は、集合体だとという事が為替制度を見ると解る。為替市場は、一つの市場で構成されているわけではない。少なくとも単位貨幣の数だけ市場があり、その市場における貨幣価値を調節するために、為替という機構があるのである。
 国際通貨市場が単一ではなく、全体を統御する何等かの仕組みを前提とし、その仕組みが国際為替制度だとすると、為替制度の役割は、通貨圏間の調節機能と国際金融制度全体の統制制御にあると考えられる。

 複数の通貨を調節する仕組みとして為替制度を捉えると、為替の問題は、貨幣価値の基準と単位をいかに調整するかの問題といえる。

 物理的単位には、統一的な単位が定義、設定されているが、経済的単位である貨幣単位には、統一的、単一的単位が設定されていない。

 一口で、貨幣と言っても貨幣には、いろいろな種類がある。例えば、発券者の違いによっても第一に、政府が直に発行する政府発行券。第二に、中央銀行が発行する中央銀行銀行券、第三に、民間銀行が発行する銀行券、第四に、軍や地方自治体、郵便局の様な中央政府以外の公共機関が発行する軍票や紙幣。第五に、民間企業やして企業が発行する記念金貨や商品券のような物も広義では、疑似貨幣といえる。この様に紙幣にはいろいろな種類がある。
 貨幣、中でも、紙幣の発行機関が通貨の流通を制御している。通貨を管理しているのが通貨当局である。
 貨幣の発行権を持つ機関、通貨当局をどこに設定するかは、貨幣制度、通貨制度においては、重要な意味を持つ。貨幣や通貨の働きを決定付けることにもなるからである。
 通貨の発行権は、国家の主権、即ち、独立に関わる大事でもある。
 帝国主義時代においては、植民地や衛星国、従属国は、通貨の発行権を与えられていない例が多く見受けられた。
 その場合、統治国の通貨を用いるか、或いは、代用する事になる。また、通貨の発行権が与えられていたとしても通貨政策は独自に決められない仕組みを強要されている場合や統治国もある。
 この様に、通貨の発行権が市場の内部に設定されているとは限らないのである。

 通貨を発行し、管理する権利と徴税権は、国家の経済主権の根幹である。
 通貨がリンクされている制度と外部の通貨を代用するのとでは本質が違う。たとえ、通貨がリンクされていても紙幣の発行権、主体を失っているわけではない。
 通貨の発行権を失うことは、主権、独立の一部を侵されることであり、通貨の流量や金融政策の自主性、主体性を失うことになる。

 今日では、紙幣は、原則的に政府発行券と中央銀行銀行券を指す場合が多い。
 更に、貨幣は、貨幣が流通する範囲によって通貨圏が構成される。国債通貨市場には、複数の通貨圏があり、通貨圏毎に基準通貨、単位通貨が設定されている。原則的に、一つの通貨圏は、一つの通貨単位によって形成される。ただし、今日では、ユーロのような複数の通貨圏にまたがっている通貨も成立しつつある。

 貨幣の単位が、長さや重さと言った物理的単位と違うのは、交換価値という観念的な単位であると同時に、単位それ自体で成り立っていないという点にある。つまり、貨幣単位というのは単一な単位ではなく。複数の独立した基準、単位によって成り立っているという事である。

 市場に流通している単位貨幣を通貨という。通貨は、一種類ではない。通貨は複数ある。通貨は、単位であり、基準であり、制度である。通貨は、金融制度を基盤にして成り立っている。通貨制度と金融制度は不可分な関係にある。故に、通貨制度の数だけ金融制度がある。また、金融制度は、貨幣市場の基盤である。つまり、金融制度の数だけ貨幣市場がある。

 複数の単位通貨間の価値の変動を調節するためには、単位通貨を調節する基軸が必要とされる。何を基軸とするかが為替制度の性格を決定付けるのである。

 先にも述べたが物理的単位には、統一的な単位が定義、設定されているが、経済的単位である貨幣単位には、統一的、単一的単位が設定されていない。それが問題なのである。つまり、何を基本的尺度とするかが、為替制度の決定的な課題となる。

 決済の仕組みを構築するためには、柱となる基軸が必要となる。その基軸は、金や通貨のような基準に求めるべきか、何等かの装置に求めるかによって為替制度の根本が違ってくる。

 為替制度の目的は、通貨圏間の調節機能と国際金融制度全体の統制制御にあると言える。

 為替制度の目的から為替制度の構築するために重要な要件は、決済の仕組みと決済をするための原資を何にするかである。

 為替制度は、貨幣価値を決定するために何を基軸とするか。貨幣価値を、誰が、どの様に決定するのか(決済手段)。決済のための通貨準備や実物(例えば、金)準備をも意味する。貨幣価値を確定するためにとられる手段、また、調整するための手段にはどの様な手段があるか。つまり、貨幣価値が決定するまでの過程が重要となる。

 貨幣価値の決定手段、即ち、「お金」の値段の決め方が大切になる。「お金」の値段の決定手段には、第一に、市場取引、市場の相場による手段。第二に、当事者間の協議、協定に基づくやり方。第三に、他の通貨や実物に結び付けて決める手段。第四に、何等かの制度によって決めるやり方。(この場合は、通貨連合や通貨バスケットのようなものも含む。)第五に、他の主体に従属的に決める手段。第六に、通貨そのものを他の主体の通貨で代用するやり方などがある。

 貨幣価値の調整手段には、政府による手段と中央銀行による手段がある。政府による手段は、景気対策など、直接的な手段が多いのに対し、中央銀行による手段は、金利による施策のような間接的な手段が多い。
 政府による手段には、公共投資や物価対策、格差の是正のような政策的手段と規制の強化、逆に、規制の緩和、税制改正や税率の変更のような制度的な手段がある。また、施策の手段としては、国債の発行による貨幣の供給を増やすような入り口に対する手段と福祉施策による再分配策の様な出口に対する手段がある。
 中央銀行が執れる手段には、金利による貨幣の価値に対する手段や通貨の流通量に対する手段、また、外貨準備高の操作(市場介入)といったストックに対する手段がある。

 為替制度が有効に機能するか、否かは、実体経済とどこで、どの様にして、何に結びついていくかによって決まるのである。それは、決済に必要な経済的価値の裏付けとして何を準備するかに関わっている。世界の通貨当局が保有している準備資産の内訳は、IMFの準備ポジション、SDR、外貨準備、金などである。

 決済のための原資とは、経常取引にせよ、資本取引にせよ、決済をするためには、相手国の通貨に両替する必要がある。その為には、相手国の通貨、或いは、決済に必要な価値を代替する物や通貨が必要とされる。それが外貨準備である。
 ドル通貨圏にある財を円通貨圏に居住する物が購入しようとした場合、一旦、円をドルに両替しなければならない。円をドルの両替するというのは、円でドルを買うというのと同じ取引である。この取引が成立するためには、両替を仲介する機関がドルを準備しておく必要がある。ドルや円の過不足を補う勘定が外貨準備である。その原資をどの何で、どの様に賄うかが、外貨準備制度である。

 この外貨準備を基軸通貨によるのが基軸通貨制度であり、金のような物によって行うのが金本位制である。そして、SDRの様な国際通貨によるのが国際通貨制度である。

 債権国の存在は、債務国の存在を示唆する。債権国と債務国の関係で重要なのは、偏りの問題である。
 現在、アメリカは基軸通貨国として経常赤字を拡大しながら、国際収支をファイナンスしている。その関係が持続的であるか否かが問題なのである。経常赤字を拡大し続けることは、国内の生産力を犠牲にし続けていることを意味する。国内の生産力を犠牲にするという事は、生産拠点を失うことであり、とりもなおさず、国内の雇用、労働拠点を犠牲にすることに繋がる。それを可能としているのは、過去に蓄えた資産によるのである。その蓄えた物がなくなれば生産拠点を犠牲にしてしまうと、容易には、生産力を回復できなくなる。
 国際収支上の債務というのは、国家の負債だと言う事を念頭に置いておく必要がある。
 基軸通貨によって外貨準備を賄うという仕組みは、基軸通貨国は、自国の通貨を国際市場に供給し続けることを意味する。それは、恒常的な経常赤字を続けることにもなりかねない。経常赤字を恒常的に続けることは、国家としての生産力、体力を消耗することであり、結果的に国力の衰退を招きかねない。
 国際収支は、基本的に均衡することを前提とした制度であるべきなのである。その為には、国際的な機関による決済制度とそれに基づく国際通貨の存在が前提となる。それが国際通貨制度である。

 為替制度が成り立つ為には、幾つかの前提条件がある。
 為替制度が成り立つためには、第一に、複数の貨幣基準、即ち、貨幣単位が存在する事が前提となる。単一の通貨制度の範囲内では、為替という機能は必要とされない。
 第二に、通貨圏の存在を前提とし、通貨圏が貨幣単位を形成する。通貨圏には範囲がある。通貨圏とは、一つの貨幣的市場を形成する。
 第三に、単位貨幣間で一対一の関係(例えば、円とドル、ドルとユーロ等)においては、時点時点で価値は、常に、均衡している。即ち、価値の総体は、ゼロサムである。そして、二国間の通貨の単位の関係は、逆数である。
 重要なのは、市場と市場とを関連付けているのは取引だという点である。即ち、取引の有り様によって為替の有り様も変化すると言う事である。

 為替制度を成り立たせている前提条件と目的を鑑みると、為替制度を成立させる為に必要な要件は、第一に、発行権の所在。第二に、貨幣を市場に流通させる仕組み。第三に、貨幣の流通量を制御する仕組み。第四に、貨幣価値の決定手段、決済手段を制定、改廃する国際機関や市場の存在。第五に、決済の基準となる物や貨幣。第六に、決済に必要な物や貨幣の準備。第七に、取引の有り様を規制する仕方である。

 貨幣価値の決定手段、即ち、「お金」の値段の決め方が大切になる。「お金」の値段の決定手段には、第一に、市場取引、市場の相場による手段。第二に、当事者間の協議、協定に基づくやり方。第三に、他の通貨や実物に結び付けて決める手段。第四に、何等かの制度によって決めるやり方。(この場合は、通貨連合や通貨バスケットのようなものも含む。)第五に、他の主体に従属的に決める手段。第六に、通貨そのものを他の主体の通貨で代用するやり方などがある。

 貨幣価値の調整手段には、政府による手段と中央銀行による手段がある。政府による手段は、景気対策など、直接的な手段が多いのに対し、中央銀行による手段は、金利による施策のような間接的な手段が多い。
 政府による手段には、公共投資や物価対策、格差の是正のような政策的手段と規制の強化、逆に、規制の緩和、税制改正や税率の変更のような制度的な手段がある。また、施策の手段としては、国債の発行による貨幣の供給を増やすような入り口に対する手段と福祉施策による再分配策の様な出口に対する手段がある。
 中央銀行が執れる手段には、金利による貨幣の価値に対する手段や通貨の流通量に対する手段、また、外貨準備高の操作(市場介入)といったストックに対する手段がある。

 「お金」の機能の本質は交換にある。交換の媒介として貨幣は生まれた。この交換という機能が為替制度の本質でもある。
 市場は、交易の場である。交易は、交流、交換である。市場取引は交易によって成り立っている。交易というのは、最初は、物々交換だったのである。物と物と直接交換している段階では、貨幣は必要とされず、成立しない。この時代の貨幣は、存在したとしても主として儀礼的な物として用いられた。つまり、貨幣本来の働きは確立されていない。交易は、専ら、物と物との直接的交換によって為されていた。
 次ぎに、実物貨幣が出現した。貝殻とっいた希少品が貨幣として用いられた。それが金属(計量)貨幣になり、鋳造貨幣になる。鋳造貨幣の代表は、金貨、銀貨、銅貨である。そして、それが金銀本位制となり、金本位制へと発展する。金本位制も金貨本位制、金地金本位制、金為替本位制と発展し、不兌換紙幣制へと移行する。金本位制度は、紙幣制度の前段階に発生する。
 為替制度は、これら貨幣制度の変遷の過程で形成されてきたのである。
 国際市場は、一つの通貨によって統一されているわけではない。国際市場には複数の通貨制度が混在し、それぞれが固有の通貨圏を形成している。
 これらの通貨を調整するために、為替制度が必要とされるのである。

 為替の仕組みには、固定制度と変動制度がある。
 固定制度には、金銀本位制度、金本位制のように何等かの実物に貨幣価値を結び付けることによって貨幣価値の安定を計る制度がある。
 また、実物の変わりに通貨を基準とする制度がある。例えば、ドル本位制度である。ただし、この場合も金のような何等かの実物の価値を裏付けとする必要がある。
 また、他国の通貨を自国の通貨として使用する制度もある。他には、複数の国が、単一の通貨を使用する通貨同盟制度がある。また、基軸通貨に自国の為替相場を固定する、又は、実質的な固定するカレンシーボード制度がある。
 固定制度の中でもある一定の幅の中で調整される管理フロート制がある。管理フロート制には、複数の通貨にたいして自国の通貨を連動する通貨バスケット制度や基軸通貨に、特に、ドルに自国の通貨を釘付けする基軸通貨ペッグ制度、複数の通貨に自国の通貨を固定するバスケットペッグ制度などがある。
 変動相場制度には、経済情勢に応じて自国の平価を調整するアジャスタブル・ペッグ制、クローリング制などがある。また、為替の変動に一定の許容幅をもたせてその範囲で政策を決定するターゲット・ゾーン制などがある。
 
 市場は、集合体である。無数の市場が組合わさって全体の市場は形成されている。その典型が、国際金融市場である。
 なぜ、市場は、一つではないのかというと市場を成立させているのは、生活だからである。生活は、その生活を成り立たせている集団、共同体の持つ固有の行動規範を土台にして成り立っている。生活を成り立たせている社会的集団や共同体によって生活圏が構成される。市場は、生活圏を基礎にした形成される。生活圏は、地域や風俗習慣、信仰によって違ってくる。故に、市場は、生活圏の数だけ在るとも言える。そして、それぞれの生活圏の隙間を埋める部分にも市場が生まれる。
 この様に、市場は、単一ではなく。集合体なのである。

 為替制度によって明らかなのは、市場は、集合体だと言う点である。市場は一つではない。少なくとも単位貨幣の数だけ市場があり、その市場における貨幣価値を調節するために、為替という機構がある。

 市場が集合体であり、個々の市場が独立しているという事によっていろいろな問題が起こる。好例が石油価格の高騰である。石油価格は、何度が石油ショックと呼ばれるような現象を引き起こしている。
 中でも、2008年の石油価格の高騰は、小さな市場に投機資金が大量に流入したことも原因の一つである。

 為替相場というのは、貨幣の価格であり、貨幣の価格は、何をどれだけ輸入し、何をどれだけ輸出したのかに収斂する。その根源にあるのは国際取引である。そして、国内で、何をどれだけ生産し、国民に、どれだけ分配したかによって決まる。それは、取引の量を見れば明らかになるのである。

 為替相場に影響を与えるのは、第一に、各国の通貨制度、金融制度といった制度の問題、制度の違いの問題である。第二に、各国の金利、金融政策と言った政策の問題、また、政策の違いの問題である。中でも制度上の問題は、為替の長期的な変動に決定的な働きを及ぼす。

 もう一つ大切なのは、取引の存在である。取引が存在しなければ、貨幣価値は成立しない。取引を成立させている場が市場である。故に、市場が存在しなければ、為替制度も必要とされない。
 為替取引は、基準通貨間の、即ち、通貨圏間の取引によって発生する。複数の通貨圏間にまたがる取引が存在しなければ為替の仕組みは、必要とされない。通貨圏をまたがる取引があるという事は、通貨圏をまたがる決済があることを意味する。その決済の必要上、為替取引は生じる。その決済の土台となるのが、国際金融制度である。つまり、国際金融制度とは、交易を成り立たせるための通貨の管理、変換、調整装置だと言える。
 また、国際金融制度が成り立つためには、貨幣制度、通貨制度が前提となる。金融制度や為替制度は、その前提となる貨幣制度、通貨制度によって規制、制約を受けるのである。故に、貨幣制度、通貨制度の有り様が前提条件となる。更に、貨幣や通貨を制御する操作基準である会計制度の原則の上に、今日の金融や為替制度は成立している。

 為替制度を制御し、機能させるのは、取引による働きである。通貨圏間の取引がなければ国際為替制度自体が必要とされず、成立しないのである。
 また、国内、国外の取引によって成立した経済的価値が貨幣価値を決定付けるのである。故に、取引の結果が為替制度に決定的な作用を及ぼすのである。

 為替制度を決定付ける要素の一つに取引がある。取引は、取引が成立した時点では、常に均衡している。故に、国際収支の全ての項目の和は、常にも均衡、即ち、ゼロになる。(「国際金融入門」岩田規久男著 岩波新書)

 為替制度を成立させているのは、国際取引、国際交易、貿易であることを忘れてはならない。根本は、通貨圏間をまたがる取引なのである。その取引を成り立たせるために、国際為替制度がある。国際為替制度のために、国際交易があるわけではないのである。重要なのは、自由貿易体制を保護することが為替制度の重要な役割の一つなのである。この点を念頭に置いて、国際収支を鑑みる必要がある。
 ここ通貨圏の市場を保護することによって取引を成立させるために、為替制度があるのである。為替制度を保護するために、市場が破壊され、取引が成り立たなくなるとしたら、それは本末を転倒している。

 為替取引の結果を記載したのが国際収支である。国際収支は、複式簿記によることが原則とする。そして、居住者と非居住者の取引を前提条件とし成り立っている。(「国際金融の仕組み」秦 忠夫・本田敬吉著 有斐閣アルマ)

 国際収支上の取引は、複式簿記に準じて決められる。故に、常に取引には、反対取引があり、その総和は均衡している。その為に、国際収支の総和は、零になる。

 国際収支上において赤字、赤字と言うが、それは、経常収支上の赤字を言うのであり、国際収支の総和は、常に、均衡、即ち、零なのである。

 国際収支は、常に、均衡しており、国際収支の総和は、零である。この事を忘れてはならない。経常収支が赤字でも資本収支は黒字となる。経常収支と資本収支の均衡とその構成が重要なのであり、その意味において取引の持つ意味や働きを理解する必要がある。

 国際収支取引には、資本取引と経常取引、そして、外貨準備取引がある。資本取引と経常取引、外貨準備取引の和は、ゼロになる。式で表すと経常収支+資本取引+外貨準備増減+誤差脱漏=0である。

 国際金融市場の中で重要な役割を果たしている取引の一つに裁定取引がある。裁定取引には、空間的な歪みに対する取引と時間的歪みに対する取引、そして、通貨間の歪みに働く取引がある。

 通貨間で働く裁定取引とは、基軸通貨との相対的価値と、第三国の通貨との相対的価値を裁定するように働く取引である。
 通貨間に圧力が働く。この圧力が通貨価値の一方向への急激な変動を抑止している。この圧力が働かなくなると貨幣価値は、一方向に暴走する。

 この様な通貨間に働く圧力は、各国間の交易の状況によって生み出される。つまり、為替の動向には、国際交易の力学的関係が複合的作用しているのである。

 重要なことは、為替取引というのは、双方向の働き流れを持つという点である。この双方向の動き、働きが均衡することによって為替市場は成り立っている。一方通行的な流れでなく。また、一つの方向に偏って働きでも、国際為替市場は成立しなくなる。

 ヘッジは、反対取引によってリスクを緩和する目的の取引である。ヘッジ取引によって同調的な動きを、同じ方向の動きを経済主体がとれば、かえってリスクを増幅する。特に金融機関が主導的に行えば、金融危機を招くことになる。

 経常的取引と資本取引の違いは、時間価値の差として現れる。
 取引が成立するとその時点での貨幣価値が実現すると同時に、同量の債権と債務が生じる。経常的取引は、その時点時点における決済のやりとりとして処理される取引であるのに対して、資本取引は、貸借関係として処理される取引である。

 物的取引、人的取引、貨幣的取引がある。物的取引とは、交易をいう。人的取引とは、雇用やサービス取引をいう。貨幣的取引とは、資本取引をいう。

 資本取引は、実物市場に雇用を生み出さない。実物市場に雇用を生み出さないという事は、生産的産業の衰退をもたらすと同時に、実物的市場で働く労働者に所得を通じた通貨が分配されなくなることを意味する。それが深刻なのは、国内の産業を荒廃させる事である。

 市場取引というのは、貨幣のやりとりを仲介にして交換を実現する事である。取引が行われることによってその時点での貨幣価値が実現し、債権と債務が発生することを意味する。その時点での貨幣価値は、貨幣、即ち、現金のやりとりによって実現する。
 為替市場で成立する債権と債務関係は、対外債務と、対外債権だと言う事である。つまり、内と外との関係を基礎としているのである。それは、内なる空間と外なる空間が存在しなければならず、内と外とを成立させる空間の存在を前提としているのである。
 そして、その関係を成立させているのは、市場内部のここの経済主体だと言う事である。
 対外債務は国の借金だという捉え方があるが、国の借金と言うよりも経済主体の負債が集積した債務だと言うことである。

 債権というのは、将来、貨幣や財を受け取る権利を言う。債務というのは、将来、貨幣や財を支払う責務がある。この様な債権や債務の権利や責務は、国家が法によって保証している。法によって保証するというのは、法によって強要、強制することを意味する。この様な強制力は、国際市場にも働かなければならない。そこに国際法と、国際的権力の存在が前提となる。それは、悪い事ではない。

 経済が成熟し、市場が最も成果を享受するはずの社会でありながら、なぜ、貧困化していくのか。それは、経済の目的や在り方を誤解しているからである。

 経常赤字と言う事は、資本黒字を前提としている。資本黒字というのは、通貨圏内部の金融取引を前提としている。金融取引というのは、金融資産を介して貨幣の不足を補う取引であり、それ自体が生産的な取引ではない。生産的な行為ではないという事は、基本的には、実体的産業に雇用を創出し名手と言う事を意味する。また、その素となる通貨、資金は外部に依存した取引である。
 実物市場に資金・通貨が流れ込まずに、貨幣的市場に資金・通貨が滞留している状態である場合が多い。

 国際収支が黒字になると、よく内需拡大が言われる。しかし、内需を拡大すれば国際収支が均衡するのかというとそれは別である。国内の市場が必要としていないのに、需要を拡大しても意味がない。それよりも国民生活、生活水準の向上とそれに伴う所得の問題なのである。つまり、輸出と輸入の均衡でしかない。

 経常収支というのは、輸入と輸出の差である。経常収支が赤字では、国内の輸出産業が、国内、国外での競争力を失い、成り立たなくなってしまう。経常収支の赤字は、産業の空洞化の原因であり、結果である。

 国内の人件費や物価が上昇したからといって人件費や物価が安い海外に生産拠点を移転し、収益を向上させたとしても、国内の国民所得を増やし、景気を良くすることには結びつかない。かえって、国内の産業の空洞化を招き、雇用の機会を奪うだけである。
 経済の目的は、国民生活の向上である。国民生活の基盤が所得であれば、経済が成長発展すれば所得の上昇を招くのは必然的帰結である。なぜならば、生活か水準の向上が経済成長の目的だからである。生産拠点を移転した先の人件費の上昇率が高ければ、いつかは、同じ水準に達する。

: つまり、国内の生産力が鍵を握っており、所得と労働の質と価格によって決まるのである。いくら国際収支が改善できたとしても、つまり、経常収支がよくなったとしても国内の所得や生産力が改善されなければ、意味がない。重要なのは、国際収支が国民生活にいかに貢献したかなのである。

 生産力を持たない社会は、従属的な社会にならざるをえない。自らが実体的なものを何も生み出せないからである。その様な社会は、他の社会に寄生するか、搾取することによってしか生存できなくなる。経常赤字の問題点は、そこにある。つまり、借金に依存した社会にならざるをえない。しかも、その借金というのは、過去に蓄えた物でしかないと言うことである。それは、純粋に実物産業に対する投資によって賄われているわけではない。
 基軸通貨国の持つ深刻な問題がそこにある。国際市場で基軸通貨国としての役割を果たそうとすれば、国際社会に外貨準備として自国の通貨を供給し続けなければならないからである。それは、慢性的な経常赤字を続けることを意味する。慢性的な経常赤字を賄うためには、借金をし続ける必要がある。それは通貨圏内の産業を衰退させる結果を招くのである。
 その解決手段は、国際的な機関によって為替市場を統御する以外にないのである。

 為替市場において、貨幣価値を決定付ける要素は、取引である。取引が実体ある物か否かが重要な鍵を握る。取引の背後に生産的に活動がなければ、その取引は、実体的な経済の是正する働きに結びつかないのである。
 実体的な取引というのは、経常取引である。経常的な取引こそ、国内の物価や生活水準に影響し、通貨圏間にある歪みを是正する一番の要素である。

 国際為替市場は、貨幣の動きとして現れるが、貨幣市場の動きだけを観察してみても理解できない。その貨幣市場の背後にある人的市場や物的市場の動きと結び付けて考える必要がある。
 それは、貨幣は、本来、経済的価値を測る尺度であり、その対極に物や人が生み出す価値があるからである。そして、物や人が生み出す価値こそが本源的な価値だからである。物や人が生みだした価値によって物と物と交換を促すのが貨幣である。故に、物と「お金」即ち、貨幣とは、逆方向に流れる。そして、この貨幣と物の流れが市場の活動の源となるのである。

 貨幣の変遷を見て明らかなように、鉱物資源や石油、穀物といった生活や産業に必要な物資と密接に結びつくことによって貨幣価値は確立してきたのである。それは、貨幣価値が生活圏に密着している事の証左である。そして、その様な実体的価値の中から貨幣の裏付けとなる物も発生してきた。その好例が金本位制である。
 金本位のように直接的に貨幣価値に結びつかなくても、オイルショック時の石油のように貨幣価値の変動に決定的な働きをする物資もある。いずれにしても、貨幣価値は、本来、実物価値に結びつくことによって形成される基準、尺度である。また、そこに介在しているのは取引である。
 つまり、国際収支で重要なのは、ここの取引が国民生活にどの様な影響を及ぼしたかなのである。

 各通貨圏では、市場の状況や構造に違いがある。例えば産油国と石油の多く輸入しなければならない日本とでは、交易の条件が違う。一方通行の通貨の流れでは交易は成り立たなくなる。なぜならば国際収支の総和は、均衡しているからである。

 国内の生産力は、生産のために費やす消費量、即ち費用による。費用の中でも分配に直接影響を与える所得の水準に行き着く。所得は、労働の質と量と価格による。そして、所得の水準は、生活に反映され、その市場の物価を構成する。

 個々の市場取引は、資金の調達力と消費の関係によっている。そして、資金の調達力は所得から求められ所得は、生産力に依存している。反面の消費は生活力に基づいている。

 根本は、生活水準である。ある一定の生活水準を達成する方向に経済は向かう。その生活水準を達成する為には、一定の所得を獲得することが前提となり、また、所得が消費の性向を決める。それが物価に反映されるのである。労働費と物価が交易の水準を画定し、為替相場は安定する。

 結局、国内市場の購買力の問題であり、国民一人一人の所得の水準とバラツキが重要となるのである。
 貨幣価値を決定する基本的要素は、国民生活と民度が重要な役割を果たしているのである。ただ数字だけ追っていては、経済の実体を理解することは困難である。要するに、国民が何を必要としていて、どれくらい満たされているかの問題なのである。

 労働費の違いが市場間の格差を生んでいることになる。
 故に、労働条件や労働環境といった前提条件を均質化し、労働の量と単価を平準化した上で生活条件や生活水準を統一される方向に向かう。そして、労働費が一定になった時、国際市場は確立される。根本は、人的市場なのである。
 最終的に問題になるのは、一番重要なことは、国民人一人の生活水準である。国民一人一人の生活がよくならない限り、真の繁栄はあり得ないのである。
 企業の収益がよくなったとしてもそれによって多くの仲間が職を失い、或いは生活に苦しむとしたら、いかに、強国になってとしても、その為に多くの国民の生命財産が犠牲となったら、真の繁栄とは言えない。
 いくら企業が繁栄しても、金持ちが増えた、贅沢品に満たされたとしても、それによって事業に成功した、国が豊かになったとは言えないのである。

 勤労なき繁栄は、かえって毒である。

 経済の仕組みの目的とは、収益や生産性を高めることにあるわけではない。収益や生産性を高めることは手段であり、目的ではない。経済の仕組みの目的は、社会に必要な財を生産し、それを社会の隅々にまで分配することにある。市場は、その為の装置に過ぎない。
 金融危機に際し、投資銀行の経営者の常識外れの高収入が問題となった。利益や収益をあげても所得が極端に偏れば、結局、経済の効率を悪くする。実物市場から資金が排除されることが問題なのである。

 収益中心、生産中心の社会、経済から、より生活に密着した社会、経済構造へと変化させない限り、市場が成熟すればするほど社会は貧困化していくことになる。

会計の働き


A 会計思想


 会計制度は、現代経済において基盤的な役割を果たしている。それなのに会計制度の基幹、中核となる思想が明らかでないことが問題なのである。会計制度の位置付けや働きが明らかにならなければ、現在の市場制度や貨幣制度は、その目的や機能を明らかにすることは出来ない。問題はそこにある。
 そして、会計制度を成立させている個々の要素、即ち、経営主体、利益、収益、費用、資産、負債、資本、収入、支出、資金、金利、税金と言った要素の定義、働き、相互に及ぼしあう関係を明らかに出来なければ、経済現象を制御する事は出来ない。

 会計というのは思想なのである。しかも、実務的な思想である。それだけに実効力のある思想である。それでいて、所謂、思想として認識されにくい。それが現代経済の問題点を不明確にしている原因でもある。

 現代の経済体制において問題なのは、会計という言語を用いて、思想を語ろうとしない事が問題なのである。

 無形固定資産、知的所有権の問題、営業権、暖簾、ブランド、未実現利益、償却費、法人、これらは、思想である。これらの意味や役割をどの様に定義するかによって経済の有り様が違ってくる。これは、観念的な哲学よりも、ずっと人々の生活に密着した思想なのである。

 市場経済や貨幣経済は、資本主義固有の存在ではない。社会主義や、共産主義にも、市場や貨幣は存在しうる。社会主義や共産主義の中には、市場や貨幣を否定した形態もある。しかし、それは、市場や貨幣の働きや意味に対する解釈の相違からくるものであり、社会主義や共産主義の本質に関わることではない。問題は、市場や貨幣の有り様、また、働きなのである。特に、純資産に対する考え方が経済体制の根本的な差を生み出す。

 資本主義制度というのは、会計と言う言語で書かれた、思想である。一口に資本主義というが、資本の有り様によって、経済体制は決まってくる。必ずしも、社会主義や共産主義と資本主義とは背反的な関係にあるわけではなく。資本に対する考え方によって私的資本主義と社会主義的資本主義の差が生じるだけである。
 逆に、資本主義体制と言っても必ずしも会計的な用語が通用するとは限らない。例えば、経済主体の中で、企業は、実現主義、発生主義に基づいて、複式簿記の世界であるのに対し、家計と、財政は、現金主義であり、、単式簿記の世界である。
 また、企業会計は、決算主義(結果主義)、期間損益主義なのに対して、財政は、予算主義であり、単年度均衡主義である。

 財政は、なぜ、予算主義を採るのか。また、採らざるをえないのかである。予算主義を採るのか、また、予算主義を採らざるをえないのかは、それなりの理由がある。

 予算主義と決算主義の違いは、先ず予算主義は、第一に、前決めだと言う事である。第二に、支出を前提とした予算になるという事である。第三に、裁量権が狭いという事である。それに対して、決算主義は、第一に、結果責任主義、実績主義だということである。第二に、収益を基礎としたものだと言うことである。第三に、裁量権を大幅に与えられている問い事である。
 予算が前決めというのは、それは、公共事業は、あくまでも公共の福利を目的としたものという前提によるからである。国民の負託によって行う事業であるから、事前に国民の代表者たる国会の承認を得る必要があるというのが財政の原則とされている。それに対し、民間企業は、経営者が株主の委託によって事業経営をしている故、株主総会に経営の結果と実情を報告する義務があると考えるのである。
 また、公益事業は、民間のような収益、利益を目的としていないと言う認識を前提としている。しかし、それは民間事業に対する偏見である。私的事業と言えども、事業には固有の目的があり、利益はその指標に過ぎない。民間企業は、利益だけを目的としているわけでもなく。公益事業は利益を上げる必要がないという口実にはならない。
 また、単年度均衡主義というのは、基本的に繰越金を認めないという事である。それに対して、期間損益主義というのは、利益を前提とした思想だという点である。繰越金を認めないと言うのは、税収というのは基本的に納税者の付託によるものだという思想である。故に、納税者から得た収入は、年度内に使い切るというのが建前である。ただしこれは、あくまでも思想なのである。所謂、法則のような絶対的原則ではない。

 なぜ、財政は、予算主義、また、単年度均衡主義でなければならないのか。それは、責任の所在と取り方の問題でもある。つまり、財政というのは個々の支出に対して個々の部署が責任を持つが財政全般に対しては責任を持たないという事であり、企業経営は、事前の承認は得ないが結果に対して責任を負うと言う事である。故に、財政は、現金主義であり、民間企業は、期間損益主義なのである。
 それは、人事制度に顕著に現れている。民間企業は、実績に応じて報酬が支払われるが、公共機関は、役割に応じて報酬が支払われるのである。
 民間企業では、所有と経営が分離したところから発し、公共事業は、政治権力と官僚制度の分離したところから発したところに起因がある。

 また、財政は、儲けることより、使うことに重きを置いており、民間企業は、使うことより儲けることに重きを置いている。

 ただ今日、財政で問題となっているのは、国家構想の欠如である。国家構想がないままに、金を使う目的ばかりを問題としている。その為に、公共事業が本来の目的を見失って利権化したり、また、景気対策という目的だけが先行する結果を招いている。
 それが経済危機や財政危機を袋小路に追い込み、泥沼化させる原因なのである。馬鹿げているのは、経済対策のために戦争をすると言ったようなことである。
 財政の目的は、国民の福利の向上にあることを忘れてはならない。

 バブル崩壊によって発生した不良債権の問題は、単なる不良債権処理の問題ではなく、政策の不在の問題である。
 つまり、国民の住宅問題をいかに解決するかという延長線上で不良債権問題を捉えるのではなく。ただ、不良債権をどうにしかしなければならないから、問題とするという発想では、不良債権の抜本的解決はできないのである。

 財政と家計は、現金出納会計である。現金出納会計は、単式簿記である。故に、財政と家計は単式簿記の世界である。財政や家計には、資産、負債、資本、収益、費用勘定はない。故に、財政にも、家計にも、利益の概念は家計にはない。あるのは、収支だけである。

 財政赤字が問題になる時、赤字の意味が、企業の赤字と混同される場合がある。複式簿記で言うところの赤字は、期間損益に基づいた概念である。利益という概念が現金主義にはないのであるから、現金主義、単式簿記上の赤字と実現主義、発生主義、複式簿記上の赤字とは、本質が違う。つまり、財政赤字と民間企業の赤字とは、本質が違うのである。同列には語れない問題である。

 現金主義と発生主義、実現主義の違いは、財政赤字と企業の赤字を比べてみると明らかになる。

 企業は、赤字が続くと経営破綻する。しかし、経営が破綻する直接の原因は、赤字ではなくて、資金繰りがつかないなることである。
 よく負債と資本の違いは、資本は、返す必要がない資金であるのに対し、負債は、返さなければならない資金だと説明される。
 その返さなければならないと言う意味は、金利を指して言うわけではなく。元本部分を指して言っているのである。
 ところが、元本の返済に相当する部分が利益計算の上には出てこない。その為に、問題が顕在化しない。原因が掴めないのである。それによって黒字倒産、資金繰り倒産などと言う事態が発生する。

 現金主義の場合、逆に、この元本の返済が顕在化する仕組みになっている。つまり、会計上は、表に出ない問題が表面化し、事態を深刻にするのである。つまり、会計と財政は、対極に位置することになる。
 現金主義では、現金収支が前面に出てしまうのである。それは、会計と思想が違うからである。もし、同じ視点で考えようとするならば、財政を会計に変換するか、会計を現金主義に変換するしかない。

 金融政策を問題とする際、金利のことばかりが言われるが、現実は、資金不足が最大の懸案事であり、問題なのは資金の確保、つまり借入なのである。資金繰りがつかなくなればどんな高利でも手を出しがちなのである。故に、資金繰りがつかなくなる原因は、元本の返済なのである。つまり、急に元本の返済条件を変えられたり、借り換えができなくなったっり、運転資金の手当てができなくなることなのである。新規投資の資金に困るからではない。経営活動のベース、基盤にある資金が不足することなのである。だから、貸し渋りであり、貸し剥がしなのである。

 しかも、返済に充てる資金は、市場から調達するのが原則である。その市場が、バブル崩壊時や恐慌時は、機能しなくなっているのである。

 個々の企業で言えば、不良債権を処理をしても、借金は、残るのである。しかも裏付けのない借金である。
 その為に、借金の返済に負われて、新規投資の資金の余力がなくなる。更にそれに追い打ちを掛けるのが、景気の悪化に伴う収益力の低下である。
 収益によって借金を返済しなければならない時に、市場環境が悪化し、競争が激化する。或いは、市場が飽和状態になり、売上が減少する。
 それが企業の体力を徐々に奪っていくのである。
 金融機関にしてみれば通常の状態では融資を渋る対象ばかりになる。つまり優良な融資先が減少することになる。
 その為に、金融市場や資本市場、先物市場、商品相場において、手っ取り早く利益を上げようとする傾向が強くなる。それが、次のバブルの種になるのである。

 もう一つ、会計思想を語る上で重要な課題がある。それは、時価主義と取得原価主義の問題である。

 時価主義が近年、話題になっている。しかし、なぜ、時価主義でなければならないのか。時価主義とは一体何かについては、あまり、語られていない。時価主義にせよ、取得原価主義にせよ。また、現金主義や実現主義、発生主義にせよ、認識の問題である。つまり、思想の問題である。そして、何れの主義を採るかによって経済の有り様が違ってくる。

 取得原価主義とは、財を取得時点でま現金価値を基にして貸借の均衡を評価する考え方である。それに対し、時価主義とは、決算時点で、その時点その時点で更新された現金価値を基にして貸借の均衡を評価する考え方を言う。取得原価主義によるか、時価主義によるかによって企業評価は大きく別れる。必然的に景気の状況も変化する。

 経済体制の違いは、資本の在り方によって変わる。資本の有り様は、資本を支配する存在によって規制される。つまり、経済体制の有り様は、資本、即ち、経営主体の所有者は誰かの問題に還元できる。
 資本をどうするのかは、第一に所有権の問題である。第二に、経営権の問題である。第三に事業継承の問題である。
 社会主義か、資本主義かといっても、基本的には、国営か、民営かの違いであり、誰が、経営主体を支配しているかの問題に還元される。つまり、経済主体の所有権の問題である。

 経営主体の所有権を、第一に、私的(経営者個人等)なもの、第二に、国家的なもの、第三に、ある種のコミニティ、社会的なもの、第四に、消費者のもの(生協)、第五に、同業者組合(協同組合、農協、漁協、プロリーグ等)のようの機関のもの、第六に、従業員、労働者(労働組合)のもの、第七に、株主の様な投資家のもの、第八に、金融機関のような債権者のものに帰すのかによって経済体制は違ってくる。

 現代の資本主義は、混合型資本主義であり、純粋の資本主義ではない。

 人間は、経済に何を求めているのか。経済の役割を理解するためには、それを明確にする必要がある。つまり、経済の目的である。不況も、貧困も、戦争も、人間の強欲の結果である。それは、経済に何を求めているかが、ハッキリしていないことが原因なのである。
 経済に何を求めているのか。例えば、利益、何を期待するのかである。また、経営主体とは何かである。

 利益は、経営状態を表す目安に過ぎない。その証拠に、企業は、赤字だという理由だけで潰れるわけではない。資金の供給が断たれることによって潰れるのである。赤字というのは、資金を供給するか、否かの判断を促すだけである。第一、公共事業や財政には、利益という概念そのものが欠落している。故に、民間企業では、利益が出せなければ、責任が問われ、資産、財産を没収されるのに、公務員は、責任を問われるどころか、同情され、高額の退職金を保証される。思想が違うのである。
 問題は、利益が何を意味しているかである。利益を上げる目的も、利益の働きも解らずに、闇雲に利益を追求している。それが、現代経済の姿なのである。本来は、赤字だから悪いというのではなく。赤字の原因なのである。原因次第では、資金を余分に供給する必要も生じる。善悪の問題ではない、事業の有益性と状況の問題である。つまり、企業に何を我々は求めているのかの問題なのである。
 また、経営主体は、機関なのか、それとも、共同体なのかである。企業というのは、たんに生産をし、利益を上げるための機関なのか。それとも、人間の生活を支える共同体なのかである。現代社会は、企業から、人間性をとことん削除してしまっている。それこそ、企業は、唯物的存在でしかない。最近では、物的要素まで失い、唯金的存在に堕しつつある。
 経済は、人間の営みである。単に、労働をコストとしてしか認識できなくなった時、経済は、人間の営みを排除してしまうことになる。それは、経済にとって自滅的な事柄である。
 会計制度、道具、手段に過ぎない。道具、手段である会計制度に支配された時、人間は、経済の本来の目的を見失うことになる。会計制度、人間の生活をより良くするための手段、道具であるうちは、有効に機能することが出来る。しかし、一度、金儲けの手段・道具にだした時、会計制度は、両刃の刃となって人間を破滅へと導くであろう。

 経済体制も、政治体制も原理に基づくものではない。思想に基づくものである。そこに現れる現象は、人間の為せる所業の結果に過ぎない。神の摂理でも、自然の法則でもない。故に、人間が改めない限り、改まらないのである。

 経済的な成功者は、評判が悪い。経済的な成功者に対して形容される言葉は、破廉恥とか、強欲、冷血漢、計算高い、狡猾、悪辣、狡賢い、と言ったものが多い。それは、嫉妬や羨望、妬み、やっかみだけとは言えないだろう。
 現在の市場の仕組みには、そうしなければやっていけない。そう言う人間しか、生き残れないと言う状況があるからといえるのである。

 投機が悪いとしても、皆が、投機的なことをやっている時に、同じ事をやらなければ、生き残れなくない状況になることがある。
 良いも、悪いも、やらなければ生き残れないならば、多くの者は、悪いと知りつつもやらざるを得なくなるだろう。そして、実行した者だけが生きのびるとしたら、結果的に、生き残った者は、実行した者だけと言うことになる。
 それがモラルハザードを引き起こす。特に、善悪の判断が曖昧な時に、この様な状況は起こりやすい。

B 会計を構成する要素


 会計制度は、通貨によって動いている仕組みである。資金は、会計制度の動力、エネルギーだといえる。エネルギーは力であって無形な働きである。
 通貨の力、即ち、資金力は、電力と言うよりも水力に似ている。水力発電機は、水の流れによって水力が生じ、発生した水力によって発電機を動かす機械である。
 水力によって動く機械や仕組みは、水の流れによる力によって動くのである。仕組みや機械の中に水がなかったり、水が静止している時は、水力は生じない。
 財務情報を視る時に注意しなければならないのは、財務諸表に表示されている数値は、実在する通貨の量を表してた数値ではないと言う点である。財務諸表に表示されている数値は、通貨が流れた痕跡に過ぎない。表示された数値だけの現金が用意されているわけではない。数値が指し示した対象の貨幣価値の水準を示した値に過ぎないのである。

 会計制度、資産、負債、資本、収益、費用の五つの要素からなっている。これら五つの要素の働き、資産の働き、負債の働き、資本の働き、収益の働き、費用の働きが市場の動きを支配している。
 そして、これらの五つの要素を機能させているのが貨幣の働き、即ち、機能である。

 先ず総資産と総資本は、帳面上均衡していることが前提となる。帳面上均衡しているという事は、会計的に均衡していることを意味する。

 資産には、事業用資産と金融資産がある。また、資産は、換金しやすさに対応して固定資産と流動資産に区分される。また、資産の貨幣的外形によって非貨幣性資産と貨幣性資産が分類される。
 また、将来、損益上において費用化されるかどうかで、費用性(償却)資産と非費用性資産に分類される。

 負債と資本によって総資本は成り立っている。負債と資本の違いは、負債でいえば元本、資本でいえば元金を返済するか、しないか問題である。資本というのは、永久に元本を借り続けている負債のようなものである。
 この違いは、経営の安定性に重要な影響を与えている。景気が悪化した時、金融機関や債権者が資金の回収を測ると負債に依存している企業は資金に窮することになるからである。逆に、外部資本に頼っている企業は、経営権に影響がでる。
 負債と資本のもう一つの違いは、金利と配当の違いであり、金利は元本に関連付けられ、配当は、利益に結び付けられている点である。

 利益は、会計的にいうと収益から費用を引いた数値である。しかし、利益は一様ではない。何を収益とし、何を費用とするかによって利益は違ってくる。そして、利益を生み出すのは、人間の活動であることを忘れてはならない。利益は、社会的な産物であり、人間が、市場の活動を通じて作りだした会計的結果である。つまり、利益がでるでないは、社会の仕組みと人間の活動の相互作用によって決まるのである。利益は、自然に委せれば計上されるものではない。そして、利益は、会計的概念である。

 ドクターヘリを運営している企業が赤字で存続が難しいというニュースをテレビの報道番組で取り上げていた。なぜ、有益だと社会的に認められている事業が成り立たないのか。それは利益にある。
 現実よりも会計処理、つまり、観念、理屈が先行し、現実の経済を左右している。会計の論理が現実の経済を左右しているというのに、専門過ぎて会計の論理が問題にされることは稀である。わけの解らないことに、わけの解らないまま振り回され、的はずれな所を検討し、それでいて結局、出された結論に従わざるをえないことが問題なのである。
 会計をあたかも所与の原理であるかのごとく錯覚していることが原因なのである。会計は、あくまでも人為的尺度である。重要なのは、その背後にある経済の有り様なのである。
 社会に必要で有用な事業をただ儲からないからという理由だけで葬り去るとしたら、本末転倒なのである。それが社会にとって必要で、有益な事業ならば儲かるようにすればいいのである。
 逆に、社会にとって悪影響しか与えないのに、儲かるからと言って繁盛させてしまうのもおかしな話である。最近のテレビが視聴率に振り回され、良質な番組が視聴率が低いからといって淘汰され、俗悪な番組を、視聴率が高いからと言ってもてはやしているのは、好例である。
 根本に、公器であるテレビ放送を、どの様に社会に役立てるべきかという発想が欠如しているのである。結局、テレビ放送を私物化して儲けの手段にしているに過ぎない。

 利益を上げることを、経営主体の至上命題と仮定するならば、企業や社会の有り様が悪くて利益が上がらないとしたら企業や社会の仕組みや経営の仕方を変革する必要がある。重要なのは、事業の存在価値、効用なのである。

 利益を評価する場合、赤字だから良いか、悪いかの問題ではない。
 利益には、いろいろな意味がある。赤字にも、いろいろな理由、原因がある。経営者の不可抗力による利益や損失もある。為替の変動によって利益がでたり、赤字になったりもする。また、生鮮食料のようなものを扱う産業は、災害やその年の作柄に利益は左右こされる。待て、石油産業のような原産地が限られている産業は、政治的なリスク、地政学的リスクに収益は影響される。
 損失も、一時的な赤字なのか、それとも継続的な赤字なのか。赤字になるのは、産業の構造的な問題なのか。それとも、経営者の能力の問題なのか。
 なぜ、何の目的で、何を基準にして利益を上げるのか。利益の元は何かを明らかにしないで利益ばかりを追求しても経済をよくしていることにはならない。それは、意味もなく働いているだけである。何のために、利益はあるのか、それが重要なのである。
 利益もただ上げればいいというわけではない。過剰な利益は、かえって弊害を引き起こす素となる。

 利益は、結果というより目的、目標であり、多くの場合、結果が出た時は手遅れである。利益は、経営を継続するための一つの指標である。だからこそ、企業は、赤字でも継続できるのである。その為の利益である。
 元々、経営状態を、現金収支から判断していた。しかし、それでは、投資と費用の関係が掴めない。だから、現金収支から期間損益、主体の会計になったのである。
 キャッシュフローが流行っているが、その辺の事情をよく理解しておく必要がある。利益を客観的事実であるかのごとくいうのは間違いである。利益をどう設定するかは、経営の実体をいかに反映するかの尺度の問題なのである。
 利益によって経営の実体が理解できなくなってきたのは、利益が経営の実体そぐわなくなってきたことが原因なのである。それは、何に利益を求めるかを明らかにしていないからである。

 そして、為替や石油価格の高騰のような経営上の不可抗力から生じた損失にどう対処するか、また、過大な利益をどう社会に還元するのかの方がより本質的な問題なのである。その為に、利益をどう定義し、どう設定するかが重要なのである。

 何が、何でも増収増益でなければならないと言う考え方が危険なのである。減収や減益でも、赤字だったとしてもその原因が明らかであれば対策の建てようがある。
 目的があって利益は、人為的に計上される。つまり、目的に応じて、利益の計算の仕方は決められるべきものである。

 重要なのは、企業業績は、基本的には、長期的に見て事業が成り立つか否かが重要なのである。また、事業が成立しないとしてもその原因が何かである。
 事業というのは、単に採算性だけが問題なのではない。利益が上がらなければ、上がらないなりの原因がある。その原因を明らかにすることが重要なのである。

 利益は、拡大均衡によってのみ得られるものではなく、縮小均衡によっても得られる。問題は、利益を上げるために、何が作用し、何が犠牲になったかである。問題なのは、拡大均衡によって得られた利益が妥当なのか。縮小均衡によって得られた利益が妥当なのかである。その妥当性は、その利益を計上する上での前提に関わる。つまり、市場の状況、景気の動向、その産業の社会的有用性などである。また、その産業の社会的働きも重要である。社会的働きは、生産性だけで測られる性格のものではない。

 金融機関が目先の利益ばかり問題として事業の将来性を見誤れば、経営は、成り立たなくなる。
 流行の産業ばかりをもてはやし、社会に有用な産業を軽んじたら、その国の未来はない。

 会計的な位置と運動と関係から働きは生じる。それは構造的な働きである。構造的な働きとは、複数の要素が、相互に影響することによって生じる作用である。
 働きは、時間の関数であるから、会計にも時間は関係してくる。

 位置は、価値を定め、運動は、価値を変化させる。運動には、外部運動と内部運動がある。位置エネルギーは価値を持ち、運動エネルギーは、価値を生み出し、関係は、位置や運動の働きを明らかにする。

 位置によって示される価値は、静的な価値である。それが変化するのは、市場に現れる事によってである。静的価値は、潜在的な価値を持つ。その価値は、貨幣価値が成立することによって債権と債務の関係によって生じる。貨幣価値を顕在化するという事は、資金力、資金調達能力である。

 会計において、重要な概念に時間の概念がある。会計は、会計期間を定め。その期間内で損益を決算する。

 家計を損益、貸借によって管理しようとしても現実的ではないであろう。会計で一番問題になるのは、月々の収支であって損益ではないからである。この事は、ある意味で期間損益の意義、意味を表している。また、企業経営のわかりにくさの一因でもある。しかし、期間損益が確立されたからこそ、経営の長期的均衡が可能となったのである。

 貨幣経済で重要なのは、流動性である。流動性は、速度の問題である。速度は、単位時間あたりの変化の量として認識される。
 価値の総量は、定数+変数(単位あたりの変化の量)×時間と言う式で表される。変数は、基数×率によって定まる。

 期間損益が確立されることによって、会計的な位置と運動と関係が定まる。それが会計的機能の起源である。

 そして、利益は、期間損益に基づいて導き出される数値である。つまり、利益は、時間の関数である。つまり、利益というのは、元々会計的操作によって導き出された概念なのである。

 時間は、変化の単位であり、変化は、速度が重要であるから、期間損益では速度が重要な要素なのである。

 故に、期間損益では、速度も重要な要素の一つである。会計制度において、時間の概念は、重要な意味を持っている。そして、時間の概念は、速度に還元される。速度は、流動性と固定性の概念を構成する。

 貨幣経済下において市場価値を仲介する物は貨幣である。故に、市場価値は、貨幣価値と言っていい。貨幣は、交換価値を表象したものであり、交換の目的は、所有権の転移と消費である。つまり、取引の目的は、所有権の転移と消費である。所得の転移は、資産と負債、消費は、収益と費用の概念を生み出す。
 さらに、所得の移転と消費は、現金化される速度に関係している。所得の転移と消費が取引の基準だと言う事は、資産と負債と収益と費用が、現金化される速度の問題なのである。

 基本的に変化が表面に現れない勘定科目に属する部分、時間が陰に作用する部分を貸借対照表上にあらわし、変化が表に現れる勘定科目を様に表した。それが固定という概念で、流動性に対応している。

 流動性というのは、その物や権利が持つ現在的貨幣価値の変化の速度を言う。即ち、現金化される速度を流動性という。現金は、その時点における貨幣価値を実現した数値、あるいは、数値を公式に表象した物である。
 現金化されるという事は、その時点で消費されることを意味する。消費されるという事は、費用化されるという事である。つまり、資産や負債というのは、現金化されるの留保した状態、又は、待機した状態と言える。

 時間が陰に作用しているか、陽に作用しているかが重要になる。
 現金は、時間的価値は、陰に作用する。つまり、時間的価値は、表面的なは現れない。
 その物や権利は、資産及び負債である。資産、及び、負債は、債権や債務を派生させる。債権と債務は、時間的価値が陽に作用する。故に、その速度が問題になるのである。
 速度の速い物や権利を流動的といい。速度の遅い物や権利を固定的という。

 貸借の均衡は、資産、負債の時間価値の均衡によって保たれている。それは、資本(純資産)の増減として現され、最終的に現金の過不足に還元され、清算される。

 資産には、費用として消費されるのを留保した状態の財と取得した時点で費用化する権利を取得した財との二種類がある。前者を費用性資産、あるいは、償却資産と言いい。後者を非費用性資産、非償却資産という。
 資産に掛かる費用というのは、基本的に、所有に掛かる費用という性格を持つ。つまり、維持費+時間的価値なのである。時間価値は、見かけ上の利益や損失を生み出す。それが未実現損益である。

 負債は、負債が成立した時点の現金価値から返済された額を引いた数値として表れる。また、負債は、時間的価値として金利を派生させる。金利は、発生した時点で現金化され、費用化される。

 費用とは、現金化され消費された財を言う。費用化された部分には、時間的な価値も含まれる。

 負債から派生する時間的価値は、金利である。これは貨幣が生み出す時間的価値である。それに対して、資産が派生する時間的価値には、二種類ある。一つは、資産が直接的に生み出す収益である。典型的なのは、不動産が生み出す地代、及び、家賃に相当する価値である。それから、装置、設備から間接的に派生する償却費である。

 また、資本から派生する費用が配当である。

 この様に、資産や負債、資本コストは、費用化されるのを待機した状態にある。つまり、費用は、事後的に発生する。
 その為に、費用対効果は、必ずしも現金の収支を基としているわけ費用ではなく、発生が認識した時点で換算される。それに対し、収益は、収益が実現したと認識された時点における現金価値を指して言うのである。それが発生主義である。つまり、発生主義は、現金化されたとされる時点、その時点での現金価値をどう評価するか、その認識の仕方で費用や収益の現金価値に差が生じるのである。必然的に利益にも差が生じる。この差を利用すると合法的に利益を操作することが可能となる。

 つまり、利益は、会計上創られた概念なのである。

 成長が止まるとそれまでの債務の残高や償却費用、資本費用が期間損益に対して圧迫要因となる。また、資産価値の低下は、資金調達の裏付けを崩壊させるために、それだけで収益の圧迫要因になる。成長から停滞への変化は、必然的に市場の質を変化させるのである。
 返済資金と賃貸料、所得にかかる費用の長期的均衡と短期的均衡をどう調整するかが、重要になる。そして、それは、経済全体にも重大な影響を及ぼすのである。その典型がサブ・プライム問題である。

 この様に、期間損益とは、収益と費用、資産、負債、資本、それぞれの要素に働く時間の作用と個々の要素がどの様に関わっていくかによって決まる。
 それは、所有と金銭の借入、物的の借入の何れを選択するかの問題なのである。つまりは、人、物、金の関係によって利益は創作されるのである。

 利益は、会計上、中軸となる概念であり、会計制度を基盤とする経済体制では、経済の動向に決定的に影響を及ぼす概念である。会計基準の変更や経済政策を立案する際、この事を念頭に置いておく必要がある。

 損益は、本来、変動、即ち、運動を基として、貸借は、固定、即ち、位置を基とする。資金は、原因と結果であり、軌跡である。そして、原動力となる価値には、潜在的な価値、潜在的な力と顕在化した価値、即ち、顕在的な力があり、潜在的な力と顕在的な力とでは働きが違ってくる。

 動的なものは、流動資産、流動負債、変動費となり、静的なものは、固定資産、固定負債、固定費となる。

 費用の働きは、変動費と固定費によって違う。また、費用としてみなされるか、資産としてみなされるかによっても違ってくる。

 支出を考える場合、投資か、消費かも重要な要素である。投資であれば資産に振り分けられ、消費であれば、費用に振り分けられる。

 支出を伴わない費用、例えば減価償却費、また、収入を伴わない収益、例えば、売掛金などがある。
 費用性資産は、期間損益を成立させた重要な要因の一つである。費用性資産とは、費用の塊のような資産である。また、清算時点において価値があるかどうか判明しない資産である。

 この費用性資産の存在と働きが、期間損益に重大な意味を持たせている。何を費用性資産とするか、どの様に処理するのかによって期間損益が大きく変化するからである。そして、その処理の仕方が任意であることによって利益に対する解釈がいかようにでも出来るのである。

 現実の資金と損益の動きを結び付け、実際の資金の過不足を計るためには、減価償却費+税引き後利益で長期借入金を割った値の変化が意味することを知る事である。それは、債務の実質的な変化を意味するからである。
 それに、固定資産、流動資産、固定負債、流動負債、純資産、収益と費用にそれぞれの割合が示す値が重要となる。

 もう一つ重要なのは、税は、利益に対して課せられるという点である。しかも、税というのは、収支に関わりなく資金の流出をもたらすという点である。

C 会計的均衡


 財務諸表は、計算書に過ぎない。問題は、何を計算するかである。
 何を計算するのか。それは、裏付けである。つまり、会社が破綻した時に債権者に対してどの様な裏付けがあるか。また、資本家に対してどれくらいの配当が妥当か。経営者にどれくらいの報酬を支払うべきかを計算するために、財務諸表は生まれたのである。つまり、単に利益を計算する目的で生まれたわけではない。
 先ず目的や動機が肝心なのである。
 先に述べたのは、計算書を見る側の目的と動機である。逆に賛成する側の動機とは何か。この様に二元的に考えるのが、複式簿記の考え方である。
 計算する側の動機は、資金の調達である。この点を誤解しない方が良い。事業の継続にせよ、報酬を得るにせよ、資金が必要なのである。

 会計というのは、「ある」から出発するのではなく。「ない」から始まるのである。いわば最初マイナスからの出発である。だから外部より資源を内部へ取り込む手続から開始される。それが資本の原点である。

 決算書の入り口と出口は、現金である。即ち、現在の貨幣価値を実現した物である。つまり、経営とは、調達された内部に蓄積された現金によって調達した財を内部で変換して再度現金化していく過程である。
 そして、その働きは、前期末残高、入りと出、そして当期期末残高で表される。この位置と運動と関係が作用反作用と結びついて決算書を成立させる。

 取引の作用反作用は、複式簿記が好例である。つまり、一つの取引は、同量の貨幣価値を持つ二つの作用によって認識されるのである。そして、これらは、基本的に資産と費用、負債と収益に分類される。負債と収益は、入力であり、資産と費用は、出力を意味する。そして、資産と負債の差は、純資産、収益と費用の差は、利益を形成する。純資産と利益は、同じものである。
 また、一つの取引は、内と外で同量の貨幣価値を持つ二つの作用となる。つまり、売上は、買上になり、貸し付けは、借り付けになる。売掛金は、取引相手にとっては買掛金となる。受取手形は、取引相手にとっては、支払手形となる。

 取引の作用、反作用には、売り買い、貸し借り、と言ったものが代表的である。ただ、売りと買い、貸しと借りと一対一に、又は、形式的に対応させがちである。売りと貸し。売りと貸しという組み合わせや買いと借り、買いと貸しという組み合わせもある。つまり、作用反作用の組み合わせは、その時の取引の形態に準じて決まるのである。

 個々の企業の市場での働きは、企業間の取引によって成り立っている。そして、企業間に働く作用は、取引が成立した時点、時点では均衡している。この企業間で働く作用によって市場の状態や経済の状況は決まる。個々の企業の内的な働きだけでは、企業の社会的働きは見えてこない。
 決算書の分析において、内的均衡ばかりを見るために、外的均衡、さらには、経済全体の動きと企業経営が結びつかないのである。
 故に、企業の経済的働きを分析するためには、個々の取引が市場全体に及ぼす影響を明らかにする必要がある。その上で、企業収益が適切なものであるかどうかを判定するのである。

 不良債権を問題とした場合でも、資金の供給者側の問題と需要者側の問題があると言う事である。そして、どちらの側の問題がより深刻か、あるいは、どこからその問題は、発生し、その根源は何かである。不良債権問題の根源には、貸し手側から見ると地価の問題があり、同時に、借り手側から見ると資金不足の問題がある。地価の問題はどこから来ているのか。そして、資金不足は何が原因なのか、双方の事情を照らし合わせてはじめて不良債権問題は片付くのである。

 一口に、不良債権というが、不良債権は、不良債務の問題でもある。負債には、貸し手と借り手がいる事を意味している。そして、誰が貸し手で、誰が借り手かが重要なのである。つまり、全体的には、貸した金と借りた金は社会全体の負債の総額において均衡しているのである。また、貸し手側、借り手側双方に問題が生じることを意味する。貸し手側、借り手側、どちらか一方の問題を解決しても片手落ちになる。貸し手、借り手双方の問題点を解決してはじめて不良債権は解消されるのである。

 作用、反作用は、量的には均衡しているが、質的には、非対称性がある。作用は、量的には、同量の貨幣価値でも、質の違いが生じるからである。
 質的な違いというのは、作用の性格を意味する。例えば、債権と債務である。また、売上と費用などである。売上は、同量の費用を発生させる。売上の性格は、収入であり、価値の実現であるのに対し、費用は支出であり、価値の消滅を意味する。また、売上は、費用だけではなく。資産を発生する場合もある。その場合は、価値の留保を意味する。この様に作用も一律ではない。

 収益と負債、又は、資産と費用の違いは、貨幣価値が生じた時点でその価値を実現できるか否かの問題である。実現できなければ、債権と債務が派生する。収益と費用は、貨幣価値が成立した時点で実現する。それに対し、資産と負債は、その貨幣価値が成立してから実現するまでに、時間が掛かる。その間、債権と債務が派生する。その債権や債務は、譲渡することが可能であれば、貨幣と同じ効果を発揮する。

 所有権は、交換価値を発生させる。交換価値から貨幣が創造されると貨幣価値から債務と債権が生じる。債権と債務は、等価で作用反作用、即ち、逆方向の働きがある。そして、債権と債務は、一度成立すると、それぞれが独自の運動をする。運動とは、変化である。貨幣価値を実現した物が現金である。収支というのは、現金の動きの軌跡であり、損益は、債権と債務の働き言った結果である。

 貨幣価値は、価値するものと価値されるものの二つからなる。ここから貨幣は、二つの作用が生まれる。この二つの作用は、負の作用と正の作用でもある。故に、貨幣経済の拡大は、負となる部分の拡大をも意味する。

 相対的な現象には二面性があるのに、日本人は、表面に現れた一面しか見ない。例えば、借金をしたら、借金をしたことしか見ない。しかし、表面に現れた働きと反対の働きがあってはじめて均衡するのである。その二つの作用を媒介するのが貨幣の働きである。

 例えば、借金をして土地を購入した場合は、土地と負債の関係が、現金と負債、土地と現金と表現されるのである。

 我々は、借金をしたとか、土地を買ったという具合に、貨幣の動きから一面しか見ない。それが現金主義である。しかし、借金をして現金を手にしたという事であり、現金で土地を買ったという事なのである。その媒体が現金なのである。
 つまり、本来は、債権と債務という反対方向の働きがあるのである。その働きが、同時に発生するとは限らず、ある程度の時間をおいて発生することがある。その働きを媒介する媒体が貨幣なのである。そこに貨幣の本質的な働きがある。

 現金収支だけでは、この債務・債権関係が認識できない。それ故に、期間損益が始まったのである。
 期間損益を確立した意義が理解できなければ、キャッシュフローの意味も理解できない。

 収入に関しては、負債も、資本も、収益も、基本的に収入を基礎としている事に、変わりはない。ただ、返済する必要があるかどうかの問題なのである。

 もう一つ、重要なのは、元本の返済は、費用として期間損益上はみなしていないという事である。つまり、損益の均衡は、費用に対応する部分、金利に対応する部分を指して言っているのである。元本を含めるのは、収支上の問題である。

 要するに、資産、負債、資本、収益、費用を構成する個々の要素が、それぞれどこに対応しているかが重要なのである。

 企業は、儲かっている時、業績がいい時、いろいろな物に投資をする。ところが業績が悪化してそれらを維持できなくなると、結局、借金だけが残ったという事にもなる。
 企業は、年々、利益を上げているのだから、しっかり儲けを溜め込んでいるものと思いこみがちである。しかし、それは、一面しか見ていないからそう思うのであり。収益が上がっり金が一見余っているように見えても、それによって資産を買えば、結局、債務を増やすだけなのである。借金を返済しても負債が減り、金利負担が軽減するだけで、収益には、金利以上の影響がでないのである。つまり、債権と債務は常に均衡している。
 では、儲かった金はどこへ行くのかというと、消費である。消費は何かというと一つは、費用である。もう一つは、配当である。そして、税金と金利である。つまり、分配に廻されてしまい残らないのである。それが期間損益の本質である。勢い、儲かったら、儲かって分、使ってしまえ、消費してしまえとなる。
 利益は、累積・蓄積が難しくできているのである。

 それは、収益と費用、即ち、所得と消費は、常に均衡させるべきだという発想に基づいている。これは、思想なのである。債務と債権、収益と費用は均衡させるべきだと言う思想なのである。

D 会計制度の働き


 会計で問題なのは、現代の会計制度が利益や収益を管理する目的で構築されていないという点である。現代の会計制度は、企業を監視し、債権を確保する目的で設定されている。その為に、市場は、企業が利益や収益を上げられない仕組みに陥りやすいのである。

 市場経済が成り立つためには、経営主体が収益や利益を継続的に計上し続けることが前提なのである。
 ところが、会計制度を管理する者は、経営主体が利益を上げるのに無関心である。会計制度から見ると利益は結果でしかない。会計制度が利益に貢献できるとしたら、それは、結果を開示することにだけだと決め付けている。経営主体の上げる利益に対して責任を持つのは、経営者だけであり、会計を司る者は、利益を監視する事だけが任務だというのである。
 しかし、利益は、純粋に会計的概念なのである。故に、会計制度は利益を算出する上で重大な役割を果たしている。また、適正な利益を実現するため決定的な働きを持っているのである。

 利益の幅は、一般に考えられているより、薄く、尚かつ、不安定なものである。ちょっとした環境の変化によってあっという間に消し飛んでしまう。
 しかも、物価や所得、負債は、年々上昇し、しかも下方硬直的に出来ている。企業が、利益によってこの時間的価値を、吸収し続けなければならない仕組みに市場は、なっている。企業は、成長し続けなければならないのである。
 市場の拡大が止まり、収縮に転じると競争から奪い合いに変質し、企業は、お互いに収益を食い合うことにならざるをえないのである。その結果、利益は、どんどんと圧縮されてしまうのである。
 その時に、市場の外から競争条件が違う相手が出現すれば、あっという間に市場は席巻されてしまう。

 収益が圧縮されるのは、金融市場も同じである。むしろ、金融市場の基本は利鞘、鞘取りであるから、収益が圧縮される速度は速い。そして、レパレッジを効かせている分、リスクも高くなる。

 無原則な競争が道徳観は破綻させる場合がある。土台、競争にルールがなければ、道徳など持ちようがない。最初から守るべきものがないのだからである。それは、競技ではなく、戦争である。しかし、その戦争でも、掟や協定は存在する。自然界でも掟はある。自由原理主義者の言う市場を放置すべしと言う論拠が理解できない。

 私的所有権を尊重するというのは建前であって、結局、資本主義でも生産手段は、公的な財であって、私的には、借り物に過ぎないと言う前提に立っている。だからこそ、事業継承や相続、同族経営に否定的なのである。
 資本主義思想では、経営主体は、機関であり、それ自体が何等かの財を所有し、蓄積する存在ではないと言う思想が根底にある。
 そして、この思想は、会計制度に色濃く反映している。清算された時に明確になるが、企業というのは、企業自体が何等かの財を所有すると言う事は、あまり意味ない事なのである。
 企業に期待されるのは、継続であり、継続することによって、市場において、一定の働きをする事なのである。その働きの一番重要な部分は、財の分配と生産、そして、雇用である。そして、この働きを継続的に維持させることが会計本来の目的なのである。

 企業が粉飾や脱税をしなければ、経営を維持できないような仕組みでは、経営者も、会計士も不正に手を染めなければ生き残れないのである。しかも、それが公然として事実ならば、市場の規律は保たれない。既に、その様な体制は崩壊していると言っていい。

 適正な価格が維持されなければ会計制度も機能しなくなる。
 真っ当に事業をしても利益を上げられない仕組みならば、不正は防げない。どんなに、汚い手段、あくどい手口をしても金を儲けた者の天下になれば、悪は栄えることになる。しかも、あくどい手口で金儲けをした者をメディアが英雄扱いすれば、世の中の腐敗は防げない。バブルが起こる背景には、社会の、所謂、躁な状態がある。金に人々が踊った直後に破局は訪れるのである。
 2008年に襲ったサブ・プライム問題の背景にもモラルハザード、倫理観の崩壊がある。それは、倫理観を保てないような仕組みが背景に隠されていることを見落としてはならない。正直者が馬鹿を見るような体制は、結局、不正や悪を蔓延らせる結果を招くのである。
 市場には、規律が求められるのである。市場は、管理されなければならない。

 そして、市場が適正な価格を維持し、必要な利益を確保できるかにある。なぜならば、収益を保つからこそ、所得を分配し、金利を払い、仕入れ業者に代金を支払い、更に、税金を納めることが可能だからである。その為には、市場には規律が求められるのである。その前提が会計制度がもたらす情報なのである。

 自由放任と言うが、無邪気に神の力に全てを委ねられたのは、市場の発展や技術革新が無限に続くと信じられた時代だからである。しかし、市場の発展にも技術革新にも限界がある。

 だからといって、保護主義に走れば、市場は、飽和状態なのだから、かえって市場を狭くし、信用収縮を引き起こすだけである。何もかもが過剰なのである。その余剰の捌け口をなににすべきかが、解決のため糸口なのである。

 市場の原理主義者は、売春も、麻薬も、武器も、密輸品も、取り締まらない方が良い、それが、自由なのだと言い出しかねない。とにかく彼等から見れば規制は、罪悪でしかないのである。

 利益は、創られた概念である。利益の基となる会計の基準は、自然の法則のようなものとは違う。言わば、スポーツのルールのようなものである。それでいて、スポーツのルールほど厳格ではない。それが大前提である。

 利益が創られた概念なのが問題なのではない。利益は、どんな目的で、なぜ、必要なのかについて明確にされていないことが問題なのである。そしてそれは、思想の問題である。
 その為に、利益は、それを利用する者に良いように解釈され、創作されていると言う事である。それが市場の混乱を招き、結果的に、経済に混乱を引き起こしている。それが問題なのである。
 会計の基準の妥当性が、会計の専門家、プロに委ねられている。それは、スポーツで言えば、選手と審判を同じ人間が兼ねているような事である。それでは、導き出された利益の質に対する信任は得られない。

 しかも、会計や金融という貨幣経済や市場経済の基盤は、信用という制度の上に成り立っている。利益の質が信用できなければ、信用制度は根底から覆されてしまう。

 経済に携わる者の多くは、経済が、経済学で教わるような教条主義的な法則によって動かされているわけではないことを知っている。経済の世界は、資金力にものを言わせる帝国のような企業集団や、利権に群がる実力達が存在していることを誰でも知っている。また、権力者に取り入った者が、成功しているという事実もである。それが商売なのである。経済において巨大な利権の存在を無視しては、経済は理解できない。重要なことは、現実や事実を直視できない学問は、実体化できないという事である。虚構である。それを科学と言うのは欺瞞以外の何ものでもない。

 利益とは、何か。それが、特定の既得権者のみを利するものであるならば、利益そのものが悪である。また正当な努力によって利益が得られないとしたら、利益を得る手段は不当なものにならざるをえない。その様な利益は、追求する事自体が悪行である。
 義のない行いは罪である。道徳観もなく、ただ、金儲けを目的とした利益の追求は、それ自体が罪作りな行為である。利益には、国家経済の安定と国民の幸せがたくされているのである。それを忘れた時、経営は、悪徳へと堕落する。経営者は、経営に何を求めのかが肝心なのである。事業を通して何を実現しようかが事業の本質なのである。
 サブ・プライム問題に端を発した2008年の金融危機は、企業が単なる金儲けの道具に過ぎなくなったことが最大の原因なのである。
 本来の利益は、公共の利益、国民の利益を基礎としなければ成り立たないものである。利益を追求する事と、公共の利益や国民の福利を追求する事は、一致していなければならない。それが本来の利益の意味である。利益の意味が本来の意味で使われない限り、経済の安定、ひいては社会の安寧を実現する事はできない。

 間違えてはならない。会計士というのは、不正を摘発することが仕事なのではない。経営者が、真っ当な経営努力をすることによって利益が上げられるように指導するのが責務なのである。その為には、真っ当な努力をすれば利益が上がる会計の仕組みであることが前提となる。そうでなければ会計士も、経営者も、自分の良心に恥じることなく任務を全うすることは出来ない。

 アメリカの多くの企業は、ユートピアを目指した。そして、自分達のコミュニティーを形成したのである。中には、学校や病院まで完備したものまであった。
 当時のアメリカ人は、企業が金儲けの手段だけではない事を理解していた。アメリカ人にとって事業は、夢や理想を追い求める手段だったのである。根本は、夢であり、理想だった。夢や理想が失われた時、企業は、利益を追求するだけの機関に成り下がってしまったのである。

 伴に働く仲間、従業員に対して責任を持たない経営者、経営に責任を持たない従業員、売った物に責任を持たない販売員、使用することに責任を持たない消費者、その様な無責任体制こそ経済を破綻させる原因なのである。
 何のための利益なのかが見失われているから、その様な無責任な体制が放置されるのである。利益を上げる事だけが目的なのではない。体制なのは、その利益を成り立たせている思想、哲学なのである。

 バブル崩壊後、日本の多くの企業は、過剰債務、過剰設備、過剰雇用に陥ったと言われる。しかし、これは結果論である。資産価値が下落すると相対的に債務は、過剰になる。なぜならば、債務は名目的な価値で表示され、資産は、実質的価値で表示されるからである。

 物価の上昇は、名目的価値を押し上げ、物価の下落は、実質的価値を押し下げる効果がある。

 実業にとって資産は、本来潜在的価値である。多くが売りたくても売れない物、即ち、流動性が低い物である。例えば、都心に工場があって工場の敷地の土地が高騰したとしても操業を止めるか、違う場所に移転でもしない限り、営業には無縁である。かえって、資産にかかる税や相続税の負担が増すだけである。逆に、地価が下落すると含み損になりかねない。

 営業収支は、常に、釣り合っている限らない。むしろ、釣り合わないのが常態である。営業収支がプラスの場合はいいが、マイナスになると資金が廻らなくなり、経営を継続することが困難になる。故に、営業収支がマイナスし、資金が不足した場合は、資金を新たに調達し、資金の不足を補う必要が生じる。その調達の主たる手段は、借入、即ち、借金である。

 なぜ、期間損益が確立されたのか、それは、収支が釣り合わないからである。収支が釣り合わないという事は、現金主義的に見ると儲けがないことを意味する。

 要するに儲かっていない。まともにやっていたら儲からないのである。と言うよりも、会計というのは、通常の計算方法では、儲けが出ないから生まれたのである。だから、利益という概念を創作する必要があったのである。故に、現在の企業は、会計上利益が上がっているように見せ掛けているのに過ぎない。それにたとえ、儲かっていたとしても。儲けを蓄える術、手段が、今の会計制度では、限られているのである。
 例えば、土地を購入しても土地の代金は、購入する際にかかった費用の一部しか計上することができない。土地の代金は、土地を手放す時に、清算するしかない。しかも、土地を手放した時に利益が生じれば、その利益に税金がかかるうえ、利益処分の項目の主たる部分は、株主への配当と経営者への報酬によって占められている。
 つまり、企業は、いざという時の為に、資金を内部に溜め込むことが許されてないのである。故に、リーマンやGMのような巨大な企業でも環境、状況が変化すると一瞬で立ち行かなくなる。
 結局、現在の経済は、誤魔化し、まやかしの上に成り立っていると言える。言うなれば、砂上の楼閣に過ぎない。だとしたら、経済が誤魔化し、まやかしの上に成り立っていることを認めるべきなのである。認めてしまえば、まだ、やりようがある。認めずに、さも、実体があるように見せ掛けているから、問題が解決されないのである。最後には、一人一人の道徳観、倫理観までおかしくしてしまう。それが問題なのである。会計上の真実とは、認識上の真実に過ぎない。絶対的なものではなく。相対的なものである。利益や金は命をかけるほどの物ではない。

 では、経済の実態はどこにあるのか。それは、人々の現実の生活にある。
 人々が生きていく上に必要な物資を調達し、生活ができるようにすることが、経済の役割なのである。そして、穏やかな手段で必要な物資を調達できる仕組みを構築するのが政治の役割なのである。

 なぜ儲からないのか。儲からない仕組みになっているからである。では、どうしたら儲かるようになるのか。儲かるような仕組みに組み替えればいいのである。

 アメリカの自動車産業が再興するためには、良い自動車を作り事に極まるのである。良い自動車を作り、社会に貢献することが利益に結びついてこそ、利益は有意義なのである。良い車を作ることが利益に結びつかなくなったら経済は成り立たなくなる。それは堕落である。会計のために自動車会社があるわけではない。利益のために、自動車会社かあるわけではない。利益はあくまでも結果なのである。根本は、なぜ利益を上げなければならないのかである。それに会計が明確な答えができなければ、会計は存在意義がない。

 手段が目的化する。会計制度が会計制度のための会計制度に堕落してしまう。企業の業績を測る尺度である会計基準が企業の目的や存亡を左右するようになる。経営者や従業員の行動規範や人生を支配するようになる。また、企業や産業の在り方や方向性まで決めてしまう。そうなると事業目的が会計の目的に変質してしまうことになる。
 忘れてはならないのは、会計は手段だと言うことである。本来の目的は、事業にある。そして、その事業を成り立たせている社会や国家、人々の生活に根ざしたものである。なぜ、何のための利益かの答えは、会計にはない。しかし、その答えがなくても利益を計算する手段は成立してしまうのである。そして、一度、利益に対する計算式が出来上がるとそれが独自の意味を持ってしまう。忘れてはならないのは、会計は、人々を幸せにするための手段だと言う事であり、事業を成り立たせるためにあるという事である。会計制度によって本来、成り立たなければならない事業が、成り立たなくなるとしたら、社会や国家に有用な事業が成り立たなくなるとしたら、それは、会計の仕組みのどこかに欠陥があるのである。また、地道な努力をする者が報われずに、会計の技術や知識に熟達した者だけが恩恵を受けるとしたら、それは、会計本来の機能が失われている証拠なのである。

 人は、市場や貨幣の恩恵に浴しながら、市場や「お金」を卑しむ風潮がある。いわば恩知らずである。心の底では卑しんでいる癖に、逆に、「お金、お金」とか「市場の原理は絶対」とか言って崇めている者もいる。だから、市場も貨幣も正常に機能しなくなるのである。
 市場も「お金」も大切な存在である。しかし、神のごとく崇める存在でもない。市場も「お金」も人間が創り出したものにすぎないのである。

 忘れてはならないのは、企業に何を求めるかである。家族に、また、国家に何を期待しているのかである。それがあってはじめて制度は正常な機能を発揮することが出来る。
 ただ競わせればいいではなく。競争に何を求めているかである。
 会計も、経済問題も、思想として語られていないことが問題なのである。

経済を決定付けるのは、差と幅である


 利益とは何か。 

 今年、2008年は、後世、歴史の節目の年と言われる程の激変の年だった。年初、勝ち組と言われた自動車産業が、年末には、空前の赤字を計上した。年末にかけての急激な企業業績の悪化に伴う人員削減が、深刻な社会問題となっている。

 利益とは何か。急激な景気の後退によって明らかになったのは、過去の利益が、景気の変動に有効に機能していないという事である。
 それでは、これまで上げてきた利益は、どこへ消えてしまったのであろうか。利益による蓄えは、この様な非常時や緊急時に役にたたないものなのであろうか。ならば、何のために利益を上げ、蓄える必要があるのであろうか。
 実は、ここに利益に対する思想が隠されているのである。つまり、利益をどの様に定義するのか。もっと有り体に言えば、利益は、誰のために、何の目的で上げるのかという事が隠されているのである。そして、それこそが経済の実際的な思想を形成するのである。

 利益とは何かは、経営主体、企業とは何かを実体的に意味する。つまり、経営主体を単なる金儲けの道具、機関と見るのか。人間集団、運命共同体と見るのかの違いが利益をいかに処理するかという実務に、如実に現れるからである。そして、その方が、観念的な思想よりもずっと、思想を体現するからである。

 そして、更にそれは、企業は、誰のものであり、誰のためにあるのか、延(ひい)ては、経営主体の存在意義、目的を実体的に定義する事になるのである。

 今の会計思想、即ち、現行の資本主義には、経営主体に利益を溜め込む、蓄積するという発想はない。経営主体はあくまでも機関であり、道具、手段に過ぎない。利益は、個人に還元すべきものだからである。つまり、共同体は、利益をため込めないのである。これは、経営主体だけでなく、家計も、財政も同じである。故に、資本主義体制下では、企業も、家計も、財政も赤字にならざるをえないのである。

 もう一つは、差というものをどの様に解釈するのかの問題も惹起する。近代は、平等という概念の基に一切の差を否定してしまおうという傾向がある。
 それでありながら、平等とは何かについて、曖昧にされたままである。平等というのは、同等とは違う。基本的に存在そのものに依拠した思想である。絶対性に基づいている。それに対し、差というのは、認識に基づいた概念であり、比較対照、即ち、相対的なものである。

 会計というのは、差に基づいた思想なのである。そして、経済社会は、差によって成り立っているのである。それは、経済は、認識によって生まれるからである。経済社会は、認識の違い、つまり、差というものをどの様に実体的に解釈するかによって成立している体系なのである。

 現在の市場経済は、会計制度を文法としている。会計制度を基盤としている以上、会計思想が、市場経済の根本思想でもある。

 基本的には、収益には、上限と下限があり、その間に、必要な費用を組み込むというのが現行会計制度における根本の思想である。

 利益は、目安である。故に、利益は、必ずしも黒字でなければならないと言うのではない。問題は、利益をどの様に解釈するかなのである。

 上限と下限があり、その間に費用を押し込むという事は、天井を押し上げ、床を押し下げる行為が経営だと言える。逆に言えば、天井が下がってきて床が上がってくれば、経営主体は、押し潰されてしまうことを意味する。
 経営資源には、一定の限界や制約があり、その限界や制約の範囲内に、いかに、費用を収めるのかが、一つの経営目標だと言う事である。その目安が利益だと言う事である。

 利益を上げるためには、いかに費用を計算するかが重要なのである。つまり、何を費用とするかが鍵になるのである。それは、資産や負債、消費を費用化する操作によって決まる。

 更に、それを資金化して、収入という上限の範囲に支出を収める事によって経営は、成り立っているのである。
 なぜならば、上限と下限は、損益だけではなく。収支にもあるからである。そして、収支の上限と下限が実質的に経営の存亡を決定付けているのである。

 上限と下限に拘束されているのであるから、ある一定の限度を超えると、経済は、機能しなくなる。
 そして、その上限を収入とし、下限を支出とする。収入と支出の根本は現金である。現金とは、その時点において実現された貨幣価値である。故に、現金の収支には、マイナスはない。それに対し、損益は、費用対効果を土台としている。その為に、損、即ち、マイナスになることもある。マイナスになるという事は、限界点を意味しているわけではない。損益は、あくまでも尺度なのである。

 そして、その限界は、最終的には、値段、価格に収斂する。それが価格の正当性である。

 それを左右に分けて表示し、最終的に均衡させようと言うのが、会計の思想である。
 つまり、会計においては、経営主体は、収入と支出は最終的に均衡すべきだという考えになる。経営主体に利益は残らないのである。また、資金を寝かせる、不活性化する、固定するものを貸借上に表し、資金が流動的なもの、活性的なもの、変動的なものを損益に表す。
 また、右は、収入、即ち、収益と負債を意味するものであるから貨幣価値を意味するのに対し、左は、支出、即ち、資産、費用、つまり、資金の使い道を意味するのであるから実物、物や人と言った会計概念を表す。たしかに、売掛金のような債権を表す場合があるが、基本的には、実物を会計的に表現した部分である。これを見ても解るように、会計制度は、貨幣価値と実物価値を変換する仕組みなのである。
 また、負債と預貯金は、表裏、作用・反作用の関係にある。負債というのは、費用の後払いを意味し、預貯金は、費用の前払い的な要素を持つ。

 差が重要なのである。差を善悪の価値観で捉えると経済は硬直的になる。差で問題なのは、幅であり、率である。その幅も、率も、相対的なものである。つまり、何を基準にして、また、何と比較してその差の幅が妥当かが問題なのである。それが利益の幅や率を意味する。つまり、利益の幅や、率はどれ程が妥当なのかである。
 それを単位化することによって価格が割り出される。それが適正な価格の基準である。また、価格の機能や妥当性を解明する手かがりである。

 その妥当性は、資金の流れと資産、負債との関係によって決まる。つまり、資金の流れと資産、負債との関係が景気変動の基底にある。

 その妥当性に基づいて価値は、創出されるものなのである。妥当性が損なわれると価値の妥当性もなくなる。また、妥当性を裏付けているのは、価値観である。この様に格差と価値観は、相互補完的関係にある。

 経済は、生産と所得と消費からなる。国民経済では、生産は付加価値を意味し、所得は、分配を、消費は支出を意味する。そして、生産と所得と消費は一致すると考えられている。
 生産と所得と消費が一致することを三面等価という。

 三面等価を数式にすると
 国内総生産=国内総所得=国内総支出となる。
 その内訳は、
 国内総生産=産出額−中間投入
        =販売数量+在庫
 国内総所得=雇用者報酬
      +(営業余剰・混合所得+固定資本減耗)
      +(生産・輸入品に課せられる税−補助金)
      =家計の取り分+企業の取り分+政府の取り分
 国内総支出=消費+投資(設備投資+住宅投資+在庫投資+公共投資)+経常収支
      =家計支出+民間支出+政府支出+(輸出−輸入)
      =民間消費+民間投資+政府支出+(財貨・サービスの輸出-輸入)
 となる。

 総生産は、販売と在庫から成る。総支出は、消費と投資、貯蓄に分解される。
 という事は、販売数量+在庫=消費+投資+貯蓄になる。

 :景気対策を立てる際、何でもかんでも、公共投資による景気刺激策か、金融政策かといった議論に終始しがちであるが、景気政策は、販売と在庫、消費、投資、貯蓄の各要素に対してどう働きかけるかが重要になる。即ち、多面的、多様的、複合的、構造的な取り組まなければならない。
 公共投資というのは、投資の中の一要素に過ぎない。公共投資だけに頼って景気を改善することはできない。

 生産と所得、支出が一致すると言う事は、所得は、生産以上にはならず。また、支出は所得以上にはならない。さらに、支出は、生産以上にはならないことを意味している。

 貨幣経済というのは、極端な話し、資金さえ調達できれば、働かなくても生活が出来る、経営が出来ることを意味する。
 しかし、負債勘定が多くなると社会全体の固定費も増大することになり、資金の実質的な流動性が低くなる。
 重要なのは、可処分所得の量であり、それが、資金の粘度を改善する決め手となる。

 現実を決めるのは、現金、つまり、資金の流れと収支である。そして、経済においては、重要なのは、表面に現れてくる通貨の量、市場に実際に流通する通貨の量である。

 幅を決めるのは、価格と費用である。それを集計して損益の基準で分類したものが決算書である。

 この幅を決める要因には、外生的要因と内生的要因がある。外生的要因とは、対象となる主体の外部で決定される要因で内生的要因とは、対象となる主体の内部で決定される要因である。
 例えば、為替の変動や石油価格の高騰は、個々の企業にとっては、外生的要因であり、設備投資や経費の削減などは、内生的要因である。
 経済は、この外生的要因と内生的要因が複雑に絡み合って形成される。経済政策は、この要因に政策当事者が直接的、あるいは間接的に働きかけることである。

 負債の圧力が強すぎて資金の流動性が失われる。資金には、粘度がある。資金は、丁度血液中のコレステロールの濃度が高いとドロドロになるように。
 つまり、資金の流れの中には、背景として負債を背負っているものがあるという事である。その負債は、信用によって保証されている。その信用が所得に対するものか資産に対するものかによって資金の粘度が変わってくる。資産とは、言い換えると将来受け取る事が予定されている所得の代替物である。
 資産や負債に拘束を受ける資金は、何等かの固定的な支払が付随するために、資金の流動性が抑制される。例えば、不動産は、現金化するのに時間的、法的、手続的な制約がかかる。
 この様な資産の流動性に基づいて資産を貨幣性資産、非貨幣性資産に区分する事も可能である。

 費用には波があるため、その波を平準化しようとする働きは古代から存在していた。一時的費用を平準化する技術として負債は発生したのである。つまり、費用を時間的に配分し、一回の支出を少なくしたのである。つまり、これは、費用の後払い、繰延を意味する。

 費用には、固定費と変動費がある。固定型というのは、一定期間変化しない費用を指して言い。変動費は、時間や数量と言った量的といった何等かの要因によって変動する費用である。
 また、費用には、人件費型、金利型(固定と変動)、相場型(市場)がある。
 人件費というのは、何等かの基準によって組織的、制度的に決められる費用であり、金利型というのは、予め相対取引によって決められる要因であり、相場型というのは、市場の需給によって決められる要因である。

 この様な特性によって費用は、現れ方や支出に与える性格に差がある。
 また、価格と費用は、外生変数と内生変数の関数として表現できる。

 損益と収支という二つの幅の間で推移し、均衡している。いわば、損益と収支は経済のバロメーターの役割を果たしている。
 費用対効果を計ることが損益の中心課題なのである。そして、損益を基準にして資金の供給の是非を決定するのである。

 市場の価値は、物の市場価値価格に収斂する。物価は、人、物、金の三つの要素によって形成される。更に、近年、情報が加わった。
 人は、購買意欲を形成し、物、財は供給力によって決まる。それを媒介するのが貨幣であり、購買力は、所得、即ち貨幣量によって与えられる。この三つが均衡することで市場は成り立っている。近年、貨幣の通貨量だけで物価を統制しようと言う思想が市場を席巻しているが、市場は、貨幣だけで成り立っているわけではない。貨幣は、あくまでも手段、媒介物にすぎない。価格は、人と物の働きを貨幣で表した情報である。

 価格が何を表しているかを博く理解させることが重要なのである。ただ、安ければいいという事ではない。価格で重要なのは、密度である。密度とは、質と量の関数である。しかし、消費者の多くは、量として表された数値しか情報を与えられない場合が多い。それが情報の非対称性である。故に、市場を規制する必要があるのである。

 経済が国際化することによって価格は、一番コストが安い水準に向かって下落し、コストは、最も価格が高い水準に向かって上昇する。それが市場に壊滅的な作用を及ぼすのである。

 人、物、金は、経営資源でもある。この経営資源を組み合わせて経営は成り立っている。その運動と結果(位置)を数値化する仕組みが会計である。会計は、主として、数値、即ち、貨幣価値で表現されるが、それは、貨幣という座標軸に経営の活動と位置を写像しているに過ぎない。その実体は、人と物の動きと位置にある。
 会計や価格が人や物の動きや位置を適正に反映できなくなると経済は、破滅的状況に陥る。

 利益とは何か。それは、利益の前提となる意義が重要なのである。利益の持つ意味もわからずに、利益を追求することは、それ自体が罪である。それは、人混みを疾走する暴走族みたいなものだからである。利益は、基準に過ぎないのである。義のない行いは、罪である。
 企業は、本質的に利益を追求するものである。なぜならば、利益が上げられなければ、事業を継続することが出来ないからである。市場経済において企業は、ゴーイングコンサーン、つまり、継続を前提とした主体である。そこに、利益の目的が隠されている。

重要なのは機能である


 重要なのは、働き、機能である。
 財政を例にとると財政で一番大切なのは、財政の働き、機能である。財政赤字を問題とするとき、最初に考えなければならないのは、国家経済における財政の働きであり、財政赤字が問題となるのは、財政の働きの障害となる部分においてである。赤字だから悪いというわけではない。

 経済政策を立案し、執行する際には、何に問題があるのか。どこに問題があるのかを見極める必要がある。闇雲に、ただ無原則、無目的にやればいいというものではない。
 生産力に問題があるのか。供給力に問題があるのか。消費に問題があるのか。物流に問題があるのか。交通に問題があるのか。通貨量に問題があるのか。ストックに問題があるのか。
 そして、その問題点が、経済全体にどの様な働き、作用を及ぼしているのかを明らかにする必要がある。その為には、その働きの前提、基盤となる経済構造を解明しておかなければならない。

 例えば公共投資である。景気対策として、とりあえず何でも良いからやればいいと言うのではない。先ず、公共投資の働きが何かを明らかにする必要がある。公共投資の機能は、その目的に規制される。問題は、公共投資の目的にあるのである。
 公共事業の機能は、根本は、公共投資をなぜするのかである。つまり、公共事業の目的である。

 注意しなければならないのは、景気対策として、最初から公共投資ありきではない。景気対策だけを目的とした、金をばらまくことだけを目的とした公共事業は、事業計画なしに、事業を興すことである。公共事業の根本は、その事業の必要性である。

 財政の機能、働きが重要だと言っても、公共投資の目的を景気対策としていいかと言うことがある。景気対策というのは、副次的な効果である。公共投資には、公共投資本来の目的がなければならない。それは、社会資本の充実であり、防災であり、国防であり、国家の建設である。その本来の目的を達成するために、公共投資はあるのである。闇雲に投資をして良いというものではない、況や、既得権益を維持するための公共事業は、国家的犯罪と言っても過言ではない。

 公共投資は、その事業が果たす社会的機能を前提とし、その上で、事業の持つ経済的効果を図るべきなのである。ところが現在の公共投資は、ただ経済理論に忠実なだけで、事業の目的に関しても、働きに関しても曖昧である。
 失業対策というのならば、雇用を創出することによって必要な所得を生み出すことに目的がある。その為に公共事業を活用するのならば、貨幣を万遍なく浸透させることが目的なのである。それならば、それで、直接、低所得者に資金を供給するような方策を採ることが有効である。

 また、中小企業に対する施策は、運転資金が不足しているのならば運転資金に対する融資制度と言った目的に応じた形で資金を供給することが重要である。

 大前提は貨幣で言えば、量ではなくて、貨幣の働きである。貨幣が機能しなくなるから量が問題となるのである。それ故に、貨幣の働きを知る事が重要となる。そして、なぜ、財政赤字が大きくなると貨幣が機能しなくなるのか。何が貨幣を機能させなくなるのかを明らかにする必要があるのである。
 むろん絶対額を無視していいと言っているのではない。ただ、重要なのは、貨幣の機能、働きであり、その働きを犠牲にしてまで、帳尻を合わせようとするのは、本末の転倒だというのである。

 その為には、貨幣とは何か。貨幣の目的とは何かを明らかにすることである。
 貨幣価値とは、交換価値である。また、貨幣価値は、公の権威によって信認されている事によってその働きが発揮される。もう一つ重要なのは、貨幣には、流動性がある事である。つまり、譲渡が可能である事である。

 貨幣とは、公に信認された貨幣価値、交換価値を持ち、しかも譲渡が可能だと言う事である。

 例えば、財政赤字が問題となっているが、その場合、多くの識者が問題とするのは、絶対額である。つまり、財政赤字の量である。
 しかし、量が問題になるのは、過剰な財政赤字によって貨幣その働きをしなくなるからであって財政赤字そのものを悪いといっているわけではない。つまり、貨幣が機能しなくなることを問題としているのである。

 財政を問題とする時、財政赤字の額ばかりが問題とされる。財政の目的や働きが二の次になる。しかし、重要なのは、財政の働きである。
 また、財政を問題にする場合でも最初に、景気対策や公共事業ありきで、その公共事業をやる必要性や内容がそっちのけにされている場合が多い。だから、場当たり的な事業ばかりになるのである。

 先ず最大の問題点は、財政においては、期間損益が成り立っていないという事である。つまり、財政赤字は、損益の範疇では捉えられないという事である。財政赤字は、あくまでも、収支の問題であって損益上の問題ではない。
 つまり、市場経済から見て、赤字か否かは解らないと言うことである。儲かっているか、儲かっていないかがわからないのである。ただ、収支が合っていないから、不足した資金を借金で賄っていると言っているのに過ぎないのである。

 国債を考える場合、貨幣の働き、機能が重要になるのである。そして、その機能を損なわないようにするためには、どうすればいいのかが、最大の問題点なのである。この点を見落とすと財政赤字に対する対策を誤ることになる。

 財政は、費用対効果という尺度で経済を捉えていない。収入と支出という視点だけで捉えているのである。市場経済の原則に従うというのならば、先ず、これを改める必要がある。
 何が、資産で、何が、負債で、何が、資本で、何が収益で、何が費用かを区分する必要がある。その上で、収益の範囲内に費用を収めるためには、どうすべきなのかを考えるべきなのである。

 借金で考えるならば、元本は、負債であり、金利は、費用なのである。そして、負債が何に対応しているのか、債務には、本来何等かの債権が対応しているはずである。過去においては、国債は、常に、何等かの税によって担保されていたのである。それが欧米の近代税法を築き上げて要因である。

 プライマリーバランスと言うが、要は、利払いを借金で賄うようになると借金は、雪だるま式に増えるから、利払いの原資は何かを問題としているという事なのである。利払いが借金で賄われているかいないかは、何によって金利が支払われているかが問題なのである。
利払いの原資は何かである。

 税収は収益と見なせるかというと、反対給付を必要としないと言う点からして収益と言うよりも資本と同じ働きをしていると見ていい。また、税の多くの部分が、所得の再分配に用いられるという観点からしても、単純に収益としてみなすわけにはいかない。
 むしろ、国家収益という観点からすれば、収益事業を考えるべきなのである。そして、税は単純に消費するのではなく。社会資本への投資として捉える必要がある。
 収益を罪悪視するのは、それこそ前世紀の遺物である。

 また、国家には、資本に相当すべき部分がない。これは、本来資本とは何かという本質的問題でもある。我々は、資本を単純に考えすぎる。資本の在り方によって経済体制も変化することを忘れてはならない。

 国家財政も、公益事業も、収益があげられない。それは、最初から収益が念頭にないから当然なのである。つまり、利益という思想に国家財政も、公益事業も基づいていないのである。それでは、赤字になるのも当然、と言うよりも、今、本当に赤字かどうかもわからないのである。では、民営化すれば黒字化するか、それも甚だ疑問である。多くの民間企業も赤字なのである。また、黒字倒産と言う事もあり得る。なぜなのか、それは一つは、現在の経済が利益の持つ意味を知らないからである。利益は、結果ではなくて、目標なのである。つまり、企業も、国家も、家計も利益がなければ成り立たないのである。だから、経済が目指すべき体制というのは、企業も、国家も、家計も利益を上げられる体制なのである。利益を搾取だと決め付けているような体制では、市場経済は、上手く機能しない。また、利益を正しく評価し、資金を供給できる体制でなければならない。キャッシュフローばやりであるが、キャッシュフローというのは、あくまでも資金の過不足を表したものである。経済的効果を現したものではない。ある意味で企業業績が悪化するのは、資金が不足したことが原因だとも言えるのである。こうなると何が原因で、何が結果かわからない。資金が不足して、企業業績が悪化している時に、企業業績が悪化していることを理由にして資金の供給を止めるのは、病状の悪化を原因にして輸血や投薬を止めるような事である。それは、金融当事者が自分達の役割を理解していないことを意味する。助からないと判断したから、医療行為を止めるというのは、それは、モラルの問題であり、技術の問題ではない。
 ただ、何よりも、利益とは何かについての認識が確立されていないのが、最大の問題なのである。

 損益というのは、利益と損失を均衡させることである。損が出たから悪いというのではない。

 利益に求められのは、緊急時や不況の際に備えた蓄え、設備の更新や新規投資の時の資金、元手、元本の返済資金である。

 企業の重要な役割の一つに所得の平準化にある。所得の平準化とは、所得を定収入化する事である。収益には、波がある。その波に合わせると所得にも波が生じ、不安定なものになる。

 貨幣の効用は、労働と分配を仲介することにある。その貨幣の働きが重要なのであり、その貨幣の働きを最大限に発揮させる仕組みを構築すべきにのである。
 利益は、その様な仕組みを構築する上での一つの指針である。






                    


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