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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第1章第1節  対象

 対象は純粋である。つまり、対象は無規定かつ無意味な存在である。意味は、対象を認識し、それを前提とした上で生じる。対象は平等である。分別や差別は対象を識別する過程で必然的に生じるのである。対象は無限である。有限なのは対象を識別する自己の能力である。故に、対象の存在に対する最初の認識は無条件なものでなければならない。あらゆる意味の前提には、対象の存在に対する暗黙の了解がある。自己は、無条件な対象認識を前提として意味を純粋な対象から抽出するのである。しかし、いくら意味を対象から抽出したところで、対象の本質を変化させる事はできない。対象の純粋性は絶対なものである。
 対象の存在に対する認識は、対象の属性を通じて為される。対象の存在は、純粋なものであり、絶対的なものである。この様な対象の存在を識別することはできない。ただ、全ての認識の前提とするのである。また、この様な対象の存在そのものを直接知覚することはできない。我々が知覚できるのは、対象の属性である。我々は、対象の属性を知覚することによって対象の存在を直感するのである。故に、対象の存在も間接的認識対象である。
 ある人がなんらかの理由で自分の名前が気に入らなくなり名前を改めたとしても、多少はその人の運命に影響は出るかもしれないが、その人の本質まで変わるものではない。人が成長をして姿形や考えが変わっても、その人の存在まで変わるわけではない。対象の存在は連続したものである。即ち、我々が知覚している事象は対象の属性であり、対象の属性は相対的なものなのである。
 意味は、対象の識別、自己と他者との意志の疎通といった自己の必要性から生じるのであり、対象の象徴化にしろ意志の伝達にしろ対象の存在自体とは直接には無関係である。また、意味は対象の属性に対するものであり、意味が対象に対して影響を持つのは、その意味が対象に直接結び付けられた後、つまり、対象が意味を持った後のことである。意味を持つ以前の対象は、意味がないのである。
 人が自分になんの関わり合いもなければ、その人が自分の事をどう思おうと自分にとって何の意味もない。自分にとって相手が特別な意味を持つのは、相手が自分になんらかの関わりを持った後の事である。また、自分が相手を知っているかいないかによつて相手の存在は左右されるものではない。
 対象の存在は、普遍的なのであり、変化は時間の関数に過ぎない。自己は今を生きているのであり、対象は今存在しているのである。
 ナポレオンが死んだからといってナポレオンの存在まで否定される訳ではない。又、記録がないからといって実際に存在したものを否定する事はできない。その存在自体を否定する事は歴史を否定することである。 
 物体の物理的変化も、その物体自体の存在を否定する事はできない。物体の破壊は物体の存在を前提としなければ成立しないのである。個々の物体を破壊したり変質させるといっても、それは、物体の形態や性質といった対象の表象や属性に対してであり、対象の存在や存在の本質に影響を及ぼすわけではないのである。そのような対象の存在の普遍性を科学は前提としているのである。特定の人物や集団が窮地に陥ると、一時的に自然の法則が停止したり変化したら科学は理論的根拠を失う。故に、ブッダは病に倒れ、キリストは従容として十字架に赴き、孔子は怪神乱魔を語らず、ムハメッドは偶像崇拝を禁じたのである。ブッダも、孔子も、キリストも、ムハメッドも信じたものは同じものなのである。しかし、彼らの弟子達が信じたものは違う。ブッダが争いを教えたであろうか。孔子が、妄想を広めたであろうか。キリストが憎しみを与えたであろうか。ムハメッドが迷信を信じたであろうか。そして、科学が前提とするものも彼らと同じものであるが、科学を利用する者や科学を信じる者が前提とするものは違うらしい。
 破壊や変化とは対象の存在を前提とし、対象に意味があって初めて成立するのである。コップを壊したとか、木を燃やしたと言っても、コップや木という言葉に対応する対象がなければ、壊したとか燃やしたと言う言葉自体意味を持たない。また、対象をコップというか、湯呑というかそれは認識者が決めることであり、対象側が決められることではない。しかし、対象の存在は対象自体の問題であって認識者側が干渉する余地はない問題なのである。コップとか湯呑といった名前や意味がなくても、その物自体は存在するのである。たとえ、無意味な対象や無名な対象であっても確かにその対象が存在する事を認めるているのならば、意味がないとか名前がないと言う理由だけで、その対象の存在を否定する事は出来ないのである。対象はその物自体が存在しているのである。
 ビンのレッテルを張り替えても、ビンの中味まで変わるわけではない。その人の名前を知らないからといって、その人の存在まで否定していまうのは、乱暴な話しである。同様に、有ってはならない、有って欲しくない、あるはずが無いといくら思っても、その対象が存在する以上は存在するのである。対象の存在は自己の思惑や都合、観念によって影響は受けないのである。言葉の定義は、自己の必要性から生じるものである。故に、意味は、千差万別であるがその意味するところは一つである。意味は対象を拘束できないのに対し、意味は、常に対象に拘束される。対象の存在の有無を詮索するのは自己の側の問題であり、対象の側の問題ではない。対象は本来無名な存在である。 
 このような対象は当然絶対な存在である。不完全な対象、相対的な対象という存在は存在しない。不完全とか相対とは対象を認識、識別する過程で必然的に生じるのである。対象の存在は自ずから明らか、つまり、自明なのである。不完全とか相対的と言うのは、個々の対象間の関係から生じる概念である。物と物、対象と対象とを比較し物と物、対象と対象との関係を知る必要性から生じる概念である。そして、それらは対象の属性に対して為されるものであり、対象の存在に対して為されるものではない。つまり、相対的なのは対象の属性であり、対象の存在はその時点で絶対的なものである。意味は自己の必要性によって対象を抽象化したものであるから、常に意味は対象に対して不完全なものであり、相対的なものである。しかし、対象は常に完全であり、絶対な存在である。不完全であり、相対的なのは対象の属性と自己の認識である。
 不純なのは自己の観念のほうである。汚い、不潔、醜いと感じるのは自己であり、対象自体が汚いのでも、不潔なのでも醜いのでもない。人間の肉体の部分に貴賎の別はない、生き物の種類に上等下等の等級はない。そう感じるのは自分であり、そう決めるのも自分である。自己善に代表される自己の価値観は、不完全で相対的な自己の対象認識の上に構築された体系であり、必然的に自己の価値観は不完全で相対的な体系にならざるをえない。また、社会は不完全で相対的な人間の観念によって築かれているうえ、これまた不完全で相対的な自己善の葛藤の場でもある。故に自己の価値観は自己の内面から揺らぎ、自己の外的状況からも揺さぶられる極めて不安定な体系である。人は身勝手でその心は弱く、この世は修羅場である。知らず知らずのうちに人を侮り、嘲り侮蔑している。他人の栄光は妬みとなり、他人の失敗は好機と映る。浅ましい限りである。質や程度の差はあれ人の世に差別は付きものである。世の乱れは時の常。妬み猜みは人の常。妄執は愛を憎しみに変え業火で愛する者を焼き尽くす。恨みつらみが心を鬼に変え我とわが身を滅ぼす。快楽は心の毒。自分の欲望を満たす為なら愛する者すら犠牲にする。恐れるべきは人の思い。恐怖は人の心を狂わし、妄想は人に取り付き世を乱す。巷に争いの種は尽きる事がない。汚いとか、不潔とか醜いと感じる基準には個人差があり、この個人差故に、人は知らず知らずのうちに人を差別するようになり、お互いを傷つけあっている。しかし、対象や自己の純粋性は不変である。この対象や自己の純粋さが不完全な社会の中でも自己の意識を純に保ち、自己の価値観をより完全な体系に昇華していくのである。そして、対象の背後に存在するのが神であり、自己の価値観を支えているのが自己愛である。故に、神に対する信仰を否定したり、自己を確立しえない、自律した愛情を成立しえない哲学は不毛で空洞な哲学である。人は誰でも自分の心の中に自分だけの神を持つべきである。さもなくば移ろい易い人の世で、心の平安を保つことはできないのである。
 意味は、個々の対象を象徴化したものである。もともと、無意味な対象に意味を持たせたのであるから、意味は派生した時点から不完全かつ相対的なものである。意味が、不完全で相対的なものであるならば、対象の存在に対する認識は直接なされなければならない。対象の存在認識は言葉の意味にとらわれていては出来ないのである。対象の存在は判るのではなく、先ず認めるのである。自己と対象、対象と対象との関係を明らかにし、対象に意味を持たせ、その意味を集団で共有していくためには、先に対象の存在を認めなければならない。意味によらずに対象を認識する手段は、各々が対象を直接認識、つまり、直感に依ってする以外にないのである。そして、相互の意志の交換は、各々の対象に対する存在認識を前提としなければならない。つまり、相互の対象に対する存在了解、認識了解を前提としているのである。そして、存在了解も認識了解も各自の存在認識を前提としている。故に、対象の存在認識は対象から直接認識するにせよ、認識了解や存在了解に依るにせよ、直感によって為される以外にないのである。つまり、対象は本来無意味、無規定で直接的な存在なのである。
 人の噂をするとき当然その人の存在を前提としている。その人を直接知らなくても、何等かの媒介をつうじてか何等かの手段によってその人の存在を確認するか、了解するかしていなければ会話そのものが成立しないのである。その人の存在をすら認めていない人がその人の存在を前提とした噂する事はできないのである。つまり、存在しないものの噂はできないのである。出来るとしたら、それはミステリーである。無論、その人が実際に存在するかしないかは別の問題である。その人の存在を認めようが認めまいが、知ろうが知るまいが、その人の存在自体とは直接関係はない。私がいくら自分の知らない人の存在は認めないし又、自分が認めない人は存在しないと主張しても実際に存在する人を抹殺する事はできない。私が意識の上だけならば否定しようが肯定しようがその人の存在には影響はない。ただ私がその存在を認めない人は、私にとって何の意味も持たないというだけである。自分にとってその人がなんらかの意味を持つ為には、まずその人の存在を、自分が認めなければならないし、友達同士でその人の噂をするためには、お互いがその人の存在をまず認めなければならないのである。
 人はこの世の全ての人を知り得るわけではない。人がその一生において出会える人には限りがある。長い間没交渉だと親しい間柄の人間でも忘れられてしまう。人が知り得るのはごくごく限られた僅かな人達だけである。それに対し、人は今も生まれ、その結果今も殖え続けている。このように対象は際限のないものであるのにたいし、自己の力には限りがあるのである。だから、欲張ってはいけない、限り有る者が無限なものを支配する事はできない。人間は自分の肉体すら支配する事が出来ないではないか・・・。
 対象は無限で自己の力には限りがある。故に、自己は、対象総体を個々の部分に分割し、分割された体系の中に対象を限定しなければ、対象と自己との関係を見いだし、自己と対象の運動を明らかにし、自己と対象の位置づけをする事が出来ない。しかし、対象は分割されるとその本質を喪失してしまう。そこに自己の対象認識が不完全で、相対的なものにならざるをえない原因がある。人の世に差別があるのも人間の認識力の限界が原因であり、人に是非善悪、美醜好悪の区別が生じる原因もしかりである。物の本質をみるとき、まず虚心にその物自体の存在を認めなければならない。さもなければ我々は自己が判断したことの真の意味すら理解出来なくなるであろう。
 対象に対する最初の認識は直感によって為されなければならない。先入観や偏見によって為されているかぎり、対象の持つ本質を認める事はできない。しかし、対象の持つ意味は、自己の価値観によらなければ理解出来ない。そして、自己の価値観は先入観や偏見によって形成される。ここに重大な矛盾がありこの矛盾の意味を正しく理解しなければ、人類は自らの内部に潜む矛盾を解決する事はできないのである。この矛盾を解決する為には、先ず対象をただ漠然と認めるところから始めなければならない。いきなりこうだと決めつけるのではなく、存在の事実を確認しなければならない。例え、それが超能力や怪奇現象の様に信じ難い事であっても、それが事実だと確認が取れたならばその事実を認めなければならない。そしてその現象や事実の持つ意味はその存在を認めた後で考えるのである。それを直接経験し、それを事実だと認めたならば、第三者の意見や信念は第二義的な問題である。大切なのは事実である。
「俺は確かに見た。」のである。
 第三者にとって信じ難いことであってとしても、対象認識における直感とは、対象と自己との直接的な認識を指しているのであり、第三者との認識了解は二次的に派生するのである。つまり、「おい、今のを見たか。」なのである。
 このように自己と対象との直接的認識を本性直感と名付ける。科学はこのような本性直感を前提として成立する。科学的な疑問とは、先ず対象を無条件で受け入れてからそれを識別する過程で生じる。信じるか信じないかを判断する前に、自分が知覚した、または自分が経験した事柄を一旦率直にかつ素直に認めその後で、信じる信じないも含め判断していく認識姿勢を科学的認識というのである。頭から肯定したり、否定したりせずに先ず事実を事実として虚心に受け入れる事が肝心なのである。その後で対象の持つ意味を見極めていこうとするのが科学的な姿勢である。
 絶対なる対象の存在の背後にある原理を自己は支配できない。支配、つまり、自己の意の侭にできるのは、意味と言った自己の観念の所産か、物理的性質や形態と言った対象の表象に対してであり、対象の存在を支配する原理を所有する事はできない。だいたい、人間は自分の肉体ですら支配する事ができないのである。支配できない対象の存在を自己は所有する事はできない。本当に自己が所有出来るのは自分の肉体くらいであり、その肉体も自分で選ぶ事のできないお仕着せであるうえ、死ねば天に返さなければならないのであり、厳密に言えば自分の肉体も所有できないのである。支配とか所有という概念は、人間の観念の世界でのみ通用するものであり、対象はそれ自体がもつ独自の法則によって支配されている。対象を支配するしないは自己の意識の問題であり、対象は常に自己から独立した存在である。支配や所有の概念は自然界に存在する原理ではなく、人間が自分達の必要に応じて生み出し取り決めたものである。それ故に自然の法則と同次元で語る事はできない、自分達でその必要性の意味を正しく理解し、社会の中で論理的に定義し法則化していく必要がある。人の心を暴力で支配する事はできない。恋心を法律によって規制する事はできない。若さを所有する事はできない。それ故に、天理を知り、人知を尽くすそれが科学の真の目的なのである。
 人間は自分の運命すら支配する事も出来ない。病気をしたくない、歳を取りたくないと思っても。病む時は病み、死す時は死す。そして年がたてば老いていくのである。こんな自分は嫌だ、人間なんて止めたいと駄々をこねても、生まれ変わらない限り、自分は自分、人間をやめる訳にもいかないのである。よしんば生まれ変われたとしても、自分の思い通りになるとは限らない。人は自らの宿命に縛られている。天が自分に与えてくれた物を正しく生かすことによってのみ人間は幸せになれる。天の理自然の法を理解し、自分に与えられた時間、肉体、能力、即ち、自分の一生を楽しむ心の余裕を持てば幸せは既に与えられているのである。起きて半畳寝て一畳、天を屋根とし大地を寝床と為す。大欲は無欲と化し、無欲は大欲を成就する。悠久の時を楽しみ、四季の変化を愛で無窮の空間に遊ぶ。心の平安が世を平らかにし、心の中に棲む阿修羅が世を惑わす。人生もまた夢幻、心の目を開け全てのものを在るが侭に受け止めれば天地を自在に生きる境地に達する。この世に何の悩み不満があろうか。天と地、生と死の間、我が人生有り。楽しみも苦しみも、又喜びも悲しみもその内にある。鬼に会えば鬼を背負い。魔に会えば魔を背負い、業に会えば業を背負う。地獄に仏と会い。闇夜に神の光をみる。苦しみを苦しみとせず。逆境を糧とする。我を生かしめるもの全てに感謝せよ。無欲たればこの世の全てはその掌中にあり、欲深ければ全てを失う。汝草となれ。生有る時は、大地にしっかりと根を張り陽光を楽しみ、死して後は世の中の腐植土となる。名なきを恐れず、ただ人の世の繁栄を祈るのみ。朽ちよ果てよ、ただ己の志すところへ我行かん。自己が対象の存在を支配できないように、どの様な存在も自己の志しを否定できないのである。人間が支配できるのは、自己の意志だけであり、またそれだけで充分なのである。
 意味は、対象を象徴化したものであるし、又、表象は、観念の一形態に過ぎない。意味にせよ、表象にせよ認識上の結果に過ぎないのである。対象に意味付や表象化がされて始めて対象は現象化する。故に、現象も認識上の結果に過ぎないのである原因が常に結果に先行するものであるならば、原因が結果を拘束しえても、結果は原因を拘束しえない。故に、認識の結果である意味、観念、表象、原因は、認識の前提である対象を拘束できないのである。科学的法則は対象に制約されるが対象は科学の法則に制約されない。このような制約をうける自己の対象認識の結果派生する意味や、観念、表象、現象は全て相対的である。
 人間が大自然を支配する事はできない。人間が神を支配する事が出来ないのと同じである。科学技術とは、この前提に従って自然の法則を知り、自然の法則を利用して自然の力を引き出し、自然の恩恵に浴そうといのに過ぎないのである。人間は、自然の法則を無視しては何も創造できない。況や、自然を破壊しているなどと言うのは思い上がった発想である。自然は、みずからの法則に従って人間が地上に現れるずっと以前から存在し続けて来たのである。科学的法則と自然の法則は違う。科学的法則は未完結な体系であるのにたいし、自然の法則はそれ自体で完結した体系である。科学的法則は自然の法則に制約されるが自然の法則は科学的法則から独立した体系である。自然破壊というのは、自然に対する人間の誤った認識によって自然の調和が乱され人間が人間にとって住み難い環境を作っているのに過ぎない。自業自得である。それが自然科学の名の下に行われているのだから何をかいわんやである。しかし、いくら人間が住み難い環境であろうと自然は自然であり、自らの法則に基ずいて存在しているのである。宇宙空間や海中は、人間の生存に適さないからといって誰も不自然だとは思わないだろう。地球上が人間の力によって人間の生存に適さない状態となったとしてもそれも又自然である。科学技術とは、自然と対立したり、自然の法則を無視したりすれば成立しない。自然の法則を正しく知った上で、人間にとって必要な技術を導き出しかつ応用していくのが科学の本質である。
 かつて多くの宗教が神の名の下に人民を支配する道具に使われた、その時神は自らの法で支配者達を裁いた。同様に、人間が科学を自然の名の下に自然を支配する道具に使用しようと試みれば自然は自らの法則に従って人類に復讐するであろう。その時人類は滅亡するのである。科学は、自然の法則に基づいていなければならないのであって、科学が自然の法則を無視したり、勝手に歪曲するのは、本末転倒、自滅的な行為である。科学の法則は自然の法則に従属した体系であって自然の法則を変えたり、無視出来るものではない。
 現象は対象認識の過程で、対象と自己の観念との媒介として派生するものであるから、対象から極端に乖離する事はない。絶対的な存在である対象は、絶対的であるかぎり、判別、識別する事ができないのである。故に、対象を識別する為には、対象を相対化する必要が生じる。相対化することによって対象は、位置と運動、そして、関係が生じる。この様に位置と運動と関係が与えられることによって対象は現象化されるのである。つまり、現象は、対象を一つの体系を当て嵌めて対象を相対化する事によって生じるのである。これを対象の相対的変換という。このように、現象が対象を基盤としているかぎり、対象から現象は乖離しえないのである。しかし、対象認識の過程で二次的に生じる意味や観念は対象から遊離し、それ自体が独立した体系を形成する事がある。対象を識別するために設けられた、体系が、それ自体で勝手に自律的に機能して、対象とは、別の世界を生み出すのである。
 このようにして形成された意味や観念は対象からそれ自体が独立した体系を持つから、それ自体が独自の表象を生み出し自己増殖する。そして、その様にして確立された体系は独自の世界を創造し、自己の行動を支配するようになる。しかし、観念は対象を超越できない。故に、自己の行動を抑制し、現実から遊離しないようにする為には、対象に観念の所産を還元し検証していかなければならないのである。
 対象を自己の都合によって歪曲する事は出来ない。嫌いな人間だからと言って、その人間の存在を勝手に否定する事は出来ないし、在って欲しくない事実や過去だからと言って、その事実や過去を抹殺する事もできない。自分が信じている世界観では、有り得ない在ってはならない事柄だからといって事実を否定するのは間違いである。人殺しなんて在ってはならないというのと、人殺しは有り得ないと言うのは本質的に違う。また、人を殺してはならないと言う事と、人を殺す事が出来ない、為し得ないという事とも違う。戦争という極限状態では各自がこの問いに答えなければならない。戦争でなくとも、車を運転する者は、常に、自分がそうするつもりでなくとも加害者になる危険性を持っており、覚悟を決めなければならない。事故を起こしたくないと思っても、事故を起こさずに済むとは限らない。車に轢かれたくないと思っても避けることの出来ない事故もある。人の運命は侭ならぬ、いつ自分が加害者や被害者になるかも判らないのである。ただこの現実を正しく理解して注意をすれば自分が被害者や加害者になる可能性を小さくする事だけが可能なのである。在ってはならない事やしてはならない事は自己の必然性の問題であるが、有り得ない事や為し得ない事、出来ない事は、自己の必然性を超越した、対象の可能性の問題だからである。社会や国家がなければ支配や差別がなくなる、市場経済が在るから貧富の差が生まれるといった短絡した考え方は、医者が無くなれば病気がなくなり、警察が在るから犯罪がある、消防署がなくなれば火事がなくなるといった馬鹿げた発想と同じであり問題の本質を見失わせるだけである。
 この世に自己の観念によって存在を有無を左右される対象はない。在るとしたらそれは観念の所産である。又、自分に不可能な事は、他人も不可能だといった考え方も通用しない。説明が付く付かない、立証出来る出来ないという事が、存在の有無を意味すると考えるのは、明らかに無謀である。説明するとか、立証するというのは、説明を要する、立証を要する問題に対してであって、存在に関する問題は説明も立証も要しない問題なのである。つまり、説明や立証を必要とするのは認識者側の問題であり、対象側の問題ではないのである。認識者が、意味や観念、表象を他者と共有する必要が生じた時、説明や立証の必要性が生じるのである。対象はそれ自体がそれ自体の原理で存在するのであり、認識者の必要性や都合によって存在するのではないのである。
 意味や観念が一つの独立した体系を確立し、特定の集団に共有されるようになるとその体系は、様式化され、一つの世界を形成する様になる。そして、一度世界を形成した体系は、その世界を共有する集団の行動規範を支配するようになる。このように形成された内的世界は、新たな観念を生み出す。このように観念は観念を生み出し自己増殖を繰り返し、やがて観念は自己に対象以上の説得力と影響力を持ち始めるのである。やがて観念は本来の対象から遊離し対象化していく。このような観念から生じた対象を疑似対象と名付け、観念が対象から乖離する現象を観念の本性離れと名付ける。本性離れした観念は自己の価値観の内側に独立した体系を構成し人間の心を徐々に支配していく。かくて人間は観念の虜となる。しかし、観念は不完全、相対的な体系であり、絶対的な存在である対象を越える事はできない。対象は自己完結した存在なのである。対象から遊離した観念は虚構である。虚構から生じるのは妄想や迷信である。人間は妄想や迷信に支配された時から堕落し始め破滅していくのである。
 故に、認識者が対象を想像上の存在としているか観念上の存在としているか、はたまた、実在上の問題としているかが重要なのではなく、対象の存在を認めかつ信じているか否かが肝心なのである。要は、対象を自己が信じるか否かであり、想像上で在ろうと、観念上で在ろうと、実在上で在ろうとその存在を信じる者は信じるであろうし、信じない者は信じないのであり、いずれにせよ第二義的な問題である。それが問題とされるのは、一つの体系を集団が共有する必要が生じた場合においてである。つまりは、便宜的な問題である。便宜上の問題は自己の都合でどうにでも出来るが、しかし、対象の存在は左様左様しかりしかりの問題であり、どう説明するかは、対象とは無関係なのである。人間の思考にせよ、行動にせよ、常にこの対象の「在る。」を前提としている。そして、名前も、意味も、又、学問、科学、芸術もそしてあらゆる社会や全ての文明はこの対象の存在を前提とした上に、自己と対象との関わり合から生じるのである。この「在る。」を前提とした以上は、この「在る。」が想像上のものか、実在上のものか詮議した所で仕方がないのである。あらゆる体系はこの「在る。」を前提とした上に構築され、全ての思惟は、対象の存在を受け入れないかぎり始まらないのである。 


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