個人主義

個人主義

 日本人は、個人主義に対して錯覚がある。個人主義社会というのは、個人が、バラバラに存在する社会を言うのではない。個人が社会の仕組みの中で自分の位置を与えられ、関係付けられ、働き(運動)が明らかにされ、かつ保障されている社会を指して言う。

 個人主義は、社会全体と社会を構成する個人との関係によって成り立っている社会である。また、全体の働きと個人の働きの調和によって、国家社会は成り立っていると考える思想なのである。競争の原理の原理も全体と個人の調和の範囲内で成り立っている。スポーツで言えば、スポーツは、ルールの範囲内でならば、スポーツとして成り立っているが、一旦ルールの範囲を逸脱したらそれは競技ではなく、喧嘩、争いになる。スポーツというのは、ルールがあって成り立っているのである。

 この場合、ルールがスポーツを確定するのであって、スポーツがルールを確定するのではない。言い換えると、法が社会を確定するのであって、社会が法を確定するわけではない。

 個人主義とは、個人を基礎とした思想である。個人とは、自己を客体化したものである。故に、個人主義とは、自己を基礎とした思想である。

 自己は、唯一の存在である。自己は、全ての存在の前提である。自己とは存在である。肉体も意識も属性に過ぎない。
 自己は主体的存在である。自己は間接的認識対象である。間接的認識対象である自己認識は、外的環境や状況の影響を受けやすい。人間の認識は、自己の内部と外部に対する作用反作用の結果として形成される。
 自己の肉体は、自己の肉体の外部から、栄養を摂取しないと存続できない。即ち、生きていく為に必要な養分は、外部から摂取しないと人間は生存できずに死ぬ。
 自己は、自立的した存在である。故に、自己の意識は、自己完結している。

 個人とは、この様な自己を客体化した実在である。故に、個人は、自己の性格を基本的にしている。
 この事から、次のことが導き出される。対象は、個人が意識することによって認識される。個人が意識することによって生み出される者は相対的である。故に、観念的所産は、相対的である。個人は、主体的存在である。同時に、間接的認識対象である。故に、個人の自己認識は、間接的な認識よって為される。個人の自己認識は、自己と対象、即ち、個人と環境との相互作用によって形成される。個人の価値観は、自己認識を基礎にして為される。故に、自己の価値観は、相対的であり、同時に、内面と外部との相互作用、即ち、作用反作用によって形成される。個人と環境とが相互作用によって認識されるという事は、自己と外界、個人と環境との関係は、一対一、かつ、作用反作用の関係にある。

 個人主義は、私的所有権を前提として成り立っている。なぜならば、それは、自己の経済的自立を保証する権利だからである。

 個人主義は無政府主義ではない。即ち、全体を否定する思想ではない。むしろ、個人の働きが調和したところに全体の最適な状態があるとする思想である。
 また、私的所有権を否定する思想でもない。また、格差も否定はしない。

 しかし、同時に、身分的格差は否定する。なぜならば、身分的な格差は、社会を硬直させ、機能不全に陥らせるからである。格差は、それが、働きを促し、関係を強化するのに役立つから意味があるのであり、位置を固定し、運動を低下させてしまうのならば意味がない。構造を維持させるのは、運動であり、運動を維持させるためにこそ格差は意味がある。即ち、構造的格差は有効でも、身分的格差は、構造を崩壊させる阻害要因でしかない。

 個人の働きは、社会全体における個人の位置、立場、そして、個人の働きと社会との関係、あるいは、個人、個人との関わり合いによって決まる。
 それは、個人の権利と義務、権限と責任を規定する。この様な個人と全体との関わり合いを構造化するのが構造主義である。
 対立関係によってのみこの様な構造は築けない。個人が自立できない環境でも構造化は出来ない。引力と斥力の均衡によって国家構造は、保たれるのである。

全体と個人


 社会全体は、個人からなり、個人は、社会全体の一部を構成する。それ故に、一人一人が自立的に行動しないと全体は、保てないし、逆に、全体は、個人を尊重しないと維持できない。人間は、一人一人、社会に対して責任がある。社会は、一人一人の個人に対して責任がある。

 観念は、意識が生み出した所産である。故に相対的なものである。意識は我生み出す物は、自己の認識の作用反作用によってもたらされる。即ち、自己の認識は、外界への働きかけによって形成される。

 権利と義務は、個人の社会的存在から生じる責務である。故に、自己に対して作用反作用の関係にある。自己の権利は、社会の一員として保障された権力であると、同時に、自己に課せられた義務の根拠となる。故に、権利と義務は方向の違う同じ作用である。
 権限と責任は、個人の働きに対して発生する責務である。故に、自己に対して作用反作用の関係にある。自己の権限は、外部に対する効力であると同時に、自己の責任の根拠でもある。故に、権限と責任は、方向の違う同じ効力である。

 なぜ、組織が衰退するのか、それは、組織を構成する一人一人の責任感が消滅するからである。

 今日の社会の最大の問題は、全体と個人とを対立的に捉えることである。国家と社会とは、協調しようのない存在であるように捉えることである。特に、戦後の日本では、知識人と自称する互助集団は、反体制、反権力を標榜していれば、自分の立場は安全だと思い込んでいる。その為にも社会は、社会としての凝集力、求心力を失い、解体をはじめている。家族は、崩壊し、会社は、冷たくなり、国家は、統制力を失ってしまった。それらの現象が何を意味するのか。全体が、全体を一つのまとまりとして制御する事が出来なくなることを意味する。それを個人主義というのは、明らかに個人主義を曲解し、歪曲している。個人主義成り立つのは、個人と全体、即ち、国家と個人、経営主体と個人、地域社会と個人、家族と個人が、調和することにおいてである。個人と全体がいがみ合い、対立し続ければ、個人主義は成り立たない。それは、個人主義社会を破綻させようとしている者の陰謀である。

 企業は、経済や産業を構成する部分とみなし、その働きを明らかにすればいいのである。
 企業は、恒久的な成長を前提とすることはできない。企業の成長には、一定の限界がある。もし仮に、企業の成長に限界があるとしたら、企業の成長を前提した経済体制にも限界がある。
 企業が成長の限界に達する事を前提とする体制を考える必要がある。企業の継続的成長が望めないのならば、成長以外、企業に何を求めるべきかである。企業の働きの何を前提とすべきなのかである。
 大体、なぜ、成長を前提としなければならないのかである。
 企業に要求される働きというのは、基本的に労働と分配である。つまり、雇用を創出することと所得を分配することである。つまり、企業に要求される働きとは、利潤、所得、利子、納税である。それを過去の蓄積と経営活動によってそれぞれの担い手に分配することである。所得には、他の経営主体への支払(費用)も含まれる。
 その上で、清算時点には、債務と債権とを相殺できる体制を維持することである。そこに、金融や資本の働きがあり、金融機関の役割がある。

 全体の利益と部分の利益を個別的対立的に捉えているから均衡できないのである。国家と産業、産業と企業、企業と労働者が対立的な存在と捉えると全体的な調和、均衡は保てない。全体の利益と個別の利益を統一的、構造的に捉えることなのである。それが構造主義経済である。
 NFLとMLBの違いである。NFLは、全ての球団が黒字なのに対し、かつてMLBは、ほとんどの球団が赤字である。近年、MLBは、収益を改善し、多くの球団が黒字化した。かつてのMLBと現在のMLB、そして、NFLは、違いがどこにあるのか。
 それは、リーグ全体が目的や利害を共有しているかの違いである。相互の利益を守るために、全体の仕組みが上手く機能しているかによって個人も全体も利益を自然に得られる仕組みを構築できるか否かにかかっている。

 人間は、ホモ・エコノミクスではない。人間である。つまり、自己の効用を最大にするために、合理的な行動を選択する生き物ではない。
 人間として自立、独立して主体性を持った存在である。個人の倫理観を土台とした存在である。つまり、自己のよう効用と言うよりも自己善を実現しようとする存在である。問題は、自己善の内容なのである。自己善が、合理的、ないし、経済的効用を最大化しようと考えるものならば、ホモ・エコノミクス行動をとることになる。しかし、自己善は、自己と環境との相互作用の上に形成される体系であり、合目的的な体系であるから、必ずしも、経済的価値を至高なものとすると限定することは出来ない。むしろ、古来、多くの人は、経済的価値を至高の目的として認識しないから、経済の発展は阻害されてきたとも言える。人間の人生によって経済は、全てではないのである。むしろ、経済はあくまでも手段であって目的ではないと考える人間の方が多い。ホモ・エコノミクスは、むしろ稀なのである。問題は、環境によって好むと好まざるとに関係なく、ホモ・エコノミスト的価値観が、刷り込まれ、ホモ。エコノミクス的行動をとる一面があるという事である。確かに、人間の一生は、経済的価値に左右される。しかし、それは、一面である。人間は、多面的な存在であって一面的に判断するのは、かなり危険なことである。

 人間には、人心と道心がある。人心というのは、人間の五感に基づく心であり、道心というのは、人間の倫理観に基づく心である。心というのは、人間の行動の源である。

 官僚機構は、人間を臆病にする。なぜ、臆病にするのかと言うと第一に、重大に過失さえなければ、一生が保証されているという事。第二に、所得が保障されていること。第三に、仕事の成果と報酬とが、即ち、実績と評価が結びついていないという事。第四に、組織が大きすぎて、責任の所在が曖昧になりやすいという事。第五に、規則によって行動が規制されているという事である。
 最大の問題点は、減点主義にある。成功しても。何の評価も受けられず。ひどい場合は、余計な仕事を増やしたと同僚に非難されることさえある上、ちょっとした過失は罰せられる。反面、何もしなくてもある程度の所得は保証されていて、やっても、やらなくても、たいした差がないと言うような体制は、言われた仕事以外、余計な仕事はするなという体制である。この様な組織体制は、効率化を望む術(すべ)がない。責任感をもって仕事をした者が報われるどころか、非難されるような組織である。人間の尊厳に対する侮蔑に等しい。正直者が馬鹿を見る体制である。

 官僚機構は、人間の意志を前提としていないのである。だから、人間を生かすことができない。ただの部品にしてしまう。意志とは、善を志す感情である。意志の力が働くから組織は、組織として機能する。人間は、部品と化すと人間としての道心をすら失う。魂を抜かれてしまうのである。自分が一体、何をしているのかもわからなくなる。モラル以前に自分の価値観そのものを喪失するのである。大切な事は、意志の力を引き出すことである。部分が機能しなければ全体は、統御できない。全体が機能しなければ、部分を抑止できない。

 官僚機構は人間を傲慢にもする。

 この様な、官僚機構は、革新的、能動的な機能には向いていない。防御的、受動的な働きに向いている。

 国家が、環境や外部に能動的、積極的に働きかける必要がある場合には、官僚機構というのは、不適切な組織である。特に、組織が大規模になると官僚機構の弊害が目立つようになる。

 近代的農業は、大規模農業を志向している。近代企業も大企業を志向している。自作農や自営業者は、どちらも排除することによって成り立っている。
 大地主か、公営農場か、企業農場であり、何れも大規模農場、大資本農場であり、働く者は、要された労働者を意味し、経済的に自立した中小の自作農には否定的である。
 大企業から見れば、商店主のような個人事業者、自営業者は、非効率、非生産的な存在の極みなのである。

 しかし、それは、経済的に自立した個人を否定する事にも繋がる。経済的に自立した個人を否定する事は、政治的に自立した個人を否定する事でもある。

 資本主義にせよ、共産主義にせよ、大組織主義であることに違いない。資本主義と共産主義は一見対立しているように見えるが、その行き着く先は、似ている。資本主義で言えば、賃金労働者と会社という組織からなる社会である。それは、労働者と国家からなる共産主義社会と機構的にみると変わらない。

 現代社会は、合理化を旨としている。しかし、その合理化の大前提は何であろう。その前提は、効率化であったり、生産性という側面に限定されてないだろうか。社会を構成するのは、人間である。社会の合理的前提は、人間の欲求、意志でなければならないはずである。だとしたら、単に生産性や効率性におくのは、明らかな誤謬である。前提に間違いがあれば、それ以降がいかに論理的に正しくでも間違いである。
 合理的な社会を志向するならば、その前提を人間の幸せ、欲求におかなければならない。そして、それは、労働と分配、雇用や家族の問題に集約される。

 何でもかんでも合理化、機械化してしまえば良いというものではない。機械化が、人間から働く機会や職場を奪うとしたら、それは不合理な話である。
 機械化しない方が良い、機械化しなくてすむ仕事は、機械化しない方が良いのである。例えば、政治家や経営者、裁判官、警察官の様な仕事を機械化するのは問題がある。スポーツを機械化したら意味がない。銀行の窓口業務のような売り子のような対面してやる業務や手作りの方が良い仕事である。

 大きな範囲や機構を単一の組織によって制御するのは、小さな池に鯨を泳がすようなものである。巨大な組織機構というのは、必然的に統制力を失う。特に、行政のように地域地域によって、前提や環境、状況が違ってくる場合、単一的な組織では換えって効率が悪くなる。

 巨大な組織は、自らを管理する管理機構の増大によって押し潰される。また、組織の巨大化は、垂直方向への増大せざるを得なくなる。その結果、垂直的対立と、階層の深さを招く。その結果、階級が構成され、階級間の闘争が激化する。
 組織は、適当な規模でなければならない。その適当な規模で自律した組織を一つの単位として、社会は、構成されるべきなのである。

 現代人は、組織効率を考える上で重要な過ちを犯している。組織効率は、意志の疎通の範囲で測るべきであって、規模で測るべきではない。組織というのは、基本的には情報系であり、情報を処理することの出来る範囲で意思決定は為されるべきなのである。

 つまり、巨大な鯨に市場が呑み込まれた構造ではなく。適正な規模の経済単位が、市場の海に散在しているような状態がいいのである。
 野球のチームは、一チームでは試合が成り立たないし、二チームでは、面白くない。かといって百チームでは、経済的に成り立たない。10〜12球団ぐらいが適当ではないのかというのが現状である。どれくらいの球団が適正化を図るのは、サッカーリーグや野球のようにいろいろな仕組みがあり、一概に、どの仕組みが良いかは決められないが、ただ、それを判断する機構や仕組みが必要だと言う事は確かなのである。その全体を構造化するというのが構造経済である。

所有権


 所有権は、支配権から派生する権利である。

 近代的個人は、私的所有権によって確立される。私的所有権が確立されることによって個人の経済的自立が保証されるとし、不可侵な権利とする。ただ、今日では、若干の制約が認められる。

 私的所有権を、なくすことが出来るか、否かは、現代思想上重要な意味がある。それは、国家体制の根本的意義を明らかにする大事だからである。結論から言うと、私的所有権を一切認めないという事は、不可能だと私は、思う。なぜならば、私的所有権は、経済活動の前提となっているからである。特に、市場経済や貨幣経済の大前提である。私的所有権が確立されなければ、市場経済も貨幣経済も成り立たない。

 貨幣は、私的所有権から生じる。なぜならば、貨幣は、財の交換のための媒体である。交換は、所有権の移転を意味する。故に、貨幣は、所有権から生じる。即ち、貨幣経済は、所有権を基盤として成立する。

 私的所有権を奪うことは、経済のエネルギー、活力を奪うことになる。所有権は、所得や財産の差を生み出す。所有権をなくすと言う事は、差が解消されることを意味する。即ち、差がつかなくなる。差がなくなれば、位置が確定せず、運動が意味がなくなり、関係が喪失する。何よりも、相対的な基準が設定できなくなり、全体の中に自分を位置付けられなくなる。結果的に、自己を見失い、存在意義が確立できなくなる。自分がなくなるのである。
 つまり、自己実現が出来なくなる。自己実現は、経済の推進力である。また、生きる目的でもある。それ故に、所有権を否定する事は出来ない。問題は、私的所有権を無条件に認めるかの問題であり、私的所有権の範囲の問題である。

 社会主義は、私的所有権を全て否定している。あるいは、否定するとする考えがある。しかし、それは、極端な考え方である。所有権というのは、オール・オア。ナッシングの発想では成り立たない。所有の範囲と対象に依るのである。全ての私的所有権を否定すると言う事は、実際的に不可能である。社会主義の根本は、生産手段の共有であり、私的所有権を必ずしも否定しているわけではない。

 所有権は、経済の最小単位に帰属する。即ち、第一に個人、第二に、家計主体、第三に、経営主体、第四に財政主体である。

 経済的自立は、政治的自立を保証する。経済的自立は、所有権によって裏付けられる。故に、政治的自立は、所有権によって裏付けられる。また、経済的依存度は、経済の基盤の中心を何処に置くかによって決まる。経済的依存度は、個人、家族、経営主体、国家の順で高くなる。つまり、個人に近づくほど私的所有権の度合いは高まる。一番、依存度が低い、即ち、私的所有権の度合いが強いのは個人である。そして、経済的に自立した個人は、市民である。故に、近代革命は、市民革命を端緒とするのである。

 所有権の依存度が高まれば、差は少なくなる。相対的に私的所有の度合いが低くなる。即ち、経済的基盤が個人から、家族、家族から経営主体(職業集団)、経営主体(職業集団)から国家へと移行するにつれて、経済的依存度が高まる。それにつれて格差が解消される変わりに、政治的な自立、選択しも狭まることになる。

 所有権は、所得の範囲によって決まる。つまり、所有権の獲得は、所得に依存するからである。所得には、地代・家賃、利子・配当、贈与・相続、譲渡、労働の対価などがある。

 所有は、権利である。所有が権利で在れば、必然的に義務も生じる。それは、他人に対する所有権を認めるという義務である。

 所有権とは、対象を支配する権利である。対象の象とは、形象です。つまり、人間によって認識された事物の像である。(広辞苑)形象の中には、無形な物も含まれる。

 所有とは、その財の使用、処分、独占、占有する権利である。

 本来、自然状態には、所有物という物は存在しない。
 人間の社会における所有権は、社会的権力、公的権力に依って公認され、保証されることによって成立する。即ち、所有は、公権力があって成り立っている。

 所有の概念は、縄張り、テリトリーからきている。一定の範囲の物的空間を占有することから所有の概念は、始まっている。つまり、一定の範囲の範囲の空間が物にまで拡大され、それを占有、支配する意味になったと考えられる。

 所得は、私的所有権に基づく。私的所有権は、経済単位に帰属する。この経済単位を個人に帰すのか。共同体に帰すのかによって、私的所有権の在処にも相違が生じる。

 私的所有権の確立と言うからには、私的所有権以外の所有権、即ち、公的所有権を前提としている。
 私に対して公とは何か。それは、何等かの社会的存在を指して言う。社会的存在とは、人間集団、つまり、共同体である。共同体の典型が、家族と国家、そして、職業集団である。私というのは、自己を客体化した存在、個人である。これらは、最小の経済単位である。
 資本主義経済では、共同体にも所有権を認めている。好例が法人である。法人というのは、法的に人格を与えられた集団であり、法的に人格を与えられることによって所有権が法的に認められる。

 所有は、交換を前提とした概念である。故に、共有の概念の範囲外の概念である。つまり、所有の範囲は、共有の範囲と一線を画する必要がある。所有権が認められた範囲と所有が認められていない範囲の一線は、市場の境界線を意味する。
 つまり、市場経済と経済単位からなる。経済単位は、基本的に共同体である。そして、所有の概念は、市場の成立によって成り立っている。市場が成立していないところでは、所有の概念は成り立たない。市場以外にところで、成り立つ所有の概念は、経済単位と個人との合意の下に成り立つ関係であり、法的関係であっても経済的関係ではない。なぜならば、交換を前提とした物ではないからである。

 所有の概念は、全てを個人の所有に還元するものではない。所有の概念は、あくまでも経済的概念であり、故に、経済単位に帰属する概念である。

 公的な所有と私的な所有とは、完全に分化していない。未分化な状態で混在している。と言うよりも、私的な場と公的な場が一つの空間を形成し、それを個人と言う存在が結び付けていると考えるべきである。

 所有権の中には、物件がある。物件とは、物に対する所有権である。同一内容の物権は、同一物に対して一つしか成立しない。同一の物に対して同一内容の物権が複数成立すると、物への直接的な支配が失われるからである。このような性質を物権の排他性、一物一権主義と呼ぶ。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
 それに対して、債権は、同一の対象に対して、複数発生することがある。抵当権などが好例である。

 所有権の確立は、市場経済が成立するための大前提である。市場価値は、交換価値である。故に、市場は、交換が前提である。交換を前提とするためには、自分の物を前提としなければならない。つまり、自分の物と他人の物との区別があってはじめて交換という行為が成立するからである。故に、交換を前提とした市場経済が成立するためには、所有の概念が確立されなければならない。

 所有権は、取引によって市場に顕現する。市場経済における取引は、貨幣を介して成立する。

 貨幣は所有権から発生する。貨幣は、取引を媒介する手段だからである。取引が成立しなければ、手段としての貨幣は、生じない。取引は、所有を前提として成り立つ行為である。故に、貨幣は、所有権を前提として成立している。つまり、貨幣経済、市場経済は、所有権を前提としている。

 負債も資産も所有権から生じる概念である。負債も資産も貨幣経済、市場経済を前提として成立している概念である。貨幣経済も市場経済も所有を前提としている。故に、負債も資産も所有を前提とした概念である。

 取引を成立させている土台は、信用取引であり、その信用を形成させているのは、その債権、債務を成立させているのが所有権である。また、信用制度が生み出す、信用力の量は、債権、債務の量に依存する。

 債権というのは、将来、予め決められた価値と同等の給付、あるいは財を受け取る権利であり、債務というのは、将来、予め決められた価値と同等の給付、あるいは、財を与える義務である。

 市場は、取引によって成立している。取引は、それが成立した時点では、債務、債権、現金が均衡している。
 社会全体が生み出す実質的価値の増減は、債権債務の増減と付加価値の増減によって決まる。名目的価値の増減は、市場に流通する通貨の量は、社会全体の価値の増減に対応する必要がある。

 貨幣は、信用という裏付けがあってはじめて機能する。それは、貨幣が何を担保するかによって決まる。
 貨幣が何を担保するかは、貨幣の起源による。例えば、金本位制度の紙幣は、金を担保していた。金本位制度の紙幣の起源は、金の預かり証である。その後、国債を担保とした紙幣も成立している。金は、資産であり、国債は、国家にとっての債務であると同時に、紙幣の発行者から見ると債権である。つまり、国家の負債を担保して信用が成立している。

 債務は、資金を生み出す信用の元となり、債権は、債務の支払い能力を保証する。これは、消費と負債と資産の関係に対応し、所得を生み出す。所得と消費の差が利益となり、資本へ転化する。

 現在的価値とは、その時点において貨幣価値が指し示している価値、あるいは、実現している価値である。

 陰陽で言うと、債権は、陽である。債務は陰である。債権は、変易であり、債務は、不易である。そして、資金は、易簡である。

 債権、債務、現在的価値の関係をサブプライム問題を例にとると、次のようになる。
 債権は、住宅価格の問題であり。債務は、住宅ローンの問題である。そして、現在的価値は、返済資金の問題となる。
 サブプライム問題を解決するためには、返済資金、つまり、現在実現しうる貨幣価値を債権、債務の両面から捉える必要がある。その時、債権の裏付けである資産の変動性と負債の固定性をどう調和させて現在価値に集約するかが鍵となる。
 不良債権と、債権処理だけで解決しようとしても解決できるものではない。
 銀行の持つ債権の問題は、相手にとっては、債務の劣化の問題であり、債務の劣化は、債務を保証している資産の劣化の問題である。そして、資産価値が劣化することによって資金調達に支障をきたし、返済資金が滞っているのである。つまり、所得、返済能力の問題である。その返済が滞るのは、負債、債務の価値や返済手段が硬直的であることが一因である。つまり、不良債権の背景には、不動産価格の下落、借金の硬直化、資金調達の障害と言った問題が構造的に存在するのである。構造的というのは、それぞれの問題がお互いに作用しながら、一つの方向に螺旋的に向かっているという事なのである。

 債務、債権の量は、社会全体では均衡している。
 利益は、社会内部で生み出す、付加価値である。付加価値は、市場取引によって現金として、市場に現れる。取引には、時間が関係している。取引によって生み出される価値と消費される価値の差である。

 貨幣経済下における市場取引は、物的取引と金銭取引がある。貨幣経済では、物的取引の間に、金銭取引が介在する。
 物的取引、物的受け渡しと金銭的取引、金銭の受払、決済の間には、時間的な差が生じる。それが、利益の微妙な影響を与える。
 市場取引には、売買取引と貸借取引がある。市場経済、貨幣経済は、売買取引のみを前提としてみなされがちである。市場経済が確立される以前は、むしろ、貸借関係の方が中心だったと思われる。(「中世の借金事情」井原今朝男著 吉川弘文館)
 取引は、基本的に交換である。売買取引というのは、財の最終的交換であり、貸借取引というのは、財の一時的交換である。

 損益取引は、所得と消費を基礎としている。所得、消費とは、現金の決済、即ち、現在的貨幣価値を実現し、清算することである。所得、消費とは、貨幣価値が実現されることを意味する。貨幣経済下において消費を実現させる要素は、支払手段、決済手段である。支払や決済には、支払者側と受取者側がある。これは、消費と所得は、作用反作用の関係にあることを意味している。

 貸借取引によって債権と債務と現金を生じる。現金とは、現在的貨幣価値の実現を意味する。

 負債・資本・資産は、貸借関係、、損益は、売買関係を基礎として成り立っている。資本や費用性資産は、貸借と売買の中間に位置する関係といえる。

 内部取引は、常に均衡している。内部取引と外部取引が均衡するように内部取引は、変動する。その変動によって損益が発生する。故に、未実現利益は、内部取引と外部取引の歪みを生み出す原因となる。時価会計と言って未実現利益を表面化させることは、内部取引を歪める原因となる。
 内部取引、外部取引がある。利益は、外部取引と内部取引が変換される過程で発生する。
 取引の最終目的は、取引の現金化にある。それ故に、資金が企業活動を最終的に決定する。それが決済である。

 取引が停滞し、成立しなければ、現金として生み出される付加価値は、失われてしまう。
 取引は、現金の流通を促進する。現金は、取引を促進する作用がある。

 貨幣は、社会的分業を促進する。所有権が確立することによって余分な財と不足した財との交換が円滑に行われるようになるからである。交換が常態化することによって特定の財の生産に専念することが可能となる。所有権の移転を促す、貨幣が市場に流通することは、交換を常態化することである。結果的に貨幣は、社会的分業を促進することとなる。

 国家財政の健全化を図ろうとするならば、国家が生み出す信用価値のみでなく、市場が生み出す信用価値をもっと重視した施策を採るべきなのである。貨幣制度は、信用制度の上に成り立っているからである。ただし、信用の創出は債務と債権を生じさせることを忘れてはならない。

 債務、債権は、作用、反作用の関係にあり、量的に均衡している。それが複式簿記の基礎を形成する原理である。
 作用、反作用という事は、認識上生じる概念である。故に、債権、債務というのは、相対的概念である。

 それは、不良債権問題の処理に端的に現れる。

 不良債権問題と言うが、実際は、不良債権、不良債務問題である。つまり、不良債権を解決するためには、債権だけではなく、債務の問題も同時に解決しなければならない。不良債権は、同量の不良債務を持っているからである。

 ところが、不良債権問題とすることによって、債権処理ばかりが課題となる。それ故に、不良債権は、解決できないのである。同様なことは財政にも言える。

 日本のバブルの崩壊もサブプライムの問題も根底には、不良債権問題が隠されている。そして、不良債権の解決が鍵を握っているのである。

 不良債権問題で考えなければならないのは、債権、債務の現在的貨幣価値の不均衡である。現在的貨幣価値は、現金として顕現する。ここで注意しなければならないのは、資産は、実質的価値によって変動するのに対し、負債は、名目的価値によって固定されているという事である。また、所得も実質的価値に連動して変動する。
 負債は、元本部分と金利部分から成る。また、負債の返済は、所得による。所得が返済額に見合っていれば、不良債権は、発生しないはずなのである。つまり、本来は、金利の返済が滞らない限り、問題は表面化しないはずなのである。それがなぜ、表面化するのかというと、所得の限度を超えて負債の圧力が大きくなるからである。
 その要因の一つが、返済額の中に元本の返済が含まれているからである。本来、貸借関係で見ると債権と債務は均衡していなければならない。ところが、債務の裏付けとなる資産価値が下落しているのに、債務の名目的価値が減らないために、債権を担保する価値が不足することにより、債権が不良化するのである。そうすると、債権を回収しようと言う動きが活発化する。これは、債権者保護が優先され、債務者保護が見落とされるからである。債権と債務は、本来、貸借取引を基礎としているのに、突然、売買取引の論理が割り込んでくる。それによって貸借関係の原則がうち破られ、資産が不良債権化するのである。
 この様な場合は、返済に置いて、元本と金利とを切り離して考えるべきなのである。なぜならば、元本というのは、長期的な均衡を前提とし、金利は、消費を前提とした費用だからである。
 その上で所得の範囲内に返済額を押し詰めることを考えるべきなのである。債務と債権は、実質的には均衡していなければならないものであり、債務の健全さが保たれなければ、債権の保全もままならないからである。(「中世の借金事情」井原今朝男著 吉川弘文館)

 債務と債権は、常に均衡しており、利益に見えるのは、時間差、即ち、財の価値の時間差、時間的価値にすぎない。

 国債も市場取引を経由しないと社会全体の価値を増減しない。市場取引を経由することによって信用価値を創造し、信用量を増加させる事が可能となるのである。

 財政赤字や財政破綻によって通貨の一部、あるいは、全部の機能が障害を受けるか、停止することが問題なのである。
 問題は、財政機能の破綻が通貨の機能のどこに影響を及ぼすかなのである。その第一がクラウディングアウトである。もう一つがハイパーインフレである。また、恐慌である。財政が赤字、極端に言えば、破綻してもクラウディングアウトやハイパーインフレが起こらなければいいのである。逆に言えば、財政が健全でもクラウディングアウトやハイパーインフレ、恐慌が起こると拙いのである。
 何が問題かを見極める必要がある。

 世の中には、「金が全てではない。」「金に替えられない物がある。」と言う人が結構居る。これは一面において正しく。一面において正しくない。社会は、金が全てだという空間と金だけではないと言う空間が混在して構成されているのである。金を媒体としている空間、場が市場である。そして、非貨幣的空間が共同体である。ただ、この境目が段々と判然しなくなりつつある。そして、それが社会問題の根底にあるのである。
 非貨幣的空間の典型が家族である。そして、金銭的空間と家族との間を結んでいるのが所得である。故に、市場と共同体との境界線の問題は、所得の問題でもある。
 この市場と共同体の境界線が不明確になってきたのである。つまり、親子の間や兄弟、夫婦の間にも金銭的な問題が入り込みつつある。
 自分達が住んでいた土地もいつの間にか債務になり、何もしないで居ると相続することもでなくなって、国に取り上げられてしまうのである。
 近代税制度が確立される以前は、潜在的資金効果を計算してこなかった。自分達が住んで生活している土地に税金がかかるなんて思いもよらなかったのである。況や、税金が支払えなかったら、召し上げられるなんて考えも及ばなかった。その上に、近代税制には、潜在的な貨幣価値を顕在化する働きがある。この様な潜在的な価値が顕在化する過程で債務と債権が形成されるのである。

 大地主というと、かつては、大変な資産家とみられてきたが、現在は、大変な債務者なのである。資産は、債務の塊と言っていい。
 私的所有権と言っても債権に過ぎない。権利に過ぎない。本当その人の物になっているわけではない。ある意味で、使用する権利を持っているに過ぎない。その所有権も三代でなくなると言うくらい、現代社会は、私的所有権を認めていながら、私的所有権に対し、否定的な社会なのである。
 これは思想であり、大前提である。この点を明確にしておく必要がある。何人も、先祖代々伝わる土地だと主張しても相続税が支払えなければ、その土地の所有権は消滅するのである。つまり、債権であり、債務なのである。

 つまり、近代税制というのは、私的所有権に対し否定的な税制、又は、否定的に作用する税制と言っていいのである。ただ、この思想は、国民の合意に基づいているのかという点に関し、甚だ、心許ない。この点が重要なのである。制度は、実質的にその根本にある思想を実現してしまう。

 経済は、貨幣に支配された世界と、非貨幣的な世界が混在して成立している。市場と共同体が混在しているのである。市場の機能を理解するためには、非貨幣的空間を理解しておかなければならない。
 その非貨幣的空間の典型は、家族、家計である。家族関係は、本来金銭的関係が入り込まない世界である。愛情は、金銭には換算できない。親子関係は、金銭で割り切れる関係ではないのである。人間性は、貨幣に換算できない。だからこそ、家族関係から市場をみると経済の側面が明らかになる。

 現代人の最大の過ちは、個人も、家計も、経営主体も、国家も生産性や効率でしか計れなくなったことである。しかも、貨幣価値に全てを還元した上でである。それでは、個人や、家計や、経営主体や、国家の存在意義は、貨幣価値で、効率性や生産性を基準にしてでしか評価されない。しかし、人間の幸せは、効率や生産性、貨幣価値になじまないものである。
 多くの人達は、人間の幸せは、金で買えない物だと言うことを知っている。自分にとって一番大切な物も金銭には代えがたいものであることも知っている。しかし、自分のとってお金が大切なのも知っている。現代人は、常に、金か、それとも金では買えないなにものかなのかの選択を迫られている。それでいて、誰も、貨幣の本当の価値を知らない。それが問題なのである。金は、人間が生み出した手段であり、道具である。手段であり、道具として大切なのであり、目的にはなりえない。それを忘れてはならない。

 産業や一企業を保護するのではなく。市場を保護するのである。個としての部分の有り様は、市場とい空間の仕組みによってのみ全体を制御することが可能なのである。

 我々は、個人の果たしてきた役割を過大評価しすぎてはいないだろうか。反対に、過小評価しすぎているのかもしれない。一人の人間が全てを支配することは出来ない。しかし、一人一人の持つ個性は侮れないのである。一方に侮蔑をもって、一方に憧れをもって我々は先人達や過去の英雄の業績を評価している。しかし、経済の本質は、全体と個人の調和にある。

 一人一人の幸せが国家の栄光であり、国家の繁栄は、一人一人の働きに掛かっている。
 個人と全体、国家と国民とは、対立関係にあるのではなく。協調関係にあるのである。助け合うべき存在なのである。

 個人主義こそ、国民国家の礎である。それは国民一人一人が自らの意志と責任をもって国家に参画することを前提としているからである。
 自分の家族が、自分企業が発展することを意味し、自分の会社が発展することは、国家の繁栄を招く。その様な関係が構築された時、経済は、一つの方向によって調和するのである。
 部分と全体が、背き合い、反発しあい、排斥しあったら、部分も全体も調和せず、統一性を維持することは出来なくなるのである。その時、部分は離れ、全体は破綻する。

公 と 私

 個人にも、私的な部分と公的な部分がある。もっと厳密に言うと、個人は、私的な場と公的な場、両方に属している部分がある。私的な部分というのは、自己の内面の世界に属する場であり、公的な部分というのは、自己の外界に存在する対象との関わり合いによって生じる場である。

 公というのは、外界に存在する対象との関わり合いに依って成立している場であるから、客観的な位置と運動、関係が重要となる。

 私というのは、自己の内面に属す問題だから、主観的なものであり、自己の認識に依拠する。

 つまり、個人において公的な部分は、社会的な位置や運動や関係から発する部分であり、私的な部分は、自己の内面の認識から発する部分である。

 私的な部分、公的な部分というのは、明確な境界線が画定しているわけではない。故に、私的な問題か、公的な問題化の区分においてその範囲を特定することが前提となる。

 公的な場にある場合を公人といい、私的な場にある時は、私人という。公人として扱うか、私人とみなすかは、情報の開示等、情報の取り扱いにおいて重要な要件となる。
 それは、公というのは、外に開かれた場であるのに対して、私というのは、内に閉ざされた場だからである。
 故に、公的な部分は、外部に顕現される必要があり、私の部分は、内部に保護される必要がある。
 陰陽で言えば、私は陰であり、公は陽である。個人には、光と影がある。外に向かって発せられる陽の部分と、内に向かって秘匿される陰(かげ)の部分があるのである。

 私的か、公的かは、所有権の問題、そして、所有権から派生する問題、例えば課税対象と言った問題において決定的な要因となる。
 私的。公的の区分の延長線上に私有、公有の区分がある。私有は、自己の内側から発生する所有権であり、公有は、自己の外側から発生する所有権である。つまり、私有は、自己の直接的支配権の範疇に属し、公有は、自己の間接的所有権の範疇に属する。直接的支配権には、必然的に、直接的な所有から派生する直接的な権限、権利と管理責任や管理義務が生じる。間接的な支配権には、間接的な所有から派生する権限、権利と管理責任、管理義務が生じる。

 一般に、自分が支配できる範囲内を私的空間とする。即ち、自己が所有する範囲内が私的空間の境界線とみなす。私的空間の範囲は、基本的に、家内を指して言う場合が多い。即ち、経済の最小単位の一つである。家計の内が経済で言う私的空間である。

 経済は、共同体と市場が混在した体制であり、共同体の内部と、共同体外部とで経済の在り方が違ってくる。経済の基本単位は、共同体と個人に置き、その共同体を家計主体と経営主体と財政主体に三つに分類する。共同体というのは、個人の集合体である。その中で私的空間というのは、家計主体の内側を指して言う。

 共同体である経済主体の内部は、不文律、即ち、道徳や掟、礼儀、作法に依って統制されている社会であり、原則的に、非貨幣的、非成文法の空間である。それに対し、市場は、非道徳的空間であり、成文法的空間である。

 かつて、市場は化外の世界にあった。つまり、世俗的な掟の外にあった空間である。故に、自由な空間であった。また、平等な空間であった。そこでは、遊郭や酒場、賭博場、遊園地、即ち、非道徳的な空間が拡がっていた。
 家庭内においては、労働や食事、性は、金銭取引の対象にはならない。それに対して、家庭外では、労働や食事、性は、金銭取引の対象となる。金銭取引を土台として成立したのが市場である。
 外に働きに出る。また、家内労働の外注化というのは、労働の基盤を共同体の外部に求めることを意味している。労働そのものがそれによって優劣を付けるようなものではない。外の仕事は、有意義で家内労働は低級だというのは間違いの元である。あるのは、所得の有無に過ぎない。むしろ労働の起源は家内労働、生産にあり、金銭による所得は補完的な収入にすぎなかったのである。

 市場には、市場の機能があり、共同体には、共同体の機能がある。現代社会で問題なのは、共同体と市場との境界線が曖昧になってきたことである。それによって共同体の崩壊が始まり、倫理観が失われつつあることである。

 実際に所得や消費を創出するのは、経済単位であって市場ではない。市場は交換の場であって生産や消費の場ではない。むろん、交換が即消費に結びつく場合はあるが、その場合も、一旦交換という行為が完結し、所有権の移転が確認された後に行われる。それは、市場ではなく、私的空間において行われる行為である。

 所有権が発生するのは、経済単位である。即ち、家計主体か、経営主体か、財政主体か、あるいは、個人である。
 つまり、企業を所有できる主体は、家計主体か、経営主体、財政主体、個人である。この中で家計主体は、私的空間という意味で個人に還元することが出来る。故に、企業を所有できるのは、個人か、経営主体か、財政主体である。

 この問題の根本には、所有権が持てるのは、個人に限定されるのか。それとも個人以外の共同体も含める、即ち、経済単位全般に認められる権利なのかの問題である。
 これは、法人格の問題にも収斂される。つまり、人間以外にも人格を認めるかの問題である。また、資本は、個人の権利の集合体としてみなすのか、企業の統一的権利としてみなすかによって意味が違ってくる。これは思想である。

 資本主義を成立させた重大な要因の一つに所有権と経営権の分離にある。そして、経営主体の所有権は、誰に帰属するのかは、思想的問題である。

 所有権は、支配権を意味する。つまり、経営主体に対する所有権は、経営主体に対する支配権をである。つまり、経営主体に対する所有権とは、経営主体を誰が支配するかの問題である。経営主体を誰が支配するかは、思想的問題である。つまり、所有権は、思想的問題である。
 所有権には、物的所有権と人的所有権、貨幣的所有権がある。出資者の権利は、物的所有権なのか、人的所有権なのか、貨幣的所有権なのか、又は、全部なのかは、思想的問題である。

 経営主体には、人的実体、物的実体がある。それらの実体を前提とした上で金銭的所有権が成立する。人的実体というのは、金銭的支配権に隷属、従属した物ではない。故に、経営主体を金銭的な所有権によって支配できるのは、物的実体の範囲内に限定されると解釈できる。

 所有権から売買取引と貸借取引が生じる。所有権は、売買関係から生じ、経営権とは、基本的に貸借関係、あるいは、雇用関係から生じる。要するに、所有者から経営主体を借りて経営して得た利益を所有者と分配するか、所有者に雇われて経営する。所有者と経営者の基本的関係である。

 賃貸関係と言う事は、経営権には、経営の結果に対する請求権か附帯的に派生することを意味する。

 ただ言えることは、所有権と経営権が分離したことによって企業の所有権の問題がより鮮明となったことである。

 法にも、私法、公法の違いがある。私法、公法は、所有権の延長線上にある。所有権は、支配権から生じる。つまり、私法、公法は、所有権の範囲によって確定する。

 現代人は、公と私とを対立したものとして捉える傾向がある。しかし、これは、思い違いである。

 しかし、儒教文化に根ざす東洋においては、それを一体とみなしていた時代がある。

 個人と全体、個人と個人の間には、引力と斥力が働いている。どちらの力も強すぎると位置も関係を維持することがでなくなる。

 戦後の知識人は、統制や規律をきらい。ただひたすらに、反抗や叛逆を煽る。マスコミにとって反体制、反権威、反権力は、結論なのであり、反骨精神は、美徳なのである。しかし、最初から、反体制、反権威、反権力を求めるのはおかしい。結果的に、時の権力や権威と衝突することはあってでもある。

 個人の幸せは、家族の幸せとなり、家族の幸せは、事業の発展であり、事業の発展は、社会を繁栄させ、社会の繁栄は、国家経済を安定させる、国家経済が安定すれば、世界は平和に治まる。そう言う関係こそ求めるべきなのであり、ひたすらに叛逆、反抗を繰り返すことは、何の実りももたらせない。




市場と個人


 個人とは、何か。個人とは、人間だと言う事である。
 個人とは、生き物であり、社会的動物であり、政治的存在である。人間は、一人では、生きられない。生まれ出ることもできない。
 人は、人の事して生まれ、人の縁によって育まれる。人は一人では生きていけない。
 経済は、人間関係の中で生まれ、人間関係を基礎として、人間関係によって成立する。人間関係の働きが経済の働きを発揮する。
 経済は、人間関係の働きによって成立する。それ故に、人間関係を前提としないと経済は成立しない。
 個人は、単独では存在しえないし、例え、存在しえても、経済的な意義はない。
 故に、経済の単位は、親と子、夫婦と言った何等かの人間関係を核として設定されるべきものである。
 人間関係を核とすると言うことは、何等かの共同体を前提とする。その場合、個として独立した場合に限り、個人を一つの単位とする。故に、所有権も、所得も、共同体に帰属する。
 また、生活の場は、共同体にあったし、現在も共同体にある。
 生活の場は、家族や社会の内側にある。人間の倫理観のベース、基礎も家族や社会の内側にある。故に、倫理的働きは、家族や社会が作り出す場の中で働く。

 市場は、社会の外にある空間、場であり、不道徳な場である。つまり、市場は、倫理的な基準によって支配された場ではない。倫理的基準が働かない、また、及ばない場である。故に、市場で酒を飲み、遊女と遊び、博打をしたのである。そして、倫理的基準が効かないが故に、市場は、法に支配されている場なのである。
 問題なのは、この様な市場の働きが、共同体の内部にまで浸透しはじめていることである。その為に、家庭内までが不道徳な場に変質しつつある。家庭内の人間関係まで法的な人間関係に置き換わりつつある。

 経済的な意味での個人とは、購買主体(買い手)、販売主体(売り手)である。そして、労働主体であり、分配(所得)の受けてである。また、生産者であり、消費者である。

 市場は、売り手と買い手とで成り立っている。売り手ばかりで買い手がいなくなれば、市場は成り立たない。買い手は、所得がなければ、購買行動は起こらない。金がなければ何も買えないのである。生産者側、売り手側の論理で、生産性や効率性の向上を突き詰め、人件費の抑制をすると買い手が市場からいなくなり、市場が成立しなくなる。生産と所得とは均衡している必要があるのである。

 個人は、市場にとって働き手であると同時に顧客でもあるのである。

 所得の受け手は、基本的には、経済の最小単位である。即ち、国家、経営主体、家計、個人である。個人は、最終的な受け手ではあるが、本来的には、家計なり、経営主体が所得を得て、それで財を購入し、分配する仕組みでなければならない。全ての所得が個人に還元されると、経済単位、即ち、経営主体も家計もその機能を失い、崩壊の危機に立つ。

 市場は、道徳的空間ではない。道徳的空間というのは、共同体内部である。故に、市場では、不道徳ではあるが、悪いことではないという事象が成り立つ。しかし、共同体内部では、不道徳なことは悪い事である。市場と共同体では行動規範が違うのである。
 最近の金融機関の行動が好例である。また、不当な安売り業者も然りである。市場の規律や本来の役割を無視して自分の利益だけを貪る。それは、エゴであり、不道徳な行為である。金融機関の本来の役割は、資金が不足しているところへ、資金が余っているところから融通することである。ところが、それにはリスクが伴う。そこで、資金が不足しているところから資金を引き剥がし、資金が余っているところに融通するような行為をを取る。それが、実物経済に資金が廻らなくなる原因であり、金融市場の混乱を招く。極めて不道徳な行為である。しかし、市場の原理では、当然の行為に映る。
 家庭では、良き父でありながら、外へ出たら、悪徳経営者というのは良く見受けられる。そう言う経営者は、法に触れないのに何が悪いと良く開き直る。法の抜け穴を捜して阿漕(あこぎ)な儲けをする。また、そう言う人間だからこそ、商売に成功する。
 マスメディアでは、どんなに不道徳なことでも、視聴率を稼げれば許されるのであり、映画も、興行成績がいいか悪いかが価値基準になるのである。かつて、子供に悪影響を与えるという理由で問題となった映画も、ヒットしたからと言う理由で不問に付された。それが言論の自由と言う事になるらしい。しかし、本来の自由というのとは、意味が違う。なぜならば、自由は、人間の意志とかけ離れて存在するものではないからである。そして、意志の根源は、道義、正義だからである。
 共同体は、道徳的社会である。故に、市場と共同体は、良く対立する。しかし、共同体も市場にも本来の役割があり、共存すべき部分である。また、市場もより大きく見ると何等かの共同体に一部であり、全く不道徳で良いというのではない。そこには、個人の良識や、見識があるのである。特に、業界を指導する役割を担う者は、徳が要求される。そうしないと市場そのものが成り立たなくなるのである。だからこそ、市場は、制御される必要があるのである。

 日本の金融機関は、国内で貸し渋りをしながら、海外の金融機関に、巨額の投資をしている。それは、市場の仕組み問題がある。金融機関の本来の役割は、資金が余っているところから、資金が不足しているところへ資金を融通することである。しかし、多くの金融機関は、市場において道徳的な判断はしない。市場というのは、不道徳な場なのである。そして、多くの金融機関は、不道徳な存在なのである。本来は、資金が不足しているところへ資金を廻すべきなのだが、それでは、短期的に利益を上げることができない。目先のことで言えば、利益を操作できる相手と、資金を転がした方が利益を上げることができる。故に、実物市場に資金を廻すより、金融市場で資金を廻した方が、リスクが小さく確実に利益を上げられると考えるのである。しかし、長い目で見れば、それが経済を衰弱させ、融資先を失わせるのである。根本に思想や構想、志がないから目先の利益に目がくらむのである。

 誰が見ても、異常なことは、異常なのである。汗水垂らして働いている実業の世界に金が廻らず。本来実業を支援しなければならない金融界に資金が滞留している。何も生み出さない産業の従業員が、実業の労働者の一生どころか、何回生まれ変わっても、手に入れることのできないような所得を受け取っている。商売するにしても、住むにしても、高価すぎる地価、これらは、実用という観点からして異常なのである。
 社会の利益に反することが明らかだとわかっていても、法を犯していないから、不正ではないと言う考え方は、不道徳なのである。

 不道徳な金融機関は、環境の変化や状況の変化を考慮せず、また、その産業や企業の働きや社会的役割を考慮せずに、ただ、計数だけで融資の判断をする。それでは、金融機関本来の役割を果たすことはできない。重要なのは、国家又は、地域社会の一員として、共同体の一員としての判断である。

 市場の歪みが腐敗を招き無法地帯や裏社会を育む。それは、元々、市場は、共同体としての社会の掟や規制の力が働きにくい場だからである。充分この点を留意して市場は管理されるべきなのである。

 市場は、人為的空間である。人為的空間の典型と言えば、スポーツのフィールドである。フィールドを例にして、人為的な空間の在り方を考えてみたい。

 人為的空間は、範囲、空間を確定する必要がある。人為的空間は、自己の意識の範囲内で形成される。つまり、個人的に意識することによって形成される。故に、個人主義的空間は、何等かの宣言をもって始まり、宣言をもって終了する。また、個人主義的空間の範囲、定義によって為される。

 時間も人為的な概念である。故に、時間も変化を意識することによって成立する。時間の範囲も空間に準ずる形で定義される。

 人為的な空間は、人為的に管理される必要がある。例えば、野球を例にとると、野球のルールが作用するのは、フィールド内だけである。ボールがフィールドから飛び出すとそのボールの動きや作用は解消される。つまり、ボールデッドである。
 これは、市場にも言えるのである。つまり、市場の作用が及ぶのは、市場のルールが及ぶ範囲に限定されている。問題は、その境界線にある。
 通貨が、その通貨の機能を有効とされるのは、その通貨が有効とされる範囲いないに限られている。その範囲を越えれば、有効とされる通貨に両替する必要が生じる。この様に、人為的空間には、範囲があることを忘れてはならない。

 市場は、人為的な空間である。その現れが、仮想的空間に成り立つ経済である。つまり、実体的な市場ではなく。実体、実物から離れた市場の急速な拡大である。その代表的な市場が金融市場であるが、その他にも、映画や音楽、ビデオ、ゲーム、インターネットと言った娯楽市場、エンターテイメント市場である。これらの市場は、かつては存在しなかった。少なくとも市場としては成立していなかった。この他には、リゾートや観光などがある。
 この様な市場は、人工的に作られた市場である。しかも、経済状態を左右するほどの巨大な市場へと急成長している。エンターテイメント市場と金融市場は、今やアメリカ経済を支える大黒柱にまでなっている。
 この事実は、世界経済の未来を占う意味では重要な意味を持っている。
 つまり、経済というのは、ますます、人為的な度合いを深めていくだろうと言う事である。それでありながら、いまだに、経済を自然現象の一種であり、人為を排除しようとする頑迷な考え方が蔓延っている。それが、経済の混乱に拍車をかけているのである。
 経済は、一種の構造物、機械、仕組みである。それは、入念に分析され、その上で設計されなければならない。それが市場である。
 エンターテイメント産業というのは、必需品ではない。それがなければ生きていけないと言う性格の産業ではない。しかし、その利益は、また、経済に対する貢献度は、必需品市場を凌いでいる。それは、エンターテイメント市場には、どの様な役割、社会的要請によって形成されたのか。つまり、それは雇用の創出、すなわち、所得と消費、分配という機能による要請である。ここに近代産業、経済の本質が隠されている。
 経済の本質は、労働と分配である。仕事や仕事場を作り出し、所得を生み出すことによって分配を効率よくすることにある。雇用を創出することが出来なくなった産業は必然的に衰退せざるをえなくなるのである。
 これは、現代社会の在り方からすると矛盾している。この矛盾が、経済の歪みを生み出しているのである。
 つまり、一方で労働を軽視し、機械化を進め、人員を削減する。つまり、仕事をなくし、仕事場を奪っている。その反面で、消費を煽る。つまり、所得が減っているのに、消費を煽れば、借金が増えるのは道理なのである。そして、多重債務が社会問題化するとしたら、その問題のそのものが社会に仕組まれていることになる。

 現代の市場は、人を中心、基盤とした体制ではない。物や金を基盤とした体制である。つまり、物や金を基盤とした体制である。つまり、物や金に支配された、隷属した市場である。支配されるという事は、所有される友言える。つまり、物や金に人が所有されているというおかしな体制なのである。
 その証拠に、景気が悪化すると物の生産性や金銭の効率性が重視され、人員が削減される。その為の社会全体の所得が減り、反対に、財が過剰に市場に供給される。その結果、景気が螺旋的に悪化していくという悪循環を引き起こしてしまう。あるいは、実物市場に資金が環流しなくなり、資金の過剰流動性を引き起こす。
 生産の速度を緩め、財の品質を向上させたり、競争を抑制して、適正な価格を維持するというような発想は生まれてこない。ただひたすらに効率を上げて、金儲けを追求する事ばかり考えるようになる。

 それは、経済本来の目的や市場本来の機能を忘れ、個々の部分の効率のみを追求するからである。全体を見ずして、部分の最適ばかりを求めるからである。木を見て森を見ていないのである。

 部分は、全体と調和してその機能を発揮することが出来る。部分の機能を抑制するのは、全体である。部分と全体を対立的にしか捉えられなければ、全体と部分との調和は図れない。物事を対立的にしか見られないのは、現代社会の根深い病根の一つである。

 仮に、市場が人為的な空間であるとしたら、市場の問題は、人為的に組み込まれた物である。当然、その矛盾も人の手で解消すべきである。自分達で原因を作っていながら、解決だけを神の手に委ねるのは愚劣な行為である。神が愚かなのではなく。人間が愚かなだけである。
 経済を人間の叡智の賜物としながら、恐慌のようなことを災害と片付けるとしたら、人間の傲慢以外の何ものでもない。
 経済の矛盾は、人間の手で正さなければならない。

家計の役割


 家計は、生活の基盤である。生活は、消費の場である。消費は、需要の源である。需要は、景気を形作るものである。故に、その時の経済は、消費に規制されている。その割に、消費経済が確立されていない。
 現代社会は、生産ばかり重視して、分配や消費を軽視してきた。それが現在の経済を歪める結果を招いているのである。

 あたかも、現代社会は、消費を奨励しているように見える。しかし、その本質は、生産者側の都合なのである。大量生産された製品の捌け口として消費を見ているからにすぎない。それが環境保護や資源の浪費を招いている。決して、消費者側に立って消費を奨励しているわけではない。

 また、消費者が何を欲しているかによって、商品を生産しているわけではない。例えば、テレビも、ビデオも、テレビゲームも、それが、必要だから、あるいは、子供達の為になるから生産しているのではなく。売れるから生産しているのに過ぎない。保護者が、望もうと望まないとそんなことは関係ないのである。

 その証拠に、以前、子供達に悪影響を与える映画だから規制をすべきだという意見に対し、メディアの答えは、その映画はヒットしたのだから正しいというのが大方の答えである。言い換えると、儲かる物は、正しい物なのである。子供達に与える影響は、二の次なのである。それは、良質な消費を前提としているわけではない。

 多くの場合、経済を生産面からだけ捉える傾向がある。しかし、生産するだけでは経済は成り立たない。かといって、消費するだけでも経済は成り立たない。経済をら成り立たせる為には、生産と消費、双方が必要なのである。つまり、生産力だけでは、市場は成り立たない。消費力も重要なのである。
 大量生産型経済は、経済を生産の都合からのみ捉えようとする。その為に、経済の実体を見失うのである。
 生産と消費は、経済を動かす両輪である。生産面ばかり重視すれば、自ずと経済は均衡を失ってしまう。
 また、生産力に依拠した経済体制は、大量消費型経済、浪費型経済に偏りやすい。つまり、消費の側の欲求や都合を無視して、消費を強要する体制になりやすい。それは、一種の麻薬的経済になりやすく、欲望や快楽を刺激する経済になりやすい。お祭り型、あるいは、宴会型経済である。
 その為に、何もかもが、過剰になり、経済は過熱し、市場は過飽和な状態になる。現に、バブル崩壊後の市場は、過剰債務、過剰設備、過剰雇用に泣いたのである。

 過飽和な市場というのは、買わなくても良い。買う必要がない、買わなくても良い状態な市場のである。つまり、買う物がない市場なのである。この様な市場は、何かのキッカケで急速に収縮する危険性を常に孕んでいる。つまり、急に物が売れなくなるのである。
 必要のない物は買わない。市場が過飽和になるという事は、消耗品を除いて、生活に必要な物は、あらかた、買いそろえてある状態である。買わなくてもやっていけるのである。それが消費者の側の都合である。生産者側は、時々、その当たり前なことを忘れてしまうのである。それが市場に対する過信を生み出す。

 市場が過飽和な状態に陥り、急に、物が売れなくなるのは、満腹な人間に無理をして食べさせようとした結果である。それは、経済は、生産者の思惑だけで制御できるものではない。
 別に買いたくなくて買わないのではない。買う必要がないからかうのである。それまでは、無駄遣いをしていただけなのである。お金があったからかったのであって、金がなくなれば買い控えるのが当然なのである。それが道理である。消費者の側の論理である。消費こそ、市場を牽引しているのである。消費を軽視すれば、当然、経済は見えなくなる。

 その消費の重要な担い手の一つが、家計なのである。

 現代は、消費を軽視している。特に、消費の質というものを忘れている。消費の質は、生活の質でもある。生活とは、生き様でもある。
 消費を美徳と言うが、欲望のおもむくままに貪欲に快楽を貪るような消費を美徳とは言わない。美徳というなら、美意識が根本になければならない。
 消費の質を表すのに、質素、清潔と言う基準がある。また、消費の効率を意味する言葉に、節約や倹約、勤倹という言葉がある。これらは、大量生産、大量消費を前提とした価値観とは、対極的な考え方である。使い捨ては、消費から見ると決して効率的なことではない。そして、それが資源の浪費、無駄遣いに繋がるのである。物を大切に、大事にする。それは、消費の価値観である。

 また、消費を軽視することは、家庭を軽視することにもなる。それは、家事を蔑ろにすることにもなる。
 よく外に働きに出るという。それは、仕事は外にあり、内にはないという意味にもとれる。つまり、家内労働の否定である。男女同権思想の中に、この家内労働の否定がある。しかし、それはかえって女性蔑視を招くだけである。なぜならば、家内労働には、それなりの意味があるからである。また、女性が家内労働を分担する場合が多いのは、出産・育児という女性固有の労働があるからである。

 家政という言葉が意味するように、家内を取り締まるという仕事は、経済の根本でもある。故に、家計は、経済の基本単位の一つなのである。

 家計は、現金出納会計である。現金出納会計は、単式簿記である。故に、家計は単式簿記の世界である。資産、負債、資本、収益、費用勘定はない。故に、利益の概念は家計にはない。

 複式簿記で言うところの赤字は、期間損益に基づいた概念である。利益という概念が現金主義にはないのであるから、現金主義、単式簿記上の赤字と実現主義、発生主義、複式簿記上の赤字とは、本質が違う。つまり、財政赤字と民間企業の赤字とは、本質が違うのである。同列には語れない問題である。

 市場が成立するためには、一定の条件、要件を満たす必要がある。市場を成り立たせる要件には、人的要件、物的要件、金銭的要件がある。これらの要件が物価を形成する。
 人的要件は、購買意欲であり、物的要件は、生産力であり、金銭的要件は、購買力である。購買意欲は、需要を、生産力は、供給力を形成する。
 物価は、購買意欲と供給力、そして、通貨量の関数だと言える。この三点が相互に作用して物価を決める。つまり、インフレーションやデフレーションを理解するためには、この三つの要素の動きを理解し、解明する必要がある。

 国民経済は、生産(付加価値)、所得(分配)、消費(支出)から考察される。この三つの側面は、一致していると仮定される。それを三面等価という。
 この事が何を意味するのか。それは、生産と所得と消費の均衡によって経済は成り立っていることである。
 この事は、経済を生産や所得という要素だけでなく。消費という要素も重要であることを意味している。つまり、消費経済と言う観点からも経済政策を立てる必要があるのである。

 三面等価を数式にすると
 国内総生産=国内総所得=国内総支出となる。
 その内訳は、
 国内総生産=産出額−中間投入
 国内総所得=雇用者報酬
        +(営業余剰・混合所得+固定資本減耗)
        +(生産・輸入品に課せられる税−補助金)
        =家計の取り分+企業の取り分+政府の取り分
 国内総支出=消費+投資(設備投資+住宅投資+在庫投資+政府支出+経常収支
        =家計支出+民間支出+政府支出+(輸出−輸入)
        =民間消費+民間投資+政府支出+(財貨・サービスの輸出-輸入)
 となる。

 付加価値というのは、産出額から中間投入と言う式で表される。付加価値の大部分は、民間の営利部門が生み出している。重要なことは、家計の家内労働と政府が生み出す価値が含まれていないことである。

 固定資産減耗というのは、減価償却費を言う。国内総生産では、この減価償却部分を控除しない。固定資本減耗を控除したものは、国民純生産という。また、国民所得は、国民純生産から間接税をひいて補助金を加えたものである。
 国民純生産=国内総生産−固定資本減耗
 国民所得=家計消費+家計貯蓄+企業貯蓄+政府収入となる。

 国内総生産と国民所得が等しいと仮定し、国内総生産を
 国内総生産=家計消費+企業投資+政府支出+経常収支とすると、

 経常収支=家計貯蓄+企業の投資バランス+政府の財政バランスとなる。(「日本経済の基本」小峰隆夫著 日経文庫)

 支出から見ると総需要と総供給は等しいと仮定によって成り立っている。即ち、
 総供給=総需要
 国内総支出+輸入=消費+投資+政府支出+輸出となり。更に、
 国内総支出=(消費+投資+政府支出)+(輸出−輸入)となる。
 内需=消費+投資+政府支出
 外需=輸出−輸入であるから
 国内総支出=内需+外需となる。

 消費=民間最終消費支出
 政府支出=政府最終消費支出+公的固定資本形成+公的在庫品増加
 公共投資は、政府支出に含まれる。

 三面等価で家計に関わるのは、雇用者報酬と家計支出である。つまり、所得と支出が基本であり、その根本は、資金と生活、そして、労働力である。
 故に、家計を考える上で重要なのは、資金と生活と仕事をどうするかなのである。金銭的な問題に収斂させるにしても、その根本は、生活であり、仕事なのである。それを忘れたら、生活、即ち、家計が成り立たなくなるのである。根本は、労働と分配なのである。

 資金は、所得と消費、及び蓄えからなる。家計の基本は現金主義である。
 所得=消費+貯蓄

 家計においては、雇用者報償の質が重要な要素である。雇用者報酬の質は、雇用形体に依拠している。雇用形体とは、長期雇用か一時雇用かが需要な要素となる。
 長期雇用は、一定の所得を安定的に支給されることを意味し、信用制度の確立の前提となる。雇用の不安は、必然的に信用制度を揺るがす。

 家計を考える上で重要なのは、可処分所得と消費性向である。
 狭義の可処分所得=所得−公的債務(税+社会保険料)
 広義の可処分所得=所得−公的債務(税+社会保険料)−私的債務(借金の返済等)
 貯蓄=可処分所得−消費

 家計支出は、人口構成と生活水準に依拠している。
 家計の支出構造は、長期と中期、短期、一時的支出から構成される。
 支出の形態は、財の先取り後払いか、後取り、前払いがあり、先取り後払いは借入、後取り、先払いは貯蓄によって対応する。
 長期的な資金需要には、住宅投資、教育投資、老後の蓄えなどがある。長期支出は、長期借入か長期貯蓄に対応している。
 中期的な資金需要には、耐久消費財である自動車、家庭電化製品、家具、調度品などがある。
 短期的な支出は、食費、光熱費、被服費などの消耗品がある。
 臨時的、一時的、緊急的資金には、病気、怪我、出産、家事、災害、失業などの他、冠婚葬祭の費用などがある。これらの費用は、リスクに備えたものであり、私的、公的な蓄えによって対応する。

 支出、消費は、需要を形成する。需要の有り様は、需要の周期を作る。需要の周期は、資金需要を構成する。資金需要は、所得に依存する。また、需要は供給を促す。供給は、生産に依拠する。即ち、生産基盤としての産業を成立させる。
 また、消費の形態によって産業や市場の性格が形成される。産業や市場の性格は、産業や市場構造の特性を生み出す。産業や市場の特性は、需要の周期による。周期は時間の関数である。それは速度の問題である。
 長期的な資金需要は、経済の長期的な周期の本となる。中期的な資金需要は、経済の中期的な周期の本となる。短期的な資金需要は、経済の短期的周期の本となる。これらの波動が重なり合って経済の波動を構成する。

 貨幣経済で重要なのは、流動性である。流動性は、速度の問題である。速度は、単位時間あたりの変化の量として認識される。
 価値の総量は、定数+変数(単位あたりの変化の量)×時間と言う式で表される。変数は、基数×率によって定まる。

 個人所得と家計は、表裏の関係にある。家計の構成は、国の経済状態、産業構造の縮図である。

 家計は、所得を基礎にして計算される。そして、支出によって構成される。つまり、家計は、家族の収支からなる。近代経済を支えているのは、安定した所得である。つまり、一定の所得が保障されたことによって近代経済の礎は築かれたのである。
 そして、この安定した所得が、家計の長期借入を可能としたのである。好例が住宅ローンである。
 しかし、長期借入は、一定の収入が長期間にわたって保証されていることが前提として成り立っている。つまり、信用制度を前提としている。この一定の収入が保証されなくなると成り立たなくなることをも意味する。

 経営主体は、所得を平準化する仕組みでもある。それは、支出の平準化を促すと同時に、長期の借入を可能とした。それが、現代の貨幣経済の前提条件を形作っている。

 家計は、安定を好む。安定というのは、波がないという事を意味する。一時的に多額の収入を得ても、それが恒常的な収入を保証するものでないとしたら、かえって、生活を破綻させる原因となる。所謂あぶく銭に過ぎない。金額の多寡よりも長期にわたって一定の収入が得られることが重要なのである。むろん、最低限の生活を保証できる額である必要はあるが・・・。逆に言うと、どれ程蓄えがあっても収入源を断たれることの方が不安を増幅させる。
 また、一定の収入が保証されることによって、借金の技術、即ち、信用制度は確立された。

 この事は、所得の源泉である経営主体の経営が常に安定していることをもって成り立っている。つまり、経営主体と家計は、表裏一体の関係にある。これは、所得と消費が表裏を為すことに対応している。

 日本の長期の経済発展の背後には、終身雇用があったのである。それを市場の原理によって切り崩したことが、現在の長期不況の要因の一つになっている。また、日本経済を衰退させる要因でもある。
 終身雇用は、文化を育む要因でもあり、思想でもある。それを生産効率を優先させることで切り崩したことは、日本の経済の変質、ひいては、日本の文化の変質を促すことになるであろう。

 一定の収入を保証する長期雇用は、長期借入金の前提となり、経済成長を保証してきた。それが短期雇用に構造的な変化が起きると社会不安が増大し、公的負担が大きくなる。最悪、社会の基盤が崩壊し、社会体制そのものが成り立たなくなる。

 長期雇用が崩壊し、安定した一定に平準化された収入が失われると忽ち信用は崩壊し、残されるのは、長期負債の残高である。この残高は、すぐに、不良債権化して社会全体に重い負担となる。

 収入の不安定性は、借金の不安定を招く。長期的に安定した収入が確保されなければ、短期的で高利の借入に頼らざるを得なくなる。それは、常に、家計の崩壊のリスクを背負わされる事を意味する。借りた金を返せなくなるのは、定職を持たない者が身を持ち崩す最大の要因である。

 経済の基軸に生涯賃金、生涯所得が暗黙の据えられ、それを前提として信用制度が組まれている。そして、その生涯賃金や生涯所得を基礎として長期借入金や年金、保険などが成り立っている。つまり、その信用制度を支えているのは、長期雇用制度なのである。
 この点を無視して、ひたすらに生産性を追求し、あるいは、過当競争を野放しにすると、長期雇用体制が崩壊し、信用制度の土台を切り崩す結果を招く。
 マスコミをはじめ、安売り業者をもてはやし、企業を目の仇にするが、その結果は、経済の崩壊という大惨事を招くのである。企業が適正な収益をあげられないと長期雇用は維持されないのである。
 長期雇用体制、正規採用体制から、一時雇い、派遣、パート、アルバイトなどの短期雇用体制への雇用形態の変質は、経済体制の変質を促すものであることを忘れてはならない。長期雇用体制を維持するためには、長期雇用が成立する前提を堅固なものにしておく必要がある。それは、消費の変質に対応することが可能な市場の仕組みを構築することである。
 もう一つ重要なのは、企業の共同体制を取り戻すことである。

 企業と家計と財政は、市場経済よらない部分を分担している。それが社会福祉である。たとえば、育児や介護、失業と言った部分を家族、国家、企業がそれぞれ分担している。その部分をどう分担し、どう評価するかが、重要なのである。

 その部分が、人道的といわれる部分である。そして、最も国家の思想が問われる部分なのである。
 福祉制度には、社会思想が隠されているのである。家族、企業、国家に国民は何を求めているのか。それを明らかにすることが経済体制を構築するための前提なのである。それが思想の役割である。

 家計は、根本的に家族という共同体、人間関係を下敷きにして成り立っている。現代の社会制度は、個人ではなく、世帯を基本単位にして組み立てられている。世帯というのは、住居及び生計を共にする集団である。(広辞苑)つまり、共同体である。故に、世帯の構成や構造が重要となるのである。

 世帯の構成は、一組の夫婦を核として構成されるものやまた、一組の親子を核として構成されるものの他に、複数の夫婦や家族の集合体、個人を核とした場合などがある。何れにしても何等かの人間関係によって構成される集合体である。そして、その構成によって所得の在り方が違ってくる。つまり、主たる稼ぎ手が一人の場合と複数いる場合、また、家族が生産拠点である場合などである。

 共稼ぎ夫婦のように収入源が複数ある家族がある。かつて、日本は、大家族主義だった。大家族主義というのは、何世代かの複数の家族が一つの集合体を構成することである。
 家族の一員には、扶養家族というのもある。

 三世代住宅のように物理的な空間に仕切られた関係もある。

 家族の定義が重要になる。つまり、どの様な関係を家族の単位とするかである。何れにしても、家計は、一つの経済単位である。それが原則である。個人を経済単位としているわけではない。

 内という言葉がある。内は、家ともかく。つまり、家とは内側にある者という意味である。自分が属する側の者という意味である。つまり、家族という境界線で内と外とが区切られている。それが家族である。そして、内と外とでは、経済の原理が違うのである。そして、この内と外との境界線が、共同体と市場との境界線なのである。

 この様な市場と共同体の問題は所得の問題である。
 所得を問題でありながら、所得の本質が理解されていない。故に、先ず所得とは何かを明らかにしておく必要がある。
 所得とは、何か。第一に、対価である。第二に、現金収入である。

 市場や経済の規模を確定するのは、総所得である。総所得は、総生産、総支出と対応する。それを三面等価というのである。

 現金収入と言うが、現金とは何かである。現金というのは、現在の貨幣価値を指し示した物である。物と言っても、貨幣価値を表象した物であって、厳密に言うと、物としての実体を持たなければならないと言うわけではない。我々は、現金というと、紙幣やコインのような物を思い浮かべるが、あれは現金を表象した物であって、現金そのものを指すわけではない。
 極端な話し、現金という物はない、現金というのは、情報である。その証拠に最近は、自動振り込みで現金を支払うことが可能なのである。つまり、その場合の現金というのは、情報ないし、信号なのである。

 所得税法では、所得を第一に、利子所得。第二に、配当所得、第三に、不動産所得、第四に事業所得、第五に、給与所得、第六に、譲渡所得、第七に、一時所得、第八に、雑所得、第九に、山林所得、第十に、退職所得に十分類している。

 家計を例にとると所得の本質が明らかになる。そして、所得を土台とした経済体制も見えてくる。

 家計とは何か。家計とは、家族の生計である。つまり、家族の生活、暮らしが土台にある。
 そして、家計は、収入と支出からなる。
 収入は、所得によって、支出は、消費、貯蓄からなる。所得は、労働力の提供、あるいは、地代、家賃、金利、配当、資産の売却などによって得られる。

 また、財は、所得だけに限定されていない。この事が重要なのである。家庭内労働によって生産された財がある。しかし、家庭内は、市場ではないために、この家庭内労働というものは、貨幣的に換算されるわけではない。つまり、貨幣価値がないのである。貨幣価値がないから価値がないというのは、間違いである。しいて、貨幣価値に換算すれば、所得に相当する。所得を折半したものというのは、間違いである。なぜならば、所得と消費は、作用反作用の関係にあり、所得は、共同体が相対として受け取ったものだからである。 家計や家事を全て外注した場合を考えればわかる。家事を全て外注した場合、所得だけで賄える者は限られて居るであろう。今日では、ただでさえ、共稼ぎの家庭が増えているのである。しかも共稼ぎと雖(いえど)も、全ての家庭内労働を外注化しているわけではない。

 支出の項目は、衣食住が基礎となる。それに、自動車や教育費、通信費、光熱費などが近代以降加わった。

 家計の土台は、家族の生活である。故に、家族の定義、在り方によって必然的に家計の在り方も定まる。
 では、家族とは何か。家族というのは、共同体である。家族とは、生計を伴にする集団である。基本的には、婚姻関係を核とした血縁関係であるが、血の繋がりは、絶対的要件ではない。血縁関係によらない、法的関係による家族もあるのである。

 今日、人々の生活は、現金収入を常に前提として成り立っている。しかし、つい最近まで、現金収入だけで家計は成り立っていたわけではない。

 江戸時代、武士に対する報償は、現物支給が原則であった。また、農家でも、産物の多くは、自家消費用である。生活に必要な物の多くも自家製であった。糸より、機織り、裁縫と昔は、自分の家できものまで作った。味噌、醤油も自家製が多かった。
 生活必需品を市場から調達するというのは、近年に至って、市場経済が確立されてからである。

 現代社会は、生産が牽引している。消費は、生産の都合によって決められている。大量生産は、大量消費を可能とした。その結果、量が重んじられ、質が軽んじられるようになった。質より量なのである。必然的に消費の質が低下したのである。その様な社会では、内容よりも外見が重要なのである。

 見せかけの生活水準は、上がった。しかし、この様な外見的な生活水準は、上げるのは容易いが、下げるのは大変なのである。一度贅沢の味を覚えたらそれを忘れるのは難しい。見栄や外聞に囚われるからである。つまり、虚栄心によるからである。

 消費の悪質化は、生産の質も悪くする。特に、サービス業において顕著である。

 野生の鷹は、食べ過ぎると絶食して体調を整えると聞く。現代日本の自由は、家畜の自由に過ぎない。無為徒食。自分の力で自分を護る力がなければ本当の自由は、手に入れられない。消費には自制心が要求されるのである。
 消費こそ規律が必要なのである。消費は、抑制が求められる。消費こそ道徳が必要なのである。
 貪欲を戒め。強欲を疎んじた。浪費や無駄遣いは、悪徳だったのである。しかし、今は、消費や浪費は、美徳となった。市場では、我慢は、愚か者、臆病者がすることなのである。
 消費の場こそ道徳的な場なのである。その為には、消費経済を確立する必要があるのである。

個人における共同体の意義


 共同体では、多くは、自給自足だった。私が子供の頃ぐらいまでは、各家庭には、自家製の製品が良くあった。かつては、母親は糠味噌臭いと言われたものである。糟糠の妻という言葉すらある。また、農家では、味噌、米、醤油などは、自家製の物である場合が多く、鶏や豚なども飼っていた。また、織物なども自分の内で織り、余剰に物を市場で換金しり、租税として納めていた。
 本来の経済は、現金収入や支出だけを土台にした物ではなかった。現金によらない財も多くあったのである。それらは、市場経済とは無縁なものであった。その様な、貨幣価値とは、無縁な空間が存在し、その空間の方が大きかったのである。そして、市場も共同体も含んだ総体を経済空間としていたのである。

 市場経済が成立する以前は、現金収入が生計の全てを占めているわけではなかった。この時代の家族とは、一種の共同体だったのである。そして、この家族の在り方が、経営主体本来の在り方である。

 ところが今日、これら共同体が解体し、個人に還元されつつある。それが、いろいろな問題を引き起こしているのである。
 肝心なのは、共同体と市場が役割をどう分担するかなのである。それは、根本に社会思想がなければならない。親の面倒を金で済ませるのか、介護施設に預けてしまえば自分の責任は免除できるのか。育児の問題は、即ち、保育施設の問題なのか。結婚年齢は、保育施設の不足の問題なのか。愛情とか、思いやりのような物は金に換算できないから無価値なのか。法に違反していなければ何をしても良いのか。金儲けのためならば、何をしても良いのか。法に違反していなければ、どんな本を売っても良いのか。どんな情報を流しても許されるのか。根本は、人間を、人の一生をどう思うのかの問題なのである。

 市場の役割というのは、本来、物と物との交換である。ところが、交換よりも価値に重きが置かれるようになり、物と物との交換が二義的なものになりつつあるのが問題なのである。余剰な物と不足している者に交換を通して流通させることに意義がある。交換価値が主ではないのである。そして、その様な市場の役割は、経済の働きのごく一部に過ぎない。ところが、市場が、価値を支配するようになってしまった。

 現金は、現在的貨幣価値を現している。流動性がない財は、現在的価値を持たない。故に、流動性のないものは、現金化されないのである。そして、現金価値というのは、市場通じてしか現れないのである。これは不道徳なことである。例えば、母親の愛を現金化したり、妻の仕事を貨幣換算するというのは、不道徳な行為である。しかし、それを過激な男女同権論者の一部は、平然と行う。そして、遊女、配偶者を同列で扱う。遊女というのは、市場での話であり、配偶者というのは、共同体の話である。次元が違うのである。そして、市場を共同体よりも優位に置く。それ自体不道徳な行為である。性を商品化しているのは、市場であって、家庭ではない。そして、商品化する以上を性行為を特化しているのである。

 貨幣は、比較対照できない物に対しては無力である。 それは、貨幣が市場における相対的価値を表象した物だからである。神の値段を計るのは畏れ多いことである。母の愛を金で計ることなどできない。

 家事を全て外注化することを考える。家事を全て外注化し、扶養家族以外全て働きに出ることを想定する。食事は、全て外食にし、掃除は、家政婦を雇って対応する。そして、洗濯は、全てクリーニングに出す。されに、育児は、保育園にしてもらい。介護は施設に任せる。つまり、家事の外注化というのは、家庭内労働の一切合切を市場化するという事である。そして、家庭は、出産機能だけ残すことを意味する。現在進行している、市場経済化の行き着く先である。むろん、家庭の存在意義も薄れるか、なくなる。家族と言っても同居人にすきなくなる。その上で、家事の外注化が及ぼす影響を考えてみる。
 家事の外注化は、予想以上に可処分所得を圧迫す事が予測される。元々家庭内労働というのは、市場の原理にそぐわない要素がある。育児や介護と言ったところに愛情という要素をどの様に換算し、家族以外の存在にどの様に代償させるかが問題となる。また、全てを貨幣価値に換算し、市場経済に委ねると家計の収支が均衡しなくなってしまう可能性がある。つまり、家事労働を全て貨幣価値に換算すると支出が収入を上回る危険性が高い。大体、収入は、購買に対応するだけで、家事労働の対価としては対応していないのである。

 家族の持つ共同体制、また、共同体としての働きを否定しきるのは、人間性の否定に繋がる。先ず、経済的観点からだけではなく。社会的、文化的、道徳的観点からも考えなければならない問題である。特に、愛情問題を頭から否定してしまうような考え方は、人として問題がある。
 個人というのは、単体で存在するのではなく。人間関係の中に位置付けられることによって意義があるのである。理念だけで、人間関係を否定するのは、現実から目をそらしているだけである。

 生計の全てが現金となり、生計費となったことで、家計は、市場に依存することになる。そして、それを、税制が後押しすることになる。

 また、個人に還元される過程で私的所有権も個人に還元されつつある。この事も経済の根本に関わる問題である。

 人の一生の中で必要とする資金の三大資金と言われるのが住宅資金、教育資金、老後資金である。この他、人生には、結婚資金や出産育児資金、病気や災害のための準備資金などがある。これらは、長期運用資金によって対応される。長期運用資金は、貯金や借入によって賄われる。

 借入は、費用の後払いである。先払いは、貯金を取り崩すことによって支払われる。先払いは、後から費用が発生しない。故に、従来は、先払い、即ち、金を貯めてから購入するのが倣(なら)いであった。しかし、それでは、高額なものはなかなか手に入れることができない。そこで、借金をして後から費用を払うことが一般的になったのである。それによって、借金を多くの家が抱えることとなった。

 住宅は、生活の場である。それ故に、家族に不可欠な要素である。この様な住宅を所有したいと考えた場合、先に物件を手に入れ後払いにした方が、物件の使用期間は長くなる。これは、自動車のような耐久消費財も同様である。この様な財は、住宅ローンや自動車ローン、割賦販売の様な借金によったほうが得だと一般に考えられている。そこで、ローンのような借金の技術が開発され、住宅市場を潤したのである。

 最初から収支が合わないから、説明上、期間損益を設定し利益概念を創作したのである。それは、家計も同じである。ただ、家計は、現金主義だという違いがある。この違いは、大きい。しかし、現代の家計は、借金を前提として成り立っている事に変わりはない。

 そして、債務、負債が成立すると可処分所得が成立する。そして、所得の中に占める可処分所得の率が重要となるのである。

 この家族も三代で資産が清算されると言われている。それが現代経済の大前提なのである。そして、我々は先ずこの点に関して合意に達しておく必要がある。財産権、所有権は、保証されるべき者なのか。最終的に何に帰属するのか。相続することは是か、非か。

 所得、特に、可処分所得の構成、バラツキが、景気の動向を左右し、市場の規模や経済の成長力を抑制する。

 現代経済は、経済単位を前提として成り立っている。故に、所得も私的所有権も共同体に帰している。しかし、もう一方で個人を前提ともしている。その為に、共同体としての経済単位が崩壊しつつあるのである。

 現実の経済社会は、市場と共同体と個人が混在している。それぞれの領域の境界線も曖昧なのである。その境界線をどう画定するかが、ある意味で思想や哲学の役割の一つでもある。また、宗教が担っている社会もあるのである。

 ただ市場だとか、共同体だけとか、個人が全てという具合に割り切ることの出来ないのが現実の世界でもある。市場が悪い、共同体が悪い、個人が悪いと決め付けるのではなく。どう折り合いを付けていくかの問題である。

 個人と共同体が一体になれた時代と対立している時代の差である。

 敗戦直後の日本で、日産自動車は、鍋釜を作って社員の生活の糧を稼ごうとした。松下電器は、苦境に陥った時、人員削減はしない宣言することによって人心を統一し苦境を乗り切った。それは、その当時の企業が共同体の性格を残していたからである。現在、多くの産業は、苦境に陥ると真っ先に人員を削減する。それは、企業が金儲けの手段、機関でしかなくなったからである。助け合いの精神など陳腐でしかない。
 しかし、人間は一人では生きていけないのである。助け合いとか、精神とか言う言葉がうつろな時代では、人間は孤独にしかなれない。

 かつての日本の指導者は徳を求められた。現在の日本の指導者に人格を感じなくなった。それは、組織が単なる利害関係の集団になってしまったからである。

 ただ、人間の生活の基盤は、共同体にある。だからこそ、道徳が尊ばれるのである。市場は、不道徳な場である。個人は、単一存在である。道徳は、社会だからこそ求められるのである。つまり、共同体こそ、社会の基盤なのである。
 共同体を否定した時、その社会や組織は、凝集力を失うのである。

 かつて、修身、斉家、治国、平天下と個人の目的と共同体の目的は一貫していた。つまり、個人の目的は、家族の目的であり、会社の目的でもあり、国家の目的でもある。そして、この在り方こそ、民主主義の原点である。それを国家主義に置き換え、人々に間に不信感と争いの種が蒔いかられた。そこに私は、何等かの悪意を感じる。
 個人と共同体をどう一体化させていくか。そこに、経済を安定させる鍵が隠されているのである。





                    


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