時    間

時  間


 時間とは何かと言う問いは、問われた人間を、当惑させる代表的な質問の一つだと、私は想う。
 時間とは何か。わかりきったことを聞くなと言いたいが、しかし、あらためて聞かれてみると答えに窮する。
 多くの人にとって、時間は、自明な事、所与の事象に過ぎない。しかし、実際には、時間ほど、難解な概念はないのである。

 時間にも、人的な時間と物的な時間がある。つまり、意識する時間と、意識される時間である。
 人間の意識には、時間を感じる仕組みがある。また、時間を感じる仕組みを前提として時間は成り立っている。

 物的な時間にも生理的時間と物理的時間がある。生理的時間とは、体内時計という言葉が示すように、生物の内的な時間である。つまり、生理的に感応する時である。感じる時である。意識する時間、生理的時間、物理的時間、この三つの相互作用によって時間の観念は形成される。

 一般に、時間というと、物理的時間を指して言う。そこで、先ず、物理的時間について考えてみることとする。

 我々は、時間が解らなくなるとすぐに時計を見る。町中なら、周囲を見渡せば、時刻を知らせる時計の一つ、二つは見つかる物である。そうでなくても、時計は、現代人の必需品の一つである。時間が解らなければ、仕事どころか、デートだってままならない。
 仕事に限らず、現代では、日常生活の多く事柄が、分秒刻みの時刻表に基づいて運行している。特に、日本人は、時間に正確な事で有名である。
 この様な時間に慣らされた我々は、時間は、予め定まった周期があって、機械仕掛けのように、一定の間隔で正確に刻まれるだと思い込んでいる。季節も多少の変動はあっても同じ変化を、毎年、当たり前のように、繰り返していると受け止めている。
 春になれば、桜が咲き、夏の暑さに、秋の紅葉、冬には、雪が降る。まことに日本の四季は変化に富んでいる。変化に富んではいるが、一年には、春夏秋冬は必ず巡ってくると信じている。しかも、春夏秋冬の順にである。この順番が同じだと言うことも重要なのである。
 変易、不易、簡易とはこの事を言う。四季の変化は、毎年違う。毎年、咲く桜の花は皆違う。しかし、春夏秋冬の四季の変化に変わりはない。春に、桜に変わりはない。まことに単純明快な真理である。それが、我々の時間に対する認識である。

 しかし、かつて時間の長さは一定ではなかった。日本で時間の長さが一定になったのは、明治五年に地方視太陽時にもとづく定時法が採用されてからである。今日の時間が定まったのは、日本標準時が明治二十一年日本標準時の制度が公布されて以降である。(「時とはなにか」虎尾正久著 講談社学術文庫)世界的に見ても世界標準時が制定されたのは、1884年、明治17年、万国子午線、計時法会議が開催された時によるのである。
 それまでは、昼と夜とでは時間の長さが一定ではなく。また、季節によって時間の長さが違ったのである。つまり、不定時法だったのである。
 生活が時間の縛られていたのではなく。日が昇ったら、仕事を始め、日が沈むと仕事を終えるというように、生活のリズムに時間は、合わせていたのである。
 時も、機械仕掛けのように流れるのではなく。人の気分によって流れていたのである。と言うよりも、今のように正確に時を刻むようになったのは、機械仕掛けの時計のお陰だと言える。
 機械仕掛けの時計が発明されるまでは、天体の運行に時間はよっていたのである。
 四季の変化が定まったのも明治五年に太陽暦の採用が布告されてからである。太陰暦に基づくと四季は、年によって揺れ動いたのである。

 つまり、時間の概念も人間が創りだし、話し合って決めたものなのである。
 定時法や太陽暦が採用される以前は、時は計るものではなく。感じるものだったのである。

 現在、時間の系統には、三種類ある。一つは、地球の自転に基づく時であり、もう一つは、時間の公転に基づく時であり、三つ目は、セシウム原子が放射の周期に基づく時である。(「時とはなにか」虎尾正久著 講談社学術文庫)

 音楽は、時間の芸術だという。逆に言うと音楽を考えると時間が見えてくる。
 旋律、拍子、和声は、音楽の三要素だが、時間の特徴をもよく表している。旋律は、一定の連続した変化を表し、拍子は、音の周期的な変化を意味し、和声は、音と音との調和、関係を意味する。
 現象の時間的変化にも旋律や拍子、和声がある。変化には、旋律のような連続的な変化と拍子のように周期的な変化があり、そして、それらの変化が結びあって全体の変化を構成している。

 人間の生活には、朝、昼、晩の周期がある。そして、その周期は、人間の生活のリズムを作り出す。また、一年には、春夏秋冬の周期がある。それは、季節の変動として一年の生活のリズムを形作る。人間の一生は、生まれて、成人し、結婚して、子を成し、老い、そして、死んでいく。人間の一生には、一つの過程があり、それもまた、時を刻む。これらが経済の周期の基となる。一日の中にも生活のリズムがある。朝、起きて、朝食を採り、また、仕事をして、昼に食事をして、働き、夜、食事をして、寝る。基本はこの繰り返しである。

 季節は、巡り、また、繰り返す。しかし、一つとして同じ時はない。今年の春の桜は、去年の春の桜にあらず。今年の秋の紅葉と、来年の秋の紅葉は違う。しかし、季節は、巡り、また、春がきて、秋になる。
 行く河の流れは絶えずして、また還らぬ。時の流れを河の流れに例えた詩人や哲学者は数知れずいる。人生は過ぎゆく。過ぎ去った日々は還らない。
 生病老死。四苦八苦。人の定めは今も昔も変わりない。しかし、誰、一人として、同じ一生を送った者はいない。

 時の変化と物の哀れを結び付けたのは、日本人である。しかし、時の流れは無情なもの。それは、見る人の側の問題であり、見る人によって違ってくるのである。
 時間の認識は、文化である。文化に基づく。それは、人の一生をも左右する。なぜならば、それは生活のリズムを創り出し、人生設計の基盤となるからである。

 後悔、先に、立たずである。やり直せるものなら、やり直したいと思う人は沢山いる。覆水盆に返らず。チャンスは二度とない。命短し、恋せよ乙女。時の流れは移ろいやすく。禍福は糾える縄の如しである。
 幼児期があって、思春期、青春期を過ぎ、やがて、成人となり、壮年期を迎え、年をとり死んでいく。若い時は、二度と来ない。若いと思っていてもいつの間にか年は過ぎていくのである。いつまでも若くはない。だから、出来る時に果敢に挑戦せよ。力が衰えてからでは取り返しがつかないのである。
 諸行無常。万物は流転す。
 解っているはずなのに、多くの人は、何も変わらないと、無為に時間を費やし、気がつくと老いさらばえてしまう。普段、変化は、ゆっくりと、しかし、確実に進行している。そして、ある時を境に劇的に表面に現れてくるのである。表面は変わらない。しかしその底で変化の兆しは、現れているのである。

 現代と言う時代において、時間の概念は、重大な役割を果たしてきた。時間に対する考え方が、変わったのである。それまでの時間という概念は、一日の生活の一部に過ぎなかった。それに対して、現代は、時間は、それだけでも経済的な価値を持つようになったのである。
 近代以降、時間の概念は、生活の隅々まで浸透した。その結果、現代の経済を構成する要素の多くは、時間の関数に変化したのである。

 例えば、野球を例にとると一イニング、スリーアウトで攻守を交替し、九回を一試合の基本単位として、引き分けの時は、延長をすると言った様に時間を定義することも出来る。つまり、変化に一定の法則性を持たせることが時間なのである。

 かつては、労働は、日が昇る頃に始まり、日が沈む頃に終わった。時間よりも生活のリズムが優先されていた。時を刻むのは自然現象だった。
 今は、学校も、職場も一定の時刻に始まり、一定の時刻で終了する。休みの時間も予め決められている。賃金は、時間の単位で決められる。時計は、今や必需品の一つである。

 時間は、不可逆である。そして、時間は、周期的な事象によって計られる。この時間の不可逆性と周期性が時間を考察する時に重要になる。

 現象の時間的変化の中に、繰り返し生起する事象がある。この繰り返しが周期を発生させる。

 周期の単位は、一般に星の運行や地球の運動に基づいている。即ち、一日の長さは、地球の自転に基づき、一年の長さは、地球の公転に基づく。この様な時間の単位を基礎としていることによって人間の生活は、地球の運動に結び付けられている。必然的に経済的な周期も地球の運動に結び付けられる。

 かつては、月の満ち欠けを時を刻んでいた時代もあった、それが太陰暦である。
 何れにしても、時間は、自然の周期と人間の生活とを結び付けるものだったのである。そこに、時間と人間、そして自然との関わり合いがある。

 かつて、地球の運行は、人間の生産活動を支配していた。そして、それが人間の祭りを生み、文化の礎石となったのである。それは経済現象の基礎でもある。経済は文化である。

 周期の長さが、時間の長期、短期を生じさせる。経済の長期的変化は、固定的な価値の基となり、短期的変化は、変動的価値の基となる。

 変化の長期、短期の概念は、速度の概念でもある。つまり、速度は、変化と時間の関数である。

 また、変化には、質的変化と量的な変化があり、最終的には、密度の変化として統合される。

 変化は、前提条件や場に働く力によって違ってくる。前提条件の変化は、価値の変化を引き起こす。
 故に、変化を引き起こす要因を解明する場合は、前提条件が重要となる。必ず前提条件を確認しなければならない。

 変化は、時間差による位置と関係と運動によって決まる。

 また、変化で重要なのは速度である。速度は、一定の運動において消費する時間の単位である。運動を決定付ける最大の要素は速度である。経済上で言う速度とは、流動性である。

 重要なのは、速度とタイミング(即時性)である。現金とは、現時点で実現した貨幣価値を言う。重要なのは、現金というのは、その時点・時点で実現した貨幣価値を言うのであって、現金という物があるわけではない。我々が日常的に言うお金とは、現金を表象した物であって現金そのものではない。流動性というのは、現金化の難易度を意味する。

 経済の変化は、不可逆である。経済の変化は、周期的な変化によって計られ、その基本単位は、一年である。地球の運行の周期に基づいて経済の変化には、短期、長期の別があり、それが、固定的な事象と変動的な事象を生み出している。この周期は、経済現象の変化の基礎となっている。

 時間の概念を構成する要素は、変化、前後、順序である。つまり、時間の変化には、一定の方向があるという事である。また、時間的変化は、不可逆的変化でもある。また、変化に何等かの規則性があるという事である。

 時間は、変化の単位である。運動は変化である。故に、運動は、時間の関数である。
 物理的時間の単位には、一定の間隔で一日を24時間、一時間を60分、一分を60秒と間隔で定義したものがある。そして、一秒をセシウム133(133Cs)の原子の基底状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍に等しい時間と定義している。

 変化の単位というのは、単純に、物理的変化を指すだけとは限らない。手順、手続、計画、予算のように一定の順序や順番のある行為、作業を指す場合もある。なぜならば、経済における時間的価値は、必ずしも物理的な時間の単位で測られるとは限らないからである。故に、一定の変化に前後の順番があるものを時間の単位とする事もできる。

 この様な順番や順序には物的、人的、金的なものがある。物的な順序は計画や工程であり、人的な順序は、組織、金銭的な順序は予算である。これらにも時間的変化が含まれている。

 この順番というのは、重要な概念である。また、順番は、時間の概念を決定付ける。それが因果律である。

 時間軸の本質は、因果律にある。因果律というのは、物事が生起する順番をさし、その順位に意味があるもの、前後の関係が生じる事象を言う。
 親子関係は逆転することはない。生まれて死ぬのであり、死んでから生まれることはない。物事には順序がある。その順序に従って仕事の仕方を決めるのが段取りである。だから、物事には、順序、段取り、手順が生じる。また、それが大事なのである。
 時間は、因果関係を成立させる。時間的順序は、原因と結果という関係を成立させるのである。この因果関係は、運動を成立させるための重要な概念である。

 時間は、不可逆である。時間は、遡れない。やり直しは出来ない。しかし、現実は、同じ事の繰り返しである。同じ事を繰り返すのに、同じ結果は得られない。それが時間である。
 スポーツの試合を見ると解る。スポーツの試合は、同じ試合は、一試合もない。先ず前提条件や構成する要素が違えば、同じものは繰り返さない。しかし、スポーツも仕事も基本は、単純反復繰り返しである。

 時間は、不可逆である。時間は、遡れない。やり直しは出来ない。スポーツの試合を見ると解る。スポーツの試合は、同じ試合は、一試合もない。先ず前提条件や構成する要素が違えば、同じものは繰り返さない。しかし、スポーツも仕事も基本は、単純反復繰り返しである。

 つまり、予見不可能な部分が必ずあるのである。それが大前提である。しかし、それでも多くの部分は予測が可能である。それも大前提である。予測が出来るところを基礎として予測不可能な部分を補い推測する。それが業務であり、計画であり、予算である。

 事前の予測を重視するか、事後の結果を評価するかは、国家制度や経営主体を設計する上で重大な前提条件となる。それは国家思想の根本を為す。つまり、思想である。
 現在の財政制度は、事前の決定に基づき、会計制度は、自己の結果を評価する。それが予算制度と報告制度の違いである。

 単純・反復・繰り返し、それこそ、易簡。この世には変わらぬ世界がある。それこそ、不易。止むことなく変転しつづけている部分がある。それこそ、変易。

 未来が全て見通せるというならば、利益はいらない。それが予算主義であり、計画主義、統制主義である。人間は、千里眼の如き能力を持ったという前提があれば成り立つ。しかし、未来を見通せないから利益が必要となる。それが、市場主義の前提である。

 変化が利益を求めるのか。利益が変化を求めるのか。何れにしても、変化と利益は不可分の関係にある。

 変化があるから、利益が得られて、資産的に価値が生じる。その変化を前提として金利が設定される。

 古人は、来年の事を言えば鬼が笑うと諭した。まことに一寸先は闇である。つまり、時間の変化の結果は未知数である。そこに利益が成立する意味がある。

 変化は、時間に対して非対称である。この変化の非対称性が利益の基となる。明日知れぬからこそ、利益が生まれるのである。

時間構造

 会計空間である資産、負債、資本、収益と費用、そして、資金という座標軸に時間軸が加わることによって経済空間が成立し、時間構造が形成される。そして、それは、最終的には、世界観に凝縮されることになる。この経済の時間構造が重要となる。

 つまり、現在の市場空間は、会計的空間と時間軸が組合わさって成立している。その時間軸は、会計期間を一つの単位として成り立っている。
 会計期間における運動を損益によって計算し、位置関係を貸借によって計るのが会計制度である。その為に、経営運動を一定期間の時間の中に押し詰める必要がある。それが期間計算である。しかし、その弊害として長期的な構造が見落とされる結果を招いた。実際には、長期的構造と最終的な構造とがあって短期的構造は、測られ、決められなければならない。その上で短期、長期の均衡が測られるべきなのである。

 経済的時間構造は、貸借構造、損益構造、収支構造からなる。第一に、資産の時間構造。第二に、負債の時間構造、第三に、資本の時間構造、第四に、収益の時間構造、第五に、費用の時間構造、第六に、資金構造、第七に、税務構造などによって構成される。

 時間構造は、固定的なものと変動的なものがある。更に、定型的な変化と不定型な変化に分類される。また、定型的変化は、速度と周期に関係する。定期的な変化と不定期な変化、また、長期的変化と短期的変化に分類される。

 経済の時間的構造においては、投資と言う事が非常に重要な鍵を握っている。投資行動というのは、その後の産業構造の基礎を構築し、その為に、長くその影響力を及ぼし続ける。故に、産業を決定付けるのは投資とその時間構造にあると言ってもいい。

 投機的活動と投資的活動の違いが問題になる。2008年の石油価格の高騰や金融危機においては、投機的資金の動きが問題になった。しかし、投機的資金と投資的資金の動きの差は、基本的には、速度の問題であり、投機ではなく、投資だから、価格の変動についていけずに、価格の乱高下に脆いとも言えるのである。

 近代資本主義において画期的なのは、投資という概念を数値化したことである。そして、投資額を、一定期間を単位にして、収益と費用、資産と負債、資本(純資産)に分割(仕訳)、分類(転記)、集計して期間損益、利益を算出する仕組みが会計制度なのである。この会計制度を基礎として近代市場制度は成り立っている。 
 投資は、初期投資と運転費用からなる。それを一定の年数で消費していくと考えるのである。消費し終わると投資を更新する。消費し、新しいものに更新するまでの期間が更新年数である。
 資金的を時間的な構造で見ると調達と運用になる。
つまり、資金を調達し、それを運用する。運用することによって時点、時点で、消費した貨幣価値を現金というのである。つまり、現時点で実現した貨幣価値である。残存した価値が資産である。消費される部分が費用である。
 ただ、時点、時点で消費したと認識する価値が、資金、資産、負債によって違うために、問題が生じるのである。また、その事によって費用の概念、数値が違ってくるのである。必然的に利益にも大きな差が出る。
 先ず資金は、初期投資資金と運転資金からなる。
 投資によって形成される資産は、償却資産と非償却資産からなる。また、現金化される速度に応じて流動資産と固定資産とに分類される。
 償却資産は、一定期間を単位として消費されることになる。それが減価償却である。減価償却は、投資額と減価償却率、償却年数、残存金額から成る。
 問題は、非償却資産である。つまり、投資の中で費用化されずにそのまま残るのである。その為に、期間費用が過小に計算されることになる。逆に利益が過大に評価される。利益に税がかかる仕組みであると、過剰に税が課せられることになる。その為に、資金的負荷が余計にかかることになる。
 それに対して、資金調達は、自己資金か、他人資金かに別れる。
 負債は、一定の期間で返済が義務づけられている資金である。返済することによって消費することになる。つまり、費用化される。しかし、一部、消費されても、つまり、現金化されても費用とはされずに、資産から直接減価されるか、そのまま資産として残存する部分がある。そして、その資産が資金の調達源、担保として作用するのである。
 負債の時間構造は、負債額と金利、返済期限、返済方法からなる。
 この場合も、自己資金が問題となる。資本は、自己資金と利益の蓄積となる。利益は、期間損益の結果だが、自己資金というのは、期間損益の結果でもなく、また、負債でもない。しかも自己資金は、証券化すると、それ自体が債権と債務の二つの性格を併せ持つようになる。また、自己資本と非償却資産とは必ずしも一致していない。
 この他に、資金の流れがある。キャッシュフローである。キャッシュフローというのは、その時点、その時点で現金化された貨幣価値の出入りを計算したものである。
 キャッシュフローとは、資金の出納に基づいた概念である。故に、期間損益の計算、即ち、利益には、直接関係ない。ただ、損益計算の基礎となる数字である。また、実質的に企業の存立を決定する数値でもあり、常に、不足することは許されない。
 問題は、この資金と資産、負債の時間構造が利益を導き出し方程式と整合性がとれればいい。また、その為に、何をどの様にして費用化するかが重要になる。
 また、もう一つ重要なのは、企業活動には、原則。税金が課せられている。その税を課す対象と、手段が期間損益計算に重大な作用を及ぼしていることを忘れてはならない。その有り様一つで、企業業績、産業の興隆、ひいては、一国の経済情勢に決定的な影響を及ぼす。
 この様に、会計や税の在り方は、経済にとって決定的な要素といえる。ところが、現在の会計制度では、個々の目的すら統一できないでいるのである。つまり、何のために期間利益を計算するのかの目的すら明確にされていないのである。
 その為に、費用への転化が便宜主義的になってしまっている。利益を出さんが為の処理方法になってしまっている。
 しかも、処理の仕方の決定が合目的的なものでなく、その時の力関係で定まるようになっている。
 それが企業経営、ひいては、世界経済を混乱させる原因となっているのである。もし、一定の基準で企業が利益を上げられなくなったら、利益の計算方法を変えるのではなく。経済や産業の仕組みをかえるべきなのである。

 会計制度が悪いと言うよりも会計制度の欠点を悪用して、利益を上げている者がいるのである。それを改める意味でも、利益の持つ意味、また、目的を明らかにする必要がある。

 金融が会計を歪めている。同時に、会計が金融の在り方を歪めている。それは、金融、会計何れも、各々の機能役割を理解していないからである。

 さらにまた、日本では、近年、間接金融(銀行借入)から直接金融(資本取引)へ移行した。間接金融から直接金融へと移行する段階で企業に対する見方、企業評価が変質した。即ち、担保価値(融資)から株主価値(投資)へと変化したのである。担保というのは、所謂事業資産への評価であり、株主価値とは、配当性向やROE、ROAである。事業目的や社会的貢献、社会的責任と言う事ではない。短期収益力だけが問題とされる傾向が高くなり、それが更に短くなって投機的基準が重視されるようになった。

 利益の計算は、最終的には価格に収斂する。故に、適正な価格を維持することが、経済の安定を保証する。ここで言う価格というのは、費用に見合った価格だと言う事である。費用は、消費される現在的価値をいかに配分するかによって決まる。
 価格を、適性であるか否かは、単純に市場に委ねられない。それは、時間的価値の配分を一律に市場に委ねられないからである。
 基本的に、単価×数量、あるいは、単価×時間で表される。このうち、単価の中に占められる固定費の部分は、販売の数量の影響を受けるからである。大量に売れば、それだけ固定費の部分の費用を圧縮することが出来る。それが大量生産、大量消費の大前提である。その為には、限界利益ギリギリまで値を下げて販売する傾向が生まれる。そうなると年々増加する費用の増加分を見込めなくなる。その最たるものが人件費である。この点に過当競争の最大の弊害が隠されている。過当競争が激化すると結局、人件費の削減、あるいは、平準化に至るのである。そして、企業も、家計も、結果的に、国家も赤字になる。

 価格には、量的な部分と質的な部分がある。この量的であるか、質的であるかは、貨幣が決めるのではない。貨幣は、価値を還元したものではなく、価値を決めるのは、その財と消費者である。
 市場は、成熟してくると量から質へと転化する必要がある。その為には、いかに価格を維持するかが重要となる。しかし、初期投資が大きく減価償却が大きい、また、損益分岐点が高い産業は、大量に販売して単価あたりに含まれる固定費部分を早く回収しようとする。その為に、量から質への転化が遅れ、逆に量産を測ろうとする。それが過剰を生み出す。
 不景気な時に、量産を測り、経費の削減を測れば雇用は、失われ景気は、ますます悪化する。ディスカウントすればするほど、収益は圧迫され、質は低下するのである。つまり、本来の在り方に逆行することとなる。
 市場は、情報の非対称によって成立している。それが利点であり、また、欠点でもある。
安売りをしても、なぜ、その価格が成立するのかについての情報は、伝えられない。ただ安いという情報だけが消費者に流されるのである。しかし、安売りには、安売りをしなければならない理由がある。その要件を満たせない者は、市場から淘汰される。中には、正直で真面目だから価格を安くできない者まで含まれている。
 安くすると言う動機には、時間的価値が深く関わっているのである。

 また、価格の中に不動産の償却部分、あるいは、借入の元本部分が含まれていない分、費用が低く設定されている。その為に、不動産の償却が出来ず。また、借入金の返済が滞る事にもなる。それは、企業経営に対し累積的な資金上の負荷を持たせることになる。

 資産相場は、社会全体の総資産価値の変動を増幅する作用がある。この点が時価会計や含み資産の問題を増幅することにもなる。

 また、貨幣価値において何を認識の基準とするかは、実現性を基準とすべきのである。実現性と言って現時点で実現した貨幣価値、あるいは、現時点までに実現した貨幣価値のいずれかを基準とすべきであり、そこに時価価値と原価価値の問題が派生する。ただし、未実現利益を、前提とした場合、利益に実現していない利益が含まれることになる。それは、架空利益であり、損失が派生した場合、是正することが難しい。また、利益には、税がかかるが、その中に架空の利益、損失を対象したものが混入することを意味する。それは、情報の信憑性が失われることになる。

 含み経営を認めない、つまり、時価を前提とすることは、資産価値が上昇局面では、その時点において実現した貨幣価値の総額を前提とすることになり、それは、担保とする価値全てを現金化することを意味する。現金化するという事は、含み資産を担保として借入を起こす行為であるから、その時点での資産と負債は均衡する。しかし、一旦、資産が下降局面に陥ると負債は、固定的であるから、資産の現金価値だけが下降することになる。そして、資産が負債額に均衡するまで不良債権化する。また、資産価値の上昇局面では、現金を生み出すが、下降局面では、現金は回収される。一旦不良債権化すると負債と資産価値が均衡するまで現金を生み出さなくなる。この様に、時価主義は、バブルの発生と崩壊の潜在的原因を内包している。
 また、含み経営は、含み経営で、非償却資産、特に、不動産の評価が出来ないことが遠因である。

 市場は、拡大と収縮を繰り返している。一方通行的に拡大しているわけではない。その拡大と収縮が経済の周期の素となっている。市場が拡大し、その頂点の時に資産価値も上限に至る。その頂点まで、負債を引き上げると、必然的に資産が収縮した時、信用不安を引き起こす。そして、その信用不安が、次の市場の拡大を妨げる要因となるのである。そうなると不況は長引く。最悪の場合、恐慌を引き起こすのである。だからこそ、資産の運用には、ある程度ゆとり、含みが必要なのである。

 日本のバブルの形成と崩壊、アメリカのサブプライムの背景には、時価と原価の乖離による働きが働いていると思われる。
 アメリカでは、手持ち住宅の価格の上限まで借金をして消費に廻していたのである。その住宅価格が下落すると借金の額だけ不良債権化してしまった。

: 経済の基本的方程式は、回収率=倍率(レバレッジ比率)×回転率×時間価値で言える。時間価値は、利益である。回転率は、経済の流動性、速度を決め。倍率は、経済の規模に関係する。いずれにしても時間が重要な鍵を握る。

 日本のバブルやアメリカのサブプライム問題の構造は、この方程式の中に隠されている。つまり、時間が重要な役割を果たしているのである。

償却という概念


 償却というのは、会計的概念である。この償却という概念は、資産に対する概念だが、それに対応するのが負債の返済という概念と、損益に伴う資金の収支の概念である。そして、それぞれが償却構造、返済構造、収支構造を持つ。これらが産業に重大な影響を与える。

 償却という思想を考える場合、償却と同じ機能を持つ、又は、代替的機能、相関的機能を持つを持つ概念と引き比べる必要がある。

 償却の概念を考える上で比較する概念は、第一に、非減価償却資産の構造である。第二に、負債構造。第三に、賃貸構造。第四に、預金構造。第五に、税における償却構造である。第六に、損益構造、原価構造に与える影響である。

 そして、この六つの構造の整合性がとれていないが為に、非償却資産が償却されずに負債として残ってしまうと言う点である。その負債を均衡させるために、新たな借入をしなければならないという事になる。それが、損益構造を歪めてしまうのである。また、資金計画と損益計画との均衡がとれなくなる。しかも、税が所得を基礎としているために経費として処理することが出来ない。また、負債の元本の返済が貸借上の処理のために、収益と返済との整合性がとれなくなる。これらが長期的に累積して経営を圧迫してくるのである。

 経済は、この様な経済主体の長期的時間構造を踏まえたうえで制度を構築すべきなのである。

 償却は、資産の側の振る舞いであり。借金の返済は、負債の側の振る舞い。株の動きは資本の振る舞い。納税額は、所得の振る舞いである。それぞれが独自の基準で動いている。しかも必ずしもその整合性、均衡がとれているわけではない。例え、自前の資金で資産を購入しても資産と負債、資本が均衡するとは限らない。

 減価償却の前提は、第一に、減価償却資産に分類されていることである。第二に、減価償却率の計算方法が、公正妥当な式として確定していることである。正し、この計算式は、唯一とは限らない。第三に、償却期間が設定されている必要がある。また、第四に、税制による減価償却と会計による減価償却の区分が明確になっていて、その整合性がとれていることである。
 減価償却を成立させる要素は、第一に、償却期間。第二に、償却率。第三に、残存価値である。
 償却の計算は、以下のような構造を持っている。
 減価償却費=取得原価×償却率+残存額

 償却資産は、通常、借入によって購入される。故に、償却と借入の返済は、本来対の関係にある。借入の返済は、負債構造を構成する。
 負債構造は、債権、債務、利息からなる。これに、時間が関係してくる。また、この負債に相当する担保が通常設定される。担保とは、将来の現金収入を生む財である。この担保を裏付けるのが資産、特に、非償却資産である。この非償却資産の評価が一定して居らずそれが不良債権を生む原因となる。
 借入を構成する要素は、元本と金利と返済期間、そして、返済方式である。それによって負債構造は成立する。
 返済総額=借入額+金利
       =返済額(一回あたり)×回数(時間)

 自動車の販売台数が急激に落ち込んでいるが、その原因の一つにローンが組めなくなった事があげられている。ローンがなぜ組めなくなったのか、逆に言うと、なぜこれまでローンが組めたのかが、問題なのである。
 それは、ローンの時間構造をどれ程度、考慮したかと言う事と人生設計やライフスタイルをどの様な価値観によって、つまり、何を信じて設計したかに依るのである。
 この様なローンの時間的構造を考える場合、所得と蓄え、資産内容を基礎として借入にたいする資金の時間的構造を検討して組み立てられなければならない。
 その土台は、長期にわたる一定の継続的な所得の存在である。それこそが信用制度の基礎にあるべきものなのである。
 ローンの総貨幣価値は、その時点、時点に支払われるべき現在的貨幣価値(キャッシュフロー)×時間=財の貨幣価値+金利によって計算される。

 借入を考える場合は、その対極にある預金も検討する必要がある。貯金も負債も貨幣価値を貯めるという意味では同質である。構成する要素や構造は同じである。ただ、貯金が現在の価値を繰り延べているのに対し、借金は、将来の価値を先取りしているのである。

 預金も負債も消費すると減価する。

 預金=預入金+金利
 預入金と金利は、時間の関数である。

 償却資産に対し、同じ、資産でも非償却資産がある。非償却資産は、借入の際の担保として活用される。故に、非償却資産と償却資産、負債は、密接な関係にある。そして、その均衡は、景気に重大な影響を与える。
 非償却資産の代表は、不動産であり、その根本は、清算価値にある。ただ、不動産の価値は、一物五価と言われるほど多様である上に、一定していないことを前提としなければならない。非償却資産は、非貨幣性資産でもある。非貨幣性資産とは、現在的価値と表示される価値が乖離している資産である。
 そして、非償却資産は、その設定の仕方によって評価価値が変化する。資産の持つ価値をどの様に置くかによって取得原価主義と時価主義に別れる。
 非償却資産を含んだ非貨幣性資産の評価とは、会計の基本に関わる問題であり、何に基準を置くかによって経済の有り様にも影響する。また、バブルや不良債権の原因にもなる。
 取得限主義は、不動産=取得原価(簿価)
 時価主義は、不動産=相場(時価)、ただし、時価の測定は、一様ではない。

 担保と借入とを巧妙に繰り返すとレパレッジ効果が期待できる。
 しかし、信用制度というのは、信用という概念の実体化である。信用という目に見えない、得体の知れないものを基礎としていると言う事である。それを忘れて信用を無闇に拡大すると信用が薄まり虚構へと変じてしまう。

 信用を必要以上に増幅することは、負債と負債本来の機能の分離である。つまり、働きとその働きの根拠が分離してしまうことである。

 サブプライム問題でも。投資と実需が乖離し、その結果、投資が投資を呼ぶという現象を引き起こしてしまった。

 更に、償却資産の代替物としては、物的貸借がある。借入というと現代では、金銭的なものと特定する傾向があるが、物的な借入もあり、金銭的な借入と、常に、比較対照しながら意思決定をする必要がある。
 貸借というと我々は、金銭貸借を思い浮かべるが、貸借関係は、金銭的な物ばかりでなく。物的貸借も人的貸借もある。物的貸借とは、レンタルやリースをさし、人的貸借は派遣のようなものを指す。これら、物的、人的貸借関係は、金銭貸借以上の効用を発揮することがある。問題は、物的貸借を負債と認識するか、費用として認識するかである。
 リース総額=一回あたり支払額×回数(時間)+残存額

 また、税務構造が加わり、経済活動の方向性を決める。税を考える上で重要なのは、税を費用、債務とみなすか、あるいは、利益処分とみなすかである。それによって利益構造、即ち、資本構造が違ってくる。

 時間的な軸の作用を換算するために、税効果会計が設定された。

 課税対象も重要な要素となる。課税対象が固定資産や資本金と言った外形的な対象とした場合、消費である場合、何等かの取引を基礎とした場合、所得とした場合で経済の根本が違ってくる。

 所得といっても企業は、損益を基礎とし、家計は、収入を基礎としている。それは、所得税の質に影響を及ぼしている。また、会計制度の在り方も違てくる。

 損益構造は、損益分岐点構造が有名である。

 市場価値は、価格と数量からなり。これに時間の要素が加味される。

 貨幣価値を現す関数の基本は、単価×数量×時間=総体的貨幣価値で表現される。それを構造化したのが会計制度である。そして、会計を構成する個々の水準によって収益構造は変化する。また、個々の要素の水準を調節するのは、場に働く作用がある。

 産業にも、損益分岐点がある。それが国家経済の骨格を形成している。

 初期投資が大きい産業ほど価格競争に陥りやすい。それは、初期投資の大きい産業ほど、固定費の水準が大きいからである。その為に、損益分岐点が高位になり、損益分岐点を超えるだけの収益を上げる事を最優先するからである。つまり、資金の回収を重視することで乱売合戦を引き起こしやすい体質を持っているのである。それが基幹産業だと深刻な影響を引き起こすことになる。

 また、原価構造も経済、市場構造を考える上では、重要な要素である。中でも、人件費構造は、所得構造に結びつき経済に重要な変化を及ぼす。

 産業の損益分岐点は、各種の水準の影響を受けやすい。例えば、為替の水準や石油と言った原材料の価格の水準、人件費(所得)の水準、生産量の水準、消費水準、在庫の水準と言った水準であり、中でも価格の水準の影響を強く受ける。
 この様な水準が急激に変化すると産業構造そのものが破壊されてしまうことがある。

 市場を単一な場、構造として捉えると、費用は、一番高い水準に向かい、価格は、一番低い水準に向かう。その結果、産業構造は、押し潰されてしまうのである。

 価格問題は、特に深刻な問題である。価格は、物価と所得の双方に決定的な影響を与える。
 その意味で価格は、安ければいいと短絡的に断定すべき事ではない。日本のメディアの中には、ただ安ければいいと安売り業者を称賛する者もいるが、安いには安いなりの理由がある。それが、本当に企業努力ならばいいが、不当廉売という場合もあるのである。それでなくとも、所得、雇用という観点からも価格は、適正な水準を保つ必要があるのである。

 負債による返済圧力は、インフレの時は軽くなるが、デフレになると重くのしかかる。負債のよる圧力の根源には、ストックの部分によるものとフローの部分によるものとがある。

 通貨の量の水準も物価に影響を与える。

 経済政策は、個々の要素、働き、主体、個々の部分にそれぞれあった政策をセットして行う必要がある。

 市場間の条件や環境、前提などが変化していながら、それを放置すると産業の空洞化などが起こり、労働と分配の仕組みに穴があく。

 故に、為替や価格の急激な変動を市場間で緩和するための仕組みが必要となる。その仕組みは、会計的仕組みや税制的な仕組みを基礎とし、各種の規制を組み合わせた仕組みである。故に、会計制度や税制度は、構造的で、相対的なものであり、絶対的なものではない。

 問題は、これらを結び付ける仕組みが重要になる。それが市場構造である。

 何にしても、強引な統一化は、構造を破壊する。
 無理に市場を統合しようとすると、産業構造は、押し潰される。かといって保護主義に走れば、市場の奪い合いになり、戦争の基となる。

 また、家計の基礎となる消費にも時間構造がある。

 日本人は、キャッシュフロー思考で、アメリカ人は、バランスシート思考だと言われている。(「世界金融危機はなぜ起こったか」小林正宏・大類雄司著 東洋経済新報社)アメリカ人は、資産があれば、借金をして資産価値を最大限に活用しようとするが、つまり、収入は、所得+借入金と言う発想をするが、日本人は、収入の範囲内で返済計画を立てようとする。

 経済の構造的改革と言っても容易いものではない。政策を実施しても短期間に効果が表れるとは限らない。特に、構造的改革は、短期的には、必ずしも良い方向に向くとは限らない。一見して何もしなかった時の方が良いようにも見えるものである。
 第一、構造的改革と言っても、意欲やモラルと言った意識変革から始めなければならない。

 意識やモラルの質的な変化が及ぼす影響も無視できない。
 サブプライムがこれだけ蔓延した原因も大部分を構成するプライムが飽和状態に陥り、旨味がなくなったことが原因の一つである。

 経済構造というのは、長期的に均衡する。その長期的均衡、時間構造を前提として、単年度、また、短期的均衡を測る必要がある。
 目先の利益ばかり追いかければ、この長期的均衡や資金的均衡が見えなくなり、結局、短期的均衡も失うのである。

 経済の有り様は、経済的倫理観をも変質させてしまう。また、経済的倫理観は、経済の有り様を変えもするのである。

金利は、時間的価値である。


 時は金なりという諺があるが、現代社会においては、時間は経済的価値を持っている。この時間の経済的価値こそ現代経済を成立させるための重大な要素の一つなのである。

 時間は、価値なのである。時間が価値を持っているのである。そして、時間が価値を生み出す社会なのである。

 そして、この時間的価値の有り様が、市場経済を成長を前提とした仕組みにならざるをえないようにしているのである。

 時間的な価値が組み込まれたことによって、経済的価値は、実質的価値と名目的価値に二分化されることになる。実質的価値と名目的価値の二分化は、経済に見かけ上の変化と実質的変化の別を生じさせた。つまり、認識と実体との乖離現象である。

 現代経済は、成長を前提とせざるを得ない。しかし、では成長と言っても単純ではない。例えば、成長にも名目と実質がある。仮に、物価の成長率を差し引いてみると表面的、即ち、名目的には上昇しているように見えても、実質的には、下降しているという事がよくある。

 経済上における時間的価値は、一つは、金利である。今一つは、利益である。もう一つは、物価である。つまり、経済的な時間的価値とは、時間の経過が生み出す価値である。

 この時間的価値を生み出すのは、金利、利潤、所得、物価である。現代経済体制は、この金利、利潤、所得、物価は、時間と伴に増大することを前提としている。

 市場取引は、基本的にゼロサムで均衡している。利益を生むのは、空間的差、時間的差である。例えば、買った場所や時間と売った場所と時間の差である。

 時間的価値の代表は、金利と利益である。そして、現代の市場経済体制では、金利と利益が確保できない状況というのは、時間的価値が働いていない状況である事を意味する。

 金利は時間的価値である。金利が時間的価値であるという事が重要なのである。現代の市場経済は、債務を基礎としている。つまり、金利が時間的価値を誘導していると言えるのである。それ故に、時間的価値基準は金利に求められる場合が多い。

 金利に対する考えは、長いこと封印されてきた。時間が価値を生むと言う事は許されなかったのである。
 期間損益が確立する以前は、儲けというのは、目の前に見える財宝以外の何ものでもなかったのである。そして、その財宝は、本来独り占めできるはずの物のようにみなされていたのである。しかし、その分け前をもらうのは当然の権利だと考える者も少なくなかった。だから、現物としてある財宝をどの様に配分するかが重要な問題だったのである。そこには、利益という発想は入り込む余地はない。しかし、使い切れないほどあるように見える財宝も実際に使ってみると瞬く間の内に減って、なくなってしまう。ただ消費するだけなら、増えることはないのである。そこで、財宝を減らさずに増やすことを考えるようになったのである。そこに資本という思想が生まれる。手持ちの財宝を人に貸す変わりに一定の期間が過ぎたら、増やして返してもらうのである。それが時間的価値を生み出したのである。
 しかし、この考え方は、長い間、宗教的に不道徳なこととされてきた。その呪縛が解けるのは近代になってからである。

 経済的価値には、長期、短期の別がある。また、固定、変動の別がある。これは、金利にも長期、短期の別を生じさせる。また、固定、変動の別を生じさせる。

 貨幣が生み出す、債務と債権は、常に均衡している。それが複式簿記の大前提である。

 金利は会計に反映される。

 会計上は、一年、あるいは会計期間を一つの単位としてみるのが基本である。また、一連の取引の始まりから終了までを指す場合もある。つまり、経済上の時間の定義は、要件定義によって為される。

 会計において重要なのは、速度の違いである。一定の運動をするのに必要な時間の単位によって仕分ける場所が違ってくる。時間の単位が多いものを長期といい、少ないものを短期という。
 基本的に、負債、資本、収益が収入を意味し、資産と費用が支出を意味する。資産と費用を分けるのは、速度の問題である。
 速度が価値を変化させる。この場合の変化とは、変質である。速度とは、流動性である。流動性の目安の一つは、会計期間である。つまり、会計期間を超える価値は変質する。
 会計期間を超える債権・債務を固定的と判断し、それ以外を変動的と判断する。同様に、固定的な債権、債務を長期とみなし、変動的な債権・債務を変動的とみなす。

 債権は、資産的価値であり、債務は、負債的価値である。即ち、債権は、物的な価値であり、債務は、貨幣的価値である。
 故に、債権は、物的価値の変化に依拠し、貨幣は、貨幣的価値の変化に依拠している。

 負債は、バブルやインフレの原因となることを注意する必要がある。

 借金をすると多くの人は、一時的な金持ちになって様に錯覚する。それは、価値の中に時間軸が加算されることによって価値総体が増加するからである。つまり、何十年分の価値を一時的に支払う額に、見かけ上、圧縮することが、可能となるのである。
 一月の支払額の十二倍の財産の購入が可能となり、十年割賦であれば、年収の十倍の財産が購入できる。
 しかし、それは、その間の所得の相殺勘定であることを見落としてはならない。費用の後払いに過ぎない上に、それは固定的なのである。資金が寝るとか拘束されることを意味する。

 金利というのは、時間軸によって生じる価値ではない。時間の経過は、価値の上昇をもたらすという思想から発生する。それは市場価値である。逆に言うと、この市場価値に金利という時間的価値が加算される。これが金利の問題をより複雑にしている。

 2008年12月16日、アメリカは、ゼロ金利政策に踏み切った。それ以前に日本は、実質的なゼロ金利政策を採り続けてきた。

 キリスト教やイスラム教、また、社会主義者から金利は悪だとして、金利をなくそうという努力が為されてきたが、現実化することは難しかった。ところが、金融危機が起こるとあっさりとゼロ金利政策が実現してしまった。皮肉なことである。

 ゼロ金利は、危険な賭である。ゼロ金利というのは、経済の時間的価値をなくしてしまうことを意味する。ゼロ金利にすることよりも、ゼロ金利にならざるをえない状況を問題とすべきなのである。つまり、適正な金利をとれない状況が問題なのである。それは適正な利益を上げられない状況なのである。

 ゼロ金利になったとして、その効果は一時的なもので終わる可能性がある。なぜならば、現在、金利をゼロにする目的は、借入をしやすくする効果を狙ったものである。しかし、資金を必要とする者は多くいる。それなのに、資金が循環しないのは、借入側の問題ではなく、貸出側の問題なのである。資金需要がないのではなく。融資する側の問題だからである。

物価と時間的価値


 宝探しが、時々、話題になる。埋蔵金を見つけだして一攫千金を狙うのである。小判は、現在でも、小判が流通していた時代の価値、また、それ以上の価値を保存しているのである。 だから、埋蔵金には、探し出すだけの価値がある。三世代にわたって、徳川埋蔵金を探している家族まで居ると聞いたことがある。
 紙幣には、その様な価値はない。仮に、何世紀か過ぎた後で掘り出されたとしても、むろん、歴史的な資料、あるいは、蒐集的価値以上の価値は持たないであろう。

 それは、現金は、現在の貨幣価値を指し示す数値であり、紙幣は、その価値を表象した証券に過ぎないからである。

 紙幣というのは、返済する義務を持たない国家の借用証書みたいなものである。ただ、国家の信認がなくなれば紙幣は有効である。そして、紙幣は流通している限り、有効なのである。紙幣は、流通しなくなれば価値がなくなる。だから金は回し続ける必要があるのである。

 紙幣そのものは、交換価値を現し、実質的に債務が生じない仕組みになってはいる。しかし、紙幣の本質は、返済する必要のない公的債務なのである。つまり、紙幣の増加は、公的債務を増やしていることになる。

 金利は、約定によって、物価は相場が決める。そこに金利と物価の本質的な差がある。金利は貨幣に対して時間的に価値を附加することであるが、物価は、物の価値の時間的価値を現している。故に、金利には、名目上、マイナスの価値はないが物価には、名目的にも、マイナスの価値がある。
 それがインフレやデフレの原因ともなる。

 好況期も不況期も生産財に対する生産能力も労働力も消費力もほとんど変わらない。では、何が好、不況を分けるのか、それは貨幣の振る舞いである。

 時間的価値は、基本的には、債務を圧縮する効果がある。要するに、インフレは、債務の圧縮する効果がある。それがインフレ期待となって現れることがある。借金をして、経営資源を確保するのは、手に入れた資産は、物価に連動して上昇するのに対して、債務は、時間的価値によって圧縮されることを暗に規定しているからである。

 時間的価値が経済に附加すると利子の付かない貨幣、即ち、現金の貯蔵は、貨幣価値を劣化する。それが預金、貯金を促進させるのである。預金、貯金は、金融機関からすると借入であり、債務である。

 相対的な現象には二面性があるのに、日本人は、一面しか見ない。債権と債務は、常に均衡しているのである。我々は、せっせと資産を増やしているつもりが負債を増やしていることにもなる。そのことを忘れて、資産価値が下落してしまうと、気がついたら、負債だけが残ると言う事があり得るのである。

 物価は、金利や利益、所得と、並んで、時間的価値を構成する重要な要素の一つである。物価は、金利や利益、所得を決定付ける中軸的要因でもある。

 時間的価値の代表的なものは、利益と金利と物価である。利益も金利もかつては、あまり道徳的にいいものとしてみられてこなかった。それが市場経済の発展を阻害してきた要因の一つでもある。

 景気は、時間的価値によって作り出される。時間的価値とは、金利であり、企業利益であり、物価である。景気の動向は、企業の経営実績によって決まる。つまり、適切な金利が取れて、利益が上がり、配当が出せて、物価に相当する賃金を払い、適切な税が払えて企業は社会的な貢献が出来る。
 今のように、金利がゼロで、利益が確保できない、また、リストラによって人員を減らさざるをえない状況というのは、経済的に良好な状態とは言えない。
 ある意味で、経済体制が崩れている状態だと言える。

 変化する部分、変化して良い部分、変化させる部分と変化しない部分、変化してはいけない部分、変化させない部分がある。
 変化というのは、時間価値を内包している。つまり、何等かの運動である。仕組みの中で可動して良い部分と悪い部分のことを指す。ただ、運動というのは、相対的な物である。何が何に対して変化しているのかが重要になる。

 物価にも、上昇する物価、横這いの物価、下落する物価、乱高下する物価があることを忘れてはならない。物価を形成するものは何かが重要なのである。

 物価は、何の関数か。物価を構成する要素は、何に、影響され、何に、結びついて変動するのかが問題なのである。そして、その個々の要素が何に影響を与えるのかが重要なのである。故に、物価を一律に捉えても意味がない。

 また、個々の問題で言えば、生産手段の変化によってどの様な内部構造の変化があったかである。

 大量に速く製造、あるいは、運べるようになったことで、貨幣価値を劇的に下げることが可能になったのである。

 それを可能としたのは、仕組みの変化である。仕組みの変化は、機械や組織という形で現れた。

所得と市場の成長


 恒久的に成長を持続することが可能であろうか、不可能である。
 それは、人件費について考えれば解る。

 人件費を考える場合、単純に市場の原理では語れない。それは、人件費の性格による。
 人件費に市場の論理を当て嵌めようとした場合、労働を商品化する事が前提となる。労働を商品化するとは、まず第一に、労働を流動化する必要がある。つまり、譲渡可能にする必要がある。第二に、労働の単位を確立する必要がある。

 労働を商品化するという事は、労働を両道化することである。労働を流動化するという事は、労働を譲渡可能な状態にするという事である。労働を譲渡可能にするためには、労働の抽象化、貨幣価値に換算することが前提となる。その上で、それを貨幣と交換できる状態にしなければならない。
 労働者から労働だけを抽象化しなければならない。つまり、属人的部分を労働から切り離す必要がある。その上で、それを貨幣価値に換算できるる状態にする。
 労働を標準化し、労働を単価と時間、あるいは、単価と実績の関数化することが前提となる。

 しかし、人件費は、所得という性格を持ち、生計費の基礎となる。その為に、属人的要素を排除することが出来ない。属人的要素とは、第一に、年齢である。第二に、家族構成である。第三に、物価と言った環境である。第四に、個人の能力や性格である。

 人件費、単なる労働費とは違う。それは、人件費の背後には、一人一人の人生、固有の時間が隠されているという事である。
 一人一人の人生は、固有のものであり、他に置き換えることはできない。結婚、出産、病気、能力、夢といったその人その人の一生に関わる出来事は、その人のだけの事である。故に、それに関わる生計費や出費も固有のものであり、住む場所や家族構成といった前提条件によっても違う。それらを一律にすることは不可能である。
 また例え、一律に捉えられたとしても年齢という時間的な要素まで一律にはできない。一般に、一定の年齢まで、つまり、出産から子育て期間中は、出費が上昇し、それ以後は、低減していく曲線を描く。この支出の曲線は、人間の労働能力の変化とは、直接的な関わり合いがない。むしろ、労働能力から言えば、二十代にピークを迎え、以後、漸減していく。
 年齢と伴の能力や技能が上昇するのであれば、年齢給や年功給は、成立するが、一定の年齢で能力が衰えていくとしたら早晩成り立たなくなる。
 仕事の内容によっては、若年層の方が効率や生産性は、上回る。特に、作業の標準化や機械化が進むと、熟練を必要としない仕事が増える。この様な仕事は、作業を単純な作業に置き換えるために、熟練を必要としていない。
 管理的業務も生産性という観点からすれば、必ずしも昇給の理由にはならない。
 スポーツを考えるとその点はハッキリする。身体的能力のピークは、二十代後半に来る。また、コーチ、監督だからと言って選手より高給を取れる保証はない。
 それに、管理職というのは、人数が限られている。組織のヒエラルヒーに基づいた構成にならざるをえない。

 この様に、年齢と、能力、生計、それに伴う職業上の実績とは、均衡しない。故に、一般に人件費は、効率や生産性とは別の基準が働くことになる。
 所得は、一律に平準化、標準化できない。所得を平準化、標準化できないのは、出費が属人的な要素、人生に基づくものであり、支出を平準化、標準化できないからである。

 仮に、年齢を基礎とした賃金体系を組み込むとしたら、定年退職まで均一の年齢構成にする必要がある。

 更に、生計には、生計固有の物価や金利による圧力が加わる。それが定昇圧力となる。

 この様なことから、人件費は、市場的な論理ではなく、共同体的論理、組織的論理が働く。人件費には、市場の基準や論理が作用していることを前提としなければならない。また、そこから、ワークシェアリングのような発想も生まれてくる。

 更に、日本型給与体系には、退職金制度がある。

 この事が、一定の年月を経ると人件費の負担が急速に収益を圧迫するようになる。これは深刻な問題である。人件費の累積的負担は、企業の内部留保を取り崩す以外に解決できないからである。また、競争力に想い足枷をすることになる。
 企業寿命三十年説というのは、あながち理由がないわけではない。それは、人件費負担の累積も一因だと考えられる。
 この様な人件費の負担を解決するには、早期退職制度や周期的な合理化、事業再編(リストラ)、年俸制や歩合給の導入、正社員の削減、パートアルバイト化、外注化、派遣社員の活用といった人件費の流動化を計らなければ解決できない。しかし、それは、同時に、企業の共同体としての機能を喪失することを意味する。
 仕事は、一生続けられるものでなくなるのである。そこから、疎外感や喪失感が生じる。また、企業に対する忠誠心も失われる。

成長の限界


 量的な変化は質的な変化を引き起こす。変化は、時間の関数である。

 市場は、成熟するに従って質的な変化をする。それに従って大量生産から多品種少量生産へと生産体制は移行していく必要がある。

 量的変化が質的変化を引き起こし、最終的には密度に影響する。これら一連の変化を決定付けるのは速度である。

 市場は、拡大成長するにつれて質的な変化を起こす。その変化に応じて市場の仕組みや会計制度と言った構造を変化させる必要がある。

 :現代の経済は、生産の時間軸を基礎として構築されている。しかし、経済には、生産とは違う時間軸が存在する。つまり、消費の時間軸である。そして、生産と消費の時間軸が生産と消費の質に関わっていることも見落としてはならない。

 生産と消費は、時間の関数である。そして、生産と消費が時間の関数だという人は、生産と消費の速度の問題だという事である。生産と消費の速度は、生産と消費の質の転化をもたらす。それは、市場の質的な変化を促す。
 市場が成熟化すると消費の速度が低下する。それに伴って生産の速度も遅くする必要が生じる。それが市場を、単品種大量消費社会から多品種少量消費へと変質させるのである。それが、多様化、高級化である。
 この様な市場の転化は、技術や文化の成熟化をもたらし、労働の質的変化をももたらしてきた。そして、社会や市場に規律を生み出したのである。近代は、この市場の質的な変化に対し、否定的な見方が強かった。その為に、市場の質的変化に合わせて構造的な変化を促すことが出来なかったのである。
 大量生産大量消費型市場から多品種少量生産型市場への転化を阻害してきたのである。その為に、過剰生産、過剰消費状態に陥るのである。全てが過剰になる。そして、市場の密度が薄くなる。

 消費の速度が変化すれば必然的に市場の質も変化する。それに合わせて生産の速度も調整すべきなのである。
 また、資金の流れの速度も調整する必要がある。速度は、量と時間の関数である。そして、それを決定付けるのは、質である。

 例えば、自動車や家具と言った耐久消費財である。自動車も最初は動けば良しとする。しかし、そのうちに動くだけでは飽き足らなくなり、性能を追求するようになる。また、一台で満足していた者が、二台、三台と欲しくなる。そして、それに従って要求も多様化する。
 また、食料にも質的な変化は現れる。最初は、食べることに精一杯だったのが、生産力に余力が生まれ、多少余裕が持てるようになると味にこだわるようになる。やがて高級な食材がもてはやされるようになる。そして、それは文化となり、爛熟する。
 高級化は、細分化でもある。つまり、量的な問題から、質的な問題へと移行した結果、商品を細分化する傾向が生じるのである。
 自分の物に愛着も生まれ、良い物を、修繕したり、手入れをして長く使うという思想も生まれる。生産の質的の変化に伴って商品も長持ちするようになり、また、長く使うようになる。それが本来の姿である。

 しかし、今日の使い捨て社会は違う。大量生産、大量消費型経済は、この質的転換が上手く機能しないのである。

 本来、質的な変化に伴って雇用体系も変化すべきなのであるが、その変化が抑制されると、雇用も標準化され、属人的要素が削ぎ落とされ、量的な面だけが残ることになる。

 新製品も一巡すると購買意欲は減退する。買わなくて済むのである。ところが大量消費を前提としている経済体制では、市場は、買わなくていい物まで、無理して買わせようとする。それが大量生産、大量消費型市場経済の仕組みなのである。この様な大量消費を前提とした体制では、多品種少量生産型市場経済になかなか切り替えられないのである。
 市場が過飽和な状態になったら、量より質に転化する必要が生じる。市場の在り方も市場に対する政策も変える必要がある。
 例えば保守、修繕業を発展させ、また、一方で高級化を進める必要があるのである。それによって市場の密度を高めるのである。
 大量生産、大量消費型市場経済は、過当競争を引き起こし、慢性的な不況、即ち、構造不況業種へ産業を堕落させてしまう。
 大量生産型社会は、画一的で没個性的な社会である。標準化され、均一化された財を機械装置によって大量に生産することを前提としている。
 それは、安価で、速く、そして、単純さによって基本的に成り立っている。この様な生産方式は、労働をも規制する。標準化された、単純、反復、繰り返しの作業によって労働を画一化し効率を上げるのである。それが疎外の原因にもなる。仕事が自己実現から切り離されてしまうからである。疎外感は、その人の生き方と仕事とが切り離され、無縁となることによって人生の時間が浪費されることに原因がある。生きる価値が見いだせなくなるのである。

 成長を前提とし、競争だけを市場の原理とし、そして、市場を成り行くに委せてしまったために、市場の仕組みに適合力がなくなってしまった。
 まともな人間なら、ハンドルもクラッチもブレーキもないような自動車の運転を、神の意志に委ねるなんて馬鹿げた発想はしない。
 自動車のように物理的な仕組み、機械は、人間が創り出した人工的な物である。魔法で出現した物とは違う。山から掘り出すような物でもない。人間の手で作り出す仕組みである。
 運転は、運転である。いくら、信仰心が強くても運転まで神に委せたりはしない。しかし、それでも、事故は起こる。だから、神に祈り、神を信じるのである。
 ところが市場に関しては、何もかも神に委ねるべきだという。市場は観念的な装置である。市場という仕組みを構築し、制御するのは人でなければならない。
 人事を尽くして天命を待つのである。最初から市場という装置の制御を神に委ねるべきではない。また、市場を生み出したのは、神ではなく。人間だと言う事も忘れてはならない。市場は、どの時代、どの世界にもあったのではなく。市場経済が確立されたのは、そう昔の話ではないのである。
 我々は、市場の環境の変化、状態の変化に合わせて市場を操作し、場合によっては、市場の仕組みを変えていく必要があるのである。
 それは、意識や価値観もである。成長段階では正しくても、成熟段階では間違っていることもあるのである。その逆もまたある。

 生産も、消費も、時間の関数である。生産にも、消費にも、何等かの周期がある。景気に影響を与えるのは、生産の周期よりも消費の周期である。そして、消費の周期は予見が難しい。

 収益が不安定であるのに対し、費用は下方硬直的である。

 生産から費用が見積もれる。消費から売上が予測される。一方は、見積もりであり、一方は、予測である。生産にかかる費用は見積もれるが、消費から確実な売上は、計算するのが難しい。

 時間と伴に上昇する費用に対して、収益の上昇には限界があり、ピークがある。為替の変動や過当競争、市場の飽和と言った市場環境の変化によって市場は成長から、停滞、収縮へと変化する。この様な変化は、技術革新だけで対応できるものではない。

 それならばなぜ、所得の上昇に対応することができたのかである。それは紙幣だったからである。実物貨幣では、所得の増大に対処しきれなかったであろう。紙幣だったから、所得の増大に対応し切れたのである。

 市場が過飽和状態になっているのに、貨幣市場が見かけ上の拡大を続けた事によってバブルが発生し、そして、崩壊した。

 この様に考えるとただ、成長を前提とした構造では、早晩成り立たなくなる。市場は、瓦解する。

 時間価値が作用すると現状維持と言う事は下げを意味するようになる。つまり、常に、上昇し続けなければ現状を維持出来ない体制なのである。現状維持は、停滞なのである。立ち止まることは許されない。
 しかし、停滞は本当に悪い事なのであろうか。

 停滞しているように見えても必ずしも停滞しているとは限らない。根本は、認識の問題なのである。コモディティと言われる多くの産業は、長期停滞ではなく、成熟しているの場合が多い。成熟というのは、実り豊という意味もあるのである。停滞としてしまい、無理に成長を促すのは、必ずしも正しい選択とは言えない。

 現代経済は、変化を前提として成り立っている。変化が、経済的価値の本源でもあるのである。

 変化を成長と置き換え、成長こそ経済の絶対的前提としている経済学者もいる。同様に、成長は進化だとするものもいる。変化と成長は同一のものではないし、成長と進化も同一ではない。

 そして、この時間的価値が経済成長を前提としたと言うより、前提とせざるを得なくしたのである。市場経済を支えているのは変化だからである。

 現代社会は、成長を止めたとたん破綻する。走り続けなければならない。そう言う仕組みになっているのである。つまり、経済が成長を前提としているのではなく。現在の経済体制が成長を前提としているのである。結局、自転車操業にならざるをえない。それが、成長を前提とした社会である。しかし、成長には必ず限界がある。故に、本当に大切なのは、成長が限界に達した時にこそある。

 なぜ、成長し続けなければならないのか。それは、時間的価値を正しく認識していないからである。同時に時間的価値を制御する術(すべ)を持たないからである。つまり、時間的価値を前提とせずに、又は、時間的価値を理解せずに、時間に追われているから休むことも出来ないのである。時間的価値を正しく理解すれば、ゆとりの持てる社会が築ける。

 時間価値を考慮に入れるならば時間を絶対的なものとせず、相対的なものとして考え、変化の実相に会わせて、市場や産業構造を考える必要がある。 

 成長が止まり、期間利益を上げることが困難な状況に陥ると、企業は、債権や債務、資本を活用して利益を上げることを画策するようになる。それが金融技術を発展させる。その場合、規模が大きい企業の方が有利に働く。
 それに会わせて、会計制度に対する考え方も損益ベースから貸借ベースへ、動態から静態へと移行してきた。そして、損益でも、貸借でも合わなくなってきたので、収支で合わせようとしているのである。
 この様に、会計制度は、会計制度の内的整合性によって変遷しているのではなく。外部からの要請によって変遷している。つまり、その時点における経済情勢に適合することが困難になったから、会計制度は、改訂されるのである。会計制度があって経済があるわけではなく。経済があって会計制度がある。しかし、会計制度が一度確立されると、会計制度によって経済は、規制され、変化する。経済情勢の変化によって会計制度は変革される。経済と会計制度は、この様な弁証法的関係にある。
 それ以前に期間損益の確立があり、貸借ベースから損益ベースへ、静態から動態への移行があった。即ち、静から動へ、動から静へと言うように会計の考え方は変遷してきた。その原因は、経済の時間的価値にある。

 なぜ、現代の経済体制は、成長を前提とせざるを得ないのか。それは、経済の時間的価値が常に上昇することを前提として構築された体制、仕組みだからである。

 好、不況の波。高度成長と、その後の経済の行き詰まり。経営や財政の破綻。市場の寡占化、独占化。それは、経済に時間軸が組み込まれた時から、運命付けられていたのだ。時間軸は、経済成長と市場の拡大を不可避の前提としている。しかし、経済成長や市場の拡大にも、自ずと限界がある。だからこそ、経済学が取り組まなければならないのは、市場の拡大が限界に達し、成長が止まった時に、どの様に対処すべきかなのである。

歴史観、世界観


 歴史は、壮大な交響曲のようなものである。歴史には、旋律、拍子、和音となる事象がある。音楽は時間の芸術だと言われる由縁である。

 歴史には、旋律と、拍子と、和声がある。さらに、指揮者と演奏者の技能と統制がある。それらが一体となった時、はじめて調和する。個々の部分が自分勝手な動きをすれば、全体の調和は乱れ、破綻する。

 経済は歴史的所産である。故に、歴史の乱れは、経済の乱れでもある。

 日本の経済は、鉄鋼や自動車といった重厚長大から、流通、サービス、ITといった軽薄短小の時代へと質的な変化をしたとみなされる。これは歴史的な問題である。そして、この様の歴史的な変化がその背後にある経済構造に対し、どの様な作用、影響を及ぼし、また、どの様に変革をしていくかを考えるべきなのである。経済は、歴史の産物であり、自然科学のように普遍的な法則によって支配されているわけではない。

 現代社会は、歴史的産物である。歴史を理解しないと現在生起している現象の根因を理解することはできない。貨幣の機能を明らかにするためには、貨幣の生成期の歴史的背景を調べることが有効である。
 特に、紙幣の起源となった物には、手形、債権、証券、預金、金の預かり証、借金、国債保証書、担保などがある。そして、これらは、紙幣の性格を形成した。

 要するに、紙幣は、何等かの債権や債務を基とした証券なのである。

 資本は、元手、信用取引における委託保証金のようなものである。つまり、資本主義というのは、レバレッジ効果によって成立したとも言える。レバレッジというが紙幣は、そもそも預かり証や借用書のようなもの。貨幣は、その裏側に金という担保保証があった。紙幣は、金の預かり証が始まり。つまり、紙幣は、金や国債を担保とした借用書のような性格を持っている。
 現に、紙幣は、国債を担保とした借用書から生まれたものもあるのである。

 発券したのも政府、中央銀行、一般の民間銀行、君主だったりする。しかし、基本的に近代的紙幣は、国民国家が成立することによって普及した。国民国家は、通貨によって統合されたと言っても過言ではない。

 両替屋というように銀行業の始まりは、両替と為替である。両替や為替は、内部貨幣と外部貨幣を変換する仕組み、装置である。

 時間に対する捉え方に、時間を直線的な変化として捉える考え方と循環的なものとして捉える考え方がある。また、時間の変化を可逆的な変化として捉える考え方と不可逆的な変化として捉える考え方がある。時間の変化が可逆的であるか、不可逆的であるかは、現象を決定論的なものとしてなものとして考えるのか、不確定論的なものとして捉えるのかの前提となる。また、変化は連続的なのか、不連続なのかの問題の前提ともなる。それ故に、これらの考え方の違いは、人間の死生観や人生観、歴史観の基礎となる。故に、時間に対する考え方が重要であり、思想や哲学に決定的な影響力を及ぼすのである。

 経済に対する考え方も時間をどの様なものとして捉え、どの様な前提とするかによって違ってくる。
 ただ、私は、時間に対する認識は、認識、即ち、相対的なものであり、認識の前提によって捉え方にも、違いが生じると考える。故に重要なのは、どの様な前提に立って経済の時間的変化を認識するかを常に明らかにすることである。

 近代経済は、普遍性を追求している。近代経済学は、変化を前提としているようで、変化を前提としていない。変化を前提としているようで、実際は、単一の方向性しか持っていない。即ち、成長である。近代経済学は、時間的には、不変的な原理、空間的には、普遍的な空間を前提としている。しかし、市場は、偏りがあり、変化もする。

 歴史を事実として考えるのか、それとも、ある種の思想と考えるか。歴史をどう捉えるかは、認識の問題である。故に、相対的なものである。時代や立場によって歴史に対する捉え方は違ってくる。ただ、生起した事象は、事実である。また、現在は、過去の延長線上にある。現在生起している現象の原因は、過去にある。それが因果関係である。現在生起している現象から過去を推測することは可能である。また、未来は、過去と現在とを結んだ変化の流れの延長線上にある。過去を解析することによって未来を予測することに繋がる。故に、歴史は常に検証され続ける必要がある。

 歴史観は、世界観の前提ともなる。世界観は、歴史観の基礎となる。それは、時間と空間の問題である。

 企業収益が悪化した時、カンフル剤的に公共事業を増やす。しかし、公共事業の投入も度重なると効果が薄くなる。

 公共投資は、景気対策を目的として為されるものではない。根本は、世界観、国家観である。国家の目的、公の目的を実現する為に行う事業が公共事業なのである。そして、公共事業は、歴史の所産でもある。

 景気対策で公共事業を活用するにしてもそれは速度の問題である。公共事業を前倒して実施して景気を刺激するのか、先送りして財政を立て直すかの問題である。景気対策のために新規の公共事業を後先も考えないで行うのは、国家事業としてはむしろ弊害が多い。
 国家事業というのは、根本が長期的事業なのである。短期的視野で考えるべき性格の事業ではなく。それ以前に国民滝合意と手続を必要としているのである。

 公共投資は、市場の構造に影響を与え、変化させる場合にかぎって経済効果を期待できる。公共投資そのものに経済効果があるわけではない。景気対策と言うだけで闇雲に公共事業をしても、公共債務を増大させるだけである。つまり、公共投資事態だけではなく。公共投資によって国家経済をどの様に変革するのかが重要なのである。

 手段は目的に従属し、規制される。目的のために、手段を選ばずと言う事はあり得ても、手段のために、目的を選ばずと言う事はあり得ない。それは、順序が逆転しているからである。

 経営主体の収益を向上させるという目的で補助金を出すのは、見当違いである。補助金は、収益に間接的に貢献することはあっても、直接的には貢献していない。補助金のようなものは、資金繰りを楽にしても、利益には反映されない。故に、景気には、直接的には結びつかない。補助金は、企業を継続させるための資金繰りには貢献する。ただ、収益が向上しなければ、与信を高めることにはならない。むろん、補助金の出し方や会計上の処理の仕方によっては違ってくる。目的を達成するためには、手段とその効果を考慮しなければならない。
 同様なことは、再投資を伴わない公共事業にも言える。故に、公共投資は、構造的に考える必要があるのである。その根本は、世界観であり、歴史観である。

 先ず、何を大前提とすべきなのかである。それは、経済とは何かの根底をなす。経済というのは、基本的に分配と労働の仕組みなのである。つまり、いかに、分配と労働を公平に、かつ、効率よく行うかの仕組みなのである。その為に、時間的変化を、そして、社会構造をどの様にするのが最適なのかを解明するのが経済学の役割なのである。それが構造経済である。

 経済制度や経済機関というのは、任意な設定条件に基づく。所与の条件が与えられているわけではない。設定条件は、条件を設定するための前提条件によって成り立っている。故に、経済の歴史的変化を理解するためには、この設定条件と前提条件を確認する必要がある。つまり、初期設定が重要になるのである。

 歴史を考察する上での前提には、制度的前提、原理的前提、物理的前提、環境的前提、主体などがある。制度的前提には、会計制度や為替制度、金融制度、貨幣制度、市場制度、法制度、経済体制、政治体制などがある。
 原理的前提には、会計公理や会計原則、複式簿記の原則、市場原則、取引原則などがある。
 物理的前提としては、人口、資源、気候、交通、インフラストラクチャーと言った前提がある。

 陰謀史観みたいなものは、無意味である。無意味というのは、陰謀史観的な事実が存在しないと言うのではない。むしろ、陰謀的な事象、事実は常に存在するものと言うことを前提とすべきなのである。そう言う意味で、無意味だと言っているのである。
 国家には、主権者が居て、常に、国益を計っている。そして、主権者は権力者であり、常に、何らかの意図を持って行動している。それらは、政策や国家戦略に反映されている。その政策や戦略の情報の全てを公開しているわけではなく。また、全ての情報を公開することは現実的に不可能である。何も、秘匿しておこうとしなくても結果的に情報が公開されていない、出来ない場合も無数にある。むろん、意図的に情報を操作することは、状態である。手の内を全て公開したらスポーツもゲームも成り立たないのと同じ事である。更に言えば、情報の公開を迫る者は、敵対者か、反対陣営に多いと言えるのである。
 それを陰謀とするか、否かは、それぞれの立場に依ることである。
 何よりも、危険なのは、目先の現象に目を奪われてその背後に在る、何者かの意図を見失う人である。何が是であり、何を非とするかは、自分が決める事なのである。
 例えば、多国籍企業が気に入らないからと言ってやる事、為す事、全てを否定したところで、問題の解決にはならない。問題は、それが何をもたらすかである。
 大事になのは、当事者の意図であり、是とするものがあれば是とし、非とすべきものがあれば非とすべきなのである。つまり、是々非々の問題である。
 どの様な国に、また、経済状態にしたいのかを明らかにしないで、お互いの利害を正当化することだけに終始したら、問題の本質的な解決は出来ない。

 国際陰謀論は、最後に何のためにと言う命題が残る。世界を支配するためにと言ったところで、世界が混乱と無秩序に陥ってしまえば意味がない。世界中の人間を隷属しようとしたところで、その結果、人々から主体性が失われ、生産性がなくなったら元も子もないのである。
 見えざる手は確かに存在する。しかし、それは神の手ではなく。人間の手である。ただ、それを陰謀に結び付けるのは短絡的である。

 陰謀は、表に現れないから効果があるのであり、表に現れてしまったら陸に上がった河童同然である。

 陰謀がないとは言わない。しかし、陰謀が全てだとは思わない。なぜならば、陰謀など神の意志の前では無力だからである。所詮、人間は、いつか、皆、死ぬのである。死んだ後の世界まで、財産も権力も持っていくことはできない。所詮は、陰謀によって得た物など虚しい物なのである。

 日本人が、日本をよくしようと考えること、中国人が国益のために働くこと、アメリカ人が、アメリカのために戦う事、ユダヤ人がユダヤを守ろうとする事、キリスト教徒やイスラム教徒が、キリスト教やイスラム教を広めようとする事は、陰謀なのか。結局、何を是とし、何を非とするのかの選択に過ぎない。それが民主主義の大前提のはずである。
 問題は、自分達の権益のために、他国を侵略したり、他国の権益を侵すことである。自国の繁栄のために、他国民を隷属したり、支配したり、隷属化したりすることである。

 現代人は、闇雲に争いや差別は悪い事だと決め付ける。しかし、悪い事だと決め付けるだけで、争いや差別はなくなるだろうか。争いや差別は、頭から悪い事だと決め付けながら、その一方で競争を煽り、学歴や収入で人に差を付ける。それで本当に争いや差別をなくすことができるのか。争いや差別とは、どの様なことを指して言うのか。また、争いや、差別のどこが悪いのかを明らかにしないで、ただ悪い事だと喚き立てても、争いや差別はなくならないのである。
 大体、個人主義や民主主義は、人々の違いを前提として成立している。差が前提なのである。
 生まれも育ちも違い。信じる神が違う。文化も、歴史も違う。言葉もマチマチである。肌の色も違う。体制によって教えられることも、法も違ってくる。風俗や習慣も違う。食べる物も違う。生まれ、育った環境や時代が違えば、考え方も違ってくるのである。能力も、性格も、体格も同じ者はいない。身長や体重が違えば、当然、着る服も食べる量も違うのである。寒い国と暖かい国では、家の構造は服も違うのが当然である。趣味も違えば嗜好も違う。
 大体、何を正しいとするか、何を悪とするかは、個人の判断に委ねられる。つまり、善は、自己善であることを前提とするならば、全ての人間の価値観を統一しようなどと言うのは、絵空事である。幻想に過ぎない。
 だとしたら、法や制度と言った社会の仕組みによって争いを抑制し、格差を是正するしかない。それが、民主主義の大前提である。そして、それが民主主義の大前提のはずであり、大前提だった。だから、絶対的な善というものは、存在しないか、不可知なものとするのである。
 しかし、民主主義が、一旦、確立されると、民主主義がいつの間にか、絶対的な価値観にすり替わってしまった。民主主義というのは、あくまでも前提であり、絶対的な価値観ではない。民主主義というのは、民主主義という仕組みなのである。
 民主主義は善悪ではなく。働きである。つまり、民主主義という仕組みが機能しているかどうかが前提なのである。
 そして、その根底は、民主主義という仕組みを機能させている力関係によるのである。その点を理解しないと民主主義という仕組みの長所、欠点も見えてこない。民主主義というのは、機械と同じ仕組みなのであるから、良いところもあれば悪い所もある。その欠点を補い、長所を生かすのは、民主主義という仕組みではなくて、民主主義を操る人間なのである。
 絶対的な善がないとしたら。また、超越的で、絶対的な力を前提とでくないとしたらならば、残されたのは力関係でしかない。ならば、正義はないのか。それは違う。善は、自らの内にある。そして、内なる善を外部に主張していく過程で正義は姿を現すのである。それが民主主義の大義である。故に、民主主義とは過程にある。
 経済を考える時、見落としてはならないのは、経済の目的、機能、働きである。この世には、無秩序と秩序しかない。無秩序な状態を容認するのか、秩序を受け容れるかの二者択一である。無秩序な状態を容認すれば、自力で他者の暴力と戦う覚悟必要となる。秩序を是認するならば、権力に従う覚悟必要である。いずれの覚悟もないままに、無秩序も秩序も否定すれば、結局は、自分の身すら護れなくなる。
 争いは、見方を変えれば、競技、競争になる。差は、活力となる。それを前提として成り立っているのが、スポーツである。つまり、スポーツというのは、社会の一つの在り方を示しているのである。スポーツを成り立たせているのは、ルールであり、ルールを成立させている仕組み、手続である。そして、そのルールを尊重できる内は、公正や自由、平等が成り立つのである。それが民主主義の大義である。

 国家が、国民の生命財産を守り、福利厚生を実現するために国益を主張することは当然のことと受け止める。しかし、それが、暴力や不正な行為によって実現されることを防ぐことが民主主義の大義なのである。

 ただ国際社会の力関係を知らずに経済を語ることほど愚かなことはない。また、歴史を忘れて経済を語るのも馬鹿げている。

 結局は、何を是とし、何を非とするかの問題である。一番問題なのは、無自覚に、自分の意志もなく、是々非々を明らかにできないで、いつの間にか人に隷属することである。我のみを高見において、中立的、客観的立場で、他国の批判ばかりをしていても国を保つことはできない。誰に味方し、誰と敵対するかは、自国の意志で決するしかない。誰の支配も受けないというのは、結局。我のみが正しいとすることに相違ない。
 所詮、民主主義においては、正義とは、自分の力によって勝ち取るものなのである。

 競争や差を付けることに目的があるわけではない。世界の調和と平和を保つことに目的があるのである。陰謀史観の根底にあるのは、他人による支配や抑圧である。しかし、陰謀史観では、誰が、何のために、どの様に支配しようとしているのか、また、抑圧しようとしているのかが明らかにされないということである。
 それ以前に、自分がどの様な世界をどの様な社会を望んでいるかが重要なのである。結局、自らの正義を明らかにしないで、他人の正義をとやかく言ってもはじまらないのである。要は、志すところの問題であり、志を同じくするか、否かの問題なのである。





                    


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2009.9.4 Keiichirou Koyano