市場経済

市 場 経 済


 かつて市場は、化外にあった。市場は、祭りのように非日常的な場にあった。それを忘れてはならない。
 つまり、市場というのは、生活空間の外に形成される空間、場だったのである。それ故に、自由な空間であった。つまり、共同体の掟に縛られていなかった。しかし、それだけ、危険も伴う場所だったのである。安全な場所は、窮屈でも共同体の内部にあった。それが家族であり、村であり、一族だったのである。その代わり、共同体の内部は、掟によって守られていた。つまり、倫理的空間だったのである。
 今は、外にある物は、尊くて、内にある仕事は、賤しいという発想があるが、昔は、逆であった。内は、尊く、安全で、外は怖い世界だという。
 鬼は外にいたのであり、災いの種になる者は、外に追い出すべき存在だったのである。。

 現行の市場経済体制最大の問題点は、市場を制御できない点にある。なぜ、市場経済は、市場経済の根底にある市場を制御する事が出来ないのか。その原因を明らかなしていきたい。
 現在の市場経済が市場を制御できない理由を明らかにする為には、市場の機能を明らかにする必要がある。それは、市場とは何かを明らかにすることでもある。

 自由主義経済の根本は、市場経済である。しかし、市場経済というが、全てが市場に支配されているわけではない。市場というのは、分配構造の一部である。経済の根本は、労働と分配である。故に、市場は、経済の仕組みの土台にあることは確かである。しかし、市場は、経済機構の一部に過ぎない。市場経済といっても市場が全てではないのである。

 市場は、分配構造の一部である。分配は、共同体(組織的)と市場によって為される。現実の分配は、共同体や組織のほうがより深く関わっている場合も多い。ただし、市場は、分配という機能だけでなく。需要の供給と貨幣価値の創造という機能を併せ持っている。故に、自由経済の根幹を握っているのである。

 かつては、度重なる大洪水に、人類は、悩まされ続けてきた。洪水の災害から人類が開放されたのは、人々が灌漑設備や治水工事を積み重ねてきたからである。市場も同様である。市場を自然の力に任せておけば、災害から逃れることは出来ない。それなのに、人間の力を市場に加えてはならないと言う思想が跋扈している。

 市場は制御されなければならない。市場は、自然にできた仕組みではない。市場は、自然界の仕組みでもない。市場は、人為的に作られた仕組みである。これが大前提である。そして、人為的に作られた仕組みである市場は、合目的的な仕組みである。ならば、市場を形成するための目的は何かである。そこから、要求される仕様、機能を導き出すのである。
 先ず、市場に要求されるのは、流通機能、あるいは、情報伝達機能である。次ぎに、分配機能である。それから、裁定機能である。そして、決済機能である。これらは、貨幣経済下では、貨幣価値の創出を意味する。それから、需要と供給の調整機能である。これらが、市場の基本的目的であり、機能である。
 これらの目的・機能から市場の有り様仕組みが考えられなければならない。目的や機能に対して、その目的や機能を発揮するための市場の制御機能が重要となるのである。

 スポーツを例にとるとよくわかる。スポーツには、構造がある。先ずスポーツが成立する人為的空間が設定されている。人的空間は、範囲が特定されている。次ぎに、スポーツには明確なルールがある。このルールは、何等かの公開された第三者機関によって制定される。第三に、審判がいる。
 それに対し現代の市場経済は、第一に、閉鎖された空間ではない。公開された協議機関がない。第三者による調停、決済機関がない。
 この様な市場は、立法、司法機関の存在しない無法地帯と同じである。市場は、競技、競争の場ではなくなってしまう。仁義なき争いの場、喧嘩、闘争の場、戦場と化してしまう。

 市場は一様でも一つでもない。市場というのは、複数の場の集合体である。市場は、市場全体を構成する個々の市場の位置付けや働き、関係を理解して組み立てられなけれはせ成らない。また、個々の市場は、市場を構成する要素や取引の形態、成熟度、開放度によってもその特性に違いが生じる。しかし、その違いは、人為的に生じるものであることを忘れてはならない。それは機械の性能のようなものである。

 価格の決定方法は、一律一様に決まるものではない。例えば、市場の占有率を高める事に対する決定的な要因となることもある。
 単純に需給だと考えるにしても、設備の更新には時間と資金がいる。需要が豊富だと言っても設備が稼働した時には、市場が飽和状態に陥っていないとは限らない。
 需給関係だけに価格決定の仕組みを求めると思わぬ落とし穴に嵌る。市場は、多様性を好むのである。
 市場では、競争の原理だけが働いているわけではない。競争を抑止する働きもある。

 市場は均一化される機能が低下する。ところが生産性や効率性から言えば、平準化、標準化、均一化の方向に進む。

 人的市場、物的市場、貨幣的市場を構成する要素は、各々、違う。必然的に場の働き各々違ってくる。人的な場を構成する要素は労働と分配であり、物的場を構成する要素は、生産と消費である。貨幣的市場を構成する要素は、債権と債務、貨幣の働きである。

 貨幣的市場の動きと物的市場、人的市場の動きに整合性がある場合は良い。しかし、これらの市場は必ずしも整合的な動きをするとは限らない。
 例えて言えば、物的市場に多くの財がありながら貨幣市場が資金不足に陥ることで、物量が滞るといった事態がよく起こるのである。

 物的な市場には、自ずから物的な限界がある。人的な市場には、人的な限界がある。それに対し、貨幣市場は、貨幣市場自体を制限する限界がない。貨幣市場を抑制するのは、物的、あるいは人的な実態に連動させる以外にないのである。

 消費される量は、生産される量に規制される。つまり、消費量は、生産量を上限としているのである。

 消化器系や呼吸器系、循環器系が同じ機構で動いていないようにである。故に、経済政策は、個々の市場の状態に合わせて対処すべき事柄である。経済政策は、一律に立てられるべきではない。

 近代資本主義は、商業資本主義から、産業資本主義を経て、金融資本主義へと変化してきた。これも進化論的に発展してきたのではなく。環境に適合する形で変質してきたという方が妥当である。そして、それぞれが市場を形成し、発展させてきた。

 多くの人は、利益は、収益から費用を引いた余りだという思い込みがあるが、利益は、収益と費用、資産と負債、の均衡と、更に、資本の在り方から導き出された結果である。
 経営者は、利益を上げるのにあたって、まず最初に、収益の向上を考える。収益が頭打ちになると費用の削減を考える。次ぎ、資産を見直し、その上で、負債の圧縮を図り。そして最後に、資本の活用を検討するのである。資産や負債資本という段階において、重要な役割を果たすのが金融である。また、最終的に鍵を握るのが資本であるが、資本という実体は、収益と費用、資産と負債の差額であるという事である。その資本が商品価値を独自に持っているというのが資本主義の特徴である。また、資本主義固有の特性、本質でもある。

 収入や資産価値が上昇している時は、費用や負債を吸収することが可能である。
 こう言うときは、競争の原理は有効である。借金してでも積極的に早く行動を起こした者が勝つ。しかし、収入や資産価値が頭打ちになると費用や負債を吸収しきれなくなる。資金繰りも悪くなる、金融機関も融資を渋るようになる。

 収益構造と費用構造とは一体ではない。収益は変動的なのに対し、費用は固定的なのである。

 収益が頭打ちになると費用の削減を考える。費用を削減しようとした場合、費用が何に連動して動くかを明らかにする必要がある。例えば、輸入原材料は、為替と原材料相場に連動して動く。人件費は物価の上昇率と賃金の世間相場に連動する。この様に費用や原価の構造は単純ではない。

 費用を思うように削減できないと資産の見直しにはいる。資産の見直しは、一つは流動性の問題である。もう一つは、含み益、未実現利益の問題である。三つ目は、税金の問題である。
 資産を見直しと負債の圧縮を考える。そして、最後に資本の問題に行き着く。この様に、収益、費用、資産、負債、資本は、相互に関連しながら利益を生み出しているのである。

 経営実体を知るための資料には、この様な損益、貸借関係以外に、収支関係がある。ただ、収支によって経営の実態を把握するためには、かなりの熟練が必要である。なぜならば、収支というのは、経営の実体と言うよりも資金の流れを表したものであるからである。
 それは、期間損益と貸借関係が確立された経緯を見れば理解できる。

 資本主義の大前提は、資本の成立である。資本がどの様にして成立したかは、資本の持つ作用を形成するための決定的要因である。それは、近代会計制度の成立と不可分な関係にある。

 先進国の市場は、成長の限界に達し、成熟したのである。とくに、伝統的産業や基幹産業、必需品産業の市場は、成熟している。また、金融業界の中でも銀行は、成熟した産業である。その結果、伝統的産業や基幹産業、必需品産業、銀行業は、構造的不況に陥りやすいのである。

 産業が成熟すると市場は飽和状態、過飽和状態に陥る。需要は、更新需要、買い換え需要に限定されるようになる。そうなると収益は、横這い、悪くすると下降することになる。それに対して、費用、中でも人件費は、基本的に上昇し続ける。人件費は、基本的に共同体の原理に従い。市場の原理だけによって決まるものではないからである。人件費を変動費化するためには、常雇いから臨時雇いの様に、雇用形体を見直さなければならない。その場合、人間としての属性は一切無視されることになる。時間と単位あたりの労働量か労働の成果によってでしか計れなくなる。その場合、労働者の人間としての属性、年齢とか、勤続年数、家族構成というのは、まったく無視される。
 また、経費は固定的で収益は変動的である。それ故に、費用を平準化する必要が生じるのである。収益が横這いか、下降しているのに、費用が上昇してくれば、当然利益は圧迫されることになる。市場が成熟すると企業経営は、圧迫されるようになる。かといって技術革新だけでは、対応するのに時間が掛かる。
 
 なぜ、先進国の経済が停滞するのか。そして、それは、本当に停滞といえるのであろうか。逆に言えば、現代の経済は、余りにも成長に依存しすぎてはいないか。成長というのが、当て嵌まらないとしたら変化である。つまり、現代の経済はあまりに変化に依存しすぎてはいないかである。

 人間は、市場を無限なものと思い込み、永遠に成長できると決め付け、また、資源は無尽蔵にある事を前提とした。故意か、無意識かは別である。

 需要が増え続けると考えることこそが異常なのである。需要が増え続けることを前提として生産をするから過剰生産、大量生産になる。また、浪費、大量消費を促すことになる。

 先進国の市場は、成長の限界に達し、成熟したのである。成熟に達した市場は、飽和状態、過飽和状態にいたり、財や貨幣を吸収しきれなくなる。しかし、それは悪い事であろうか。豊かになることが悪いと言っているようなものである。

 高級品、ブランド品、贅沢品の需要が伸びている。一家にテレビや自動車は一台どころか、二台も三台もある。
 その反面で、食料やエネルギーと言った必需品が品不足に陥りつつある。この不均衡が何よりも証拠である。食料やエネルギー、必需品は、コモディティ産業である。

 石油や資源、食料に代表されるコモディティの価格の高騰が昨今問題となっている。価格の高騰の原因は、いろいろと取りざたされている。一つは、実際に、新興国の経済の台頭によって需給が逼迫してきたという見方、もう一つは、資源量がピークに対する不安や思惑が価格を先取りしているという見方、更に、投機筋の資金がサブプライム問題を嫌って現物市場、先物市場に流れ込んだという見方などが有力である。
 しかし、いずれも決定的な理由には至っていない。コモディティ産業の逆襲なのか、それとも一時的な現象なのかが明らかになるのは、まだ先のことである。
 ただここで問題なのは、貨幣的な問題か、実需的な問題かである。実需的な問題であれば、今後の経済に決定的な影響を与えることとなる。
 何れにしても、市場を制御する必要が高まることだけは確かである。

 これまで、コモディティ化した産業は、利幅が圧縮された上にコストの上昇に苦しめられる傾向にある。製造技術や販売技術が革新されつつある産業は良いが、技術が確立され、固定的になった産業は、利益が慢性的に圧迫されるようになる。その多くがコモディティ化した産業である。
 この様に成熟した市場は、成長期の市場とは違う政策が必要となる。
 また、市場が成熟化した産業には、旧産業や基幹産業に多い。故に、多くの旧産業、基幹産業の構造不況業種化してしまう。この様な産業はある程度、競争を抑止しする必要がある。
 さらに、金融機関の中でも、旧産業や基幹産業に依拠してきた銀行の衰退が取りざたされるようになる。
 元々、適正な利潤を上げる事が必要な条件なのであり、効率化も、合理化も手段に過ぎない。
 基幹産業や銀行のように国家経済の基礎となる産業が適正な利潤をあげられない様な状況が問題なのである。停滞していても、それが社会的に不可欠な産業であれば、適正な利潤をあげられる仕組みを構築しておく必要があるのである。それが構造経済である。

 飛行機の計器の動きが、空港に駐機されている時と、離陸し、上昇している時と違うというのは、明白なことである。それを異常だとする者が異常なのである。更に、計器の動きが違うとからとエネルギーの供給を断ったり、エンジンのスイッチを切ったり、高度を下げ、あるいは減速するのは狂気の沙汰である。
 しかし、経済になると経済学者も、経済官僚も、金融機関も同様の馬鹿げた行為をとる。巡航状態の時計器の動きが正常だとして離陸時も、着陸時も、同じ動きをするように操作すれば飛行機が墜落するのは目に見えている。

 同様に成長期の市場と成熟期の市場の制御の仕方はまったく異質なものなのである。大切なのは、市場の置かれている状況や段階を見抜くことである。そして、市場の仕組みがどの様に作用するかを理解する事が肝心なのである。

 成長段階の市場と成熟段階の市場が混在している状態が、常態だと思うべきなのである。それ故に、市場の状況や段階に応じて市場の構造や基準が変わるような仕組みが必要なのである。

 産業というのは、必要性から考えられるべきであり、成長性で判断すべきではない。根本は、国家構想であり、国家理念である。
 国内の産業を保護し、経済の安定を保つのは、国家の使命である。必要に応じて国家が、市場に介入するのは悪い事ではない。むしろ、市場が荒廃しているのに放置するのは、国家的犯罪である。

 神の手が原理的に働くほど、市場はフラットにできてはいない。神に市場の制御を委ねるべきではない。神の原理は、神の世界へ。人間の世界は、人間の責任よって、人間の手で築き上げていかなければならない。
 もはや、伝説や神話の時代ではないのである。また、市場は、神に委ねるには、あまりにも生臭い場所である。

市場の規模と経済構造


 サブプライム問題で顕在化した住宅問題というの本質は、住宅価格の問題なのか、住宅の供給量の問題なのか、住宅の生産量の問題なのか、住宅の在庫量の問題なのか、所得の問題、もっと突き詰めて言えば、所得格差が問題なのか、また、住宅ローンや証券化、金融工学といった金融の問題なのか、それともモラルハザードの問題なのかと問題点の背後は決して単純ではない。
 一つの要因を指して、これが、金融危機を起こした原因だと特定することは不可能である。なぜならば、先に挙げた要因全てが複雑に絡み合って金融危機を引き起こしたからである。

 ただこれだけは言える。サブプライム問題の根底には、住宅を買えない階層の問題がある。これは、所得格差の問題である。所得格差が解消されないと経済の抜本的な解決には結びつかない。なぜならば、住宅を購入できないと言う階層は、購買力、消費力を期待できないからである。住宅産業にとって「お客」様にはなりえない階層なのである。どんなに富裕層が増えてもその購買力には限りがあるのである。
 経済格差の弊害は、ただ社会正義という観点だけでなく、経済的意義においても購買力という基本な問題が隠されているという事を忘れてはならない。経済格差を生み出す仕組みこそが、金融危機を生み出す元凶だとも言えるのである。

 金融危機の震源地は、経済の基礎構造にある。経済の基礎構造が市場に現象として現れ、金融危機を引き起こしたのである。故に、金融危機の原因は、根深いものであり、経済構造の歪みを正さない限り、抜本的な解決は望めない。

 経済現象は、構造的な事象で、表面に現れている現象だけではその原因は、掴めない。例えば、2008年のリーマンショックに始まったとされる金融危機も実際は、もっとずっと以前に端を発している。極端な話し、市場経済、貨幣経済が成立した時点まで遡らなければならない。

 サブプライム問題の背景となった住宅バブル以前にITバブルの崩壊があり、その崩壊に対する処理として行われた金融緩和が住宅バブルの原因となったとされている。

 金融危機は、貨幣経済、市場経済を構成している基盤の構造上の問題とも言える。つまり、市場経済の土台の問題なのである。金融危機の芽は、市場経済が成立した時に組み込まれているとも言える。だからこそ、根が深いのである。

 市場経済が基盤になるにつれて市場規模の問題が重要になる。市場の規模はどの様にして決まり、どの様にして測定することが可能なのかである。
 市場と言っても市場には、貨幣的市場、人的市場、物的市場の三つの市場、即ち、場がある。そして、それぞれに一定の規模を持っている。この三つの場の働き、均衡によって経済現象は引き起こされる。
 経済現象は、三つの市場が均衡することによって安定する。ところが、三つの市場を構成する要素も目的も、支配する法則も、機能も全く違うものである。それぞれの市場は、お互いがリンクし、相互作用を及ぼす反面、独自の働きや運動をしているのである。

 物的市場が存在するためには、物的経済が前提となる。そして、市場が成立すると言う事は、内部経済と外部経済の存在が前提となる。経済の成立過程を考えると先ず内部経済が成立され、その後、外部経済が成立したと考えられる。内部経済と、外部経済を分けるのは、経済主体である。
 物的経済における内部経済は、生産と消費を基本とする。必要な者を必要な時に、必要なだけ生産する。それが、内部経済が成立したときの原則である。それが、農耕や遊牧が成立することによって備蓄ができるようになると生産と消費に保存が加わる。そして、保存が可能になると生活に計画性が生じる。そして、農耕民族には、定住が加わることになる。ただ、この時点でも自給自足が原則であり、外部経済は、成立していない。
 市場は、経済主体と外部との接触、交流があって始まる。市場経済が成立する以前の内部経済と外部経済の関係は、支配関係である。即ち、力による強奪関係と掠奪関係である。

 物的市場と同様、人的市場が成立するためには、人的経済が前提となる。
 人的経済における内部経済は、労働と分配が基本である。どれだけの人口が生産活動に参加することが可能か、どれだけの人口を養わなければならないのかが、人的経済を決定する要素である。
 どれだの人口を養うのか、その比率や分布の問題は、育児、養育、医療、介護の問題でもある。

 夫婦間というのは、金銭的契約関係で成り立っているわけではない。この様に経済主体内部の人的経済関係は、貨幣的関係と一線を画しておく必要がある。

 企業や政府では、組織の経済性の問題である。組織の経済というのは、人の経済である。人間関係に立脚した経済である。

 人的経済を決定する要因は、人口問題である。人口の増加率、そして、人口密度、人口構成が、重要になる。人口の増加率は、出生率と死亡率に関係する。人口の構成は、その経済主体の生産力と消費力に関係する。

 人的経済で重要なのは、労働人口、労働時間、労働環境と労働に対する評価の問題である。そして、労働の成果をどう生活主体に結び付けていくかの問題である。厚生の問題である。
 また、労働によって獲得した財を何に基づいてどの様に、何に基づいて分配するかの問題である。その際、交換手段である貨幣収入を担う人間に権力が集中する傾向が生じる。それをどの様に緩和するのかが重要な課題となる。貨幣収入を得るための労働だけが社会的労働の全てではない。
 つまり、非貨幣的労働に対する評価の問題である。特に、出産、育児、家事といった家内労働、消費労働をどう評価するかの問題である。
 出産というのを仕事と言うのに抵抗が生じるのは、出産を「お金」を得るための労働と同一視する事に語弊があるからである。つまり、出産をそれ程、神聖視してきたのである。ところが、近年、「お金」を得る労働に重きを置くようになってきたことから相対的に出産が軽視されるようになってきた。これは、人的経済から見て深刻な人口問題を引き起こしている。
 また、不労所得をどの様に扱うのかも重要となる。労働は、経済的価値を得る権利を形成する要素だからである。

 人的経済を成立させている要素は、労働の他に分配がある。
 分配には、第一に公の取り分、第二に、共同体の取り分、第三に、私的取り分がある。公の取り分というのは、金銭的に言えば、税金である。共同体の取り分というのは、家計、家族の取り分である。そして、私的取り分というのは個人の取り分である。この分配の仕方、仕組みが社会の構造、骨格を形成する。
 分配というのは、個人の側から見ると報酬である。経営主体からすると、賃金、給与の問題である。また、公の立場から見ると再分配の問題である。そして、それは、評価の問題でもある。
 分配と評価は、作用と反作用の関係にある。そして、労働と評価も作用反作用の関係にある。という事は、労働と分配は、評価の仕組みを通じて作用反作用の関係になる。
 そして、評価は、配分の問題である。配分の問題は、格差の問題である。そして、再分配は、格差の是正の問題である。
 公への配分は、公の費用の問題である。公の費用の問題は、公の役割の問題である。厚生と再分配の問題である。

 また、分配は、消費経済と直結している。故に、分配は消費の問題でもあるのである。

 そして、この物的要素と人的要素が経済主体の制約範囲を特定する。

 貨幣経済は、この物的経済と人的経済の成立の上に形成される。従属的経済である。故に、貨幣経済も従属的市場である。

 バブル崩壊に端を発する金融危機によって生じた不良債権の問題は、不良債権処理の問題ではなく。政策の不在の問題である。単に表面に現れた数字の問題と言うより、その背景にある国家思想、国家構想のが重要なのである。つまり、どの様な国にするのかを明らかにすることなのである。どの様な国にするのかという構想もないままに、公共事業を増加させたり、国債を発行することが問題なのである。そして、税金の無駄遣いとしか言えないような開発によって環境を破壊する愚を犯し続けていることが問題なのである。金の問題と言うより、それ以前の問題である。

 金融工学に対する間違った認識が定着してしまったきらいがある。金融工学というのは、投機の科学ではない。それに、金融市場にのみ限定的に捉えるべき工学ではない。物的市場、人的市場、貨幣的市場とを結び付ける空間にこそ金融工学は活かされるべきなのである。

 物的経済で重要なのは、生産と消費である。そして、人的経済で重要なのは、労働と分配である。これらを実現する場が経済主体である。つまり、企業であり、財政であり、家計である。これら経済主体にとって内部経済と外部経済との均衡を保つためには、収入と支出の均衡が前提となる。この収入と支出も物的収入と支出である。それを実現するために、貨幣的収入と支出が大切なのである。主たるは、物的な要素である。

 本来、人々の生活に必要な財があれば、経済は、成立するのである。つまり、経済の基盤を為すのは、人的、物的要素であり、金銭的要素ではない。それを忘れて、金銭の動きだけに囚われると経済の実相、また、貨幣の働きの意味を見失うことになる。
 経済は、物的、人的実体を基にして考えるべきであり、貨幣的現象は、その前提の上に考察されるべきなのである。

 物的市場を構成する要素は、物・財である。人的市場を構成する要素は人と関係である。貨幣的市場を構成する要素は、貨幣である。貨幣経済では、これらの市場を結び付けている媒体は貨幣である。或いは、貨幣の象徴される情報である。
 物的市場の目的や働きは、生産と消費、物流である。人的市場の目的や働きは、労働と配分である。貨幣的市場の目的や働きは、財の交換と循環、調整である。
 物的な市場は相場によって乱高下し、人的な市場は、固定的である。それに対して、通貨は、貨幣の運用上効率的な市場を求めて流れている。
 この様に物的市場、人的市場、貨幣的市場はそれぞれが構成する場の法則に従って独自の運動をする。独自の運動をするだけでなく、貨幣という媒体によって相互に結び付けられているのである。

 故に、経済を制御するためには、それぞれの市場の性格をよく理解した上で、市場前提が均衡するような施策を講じる必要がある。
 重要なのは、市場を構成する要素を生み出し、その働きを制御する仕組みと基盤である。財は、どの様にして生産され、運ばれ、消費されるのか。労働は、どの様にして生み出され労働の成果はどの様な仕組みによって配分されるのか。貨幣は、どの様にして成立し、何によって循環し、制御されるのかである。また、貨幣を成立させている要素は何なのかである。

 たとえば、インフレーションが好例である。

 インフレーションにも、通貨の量によって引き起こされるインフレーションと実体経済が引き起こすコストプッシュインフレーションがある。コストプッシュインフレーションにも、原材料などの実物が引き起こすインフレーションと人件費などの労働費用が引き起こすインフレーションの二種類がある。

 通貨の量が引き起こすインフレーションは、貨幣的市場の働きが物的な市場に影響を及ぼすことによって起こる現象であり、コストプッシュインフレーションは、原材料の上昇が貨幣価値を押し上げる現象である。

 市場の運動を理解するためには、市場全体の動きと市場を構成する要素、部分の動きを分けて考える必要がある。
 また、市場の運動を理解するためには、市場の規模を特定する必要がある。貨幣的市場、人的市場、物的市場は何によってその規模が測られるかが重要なのである。
 市場の動きは、変化である。市場の動きを理解するためには、変化、即ち、時間の概念を経済的価値に組み込む必要がある。

 経済の運動を理解するには、規模が拡大しているか。一定か。縮小しているのか。また、何によって変動しているのかが重要な鍵を握っているのである。

 市場の規模の拡大、縮小は、時間価値の上昇率の差によって測られる。
 時間価値とは、成長率、利子率、利益率、所得の上昇率、株価の上昇率、地価の上昇率などである。

 また同時に、何によってそれぞれの市場は接続、リンクしているかが、市場間の相互作業を解明する鍵を握っている。

 人的市場は、所得と消費によって形成される場である。故に、人的市場の規模は、所得によって測られる。

 所得と消費によって作られる場である。所得の源泉は、付加価値である。付加価値の中でも人的要素の基礎となるのは労働である。労働は雇用として顕在化する。
 消費の源泉は、生活水準である。故に、消費の規模は生活水準によって決まる。
 つまり、人的市場の規模は、失業率と生活水準と貯蓄率によって決まる。

 所得と消費は、収支の問題である。つまり、収入と支出である。収入と支出は、現在的貨幣価値の実現であるが、収入と支出の差は、貯蓄に廻される。貯蓄は、債権と債務を派生させる。
 預金や利益、負債は、時間と伴に累積する性格がある。

 預金は、運用を前提とした銀行の借入金、預金者の債権である。つまり、預金は、視点を変えると借入金である。

 貨幣的市場の規模は、債務の残高によって決まる。

 実物市場は、財の需給によって成り立っている。即ち、市場の規模は、財の需要量と供給量によって規制される。財の需要量の基となるのは、消費量であり、供給量の基となるのは、生産力である。故に、物的市場の規模は、消費量と生産力によって決まる。

 人的な市場の決定的な要素は人口である。人的市場の土台には、人口問題が隠されている。人口問題は、人口の構成によって形成される。人口構成は、人的市場の基盤を構成する要素なのである。

 人的市場において重要なのは、一人あたりの実質的所得と実質的生活水準である。それは、実際に供給される財の量と人口との関数で表される。

 人的市場は、所得と消費と貯蓄によって形成される場である。人的市場の規模は、所得と消費によって規定される。故に、人的市場の規模は、所得によって測られる。

 人的市場における貨幣の効用は、労働と分配を仲介することにある。その貨幣の働きが重要なのであり、その貨幣の働きを最大限に発揮させる仕組みを構築すべきにのである。

 所得とは何を担保としているかである。所得は、人的収入である。つまり、所得が担保しているのは、人的収入の源である。人的な収入というのは、最終的に人に帰属する収入をそして言う。属人的収入である。故に、企業も法人と見なす。人的な収入の源の最大の要素は、労働である。つまり、所得は、労働を一番多く担保している。
 人的市場では、労働を担保して資金が供給される。

 即ち、所得の問題は、労働の問題である。労働の何を評価し、それをどの様にして所得に結び付けるかの問題である。

 所得は、消費と貯蓄になる。消費の基盤は、生活である。生活は、家計に反映される。家計とは、実質的な生活水準に基づく。それは文化なのである。
 つまり、人的市場を左右する要素は、人々の価値観やライフスタイル、生活なのである。

 人々の消費性向を表す指標で代表的なものにエンゲル係数がある。家計の中に占める食料費によって生活実態を測る基準をエンゲル係数という。エンゲル係数は、経済の持つ意義の一面を表している。
 我々は、ただ、金銭的な面だけで経済を捉えるのではなく。物質的な面からも生活実態を捉える必要がある。経済の実相は、物質的、人的な物にある。貨幣役割は、本来、人の欲求と財とを仲介する事にあるのである。
 物と人との関係が見失われ、金銭的現象に拘泥してしまうと経済の実体は見えなくなってしまう。

 企業の重要な役割の一つに所得の平準化にある。所得の平準化とは、所得を定収入化する事である。収益には、波がある。その波に合わせると所得にも波が生じ、不安定なものになる。
 消費は、収入の範囲内で計画される。消費には、固定的な部分と変動的な部分がある。生活に必要な物、即ち、必需品の消費は、固定的である。必需品の物価は、生活水準の基盤を形成する。
 それに対し、変動的な部分の消費は、嗜好的である。嗜好品に必要な資金にも一定の波がある物とない物がある。それによって必要資金にも波がある物とない物がある。波のある物にも長期的な資金による物と短期的な資金による物とがある。前者の典型が住宅であり、後者の典型が衣服である。

 所得は、消費と貯蓄の和である。消費は、必要性と嗜好性によって決まる。将来に人々が不安を感じると嗜好的出費は、減少する。所得が一定ならば、その分、貯蓄が増える。貯蓄の多くは、銀行の預金や投資に向けられる。銀行の預金は、金融機関への貸付金であり、銀行に取っては借入金である。

 また、貯蓄は、借入は時間の関数でもある。つまり、貯蓄の量、その対極にある借入の量は、時間的に蓄積、堆積される。

 定収から固定的出費を引いたものが可処分所得であり、可処分所得の中から貯蓄に廻る所得の量が経済に重要な働きをする。

 家計は、安定を好む。出費は固定的だからである。つまり、費用は予測が可能で計画が立てやすい性格を持っている。

 定収を土台にして借金計画も立てやすい。借金とは、将来の収入を担保しているからである。

 経済的価値に時間軸を加え、一定の収入を確保する一方で借金の技術を開発し、購買力を増幅したのである。

 失業は、人的市場の縮小を意味する。つまり、人的市場が生み出す貨幣量を減少させる。また、所得の伸びの低下も同様に人的市場が生み出す貨幣価値の伸びを低下させる。
 もう一つ重要なのは、定収という前提を破綻させることである。それは、経済価値の時間軸を無効にしてしまうからである。

 失業の決定的な問題点は、分配機能を機能不全に陥れることである。所得が行き渡らなくなることで、分配構造が機能不全に陥ることで市場が機能しなくなるのである。
 だから、不況時に公共投資をする必要性が生じるのである。

 不況時における人的市場の問題は、労働と分配の問題ではあり、生産量や効率性の問題ではない。

 人的な市場の問題は、基本的には、人間関係の問題であり、貨幣、即ち、「お金」の問題ではない。ただ、貨幣を媒体にして人間関係が表現されるのである。つまり、個人の経済的権利が貨幣価値に還元されるのである。つまり、貨幣は、経済的権利を行使する手段に過ぎない。「お金」は、手段として重要なのである。

 実物市場で重要なのは構造的問題である。

 物的市場の根源は、生産と消費である。いかに効率よく生産し、消費するのかが物的市場の重要な課題である。。余剰な生産や無駄な消費は、物的な市場の効率を低下させるのである。この点を多くの経済学者は理解していない。ただ収益性や採算性だけで市場の効率を判断しようとする。物的市場において重要なのは、有限な資源をいかに有効に活用するかにあるのである。

 物的な市場においては、生産性がよく問題とされるが、生産性と同じくらいに重要なのが消費である。

 過剰生産、過剰消費による市場の飽和状態や消化不良状態が経済現象の下地を形成している。豊作貧乏、大漁貧乏という言葉もあるくらいである。この様な過剰生産や過剰消費の影響が経済現象を解析する上で、見落とされている場合が多い。そして、金融政策さえ施していれば経済的現象は解決できると、多くの為政者は、思い込んでいる風潮がある。しかし、経済の根本には、常に、物質的問題や人的問題が隠されているのである。

 物的市場は、複数の市場が複合的に、相互に関連しながら組合わさってできている。それぞれが固有の構造を持ち独自の運動をしている。

 財の生産力は、財固有の要素による。例えば、生鮮食料品は、天候や作柄に左右されるし、工業製品は、設備投資や在庫量に左右される。原材料、産地の政治状況に左右される。

 実物市場と貨幣的市場を結び付けているのは価格である。即ち、物価である。

 貨幣市場の特徴は、市場の内部を常に貨幣が循環している必要がある。つまり、流動性が重要だと言う事である。
 そして、貨幣の量と貨幣価値は相関関係にある。

 貨幣的市場は、貨幣が作り出す場であるから、貨幣価値の量が市場の規模を規定する。貨幣価値というのは、与信量でもある。与信量というのは、何を担保とするのかの問題でもある。
 債務というのは、何等かの債権を担保する。そして、その債務が貨幣価値を生み出すのである。つまり、貨幣価値は、債務を土台として成立する価値である。故に、貨幣価値の総量は、債務の残高である。
 かつては、金を担保したが、金以外でも土地や株を担保とする場合もある。例えば、石油や食料と言った物である。その様に貨幣の裏付けとなる担保として、よく活用されるのが、土地である。所謂、バブルというのは、地価の高騰によって引き起こされることが間々ある。それは、土地本位制度とも言える現象である。
 また、先物市場や証券の技術発達は、仮想的財を担保する事を可能とした。そのことによって貨幣価値が担保する物が実物から乖離し、逆に、実体経済に作用する傾向が出るようになった。先物や証券化は、レバレッジ効果を利用して実体的価値を増殖することを基本とする。
 つまり、実物市場の実力以上に貨幣価値が膨らませるのである。その結果、実物の貨幣価値の総量よりも市場の貨幣価値の総量の方が何倍も大きくなる。それがバブルと言われる現象である。バブルは、レバレッジ効果により、実体よりも過大に評価される事によって生じる現象であるから、バブルが弾けると信用収縮を伴うことになる。

 貨幣の問題は、実は、主として流動性の問題なのである。資金の流れる量と方向性の問題である。資金の流量が以上に増えると過剰流動性が生じる。
 2008年の金融危機の際、問題となったのは、短期金融市場に資金が供給されなくなり、資金の流れが停滞したことである。
 それ以前に過剰流動性が国際的に発生し、行き場を失った資金が地球規模で効率的な市場を求めて彷徨ったのが危機の前提的状況を形成した。
 過剰流動性というのは、いわば、資金の洪水のような物である。本来市場に染み込むはずの資金が何等かの理由で、市場の表面に溢れ出し、市場の表面にある構造物を破壊してしまうのである。

 資金は、優良な投資先を求めて流れる。しかし、市場が飽和状態になると貸し先として優良な投資先が見つかりにくくなる。
 その理由は、投資の性格による。産業は、初期投資が完了すると資金の回収と返済に向かうため、新たな資金需要は、上積みの資金投資か更新のための資金需要に限られるようになる。上積みというのは、追加的な投資による資金需要である。

 預金は、運用を前提とした銀行の借入金、預金者の債権である。つまり、預金は、視点を変えると借入金である。
 借りる人間がいるから貸す人間もいるのである。そして、それを仲介しているのが貨幣である。
 借り手がいて金貸しは成り立つ。借家人がいて大家は成り立つ。それを仲介するのがお金であり、それ故に、貨幣は生じたとも言える。
 お金が先か、借り手や金貸しが先かは、卵が先か鶏が先か喩えに似ている。

 資金の流れる方向と量、水準を制御する必要がある。
 乗数効果というのは、通貨の回転によってもたらされる効果である。つまり、通貨の回転を制御する事によってその効果は、ある程度、調節することが可能である。

 財の価格は、需要量と供給量によって調整される。故に、価格の問題は、財の需給の問題に還元される。
 財の需要量は、財の必要量と消費量に依拠し、供給量は、財の生産力と、在庫力、運送力に依拠する。そして、需給を制御するのは情報である。

 産業構造を解析する上で、重要なのは、情報の追跡性である。情報をどこまで辿れるかが重要になる。

 財の価格の変動には幾つかの形がある。
 価格は、財の生産量と消費量によって決まる。価格の変動要素は、産業の在り方によっても相違する。
 経済の変調の基準を名目的物価上昇率に求めると、名目的な物価変動と同じ動きをする財、実質的物価の変動と同じ動きをする財、名目的物価の変動に対して下落する財と上昇する財、乱高下する財、また、為替の変動に連動する財、原材料の変動に影響される財などがある。

 産業は合目的的であるのに、それが失われたのが問題なのである。
 産業には、個々の産業固有の目的がある。また、雇用の創出や経済の効率化と言った普遍的な目的がある。
 企業が果たす役割は、短期的な視点だけでは捉えきれない部分がある。

 不況時には、産業は、収益力が低下する。収益だけを問題にすると産業本来の目的が見失われる。例えば、雇用の創出や財の社会的効用というような部分である。
 そして、産業本来の目的とは無関係に資金の供給が止められてしまう。その結果、経済の働きが停止してしまうのである。
 問題は、産業の収益力が低下した原因であって、結果ではない。金融機関に求められる働きは、不況時に資金の流れを停止することではなく。逆に円滑化することなのである。それが金融産業が持つ本来の目的である。

 不況時にこそ 雇用と新規投資が必要とされるのである。

 産業革命以降の生産技術の発達に伴い物不足、特に、食糧不足によるインフレーションというのは顕在化しなくなり、インフレーションやデフレーションと言った経済現象は、専ら貨幣の振る舞いによってのみ起こると考えられるようになった。確かに、貨幣経済上に現れる経済現象は、貨幣の振る舞いに他ならない。しかし、それは貨幣経済上に現れる現象だからであり、その様な経済現象を引き起こす原因は、物不足や人口の問題が隠されている。

 所得が平準化されると所得は、下方硬直的になる。それに対し投資と消費には、所得と投資、消費の差は、預金に廻る。
 預金は、金融機関の債務となる。預金は、銀行にとって運用を前提とした借入である。投資や消費が減少すると金融機関の借入が増加する反面、貸出先が減少する。
 銀行は、優良な貸出先を求めるが、実物市場が飽和状態になると上積みの資金需要か更新の資金需要しか期待できなくなる。
 そうなると、資金は、金融市場で自己増殖せざるをえなくなる。余剰資金が金融市場に溢れることになる。それが過剰流動性であり、過剰流動性は、実体のない投資であるからバブルを生み出す原因となる。

 バブルによって生じた債務の総和は、名目的貨幣価値の総和と一致する。バブルが発生するのは、一つの市場に限定されているとは限らない。一般に、バブルは、複数の市場で、同時に起こることが知られている。例えば、日本のバブルは、不動産市場と資本市場で同時に発生している。一つのバブルが弾けても名目的な価値が減少しない限り、即ち、債務の総和が減少しない限り、市場全体の債務は残存するのである。

 バブルが崩壊すると残されるのは、過剰債務の問題である。なぜ、過剰債務の問題が残されるのかというと、債務が名目的な価値だからである。バブルが崩壊すると言ってもそれは、実体経済が本来の価値を取り戻す過程で生じることである。故に、実物市場は急激に冷え込むことがある。しかし、名目的な価値である債務は、その額面、即ち、名目的な価値は残される。債務は、紙幣の裏付けである。つまり、貨幣の供給量は、急速に減少するのではなく、緩慢に減少する。この実質的価値と名目的価値の動きの差が経済にいろいろな障害を引き起こすのである。

 資産、負債、資本、収益、費用の中で、最も名目的な価値が確実なのは、負債である。故に、会計的発想は、負債を梃子にしてなされる場合が多い。
 不良債権というのは、実体は、不良債務の問題なのである。

 バブルで問題なのは、実物市場から資金が閉め出されていることである。例えば、地価の異常な高騰によって投機目的の住宅が、実際に住むための住宅に向かう資金を閉め出してしまうことである。その為に、バブル崩壊後は、ゴーストタウンのような高級住宅街が乱立することになる。

 現代人は、「お金」の価値、貨幣価値に関して幻想を抱いている。高額な物は何か高級な物と勘違いをしたり、高給を取っているだけで、人間も偉大であるかのように錯覚をしている。しかし、実際の価値は、物そのものにある。所得の多寡で人格を判断するのは愚かなことである。その人の人格は、その人自体にある。その人の収入高にあるわけではない。何が上等で、何が、下等なのかは、そのもの自体の価値を見極める目を研ぎ澄ます以外にない。ところが、現代人は、いつの間にか貨幣価値で物の価値を測るように慣らされてしまった。

 衣服にしても、現代は、高価なブランド物が流行っているが、高価なブランドが高品質を保証していると思い込んでいるに過ぎない。つまり、現代人の多くは、品質に価値を見出しているのではなく。価格に価値を見出しているのである。

 経済上に現れてくる貨幣価値の総量は、巨額なものである。数字によって表された社会的価値の総量に幻惑されるが、それでは、自分達一人一人の生活実感から推し量って世の中の価値はそれほど増えたと言えるであろうか。それ以上に現代人が失った物の価値の方がどれ程大きいことか、思い起こす必要がある。

 我々の生活水準が向上しているといえるか、どうかは、多分に主観的な問題である。

 例えば、住宅の問題が典型である。現代人の住環境は、確かに一定時期まで改善されてきたように思える。しかし、敷地面積や床面積、通勤距離、居住性、地域、環境など総合的に見て改善されていると言えるであろうか。単に、価格だけでは、住環境が改善されたとは言えない。高額な住宅が高級だとは限らないのである。

 単純に貨幣価値に現れる生活水準だけでなく、物質的な意味での生活水準も検証する必要がある。物質的な生活水準こそ実質的な生活水準である。
 我々は、今の生活水準、テレビがある、電話がある、自動車があると言った生活水準を当たり前なものとして受け容れている。しかし、それは、産業革命という生産革命を前提として成り立っていることを忘れてはならない。経済はいずれは、物質的限界の上に成り立っているのである。

 実際の経済は、「お金」が中心で廻っているわけではない。お金はあくまでも媒体に過ぎない。経済の実態は、物と人にある。それを繋げるのが貨幣、即ち、「お金」の役割である。「お金」は、常に脇役、従でなければならないのである。ところがいつの間にか「お金」が主役になってしまった。「お金」が主役を演じるようになったあたりから経済は、おかしな動きをするようになったのである。
 
 戦後の日本人は、物の溢れた世界で育っている。故に、物不足を経験していない。しかし、太平洋戦争の終戦長後は、大変な物不足に陥った。そして、インフレーションに襲われたのである。
 現実の経済というのは、人と物の関係から生じる。現実の人と物の関係から経済現象が乖離してしまうと貨幣経済体制下では経済が制御できなくなるのである。

 人口問題の本質は、人間にある。エネルギー問題の本質はエネルギーにある。資源問題は資源にある。食糧問題は食糧事情が問題なのである。環境問題は、環境をよくしないと片付かない。本来、「お金」の問題ではないのである。それが経済の実相である。
 それをお金の問題だと片付けてしまったら、問題の抜本的な解決はできない。金の問題は、その実体を反映することによって生じるのである。「お金」が全てだと捉えたらお終いである。
 市場の効率とは、必要な物を必要なだけ生産し、必要なところに必要な時に配分する事を意味する。ただ生産性を高めればいいと言うわけではない。大量生産、大量消費社会は、その根本を忘れている。

 経済性という言葉の意味には、たくさんの意味が含まれている。経済的という場合、物的な意味では、いかに無駄を省き効率よく物を活用することである。節約、倹約こそ経済的なのである。それに対し、貨幣的市場では、いかに多くの利益を上げる事が経済的という意味になる。消費は美徳であり、浪費だとしたも大量に消費することが効率的なのである。人的な意味では、経済的というと効率よく多くの所得を得ることである。

 経済の根本は、生産力と、人口構成と、債務残高にある。この三つの要素が経済現象の鍵を握っている。
 自動車の製造技術と言った何等かの生産手段が開発されると産業が興り、そのお陰で仕事が増え、人口に影響する。それでも大規模な産業を興すためには、先行投資を必要とするが、貨幣経済の発展がそれを可能としたのである。先行投資とは、貨幣的観点から見ると債務である。

 突き詰めてみると経済性というのは、いかに効率よく生産し、消費し、分配するのかに尽きるのである。

 金儲けだけが主になったら、市場が金儲けだけに特化したら、その時、貨幣経済も、市場経済も終焉してしまう。
 「お金」は、食べ物があって、尚かつ、おなかがすいた人、食べ物を必要とする人がいるから成り立つのである。お金だけでは飢えは凌げない。「お金」を食べて生きていくわけにはいかないのである。

参考
「10万年の世界経済史」上・下著 グレゴリー・クラーク 訳 久保恵美子 日経BP社

市場の終焉


 寡占、独占は、市場の終焉を意味する。つまり、寡占、独占状態は、市場を機能させなくなるからである。しかし、市場は、放置すれば、寡占、独占状態に向かう。なぜならば、寡占、独占は、市場における定常状態だからである。しかし、それは、市場の活力が失われ、活動が停止することを意味する。故に、市場は、構造的に、制御されなければならない。

 市場の終焉が意味するところは、機構の際限のない巨大化と、階級的格差、身分的格差の成立である。組織は、垂直的に、水平的な拡大していくことであろう。人々は、実力や実績によって評価されるのではなく。家柄や出自、財産によって評価され、差別されるようになるであろう。組織から、合理性も効率性も失われる。官僚制の始まりである。傲慢と非効率に支配されるであろう。全体主義、独裁主義、統一主義に支配されてしまう。
 それは、成長や発展、変革の終焉でもある。また、多様性の終焉でもある。自由の終焉でもある。つまり、独占は単一化の象徴でもある。

 市場の終焉は、水平的な競争による調整を機能不全にし、その結果、垂直的対立を引き起こす。それは、社会に決定的な階層的亀裂を入れる。結果的に、階級的対立を引き起こし、資本家も危機に陥る。

 寡占、独占は、資本家にとっても自殺行為であり、また、地方経済を枯らす災難である。
 単一な世界は、相互牽制作用が効かない。それは、組織の自律的機能を損なうことになる。自律的機能を喪失した組織は、自壊する。寡占・独占状態に陥った産業は、自壊していくのである。

 バブル崩壊後、金融不安と言い、競争の原理だと言い、業界再編となり、混乱に、混乱を重ねて気がついてみたら、寡占、独占状態となっている。だとしたら、競争原理、競争原理と市場を煽り続けてきた連中は何だったんだという事になる。競争を絶対の原理のごとく言いながら、結果的には、競争の原理が働かなくなる状態、寡占、独占状態を招いてしまった。市場原理主義者は、独占、寡占状態にするために、競争を煽ってきたのではないのかと勘ぐりたくもなる。

 市場経済は、市場を絶対視したとき破綻する。なぜならば、市場は、意識による所産であり、本来、相対的な仕組みなのである。

 生産手段もある。生産量もある。働き手もいる。なのに、必要な財が社会全般に行き渡らなくなり、貧困や飢餓が生じる。これは、市場と言うよりも分配の問題なのである。つまり、分配の仕組みが有効に機能しなくなっているのである。市場は、その分配の仕組みの部分に過ぎない。むろん、一部分が機能しなくなり、その結果、全体が上手く機能しなくなるという事もある。しかし、それでも全体の問題を無視することは出来ない。
 全体の問題とは、分配の問題である。そして、労働の問題である。

 市場経済を成立するための、重大な要素は、所得である。所得とは、収入である。収入は、現金によって支払われる。現金というのは、現在の貨幣価値である。現在の貨幣価値というのは、その時点、その時点での貨幣価値を示す。つまり、不変的価値ではなく。相対的価値である。ここで生まれた貨幣が分配機能の仲立ち、仲介をする。つまり、貨幣が万遍なく行き渡っていないと市場は機能しないのである。
 所得は、労働によってもたらされる。故に、労働を創出すると、同時に、それに相当する貨幣、即ち、紙幣を用意する必要がある。紙幣は、債権と、債務を生み出すのである。そして、債務が、信用制度の土台を形成する。
 問題は、貨幣の供給と制御なのである。市場が機能しなくなったのは、市場に問題があるのではなく、エネルギーが欠乏していることにある。つまり、いかにして、エネルギーを市場に供給するかの問題なのである。

 所得とは、貨幣の獲得である。それは、購買する権利を獲得することであり、基本的には現金で為される。現金とは、現在の貨幣価値を現した物である。現在の貨幣価値とは、その時点、時点の価値と言う事である。貨幣は、権利を行使する事によってはじめ価値が発揮される。
 
 所得は、現金で支払われる。現金は、その時点、その時点の貨幣価値である。つまり、市場で、同額の価値を持つ財と交換できる権利である。つまり、現金というのは、ある種の債権である。その効果は、市場において権利を行使した時に実現する。つまり、実際は、行使した時点の価値を意味する。その時点、時点というのは、そう言う意味である。
 しかし、現金で示される価値は、その時点、時点における額面が指し示している財である。しかし、財の価値は一定ではない。現金の裏付けとなった債権、そして、債務の価値は、それぞれ、固有の変化をする。この変化が、利益の素となるのである。

 ここで考えなければならないのは市場を構成する要素である。つまり、市場は、財と財とを交換する場である。その媒介をするのが貨幣である。貨幣経済下では、市場は、物々交換の場ではない。つまり、貨幣が仲立ちをするのである。この媒介物である貨幣が交換に必要なだけ、市場に流通していることが前提となる。
 貨幣を市場に流通する手段は、所得である。つまり、所得を通じて貨幣は、市場に流通する。一定量の貨幣を流通させるためには、所得がなければならない。

 もう一つ重要なのは、貨幣、固有の性格である。貨幣、特に、紙幣は、それが成立する時点で債権と債務を発生させる。貨幣の債務とは、公的な債務である。公的な債務は、貨幣の信用の裏付けを意味する。即ち、与信である。

 典型的なのは公共事業である。公共事業は、国家の債務を増加させる。それは、返済されない限り、累積される。国家債務の原資は、国家の所得である。最大のものは、税である。税収に代表される国家の所得で賄えなければ、国家債務は増え続けることを意味する。

 借金も収入なのである。借金をし続けることが出来たら、経営は、破綻しない。リーマン・ブラザースも、山一証券も借金が出来なくなったから、破綻したのである。それは国家も同じである。しかし、国家債務の増加は、貨幣の流通量の増加も意味する。それは、貨幣価値の信認の低下も意味する。それは、インフレーションという現象として現れる。

 インフレーションもデフレーションも根底には、債務問題が横たわっている。

 自由経済は、借金の技術の発展によって支えられてきたと言える。その陰で金貸し、即ち、金融機関が発達してきたのである。

 貯蓄と言い、預金であると言うが、それが反面、金融機関への貸付であることを忘れてはならない。

 金融市場というのは、債務を膨らませながら、拡大していくのである。そのことの持つ意味、働きをよく考えないと金融市場の在り方は、判断できない。金融市場を野放しにすることほど危険なことはないのである。

 企業経営も債務を増やしながら、成長するのである。資産、即ち、債権と債務が均衡しているときは、企業経営も市場も安定が保たれている。この均衡が崩れると、市場も経営も流動的になるのである。相互抑制が効かなくなり、制御が出来なくなる。
 債務が梃子となって上げが上げを呼び、下げが下げを呼ぶ仕組みが、市場内部でも企業内部でも働くのである。
 市場では、価格が上昇することによって担保価値に余裕が出来る。価格が、下落することによって担保価値が不足する。その余裕がある一定の水準を超えると、上昇が始まり。一定の水準を超えると下落に転じる。同様の働きが企業内部でも働く。

 この様に、貨幣経済は、債務を土台として成り立っている。(この場合、貨幣経済と言うよりも紙幣経済と言った方が妥当かも知れない。)そして、現在市場で起こっている現象の多くは、貨幣的な現象だと言う事である。

 債務を土台にした信用制度の上に、貨幣経済も市場経済も立脚している。それが現在の資本主義の行く末を暗示している。我々が取り組まなければならないのは、この事実の上に立って、いかに、利子と利潤と所得を確保し続けるかである。そして、いかにして、利子と利潤と所得を生み出し続けられる仕組みを構築するかである。

 レパレッジとは梃子のことであるが、レパレッジ効果は、上昇局面だけでなく、下降局面においても働くのである。
 レバレッジ効果によって巨額の資金を得たとしても結局それと同じだけの債務が発生していることを忘れてはならない。また、相場と言っても、所詮、市場の範囲内でしか取引は出来ない。巨額の資金を動かし、市場を支配し、操ったつもりになっても、市場を機能不全に陥らせただけに過ぎないのである。
 畢竟、市場占有率の問題に還元される。市場をある一定以上占有すると自分の存在によって、自分が規制されてしまう。自殺行為である。

 債務を膨らませて利益を上げるのは、巨大な風船の上に乗っているようなものである。いくら資産価値があるといっても、それは仮想的に作られた価値である。売れば萎んでしまうのである。買えば膨らみ、売れば萎む。買い出せば、買い続けなければならない。借りたら、借り続けなければならない。それが買わんが為に買う。借りんが為に借りるという事である。そして、必要な金は、借りた物を転用する以外になくなる。

 現在、経済上の判断の多くは、善か悪かではない。是か非かでもない。皆が同じ方向に走っているかである。例え、それが犯罪行為に近いとしても、また、危険な賭だとしても、とりあえずは、皆が走っている方向に走れば間違いがないのである。しかし、その暴走が、時として市場の構造を破壊してしまうことがある。

 なぜ、是々非々の判断が下せなくなるのか。何よりも時間が与えられていないのである。目まぐるしく変化し続ける状況や環境に対し、瞬時に判断をすることが要求される。つまり、変化なのである。それは時間である。一刻一刻が価値を持つようになってから余裕がなくなってしまったのである。そして、とにもかくにも時間的価値に見合うだけの利潤をあげることが要求されることになる。良いか、悪いかなど、かまっている暇はないのである。

 債権は、債務を、債務は債権を常に引きずっているのである。そして、両者の相互牽制によって一方向的な運動を抑制しているのである。例えば、無制限な成長のような・・・。
 市場は市場の範囲内でしか活動できない。仮に、金融市場を支配するような圧倒的な資金力を持った者が出てきたとしても、市場の範囲を越えることは不可能なのである。即ち、それは、結局、市場占有率の問題になる。そして、市場の占有率が高くなればなるほど、市場の機能は低下し、市場を支配しようとした者は、所与の目的を達成することが出来なくなる。結局、強味であるはずの資金力が破滅に導くのである。

 相場が上昇するのは、相場自身の論理、力関係によっててである。ファンダメンタルがどうのこうの言っても現実の方がずっと説得力がある。上がるはずがないと言っても上がっているし、下がるはずがないと言っても下がるのである。相場にあり得ないという事はない。あるのは、歴とした事実である。

 市場の独占もまた然りである。市場を独占することは、市場を自由に出来ることを意味するのではなく。市場を機能不全に陥らせているだけなのである。重要なことは、我々は、市場に何を期待しているか。ありていに言えば、我々は、市場をどうしたいのか。どの様な働きを期待しているかが一番重要なのである。

 そして、独占が市場経済にとどめを刺すのは、経済的な動機によってではなく。権力欲によってである。それは、資本主義や自由主義という主義主張ではなく。全くの欲望、それも古典的な独占欲によってである。だからこそ、独占は、市場を独占した者をも破滅させてしまうのである。

 成長を促す働きは、衰退を促す働きでもあるのである。成功の要因は、敗因でもある。市場を活性化する競争は、市場の終焉をもたらす競争でもあるのである。

 私は、国際的に市場が寡占、独占状態になりつつあるのを危惧する。それは、市場経済にとどめを刺すことになるであろう。そして、それは、かつて、マルクスが予言したように資本家にもとどめを刺すことを意味する。それはまた、資本主義の終焉でもある。

 計画経済の計画とは何を指すのか。生産や消費を計画することを意味するのか。それとも仕組みや制度を計画的に建設することを意味するのか。そこに誤解がある。市場を計画的に築いたからと言って市場の自由な活動を阻害したり、否定したりはしない。つまり、市場と計画は本来両立するものなのである。
 同様なことは規制にも言える。ルールがあってスポーツが成立するように、規制こそが市場を成立させているのであり、規制をなくすことは、市場を破壊することである。
 むしろ、無計画こそ、無原則こそ、無規制こそ市場を終焉させてしまう。

 かつて、宗教裁判にかけられた多くの科学者は、神を否定したわけではなく。むしろ、信仰に基づいて自然の摂理を探求したのである。市場の摂理を探求する者は、市場を否定しているわけではない。現代の宗教裁判は、市場と神とを同一している。だからこそ原理主義と言われるのである。

 市場は、神が創られた仕組みではない。人間が作り上げた仕組みである。市場が上手く機能しないからと言って神を呪うのはお門違いである。市場の出来事は、人間が全て責任を負うべき事なのである。
 神のものは神へ。人間のものは人間へ。

構造経済への道


 なぜ、景気が良くならないのか。それは、企業が利益を上げられないからである。利益を上げられない仕組みになっているからである。
 赤字なのは、企業だけではなく。国家も家計も赤字である。極めて経済は、不健全な状態にある。そして、国も、家計も、企業も、借金漬けになっている。なぜ、企業も、国家も、家計も、赤字なのか。それは、国家や、家計、企業の問題と言うよりも、仕組みの問題である。しかも、国家も、家計も、企業も、借金を背負っている。赤字で、借金漬けと言う事が問題なのである。
 このまま放置すれば、確実に、自由経済は、環境問題やエネルギー問題を置き土産にして瓦解する。それは、資本主義か悪いと言うより、市場を否定しているからである。
 我々は、市場の恩恵に浴しながら、市場をあまりにも粗略に扱ってきた。その報いが今日、廻ってきたのである。

 市場経済が本来の機能を発揮するためには、経済を構造化する必要がある。それが構造経済である。
 構造経済の手本がないわけではない。それは、プロスポーツリーグである。
 我々が、選択すべき方向性は、NFL(プロフットボール)なのか、MBL(プロ野球大リーグ)なのかである。MBLはかつて、ほとんどの球団が赤字に陥って苦しんでいた。今は、多くの球団が黒字化している。過去と現在とはどこに違いがあるのか。それは、仕組み、構造の問題である。NFLは、アメリカが、生み出した、芸術的とも言える経済システムである。
 自由放任というのは、市場を放置することである。逆に、統制、計画というのは、市場を否定する事である。
 市場を放置しておくと、寡占、独占状態に陥る。寡占、独占は、市場の終焉である。市場は、人為的な仕組みである。精緻に機構によって維持されていまある。市場を自然状態に放置すると言う事は、市場の制御を放棄することである。
 逆に、市場を統制すれば、市場の機能が働かなくなる。
 市場は、保護されるべきであり、その為に、規制されるべきであり、制御されるべきなのである。ただし、それは、仕組みによってである。直接統制されたり、干渉するものではない。

 ある意味で株式会社というのは、収支の合わない企業が資金を調達する目的で発案された仕組み、制度であるともいえる。それを補完するために、会計制度が確立された。

 初期投資が巨額になると収支が合わなくなってきたので、近代会計学によって期間損益を確立する必要ができてきた。それ故に、最初は、一定の間隔における財産状態を比較することに重点が置かれた。

 初期投資と運転資金、清算利益と期間利益の分離、それが、会計の当初の目論見である。
 しかし、それでは、期間損益を分析する事ができないのである。財産比較から損益を重点とした動態論に比重が移ってきた。
 ところが、時間的価値によって所得、物価、利子に基づく費用が増大するのに対し、市場の過飽和や過当競争、国際環境の変動と言った要因によって収益が圧迫され、期間損益が均衡、即ち、利益が上がらなくなると、再び、貸借によって利益を上げざるを得なくなり、会計制度が見直された。つまり、会計を通じて利益を捻出することを画策する。
 企業は、利益が上がらなくなると会計処理に活路を見出そうとした。そして、会計処理は、損益から貸借へと比重を移したのである。その過程で企業の分割、グループ化が進む。
 大手企業と中小企業の決定的な違いは、会計的な操作によって利益を生む出すだけの技術も原資も大手企業に対し、中小企業は不足していることである。
 会計処理よって利益を捻出するという事は、資産の活用を意味する。しかし、資産を活用しても損益から収益が見込めなくなる債務の圧力が企業経営を圧迫するようになる。
 収益が圧迫されると、実物資産も目減りすると同時に債務だけが増殖する。そうなると金融機関は、流動性の高い、貨幣性資産を重視する方向に傾く。
 また、実物資産は、埋没してしまうと、債務しか残らなくなる。
 債務が圧迫される事によって金融技術の発達と資本効率、活用を促す。
 実物資産は、実体経済の影響を受けやすいが、金融資産は、金融市場で操作しやすく、安直に利益を創作しやすいからである。
 実物経済は、利益を上げない限り、資金調達の名分がない。そうなると実物資産は、表だって資金を調達する理由にならなくなるからである。
 しかし、それは、一方で債務の自己増殖を促すことになる。そして、債務の増大は、現金の働きを阻害するようになる。つまり、従来の貨幣以外の貨幣代用物の横行を許すことになるからである。そして、現金によって債務は抑制される。故に、資金管理が重要となり、収支の流れを明らかにする必要が生じたのである。それがキャッシュフローである。
 また、金融機関は、何も生み出さない。それは、実物経済の衰退をも結果的には招く。

 現代企業というのは、根本的に期間損益を土台にしてその働きが発揮されてきた。そして、その期間損益の潜在的な活力が貸借、特に、土地による担保力なのである。また、企業経営は、債務を前提としている。債務の形態が負債と資本なのである。

 債権価格の水準が高い時は、いろいろな運用ができる。しかし、債権は、実需と結びついている。また、企業収益に結びつかないと債権を運用しても意味がない。問題はそこにあるのである。結局、流動性の高い金融債権に重点が置かれる。あるいは、不動産などは、証券化して流動性を高める動きが活発化する。

 不動産のような実物も証券化されることによって金融資産化されると実物資産から、貨幣価値が乖離し、失われていく。実物市場が衰退し、金融市場に従属するようになる。結果、金融機関だけが生き残ることになる。しかし、金融機関は、それ自体では何も生み出さないのである。それは、虚構である。悪い冗談である。

 最後は、資本をいじくることである。そこでM&Aが盛んになる。また、株の時価総額を高める操作が活発となる。

 ITバブルなど典型である。たかだか十億か、二十億しか収益のない企業がその数倍、数十倍の資本を集めてしまう。そうなると、事業収益などそっちのけで、資本価値を高めようと画策する。

 株価というのは、過去の実績に基づくのか。それとも、将来性を評価したものなのか。古典的な企業は、実質的な資産、含み益を持っている資産を多く持っている。しかし、それらは未実現利益であり、資金の流失を伴う物ならば、表に出せない。反対に、将来の資産は、何とでも創作できるのである。しかも理論的にである。過去の実績は隠しようもないが、企業の将来性など何とでも描ける。
 
 奢れる者久しからずと言うが、経済が破綻する直前、不思議と人間は、躁状態になり、お祭り騒ぎが往々にして始まる。その宴がたけなわな時に突然破局が訪れる。

 計画が悪いと言うが、それは、計画と言う事に、錯覚があるからである。計画というのは、経済活動を直接計画することを意味するのではない。市場の仕組みを計画的に構築し、制御する事を意味するのである。
 保護主義にも誤解がある。特定の産業や企業を保護するのではなく。市場を保護することなのである。
 また、関税障壁のような壁を設けて市場を囲い込むことではない。例えば、石油価格や為替の変動から市場を保護することなのである。
 市場価格の水準や為替の水準といった外的要因の水準の急激な変化から市場を保護したり、また、所得水準や物価水準の違い、格差から市場を保護することを言うのである。自由貿易を維持するためにも市場の保護装置は不可欠なのである。
 その為には、先ずどの様な経済状態にしたいのか。望んでいるのかの構想が必要となる。それは、地域社会の在り方に対する考え方が土台になる。

 今、経済に必要なのは、スポンサーでも、統制者でもなく。審判であり、守護者である。
 問題は能力にあるわけではない。仕組みにある。アメリカの実力云々という話があるが、能力の問題ではない。仕組み、即ち構造の問題である。市場の構造、産業の構造の問題である。今でも、アメリカの産業や実力は世界一である。また、世界がアメリカの能力に依存しているのも事実である。これは、能力の問題ではなく。仕組みの問題なのである。いくら、有能なパイロットでも飛行機が壊れていたら、操縦は不能なのである。
 アメリカのことをとやかく言う前に、このままで行けば、日本経済は、確実に衰退する。それは、日本経済が、寡占状態に陥ってきたからである。競争の原理が働かなくなってきたからである。
 オーバーバンキングとか、オーバーカンパニーが問題にされるが、実際は、日本経済の活力は、狭い市場に複数の企業がひしめき合っていたことにある。つまり、オーバーカンパニーが悪いわけではなかったのである。オーバーカンパニー、オーバーバンクでも、個々の企業が、収益が上がっていれば問題ないのである。銀行も、多くの銀行が、それぞれの役割を担って市場を形成していた。ただ、それでも市場が飽和状態になると収益が頭打ちになる。
 そこへ、石油ショックや円高が襲いかかり、企業は、財テクによって企業防衛を計った。その結果、不動産市場と株市場にバブル経済が発生し、また、弾けたのである。
 問題は、収益が上がらないあげられない仕組みなのである。それは、貨幣制度、そして、債権と債務の絡繰りの中に隠されている。
 日本経済の活力は、狭い市場の中に多くの企業がひしめき合いながら、経営してきたことである。
 そして、中小企業の存在である。これらの要素が、経済の活況を支えてきたのである。
 規制緩和の流れと競争原理がその二つの要素を破綻させてしまった。故に、日本経済は、放置すれば確実に衰退する。
 特に、中小企業の役割こそ見直すべきなのである。中小企業は、単に、経済的な意味だけでなく。政治的、文化的な意味でも重要な役割を果たしてきた。

 勘違いしてはならない。生産性や効率性が問題なのではない。企業が利益を上げられないことが問題なのである。生産性や効率性の向上も企業が成り立つための手段である。何が原因で企業が利益を上げられなのかを問題にすべきなのである。

 多くの人は、企業が利益を上げることは罪悪であるような捉え方をする。確かに、過剰なあるいは不当な利益は、罪悪である。しかし、正当な利益は、罪悪視すべき事ではない。

 この事は、家計についても言える。
 現在の家計は、借金を下地に成り立っている。つまり、債務の水準が基礎にある。この債務の水準と所得の水準が逆転したら、家計は一瞬にして破綻する。そう言う構造になっているのである。借金、即ち、債務の水準抜きに経済構造は語れないのである。

 借金というのは、ある意味で費用の平準化を意味するのである。時間的標準化である。この事で、支出は、一次元的な物から二次元的、三次元的なものに変質した。つまり、費用が、点から平面的、あるいは、立体的なものになったのである。

 現代人の生活は、借金の上に成り立っていることを忘れてはならない。つまり、家計は、借金抜きには語れないのである。収入と支出だけで現代人の生活は成り立っているわけではない。
 一時的な収支では成り立たなくなったから、費用の繰延、後払い、つまり、借金の技術が発達したのである。その極致が証券化である。
 借金というのは、謂うならば、後払いである。つまり、後払いの仕組みが出来上がったことによって現代の生活水準は維持されているのである。
 かつては、先払いが原則であった。故に、資産、財産を所有することは、経済力を示したのである。資金がなくなれば、財産を得れば良かったのである。
 預金や貯金の意味も目的があったものであった。ところが借金が後払いになったことで、預金や貯金の持つ意味が薄れ、現金の方を重視する傾向がでてきたのである。将来の出費よりも今あるだけの現金を使ってしまう。また、現金がなければ借金をすれば良いという安直な考えが支配したのである。
 今日、資産、財産を所有することは、その人の経済力を示すとは限らない。むしろ、借金をする能力を意味するのである。故に、財産は、所有することに意味がなくなった。つまり、資産は、常に、背景として債務を持っているのである。
 借金というのは、後払いである。債務である。故に、月々の返済が伴う。そして、徐々に蓄積していく。そうすると可処分所得が目減りするのである。
 一度、借金をすると家計は固定的費用の影響から逃れられなくなる。月々の返済額が生活を徐々に圧迫するようになる。生活は荒(すさ)み。考え方も刹那的になる。道心、モラルの崩壊である。

 家計は、所得と消費、貯蓄からなる。これは、収入と支出を意味する。所得は、生計の基礎となり、消費は、物価の関数である。
 
 家計を構成する財には、不動産のような財産、そして、家具、家電製品、自動車のような、それから、衣服のような消耗品と食料、光熱費のような消費財がある。そして、それぞれ、償却時間が違う。

 故に、所得水準と物価水準は、生活水準に関係してくる。生活水準こそ、市場の規模を決定付ける最大の要因である。この生活水準が虚構だと景気は安定しない。

 物価は、変動的な物と固定的な物がある。変動的な物には、上昇する物と下降する物、相場による物がある。また、物価は、幾つかの要素の関数である。例えば、ガソリンは、原油価格と為替と精製費用の関数である。この様に為替や原油価格に連動した物と連動していない物とでは、物価の動きが違うのは自明な事である。
 故に、物価を一律に考えていたら、経済の構造は見えてこない。

 また、給与所得というのは、一定の制約の範囲中にある。それに対し、物価の変動は、制約に囚われない。物価は変動的費用である。つまり、固定的収入によって変動的支出を制御しなければならないのである。しかも、変動的費用である物価は、予測ができない。それは、ストレスになる。

 経営や家計にとって収益構造は、固定的な方が良いか、変動的な方が良いかというと、固定的な方が良い。なぜならば、固定的な方が予測がつくからである。
 固定的とは言わないまでも、変動する部分がある程度、特定できれば、それにこしたことはない。

 収益構造が流動的にならざるをえないのに、借金が家計や国家や企業から資金を固定的にしてしまっている。

 市場経済を前提とするならば、市場取引に参加するものが利益を得られるようにしなければならない。市場取引に参加するものが利益を得られるような市場の仕組み、環境を整備する必要がある。それが市場経済における経済政策の大前提である。

 経済的には、経営主体は、利潤を追求する事を目的としている。それなのに、経営主体が利潤を上げられないような仕組みを多くの為政者は、構築しようとしている。
 利潤が上げられないのには、利潤を上げられない理由、原因がある。その中で経営責任に帰す部分と経営責任に帰せない部分がある。その点を見極め、切り分けて対策を立てる必要がある。
 それは、経営者の倫理観とは全く無縁なのである。ただ、利益を上げるためには、条件が違うところで競争せざるをえないという事であり、その事を故意か、無自覚かは別にして無視されているという事による。
 国によってやって良いことと悪いことがマチマチなのである。

 利益を上げること悪い事であろうか。しかし、企業が利益を上げなければ、家計も財政も黒字にはならない。

 競争力は、競争条件に依拠している。競争条件は、収益構造に現れる。収益構造は、競争の前提条件が統一化されていることによって成立する。競争条件が違えば、競争は成り立たないのである。
 企業収益が上がらないのは、競争条件が全然違うのに、それを統一されているかのごとく前提として市場の仕組みを構築していることにある。

 多くの人は、何でもかんでも、良いか、悪いかで割り切りって考えたがる。それが、段々に、善いか、悪いか、つまり、善悪にすり替わっていく。しかし、損益の基準に照らし合わせると全てが善悪の基準で割り切れるものでない事は歴然とする。ここが重要なのである。物事は、善悪だけで割り切れるものではなく、長所、短所を併せ持っているものである。

 バブルという現象も同じである。現在では、バブルと言う現象は、悪い事だと決め付けている。バブルというのは、一種の熱狂が引き起こすものである。ユーフォリア(陶酔)現象だと言われている。何かが、人々を陶酔させ、理性を失わせるのである。バブルの最中は、人々は、何かに浮かされ、我を忘れて酔いしれるのである。その何かの正体を見極めずに、ただ悪い、悪いと言っても問題は解決されないのである。
 バブルという現象が発生するからには、何等かの原因がある。その原因のどこかに、人々を陶酔させる何物かが潜んでいるのである。そして、それはバブル崩壊後も人々の判断を狂わせている危険性がある。

 バブルを引き起こし、バブルを崩壊させた背景には、収益構造の変化がある。その収益構造の変化と市場の変質を明らかにせずに、ただ、現象だけを見ても問題の本質には迫れない。

 規制緩和か、民営化をすれば何でも解決すると言われてきた。規制緩和や民営化は、万能の良薬のように喧伝された。しかし、なぜ、規制緩和や民営化をすれば、景気がよくなるのかは明らかにされていない。また、なぜ、規制や公営は、悪いのかも明らかにされていない。

 因果関係が明らかなようで、実は曖昧な事柄が経済には多くある。
 例えば、収益が悪化した結果、規制を緩和したのか。規制緩和をしたことが原因で収益の悪化を招いたのか。不良債権は、バブル崩壊の結果なのか、バブル崩壊の原因なのか。
 バブルを引き起こし、バブル後の不況をもたらした原因は、収益の低下と、借入金の返済圧力である。この原因を巡っては、諸説紛々である。
 思い違いをしてはならないのは、「バブル」を引き起こしたのも「バブル後の失われた十年」の原因も元を辿れば、オイルショックや円高ショックによって企業の収益力が失われたことである。不良債権は、その結果生じたのである。不良債権を処理しても企業の収益力が改善されない限り、抜本的な解決には至らない。不良債権を処理しても借金が残るだけである。だから、景気が回復したと言われても、実感なき景気回復と言われるのである。
 バブル崩壊後の十年間は、失われた十年と言われている。それは、規制のために、競争が阻害され、生産効率が改善されなかった事と不良債権処理が遅れたことが原因だとされている。
 しかし、見方を変えると規制を緩和し、競争が激化した結果、収益力が低下したからと言えなくもない。また、無理矢理不良債権を処理したために、資産価値の下落に拍車がかかったとも言えなくもない。

 これだけは言える。市場というのは、放置すれば儲からなくなる仕組みになっているのである。経営主体が利益を上げて経営を継続し続けるためには、市場を儲かる仕組みにしておく必要があるのである。それを前提として作られたのが会計である。つまり、会計というのは期間損益という思想を導入することによって継続的に利益が計上できる仕組みを構築したものなのである。

 官庁の人間や経済学者は、民間の人間や実務家を一段低く見る傾向がある。しかし、現実の経済や市場を担っているのは、実務家や民間企業の経営者である。彼等の視点、意見をもっと謙虚に採り入れるべきなのである。官庁の人間や経済学者は自分達の主張した不良債権処理や規制緩和を自画自賛するが、本当に不良債権処理の仕方は正しかったのか、規制を緩和したことはよかったのか、改めて見直す必要がある。

 規制を緩和すると言っても闇雲に何でもかんでも規制は悪だと決め付けるのは短絡的すぎる。規制の働きや規制の意味を理解し、前提を確認した上で、個々の規制の是非を問うべきなのである。

 国も、企業も、家計も利益が上げられるような仕組みを計画的に作ること、それが構造経済である。






                    


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