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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第1章第2節  認識

 対象に対する認識は、対象の外的表象を通じてなされる。勿論、対象の自己表現も外的表象をもって為される。自己は、外的表象を媒介にして、対象の内的世界を推測するのである。科学的認識とは、一足飛びに表象の背後に存在する世界や体系、例えば、神とか真理を直感的に規定する事によって対象を捉えるのではなく。一枚一枚薄皮を剥ぐようにして、対象の内的世界に迫っていく事を基本姿勢としているのである。科学的な方法とは、地道な研究を通じて一つ一つの段階を克服する事によって。対象を捉えていく方法を指しているのである。
 対象に対する認識は、自己が知覚している外的表象を認める事によって始まる。そして、外的表象として現れている対象の存在を無条件に直感的に認め、その存在を前提とするのである。その上で対象を識別するのである。
 対象に対する識別は、知覚表象にある区域を設定しその区域の中から任意な対象を選び出し、他の対象から選んだ対象を区別する事によって始まる。それを対象の分割、または、対象の分解という。そして、その特定された対象の存在を他の対象から独立した対象として無条件に、直感的に了解する。つまり、特定された対象がそこに一個の独立した存在として存在する「在る。」事を了解するのである。そしてその対象に名前のような指標を付け、その存在了解とその対象につけられた指標を集団が共有することによって言葉と意味が生じるのである。(ここで言う対象の中には現象も含まれる。)その上で、個々の対象の存在が前提とされるのである。それが存在了解である。対象の選択は任意なものである。そして、科学は、知覚表象から識別されて存在了解が可能な対象のみを唯一の根拠とするのである。また最初の存在了解は無意識に為されるものである。
 分割される以前の対象を原対象と私は呼び、対象分割する以前の対象認識を無分別知と呼ぶ。我々の認識は、必ずこの原対象、無分別知を前提としているのである。最初に、対象を在るがままに捉え、その上に必要に応じて対象を分割するのである。以後識別する以前の対象を原対象と呼び識別後の対象を単に対象と呼んで使い分けることにする。識別後の対象は総て相対的である。
 無作為に対象を特定し特定した対象の識別を連続して行う事によって対象に変化の概念を導入する。変化を関数化することによって時間の概念は成立する。時間は変化の関数である。
 どれくらいの範囲の人間に、どの程度の識別度でその対象の存在了解を共有させることが可能かによって存在了解の可能性が測られる。そして、存在了解の可能性の高さによってその対象の信憑性の高さが特定される。人間の観念が発達すると存在了解の可能な範囲は拡大し、必ずしも知覚表象に限定できなくなる。故に、人間の意識が高くなるにつれて観念上に於ける了解可能限界が重要になるのである。対象の信憑性が高くなると対象を絶対視するようになる。これを観念における対象の絶対化という。観念に於て絶対化された対象は原対象に拘束されることなく独自の世界を構成するようになる。
 観念が発達し了解可能限界が高くなると同時に観念は原対象から遊離する。例えば、ある集団が高次元で自分達の神の概念を共有了解すると、その概念によって生み出された神の存在は知覚表象以上に絶対的な存在となる。この様にして一度絶対化された観念はその集団の意識を支配するようになり集団の構成員の行動を規制するようになる。原対象から拘束されない観念によって支配された集団はその観念を支配する個人や特定の小集団によって支配されるようになる。
 科学は、この様な原対象からの遊離を防ぐために現象上に理論的根拠を置き、同時に、知覚表象上に於ける再現の可能性を重視するのである。故に科学に於ける信憑性は、観測、証明、実験といった立証性や実証性にその基準が置かれる。その意味に置いて超自然現象はまだ科学的信憑性が低いのである。しかし、だからといってそれらの現象が観測された場合、現象的に再現できないかったり記録されていないからと言って非科学的現象だと否定することは出来ない。現象に根拠を置いている限り非科学的とはいえない。非科学的現象などありえないのである。唯、再現性のない記録できない現象は科学的な立証が困難であり、それだけ信憑性が小さいと言うだけである。
 対象の分割は必要に応じて為されるべきものである。必要がなければ対象を分割することはない。この当初の必要性は対象の相対的変換を目的としている。対象を正しく理解するためにはこの必要性と無分別知が重要な要素となるのである。対象を分別するからには、何等かの必要性が存在しなければならない。必要性とは、ある意味で目的である。我々はこの必要性を意識していない場合の方が多い。また、最初は意識していたとしても、分別の内容が多様化、複雑化するにつれて、その意識が薄れ、やがては忘れられてしまう。必要性を失うと分別は本来の意味から遊離し始める。分別は価値観の原型である。価値観を生み出した当初の目的を見失うと価値観が原対象から乖離し、まったく別の意味を持ち始める事がある。この様な現象を価値の本性離れという。
 豚に真珠、猫に小判と言うが、豚や猫は、真珠や小判の為に争いはしまい。してみると、一体豚や猫と人間どちらの方が真の価値を知っているのだろう。真珠や小判に価値を人間が見いだした当初、人間は、いまと違う意味を持たせていたはずだ。しかし、価値が本来の目的から乖離すると善い意味にしろ悪い意味にしろ価値が独自の目的を生み出し、人間を支配するようになる。
 よく絵画の真偽が問題になる。偽物を買わされたと言って悔しがるが、しかし、絵画は芸術品である。絵の真の価値は、その絵に接した時の感動にある。しかも、その絵の持つ美しさや主張に感動するのであって、絵を書いた画家の名前や絵の価格に感動するのではない。たとえ、その絵が偽物であったとしても、その絵の美しさに感動してその絵を買ったならばそれはそれでその人にとって本来価値があるものでなければおかしいのである。しかし、絵画が商品価値で測られるようになると、一体自分がなにに感動しているのかわからなくなってしまう事がある。美的価値は本来自己のセンスの問題であり、経済的価値とは切り離して考えるべきなのである。
 この様に、対象から価値が分離すると、逆に価値が対象を拘束する逆転現象が起こる。原因が結果に拘束される、この様な逆転現象を価値の本性離れと言うのである。本音がいつの間にか建前になり、建前がいつの間にか本音になる。何が本音で建前かそれは自己の側の問題であり、対象には本音も建前も有りはしないのである。価値がいつの間にか対象から遊離し、自己の都合で建前や本音になる。しかし、対象には本音も建前もなく、唯真実だけが存在するのである。
 価値感の基礎となっている体系を充分熟知する事によって、その価値観を他に応用することは、可能である。しかし、価値本来の意味を知らなければそれは危険である。結果が思わぬ効果を生み出す事はままあるが、その効果を生かすためには、その効果を生み出した原因を知る必要がある。なぜならば、一つにはけじめがなくなるからである。また、一つには根拠や裏付けを失うからである。そしていま一つは、原因を知らなければそれを再現したり、応用したり、説明する事ができないからである。価値は観念的なものであるから、けじめがなくなったり、根拠を失うと価値観自体の制御能力が失われ、行動を抑制することが出来なくなるからである。価値の本性離れを防ぐためには、価値の目的と価値を生み出した根拠を明らかにしなければならない。そしてその為には、無分別知が最も効果的である。
 無分別知とは、対象を虚心に捉えることである。つまり、原対象を知ることである。我々はよく先入観や偏見で物事を判断する。自分の独断を人に押し付ける。先入観や偏見によって相手に反発したり、無闇に抵抗したり、否定したりする。或は逆に理解できずに妥協したり隷属したりする。人間の能力の限界なのかも知れないが、行き過ぎてしまえば自己の価値観ばかりか性格まで歪めてしまう。いずれにしろ対象の認識を歪めていることに違いない。つまり、目が曇っているのである。先入観や偏見を一旦忘れる事である。つまり、目の曇りを拭うのである。対象を在るがままに捉えること、それが無分別知である。原対象を知る事によって、価値の目的を知る事が出来る。無分別知は価値観の根拠を浮かび上がらせるのである。
 私はよく抽象画が解らないと言う人に、「貴方は、自然を見る時風景の持つ意味を考えますか。服を選ぶ時、服の柄の持つ意味を理解しようとしますか。」と尋ねる事にしている。
 絵画を鑑賞する時大切なのは、絵そのものから受ける生な感動であり、絵に接する以前にその絵が解るか解らないか考えていたら、絵など理解できるはずがないのである。大自然を前にしたときの素直な感動や、洋服を選ぶ時の率直な感覚こそ大切なのである。また、芸術は必ずしも美を描いているとは限らない。戦争の悲惨さを描いている絵からは、戦争の悲惨な状況が伝わってくればいいのであり、内面の不安を描いている絵からはその不安感が伝わってくればいいのである。美的価値観のみが芸術を支えているわけではない。美しくなければ芸術ではないと言うのも偏見なのである。ところが芸術即美術という先入観に捕らわれると芸術は美しいもの、だからどんな絵でも綺麗だと感じなければならないとか美しいと感じないのは、絵画が理解できないからだと思い込み易い。その様な思い込みが芸術に対する偏見を生み出すのである。そうした、思い込みを防ぐためには無分別知が効果的なのである。即ち対象を率直に受け止める生な感覚と素直な感動こそ無分別知の根源なのである。
 ではなぜ分別が生じまた必要なのかについて述べてみたい。無分別知によって捉えた原対象を第三者に伝え様とすると、そこに分別が生じる。なぜならば、絶対な原対象を第三者に伝える為の基準を持ち得ないからである。つまり、比較する対象や基準が設定されたら、もはや絶対的では有り得なくなるからである。しかし、比較する対象がなければ対象の意味を伝える事は出来ない。故に、分別とは意志伝達上に於て対象を相対化するための変換操作でもある。対象を相対化しないと、自己と他者との関係を見いだしたり、対象を識別したり、他者に伝達することが不可能である。つまり、分別が生じるのは自己の側の都合なのである。
 対象を相対化する手続きを次に述べる。分解された対象の中から一つの対象を任意に選び、それを基準とする。その基準を一つの単位とする。基準が与えられることによって個々の対象を比較することが可能となる。そして、単位が定められることによって対象を測定することが可能となる。基準を基にして、対象を比較し、対象の性質を抽出する。これを対象の抽象化という。抽象化された性質によって対象を分類する。これを対象の集合化と言う。集合化された対象を整理し体系化する。これを対象の統合化と言う。対象を体系化する過程で個々の対象間の関係を抽出し法則化する。これを関係の原理化と言う。その法則に従って対象を再構成する。これが対象の構造化である。以上が、論理的認識過程である。
 抽出した性質を純化し、単一の命題とする。対象の意味は、これら単一の命題の集合である。つまり、命題を積み重ねることによって、現実の対象に接近するのである。逆に命題の数が少ないほど抽象度が高い事になるのである。古来、人間を一言で言い表そうとする風潮があるが、愚かなことである。文学的な意味ならばいざ知らず、人間と他の存在との相違は、総合的な見地から為されるべきであり、たとえ一言で人間の特徴を捉えたとしても人間総体を表現したものとはいえない。むしろ、人間の特殊な一面によって人間総体を一意的に捉える危険性が多分にある。人間存在は、そこに現れた性質の総合として捉えるべきであり、一つの性質によって、他の存在と区別するのは危険である。概念は、命題の集合である。
 概念は、相対的なものである。先ず最初に一定の単位が定められ、基準が与えられる。一定の単位が定められることによって、個々の対象を比較する事が可能となる。故に単位を与えられる事によって、対象は相対的な存在となる。個々の対象の性質を比較する事によって個々の対象の性質を抽出する。共通の性質を持ったものを集め分類する。対象の性質を類型的に捉えることによって概念は生じる。故に、概念は相対的である。
 比較対照とは、個々の対象間に存在する共通性と相違に注目することである。唯人間は対象を識別する場合対象の相違点を捜す。言い替えれば特殊性に着目することである。しかし、原理は一般性、普遍性である。故に、我々が知りたいのは、対象の一般性である。つまり、対象全般に共通する法則である。
 一般的な対象は、むしろ特殊な対象より発見しにくい。比較対照した場合、共通点は問題とならないからである。要するに空気みたいなものであり、人間が生存する為に不可欠なものであっても、それが失われないと気が付かないのである。平凡で標準的な人間は、非凡で特別な人間に比べて目だち難いものである。しかし、我々が人とつき合っていく上で基準にするのは平凡な人であり、判断は常識に基ずいて下されるのである。
 日常生活の中で自分が人間かどうか疑ってみることがあるだろうか。あまりないと思う。ただ、自分は人間だと強く意識する事はあるかもしれない。しかし、それは自分が不当に差別されたり馬鹿にされて人間扱いされなかった時、俺だって同じ人間なのだと思う時ぐらいである。では一体人間とは何かと聞くと返答に窮するのではないだろうか。君は人間かなどと聞くと、当り前な事を言うなと怒鳴られるのが関の山だ。しかし、この当り前な人間と言うのが曲者なのである。人間性とか、人間としていかに在るべきかと言った問題を考える以前にでは一体人間とは何かを明らかにする必要がある。しかし、あらたまって人間とは何か定義しようとすると非常に難しい。この様に普段我々が何気なく見過ごしていることの方が重大な意味を持ちまた定義し難いのである。
 法と言うものは、天才や狂人といった特殊な人間を基準にして作られるものではない。どこでも居るような日常的で平凡な一般的市民を基準として作られるものでなければならない。ところがでは一般的な人間が守らなければならない基準とは何か考えてみると不明瞭である。とかく、異常な人間を取り締まるのが法律だと錯覚しがちであるが、日本では精神異常者は罰せられないのである。また悪人を懲らしめるものかと言うと、交通事故など必ずしも善悪ではかたずけられない問題である。一見当り前でなんでもないことに重大なことが隠されているのである。
 本来、科学が探究しなければならないのは、対象の一般性であり、一般性を突き詰めたところに存在する普遍性なのである。しかし、対象認識の最初の手順は、対象の識別であり、対象間の比較対照によって対象の特殊性を見つけ出すことである。ここに、科学は特殊な問題を扱っているのだと錯覚する原因がある。科学は特殊性から一般性を導き出す学問である。一旦認識了解された事や広く対象全般に共通している事象は、丁度空気みたいなもので、日常的な次元で識別することが困難である。自分が人間だと言うことは潜在的に前提とされている事であり、誰も疑らない。しかし人種差別のようにその根幹に関わるような問題が生じるとそれが最も重要であり、厄介な問題であることが始めて認識される。しかし、それでは遅いのである。
 確かに、個々の対象の性質は、比較対照しなければ認識する事は出来ない。我々は、個々の対象の持つ特殊性を通してしか、対象の一般性に接近できない。その為に科学は特殊な現象を当初の研究対象とするが、特殊な対象を研究することの真の目的は、あくまでも、対象の一般性への糸口の発見であることを忘れてはならない。科学は、その意味で実は、特殊性から一般性への過程にある学問なのである。そして、それは無分別知から全知への過程でもあるのである。
 民主主義は、個人の特殊性を尊重しつつも、人間の持つ一般性にその制度的基礎を置く。そして、政治も経済も現象として捉え、政策決定においては広範な合意を必要とする。また国家の原理を憲法と法律に置き、人間のあるがままの欲望を法の根拠とする。故に民主主義は科学的な思想なのである。然るに、ある国の野党は反対することのみが民主主義だと考えている節がある。これは転倒した考え方である。民主主義は国民的合意を前提として、個人の特殊性を尊重し制度的にこれを保証すると言う思想なのである。ただ民主主義国における多くの合意事項は暗黙ないしは潜在的なものであることを忘れてはならない。特に日本は単一民族で共通の言語を用いる点この暗黙の合意が高いのである。
 ここに奇蹟とは何かと言う疑問がある。我々は、奇蹟という言葉の意味に対して、長い間大きな思い違いをしていたのではないだろうか。奇蹟とは、死者が生き返ったとか、それまで何も存在しなかった、場所に忽然と山が出現したといった突飛な現象を、さして言うのでは必ずしもあるまい。むしろ、平凡なことで日常的なことが、平凡に日常的に起きることの方が余程奇蹟的なのではなかろうか。なんでもない決まりきったことが、決まりきったように起こる。それこそ偉大な奇蹟なのである。
 生きているということは全ての前提である。しかし、我々は自分が生きているという実感を持つことは少ない。確かにこの世の中は幸せな人ばかりではない。なんの為に生きているのか解らない人。ただ生きているとしか言い様のない人。生まれてこなかった方が幸せに思える人もいる。人はこの世を苦娑婆だと言う。むしろ幸せな一生を過ごす人の方が希なものである。しかし、どんなに惨めに思える境遇であっても、生きている事には違いがない。人間はどんなに絶望的な状況に遭遇しても生きていく為の努力を怠ってはならないものである。生きる。生きるのに値しない一生などありはしない。そして、生きることの真実を見極めない限り人間は幸せにはならないのである。絶望的で苦しければ苦しいほどかえって生きている事を肯定しない限り我々は生きることの意義を見失ってしまうのである。自分が生きている事を前提にするから自分らしく生きることが出来るのである。
 天国と地獄。一体人間が捜し求めてきた楽園とは何なのだろうか。人間は長い間楽園を捜し求めてきた。天国に行けば苦労や心配をしないで済むと信じられてきた。しかし、それは、人間の欲望を際限なく満たしてくれる世界ではないはずである。飽食と悦楽。現代人は、自分の欲望を満たす事に何のためらいも見せない。旨いものが腹一杯食べられ、あらゆる快楽を満たしてくれる所が楽園なのだと錯覚したとき、人間の行き着く先は天国ではなく地獄に私は、思えてならないのである。生きる。生きる目的とは何か。人間は自分の言い分を誰でも持っている。しかし、自分の行為を正当化ばかりは出来ないものである。なぜならば自らを裁くものは自らであり。自らの行為の報いを受けるのも自らだからであり。そして自らを許すことが出来るのも自らだからである。だから人間は最初にそして最後に自分と戦わなければならない。なぜならば自らを改められる者は自分であり、自分を欺く事は出来ないのである。
 生きる実感がない者が死を選ぶ。生は常に自己の現実を肯定している。生きるという事は先ずあるがままの自分を受け入れていく事である。死を知ることは生きることの貴さを知ることである。人間は死のうと思えばいつでも死ねる。だからこそ前向きに生きていく為には自分が生きているという真実を知り、自分を生かしているものの事を思う以外にはないのである。 生きているというこの当り前なことすら人間は気が付きにくい。しかし、この当り前な事こそ大切なのである。
 概念を音声で表現したものが言葉である。更に言葉を記号化したものが文字である。人間は言葉や文字によって対象の概念を伝達する事が可能となる。また文字によって概念を記録する事が可能となる。そして言葉や文字は概念を対象化する。言葉や文字によって対象化された概念は新たな概念を派生させる。この様にして概念は言葉や文字を媒体として自己増殖していく。
 概念は論理的体系や数学的体系といった次元の異なる体系を重ね合わせ整合化させる事によって対象をより多角的に捉え、かつ概念を広範囲に共有することが可能となる。つまり、個々の対象間の関係を数学的に表現する事が可能となる。数学は人類に共通の基準をもたらした。そして、物理学はそうした数学的概念を現実の対象に適合させたのである。科学が思想や信条、人種、民族、言語、体制の差を乗り越え全世界的なものになれたのも数学の持つ論理的整合性に裏付られているからである。また、数学の持つ視覚性と操作性が科学の汎用性を支えている。即ち、数学の操作性と視覚性が集団で一つの課題を共有することを可能としたのである。そして数学の論理的手続きによって我々が日常当然だと考えている事象の深層部分にはじめて光を当てることが可能となったのである。
 数学的体系における初期条件は任意に設定されるものであることを忘れてはならない。つまり、数学的体系は予め天然自然決められていたものではなく、人間の観念の所産で、しかも、一般で了承された体系である。それだけ論理的整合性が要求されるのである。科学は、現実の現象を数学的体系に置き換えることによって概念の論理的体系を統一する事を可能としたのである。故に、数学的論理体系を基礎とした科学は、常に仮定仮説の設定を前提とした体系なのである。仮定や仮説の信憑性は実験や調査、観察によって高められても任意な初期設定を前提としている事に変わりはない。また、論理的整合性を必要とする数学は論理的証明を必要とするのであり、数学的体系を基礎としている科学も当然論理的整合性が要求されるのである。
対象の分類とは、いくつかの命題を共有する対象群に個々の対象を配分する事であり、対象の分析とは個々の性質に基準を与えることによって、個々の対象間の関係を明らかにする事である。分類された対象群に名称を付ける事によって、対象の定義をより簡便に表現することが出来る。また、条件を設定する事によって対象を群分けすると、対象内部に次元を設ける事が可能となる。
 対象間の関係を明確に捉え、かつ対象内部を次元毎に切断する事によって対象間の構造、対象内部の構造を知る事が出来る。この様にして発見した構造を法則化し、更に法則化する事によって、逆に対象界を再構成する。再構成した概念によって現象を現実の場に再現し操作する事が可能となりそれによって概念の適合性を確認立証する。概念の適合性が確認了承され一般化されると、意志決定等の結論が標準化され、概念の共有が初めて可能となるのである。
対象認識はこの様に帰納法的なものであり、意志決定は演繹的なものである。つまり、対象認識は特殊性に着目し、意志決定は、一般性に基づくのである。
 対象の差別化、個別化は認識の過程で必然的に生じるものである。故に、差別化したら直ちに悪いというのではなく。それをどう位置づけどう体系づけ、またどう価値判断に結び付けていくのかが問題なのである。差別を前後の脈略、文脈を考えずに議論するのは、問題の本質を見失う恐れがある。要は原対象の平等性を忘れなければ良いのである。
 認識了解について。先ず、最初にある描像、観念的表象を抱き、それを我々は、感覚的に把握し、直感的に了解する。その描像の存在を前提として概念は構成されるのである。人間は、その描像を共有することによって、よって意志を疎通させる事が可能となるのである。それ故に、ある人間間に何等かの関係が生じ、その人間間に意志を疎通させることが必要となった時、相互に相手の描像を確認了解する必要が生じるのである。描像を交換し得た対象を、認識了解された対象という。
 「貴方の家は何処ですか。」と相手に質問する場合、日本語を理解できる相手ならば、家という概念を意識する事なく直感的に了解するが、日本語を理解できない場合、その観念的表象、同意語を交換しなければならない。その場合、個々の概念を構成する命題を理解するのではなく、記憶表象に照らして観念的表象から類推するのである。また、観念的表象を交換する際、必ずしもお互いの描像が同一のものである必要はない。その概念が理解できれば良いのである。家という場合、その言葉の背後にある表象が、田舎屋風の民家で在ろうと洋館であろうと重要な問題ではなく、家という概念が重要なのである。個別の表象が問題にされるのは、貴方の家という風に対象が特定された場合である。ただ自己内部の個別の表象がなければ概念を生み出す事が出来ず。お互いの概念を交換する事が出来ないのである。また、この様な概念は内包的なものである。
 観念的表象は、成長すると一つの内的世界、観念的世界を形成する。この内的世界、観念的世界を描像と名付ける。描像は、自己に与えられた要素を総合した全体像、世界として現れる。対象の概念化は、そこに現れた全体像、世界を先ず捉えた後、その内的世界を対象に逆投影する事によって為される。この様な内的世界は少なくとも人間の数だけ存在する。全体像、世界として現れた描像は、調和した統一された世界であり対立は存在しない。内的な世界が分裂すると自己の同一性が破綻してしまう。故に、対立は、内的世界を外的世界に投影する過程で生じる。つまり、対象認識の過程で自己の内的世界と外的対象との間の葛藤を通じ対立は生じるのである。
 内的世界は、外的な対象界よりも自己内部に於て、より強固な確信へと成長していくことがある。特に、ある集団が一つの世界観を共有するとこの傾向が高まる。その結果内的な世界と外的な世界が遊離し、お互いに否定し合うような状況にまで発展する事すらある。しかし、一方の世界がもう一方の世界を否定するようなものであってはならない。二つの世界は相互を補完しあう関係にあり内的世界を否定すれば主体性を喪失し、外的世界を否定したら独善に陥る。相互の世界の葛藤を通じる事によってのみ科学も社会も正しい発展が可能なのである。
 人間は外的な世界と内的な世界の調和を求めて社会を改革し科学や学問を発展させてきたのである。内的な現実を外的な世界で実現しようとして対象の力を利用しつつ自己の可能性を追求したのが科学である。その結果、人間は空を飛んだり、水中を走ったりする事が可能となったのである。故に科学は内的な世界と外的な世界の調和によって発展する。科学が内的な世界を否定すれば科学は自律性を失い暴走する。逆に観念に依って外的世界を否定すれば現実を見失う。それは人類の破滅を意味するのである。人間の対立が内的世界と外的世界の葛藤に依って生じることを正しく理解し、その葛藤を通じて内的世界と外的世界を融和させていこうとする努力に依ってのみ人類の正しい発展は約束されるのである。
 ある特定の集団によって認識了解が為されると、了解された観念的表象の原像である描像は、その集団内部で固定化され常識化する。描像は、論理的理念的なものではない。デジタルな世界ではなくどちらかというとアナログな世界である。集団内部に固定化された観念的世界は、神話や伝説、伝承、説話を生み出す。そして、神話、伝説、伝承、説話は教訓となって、その集団の慣習、禁忌、秩序を形成するようになる。一度常識化した観念的表象は祭礼や冠婚葬祭、儀式典礼、礼儀作法、偶像や旗指物等といった行為や規範、記号等に形式化、様式化され象徴化される。そして、様式化、形式化、象徴化されたものを反復することによってその観念的表象は潜在化し、やがてその集団の行動規範を支配するようになる。そして、その観念的表象はその集団の内的世界を形成するようになる。一つの観念的世界を集団が共有するようになると本能に支配されてきた集団が、より社会的な集団へと統合されていく。
 常識化された表象は、相互の意志伝達の前提、行動規範となり、不文律を形成し社会を潜在的に支配するようになる。逆に、認識了解されていない表象は常識化されず、観念的世界を共有していない集団間においては、常識は通用しない。故に、社会を支配する不文律は、時間や空間、歴史、文化、環境の制約を受けており。その人間が所属する時代的背景、地理的背景、風土的背景、生活環境的背景、階級的背景、言語的背景、民族的背景等によって微妙に変化するのである。同じ日本人であっても、世代所属する社会、職業、性別によって常識も違ってくるのである。
 我々は、日本人を論理的理念的に理解しているのではない。日本人といわれた時浮かんできた描像、表象、イメージから判断しているのである。その時浮かんでくる日本人像は必ずしも統一されているわけではない。常識とは漠然とした曖昧模糊なものなのである。そうした、描像を言葉や文字、数字等によって記号化、信号化する事によって観念は論理化や理念化されるのである。
 ある神を信仰する人間の間では、その神は目の前に存在する対象より確固たる存在である。或国や民族で通用する事でも、他の国ではまるで通用しない事がよくある。住む世界が違えばものの考え方や信じるものも変わる事を忘れてはならない。自分達が信じられない事柄でも、住む世界が違えば常識となる。相手の住む世界を理解しようとせずに、相手の信じている事柄を頭から否定するのは乱暴な話である。それではお互いを理解し合うことが不可能となる。だいたい我々が他人の信じている宗教や他国の文化を否定する必要性は直接の利害関係、例えば、それを信じなければ殺されるといった事がない限りないのである。結局お互いの内的世界を尊重し、相互にそれを保証し合う事が大切なのである。そこに思想信条の自由の必然性が生じるのである。しかし、それは相手の事を理解しようとする努力を怠ることを許すものではない。むしろ、思想信条の自由は相互の理解の上に成立するものであり、それを忘れてしまうと思想信条の自由は本来の意味を失ってしまうのである。
 内的世界を共有する範囲によって、社会の規模は決定されていく。故に、科学は、対立する世界を超越統合する手段として、内的世界を外的対象に投影し立証することによって、より広範囲での存在了解を可能としようとしたのである。つまり、外的対象を媒介にする事によって内的世界を外的な世界の延長線上に結び付け了解可能限界を上げようと試みたのである。その結果世界は飛躍的に科学によって統合されたのである。また、民主主義は制度の論理的正当性の根拠を了解可能限界としたのである。つまり、社会を保護維持するための限界点と、内的世界を実現する為に必要とする最低の水準を制度上の根拠としたのである。その上で話合いによって合意事項を成文化し法律として国家の基盤を構成させたのである。つまり、民主主義における法とは、全人格的な統合を求めるのではなく国民が最低守らなければ国家が成立維持できない水準を設定するものであり、各種団体はその上に独自の規則を上乗せしていく多階層社会、上乗せ社会なのである。
描像を交換する事は、意志を疎通させる上で不可欠なことである。しかし、描像を直接移し変える事は現在の技術では不可能である。また、同じ描像や内的世界を持つ人は居ても少ない。人間一人一人の持つ描像は、むしろ微妙に食い違っているものである。極端な話その人の目の位置によっても違う。そこで、お互いの持つ描像を交換するためには、一旦描像を他のものに変換し外的対象を媒介にして概念を外に写像、表現する事によって対象化する必要があるのである。つまり、間接的手段によって内的世界を実体化し、それを対象にして、相互の意志の疎通を計るのである。
その際に用いられる手段は、例えば、絵画や彫刻、音楽であるが、しかし、表現手段で一番代表的なものといえば、あらゆる形の言語活動である。つまり、自己の描像や伝達したい事項をいくつかの部分に分解し、その部分を一旦抽象的な音声や信号、記号に置き換え、論理的体系に変換した上、相手の知覚に働きかけ、相手の内的世界に再構築するのである。この様に論理的体系を媒体にすることによって相手と自己との世界を結合し、お互いの世界や概念を修正、かつ調整するのが言語である。
 つまり、自己内部にある家をバラバラにして、相手の内部に移転させる様なものである。そして、その部品が言葉であり、それを再構成するための取り決め、法則が文法であり、再現された一つの構成要素が文節、命題であり、全体が話、文章、文脈である。言葉や文法は、葛藤と反復によって整合化されるのである。
一つの運命を集団が共有すると言語活動の必然性が発生する。そして、その必然性によって言語活動の場である日常生活の中で言語構造が無意識のうちに形成されていくのである。自己の持つ描像から概念を引き出し、文法や言語体系を共有する場の中で伝えたい概念を話や言葉に変換することによって自己の意志を伝達する。それは言葉の一つ一つの意味を了解するのではなく、言葉の背後に存在する描像を自己の内的世界に再構築することである。つまり、言語活動である会話は、自己の内的世界、そこから導き出された概念と言語、概念を話しに変換する文法、言葉を蓄えて記憶しておく辞書、個々の話を構成する文脈、話そのものといった要素が整って初めて成立する。言語活動はあくまでも、自己の意志を伝達する手段として存在する。相手が居なければ会話は成立しないのである。そして、我々は言葉の意味や文法を予め相互に了解していなければならない。ある言葉がどの様な意味を持ち、どの様な法則に則って使用されているのかについて、お互いが了解していなければ、言語を共通の手段として用いる事は不可能である。また、言語を使って文法に基づき話を組み立てる技術も必要とされる。しかも、言葉の意味や文法は潜在的な前提として記憶されていなければならないのである。言葉の意味や言語構造を相互に了解、記憶する事を意味了解という。
 この様な言語を人間以外の動物が持っているかどうか判然としない。しかし、その可能性は高いと私は考える。
 言語の持つ意味体系は、人間の生み出す観念的な体系であり、また、個々の集団が保有する内的な世界を基礎としているから、その人間の所属する社会によって違う。また、その人間が住んでいる場所の環境や状況、信じている宗教によっても微妙に変化し、教養の程度でも違う。厳密にいえば、一人一人の内的世界が違うのであるから、一人一人全員が違うといっても過言ではない。しかし、人間の観念的表象が外的世界を投影し重複した部分が多い以上多少の方言があったとしても同じ言語体系に所属する人間間においては大きな間違いは生じることは少ない。また、同じ地球上に生息し、体形的にも大差ない人類である以上全く理解できないという事はない。また同じ対象を媒介する以上なんらかの共通項が存在する。つまり、翻訳は可能である。
 広い意味での言語表現は全身を持って為されるものであり、狭義の意味、つまり音声や文字による表現は言語活動のほんの一部である。身振り手振り、また香りといった音声や文字以外の表現との関連を複合的に考えないと、そこで表現されている概念の真の意味を理解することは出来ないのである。
 一旦意味了解をすると、言葉の意味や文法は記憶され潜在化する。言葉の意味は文脈の中で辞書的に記録され必要に応じて引き出されるようになる。文法は日常会話においてはあたかも自然の法則のように作用する。話や文章は、そうした構造の上に浮き上がってきたものである。我々はTVやラジオを見る時、ブラウン管上やスピーカーに映像や音声を映し出されたものを楽しむがその映像の背後には機械が機能していなければ映像や音声は我々に伝達されない。しかし、我々は故障でも起こさない限りその事を意識しない。同様に文章や会話と言語構造との関係は電波信号とTVの機構との関係によく似ている。日常会話の背後には、目に見えない構造が作用しているのである。現象論的にのみ物事を捉えていると、対象を正しく理解する事は出来ない。現象の背後にある、構造や場の働きを知ることが対象を正しく理解する上で重要な鍵を握っているのである。
 我々は対象を認識する時対象を分割する。しかし、それは人間が対象を認識するための都合で生じるものである。故に、部分に捕らわれて、全体を見失ってはいけない。現象に捕らわれて、目に見えない世界、構造を見失ってはならない。夢や観念に溺れて現実を忘れてはならない。現実は、個人の勝手な好き嫌い、つまりは趣味趣向によって左右されるものではない。嫌な事だからあってはならないと言ったところで通るわけがない。それが現実ならば仕方がない事であり、仕方がない事は仕様がない事なのである。出来ることは自分の心の有り様を変える事ぐらいである。悪性の病気に罹った者が、自分の病気を認めることを恐れてかえって手遅れにしてしまったり、自分の過失や嘘をごまかそうとして、もっと大きな災害を招く例がよくある。いま人類は解決を迫られている難問を多く抱えている。しかも、その多くは自らが招いた災難でありまた、人類の手で克服しなければならない性質の問題である。
人類は、現実を直視しなければならない。たとえ、辛い事であってもそれを避けて通ることは出来ない。避け得ないのが現実だからである。現実を無視する事によって、問題を解決する事が出来るであろうか。苦しいからと言ってその場を逃れても、苦しみから本当に逃避する事が出来るであろうか。むしろ苦しみを増長させ長引かせるだけである。苦しみを苦しみと感じ、避け得ない現実を悟った時、その問題を解決しようとする努力が始まるのである。苦しみから逃れようとせず、正面から現実に取り組み、現実を克服しようと欲するとき、現実を正しく知ろうとする勇気の大切さが身に沁み、現実を理解しようとする努力と姿勢の重要性に気が付くのである。
 終末的兵器、環境汚染、食料問題、人口問題、異常気象、貿易摩擦、南北問題、東西問題、財政危機、人種民族問題、資源問題等人間が二十一世紀迄に解決しなければならない問題は山積されている。生命工学、海洋開発、宇宙開発、エネルギー開発、情報工学等科学技術分野は限りなく発展拡大している。その一方で、宗教対立、東西問題、南北問題、人種差別、国際テロ、国境紛争、資源エネルギー問題、風俗の退廃堕落、高齢者問題、国際犯罪組織、麻薬の蔓延、経済摩擦、為替問題、金融不安、財政破綻等人類の抱える対立は広範囲かつ根深く、深刻である。一歩間違えれば、人類のみならず地球上に生息する多くの生物が絶滅、滅亡の危機に瀕する事になる。人類は政治、経済、科学いずれの分野においても無原則な発展は許されない。何等かの歯止めとして国際的な原理原則を確立しなければならないのである。この様な状況下に於て人類は現実を直視する勇気を持たなければならないのである。
 好きになれない事を何が何でも好きになれとはいわない。また、強要すること自体無意味なことである。だからと言って、相手や対象を理解しようとする努力を怠って善いと言う訳ではない。「俺は理屈は嫌いだ。判らないものは好きになれない。それで善いじゃあないか。」と居直り頑なな態度をとるのは卑劣である。「楽しければ善い。」「俺には関係のないことだ。」と現実から目を背けたところで、現実から逃れられるわけではない。結局、いさかいの一番の原因は。お互いの無理解にあるのであり、また、現実の問題は一人一人が自分の責任を果していかなければ解決できないのだからである。
 「不愉快な話はして欲しくない。」「見たくない物は見たくない。」「辛い仕事はしたくない。」「過酷な所へは行きたくない。」「食べたくない物は食べたくない。」「どうせ誰かがやってくれる。」「辛抱できない。我慢できない。」「今が楽しければそれで善い。」
 だが現実とはそんな勝手を許すほど甘くはない。臭いものに蓋をしたからと言って現実の矛盾は何一つ解決されるわけではない。嫌な奴でも付き合わない訳にはいかない。不愉快な話でも否応なく耳に入ってくる。見たくなくともみなければ解決できないときがある。外が寒くても外へ出なければならない。食べたくなくとも他に食べる物がなければ仕方がない。楽しい事など長続きはしない。「あいつが悪い。」「社会が悪い。」と呪ってみても問題が解決するわけではない。それが現実なのである。否も応もなくだ待っていれば力ずくで押し潰していく。自分の考えをしっかり持って問題に取り組んでいかなければ誰も助けてはくれないのである。座して死を待つより進んで自分の運命を切り開かん。
 結局、大切なのは事実である。理論よりもそこに現れてきた現実なり体制である。高邁な理想を為政者が掲げても国民が飢死にしては何もならない。権力者個人がいくら慈悲深くとも圧政を許し国民が塗炭の苦しみを味わっていたら誰も同情はしまい。指導者がいくら高潔であっても、現実の問題を解決する能力がなければ、人々を苦しみから救う事は出来ない。どんなに優れた理想でもそれが実現できなければ意味がない。どんなに厭な事でも、それが事実である以上その事実を認めない限り、現実の矛盾は解決されない。たとえいかに当事者が善人であったとしてもその人が招いた結果が悲惨であるならば許されない。その人の真実は、その人の言葉によって現れるのではなく。その人の行動一般、生き様総てに現れるのである。人間の観念から見ればこの世は矛盾だらけの世界である。人の一生は、苦渋に満ちたものである。しかし、よく見れば矛盾だらけに見えるこの世にも調和があり、苦渋に満ちたように感じる人生にも安らぎの時がある。根気よく現れた事実を追い、現実を直視する以外、事実や現実を克服する手段はない。厭で不愉快な問題であればある程、我々が真っ先に解決しなければならない問題なのである。見る目を養わず、語るべき口を持たなければ、何も知らない事よりも猶悪いことなのである。
 現実を直視する事は、現実を無闇に肯定する事とは違う。現実を認める事は、現実の矛盾を是認する事を意味するのではない。また、現実を直視する事は、現実の醜さや辛さにのみ注目する事でもない。自己の認識は相対的である。相対的認識によって生じた自己の観念に照合すれば、現実の中には、美醜、善悪、真偽、苦楽共に存在する。この世の全てが美しければ、醜いものは存在しない。この世の全てが正しければ悪は存在しない。この世の全てが楽ならば苦は存在しない。それはつまり、美醜、善悪、真偽、苦楽の区別がなくなることであり、人間の観念総体が否定されてしまう。自分が愛した女を美しいと感じるのは、自分がそう感じるのであり、正しいと信じるのも自分がそう信じるのであり、楽しいと思うのも自分である。左から見れば真中も右なのである。女ならば誰でも良いと言うのではない。自分の観念は相対的であり、相対的だから対象を識別出来るのである。価値観は人間一人一人固有なものなのである。そこで大切なのは調和である。内的な世界の全体は常に調和していなければならない。然もないと、自己の観念は常に揺らぎ不安定になる。悪を描く時には、常に一方に善の存在を意識しなければならない。悪を強調することによって、悪に対する怒りを喚起せしめ、善に対する強い期待と要求を呼び起こさせる魂胆が秘められていなければならない。今日、善悪に対する考え方が二次元的ではなく多次元的なってきた。しかし、それでも善悪に対する価値観が存在しないわけではない。悪しか存在しないと言うのならば絶望するしかない。忘れてはならない。絶望とは死だ。生きている限り絶望はない。絶望的現実を直視するならば、理想に希望を見い出すべきだ。現実の悪や汚さ、矛盾を克服する為に現実を直視するのであって、絶望する為でも、現実に屈服する為にでも、自分を正当化する為にでもない。その事を肝に銘じておかなければならない。
 悪しき幻想がいつの間にか現実となり、白昼の街を支配しているのに気が付き慄然とした思いに駆られる事がある。観念が観念としてのみ語られているうちは良いがいつの間にか人々の心を支配し間違った方向へ暴走させる事だけは防がなければならない。TVやマスコミの発達と共に商業主義の悪弊が目立つようになってきた。言論の自由が言論界の人間によって危機に立たされるのは遺憾なことである。自由は国民一人一人が守らなければならない自律的なものである。科学者一人一人が研究や学問の自由を守るための責任を負っているように、言論界の人間は言論の自由を守るための責務を負っている事を忘れてはならない。報道は一歩間違えば覗き趣味や興味本位に走り易く。また事件を煽り事件を食い物にする事件屋になる危険性がある。糖尿病の患者が甘い物を欲しがるからといって医者が無制限に砂糖を与えるであろうか。読者がいるから視聴者がいるからといって大衆に無原則に強い刺激を与えるのは、自分達が麻薬患者を作っておきながら、麻薬患者がいるから麻薬を売るのだという論法と同じで乱暴である。言論を生業とする者は自分の言動に当然責任が伴うことを自覚すべきである。
 つまりは現実であり、事実である。科学的根拠は、何気ない極ありきたりな日常に起こっている現象であり、空想や幻想の世界で起こっている夢物語ではない。その極ありきたりで詰まらない現象から科学的な根拠や法則を見い出した時、かつて空想や幻想の世界の産物であった事、例えば、人間が空を飛ぶとか、月面へ着陸するといった事が、実現したのである。歴史的な出来事の発端は、日常生活の中にゴロゴロしている詰まらない茶飯事である。非日常的な出来事ではない。その日常的な出来事が累積されたところに、歴史的な出来事という非日常的な世界が現出するのである。要は、そこに現れた実であり、表現ではない。そこに現れた世界と言うものは、受取手側の受取方でいか様にも変わる。悪意で取るのも、好意で取るのも自分勝手。動かしがたいのは事実である。人の言質にとらわれて、対象の実を見失い、事実を誤解し、見当違いな事を責めるのは、随分と身勝手な事である。
 我々の眼前に広がる世界は、何等目新しいさ新鮮さのない世界言うなれば予め予定された予測の出来る世界だと考えられるかもしれない。だがその背後にどれだけ多くの謎が隠されているか計り知れない。事実は小説より奇なり。科学技術の華やかな成果に目を奪われ先駆者達の貴い犠牲や無名な科学者の地道な努力を人々は忘れている。
 科学とは、発明の学ではない。発見の学である。考古学のように、何の変哲もない風景の下に隠されている真実を堀当てるようなものである。何もないと考えるのはみる眼がない証拠である。新鮮味のない目新しさのない事柄も光の当て方一つで全く違った光芒を放つ事がある。路傍に転がる石の方が、余程宝石などより重大な秘密を蔵しているかも知れない。身近な人が特別な意味を持つ事がある。何でもない事柄に秘められた重大な謎を解き明かし、人々の役に立てる事が科学者の本分なのである。新たな生命の誕生程の神秘はなく、愛程の奇蹟はない。しかし、それは誰しもが望めば経験する事が可能な程身近な事なのである。身近であるからこそ奇蹟なのであり、その身近で起きる奇蹟に対する感激を人々は失いつつある。幸せは、平凡な日々の中に潜んでいるのである。
 妥協せよと言うのではない。一致するところを先ず認め、歩み寄れるところから歩み寄れと言うのである。ことさらに対立点を強調する必要が何処にあろう。対立せんが為に対立する事は無意味である。議論の為の議論は空しい。
 戦後、「民主主義は、少数意見や個性を尊重する。」とか、「先ず疑って掛かれ。」とか、「議論を重視する。」と言った考え方を勝手に解釈をして。「対立意見や反対意見がなければおかしい。」「対立しなければならない。」「個性とは目立つことだ。」「反対さえしていれば間違いない。」と言った誤った考えが横行している。文節だけで取り上げ、文脈を無視して判断するのは危険である。他人を尊重せよと言うのは、先ず自己の主張を確立し、明確にしていく努力を前提としなければならない。先ず自分の名を名乗れである。自分の考えもしっかりしないうちに、感情的理由だけで相手を判断するのは早計である。別に、苦にならない事ならば相手に合わせることを躊躇する必要はない。相手に求める前に、先ず自分に求める事である。自分に求めるべきである。小異を捨てて大同に就く。一致する所があるから、妥協せずに済むのだ。確かに相違点は目立つが、大体に於て共通点の占める所の方が多い。黒人と、黄色人、白人と言う視点からではなく同じ人間という観点からみると相違点など微々たるものだ。相違点ばかり気にするから、差別は無くならないのである。
 議論本来の目的は、お互いの意思の疎通をはかり、合意を高め、問題を解決することである。自分の非を認める事が出来ずに、なぜ、相手の非を認めさせる事が出来るであろう。自分の心を開かずになぜ相手の心を開かせることが出来るであろう。相手が心を開いていたとしても、自分の心を開いていなければ、いかにして相手の心を受け入れることが出来るであろう。賛成も反対も結果に過ぎない。その前に問われなければならないのは自分の信念なのである。人間の争いの原因の多くは枝葉末節な問題であり、根幹を為す問題ではない場合が多い。誤解を生じさせるものは、ほとんどの場合、自分の思い込みか、偏見、先入観なのである。相手がどうか考える前に自分はどう在るべきかを考えなければならないのである。
 自分の部屋が欲しいからといって、屋根まで別にする必要があるであろうか。一つの家に済む家族ならば一つの屋根の下に各々の部屋を持てば良い。信仰も対象認識もこれに似ているのである。一つの原対象や世界の下に各々の自己の内的世界を持てば善いのである。つまり、自己と対象、自己と神とは一対一の関係なのである。人類は一つの運命、一つの天を共有しているのである。
 対象を如何に捉えるかによって、そこに展開される理論も全く違ったものになる。個々の部分や要素を全体、総体から分析して憩うとしたものが構造論であり、一定の基準、系を定めて、その基準、系に比較対照する事によって対象を分析したものが相対論であり、個々の対象を命題化し論理的に分析したのが意味論、対象を多次元的に捉え、位置、運動、関係、質、量、密度によって対象を考察しようとしたのが空間論、空間に満たされた力が物体に及ぼす作用から対象を分析したのが場論、対象を要素や部分に分解した後、再現するのが分析論。個々の対象を一定の原則、条件に基ずいて幾つかの群にまとめたものが集合論と言った具合に、(むろん、個々では各々の理論を厳密に定義した訳ではない。)対象の捉え方一つで展開される理論は様々に変化する。どれが一番正しいのかは場合によって違う、故に、どれが絶対的な理論か議論するのは愚かである。これらの理論は対象を認識するための手段手法に過ぎないのである。対象を識別し、それを自己の内的体系に組み込み、また、社会の合意、認識了解を高めるためには何が一番適切なのかが問題なのである。考え違いをしてはならない。そこに展開されている理論は、対象の存在自体に就いて語っているのではない。あくまでも、個々の対象間の関係に就いて述べているのに過ぎないのである。対象の存在自体は、自己の直感、直観によって認識される以外にないのである。
 我々は対象に臨む時、常に真摯な態度で臨まなければならない。理解したつもりになるのが一番怖い。なぜ、そこに存在し、なぜ生きているのかといった肝心なことが、なに一つ解っていないのだからである。ただ、我々が認識できるのは、対象の外的表象によって与えられた事実だけなのである。しかし、その事実を通して、人間が何物かと対峙しまた前進しているのも確かである。
 現代人は、自分の為そうとしている事に臨んで敬虔な気持ちになったり、日々の生活の中に崇高な精神を感じたり、自然の力に畏敬心を持ったり、自分の仕事を誇りにし、仕事場を神聖視し、労働に歓びを見いだし、厳粛な気持ちで一日一日を暮らしていく姿勢を失ってしまったのではないだろうか。先人達は、未知なる世界に挑戦するときは、神前に祈りを捧げ、食前に日々のかてを与えられた事を感謝し、自然を畏怖し仕事場を洗い淨め先ず自らの心を戒めてから仕事に取り掛かったものである。その様にして、いつ召命されても良いよう心の準備をしていたのである。
 生きると謂う事は尊い。それは今も昔も変わってはいない。そして、その尊さ故に日々敬虔な気持ちを忘れず、自分を生かしてくれる存在に感謝する姿勢を失ってはならないのである。生きる事の尊さを忘れた時、人間は生きる事の意義をも同時に失うのである。
 学問には必ず必然性がある。物事を学ぶには何等かの必要性がある。その必然性や必要性を喪失した学問は空しい。その必然性や必要性が学問の目的を生み出すのである。学問本来の目的は、決して試験に合格するためにでもなく、就職や結婚を遊離にする為にでもない。況や、自己の虚栄心を満足させる為にでもない。生きんが為に、より生々しく現実的で実社会的な止むに止まれぬ内面の動機や崇高で高邁な内的な衝動がさせるのである。そして、その必然性や必要性は学問を志す者の自己内部の欲求、使命感に本来根差してなければならない。学問に対する欲求は、決して強要できるものでも、するものでもない。昨今の、教育論に欠けているのは人間が生きていく為には何が必要なのかに就いての議論である。人間に対する洞察を忘れた教育は有害なだけである。人間の自然な欲求を正しい方向に伸ばすのが真の教育のあり方であり、学問を強要することは、不当にその人間の欲求を歪めることであり、ひいては、その人の対象認識や生き方そのものを歪める事になるのである。教育とは百姓仕事の様なものである。種を叩いても根は生えてはこない。芽を引っ張っても茎は伸びない。根気よく土地を耕し、水をやり雑草を取り除き環境を整備することが仕事であり、それでも天候が不順だと上手に育たない。教育とはその様なものである。現代人は、そういった地道な努力を見落とし、真理への崇高な精神を忘れているのではないだろうか。
 人類は正しい認識に依ってのみ正しい世界を知ることが出来る。正しい発展は正しい世界観に支えられる。人の一生は人類の発展のあり方で決まる。充実した幸せな一生は正しい生き方に依ってのみ実現されるのである。どの様に対象を認識するかはそれ故に一人の人間の一生のみならず人類の運命をすら決定づけてしまうのである。今人類は、自らの運命を定めなければならない。それは自然の摂理即ち神を正しく受け入れるか否かによって決まるのである。科学の発展は人類の思い上がりを生んだ。しかし、人類は何も新しい摂理を生み出してはいない。自然の摂理は今も昔も変わらないのである。人類は此の事実を謙虚に受け止めるべきなのである。さもなくば神は、自らの法に依って人類を裁くであろう。


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