契約主義

人と神との契約


 世界には、絶対的な存在が二つある。一つは、存在自体(物自体)である。今一つは、自己である。
 存在自体(物自体)と自己は、全一な存在である。故に、自己と存在自体は、一対一の関係にある。
 存在自体(物自体)は、絶対的存在であるから、無分別、完全無欠、無名な存在である。なぜならば、是非、善悪、正否、真偽は、相対的な基準だからである。存在自体は、普遍的で、不変的な存在である。
 自己は意識である。意識は主体である。故に、意識は、判断するために分別を必要とする。故に、意識は分別をもたらす。
 分別は、主観的なものであり。相対的で、不完全なものである。
 善と悪と基準は、無分別な存在自体にはない。善と悪との基準は、意識が生存する必要性に基づいて認識の過程で創造する。故に、善と悪との基準は、主体的で、かつ、相対的である。
 この様な善悪の基準は、相互に交換し、確認し、約束する必要がある。それが契約である。故に、人と人とが何等かの関係を前提として社会を築こうとした場合、合意、即ち、契約を前提しなければならない。この様な契約には、暗黙の合意に基づく契約も含まれる。

 全ては、一定の前提の上に成り立っている。問題はその前提である。その前提を認めるか認めないかの問題である。神を信じるものは、常に、自分の神の存在を前提としている。神の存在を認めない者は、神が存在しない事を前提としている。彼等の間には、少なくとも、神に対する共通の前提は、成り立たない。神が世界の源だと認識する者にとって神を信じない者とは違う世界に所属することになる。

 何も、これは、神に限ったことではない。かつて、共産主義国においては、弁証法に基づく科学が、まことしやかに提唱された。それに従えば、共産主義国を飛ぶ飛行機と自由主義国を飛ぶ飛行機とでは、別の法則で飛んでいることになる。この事は、一概に過ちとは決め付けられない。それは、前提が違うからである。この事を笑う者がいるとしたら、そのものは、既に、自己の認識を絶対視していることを証明しているに過ぎない。

 問題は何を前提としているかである。また、前提としたかである。それによって認識は全く違ってくる。そして、その上に構築される体系も違ってくるのである。何を是とし、何を非とするかは、前提によって違ってくる。

 その証拠に、全く違う前提に立って経済体制を構築した国が、現在でも存在するのである。

 認識を一にするためには、何を前提とするかを確認し、相互に合意する必要がある。それが契約である。そこに契約主義の根拠がある。人間が二人以上になった時、全ては、何等かの合意、契約を必要とするのである。特に、社会の形成は、契約に基づくとするのである。この場合、契約の背景に何等かの力、即ち、権力や暴力が関わっていたか、否かは問題ではない。例え、脅されたとしても契約は契約である。合意がなければ、認識を統一することは出来ない。少なくとも確認できない。

 根本は、認識なのである。共通認識を確立できるか否かが、最大の鍵を握っている。その共通認識を何処におくのかによって国家体制も、経済体制も違ってくる。そして、その共通認識を形成するための手続、仕組みこそが国家体制を決定付けるのである。
 共通認識の根源を個人におけば、独裁主義に、組織におけば、全体主義に、会議体におけば、議会主義に、個人におけば、個人主義に、国民の総意におけば、国民国家になるのである。そして、その基礎は、合意である。即ち、契約にある。

 だれも、我々の信じている科学だけでしか、この世の現象が説明できないと断言することは出来ない。科学は、万能ではない。と言うよりも、科学は、神にとって代わることは出来ない。科学、物と物との関係について語っているのに過ぎないのである。生命の神秘を解き明かしたわけでもなく。死後の世界を明らかにしたわけでもなく。生病老死を解決したわけでもない。科学を万能と思うのは、錯覚に過ぎない。

 前提は、認識の前提でもある。しかし、認識は、人間の世界を成立させるための前提となる。

 我々は、多くの前提を自明な命題として受け取っている。多くの人が習慣や風習の違いに無頓着である。自分や社会で当然だと思われていることと違った言動をとると嘲笑の的となる。「だって当たり前でしょ。」「常識じゃない。」と・・・。時には、同じ国の人間同士でも世代が違うとこの自明な事も変わってくる。気がついていないのは、当の当人達だけである。自分達の常識がどこででも通用すると思い込み、自分達の世界を敷延化してしまう。

 特に言葉の問題は大きい。我々は、自分達の使っている言葉による概念にとらわれている。思考や概念、論理などは、言語の構造の中で行われる。また、倫理観も価値観も然りである。この事をよく自覚していないと大きな間違いを犯すことになる。常に、我々は制約の中にいる。

 市場経済においては、前提は常に、成長である。そして、それは市場経済に時間的価値が加わった時から決定付けられた原則なのである。

 近代という時代は、契約という思想に特徴がある。契約と言う事は、合意を意味している。つまり、全ては、合意に基づく事を意味している。
 契約とは論理である。つまり、現代という事態の体系は、合意により命題の上に命題を積み重ねることによって成立ている。つまり、根本は、相互の合意を前提した社会である。日本人は、契約という思想を単に人と人との約束事を明文化したものとして捉える。しかし、近代の契約という思想の背景は、自らの神に対する誓約を基とした契約という意味が隠されている。つまり、価値観の違う相手を信用するためには、相手を信用するのではなく。相手の信仰する神への誓約を信じるという考え方である。日本人は、契約というと、無神論的に捉えるが、無神論者の契約は、常に懐疑的にみられることを忘れてはならない。その証拠に、欧米における裁判も、また、大統領就任も神に対する宣誓、誓約からはいる。つまり、絶対不変なる存在を前提としているのである。その絶対的な存在を前提としたところに、科学も、民主主義も、会計も、スポーツも成り立っているのである。相対主義も然りである。
 この様な契約主義は、了解可能性の上に成り立っているという事を忘れては成らない。自明というのも、自明だという合意に基づくのであり、実際に自明かどうかは、わからない。故に、科学も了解可能性の上に成り立っている。
 それは神の存在は、自明であると仮定すればハッキリする。その仮定を了解するか、しないかは、個人の判断に委ねられるからである。
 了解可能性を前提としているという事は、仮説を前提とするという事である。お互いの了解が取れなくなった時点で前提は解消する。また、了解を裏付けるものとして何等かの証明を必要とする。それが論理実証主義である。
 そして、この様な了解可能性は、真実であり、信用できるものという前提に立って成り立っている。それを裏付けているのが、神を介した契約である。それが信用制度の根源である。神を裏切らないことを信じるからこそ信用制度は成り立つのである。その意味では、日本は、極めて異質な社会なのである。

 何を前提とするかが、問題なのである。例えば、貨幣である。貨幣とは何を前提として成り立っているかが問題なのである。しかし、多くの人は、前提をみないで、又は、前提を忘れて現象のみにとらわれてしまう。かくて、貨幣に価値に囚われていくのである。そして、貨幣の本質が失われていく。

 貨幣そのものには、価値はない。貨幣そのものにあるのは、働きである。
 貨幣、特に、紙幣に、価値をもたらすのは、合意である。即ち、契約である。価値があるという合意である。それを裏付けているのは、世俗的権威である。世俗的権威を裏付けているのは、世俗的権力である。そこに世俗的権力の働きがある。世俗的権威による与信がなければ、紙幣は、ただの紙切れに過ぎない。猫にとって小判は、小魚ほどの価値もない。小判に価値を見出す、言い換えれば与えるのは、意識である。

 紙幣は、護符の様な物である。力があるとするから、また、認めるから力があるのである。

 現在の貨幣制度は、貨幣価値の信認に対する合意を前提とする。特に、紙幣は、それ自体が何等かの価値を有するのではない。例えば金貨のように、貨幣自体が価値を持っているわけではなく、紙幣は、貨幣価値を表記した証票、証書、証文に過ぎない。つまり、紙幣には、そこに表記されている貨幣価値と同等の価値を持つという了解と信用によって成り立っているに過ぎない。信用が失われ、了解がなくなれば貨幣価値は、消滅する。

 かつて軍票というものがあった。軍の力を背景にした紙幣である。しかし、軍が敗れ、解体されれば、紙幣としての機能は失われる。逆に言えば、権力があれば、紙切れでも貨幣価値を生じると言う事である。

 そして、紙幣というのは、一種の借用証書なのである。それが、紙幣の性格の一つである。つまり、債務だと言う事である。ただ、紙幣は、返済する義務を持たない借用証書だと言える。その様な紙幣がなぜ、有効なのかというとそれは、当初は、返済する義務があったからという事と譲渡が可能だからである。金貨のような実物貨幣の代用として支払われたのが、紙幣の始まりである。だから、最初は、支払準備がある時は、金貨と交換してくれた。そのことによって、一々金貨と交換しなくても支払手段として有効ならば、別に問題なかったのである。問題は、金貨と交換してくれるという信用である。

 ここで注意しなければならないのは、紙幣は、債務であり、譲渡可能な証券だと言う事である。

 貨幣は、信用を供与する手段でもある。そして、貨幣の機能は、支払手段、決済手段である。

 貨幣の働きは、現金だけが発揮するわけではない。会計上においても現金、及び同等物がある。
 現金、及び同等物というのは、現金、小切手、譲渡性預金などがある。また、それ以外にも現金と同じ様な働きをする物には、有価証券、手形、借用証書、土地の権利書などがある。有価証券も株券、保険証書、社債、国債、公債などがある。要するに、貨幣価値を有していて流動性、即ち、譲渡が可能ならば、貨幣と同等の機能を発揮するのである。この事は何を意味するのか。

 現金というのは、現在の価値を示す。現金がその効力を発揮するのには、現金が現在の価値を現している物という事を裏付けてやればいいのである。つまり、信用を創出することである。それが信用制度ある。逆に言えば、信用を与える、即ち、与信は、合意がとれれば成立するのである。その与信に基づいて、譲渡可能な証券が発行された場合、それは、当事者間においては貨幣と同等の働きをする。たとえぱ手形が好例である。故に、現金、及び、現金等、同等物というのである。

 国家は、公共事業や国債とった形で必要以上に財や貨幣を直接的に市場に供与することはない。財や通貨が創造され流通する仕組みを作るだけで良いのである。要は、民間企業が儲かるような仕組みを作ればいいのである。つまり、信用を創出するのは、国家機関でなければならないと言うわけではない。

 現在、問題となっいるサブ・プライムというの、低所得者向け住宅ローンである。サブ・プライム問題というのは、一種の信用制度の機能不全問題である。つまり、住宅ローン、と言う債務を基礎とした一種の通貨制度の崩壊である。
 この場合、サブ・プライムローンというのは、債務である。しかし、返済されるという前提であれば、多少のリスクがあっても信用の基盤を形成することは出来る。この債務を証券化である。この場合、サブ・プライムローンの信認が失われなければ、証券は、紙幣と同じ機能を果たしていたのである。

 損益計算上で言う現金とキャッシュフロー上で言う現金等、同等物とでは、若干、定義が違う。ただ、重要なのは、現金以外にも現金と同じ働きをする物があるという点である。

 証券化の手法とは、即ち、新たな信用の創出であり、しかも、国家以外の場所での信用の創出を意味しているのである。サブプライム問題の本質は、国家が制御できる範囲の外で信用の創出が行われているという事である。それが市場の土台にある信用制度を毀損したのである。

 一旦市場経済や貨幣経済が確立されると、そのもの持つ価値と違うところで、貨幣が価値を創出する。
 人間が良い例である。例えば、一己の人間が商品価値を持つと、本来のその人とは、まるで違ったところで人間としての価値が形成されてしまう。恐ろしいことである。いくらその人が、本当の自分とは違うと主張しても市場で作られた価値の方が優先されてしまう。そして、演技し続けることが要求される。こう言うのを個人主義とはいわない。

 我々は会計制度によって経営を測る。しかし、会計制度に囚われたら、経営の実体を見失ってしまう。この事が、所謂、優等生には理解できないのである。学校で、教わって公式どおりに現実を当て嵌めようとする。
 彼等にとっては、生身の人間関係も、単なる人間と人間の関係に過ぎない。人と人との生々しい関係は見えてこないのである。男と女の関係も、親と子の関係も、せいぜいいって生物学的な関係か、法的関係に過ぎない。愛とか、憎しみなど入り込む余地などないのである。義理だ人情だなどという世界は無縁である。想いや感情など計算外の出来事である。それでいて、世界を知り尽くしているように思い込む。公式どおりに行かないことなどあり得ないのである。だから、あり得ないことが起こった時にたじろいでしまう。

 優等生達にとって、なぜ、どうしてなどと問うこと自体愚かなことなのであろう。そんなことは教科書には書いてないし、先生も教えてはくれなかったのである。

 会計原則をあたかも自然の法則のように所与の法則、自明な法則として受け取っては成らないのである。

 しかし、あくまでも会計制度が算出する利益は、会計上の利益である。何等かの資金的実体があるわけではない。必然的に基準を変えれば利益の額も変わるのである。いわばスポーツのルールである。問題は、プレーヤーがルールを知らずに、結果が何等かの実体を持っているかのように錯覚することである。
 しかも、会計数字というのは、経営実績を正確に反映するとは限らないのである。特に、資金収支においては、期間損益では測定できない。では、資金収支が経営実体を反映しているかというと、必ずしもそうだとは言い切れない。
 だから、会計というのは、実態に則して活用していく必要があるのである。ところが、金融機関や金融行政を司る機関が、近年、会計を絶対視する傾向がある。つまり、基準が現実を規制しているのである。その為に、経営的に問題のない企業が淘汰され、経営上に問題のある企業が繁栄するといった事態も起こっている。

 資本主義社会に生まれ、市場経済、貨幣経済の中で生まれ育つと、それがあたかも、所与の前提、自明な事柄のように錯覚する。しかし、実際は、資本主義も、市場経済も、貨幣経済も何等かの思想の上に成り立っている。そのことを忘れてはならない。

 多くの人は、経済の問題か、実務的な問題、あるいは制度的問題だと思い込んでいる事柄が実際は、思想的問題である場合が多い。そして、それらの中に資本主義や民主主義の本質に関わることが潜んでいるのである。一見、実利的な問題に見えて、実際は、宗教上の問題だったり、倫理的問題だったりする。
 典型的なのは、利子の問題である。利子は、長い間、宗教的禁忌の一つだったし、イスラムでは、今でも、禁忌の一つである。そのことの是非を問題にするのは、傲慢である。それが思想であり信条なのである。
 同様なことは、その他にも例えば、所得から利益を得るのは良いが、資産から利益を得るのは、良くないという思想がある。それは、金利や地代の否定であり、結構、広範囲に見られる思想である。
 また、商売というのは、人を騙して儲けることだという思想もある。また、高利貸しは悪いというのも思想である。

 税と配当と内部留保、経営報酬が利益処分というのは、思想である。これら一切合切が資本主義思想の一つである。
 所有と経営の分離というのも思想である。それ以前に私的所有権の是認も思想である。私的所有権を一切認めない思想も対極にはある。この問題は、資本主義の根幹に関わる問題でもある。所有と経営の分離は、実際は、所有者リスクと経営者リスクの分離を意味していた。
 資本家が悪いと言うよりも誰が資本を担うかの問題である。資本を私的な者が担うのか、公的な機関や国家が担うのか、また、何等かの一族が担うのかによって社会の有り様が違ってくる。それは思想なのである。
 なるべく、政府は、市場や経済に介入したり、干渉しない方が良いというのも思想である。競争の原理を信奉するのは、思想と言うよりも信仰に近い。
 また、寡占、独占が悪いというのも思想である。

 つまり、我々が前提としている原則の多くは、思想を基としているのである。思想の問題は、思想の問題として認識し、対処する必要がある。
 思想の問題を絶対的な真理、原理だと思い込むと現実の矛盾に柔軟に対処することができなくなる。我々は、常に、事実に則して検証し続ける必要があるのである。根本にあるのは、人間の思索の結果、即ち、思想なのである。

 問題は、何を前提としているかである。

 正直者が馬鹿を見るような社会は長続きしない。それ自体が論理矛盾である。つまり、正直というのは、信用である。信用を土台にして成立している社会に置いて信用が成り立たなければ、最初から成り立っていないのである。






                    


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