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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部 対象 序論 (神について)

 近代文明は、白昼の文明である。一切の暗闇を否定し、この世のありとあらゆるものを白日の下に晒さないと気がすまない。確かに近代科学は、中世の暗闇に光明を与える過程で生成発展した。しかし、同時に環境破壊や終末的兵器の開発が進んだのもまた事実である。物事の根本を明らかにし、真理を探求する事は正しいことである。しかし、それもいきすぎてしまえば、文化を砂漠化してしまう事を忘れてはならない。暗闇の存在全てを否定し、神秘的なものを破壊してしまうことは、人間にとって未知な世界全てを、頭から否定する事になるのである。しかし、生命の神秘、宇宙の謎、自然の法則、情念の世界と人間の知り得ぬ世界はまだまだ限りなく広く奥深いのである。
 空白と暗闇と静寂は、人の想像力や好奇心をかきたてる。そして、創造力は、想像力によって育まれるものなのである。
 人は、幸せなとき天を侮り、不幸になると天を呪う。勝手なものだ。しかし、天は、天である。人の都合で左右出来るものではない。元来、天は人間の思惑とは無縁な存在なのである。
 森羅万象この世のすべての存在に、神の摂理は働いている。人類の為にのみ神は存在するのではない。犬や猫の為にも、草木や岩石の為にも神は存在するのである。たとえ、人類が滅んだとしても、神は滅びはしない。なぜならば、神は人類が誕生するずっと以前から存在し続けてきたのだからである。また、一人の人間の運命によって自然の法則が左右される事がないように、神の摂理は、人間の思惑や都合によって影響を受けたりはしないものなのである。
 死の前に全ての生物は平等である。生あるもので滅せぬもののあるものか。死を恐れ、いくら死にたくないと念じてみても、この世に一度生を受けた者にはいつか必ず死が訪れる。これは、避けられぬ現実である。死は、万人に公正に、公平に、平等に訪れるものなのである。  
これが神の摂理である。死と対峙した時、人間は自らの生き方に忠実にならざるをえない。なぜならば、死の前にいかなる弁明も権威も権力もまた情実も通用しないからである。いかなる、聖人君子も、また権力者も死という現実から逃れる事はできない。人間は自らを直視し自らの性根を見据えないかぎり、死を克服することできない。そして、死を考える事は、生を考える事でもあるのである。そしてまた、その背後に神を見つめる事でもある。 
 どうやら人類は、神に代わって人類の命運を左右できるような力を握ってしまったらしい。しかし、人類はその力を制御する術を知らない。人類は神にはなれない。また、神を超越することもできない。故に、人類が科学技術の発展によって得た力を制御することができなかった場合、人類は、滅亡の危機にさらされる事になるのである。人類が、その力を制御し、生き残る為には、今一度神について見つめ直す必要があるのである。
 人の一生が死によって無に帰すのは神の摂理である。しかし、人類が戦争や環境破壊によって滅亡するとしたら、それは人間の業にすぎない。死によって人間の人生を考える事は、神の摂理を探求する事だが、人類の滅亡を思い煩い人類の存在を考える事は、結局、自分達人類の愚かしさを思い知らされるだけである。
 我々は子供達に何を約束できると言うのだろうか。何もできはしない。仮に、子供達に人類滅亡の恐怖と環境汚染による代償しか残せないとしたらこれ程残酷な話はないではないか。人々に夢をあたえてくれるのは未知なる世界への探求心であり、崇高なる精神への憧れである。子供達から未来を奪うことは、子供達から希望を奪い取ることである。ところが現代人は、子供達の夢を食らうバクになりさがってしまった。その結果、子供達の眼前に広がるのは想像力を許さない虚無の世界である。これでも子供達に希望をもてといえるであろうか。そして、荒廃した大地に人類は、第二のバベルの塔を築こうとしている。人類が滅亡するとしたら、その時、人々は神を呪うつもりなのか、馬鹿な、呪うべきは自分達の愚かさにすぎない。今一度、神の愛を受け入れ、そして、子供達に希望のもてる創造的な世界を残すことが、現代人に課せられた重大な責務なのではないだろうか。
 神を否定する者は、自らを神となす。自らを神とする者は、自らの力によって滅びる。神の愛を素直に受け入れたとき、人類は真の栄光を手にいれることができるのである。
 神とは、存在を存在たらしめる存在である。そして、神は、自己の存在を保証し、自己の存在は神の存在を証明するものである。故に、神は存在そのものであり、純粋に観念的な存在である。そして、神の存在は絶対的であり、自己の絶対性は、神によって保証されているのである。
 神は、属性をもたない。故に、神は完全であり、全てである。神は偉大にして、絶対であり、精神的、至純な存在である。故に、神は時空間を超越した不変的、普遍的存在である。
 怪我や病気になったからといって自己の存在まで否定されるわけではない。肉体が滅んだとしても自己の存在を否定することはできない。人間は死の直前まで生きているのであり、生きているかぎり生きているのである。当然である。また、たとえ、死んだとしても、その人が生きていた事実まで、つまり、自己が存在したことまで否定できない。そのうえ、死後の自己がどうなるのかわからない以上、自己の存在は死によってもでも否定する事はできないのである。自己の存在は自己が存在し続けるかぎり存在するのであり、存在自体は外的な状況の変化に左右されないのである。同様に神はこの世が存在するかぎり存在する。神は、不変的存在であり、外的な変化は神の本質ではないのである。外的な変化は時間の関数が陽に作用し、存在は陰に作用する。故に、存在は不変であり、存在を存在たらしめる存在である神は不変なのである。
 純粋に観念的な存在である神は、潜在的すなわち陰な存在である。このように潜在的な存在である神を直接知覚する事はできない。人間は頼りない存在だから、直接知覚できない対象を信じる事がむずかしい。故に、神を顕在化しようと欲する。私は、その人間の弱さも、また、欲求も否定する気にはならない。神を顕在化する為には、神を象徴化しなければならないのである。しかし、神に属性はなく、神は完全無欠な存在であるから、不完全で無常な物体によって神を象徴化する事は本質的に不可能である。故に、神を顕在化したもの、つまり、偶像の崇拝を必ずしも否定はしないが、本来頼りない存在である人間が、偶像を崇拝するのであるから、偶像の持つ本来の意味を正しく理解し、偶像にとらわれないように注意しなければならない。なぜならば、偶像は、ただ単なる信仰の目標、目印にすぎないからである。
本来、神に属性はない。故に、神に対する信仰は常に、神自体にのみ向けられなければならない。聖書にせよ、聖人や聖職者にせよ、又、教団にせよいかにそれが貴いものであっても、また、それを尊ぶことは許されても、世俗的権威を信仰の対象とすることは許されない。それは、神に対する冒涜以外の何ものでもない。神に対する信仰は、神と自己との一対一の関係によってのみ成立するものであり、その間には何ものをも入り込む事はできない。故に、神への信仰は人に強要されるものでも、また、できるものでもない。だいたい、神は、人が信じようが信じまいがそんな事とは関係なく存在するのであり、神への信仰は即ち人間自らが救われんが為のものに過ぎないのだからである。神は、純粋であり、神の純粋性は人に純粋な信仰を要求する。故に、信仰の自由は信仰本来の意味の中に含まれており、人間にとって生まれながらの権利なのである。  
 神は、常にあまねく真実を指し示している。そして、常に神は全てを明らかにし与えている。また、全ての存在に神の愛はそそがれている。その真実を知り神の賜を受け入れ神の愛に浴するか否かは、人間一人一人の意志の問題である。神は、超越者である。神は、自己を超越した存在である。神を信じるか否かは、個人の問題だが神の存在は神自身の問題である。神を信じようと信じまいと、神は存在する。なぜならば、嫌いな人間だからといって、その人の存在まで否定できないようなものである。神の存在は自己を超越した問題であり、自己の意志と神の存在は、次元の異なる問題だからである。
 神を、呪う者は自らを呪う者のである。なぜならば、神は自己を自己たらしめる存在だからである。故に、神を否定する事は、自己の存在を否定することになるのである。
 奇蹟とは何か。真の奇蹟とは、当然な事が当然に起こることである。山が動いたり、海が裂けたり、死者が蘇ったりする摩訶不思議なことを指していうのではない。日によって自然の法則が変わったり、神様の気分で人の運命が左右されたのではたまらない。本来、神は非情な存在なのであり、それ故に、神は自然であり、公正であり、公平であり、平等でありうるのである。生ある者は必ず滅し、出会いには必ず別離の時が来る。誰もが歳をとり、老いていく。日は昇り又沈む。それが定めであり、誰も避けられない現実なのである。その定めが普遍的だから人は日々安心して過ごすことができるのである。そしてまた、神は特定の種や人物の為にのみ存在するわけではないのである。
 価値観の問題である。近代人は信仰を軽視しているか、否定しているが、それが進歩なのだろうか。本当に科学的な事なのだろうか。科学が人類にとって福音となるか否かは人類がこれから決めていく問題なのである。神は、自らを救う者のみを助ける。神の事をどう思い、どう解釈し、どう理解しようがそれは人間の問題であり、その結果がどうあろうと人間が解決すべき問題なのである。それは、科学もまた同じことなのである。
 近代科学の歴史は、対象の存在前提にその起点が求められる。対象の存在を前提とすることによって科学は客観的な論拠と分析手段を手に入れることができたのである。そしてそれによって、近代という時代は、飛躍的に進歩する事が可能となったのである。
 近代はまた革命の時代でもある。革命が必要とする創造と破壊のエネルギーは、科学的リアリズムによってもたらされた。神秘主義的な観念によって法則を定義する、それまでの方法に代わって、対象を在るがままにとらえる事によって法則を発見しようとする、新しい方法が採用されたのである。
 それは、宗教革命によってもたらされた信仰のあり方に対する問題提起に端を発しているように思われる。つまり、現象の背後に存在する法則を神秘的な力や空想的な世界の論理によって定義するのではなく、現実のみをより確かな実在として唯一の根拠とし、法則を見いだしていこうとする姿勢である。そしてこのような姿勢を科学的と称するのである。それは同時に、科学の目的が人間の魂の救済のみではなく、物質的な救済をも追求することを意味するようになるのである。
科学者は、自己の主観を排除し客観的データを根拠とするように努めた。その為に、対象に対し常に科学者は客観的であろうとしたのである。しかし、現実をあるがままにとらえ、客観的にあろうとすることは、結果的に現実の生々しさをそのまま科学に持ち込むことになることを、科学者達は気が付かなかったのである。物質的な繁栄が魂の救済になるとはかぎらない。しかし、物質的な繁栄によって人々は魂の救済をいつか忘れてしまったのである。物質的な豊かさの陰で心の貧困がはびこっているのが現代である。
 科学の発展によって、それまでのように、神の世界の出来事が人間の世界に反映され人間の運命を支配する事はなくなった。人間の世界の事は、神の世界から切り離して考え自分達の力で解決していこうとする姿勢がうまれた。確かにそれが、近代という時代の原動力となったのである。しかし、それが同時に神の否定にまで及んだのは明らかな行き過ぎであった。
 人間は、人間である。そして、それ以上の存在でも、それ以下の存在でもない。故に、神を超越しようなどと考えたり、自ら人間以下の存在に堕落させようと考えるのは愚かなことである。人間として生き、人間として幸福を求めればいいのである。しかし、それは神を否定する事や神への畏敬心を失う事、また人間以外の動物を見下す事をよしとする事とは違うのである。人間は、人間として生きていく為にも信仰を必要としているのである。
 それはまるで哲学的思索からそれまで無縁だと思われているところから始まった。日常的で通俗的だと思われてきた現象や考え方の背後に、より普遍的な法則や真実が隠されている事を近代人は発見したのである。ありふれた現象の背後に潜む真実や日常生活の中に埋没された人間の意志をそれまでとはまったく別の観点から光りをあてたところそれまでとは違った輝きを放つようになったのである。
 確かにこの世には、いろいろな生まれの人間がいる。しかし、生まれの違う人間が同時に同じ天を仰いでいるのも確かだ。確かに、この世には、いろいろな考えをもつ人たちがいる。しかし、同時に同じ地球上に棲息しているのも確かだ。そして、この確かさこそ何ものにも代えがたいものなのである。この確かさ故に、人々は安心して毎日を生活していく事ができるのである。異なる体制の国の空を飛ぶ飛行機は異なる原理によって飛ぶのだろうか。違う神を信じる人の運転する車は違う法則で動いているであろうか。国の体制が変わっても、違う神を信じていても、自然の法則は変わらない。この事実こそが真の奇蹟以外のなにものでもないのである。 この世に生起する諸々の現象を先入観や偏見にとらわれることなく、あるがままに受け入れ、根気づよい観察や実験によって真実を明らかにする。それは本来、神と人間、自然と人間との関係を明確にすることを必要としたはずなのである。少なくとも、科学者はそう努力する責務があったはずである。しかし、現代人はその努力を怠ってきたのである。
確かに科学は、それまで人類救済の手段を神の奇蹟や仏の慈悲にすがっていた人間達に、もっと人間らしい場所で、人間の新しい精神と技術によってもたせはした。しかし同時に、人類滅亡の危機や環境汚染という新たな苦悩と罪をもたらしたのである。地球は人類だけのものではない。最近、宗教的終末論にかわって科学的終末論が横行している。人は、科学によっては救われないことを知っている。それ故に、人々は神を侮辱しているくせに、心のどこかで神の奇蹟を期待しているのである。しかし、現代人で神に救いを求めることのできる者が、果して何人居るあろうか。なによりもまず、神を信じることが先である。
 科学のこの一見無秩序に見える対象のとらえ方は、それまでの自然観や人生観を一変させ、近代という時代を一つの統一的な方向へと導いたのである。ここのに、近代と言う時代の一つの特徴がある。人類の悲劇は、こうした方向がやがて神や信仰の否定へと結び付いていったことである。そして、神や信仰の否定によって、それまでとは質の違う先入観や偏見を生み出し、人間性の否定や自然環境の破壊へとつながっていたのである。人間の奢りや思い上がりは、地球規模での環境破壊をひきおこし、人類の存在そのものまで危うくすらしているのである。
 科学は、果して本当に人類を救済しうるであろうか。原子力の炎が、時として人間の業火に映るのは、なぜだろうか。むかうところ敵なしの観があった近代科学も、二つの大戦を境にして中頓挫しているかにみえる。私は、その原因を科学の無目的性にあると考える。
 科学者が、科学を自己完結的なものとしてとらえていこうとした時、科学者の社会的責任を二義的に考える傾向が生じたのである。そして、それはまた科学にたいする新たな信仰を生み出し、かつての教会に代わる世俗的権威となり、権力の庇護をうけるかわりにかつての国教と同様に権力を体制の内部から支える役割を結果的に果たしてきたのである。つまり、科学者は科学的探求という目的の為ならば何をしても許されるのであり、科学的という御墨付きをもらさえすればどこでも通用するという科学万能主義に陥ったのである。また、その一方で科学技術の発展によって随伴的に生じた産業や政治体制の変革や矛盾は、経済レベル政治レベルの問題であり、科学者は口を挟むべき問題ではないという口実によって、科学者達は社会的責任から逃れてきたのである。かつて、世俗的問題として聖職者達が現実的問題から逃れてきたように、科学者達は現実の矛盾に目をつぶったのである。それまで世俗的権威として君臨してきた哲学者や聖職者達に代わって科学者達が崇拝されるようになったのにもかかわらず、科学者達は自らの倫理観を問われる事はなかったのである。しかし、人類を滅亡に導くような核兵器や生化学兵器は、政治家の思い付きだけで出来るわけではないし、また、現在進行している深刻な環境破壊は、科学の発展に伴って生み出された副産物であることはまぎれもない事実である。政治家や軍人は責任を問われても、科学者は責任を問われることがないこの無責任な体制が今日の危機を拡大したのである。近代兵器は科学者の協力がなければ開発される事はなかったのである。
 科学者達は、世俗的な問題にかかわるべきではないと思い込み、研究室に閉じ篭って自分達の世界の中だけで、自然の偉大な力を引き出してきたのである。しかも、科学者達は技術者気質や職人気質を継承しており、その上、社会も研究の成果を優先する事によって、これまでは、科学者の人間性を問うことが少なかったのである。しかし、次の世紀を平和で建設的な時代にする為には、科学者達の倫理観こそ問われなければならない問題なのである。
 科学者の妄想は独裁者の妄想よりたちが悪い事に人間は気が付くべきである。かつて、祈祷師が神の名の下に人心を惑わせたように、多くの科学者が科学の名の下に自分達の野望を遂げようとしているのである。神に仕えるものが神を畏れるように、科学者は自然に対する畏敬心を失ってはならないのである。神に仕える者が、神に対する畏れを失えば神の怒りに触れるのと同様、科学者が、自然をただ自分の野心の為にのみ利用しようとすれば科学者のみならず人類全体が自然の報復を受けることになるであろう。神や自然に対する畏敬の念を忘れないから、人はその恩恵に浴することができるのである。
 人間とは何か。生きるとはどういうことか。そして、死とは・・・。
 死刑囚と無期徒刑囚とでは、全然生き方が違うという話を聞いたことがある。人間、死を明確に意識しているのかいないのかによってその後の生き方が違ってくるらしい。考えてみれば死ほど公平、公正、平等なものはない。そしてまた、死後の世界は人間にとって最大の謎であり、人の一生に重くのしかかっている問題なのである。
 一体科学は、この死という問題にどう答えているであろうか。また、生命についてどう説明しているであろうか。確かに、科学は物と物との関係につて明らかにしてきた。しかし、人間の存在にかかわる謎に関して科学はまだ何一つ解明してはいないのである。科学を過信し、人間の尊厳を軽視する事は、人間の存在そのものを否定する事になりかねないのである。
 科学の目的が研究のみに置かれ、科学者は研究だけをしていればいいという考えに支配されたならば、科学は研究のための研究、謎解きのようなものに陥る危険性を常にはらむ事になる。研究はあくまでも手段にすぎない、手段を目的とはき違えたならば、科学は真の目的を見失うことになる。そうなれば科学は非現実的な彼岸に追いやられ、科学者を超俗的な世界に閉じ込められることになるのである。科学者は、常に現実とのかかわりあいの中で自分の研究の目的を見つめ直す必要がある。それでなくとも、科学はその結果として人類にとって有害なものを無意識の内に生み出してしまう危険性をはらんでいるのである。
 人類は、自分の部屋の中に地雷を仕掛けている様なものである。次の世界大戦に勝利者はいない、ただ滅亡があるのみである。近代科学は、皮肉な事に人類に希望と絶望を同時にもたらしたのである。神は、常に善と悪、創造と破壊とを人類に与える。しかし、そのいずれを取るかは、人類の意志に委ねられているのである。発展か滅亡かそれは我々が決めるべき問題なのである。
 科学者は身勝手なものである。科学者は何よりも拘束されることをきらう。自分の興味の赴くままに研究をしようとする。その研究には莫大な費用を要する。科学者はまず研究の自由を確保すると同時にその費用を捻出しようとする。中世の科学に対する教会の弾圧がさらに科学者の頑なな姿勢に拍車をかけ、科学者は益々超俗的であろうとする。科学者は、研究の自由を確保するために、政治や宗教に無関心を装う。その反面、費用を捻出するために、権力者の言いなりになる。しかも、世間知らずの科学者が、好奇心の赴くままに研究をするのである。このような科学者が犯した罪は重大である。
 この科学の無秩序で非道徳的な発展は、創造と破壊という両極端な結果を人類に提供したのである。科学技術発展の陰で、終末的兵器の開発や公害が蔓延した事実は、科学者の社会的責任や倫理観のあり方を、鋭く我々に問いかけているのである。我々にとって、科学の目的と科学者のあり方を、もう一度考え直すべき時がきたのである。
 人間は、いつかは必ず死ぬのだと誰もが思っている。しかし、考えてみれば、生者に死を経験したものはいない。死後の世界はフィクションの域を出ないのである。人間は、常に死を恐れ暗闇から解放されたいと願ってきた。神に救いを求めるのも死後の世界が理解できないからであり、科学的手段を確立した動機もまたしかりである。だが確かに、科学は物質的には人々の生活を明るくしたが、精神的な光明をあたえたであろうか。今日、最善を尽くして生きている者が、なぜ死後の事を恐れる必要があるであろうか。精神的な光明は、我々の心の中に自分達自身の力で灯さなければならないのである。
 廿一世紀は、子供達のものである。無心に語りかけてくる、子供達の澄んだ目でみつめられた時、この子供達に幸福な時代を、本当に約束してやることができるであろうか思い悩む。現代人は自分達の犯した罪の重さばかりを気に病んで、自分達の果たすべき義務を忘れているのである。
 神は常に人類にとって必要なものを与え続けてきた。それを、正しく知り正しく受け入れ正しく使用するか否かは、人間の側の問題なのである。同様に、科学は、自然を正しく知り、自然の力を正しく活用する為の手段にすぎないのである。科学を人類が正しく活用するか否かは、人類の問題であり科学が悪いのでも、自然の責任でもないのである。我々は自分の犯した罪から逃れられはしない。
 信仰は、自己が神を正しく知り正しく受け入れる為に、自らの行いを正す為に、そして、自己の内に神の摂理を正しく生かすために必要なのである。つまり、自分が人間として正しく生きていく為に必要なのであり、現世利益や来世を保証する為では決してない。足らざるは貧なり。自分の置かれた境遇をどう受け留めるかは自分の心持ち次第である。確かに、科学は人々の生活を物質的には豊かにしてくれた、しかし、快楽をむさぼり、金の為に売春や強盗を働いても罪の意識すら起こさない昨今の風潮を見ると、かえって物質的な豊かさは精神を貧しくしているように思えてならない。今日の繁栄は明日の繁栄を約束しているわけではない。人類が科学を本当に自分達のために役立てようとするならば、先ず自分達人間のあり方、幸福について考える必要があるのである。神と人間、信仰と科学について考え直さないかぎり、よりよい未来を人類は迎える事はできないのである。
 神とは存在そのものである。故に、神への信仰とは、在るがままの存在を、在るがままの姿で在るがままに信じることを言うのである。故に、信仰による見返りとして現世利益や来世の保証を求めるのは愚かである。なぜならば、信仰は、自らの良心の問題であり、自らが自らを信ぜんが為に信じる事なのだからである。人を愛さんが為に神を信じ、未来を信じんが為に神を信じ、自らを許し悔い改めんが為に神を信じるのである。逆境や苦しみに耐え、絶望や恐怖心、憎しみ、妬みから身を守る為に神を信じるのである。故に、真の信仰を持つ者は、自らの神を他者に強要したり不必要に誇示したりはしない。信仰は、神と自己との問題であり、そこに他人がはいりこむ余地はないのである。
 人は信仰によって救済される。信仰は自分の意志の力で神を素直に受け入れることで在り、人は神を信じることによって救われるのである。どの様な環境にあっても、また、死に直面しても、人は、神を信じるからこそ、神を信じる事自体で救われるのである。信じる者は信じる事自体で救われているのである。
 人が羨むような成功をした者が堕落し、何不自由ない生活をしていながら満たされない思いに悩む。幸福な家庭を詰まらないことで破壊してしまう。身を削るような受験戦争を勝ち抜いて大学に入ったとたん自分が何を勉強していいのかわからなくなる。順風な人生を送ってきた人間がくだらない理由で自殺してしまう。祭の後の寂寥感、ただ神輿を担いでいるだけで、その意味を見失っているのが現代である。楽に生きられるから、安易な生き方を選ぶ。安逸な生活は退屈だから、無理をして刺激をもとめる。それでは生きることの真実を見失ってしまうではないか。彼らは、自分が生きていく為の依りどころすら見いだせないでいるのである。だからこそ信仰は生きていく為の依りどころであり、支えなのである。
 夜、人は夢をみる。夜気は、人間の精神を浄化する。夜風は、人の邪気を払う。星空は詩人の魂を震わせ、月光は作曲家の創作意欲をかきたてる。静寂は哲学者の瞑想を助け、闇は小説家の創造力を刺激する。そして、そこから多くの神話や伝説が生まれた。蝋燭の炎は恋人達の胸をときめかせる。暖炉は過ぎ去った日々を、焚火は遠くに居る友の顔を、囲炉裏は古里の父母の温もりを思い出させる。電灯の光は都会から夜を奪った。現代人は大切な何ものかを失いつつある。現代程、小説の舞台になりにくい時代もあるまい。
 本来、科学は人類の夢の産物なのである。しかし今、科学は人の夢を食うバクに化身して、新たな白い闇を生み出そうとしている。その白い闇の果てにあるのは、荒涼とした文化の砂漠であり、虚無と絶望に支配された世界である。
 人々が蝋燭やキャンプファイアの炎の中に安らぎや憩いを見いだすのは、自分達の周りを囲む暗闇の深さ故にである。粗末な部屋でも電灯を消して蝋燭を灯せば、マッチ売りの少女が見たのと同様、蝋燭のほのかな光りが現世とは違う幻想的な世界をかいま見せてくれる。何気ない思いやりが、人の心の無明の闇に光明を灯す事があるのである。
 人間は希望を捨ててはいけない。たとえそれが絶望的状況だとしても、最後の最後まで希望を失ってはいけない。自分の命の最後の一滴がなくなるまで、人は希望を持ち続けなければいけない。むしろ、それが逆境であればあるほど、困難であればあるほど人間にとって希望は必要なのである。そして、その希望の源泉こそ夢であり、信仰なのである。
 文化には、必ずじくじくと湿ったところがある。世の中には、必ず日のあたらない暗く陰った所がある。人の心のひだや陰影は、人の一生にいろいろな影を投げかけ味わい深いものにする。その陰の様な部分が、文化の持つ水々しさを保っているのである。ただ無意味に何もかも白日の下に晒せばいいというものではない。明らかにする必要もなく、また、そっと大切に護っておいたほうがいいものも中にはあるのである。
 人生。夢。花園を舞い踊る胡蝶。醒めてまた夢。
 春雷や春一番が春の訪れを告げる。春になると小鳥達のさえずりも軽やかに聞こえる。花畑は絨毯を敷き詰めたように、いろとりどりの花々が、咲き競い、蝶や蜜蜂が舞うように、或はせわしなく飛び交う。冬の間は、重く感じられた空気や水さえも心なしか軽く感じられる。
 入道雲は、おれが夏の主役だといわんばかりに水平線の彼方にわきあがる。耳がジンジンするほど騒がしく聞こえた蝉の声も、慣れてしまえば潮騒のように聞こえてくる。夕立はいい、汗ばんだ心を爽やかにしてくれる。
 秋の空は、どうしてこんなに澄んでいるのだろう。無邪気な子供の瞳の中を覗いているようだ。風が吹くたびに舞い散る枯葉は、わけもなく人を感傷的な気持ちにする。いく夏を惜しんでいるうちに、冬の寒さが忍び寄る。
 炬燵の中で目をつぶると雪の降る音が聞こえてくるようだ。大都会は自然に対しなんと脆弱なのだろう、ほんの少しばかり降り積もった雪にさえもその機能を停止させられてしまう。北風は肌を刺すように冷たく、言葉が白い息になって凍っていく。冬は峻厳である。
 日々の喧騒の中で現代人は、自然を楽しむ心のゆとりすら失いつつある。
 天と地、生と死の間、我が人生はあり。万年雪を戴く山々のなんと神々しことか。霧に包まれ鏡のように静かに見える幻想的な湖沼の中にも、無数の生命が宿っている。燦然と輝く星の彼方には、広大で神秘に満ちた未知の世界が広がっている。寄せては返す大波小波、海は絶え間なくその姿をかえながら、自然の雄大さを教えてくれる。一見無秩序で不規則に見える風景であっても大自然には自ずと調和がある。この大自然の調和こそ、神の恵みでありこの調和を乱す者は神をそして自らを呪う者である。自らを呪う者は自らを自らの力で滅ぼす。それが、神の摂理である。
 足らざるは貧しいなり。足るは豊かなり。貪欲なる者は、満ち足りる事を知らず。心豊かな者はすでに満ち足りている。神の恩寵は目の前にすでに与えられており。神からの賜を受けるも受けざるも、人の心の問題なのである。
 子供達の笑い声がする。子供達が澄んだ目で私達をみている。私達はこの子供達に何を残してやれるであろう。神は希望である。神は愛である。信仰は人々の心をうるおし、夢や憧れでみたしてくれる。子供達に自分が生まれた事を呪うことがないようにする為にも、子供達が夢と勇気の持てる世界を築いていくのは大人達の責務である。子供達が未来に希望をもって生きていくためにも、我々は科学と信仰のあり方について今見つめ直す必要が在るのである。人類は正にその存亡を賭けて自らの存在意義を問われているのである。神よ蘇れ!


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