プロローグ


進化論の功罪


 :近代を形作った要素が四つあると先に述べたが、近代に影響を与えた重要な要素がもう一つある。それは、進化論である。
 進化論的発想は、現代社会の発展の原動力となったが、反面、決定的な過ちも犯させてしまった。つまり、万物は進化し、成長し続けているという誤解である。そして、それは、物だけでなく。市場も、人間の社会も進化し続けているという錯覚というか、思い上がりにまで発展してしまったのである。
 進化論の本当の意味は、進化ではなく、適者生存である。つまり、環境に適合することによって生存してきたと言う事である。しかし、環境への適合は、進化だと限らない。環境に適合することを、選択することによって、優生な機能や部分を、切り捨ててしまうことさえありうるのである。
 人間は、常に、進化していて、過去よりも現在、現在よりも未来の方が、より良くなるという一種の信仰である。進化論は、現代人の間に根拠のない信仰を、植え付けてしまった。そして、それが成長神話の素となる。
 人類は、進歩し発展し続ける。また、人類は進化の頂点に立っている。それが、進歩主義であり、革新主義である。過去は悪く、未来は常に良いという発想である。それが進歩至上主義へと発展していく。その結果、過去から何も学ぼうとしなくなってしまった。それが成長至上主義へと更に変質していく。新しいことは良い事であり、新しい市場や産業を絶え間なく生み出すことが、社会を発展させることだと言う思い込みである。古いものはひたすら打ち壊し、新しい物へと更新していかなければならないという思い込みである。されに環境への適合から、環境を、自分達にあって状態へ変えてしまうと言う発想への飛躍である。
 進化論的解釈の最大の間違いは、時間軸に価値観を持ち込んだことである。
 新旧・老若・男女に正否・善悪・真偽の別はない。時間的変化に価値観を結び付けたことが後の混乱の元になるのである。適者生存というのは、環境への適合を言うのであって正否にも、信義にも無縁である。況や、善悪という倫理観に結び付けて考えるべきではない。
 そしてこの様な進化論的発想は、この世界を無限な空間と前提する事で、永遠に成長すると、そして、進化し続ける事が、保障されると思い込を生み出してしまった。

 自国の体制を他国と比較して、あるいは、他国の文化を自国と比較して遅れているという者がいるが、一体、何が、遅れているというのか。遅れているというのは、何を、基準としているのか。

 現在の市場経済は、永遠に成長し続ける経済、無限に拡大する市場を前提として成り立ってきたきた。進化論も競争の原理と姿を変えて織り込まれた。競争の果てに神の見えざる手による調和、予定調和が約束されている。それが現代経済の大前提なのである。
 しかし、永遠も無限も神の領域に属する事柄である。永遠や無限を前提とすること自体、神への冒涜である。永遠の生命を前提としているようなものなのである。
 世界は、有限であり。限られた資源と時間、空間を有効に活用する事が人間に与えられた可能性なのである。
 永遠に成長し続ける経済、無限に拡大する市場を前提として構築された現代経済は、現代のバベルの塔である。成長も、拡大もいつかは止まる。その時こそが問題なのである。限られた資源や時間の中で、いかに有効に、また、有意義に活用するかを考えるのが、人間なのである。自分達の力に限界、限りがあることを忘れてしまったところに、現代人の傲慢さがあり、また、破滅がある。
 市場も、経済も、いつかは、成長、発展、進歩の段階を過ぎ。成熟、安定、停滞の段階にはいる。その時は、成長、発展、進歩を前提とした体制から成熟、安定、停滞の体制へと切り替える必要があるのである。
 成長、発展、進歩の段階で有効だった政策も、成熟、安定、停滞期には、無効、場合によっては、悪い働きをすることもあるのである。
 進化論が提唱され始めた頃に人間が神の領域を侵し、やがては、神を否定して、自らを神としてしまうのではないかと言う危惧が現実味を帯びてきたのである。

 中国には、創業と守成という考え方がある。創業も守成も難しいことには変わりがない。しかし、同じ事をしていてはうまくいかないのである。創業期には創業期の施策が、守成期には守成期の施策が要求される。その切り替えが、うまく行くかどうかが、鍵を握っているのである。

 人間の限界を認めて、進化論的な発想を止め、成長、拡大を一部止める事が現在の経済を立て直すためには、不可欠なのである。
 なぜ、市場経済は安定しないのか。それは、前提が間違っているからである。成長と変化を前提としている限り、市場の安定は得られない。あえて、成長を止め、停滞を選択する勇気が必要なのである。
 永遠の成長や拡大を前提とするのではなく。経済本来の目的や役割、機能から経済の在り方を導き出すべきなのである。それは。自分達の限界を知る事なのである。

 近代を形成してきた四つの要素、即ち、会計にも、科学にも、民主主義にも、スポーツにも、進化論は関与していない。
 実際のところ、進化論は、会計にも、科学にも、民主主義にも、スポーツにも、成り立たない。会計も、科学も、民主主義も新しければいいというものではないからである。むしろ、古きを温めて新しきを知ると言って方がいい。何よりも、時空間に価値基準を持ち込んだりはしない。また、時空間に価値基準を持ち込んだら成り立たないのである。

 経済の主役は、あくまでも人間である。金でも、仕事でも、商品でもない。人を養うことである。合理化と言い、生産性と言い、効率化、収益性と言っても、人を忘れたところには、経済は成り立たないのである。
 経済の目的は、幸せを実現する事である。その為には、人間は、自らの限界を知るべきなのである。

 現在や未来を正当化することは危険である。近代化にも良い面、悪い面がある。近代化の持つ長所、欠点は、近代化を促進した要素の長所でもあり、欠点でもある。だからこそ、近代化の中に潜む良い面と悪い面を明らかにし、常に、検証する必要があるのである。未来は楽観的なものではないが、悲観的なものでもない。なぜならば、未来の有り様は、我々の意志によって良くも悪くもなるからである。




                    


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