形而下主義

形而下主義


 近代という時代は、神の存在を肯定も、否定もしないと言う前提に立つ。形而上的問題は、一旦棚上げし、形而下の問題に限定することによって成り立っているのである。

 神のものは神へ。人間のものは人間へ。それが原則である。しかし、それは神を否定しているわけではない。ただ、神の存在や問題は、不可知なものとしているだけなのである。

 人の世は、何等かの前提の上に成り立っている。前提が崩れれば、この世の中は、成り立たなくなる。

 何を信じるかを問題としているのではなく。何を前提としているかを問題としているのである。
 神の領域と人間の領域を区分し、神の領域を侵さないことによって近代科学も、民主主義も、会計制度も、スポーツも成り立っている。

 では何が神の領域で、何が、人間の領域なのかと言えば、存在に関わる問題は、神の領域であり、人間の意識、即ち、認識に関わる領域は人間の問題である。

 人間の世界は、最終的には、認識の問題に収斂する。

 信仰の自由の問題には、即ち、解らないと言う事と個人に帰すと言う二点がある。それは、信仰の本質を意味している。つまり、信仰の本質は、不可知なものであると言うことと、個人的なものだと言うことである。

 絶対、不変、無限、永遠は、神の領域である。全知全能、完全無欠な存在も神の領域である。
 それらは人間の認識を超越したところに存在するからである。故に、神は無分別な存在である。

 分別は人間の側の問題である。分別が悪くて困るのは人間である。神ではない。神の責任したところで始まらない。

 永遠、無限は神の側にある。人間の世界は、限りある世界、有限な世界である。
 自然を保護する力など人間にはない。常に、人間が自然に保護されてきたのだ。人間が行ったのは、住み難い環境にして、住み難くしただけである。
 自然を畏れるからこそ、自然科学は成り立つ。自然を支配しようとしたとたん、自然科学は、破綻する。人間も、神の世界、即ち、自然界の一部に過ぎないのである。

 人は、幸福な時、神を侮り。不幸になると、神を呪う。しかし、神は神である。人間の都合だけで存在するわけではない。おのれの悪行の報いは、おのれがとらなければならない。神の裁きは、自分の所業によるのである。

 自然環境を悪くしたとしても、人間が住みにくくなるだけである。人類が生誕するずっと以前から神は居られたのである。
 現代社会は、白日の文明社会である。この世のありとあらゆる物を白日に曝さないと、気が済まない。しかし、それは、文明を砂漠化することである。
 闇にこそ、真実が隠されており、創造力の余地がある。
 生病老死、人間は、何れからも解放されたわけではない。生命の神秘は謎のままである。死後の世界は、まだ、深い闇の向こうにある。ただ、人間は、わかったつもりになっているだけである。その傲慢こそが、人間自体を苦しめているだけなのである。
 驕る者、久しからず。
 神の世界を敬いつつ。現世の問題を明らかにしようというのが、近代の始まりである。ところがいつの間にか、人間は、神の領域を侵そうとしている。その報いはいつか人間が追わなければならない。
 我々は、わかったのではない。わからない事は、わからないとしているだけである。
 科学は、偉大な科学者が言ったように、神を否定しているのではなく。神の栄光をこの世に実現しようとしているだけなのである。それを忘れた時、科学によって人類は、報復されるであろう。

 人間の領域は、認識上の領域である。故に、観察が前提となる。観察の延長線上に実験がある。つまり、基本的な認識の問題を前提として近代社会は成り立っている。

 貨幣は、認識の問題である。財政赤字も、損益も認識の問題である。財政や会計も認識の問題である。市場も認識の問題である。需要と供給も認識の問題である。

 現代経済が近代化されていない理由の一つに、経済がまだ神の領域を侵していることにある。

 市場は、神の世界ではない。人間の世界である。それも最も、生臭い世界である。市場での出来事は、人間が片付けるべき出来事であり、神に委ねる出来事ではない。

 神の手が原理的に働くほど、市場はフラットにできてはいない。伝説や神話の時代ではない。そして、神の問題は、神の下に返すべきなのである。経済の均衡を神の手に委ねるべきではないのである。調和は、人間が保つべき事である。

 現代の経済は、この世界を無限な空間と前提する事で、永遠に成長すると、そして、進化し続ける事が保障されると思い込んでいる。
 無限な空間と永遠の成長を前提とすること自体、神への冒涜である。世界は、有限であり。限られた資源と時間、空間を有効に活用するのが、人間本来の在り方なのである。

 大量生産、大量消費もこの様な考え方の延長線上にある。無尽蔵にある資源を前提にし、可能な限り効率的に生産することだけを考える。そして、無尽蔵に生産された物を効率よく消費する事によって経済の継続的な発展を維持しようとするのである。その為には、常に右肩上がりの経済状態が要求される。しかし、経済現象は、波があると考えるのが自然である。上がれば、下がる、その上下動によって経済の活力は保たれるのである。
 生産から消費という一方通行的な発想では、適者生存という結果は導き出されない。フィードバック機能が働かないからである。

 人間は、今、この神の領域を侵そうとしている。だからこそ、人間は、神の裁きを受けようとしているのである。

 民族の違いや人種、宗教、国の違いで人間は、酷い争いを、昔も、今も、続けて来たし、また、これからも続けるのであろう。しかし、それを神の責任にするのは、過ちである。人間の争いは、人間の世界の出来事であり、神の世界の出来事ではない。

 絶対、不変な存在を信じられるが故に、この移ろいやすく、不確かな、そして、相対的な世界を生きることができるのである。不完全で、欠点だらけの自分に耐えられるのである。故に、神は救いなのである。神を求めているのでは人間であり、神が人間を必要としているのではない。神の救いは、神の愛に他ならないのである。
 この我が儘な人間を神は、許されているのであるから、生かされているのであるから・・・。
 神の事は、神へ。人間の事は、人間の手へ。



形而下のもの、これを器と謂う


 形而上のもの、これを道と謂い、形而下のもの、これを器と謂う。(「易の話」金谷治著 講談社学術文庫)市場にも産業にも型があり、形式があり、法則がある。現実の事象には、形があるのである。現実の事象の形・象(かたち)が現象を引き起こすのである。つまり、市場や産業の形が経済現象を引き起こすのである。
 形而上のものは何か、それは、道である。即ち、大前提である。それは無形である。近代は、形ある物によって無形な道を実現しようとする。それが、科学である。
 つまり、科学とは、形式主義なのである。これが大前提である。

 肉体は、魂の器である。魂のない肉体は、屍に過ぎない。しかし、魂は、肉体を通して顕れる。魂だけでは、この世に現れることは出来ない。肉体のない魂は、幽霊に過ぎないのである。何れも、命ある物としては存在し得ない。生物とは、命ある物なのである。
 故に、誰も魂を否定したりはしない。しかし、人間が認識しうるのは、肉体なのである。肉体を通じて魂を知るから、我々は、生きることの本質を理解できるのである。肉体をのみ問題とするからと言って魂を否定しているわけではない。魂を怖れて肉体を蔑ろにするのは、結局、魂を蔑ろにしていることなのである。

 近代医療は、魂の救済を目的とはしない。病を癒し、身体の健やかなることを図る。仏教徒も、キリスト教徒も、イスラム教徒も、ユダヤ教徒も、ヒンズー教徒も、無神論者でさえ、肉体の構造や病の本質は変わらない。共産主義国の空を飛ぶ飛行機と資本主義国を飛ぶ飛行機の原理に同じなのである。
 しかし、だからといって人の信心を否定する事は出来ない。近代医学では、魂の救済は出来ないのである。元々目的とはしていない。それが大前提である。共産主義による百年の宗教弾圧を経てもギリシャ正教は、復活したのである。

 医学や工学と経済や政治が違うのは、医学や工学はその根本に対象の存在があるのに対し、経済や政治は、根本が人間の意識だと言う事である。故に、経済の在り方も国の在り方、法制度も人間の意識の所産だと言う事である。

 形而下の事象は、認識によって発生する。つまり、意識は、認識が生み出す。意識は、対象を識別することを要求する。そこに、認識の前提が成立する。識別は、対象間を比較することによって成立する。認識は、差によって為されるのである。つまり、差別化と、相対化なのである。差別化と相対化は、必然的に、不完全に依拠する。故に、意識が生み出すものは、全て不完全なものである。それが相対化の大前提である。
 形而下の問題に収斂すると、現象は、位置と運動と関係に還元される。

 言葉狩りほど愚かなことはない。言葉を狩ると言うことは、それ自体検閲であり、差別である。差別用語だとするのは、差別を意識する側の問題である。差別を意識した側が、その言葉を使用した者を糾弾するのは、検閲である。それ自体が差別を生み出す。
 言葉を狩る者の多くは、差別を否定し、検閲を弾劾する。しかし、言葉を差別することによって自分が差別の当事者となり、検閲の当事者となる。
 第一、差別用語という場合、誰が、それを差別用語と認定したのかが明らかにされない場合が多い。これ程恐ろしい検閲はない。検閲が存在しながら、検閲の当事者が明らかにされていない。これこそが恐怖政治の兆しである。これは一種のカルトである。
 男女差別用語の問題を突き詰めれば、究極的には、男と、女という言葉をも差別用語だと言いかねない。それは、差別の否定ではなく。文化の否定である。
 一度、差別用語というレッテルが貼られると、問答無用に差別される。その為に、古典的な名著が差別作品として失われていく。これは文化に対する冒涜である。

 言葉狩りには、形而上なものが存在していない。あるいは、明らかにされていない。つまり、道がないのである。道がなければ道徳がない。

 経済も同じである。平等と言い、自由という。しかし、平等や自由を実現するのは、経済の器、即ち、仕組みである。平等とは何か、自由とは何かは、経済の形、象(かたち)をもって表現される。経済の仕組みは、位置と運動と関係に要約される。位置とは、差によって決まる。差を認めなければ位置は確定しない。差は認識の問題である。思想は、差から生み出される意識の問題である。差自体は、位置以外に意味はない。差が問題になるのは、差が生み出す意識によってである。位置には、力、エネルギーがある。経済的位置には、経済的力、経済的エネルギーがある。差を認めなければ、経済は動かなくなるのである。

 克己復礼。
 平等とは、自己の存在にある。自由とは、自己の在り方にある。博愛とは、自己と他者との関係にある。
 即ち、平等も、自由も、博愛も、自己を中心とした観念である。
 自己とは、形而上の問題である。形而下の問題は、器である。意識の器は、認識によって生み出される。よって差よりなる。

 差が問題なのではない。差が生み出すものが問題なのである。差は、認識の根本的な手段である。差を認めなければ、認識そのものが成り立たなくなるのである。

 形而上のもの、これを道と謂い。形而下のもの、これを器と謂う。

 本質や本性は、外形、外観として現れる。外界における働きは、外形や外観をもって行われる。魂は内にある。魂は、肉体を通して外界に顕在化する。肉体を通して魂を磨く。しかし、魂がなければ肉体はただの骸である。

 自己は、主体であると伴に、間接的認識対象である。自分の姿を写し出す鏡は外界にある。自己の真の姿を知りたければ、鏡が平らでなければならない。また、素の自分でなければならない。鏡が歪んでいたり、装っていたら自分の本当の姿を知る事が出来ない。歪んだ自分や化粧した自分を自分の本当の姿と錯覚して、卑下したり、驕ることとなる。そして、自分の虚像に執着するようになる。

 複数の要素によって一つの部分は構成される。部分は、他の部分と結びあって全体を構成する。部分を構成する要素は、位置と運動と関係よりなる。そして、位置と運動と関係は、それぞれ独自の働きを持つ。そして、位置と運動と関係は、全体を基準として決まる。故に、何を全体とするかによって位置と運動と関係は変化する。即ち、位置と運動と関係は相対的なものである。

 差は形式によって付けられる。位置付けは、象徴によって付けられる。差は、形式によって認識され、位置付けは、象徴によって認識される。
 結果的に、形式が特別な意味を持ち、象徴が固有の力を持つことがある。なぜならば、人は、認識によって意識が作られるからである。意識は、外見に囚われやすい。それが差別を生み出すのである。
 一度、差によって位置が決まり、差が形式化され、位置が象徴化されると、位置や差の持つ本来の意味が失われた時、形式や象徴が形骸化する。形式や象徴が、形骸化すると形式によって派生した意味や象徴による力が全体を支配するようになる。
 形骸化した、形式や象徴が差別や階級を生み出すのである。
 実力のない者が縁故によって地位を保つことは、全体を危うくする。自己の裏付けのない平等や自由や博愛は、かえって弊害となる。

 社会主義体制が有効に機能しないのは、差を認めないからである。差を認めなければかえって差がつく。それは、全体と部分には、各々、位置と運動と関係があるからである。そして、位置と運動と関係は、差によって認識されるからである。そして、その差によって働きが生じる。問題は、その働きにある。
 社会主義は、社会全体と、その社会を構成する個人とから成る。故に、根本は、社会全体の中にどの様に個人を位置付けるかが重要となる。一人一人の位置が定まることによってその人の働きが決まり、一人一人の運動、つまり、位置の移動や働きによって、社会的関係が成立する。位置も、運動も、関係も差を基にする概念であるから、その差をどの様に調節するかが、社会主義の主要な課題となるのである。

 差は活力である。
 重要なのは、部分と全体の均衡である。偏りは、全体の均衡を失わせる。極端な差は、全体を分裂させる。分裂は全体としての統一性を失わせる。差の拡大は、全体を破壊する。故に、問題は、差がもたらす均衡と分裂である。

 差が生み出す働きが重要であり、意識が生み出す働きが重要なのである。

 市場や産業は、器がある。市場や産業には、形がある。市場や産業には、仕組みがあるのである。その形や仕組みが経済現象の源となっている。
 故に、経済現象の源、原因を知り、経済現象を制御するためには、市場や産業の形や仕組みを理解する必要があるのである。
 市場や産業には、型や形式、法則がある。市場を構成する通貨の仕組みや物の仕組み、人の仕組みには、型や形式、法則がある。そして、それらの要素が組合わさって経済全体の仕組みや形式、法則を形作っている。
 それが経済体制である。経済体制は、その根本にある経済の道を体現している器である。

 市場や経済の仕組みは、お互いが結びあって成立している。経済は、市場における連鎖反応によって動かされている。問題は、その連鎖反応である。経済の仕組みが機能していて市場の連鎖反応が制御されている場合は、市場の状態は安定しているが、市場が過熱したり、逆に、冷却して、経済の仕組みが機能しなくなると市場は暴走したり、また、硬直してしまう。
 特に、怖れなければならないのは、負の連鎖である。負の連鎖反応である。典型的なのは、連鎖倒産である。
 しかも、市場規模が地球的な規模にまで拡がっている今日では、世界的な規模で負の連鎖が生じる。その好例が、通貨危機やサブプライム問題である。
 負の連鎖が起こらないように市場の状況を調節したり、制御するためには、連鎖を起こしている仕組みと範囲を熟知する必要がある。また、負の連鎖が起こった場合は、その被害が最小限にとどまるように対処する必要がある。
 連鎖を起こしている要素間の関係を知る事である。つまり、個々の要素の位置と運動と関係が連鎖反応を見る上で重要なのである。その上で、連鎖をいかにして断ち切るか、それが肝心な問題なのである。

 デフレーションとインフレーションは、同時に発生し、同時に進行する。つまり、デフレーションが発生している市場とインフレーションが発生している市場は、混在している。
 市場を単一の場としてみると経済の実体は理解できない。

 何をもって異常とし、何をもって正常とするかである。正常か異常かの基準は、前提条件、状況、基準などによって違ってくる。何をもって異常とし、何をもって正常とするかは、認識の問題である。任意の問題である。所与の問題ではない。所与とされるのは、形式である。例えば、手続の形式であり、論理の形式である。形式が矛盾しているか、否かの問題である。故に、形式的矛盾を防ぐために、一対一の対応が求められる。それが論理実証主義である。

 ITバブルも、サブプライム問題も市場の歪みが引き起こした現象である。恐慌も市場の歪みが原因である。市場の歪みを是正しない限り、問題の根本的解決には至らない。

 健全な精神は、健全な肉体に宿る。肉体を鍛えることで、精神を健全に保つのである。しかし、肉体を鍛えたからと言って精神が健全になるとは限らない。精神を健全に保つのは、自己の意志である。
 心技体の一致こそ求めるべき事なのである。
 つまり、市場も産業も健全な形を保つことが重要なのである。市場や産業の歪みは、貨幣や財の流れに歪みを作る。その歪みは、利益に影響を与える。また、所得や所有の偏りとなって顕れる。
 経済は、労働と分配である。労働や分配に偏りが生じると、経済も変調をきたす。美とは、均衡である。
 経済は、美しくあるべきなのである。つまり、美意識の問題なのである。




                    


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