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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第2章第1節  権威(神)

 神は、本来特定できない存在であり、実体化しえない存在である。故に神は定義しえない存在であり、定義した瞬間からその本来の意味を喪失するものである。故に、神を定義することは、矛盾しているかも知れない。しかし、敢えてその危険を犯して定義すると次のようになる。
 神は、存在を存在たらしめる存在である。神は、全ての存在の源である。そして、神は、常住常在である。また、神は、万物に対し公明正大なる存在である。故に、神は、非人格的存在である。即ち、神は万物に対し非情にして冷厳たる存在である。また、神は、慈悲深く、その愛は、万物に常に平等に注がれている。そして、神は、純粋にして完全なる存在である。現在信じられている人格的な神は、精霊であり、しかも、その存在は確認されていない。神が人間に不親切であるか否かは、人間の都合の問題であり、神とは本質的に無縁である。神は自らの定めに対し忠実であり、故に、万物にとって普遍的絶対な存在でいられるのである。人間は、精霊を悪霊と思うか、聖霊とするかを判断する時、精霊が自分を救ってくれるか否かをその判断基準にする傾向がある。しかし、善も悪も人間の基準だけで量れるものではない。人間にとって聖霊であっても、他の動物からみれば悪霊となる場合もある。第一、人間以外の生物からみれば人間こそ最も悪魔的存在であろう。故に、神を人間の都合だけで信仰したり、呪ったりするのは誤りである。神は常に超然たる存在なのである。
 神は、この世を統一する力である。故に、神は、この世を支配する力である。この世を統一する神はこの世の始源と終末を決定づける力である。この様な神を、人間は、象徴的にしか捉えることができない。神を認識する手段は、直観か、啓示によらなければならないのである。それは、自己が全ての存在の存在前提であるように、神は、自己の存在の存在前提だからである。また、存在を存在たらしめる神は、あらゆる存在に神性を宿させている。それ故に、自己と対象全ての存在の背後には神性が存在するのである。この様な神は、存在するものすべてに愛を注いでいる。即ち、人間が悪霊や悪魔と思うようなものにすら愛を注いでいる。ただ、神の教えと、愛を拒絶するものは神の恩恵を受けられないだけなのである。即ち、神の愛と教えを護るものだけが神の救いを受けられるのである。神を否定する者、神を信じない者、神の愛を受け入れない者、神を侮る者、神を呪う者は、神の救いを受け入れることはできないのである。神を否定する者は、神を否定したように神に否定され、神を信じない者は、神を信じないように自分を信じることができず、神の愛を受け入れぬものは、自分の愛も受け入れられず、神を侮る者は、自分も侮られ、神を利用するものは、神を利用したように自分が利用され、神を呪う者は、神を呪うように自分を呪うことになるのである。
 人間は、誤りや欠点の多い存在である。その人間が自分の誤りを自覚し、かつ、許し、改めていけるのは、自己を超越した存在を信じるが故にである。もし、自己を絶対なものとしたならば、人間は、自己の過ちを認めず必然的に自分を許すこともまた改めることも憚るようになる。即ち人間は自己を超越した存在つまり神を認めない限りは、自分を神に擬す以外に自己を律する術を失うのである。故に、神を否定するものは自らを神とする。しかし、それは自己の存在を存在たらしめる存在を否定することであり、結局は、自己否定であり、自己矛盾なのである。神は、自己の存在を存在たらしめる、つまり自己の存在そのものを超越した存在そのものでなければならない。そして、その様な神は、絶対不変不動なものである必要がある。自分以外に自分を許すものがいないとしたら、自分を許すことはできない。神が不変不動な存在であるからこそ人間は、自らの過去を悔い改めることが出来るのである。故に、自己の存在前提である神を信じることの出来ぬ者は、自分を許し悔い改めることが出来ない。自らを許すことのできない者は、この世を生涯さまよい続けることになる。
 真に権威あるものは、絶対なるものである。そして、絶対なるものは、自己と対象の存在だけである。その自己と対象の存在を存在たらしめている存在が神である。故に、神以上に絶対的な権威は存在しない。此の地上を支配できるものは、絶対的な権威のみである。故に、此の世界を支配できるものは神以外に存在しない。故に、この地を支配し、治めることができるのは、特定の個人や階級ではなく、非人格的な制度や法である。即ち、民主主義体制は、神によって約束された体制である。この様な神は、唯一の存在である。神は、永遠でも不滅でもない。なぜならば、永遠とか不滅という概念は、時空間に拘束されているが、神は、時空を超越したものであり、永遠とか不滅といった概念を超越しているからである。神は、唯一であり、絶対なる存在である。自己の存在と神の存在の唯一性と絶対性が同一のものである故に、神と自己とは、矛盾することなく一体となることができる。そして、そのうえ自己を超越することができるのである。しかし、同時に自己と一体である神の存在は自己の存在以上に認識されにくいものである。
 人間は法則とか原理といったなんらかの力によってこの世界の統一が保たれていることを暗黙的に前提としている。当然この様な前提が喪失するとこの世の統一は保てなくなる。つまり全く違った法則や原理によって支配される世界があることになる。例えば思想信条や体制の違う国の上空を飛ぶ飛行機は全く違う原理で動くことになる。この様なことになれば同じ体制同じ思想の領域内しか飛行機は飛べなくなってしまう。たとえ次元の異なる世界が存在したとしてもそこには何等かの統一性があることを人間は前提としているのである。この世の始源と終末はこの世の統一性によって決定する。即ちこの世の統一が成就したときからこの世は始まりこの世の統一が失われた時この世は終るのである。この世の始源と終末を決定し統一を保つ存在はこの世を支配する。故に神はこの世を支配する唯一の存在なのである。
 近代科学を生み出した多くの科学者達は、神は、なんと数学的で論理的なのだろうと驚嘆した。それほどこの世の法則は一つの整合性と法則性を持っていたのである。しかし、それは神を数学的なもの、法則的なものと言った錯覚と逆に科学は、神を否定するものだといった誤解を招くことになる。科学はこの世の統一性を前提として成立するものであるが神を数学や論理の枠組みの中に押し込めるようなものではない。科学は神の存在を前提としているのであり科学が神を生み出すのではない。この様な神は決して顕在的なものではなく黙示的な存在なのである。
 神は、人間にとって、そしてまた、神を信じる者にとっても無力な存在に思えることがある。しかし、それは、神が無力なのではなく、人間が無力なのであり、神の秘めた力を引き出すことが出来ないからなのである。神は、非情で冷徹である。なぜならば神は公正かつ普遍的な存在なのだからである。そして、神の愛は常に変わることなく、普く万物に注がれているのである。我々が生かされている事がその証拠である。即ち、神は純粋に存在そのものなのである。神は、人間を試したりはしない。なぜならば、その必要がないからである。同様に神は人間のいい訳や弁明、弁解などを聞きはしない。なぜならば神は公平だからである。故に、人間が神を試すことほど愚かなことはない。神をいくら試しても、それによって神の存在が否定できるわけでも証明できるわけでもないからである。即ち神は人間の観念によって支配できるものではないからである。神を試すことは天に唾を吐けば自らが被るように、かえって自らがその行為の報いを受ける結果になるのがおちだからである。神の愛を受け入れるか否かは、即ち、自己の心の在り様で決まるものなのである。
 神を思う時、海を思えば良い。人間は、海の恩恵に浴してきた。しかし、海は人間の為に存在するのではない。海は、自らが自らに依って自らの力で存在するのである。故に、海が荒れる時、人間の都合など構ってくれはしない。海を汚染したと言ってもそれは人間の都合から見た事であり、太古の海は、人間から見れば今以上に汚染されている。将来も人間が海の幸の恩恵に浴していきたいのならば、海が人間の生存にとって都合の悪い存在にしないために努力をすべきなのである。間違っても海を支配したなどと思い上がって、海洋資源を乱獲したり、また、人間の排出した汚物で人間にとって有害なほど海を汚染させてはならない。それは、海の罪ではなく人間の犯す罪である。穏やかな海を見ていると海は、一見無力に見えるものだ。人間の為すがままに従っているかのごとく錯覚する。それは、人間が思い上がっているからに過ぎない。海は、常にその内に偉大なる力を秘めているのである。神もまた同様である。人間が神を侮れば、人間は自らの犯した罪によって裁かれるのである。海を汚染したと言っても結局人間は自分が排出した糞尿にまみれているのに過ぎないのである。
 神を否定したり、神と対立出来る存在は此の世に存在しない。なぜならば神は絶対なる存在であるのに対し肯定も否定も観念の所産であり相対的なものだからである。故に言葉や観念に依っていくら神を否定したところで神を否定したことにはならない。此の世の一切の存在は神に依って存在するのであり、神を否定することは自らを否定することだからである。故に、神を否定する者は神に代わるものを見い出そうとする。そして、やがて神を否定する者は自らを神とする様になる。権力者は自らを全能な者とし、また、人にもそれを認めさせようとする。しかし、どんな権力者も老い衰え、いつかは、死を迎える。又過ちを犯し意のままにならないものが生じ孤独に襲われる。故に自らを神とするものは、孤児のように生まれ故郷を追われた者のように自己の安住の地を失ううえ安心立命の境地すら得られなくなる。なぜならば自己から派生するものは総て相対的なものだからである。神と自己が対面するとは、自己が純粋な自己の存在自体と向かい合うことである。故に、神を否定することは、自己の存在の根拠を否定することであり、自己の存在の根子を断ち切ることである。それは、即ち自己の存在そのものの意義のみならず存在そのものをも否定することにもなるのである。故に、神を否定する者の精神は大海に漂う小舟のように揺れ動きあてどもなくこの世をさまようのである。
 神は、善悪を超越した存在である。善悪は、人間が生み出したものであり、相対的なものである。そして、存在するもの総てに神性は存在する。故に地上に存在する物は存在それ自体は観念的なものではなく絶対である。この様な神や存在物がが相対的である善悪の価値観によって束縛を受けることはない。本質的に神は善悪を超越した絶対な存在である。相対な尺度で絶対的なものは計っても相対的な結果しかでないものである。即ち、尺度や結果を絶対視する事は出来ない。故に、神を評価する価値観や尺度は存在しないと言うより存在しても意味がないのである。結局善悪の価値判断とは人間や自己にとって対象を判断する基準に過ぎない即ち人間や自己中心の基準に過ぎないのである。同じ物でも見る人によって意見が分かれる様に神に対する考え方は人それぞれ違うものにならざるを得ない。しかし、だからと言って神がそれだけ多く存在するのではなく神は唯一つしか存在しないのである。それは人間の観念が不完全だからなのであり神が不完全だからではないのである。存在を存在たらしめる存在である神を肯定や否定できる存在はこの地上には存在しない。故に人間にとって神とはそれを信じるか否かの問題即ちその人個人の信仰心の問題なのであり、神は自己の価値基準から純粋に独立した存在なのである。神は人間の善悪によって左右することも計ることも出来ない存在なのである。
 人間は神と悪魔を対立的に捉えるが、それは、人間を中心に考えているからである。神と対立しうる存在が存在すると思っている者は神を知らぬ者である。神を知る者は神と対立することの無意味さを知っている。また、神を知らぬものは神と対立しようがない。そして、神は全ての存在を存在を存在たらしめる存在であるからたとえ悪魔でもそれが存在すると仮定するのならばそこには神性が隠されているのである。故に、此の世に神と対立できる存在は存在しないのである。人間が悪魔とか鬼だと思っているのは、人間にとっての神(聖霊)や人間そのものを否定しているもの、つまり、人間にとって都合の悪い者や敵対している者を指しているのに過ぎないのであり、神を否定しているのではない。私は、精霊達の存在を否定も肯定もしはしない。しかし、仮に、精霊達の存在が認められたとしても、神の本質が変わる訳ではない。此の世に存在するものは全て神が存在させているのであり、此の世に存在するものは全て神に支配されているのである。精霊といえども神の摂理に従わなければならない。神は、唯一の存在であり、また神は万物にとって押しなべて平らな存在である。そして、何物にも傾くことはない。信じる神が違ったとしても自然現象や法則まで変わるわけではない。国の体制が違っても物理学的法則は同一である。聖人とて迫害から逃れることは出来ず、悪逆非道な者でも、神を信じることの出来ない者でも此の世の栄華を手にいれることは出来る。どの様な権力者も死を免れる事は出来ない。ただ神を信じることの出来ない者は自らの存在の依拠すべき所を知ることが出来ないだけである。唯それは即ち神を信じることの出来ない者は自らの魂を救済する術を知ることが出来ない事を意味しているのである。即ち信仰心なきものは魂の永遠に安住を得られないのである。故に、どんなに超越的な力を持っていたとしても、神を否定することは不可能である。そしてこの様な神は唯一の存在でなければならない。人類は、只一つの法によって裁かれる。
 神の摂理は平等で普遍的なものである。我々が、自己や対象の存在を知るのは、現象や表象を通してである。その現象や表象の背後にある法則や原理には、差別や矛盾は存在しない。差別や矛盾は人間の観念によって生じるものである。それ故に、自然や存在物には本来差別も矛盾も存在しない。個々の対象には、神の摂理の前で特別なものや特典や特権を許されるものは存在しない。王候貴族であろうが聖人君子であろうと死を免れることの出来る者はいない。故に、人物や思想に象徴されるような権威、地上の権力と結び付くような権威は相対的な権威に過ぎない。神は存在そのものであり、神の存在は自己や対象の存在によって証明されているのである。そして、この様な存在である神は自己が存在するところの何処にもそして常に存在する。此の地上には、神以上に絶対的な権威は存在せず、神を超えることの出来る権威は存在しない。故に、如何に行いや教えの正しき者、尊敬できる者、偉大な事業を成し遂げた者、超人的な能力を持つ者であろうと信仰の対象としてはならない。そして、如何なる権力者も、聖人も、また、新しい教えをもたらした者も自己を崇拝の対象としてはならない。なぜならば、如何なる人間も神の定めを破ることや神を超越する事は出来ないからである。キリストは、従容として十字架に赴き、ブッダやマホメットは病に倒れたのである。神や彼らを無力と嘲る者は、神の本質を知らないからであり、彼らの死は神の公正さをあらためて立証したに過ぎないのである。人間は人間である限り少なくとも生きているうちは人間以上の存在にはなれない。故に、個人崇拝は神に対する冒涜以外のなにものでもないのである。
 人の世の罪は人間が生み出したものである。人間の犯した罪で神を罵りまた神に絶望するのは愚かなことである。人間の犯した罪は人間が贖わなければならない。仮に、差別をもたらすような神が存在するならばその様な神は否定されなければならない。なぜならば、それは偽物だからである。差別を生み出すものは人間の観念である。元来差別は人間が社会を統治する為の便法として必然的に生じたものであり、絶対的なものではない。人間が社会を統治するための手段、技術の一つとしてのみ有効なのである。しかし、神の本質は観念にあるのではなく神の存在そのものにあるのである。故に、神の真理は、教義や教典、聖典にあるのではない。神の真実は教義や教典、聖典を媒介にして表現しようとした存在自体にあるのである。教義や教典、聖典のみを崇めて神の本質を見失うことは、糞尿を崇めているのと同じ事である。また、神への仲介を出来る者は神以外にない。如何なる人間も如何なる組織団体も神の存在に対する直感力を触発させる事を助けることはできても神を代行することは出来ない。故に、信仰の対象とすべきものは神の存在に対してのみ許されるのである。
 宗教上の争いは、まだ出会ってもいない恋人を侮辱されたと争っているようなものである。その争いと恋人とは全く無関係であり、その事によって恋人の人格や名誉が左右することはないのと同様神の名の下に争われる多く紛争の本質は神とは無関係であり、その事によっていささかも、神の権威は、衰えないのである。
 神は器である。この世の全てを盛ることの出来る器である。既成の宗教や教団を否定も肯定もする必要はない。なぜならば神は超越者であり、信仰のあり方によってその本質は左右されることはないからである。唯神の名をかたり、或は、悪用し、また、潜称し、神に化けることは許されない。清浄なる精神で、神に一対一で対峙した時、人間は、神の純粋と自己の存在を正しく認識することが出来る。その時、安心立命の心境となり、絶対の境地に到達することが出来るのである。即ち、個としての存在である自己と、唯一の存在である神が対峙し、一体化した時、人間は、唯我独尊の境地に至るのである。人間は、常に、正しいわけではない。しかし、常に、間違っているわけではない。また、全てが、正しいわけではない。しかし、全てが、間違っているわけでもない。人の世には、人間の力で、変えられない事、変わらない事と、変えられる事、変わる事が同居している。しかもそのうえ、変えなければならない事と、変えてはならない事は、一定していないのである。昨日、正しいと信じていた事が、今日、正しいとは限らない。正しい行いをしたものだけが繁栄するとも限らない。故に、人間は、惑い、迷い、苦しみ、悩むのである。その時、人間は純粋の存在であり、存在を存在たらしめている神と向かい合うことによってのみ、自己の存在を確認し、自己の精神の安寧を得られるのである。神の御前に一人立たされた時、我々にあるのは自らの行いだけである。自らを裁くものは、自らの内なる神であり、他人は、だませても自らをだましたり、ごまかす事は、出来ないのである。
 故に、神をどの様に祭り、また、拝もうとも、神の本質に影響を与えることは出来ない。また、おのが罪の償いは、自己の魂、精神のあり方の問題であり、神の祭り方、拝み方の問題にすり替えることは出来ない。故に、基本的に神をどう祭るかよりも、神への赤心の方が大切なのである。要は、信仰とは、自分の心の問題なのである。盛大に神を祭り、金を掛けることばかりが能ではないが、それによって気持ちが休まるのならば一概に否定することは出来ない。唯、薬や酒の力を借りて神に対する幻影を抱かせ、人心を惑わしたり、また、神を金儲けや自己の利益の為に利用することは許されない。神は冠婚葬祭や祭りの為に存在するのではない。現代人の罪は、神を自分の利益や贖罪の為にのみ利用しようとしすぎる事である。
 此の世には、神が予め定めた宿命と自らが切り開かなければならない運命とがある。宿命と運命は対立しているのではなく、相互に補完し合っているものである。然るに、人間は宿命と運命を対立的に捉えることによってお互いの効果を相殺し合っているのである。人間が持って生まれた能力や性別、容姿は宿命である。人間にとって死もまた宿命である。しかし、人間の生きざまや成し得ることは運命である。男と生まれるか女と生まれるか、又、誰の子として生まれるかは自分で選択できないつまり、宿命である。しかし、その後の人生を決めるのは自分である。親を呪ったところで自分の人生が開けるわけではない。人は自らに与えられた宿命を積極的に受け入れそれを生かす事によってのみ自分の運命を切り開くことが出来るのである。人間にとって諦めも必要なのである。自分にとってどうし様もない存在事柄を素直に認めてこそ、自己の可能性の方向が明らかになるのである。人間は自分の宿命まで支配することは出来ない。しかし、自己の運命を変えることは、一生懸命努力したり、摂理や原理に通じれば可能である。つまりそれは神から与えられた定め、即ち、宿命を素直に受け入れ信じることによってのみ実現するのである。
 科学と信仰は対立せずお互いに補完しあうものである。科学の発達が信仰を否定しているように見えるのは、誤った認識に基づくものである。科学は生命の誕生、死という現実、宇宙の誕生と言ったもののメカニズムに付いては解明できても、その本質や普遍性については解明し得ない。只、科学があたかも神の存在を否定し対立しているかの如き錯覚を生じさせたのは、人間が自分を拘束するしがらみから逃れたくて、勝手に解釈したからに過ぎない。とりあえずは目の前の現象に付いて説明できたことによってその背後に存在する、より重要で深刻な問題から逃れようとしているのに過ぎない。しかし、それによって問題の本質は何等解決していない。病気が直ったからと言って死という現実から逃れられはしない。現代人の快楽主義や退廃の背後にあるのは、神の制裁を科学の名の基に否定することによって問題の本質を先送りしているのに過ぎない。神を否定しているのは、科学でも科学者でもない。人間のエゴである。
 それは、丁度スポーツのルールと選手の関係に似ている。どの選手も試合中は決められたルールに従わなければならない。しかも、勝敗は試合が終るまで誰にも解っていない。しかも、試合中選手はルールを変更できない。そして、ルールに従っている限りはどの様な作戦をとろうが許される。また、ルールに従うから自由な運動が可能であり、ルールを熟知すればするほど変化に富んだ作戦や運動を可能とするのである。仮に、試合をしているチームが各々別のルールに従って試合をしたとしたらその試合は成立しない。試合に参加している選手が共通のルールに従っているからこそ試合は成立するのである。同様に万物は万物に共通の法則に依って存在しているのである。体制の違う国の上空を飛ぶ飛行機でも同一の物理法則に従っている。違う神を信じたからといって死という宿命から逃れられるわけではない。只スポーツのルールと違うのは、自然界の法則は、神に依って定められ神に依ってのみ変更できる点である。故に、この様な神は唯一の存在でなければならない。また、唯一の存在であるからこそ人間は安心し且つ自由に生きられるのである。人間は神の摂理を熟知すればするほど自己の可能性を高めまた自由になれるのである。
 神の意志は、神の摂理である。つまり、原理である。神の摂理は、神の絶対性、公平性、普遍性、無矛盾性によって維持されている。神の意志は常に物質界と社会と自己の内面に陰に作用している。故に、信仰の成就は真善美の一体にある。つまり、物質界の法と、社会の法と内面の法を一体化することである。これらの法は隠然たるものであるが、物質界の法則は現象を通して、社会の法は社会制度を通して、人間の戒律はその人の行動や行為を通して此の世に顕在化する。真理と正義と戒律が矛盾することなく一体となった時人間は此の世に自在な力を得る。しかし、人間の社会一つとっても国家、民族、体制、宗教、歴史といった固有の特性を持ち一見これらを統一するのは困難に見える。しかし、神の意志は一つであり、やがてはこれらの法も統一される方向に進むであろう。また、そうでなければ人類は、自ら内部の矛盾に依って滅亡することになる。
 神は一つの方向を指し示しているに過ぎない。個別の問題に具体的な解答を与えているわけではない。つまり、神の意志は、此の世を支配する法則の方向に示されている。故に神の意志を見極め信仰を成就するためには、自然の法則を熟知し、社会改革を通じて社会正義を実現し、行動や行為に依って自己を律していく事でありどの一つが欠けても独善となるのである。そして、此の法則と矛盾する存在は淘汰され滅亡していくのである。人間は常にこれらの法則の均衡によって自己の方向性を決定しなければならない。
 神は、北極星のような存在であり精霊や教祖、指導者、哲学者、思想家は群星の様な存在である。神は、闇夜に輝く光明である。人の進むべき先を指し示しているのにすぎない。今日、人間が諸々の矛盾に苦しむのは、一つの教義や聖典にのみ固執して神の意志を見失うからである。即ち物欲を追えば物欲に溺れ、矛盾を正せんと欲すれば狂信的となり、魂の救済を求めれば他を省み様としないからである。人間が病気を克服するためには、病気の原因を探究していこうとする意志、病気の治療技術を発達させ体制を築いていこうとする意志、そして、病気と戦おうとする意志の三つの意志が一体になることが大切なのである。同様に、自然科学や近代技術の発達と法理念や経済学、政治哲学の発展、教育や人間の精神の向上は不可分なものであり、これらの発達が不均衡となった時人類は重大な危機に陥るのである。そして、神の意志は常に万物に開放されている。知ろうと思えば知ることが出来るのである。ただ神の意志を明らかにしていく為には、自分の認識を常に公開し、また、公開することが可能でなければならないのである。故に、言論の自由は保証されなければならないのである。
 神の存在は隠然たるもので直接知覚することは出来ない。人間は、現象や表象と言った外に現れた象を通してしか存在を認識できない。しかし、神は普遍的な存在であり、象は、無常なものである。無常な象によって普遍的な神を知覚せざるを得ない事自体に人間の認識力の限界と矛盾が存在する。そこに偶像崇拝を生み出す原因がある。不完全な物質や現象によって普遍的で完全な存在である神を象徴する事は不可能である。故に、偶像崇拝は神の本質を見失わせる危険性があり禁じるべきものである。しかし、人間は弱いものであり、自己の信仰の証を求めるものである。また、信仰は日常生活の中に形式化する事によって根付くものである。そして、大切なのは、神の本質を理解することである。また、純粋の存在を感じる為には、自己の感性を純化し夾雑物を取り除く以外にない。そのために有効なのは、念を統一して一つの方向に集中することである。故に、神の本質を正しく理解しているのならば、偶像を崇拝すると言う意味ではなく信仰の表現として、また目標として神の印象を象徴化した像や存在物を拝む事は必ずしも許されない事ではない。無論その場合でも偶像を崇拝することは許されない。つまり、形あるものは信仰の目標としては許されるが、信仰の対象としてはならないのである。
 偶像とは、神や超自然的対象を象徴化し、それに象(かたち)を与えたものである。つまり、象なきものに象を与えたものである。それだけに象の背後にある本質が失われ易く象のみが独自の意味や力を持ち一人歩きしがちなのである。人間は対象を認識する為には、対象の表象に頼らなければならない。人間は対象に意味付観念の中に取り入れていくためには、象から入っていかなければならない。しかし、それは人間が現世を生きていくための方便に過ぎない。目に見える現象が移り易いからと言ってその現象の背後に隠されている本質を見落とし世をはかなむのは愚かである。神の摂理は普遍的であり、人間の力に限界があるだけなのである。神の像を拝むのは人間の力の限界が為しめるものであり、方便としてのみ許されるのである。故に、象に捕らわれては神を理解できず、また、象を通してしか神を直感できない。ここに人間の矛盾が存在する。故に、偶像崇拝は否定されなければならない。特に、偶像は神の像としてのみ現れてくるものではなく形あるもの全てがその対象となり得る。純粋の信仰は神の存在と自己の存在との一対一の関係によってのみ成立し間に如何なる媒介も介在させるべきではない。只、神への啓示を受けるための手段としてのみ媒介物や媒介者は許容される。神への信仰は、神の本質を正しく見抜く事によってのみ成就するのである。
 偶像崇拝を排する事は、排他主義を意味するわけではない。むしろ、排他主義的な考え方を否定するものである。即ち偶像崇拝を排するとは、偶像にまとわりつく諸々の神聖不可侵な条項を廃止、どの様な思想や教義にも無批判で受け入れることなく公平な立場で検討する姿勢を言うのである。つまり、どの様な思想教義教典でも、それを成立させている根拠を明らかにし、確認することに依ってその根拠自体を前提とした上で逆に教義教典を解釈していこうとする姿勢である。神を聖典によって解釈するのではなく、聖典を神に依って解釈することを意味するのである。
 キリスト教や仏教、イスラム教、儒教を比較してみるといくつかの共通点が見いだされる。そして、人類は、重大な変革に依って原始的宗教から近代的宗教へ脱皮してきたことが解る。それは即ち、人格神の超越である。そして、その変革をもたらしたのがヨーロッパでは、キリストでありインドではブッタであり、アラビアではマホメット、中国に於ては孔子だったのである。人格神を超越することは、人格神を否定する事を意味するのではない。只、人格神を超えた処にある真理に、より、一層の絶対性を置くことである。つまり、従来の神をも従わざるをえない法則を認めることである。人格神を否定する必要がないことによって、既成の宗教を容認してはいるが、結果的には、既成の宗教にとって脅威となり、現実には否定していくことになる。そこから、諸々の錯覚や誤解、そして迫害が生じる。近代的な宗教の開祖は、従来の宗教を否定しない変わりに、旧弊な戒律や教義に捕らわれず自由で大胆な発想をしたのである。そのために多くの教祖や信者が迫害の対象となった。この様に生成した近代的宗教もやがて土着の宗教や神秘主義的な考え方に融合しまた、時の権力者に利用されることによって変質していくのである。そして、近代的宗教が生まれた当初の、神に対する認識が薄れ人格神的なものが復活し、迷信に支配されるようになる。この様な宗教の変質を打ち破り、新しい自然観を育んだのが科学だったのである。
 近代宗教の教祖達は、まだ漠然とした形でしか人格神を超越していなかったが、それを更に突き詰め明確にしたのが科学者達である。しかし、だからと言って科学者達が人間を超越した存在、即ち、神の存在まで否定したわけではない。むしろ、自然の神秘に触れれば触れるほど、人間の力では計り知ることの出来ない存在が、存在することを悟っていったのである。故に多くの著名な科学者達は、信仰心が篤く既成の宗教を否定してはいない。科学を突き詰めれば詰めるほどかえって信仰心を高めていったのである。しかし、科学的な考えの発展は、現実に既成の宗教と対立する事になる。また、世俗化した宗教勢力に対抗している権力者に科学は利用されることになる。このことによって皮肉な事にかつて近代宗教の開祖達が辿ったのと同様に多くの先駆的科学者達が既成の宗教によって迫害を受ける結果になったのである。こうして、既成の宗教と科学を対立的に捉え相いれないものとして見なす傾向が生じ、その行き着くところがあらゆる存在から神格、神性を否定し、物質的世界を絶対視し神の否定へと発展したのである。こうした、科学の前提としているものを錯覚することによって既成の宗教を支えてきた者とは違う意味で唯物主義者や無神論者達は、結局物事の根底にある本質を見失うことになったのである。
 科学とは、本来自分達が現在持っている能力では、どうしても解らないもの、どうし様もない存在を率直に認め、素直にそれを受け入れていこうとする姿勢がなければ成立しない。それ故に、科学者には、対象の存在を無条件に受け入れていこうとする心、信仰心が必要となるのである。故に、本来科学は現代に真の信仰心を復活させる様なものであっても、神と対立したり否定するようなものではないのである。
 ポワンカレが言う様に一部の独善者が考えているのとは違い物自体に対する考察はとりあえず保留し物と物との関係を明らかにしていこうとするのが科学の正しいあり方なのである。
 科学者達はなぜ男と女がいるのかについて語ってはいない。ただ男と女の関係についてや又、どうすれば子供が生まれるかについて研究しているのに過ぎない。最近は、どの様な仕組みで男女の性別が分かれるのかについてある程度解明はされてきたが、それでもそれはなぜ男と女の性別があるのかと言う問題とは本質的に違うのである。又、男女の中は、生物学、物理学的な発想だけで割り切れるものではない。男と女の関係について研究する為には、男と女の存在を前提としなければならないのである。そして、男と女の存在を前提とするためには、男と女の存在を超越した存在を認めなければならないのである。その様な存在が神である。故に、科学者達は、誰も、神を否定も、肯定もしていないのである。只、科学は、自己を超越する存在を、肯定しない限り、物自体の存在を、前提とすることは不可能である。それを象徴しているのは、ガリレオの裁判である。ガリレオは、確かに裁判に於て相手の主張を認めたように思える。しかし、それでも地球は回ると言う言葉に象徴されるように、ガリレオは、人間の観念を超えた存在を認めたが故に、それを前提とする事に依って、相手に妥協することが出来たのである。即ち、それまでの宗教を容認しながら、同時に、それまでの宗教にとらわれずに自己の世界を作り上げることに成功したのである。
 神を信じるからこそ、既成の宗教と妥協も出来るのである。それは、近代的宗教の教祖開祖の生き方によくにているのである。ただ、近代宗教は神について明確にすることによって迫害を受けたが、科学者は暗黙に前提とする事によって迫害から難を逃れたのである。つまり、科学者達は、物自体の存在に対する考察を保留することに依って自己を超越した存在を暗黙に認めると同時に、神自体に対する不毛な議論に巻き込まれることを回避したのである。その意味では、キリストもブッタもマホメットや孔子も最も科学的な考え方をしていたと言えるのである。
神を理解するなどと言うのは、土台無理である。なぜならば神は自己を超えた存在であり、人知の外にあるからである。我々が必要とし、又、要求されているのは、神をただただ信じることのみなのである。神を理解したと思った時から人間の思い上がりが始まるのである。大体神を理解したところで何の益もない。人間が精神の安心を得られたいのならば神を理解しようなどと考えずに神を無条件に信じるべきなのである。
 人間は、自己と他者とを関係づけなければ生きていけない。しかも、どの様な関係にするかは人間の意志に委ねられている。悪縁は、蔓延し易く、良縁は、侵され易い。良縁を守るものは、人の意志である。ここに、神の意志を感じる。軽薄な観念主義者は男と女の別があることを不条理とか、矛盾していると捉えるかもしれない。しかし、それが人間が関知し得ないことであることを彼らは忘れている。いくら不条理とか、矛盾していると思ったところで、どうなるものでもない。神は依怙贔屓していると喚いたところで男と女の性別がなくなるわけではない。我々は、そこにある神の意志を素直に受け入れ、よりよい関係を築き上げるための努力をすべきなのである。現代人は、神の宝物倉に入り込んで、傍若無人な振舞いをしているようなものである。其の報いが人類の上に降り掛かったとしても、神を呪ったり、恨んだりすることは、出来ない。その罰は、自らが犯した罪の報いなのだからである。
 真に権威あるものは、目に見えないものである。つまり、直感的に感じるものである。神の姿を見たり、神の意志を直接聞くことは出来ない。しかし、神の存在や神の意志を直感する術がないわけではない。例えば、生命の神秘に触れた時、神の尊厳を感じるであろう。また、死という現実を前にした時、神の冷厳さを感じるであろう。そんなに、たいそうな事でなくても、夕焼けの美しさに心を打たれた時、神の恵みを感じるであろう。
 神を感じるのは、人間の心である。人間と機械との違いは何か?それは心である。心ある者は、ものの哀れを感じることが出来る。心無い者は、ものの道理をわきまえることが出来ない。つまり、人間の五感に於て知覚し得ない何ものかを感じる心が人間にはあり、それによって目に見えぬ因縁を知ることが出来るのである。人間には愛情や友情、悲しみや喜び、善悪、美醜を感じる心がありその背後には、目に見えぬ神の意志が働いている。人は心があるから夢や希望を抱き、目的や願望を生み出し、そして、神を感じることが出来るのである。それは神の摂理である。人間にとって最も人間らしいものそれは心であり、そして、中でも信仰心こそその最も代表的な心なのである。なぜならば、自己愛を突き詰め超越することによって生じる普遍的な愛が信仰心だからである。人間は自己の行動全てを計算づくで決定しているわけではない。心がなにものかに感応することに依って動くこともある。何事も自己の価値観に基づいて論理的で決定論的に考えたとき、人間の行動の持つ意味が理解できなくなる。合理的に考えているつもりになっている人間ほど、自分の不合理に気が付いていない。なぜならば自己の価値観は相対的なものであり、人間の能力には限界があり、その上、神のような存在を直接知覚することは出来ないからである。故に、他人の行為や自己の理解を超えた存在を認めることの出来ない者は、結局自分の身を危うくすることになる。自由とは、自己の価値に縛られ欲望に隷属することではない。自己の存在を知り、自己の意志に従うことである。そして、その根底にあるのが存在を存在たらしめている存在への絶対的な信頼即ち、神への信仰がなければならないのである。
 対象に対する認識は、対象に対する心の感応に依って始まる。それは、行動の始まりでもある。五官を通じて、自己が対象を何等かの形で受け止めたとき、人間の活動は始まるのである。心の感応がすぐに善悪の判断に結び付くわけではない。先ず、我々が対象に接して、最初に作用するのが、美意識である。美意識が問題意識を通して善意識に昇華され行動規範に転化されるのである。宗教は、対象に対する認識がまだ、論理化される以前の意識、つまり、美意識に依って形成される。美意識こそ、信仰心の原初的な意識である。それ故に美意識には、論理的動機がなく、信仰も論理に依って拘束することは出来ないのである。また、美意識が人間を論理上の限界から開放してくれるのもそれ故にである。故に、神は論理的に拘束することは出来ず、論理的に拘束した瞬間から神はその本質を失うのである。
 美意識は、心の感応に依って生じる意識である。感動が人の意識を揺さぶり、好奇心や冒険心を刺激する。好奇心や冒険心が人間の行動を触発し、人間の行動は経験を蓄積する。経験に依って人間は価値観を形成し、善意識に目覚める。善意識は人間の意志を生み出し自己の意思決定をより強固で円滑なものにするのである。そして、人間は自己の意思に基づく行動を検証することに依って対象の真偽と自己の価値基準の正否を判断するのである。自己の行為に対する対象の反応、自己の価値観、そして、自分の感情が矛盾していなかった時、人間は自由な気分になれる。それ故に人間は、自己の一生を通して、真善美を一致させ様とするのである。さもなければ人間はただ生きているだけの存在になってしまう。そして、此の真善美が一体となった究極に存在するのが神である。そして、それは美醜を超越した美であり。善悪を超越した善であり。真偽を超越した真理なのである。
 美は、絶対の権威に、心が感応した時、感ぜられる感性である。ただ、象に囚われている者は、美を象(かたち)に対して感じているのだと錯覚しがちである。心が感応するのは、形ではなくその背後にある存在に対してである。同様に神への信仰は、神そのものに対してでなければならず、宗教の粉飾に目を奪われて、信仰の本質を見失ってはならない。美は、象を通して象の背後にある権威を直感する時にもたらされる感性である。象は、外形に過ぎないことを忘れてはならない。
 美の認識は、対象を純化し、象に対する執着心を切り捨て、対象の真の姿に感応することである。美の表現は、自己の感性を純化し、自己の外に表出していくことである。美の認識は、対象の存在を純化する事によって得られ、美の表現は、自己の存在を純化することである。そして、その究極に存在するのは、神の存在である。存在が純化されたものそれが神である。人間は夕日や落葉にものの哀れを感じては涙を流し、生命の誕生や夜空の星に神秘を見いだすのは、そこに、自己を超越した存在を感じ。子犬や子猫を見ると愛らしく感じ、人の死に戦慄するのは、自己の命を直に感じるからである。そして、その直感こそ神の存在を予感させるものなのである。神に崇高なものを感じるのは、自己を超越したものを感じるからであり、神を畏敬するのは、自分の宿命を感じるからである。そして、命の尊さへの自覚こそ神への信仰の糸口なのである。この様な神への思いが芸術を生んだ。そして、真実の芸術は、観念に囚われる事なく、神に対して感じたことを率直に表現している。神に感応する心は、審美的なものなのである。故に、瞑想や規律正しい生活によって心身を浄化し、また、スポーツや勉学によって心身を鍛えることによって自己の感性を研ぎすまし、自己を超越する存在に感応する力を高めることが、神を知るための近道なのである。
 なにものかに徹すれば美となる。様式に徹すれば様式美となり、機能に徹すれば機能美となり、形式に徹すれば形式美となる。徹するとは、何事にも執われずに物事を一つの事に純化することである。物事に執われずに対象や自己の存在を純化すれば存在そのものが美となる。人間は自己の存在を美化していく過程で自己の純粋性を保ち神に近付く事が出来るのである。そして、対象の存在を純化していくことによって美を表現し自己の存在を超えた存在を感じさせることが出来るのである。
 人間は、象(かたち)を通して、自己を表現し、対象を認識する。しかし、自己や対象は、象として現れたとき、対象や自己の絶対性も普遍性も失せてしまう。人間が語り得るのは、象についてのみであり、又、人間が表現しうるのは象だけである。象から入り象に終る。人間は、象以上の事を、直接的に変化させる事が出来ないのである。故に、人間が出来るのは象を整えることである。人間は、直接他人に変節を強制したり、精神を拘束したり、考えを固定したり、心や魂を支配することは本質的に出来ないし、仮に出来たとしてもしてはならないのである。人の心は、その人とその人の神のものである。美しいと感じるのは、自分である。その感性を、他人に強要することはできない。自分が美しいと感じたからといって、自分以外の人間に、その人の意志に反して、つまり、その人が美しいと感じてもいないものを、無理やり美しいと感じさせることは出来ない。確かに、人間は、恐怖心によって一時的に、考え方が変わったりする事があるかも知れない。又、環境を変えたり、教育をしたり、何等かの手術をしたり、催眠術の様なものをかけたりして、間接的にその人の感性を変えるようにすることは出来るかもしれない。しかし、その人の人格や人間性を無視して、それ強行、強要したとき、その人間の人格、即ち、心や魂は喪失してしまい、人間としての自律性を失ってしまう。自分の思いのままにしているようで、それでは、結局は、肉体だけを支配したに過ぎないのであり、相手の心を支配したわけではないのである。。人間とは儚い存在なのである。その様な、はかない存在である人間と人間を、人間と世界を、結び付けるているのが神の存在である。神は、自己の存在を突き詰め超越したところに存在する。故に、神は一人一人の心の中に存在するものである。自己の存在と神の存在は、不可分なものであり、神は自己を通して知覚されるものである。信仰は、自己の内的世界に依拠したものでありそれ故に信仰を強要することは出来ない。また、強要された信仰は無意味なのである。
人間同士の取り決めは御互いの合意に基づいている。それに対し自然と人間との関係は一方的なものである。その上、自然の法則に従わない限り、人間は生存することは不可能である。人間の創り出した取り決めは閉鎖的であり不完全であり相対的であるが、自然の法則は開放されており完全であり絶対的である。人間は人間の取り決めを変えたり逃れたりする事はできても自然の法則を変えたり逃れることは出来ない。自然の法則は予め明示されているわけではない。自然の法則は、こうしなければならないとか、ああしてはならないと言ったべからず集やタブー集ではない。法則は人間の努力によって解明され、人間の意志によって活用されるのである。自然の法則は活用の仕方によっては人間を保護し発展させるようにも、逆に人間を破滅させ滅亡させることにも作用するのである。それが神の摂理であり、意志でもある。それ故に、結局人間の運命は人間に委ねられているのであり、神への信仰も個人の意志に任されているのである。神が司るのはそれ以前の問題である。結局自分の心が大切なのである。他人がどう思おうと又他人からどう言われようと自分が心から美しいと感じ、正しいと思う生き方でしかも自然な生き方こそ人間の生きるべき道なのである。自分が正しいと信じしかも自分の心にやましい処がなく、道理にも叶っていることならばそれに従って生きていく以外に自分の同一性を保つことは出来ないのである。自分の人生すら信じることが出来なくなる。現代人は、自分の生き方を他人に対し正当化したり、美化したりすることに汲々となっている。しかし、言葉だけで自分の生き方を正当化することも美化することも出来ない。又、他人がそれを判断するのでもない。自分の生き方と自分の心が決めることである。あるがままに感じたことをあるがままに表現すれば、そこには必ず真実がある。下手な注釈や説明は無用である。そこに自己と神との結び付きの糸口があり信仰の意義がある。自分に嘘をつかず、素直にあるがままに生きている限り、我々は我々を超えた存在と一体になれるのである。故に人間は神への信仰によって自己の限界を超えて一つの世界を共有することが可能となるのである。
 良い道具を持っている民族が優秀なのではない。山賊や海賊が性能の良い武器を持てばそれはかえって不幸を招く。野蛮か否かは、それを使うものの心によって決まる。優れた文明を持っていたところで他民族を滅ぼしたり、支配したり、差別するために、それを活用するとしたらそれは野蛮な行為である。現に、戦前の日本がそうであった。道具は、建設的にかつ創造的に使われてこそ、人間の役に立つ。軍事費によって民を疲弊し滅亡させたら、人は其の国を文明国とは言うまい。優れた兵器を生み出し、所有する国を他国は崇高な国民として崇拝するであろうか。良い制度であってもそこに住む人間が悪ければ盗賊の巣窟となる。強健な肉体を持っていても、心根が悪ければ悪鬼となる。要は心の問題なのである。心根さえしっかりしていれば象は常に改められる。
 しかし、我々は、其の心を直接知覚することも表現することも出来ない。人間は心を知覚するにせよ表現するにせよ、象を借りなければならない。それは、人間の宿命である。人間が、自己善を成就するためには、目に見えない自己の心を研ぎ澄まし、誘惑や欲望に負けずにまた、権力に妥協したり、時流に迎合せず自己の意志の赴くところに従って行動していくだけの強い心に鍛え上げなければならない。人に惚れたならば、外聞に捕らわれず、そして、どの様な時でもどんな事があっても相手を信じ抜くだけの強さが必要なのである。同様に人間は目に見えぬ神を信じて生きていく勇気を持たなければならないのである。近代科学の発達は、それまで不可能だったことの多くを可能にした。不治の病を克服することに成功した。しかし、それは神を否定することを意味しているのではない。現在新種の疫病(エイズ)が流行の兆しを見せ、人々はパニックに陥っている。そして、多くの予言や終末論が横行している。しかし、人類は、これまでペストを始めに天然痘や結核、梅毒と多くの病気と戦い共存し克服してきたのである。今の騒動は、現代人の虚弱さを垣間見せている。現代ほど信仰を試されている時代はあるまい。神をおろそかにする一方で神以外のものに救いを求める以外になくなっているのが現代人である。人類が先ずしなければならないのは現代に真実の信仰を取り戻し、困難な問題に取り組んでいくための勇気を取り戻すことなのである。
 海が裂けたり、死人が生き返ったりそうした奇蹟によって神の存在の証としようとする傾向があるが、そんなことが実際に起こったかどうかは別にしても神の存在の証とはその様なことをさして言うのではない。自分達にはどうし様もないことが存在し。どうしても解らないことが存在すると言う事実こそが神の存在の証なのだ。そして、その当り前に存在するものが信じられるか否かの問題なのである。自分達を取り囲む森羅万象を支配する法則や原理が絶対的で普遍的であると信じられれば、それで安心して生きていける。それが、神様の気分や精霊達の都合によってちょくちょく変えられるとしたら、神様に胡麻を擂ったり、精霊達の御機嫌を伺わなければなるまい。しかし、それでは神様の諮意によって人間の運命が左右されることになる。神に人格があるとしたら、神は公正でなくなる。故に、神は、非人格的な存在であり神に人格を見いだすのは、また付与するのは人間の観念である。
 神を一言で言えば、神は只存在するのみ。真理といい、仏といい、神、道、天、自然という。或は、気と言い心といい、自己、生命、魂ともいう。だが結局同じものを意味しているのだ。自分達の力では動かし様もないものが存在する。つまり、神とは父母のようなものである。如何に自分で自分の両親が気に入らないから自分には父母はいないと主張しても両親の存在を否定することは出来ない、また両親の存在を抜きにして自分の存在は存在し得ない。科学は、現実の世界の関係を明らかにしたに過ぎない。現実には動かしがたい事実がある。その事実に立脚しているのが科学である。故に、自分にとって両親の存在は否定しようのないことである様に科学者にとって神の存在は絶対的なものであり、普遍的なものなのである。たとえそれが悪逆非道な両親だとしても我々は両親の存在を前提とした上で彼らとの関係や自分の一生を決めていかなければならないのである。同様に神の存在を前提とし神の存在を認めた上で神と自分との関係や自分のあり方を決めていかなければ物事の真実は見極められないのである。神は父母のようなものである。故に、我々は、それを信じなければ明日を信じることが出来ない。神を感じるのは父母の愛を感じった時と同様にそれは、直感によってである。つまり、感じるのである。それを本性直感と呼ぼう。人間はその存在を只黙って受け入れる以外にない。否定も肯定も出来ない。また、人間とはそれ以上の存在でもそれ以下の存在でもない。神に対し左様左様、しかり、しかりの存在なのである。だから只信じればいい、志せば良いのである。後は、現象に付いて語るだけである。現象を問題にすれば良いのである。科学は対象の存在を無条件に受け入れるところから出発するのである。対象の存在を無条件に前提と為し、そこから現象に付いて分析するのである。そして、その存在を存在たらしめている存在こそ神である。即ち、科学は神の存在を前提としなければ成立しないのである。
 神の摂理とは、我々が生きていく上で当然だと感じ、また、気にもならないものである。野球をやるのに、いちいちその都度ルールを変えていたらスポーツを楽しむことは出来ない。それを当り前だと感じたとき人間は自由に運動が出来るようになれるのである。明日の朝日が登ると信じているから人間は安心して床に付くことが出来る。自分と信じる神が違う国を飛ぶ飛行機も同じ原理で飛んでいる。体制の違う国を走る車も同じ法則によって走っている。だからこそ我々は安心して飛行機にも自動車にも乗れるのである。人間の観念では支配できない世界がそこにある。だからこそ我々は思想や信条を超えて、一つの世界を信じる事ができるのであり、一つの世界を共有する事が可能なのである。そして、そこに人類の未来への可能性を見いだすことが出来るのである。
 自由とは、解禁を意味するのではない。つまり自由とは向こう側にあるのでなく自分の側の問題なのである。自己の開放や自己善の創造を意味するのである。心を研ぎ澄ませて、選択をする力を養うことである。故に、自由とは、欲望に隷属することではない。自己の欲望を満たすためには、目的を選ばない人間を人は自由な人間と言うであろうか。それは、欲望の虜に過ぎない。人を殺したくなったときに、人を殺してしまうような人間を自由な人間と言うであろうか。強烈な刺激にしか感応しない人間を鋭敏な人間と言うであろうか。心の感応力を鋭敏にすることであり、それは強い刺激になれることではない。自由とは、自己の行動を正当化するための免罪符ではない。人間は過ちになれたり不正に鈍感になってはならない。限界があったり制約があるから自由になれないのではない。自己の心を抑制管理できないから不自由なのである。自己の目を持たない者は自由にはなれない。自由になるためには人の目を気にせず真実を見極める目を持つことである。故に我々は、些細なこと、ひそやかな事をおろそかにしてはならない。日常的でつまらないことの中にこそ、真実は存在するのだからである。誰にも明らかな問題を見いだすものを洞察力があるとは言わない。そうした微かな兆候から真の問題点を見いだすから洞察力があると言うのである。奇蹟とは、派手なことや突飛なことを指すのではない。壮大な宇宙を貫く、平凡なことを指して言うのである。日常性の中に奇蹟を感じる者は神を身近に感じるであろう。人間に優しさがなくなったのではない。優しさを感じる感応力が鈍ったのである。きらびやかなものに目を奪われてはならない。美は何処に出もある。塵溜や糞尿の中にもある。空白や静寂の中に神を感じる心があれば美を感じることが出来る。どの様な騒音の中でも心を澄ませば、微かな色合いや音色を聞き分けることが出来る。どの様な状況下でも確かな自分と言うものを感じることが出来るそれを自由と言うのである。自由の背後には必ず神が存在する。そして神への信仰心を支えるのが情感であり、情緒なのである。
 現代社会は、欲望の坩堝である。何でもかんでも、欲望に結び付けて、説明しなければ、誰も納得しない。誠。情け。愛。こういった言葉は、あるが、実がないから、誰も、それを信じようとはしない。しかし、それは本当に真実の姿だろうか。言葉を陳腐なものにし、その実体を失わせたのは、人間である。昔は、自己の存在を超える存在が常にあった。家にも、学校にも、職場や社会にも、国家にも、自己の存在を超える存在が存在した。そして、その存在を意識するから、人間は、畏敬心も、尊敬心も、向上心も持てたのである。恐れの中から生じる勇気。尊敬心が、育む愛情や思いやり、礼節、そして、優しさ。向上心がもたらす、憧れや希望。それらが、人間の一生を、豊かにもし、実り多いものにもするのである。怖いもの知らずの無謀や、見せかけだけの虚勢。自分の思いや考えを、只、押し通していこう、押し付けていこうとする、我が侭身勝手独善。無知による諦観や思い上がり傲慢。それらを、黙認し許す社会を自由社会と言うのだろうか。
 結局、現代人は、人間の精神の根幹にある心を失いつつある。情緒情感の源が心である。自分が本当に従うのは自分の心だけだ。人の苦しみや哀しみ、不正に感応するのが心である。だからこそ、心の命ずるままに私は生きる。現代人は、人間らしい心を捨てようとしている。自己を超えたところにあって、心を生み出すよりどころこそが、神である。どの様に凄惨な状況の中でも、地獄の中でも、神を見いだす事はできる。神は、神を信じる心の中に居られるのからである。苦しい時に、辛い時に、神を見いだすことによって人は生きる勇気、つまり、平常心を持つことが出来る。神を信じるからこそ、自分の心を貫き通すことが出来るのである。それが自由な生き方である。
 廉直な人間は戦争の原因になりやすいものである。苛斂徴求の政治を行うのは潔癖な人間である場合が多い。彼らの多くは現実の世界を呪い、この世を退廃堕落の地とし、架空空想の世界に自己の理想を見いだそうとする。また、他人との妥協を拒み、自分の考えを絶対視、自分の意見が受け入れられない原因を一方的に世の中に押し付けるようとするものである。そして全ての人民を自分の理想の世界に押し込めようとする。それは傲慢なことである。我々に与えられたのは事実である。事実に綺麗も汚いも醜いもない。綺麗だとか汚いと感じるのは人間なのである。この世に綺麗だとか汚いとか言った存在は本来ない。現実を先ず受け入れることが神を受け入れることなのである。大切なのはこの世をどう感じるかではなく。どう居きるかなのである。思想でこの世を見てはならない。主義でこの世を支配してはならない。思想や主義はこの世を正しく知る過程で人間一人一人が作る出すしていくものなのである。だから現実の世をいかにより良くしていくかの中でこそ真の理想は生まれ、そして神の愛を感じることが出来るのである。
 神の意志はこの世の調和と自己の意志の成就即ち自己善の実現である。神がこの世の統一を司っている限り神の意志は普遍である。そして、近代的個人主義と近代的民主主義はこの神の意志に沿うものである。存在を存在たらしめるのが神であるのならば存在するもの全てに神性は存在する。その内的神性の発揮こそ神の意志であり、発揮された神性の調和こそ神の望むところである。そしてそこに自由の実相がある。社会に妥協は必要であるが社会は妥協の産物であってはならない。内的な神性を発揮する時人間は自己を確立する。この確立された自己によって人間の社会は発展するのである。
 人間神からチャンスを与えられているのである。只、そのチャンスを生かすか殺すかは、自分の問題なのである。しかし、それは、無条件でも無期限でも無原則でもない。チャンスには、条件も原則も期限もある。しかも、その条件や原則や期限は個人個人違う上、自分で見いださなければならない。自分が生まれたことをチャンスと思うか、不運と思うかは、自分の問題であるが、チャンスをチャンスだと思わないものは、そのチャンスを生かすことは出来ない。そして、自分がそのチャンスを生かせないからといって神や親を呪うのは筋違いなのである。現代人は、小さな幸せがあれば良いと言う。ささやかな幸せ以外望まないと言う。しかし、その様な小さな幸せやささやかな幸せが一体誰によってなにによって支えられているのか知ろうとはしません。彼らの言う小さなささやかな幸せなど、戦争や自然災害、事故、病気と言った災難によって一瞬にして吹き飛んでしまう。しかも、全ての人が自分の幸せだけを求めていたならば、人々の諍いはなくならず結局争いや憎しみの種をまき散らすことになる。だから一方で自分の幸せを願うのならば、もう一方で崇高な理想を以て社会に対する責任を果たし自分達を影で支えているものに対する感謝の念を持たなければならない。「御影様で。」そうした感謝の念と使命感こそ信仰なのである。


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