普遍主義・一般化

普遍と言う事の意味


 世界で誰が一番金持ちなのかを考えてみると、意外なことに気がつく。それは、一番の金持ちは、実は、一番金に無縁だと思える宗教団体ではないのかという事である。宗教団体の金はあまり表に出てこない。ただ、いろいろな地方や国を旅して気がつくのは、その地方で一番良い建物は、神社仏閣か、お城だという事である。いくら金持ちだと言っても商人の建物などしれている。
 それに、世界で有名な観光名勝の多くも宗教関連である。この様に見ると宗教団体というのはかなりの金持ちのようである。

 考えてみると宗教教団ほど、経済的に効率のよい組織はないのかもしれない。その証拠に、世界で最も多くの富を築いているのは、宗教である。中には、国家以上の資産を持っている団体もある。
 宗教が、経済的である理由の一つに、宗教が超俗的であることあげられる。宗教が経済的なのは、本質的に世俗的経済価値を超越しているからである。これは、逆説明的に聞こえるかもしれない。宗教は、経済的でないが故に、経済的効率的なのである。
 そして、経済的であるが故に、宗教団体は、常に、世俗的問題から逃れられないのである。
 この事を宗教的指導者が気がつくと、存外、宗教を土台とした効率的な新しい経済体制というものが築けるのかもしれない。
 現に、宗教団体の中には、社会主義的なもの、共産主義的なもの、共同体的なものが連綿として生き続けいるのである。しかも、それらの組織が有効に機能するのは、それが宗教的なものだからである。また、アメリカという国を作り上げた組織も、また、アメリカの経済体制の礎を築いた組織の多くも、宗教的な組織、あるいは、宗教を土台とした組織、宗教団体そのものだったりする。
 むろん、宗教的指導者が、真の宗教的指導者であることが前提となる。信仰の問題である。宗教が経済的であり得るのは、宗教的指導者が無欲だからである。金儲けのために、信仰を利用するような教祖は、一時的に金持ちになれるかもしれないが、理想的な経済体制は、築けない。

 宗教が、なぜ、経済効率が良いのか。それは、経済が普遍的な存在に根ざしているからである。普遍的な存在に根ざしているから、経済の本質が見えてくる。
 経済を欲望の結果だと考えている者には、無欲なるが故に、経済の効率が高まるという道理は見えてこない。資本主義経済を推進してきた者達の多くも自分の欲望を充足するために、働いてきたわけではなく。むしろ、勤勉で、禁欲的だったからこそ、資本主義的に成功したとも言える。労働に人生の意義を感じ、一生懸命働いた結果、富が蓄積された。逆に言えば、今日の資本主義の行き詰まりの原因も見えてくる。資本主義は堕落した。それは、人間が、欲望に溺れて、経済の実相を見失ったからである。

 貨幣に囚われるから、貨幣の本質が見えてこないのである。
 あげくに、金のためならば親でも、子でも、モラルも、仲間も、国も売る。経済こそ、道徳的でなければならないと言うのにである。

 第一に、経済的価値の本源が問題なのである。
 我々は、真の経済的価値を取り違えているのではないだろうか。つまり、経済の本質を理解していない。経済的価値を理解せずに、経済を理解していると思い込むことの方がおかしいのである。

 我々は、一旦、貨幣的価値にとらわれると金銭感覚から逃れられなくなる。豚に真珠と言うけれど、豚にとって真珠は、真珠でしかない。真珠以下でも、真珠以上でもない。彼等にとって生存に必要でなければ、無価値なのである。
 豚にとって金は、金としての価値しかない。仲間と諍い、殺し合うほどの価値は、金にはないのである。猫にとって小判は、小魚ほどの価値もないのである。
 猫は、自分の餌やテリトリー、家族を守るとき以外、争ったりはしない。猫は、小判のために、仲間の猫を殺したりはしない。猫は、王侯貴族にも、資本家にもなりたいとは想わないだろう。
 そうすると、豚と人間、猫と人間、真珠の本当の価値を知っているのは、どちらなのであろうか。

 生きる為に必要だから、働き。生きる為に、必要だから、金を稼ぐのである。金のために生きられなくなるのであれば、金など必要ではない。

 人は、パンのみに生きるにあらず。

 この点、宗教団体は、貨幣価値を本質的なものと見なさないが故に、物の価値を理解しているとも言える。翻って言えば、貨幣価値に気が付き、貨幣価値の効能に目がくらんだ宗教団体は、金銭にとらわれ、執着した時から堕落する。だから、宗教団体は、経済的でないが故に、経済的なのだというパラドクスが成立してしまう。

 宗教団体は、無欲であるが故に、経済の本質に則っているのかもしれない。経済というのは、欲の為せる結果だと思われてきた。しかし、考えてみれば、禁欲的で、勤勉、しかも物を大切に使えば、豊かになれないはずがない。つまり、経済的なのである。

 ただ、それだけで、豊かさを持続するのは困難である。もう一つ、重要なことは信仰心である。つまり、神の存在である。神に感謝し、労働の成果を神に捧げることを無上の喜びとするならば、経済的にならざるをえない。

 本来この世に与えられた物は、神の恩寵なのである。故に、日々、神に感謝し、大切にする。それが経済の本質である。つまり、上っ面に現れた経済活動の背後にある物、そこにこそ、経済の本質が隠されている。

 科学も同様である。現象として現れている事象にとらわれることなく。その背後に隠された法則や真理を導き出すことによって、より多くの潜在的な可能性を引き出すことが出来る。目の前の現象ばかりに目を奪われると、物事の本質を見失ってしまう。

 現代の経済は、経済現象の背後にある真実を見ようとせず。ただ、上っ面の現象にとらわれ、対処療法的な手段、施策に終始するから、いつまでも、経済を克服することが出来ないでいる。

 仮説の根底をなす命題の正当性は、一般性に求めるべきであり、特異性に求めるべきではない。その前提には、了解可能性がある。それに対し、経済学の根底をなす命題には、得意なものが多すぎる。その典型が、ホモ・エコノミストである。経済学は、人間の生業を基礎とした学問である。だから、人間に対する透徹とした洞察が要求される。そして、そこで描かれた人間像に、多くの人の共感があって成り立つ。それこそが了解可能性である。また、そこに経済の本質がある。人間は、時として、特に、経済的問題に関しては、不合理な判断をする生き物なのである。

 奇蹟とは、海が割れたり、死者が生き返るようなことを指すのではない。真の奇蹟は、毎日、太陽が昇り、また、決まった時刻に日が沈んで夜が訪れるような、当たり前なことが、当たり前に起こる事である。また、それが信じられることこそ奇蹟なのである。
 一般化や普遍化の実もそこにある。誰もが、それを当たり前だと感じ、それを不思議だと感じなくなった時こそ、その事象は、一般化され、普遍化されたのである。
 我々は、金があることが当たり前だと感じている。一般的だと感じている。金が使えるのも当たり前だと思い込んでいる。しかし、それこそが奇蹟なのである。
 つまり、それは信仰の一種である。誰もが当たり前だと感じ、信じている。そのことが重要であり、それ故に、市場経済も貨幣経済も成り立っているのである。ただ、誰もそのことを不思議だとも思わないし、感謝もしない。それ故に、貨幣経済も、市場経済もその効力が薄れてきたのである。

 経済とは何か。それは、生活である。生きていく為の生業である。そして、文化なのである。経済の仕組みは、日々の当たり前な生活を維持するためにこそ意味があるのである。

経済は金が全てではない

 宗教団体は、儲かるという理由の一つに人件費の問題がある。宗教団体やボランティア人件費を計算しないでいい。それは、宗教団体というのは、典型的な共同体だと言う事がある。

 人件費とは何かなのである。即ち、人件費の持つ意味である。人件費というと自明な事のように考えがちだが、実際は、単純明快な概念ではない。いろいろな意味がその中に含まれているのである。
 人件費の持つ意味は、人件費の価値とそれを貨幣価値にどの様に換算し、変換するかによって決まるのである。
 我々は、経済的費用の中で人件費という貨幣価値が常に存在していると錯覚している。しかし、人件費という価値は意識の中に存在するのであり、人件費という物は、実際には存在しないのである。つまり、労働の対価として貨幣が支払われた時、その行為によって発生する概念なのである。いわば、労働を貨幣によって意味づけしているのである。
 経済的価値というのは、認識によって生じるのである。つまり、相対的なものであり、経済価値そのものが最初から存在するのではない。経済的行為によって発生する価値なのである。故に、ないと言えばない。

 宗教的奉仕活動には、最初から労働の対価という思想はない。だから経済的価値が認められない。だから、宗教的な活動には、人件費が発生しない。
 つまり、宗教団体では、損益勘定の中で一番比重の大きい人件費がかからないのである。だから、安定的に利益が上がる。そして、これは共同体内部の経済なのである。かつて、育児や介護にも経済的価値を見出さなかった。それは、母の愛情であり、親孝行であり、倫理的価値であって経済的な価値とは別だと考えられていた。
 こういった共同体内部の経済も徐々に市場化されつつある。その為に、費用が嵩み、経済主体が儲からなくなってきたのである。その点を度外視すると今日の経済状態を理解することは出来ない。
 企業も、家計も、財政も赤字であり、それが、市場経済を停滞させ、破綻に導いている。

 経済社会には、目に見えない世界がある。しかし、外側に現れた経済現象ばかりにとらわれとその目に見えない部分が忘れられてしまう。しかし、経済現象はその目に見えない世界に支配されている部分が結構大きいのである。故に、その目に見えない部分が忘れられてしまうととたんに経済が機能しなくなる。
 心を込めた贈り物というフレーズがよく使われる。贈り物というのは、贈り手の身持ちや心があってはじめて成立する。つまり、贈り物という意味は、贈り手の気持ちや心にあるのである。価値の持つ意味は、価値を認識する主体があってはじめて成立する。そうでなければ、贈り物は、ただの物にすぎない。
 そして、経済は、貨幣経済が全てではない。
 経済とは、合理的な部分と不合理な部分が共存しているものである。合理的一辺倒でも経済は理解できないし、不合理なものだと決め付けるのも極端である。ただ、合理的といっても、市場的合理性と共同体的合理性には違いがある。

 経済的価値には、貨幣に換算できない部分が必ず含まれている。と言うよりも、経済的価値そのものが、貨幣価値ではないのである。貨幣価値というのは、財の交換価値を貨幣に写像したものだからである。
 そして、貨幣価値に換算されない部分に本来の価値がある。貨幣価値というのは、その本来の価値、使用価値とか、希少価値と言ったものを、一旦、交換価値に変換してそれを貨幣に換算したものをいうのである。

 鏡があってこちら側に実物があり、あちら側には、写し出された像がある。それなのに、実物を直接見ることが出来ないで、写し出された像しか見ることが出来ない。物自体と貨幣価値とは、そう言う関係なのである。

 それ故に、貨幣価値によって経済的価値全てを網羅しているわけではなく。また、網羅できるものでもない。
 故に、全てを貨幣価値に換算すると経済は成り立たなくなる。つまり、儲からなくなるのである。
 その最たるものが家計である。家庭内労働を貨幣化する、即ち、市場化してしまったら家計は破綻する。即ち採算がとれなくなるのである。共同体が経済の一つの単位だから経済は成り立っているのである。
 だから経済主体の規模には、一定の限度が生じるのである。

 共同体が確立していた時は、家族の面倒は、家族が見る。また、地域コミニティでは、お互いが助け合って暮らしてきた。それこそ、金の問題ではなかったのである。だからこそ家計は、経済的に成り立ってきた。それを金の問題に置き換えたら家計が成り立たなくなるのは火を見るより明らかである。

 本来共同体内部の仕事だった事が市場化されてしまう。それは共同体そのものを破壊することをも意味する。その為に家族は崩壊し、会社も分裂し、地域コミニティも解消され、国家も機能しなくなる。

 昔は、村中総出でやった仕事を市場化する。例えて言えば、農作業や屋根の葺き替え、子供の教育や育児と言った仕事を商業化する。
 また、租庸調と言うように、税も実物や用役を拠出する事だったのである。税の金納は、日本においては、明治以降のことである。つまり、貨幣経済が確立したのも明治以降である。それまでは、報酬や納税において物納が一般に行われてきた。
 その結果、家族や職場、地域社会の絆が失われてしまうのである。特に教育が家族や職場、地域社会から分離すると価値観のズレが生じてしまう。そうなると共同体は維持されなくなる。教育の専門化は、市場化は意味する。現代の学校教育の最大の問題点である。それは、教育の経済的効果が問われなくなったからである。教育本来の目的と教育の経済的効果が結びつかなくなったからである。
 経済というのは、合目的的なものであり、効果は、その目的から測られるべきものなのである。

 同様に、報償を単純に労働の対価として捉えてしまうと経済は見えなくなる。報酬は、所得であり消費の源泉でもある。そして、生活費でもあるのである。つまり、生活の原資なのである。故に、報酬に対する評価、即ち分配の基準にはどうしても属人的な要素が含まれることになる。それは、職場が共同体であることの証左である。故に、単なる生産性だけでは、利益は計られない。分配という点からも報酬は考えられなければならないのである。

 貨幣価値に全てを換算してしまうと経済価値本来の持つ密度が失われてしまう。経済的価値を経済的価値たらしめていた本質が失われるのである。

 共同体とは、公である。個人とは、私である。共同体内部は公的場でありと、市場では、私的な場である。共同体の崩壊は、公的な部分の消失を意味する。

 共同体内部の基準は、損得ではない。真善美である。その意味で、市場は不道徳な場であるのに対し、共同体は、道徳的な場である。

 極端な話し、完全に自給自足が出来る共同体が存在したら、貨幣は必要となくなる。今でも、家族に守られていれば幼児は、せいぜいいって小遣いがもらえれば生きていけるのである。

 共同体が崩壊し、共同体的論理が失われると、個人の欲求は、私的利益に偏るようになり、公的利益が失われる。それが貧富の格差を生み出す原因となるのである。

 格差は、富や財の分配に偏りを生じさせ、配分の密度、ひいては経済密度を薄くする。経済の密度は、労働、生産、消費の量と質から構成されるものである。

 経済的密度は、質と量という観点から言うと住宅を例にとると解りやすい。住宅の価値は、ただ価格という貨幣の額からのみ計られるものではない。敷地面積、建坪、建物の質、件数といった質的な要素を合わせてみないと比較できない。そして、価格だけで判断するとこの住宅の質は疎になる。つまり、密度が薄まるのである。それは貨幣に換算されない部分が手薄になるからである。住宅の質は、作り手の技能、熟練度によるが、その技能、熟練度に対する評価は質的なものだからである。

 市場も同様である。金銭的な尺度だけで質的な尺度が失われると市場の密度は疎となる。それが市場の寡占、独占状態である。
 自動車業界は、規模が大きくなりすぎた。その為に効率が低下しているのである。
 メジャーリーグが好例で、リーグには最適なチーム数がある。スタープレーヤーを集めてオールスター戦のような試合ばかりしても人気は長続きしない。
 日本のことをオーバーカンパニー状態と言うが日本は、狭い市場の中で多くの企業が競争し、切磋琢磨しながら競争力を高めてきたのである。組織の規模には限界があり、ある一定規模の限界を超えると企業の効率は極端に悪くなる。
 組織は、大きければいいと言うわけではない。もはやスケールメリットを追求する時代ではない。適切な数と適切な規模の企業が市場に存在する事が要求される。

 料理屋を考えればよく解る。郷土料理と言うぐらい以前は、地域・地域に特色のある料理屋が主流であった。現在は、東京や海外に本部を置いたチェーンストアに市場は席巻されてしまった。その結果、ニューヨークでも、東京でも、日本の片田舎の街でも同じ味の料理が提供されるようになった。しかも、作業は標準化され、専門的な知識や技能を必要としなくなった。その結果、若年労働者で低賃金の雇用しかなくなり、料理の熟練者、技能者は、駆逐されてしまい。深刻な雇用問題を引き起こしている。手に食のある職人が育たなくなってしまったのである。
 この様な状況が市場が疎となった状況である。質的な部分が欠落してしまったのである。

 格差の拡大、二極化は、市場の分離を意味している。つまり、密度の問題である。格差が拡大したり、二極化するのは、中間層、中間部分の密度が、薄くなっていることが考えられる。この中間層を厚くすることが市場の分離を解消するためには、重要となる。
 市場の密度を保つためには、市場内部に適度な規模の経営主体が、適正な数、存在していることが前提となる。
 また、吸収合併は、市場の密度を薄くする。中間層、また市場という空間の密度を高めるためには、経営主体が市場内部にコロイド状に散在している必要がある。大きな塊が、市場を占有するようになれば、市場は不活性化してしまうからである。寡占、独占の弊害は、経営主体が媒体としての機能を果たせなくなるからである。
 市場においては、雇用面から見ても中小企業や個人事業主の存在とその役割が重要な意義があるのである。

 生産性の効率と分配上の効率は、本質的に違う。早い話、百人で一千万円の利益を上げるのと千人で一千万円の利益を上げるとしたら生産性から見た効率性は、前者だが、分配から見た効率は後者である。

 こういった効率性に対する錯誤も合成の誤謬の原因となる。前提が間違っているのである。

 現代社会は大量生産、大量消費社会であり、物が溢れている。それなのに不景気となり、貧困が蔓延する。
 現代、アメリカを中心にして生起している金融危機の本質も同様である。金も物もあり余っているのである。住宅の在庫が積み上がっているのに、もう一方で、家が不足し、ホームレスが町に溢れている。これは経済の仕組みの根本がおかしいからである。アメリカは、物質的には豊かなのである。なのに、貧困層が拡大し、経済状態が悪化しているのである。生産力にも、消費力にも、問題がないのにである。
 それは、経済は金であり、金が全てだと考えているからである。だから、金に振り回されるのである。それが豊かさの中の貧困なのである。

 結局、貨幣経済が、格差を生みだし、貧困を生み出しているのである。現代の貧困は、豊かさの中の貧困であり。貧困の中の豊かさなのである。

 人生の最後に求めるのは、金かそれとも人の愛か。
 現代人は、経済というとすぐに金の問題だと片付けてしまうからその本質が見えなくなるのである。それが、貧しさである。
 たしかに、人間は、晩年、金さえあれば、贅沢な環境を享受できるかもしれない。しかし、それは物質的な意味においてでしかない。
 人生の晩年において大切なのは、目に見えない価値、貨幣に換算できない価値である。逆説的かもしれないが、だから、年をとると貨幣に執着するようになるのである。家族と言った共同体が崩壊した今日金しか頼ることが出来ないからである。それも、豊かさの中にある貧困である。

 豪華な施設で医者に看取られのが幸せなのか。それとも、家族に看取られるのが幸せなのか。結局、経済の本質は、幸せをどの様な物に考えるかにある。そのことを忘れて短絡的に金銭的利得を追求するのは、経済の本質をただ見失っているのに過ぎない。だからこそ、金銭だけの経済は、破綻する運命にあるのである。

不変という事


 今の世の中は、変化が激しい。激動の時代である。最近の金融危機を見ていると最も、世界で優秀だと讃えられた経営者が天文学的な損失を出して会社を倒産させてしまったり、ノーベル賞を受賞した学者がその理論に従って行った事業で世界経済を揺るがすような損失を出したりする。本当に一寸先は闇である。まことに、驕る者、久しからずである。昨日の英雄も、今日は、敗残者となり、今日の敗残者も明日は勝者となる。

 空前の利益を上げ我が世を謳歌していた投資銀行の多くも金融危機の中で淘汰されてしまった。

 原油価格や食料価格、住宅価格の乱高下は、実生活を直撃し、また、企業業績が悪化すれば多くの費とが職を失い、人生設計を狂わせ、生活が破綻する。
 産油国の政変も決して遠い国の話ではなくなった。

 為替や石油価格の急激な変動は、産業に壊滅的な打撃を与えかねない。戦争や災害と言った物理的現象だけが世の中の変動要因ではなくなった。むしろ、経済的現象の方が戦争や災害と言った事件よりも人々の生活に決定的な変化をもたらす。

 先が読めなくなると人間は、刹那的になる。それまで計画的に送ってきた人生も社会の変動の前に崩れ去ってしまと、長期的な物の見方が出来なくなる。結局金だけを頼りに生きるようになる。

 変化は、人々の価値観すらねじ曲げてしまうのである。変化が激しいという事は、明日をも知れないという事を意味するのである。それは、人々に絶え間ない緊張を強い、変革を強要する。
 その結果、人々は、明日を信じなくなり、刹那的快楽に溺れ、他人を顧みなくなる。自分さえよければ、今さえよければ、後はどうなってもいいという考えな陥りやすくなる。自暴自棄になりやすい。公を蔑ろにし、私の世界に閉じこもる。自分だけが頼りなのである。他人のことなどかまっていられない。例え、それが親子、兄弟でも。神も仏もありはしない。だから、守るべき道徳など欠片もない。金さえあればいいのである。金さえあれば何でも好き勝手なことが出来ると思い込むのである。

 この様な価値観の変化は、合成の誤謬を引き起こす。サブプライム問題の背景には、この様な価値観の変化が隠されている。

 それが市場である。共同体ではない。市場にベース、根本を置くからそうなるのである。市場が悪いわけではない。市場の役割を見失っていることが悪いのである。
 市場は変化を基礎とし、共同体は変わらないことを基礎としている。市場の基準は目まぐるしく変わるが、共同体の基準、道徳は、恒久的である。世の中には、変わり続ける部分と恒久的な部分があるのである。そして、それらを結び付けている仕組みや道理は以外と簡単な物である。

 変化にあって変わらないものは何か。その見極めが出来ないから、変化に流されるのである。変化は、不変的なものに支えられている。その根源にある存在するのは神である。

 不変なる存在は神の側にある。人間が不変なるものを操れると考えた時から破滅は始まる。神の名の下に自らの行為を正当化するものが出た時に、人間は、傲慢さの頂点を迎える。

 市場や貨幣を神格化する者達が市場を終焉させるのである。今の市場は無法である。それはその根源に市場の目的が忘れられているからである。市場は金儲けの具ではない。

 道徳というのは、難しい事柄ではない。しかし、その簡単な道徳に従うから、世の中の変化に対応することが出来るのである。その道徳の本質は不変的な道理、戒律である。人を殺したり、人の物を盗んだり、壊したり、嘘をついてはいけない。

 公共投資は、本来の目的は景気対策にあるわけではない。その点を忘れてしまうと公共投資は本来の機能が失われてしまう。開発は、開発を目的として為されるものではない。本来の目的や機能が失われると、公共事業は、形骸化して弊害が発生する。景気対策は、二義的なものであり、公共投資は、国家事業がその前提となっていることを忘れるべきではない。

 この様に、変わっていい部分と変わってはならない部分がある。例えば、公共投資の根本にある国家構想は、変えるべきではないが、その運用は状況や環境の変化に合わせて変える必要がある。

 標準化は、多様性を前提とした上での標準化である。基礎構造部分の標準化を意味する。標準化は均一化、均等化を意味するのではない。
 街の料理屋を考えればいい。料理屋の根本、基本的機能は変わらない。つまり、標準化すべき事は内在化している。外見まで統一してしまえば、その本質は失われる。料理の基本は同じでも、味は多様であるべきなのである。更に言えば、料理を食べる空間や環境も多様であるべきなのである。全てを統一するのは、一見、効率的に見えて、実は、非効率なのである。
 標準化すべきは、倫理観であって人生観や世界観ではない。また、生き様でもない。人の一生は千差万別である。それは内面の行動規範である。それは十善に如かずなのである。

 人間は、元来保守的な生き物である。変化をあまり好まない。なぜならば、あまりに激しい変動は、人生設計を狂わせるからである。また、それ以前に人生設計が出来なくなるからである。経済的には、借金が出来なくなる。必然的に無計画で、無軌道、刹那的な生活を強いられることになる。そうなると社会を組むことが出来なくなり、社会生活が営めなくなる。つまり、共同体が形成できなくなるのである。

 多くの経営者何も好き好んで財テクに走ったのではない。本業で儲からなくなったから財テクに走ったのであり、
 急激な円高によって本業で儲からなくなりその分財テクで儲けようとした。そのうえ、事業継承問題が重なる事によってバブル発生の下地が作られたのである。

 変化が利益を生むのか。利益が変化を求めるのか。市場経済においては、変化が利益を生む。しかし、それは市場においてであり、共同体の利益はまた別の所にある。市場の利益は、需要と供給の関係から生み出されるが、共同体の利益は、労働と分配から得られる。それを仲立ちするのが、所得と消費である。

 諸行無常。世の中の動きは、とどまることを知らない。万物は流転する。変化して止まない。変易。しかし、それでも変わらない部分がある。不変的法則がある。不易。また、よく観察すると、物事の本質は、以外と単純なのである。簡易。易簡。

 現象の背後には、変化する要因と変化しない要因がある。変化する要因を変動要因と言い、変化しない要因は固定要因と言う。
 現象は変化し続ける。激しく変化する現象を見ていると複雑怪奇である。しかし、一見複雑に見える変化も、不変的な法則や固定的な部分に依拠していて、その仕組みや原理は、簡明な場合が多いのである。

 規則的な変化には、短期的な周期の変化と長期的な周期の変化がある。
 時間は変化の単位である。故に、変化には、時間が重要な役割を果たす。つまり、変化は時間の関数である。
 また、変化は運動である。運動にも、規則的な運動と不規則な運動がある。規則的な運動も時間的に規則的な運動と違う要因、例えば、形相と言った要因で規則的な運動がある。

 変化には、その変化を引き起こす原因、要因がある。その要因の多くは、不変的な力や作用である。不変的な力や作用というのは、場に働く力や仕組みによる作用という点で不変的なのである。不変と言っても相対的であることに変わりはない。場の状況や仕組みが変われば変化する。

 変化と言っても予め予測のつく規則的、あるいは、周期的変化ならば問題はない。無規則で、何の前触れもなく起こる急激な変化が問題なのである。

 近代社会を成立させた要素の中で以外と見落とされているのが賃金制度、給与制度の確立である。給料生活者の出現は、画期的なことである。長期的、安定的に一定の所得を保証されたという事が、借金を可能としたのである。そして、それが借金の技術を発展させたのである。
 それは、人間のライフスタイルも一変させた。将来がある程度予測できるようになれば、いろいろな計画を立てることが可能となる。予定が立つのである。それは人を安心させる。自分の人生を計画的にすることが可能となったのである。
 人生に時間という座標軸を組み込むことが可能となったのである。

 この様な給与体系や賃金体系は、市場の論理によって貫かれていたわけではない。共同体の論理の方が強かったのである。

 陽中に陰あり、陰中に陽あり。何事も、極めると反対方向に動き出す。行きすぎれば、また還るのである。大切なのは均衡である。

 近年、社会風潮としては、変動を常態と考える様に変化してきたように思われる。変化があるから利益が上がると言うように考えるようになってきた。つまり、社会は変化を求めていると考えられてきたのである。しかし、人間は、本来、保守的なのである。先の見えない状態には、耐えられないのである。それなのに、社会は変化を求めている。そのジレンマが現代社会の病巣である。なぜ、社会は変化を求めざるを得ないのか。

 その背景にあるのは、共同体の崩壊である。そして、皮肉なことに給料生活者の出現が共同体の崩壊を促進し、変化を呼び戻したのである。つまり、給与所得は、人々の生活を安定化させた反面、共同体の解体を進めてしまったのである。その結果、社会はまた不安定な状態に逆戻りしつつある。

 給料生活者の出現は、大家族から核家族へと変化させ、都市の拡大を促した。その結果、社会は流動化して変動的に変わってきたのである。

 金融市場も過剰流動性が、流動性の阻害要因となっている。この様に過剰な流動性は、却って流動性を悪化させる。

 情報の非対称性が利益の根源にあり、経営のコアの部分は共同体であり、人件費がネックである以上、情報の公開には限界がある。
 共同体の機能を無視して全ての情報をあからさまにしてしまうと、共同体は、利益を確保することが出来なくなる。共同体内部の基準は必ずしも損得だけではないからである。

 一体、人間は、安定を欲するか、変動を望むか。

 変化が人を成長させ、不変なるものが生活を安定させる。大切なのは、その均衡にある。

 人の一生は変化に富んでいる。一日の内にも朝昼晩の変化がある。一年には、春夏秋冬があり、人の一生にも幼児期があり、思春期があり、青春があり、壮年があり、熟年、老成がある。一人の人間の変化は、小さな変化である。しかし、それが寄り集まって経済や歴史の大きな変動の周期を作り上げている。現象は変化である。変化によって認識される。変化がなければ、時間の流れを知る事は出来ない。自分の存在を知る事もない。まことに人の一生は変化に富んでいる。
 しかし、変化に富むと言っても変わらないものもある。それは人の思いであり、情である。生きていると言うことである。そして、自分を生かしてくれている存在、その存在は、明々白々なのである。

普遍、一般から特殊、個別へ


 人間というと我々は、良く知っていると思い込んでいる。しかし、改めて人間とは何かと言われると答えに窮する。
 人間とは何かを定義してみようとすると、これが、なかなか難しい。また、具体的に、考えるとなると自分が良く知っている人を思い浮かべてみたりもするが、だからといって、自分が思い浮かべた人が、人間の持つ全ての要素を兼ね備えているかとなると極めて頼りなくなる。つまり、我々は、漠然と人間という者を認識していると言える。
 現実に出逢う人間は、個性的である。よく似た人間はいるが、全く同じという人はいない。つまり、個人というのは特殊、特別な人間である。こう考えてみると人間という概念は、抽象的な概念なのである。
 現実には、人間という人間はいないとも言える。それでありながら、我々は、人間と言う認識を瞬時にする。直観的に一般化、普遍化して人間というのを見分ける判別するのである。その上で、個体を識別する。プラトンは、ある種の人間の本質、イデアがあると考えた。イデアの是非はともかく、人間が瞬時に人間を識別することだけは確かである。
 つまり、人間は、経験的に多くの対象から共通項を識別し、対象を幾つかの集合に類別し、名前を付けて抽象化するのである。この様な認識の仕方を帰納法という。そして、一般化した概念から、対象を推論し、あるいは、将来を予測して結論を導き出し、自分の行動を決断する。
 この様に、人間の認識は、帰納法的抽象化と演繹法的推論を繰り返しながら、一定の分別を行っているのである。

 認識は、不変的ではなく、また、固定的でもなく、無常で、流動的なものである。つまり、絶え間なく、揺れ動き、変化している。即ち、相対的である。故に、前提が重要となる。つまり、立ち位置が問題となるのである。人間は、自分の立場で物事を認識し、判断する。その前提を忘れてはならない。自分の立ち位置を確認し、何を前提としているかを明らかにする必要がある。
 その根源にあるのは、神である。つまり、不変、絶対な存在である。不変、絶対な存在と自分とを結ぶ延長線上、認識の上に我々の世界がある。

 現実の世界は、多様な世界である。単一的な世界ではない。複雑で、多様な世界を識別するために一般化、単純化するのである。
 それが科学である。対象が一般的で普遍的、単一的なのではない。
 識別するためには、単一で単純な方が便利だからといって、自分の認識上の都合に合わせて対象や世界を単一化しようと言うのは乱暴な話である。
 なぜ、認識上、対象を単一化した方が良いのかという自己という存在が唯一の存在だからである。つまり、認識主体は唯一な存在だからである。また、対象も唯一の存在だからである。認識や観念が多様なのであり、自己や対象は、唯一の存在である。故に、単一的、統一的に捉えた方が理解しやすい。しかし、それは、認識の問題であり、観念の上の問題である。つまり、自分の都合の問題である。
 現実は、絶え間なく認識の修正を求め続ける。それは、存在は絶対的であるのに対し、認識は相対的であるからである。言い換えると、対象はそれ自体で存在するのに対し、認識は、他との比較の上で成り立っているからである。この事は大前提である。

 現実の世界は多様な世界である。単一な世界ではない。人は、皆、違うのである。その違いによって自分は存在する。また、他との識別も可能なのである。
 他と自分が全く同じであるとしたら識別することは困難である。また、自分の立ち位置を確認することも難しい。人と人が違うから人を見分けることも可能であり、また、自分の役割や居場所も明らかにできる。それが大前提である。その前提の上に人間の社会や文明は成り立っている。男と女は違うのである。ただ、全てが違うのではなく。共通したところもある。そこが人間だと言う事である。
 男と女は、人間として平等だが、男と女としては違う。この様に、共通したところと違うところを識別することによって社会も科学も成り立っている。そのうえでの平等である。つまり、何が同じで何が違うの中を明らかにしていく過程で、認識が深まっていくのである。オール・オア・ナッシングではない。

 全ての存在は、何も変わらない。だから、あらゆる扱いは、同等にすべきだというのは、あまりにも短絡的で、野蛮、無謀な認識である。逆に、違いを優劣に結び付け、はじめから扱いに差を付けるのも乱暴で、暴力的である。それは差別である。

 現代社会は、どちらにしても単一的な方向に向かっている。多様性を受け付けないのである。また、それを科学的だとしている。
 科学は、一般と特殊を峻別しているに過ぎない。普遍的に存在は、普遍的な存在。特殊なものは、特殊なものとして扱っているのである。

 神は、神。人間は人間なのである。

 単一化は、効率化ではない。効率というのは何を持って効率的とするのかによって違ってくる。効率的に生産するのか、効率的に分配するのかは、効率化の前提が違う。その点を履き違えると経済に対する見方、考え方を見誤ることとなる。
 生産の効率化も大量生産、大量消費を前提とするのか、それとも、多品種少量生産を前提とするのかによって、効率化の意味も違ってくる。
 問題は何を前提とするのかである。

 経済の本質は、労働と分配である。生産と消費ではない。ならば、雇用を優先すべきなのである。効率の良い雇用である。それは、生産性とは必ずしも一致しない。生産性を犠牲にしても雇用を優先しなければならない状況もあり得るのである。
 これは、何を前提とするかによって違ってくる。人間の幸せを優先すべきなのか、生産性を優先すべき釜問題である。この答えは、自明であるように思える。人間の幸せを優先すべきであることは明確であると思う。しかし、現実の社会では、往々にして、生産性のために、人間の幸せが犠牲にされている。
 これは、前提の間違いによって生じている。そして、それは、人間の認識を普遍化する、絶対化することによって派生している。つまりは、人間の傲慢さに依るのである。
 普遍、絶対は、神の領域、人間の認識は、相対的なものである。それを前提として人間は、対象を便宜的に一般化しているのである。

 人間の傲慢さが高じると、人間の認識に対象を合わせようとする。つまり、単一化しようとする。それが独占を生み出す。

 違いがあるからこそ意味がある。違いがわかるからこそ意味がわかる。

 貨幣は、価値を単一化する。単一化することによって違いを際立たせる。反面、個性を貨幣価値の中に、埋没もさせる。それは制服の作用にも似ている。同じ、制服を着せた時、個別に見ると人間本来の個性が際立つ。しかし、それを全体で見ると個性が埋没してしまう。貨幣経済には、その様な、一見、相反する作用がある。数値化にも同様な作用がある。しかし、その弊害は、貨幣や数値化の持つ意味を正しく理解をすれば避けられる。問題は、貨幣や数値化の持つ一般化という意味を正しく理解していない、また、正しく活用していないことから派生している。

 自分の立ち位置や前提によって対象の捉え方は違ってくる。大切なのは、何が普遍的で、何が相対的なのかそれを見極めることである。そして、それが何によって変わるのかである。

 人間は、その存在において平等であるというのも真理ならば、人は、また、一人一人違う。同じ人間はいないし、同じ人生もない。これもまた一つの真理なのである。

 普遍と個別、一般と特殊は背反的な概念ではなく、相互に補完的な概念なのである。






                    


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