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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第2章第2節  信仰

 絶対普遍的な存在を信じ、それを無条件に受け入れていこうとする心、それが信仰心である。人間誰しもが潜在的にはこのような信仰心を持っている。無信心、信心といっても自分の信仰心を自覚しているか、いないかの差にすぎない。また、信仰心の表現の仕方や方法の違いよって日常生活や意識に差が生じているのにすぎないのである。人間は自己の存在を支えるものを前提としない限り自分が生きていることを確信できない。そのうえ、自己と自己の属性との同一性が保てなくなる。故に自己の価値観や精神を正常に保つ為には無意識にせよ意識的にせよ自己を超える存在を人間は無条件に認識していなければならないのである。どのような神を信じるか信じないか、どの様に神を信じるのかは自己を超越した存在に対する認識を前提とした上で自己の主体的な意志によって決定されるのである。即ち、神に対する考え方の差によって信仰のあり方の差が生じるのであって、神の本質は不変的なものであり、神の本質によって信仰の表現の差が生じるのではないのである。
 疎外感は信仰心の欠如によって派生するのである。自己の存在感から自己の生活や仕事、価値観といった自己の属性が遊離したとき人間は疎外感に襲われる。こうした疎外感から信仰心は自己の一体感と存在の同一性をもたらすことによって自己を開放してくれるのである。つまり、信仰心は成長に伴う外見の変化や、経験や学習からくる価値観の変化と言った自分の変化によって移ろい易い自己の同一性を、存在という不変的なものにおくことによってより確固たるものにし、疎外感から自己を救うのである。
 此の世は修羅の場である。暴力に残虐、エロス、退廃と堕落、欺瞞に偽善、争いと破壊、不正に怨念。昨日見た夢は今日色あせ。今日の美徳が明日悪徳となる。善人が偽善者となり。誠が偽りに化す。栄光は淡く。挫折は長く心に残る。誇りは脆く、屈辱は忘れ難い。退廃や堕落は甘美に見え、正義や純潔は欺瞞に映る。悪行に人は勇気を競い、自制や忍耐は臆病だと錯覚している。人間は業の深い動物だ。愛憎別ち難く、心は移り気、人は不実、心変わりは早い。恋は人を盲目にし、愛欲は人を狂わせる。愛するが故に、愛する者を傷つけ、試さずにはいられない。たとえ、人を愛しても自分の思いが成就するとは限らず。成就せねば通じぬ思いに身も心も悶え苦しむ。それでも人は人を愛さずにはいられない。故に、愛は憎しみに変わり易い。だが、人を愛することが罪だと言うのならば生きること自体が罪だ。一体、人間は、何を信じて生きていけば良いのだろうか。出会いには必ず別離があり。出会いの数だけ別れがある。そして別離は、人間の心をズタズタに引きちぎる。孤独は人を絶望させ、生きる気力さえも奪い去る。あさましきかな人間。有限の時に無限の望みを託す。欲望は止どまる所を知らず。望みを果たさんが為には、人を欺き、仲間の足を引っ張り、友を蹴落としてまで這上がろうとする。悲しみは果てなく。苦しみの種は尽きない。理想は現実に打ち砕かれ、夢の彼方に遠ざかり、現実は、人間の醜さをいやと言うほど見せつける。純潔は汚され易く。過ちは癒しがたい。親が子を殺し、子が親を捨てる。歓びは苦しみとなり、賞賛は妬みに変質する。繁栄は衰退の始まりである。誠に禍福は糾える縄のごとし。故に、人が神を信じるのは、おのが命の確かさを信ぜんが為に信じるのである。己に与えられた宿命に満足する者は少なく。身の不運を嘆いては、人生を呪い続ける。人の不幸をあざ笑っては、自分の不幸を恨む。他人の幸せは自分の不幸。他人の成功は、自分の恥辱。生まれては、病を恐れ、死の影に脅え。神を侮っては、快楽に身を焦がす。そのくせ自分が犯した罪におののき報いを恐れて神を罵る。貧しい時は、神を呪い、豊になれば更に貪欲となる。自らを省みないで人を責め。自分の罪を悔い改めようとはしない。大切なものは失ってはじめて気がつく始末。充実した時は瞬く間に過ぎゆき。失われた時は取り戻せはしない。美人は、美しさに故に醜くなり。豊なる者は、豊かさ故に貧しくなる。強健な者は力に執着して力に負ける。若い時は、若さにおごり、老いてはじめて人生の短さを嘆く。遅い。遅い。だから生きていく勇気を得んが為に人は、神を信じるのだ。此の修羅の世にありて、誘惑は断ち切り難く、自らの節操を護るためには、余りに人間は弱い。故に、人間は信仰の力にすがるのである。自らの過ちを自らが許すことは難しく、さりとて人の一生は過ちに満ちている。過失は、我が身、我が心を責める。だから、人間は自らの過ちを悔い改め、神に許しを乞うのである。信仰がある故に、人は自らの罪から開放され、新しい人生を開くことが出来るのである。広大無辺の宇宙の中で人間の存在は卑小な存在に過ぎない。人間は此の圧倒的な現実の前に常に自分の身を晒し続けているのである。信仰心を失えば、たちまちのうちに此の現実に押し潰されてしまうであろう。人間は、自分と此の宇宙との一体感によってのみ、自己と自己を取り囲む世界との間の溝を埋めることが出来るのである。
 無神論者の生活も篤信家の生活もそれに徹すれば酷似する。信仰心とは、無条件なものである。祈らず。誓わず。頼まず。祭らず。心の命ずるままにあるがままの姿で生きていくのが信仰本来の姿である。祈りも、誓いも、頼みも、祭りも神を試すものである。全てを信じ神に委ねてしまえば、精一杯生きていくことに専念することが信仰の証となる。信心深い者は、神を試すようなことはせず、自分に与えられたものの中で自分を活かす努力をする。それは、受動的な生き方を意味するのではなく。頼っても仕方のないものを頼らず、自分の力で神から与えられたものを最大限生かしていくことである。必要なものは総て与えられている、後必要なのは自分の努力である。不平不満によって心を塞ぎ遠回りして無駄な労力を費やさずに前向きに生きていくことこそ信仰の本来在るべき姿なのでなのである。自分を大切にして誠実に生きていくことが信仰の正しいあり方なのである。
 キリストの為した奇蹟の中で最も偉大な奇蹟は、復活でもなく処女受胎でもなく自己の信仰を最後まで貫き通したことである。状況や宿命に逆らうことも逃げることもせず、また、圧力に屈する事なく毅然として自らの心が命ずるところにし違って毅然と自己の信仰に殉じていった事である。その精神の崇高さに対して我々は時代を超えて感銘するのだ。キリストの死は、自己の真実と自己の置かれた状況との相克が人間にもたらした悲劇と言えるだろう。だが人間が自己の真実を尽くそうとする時現代社会おいても彼のような強い信仰心を要求されるのである。そして、この様な相克は、現在でも存在し信仰の必要性は今も変わらない。変わらないどころか、より一層強い信念がなければ信仰を成就することは叶わないのである。人は常に内面の正義と自己の立場との間を揺れ動き、時として生きていくために自分の信念を曲げなければならないような状況に置かれる場合がある。それでなくとも、人間を取り囲む環境には、自己を堕落させる誘惑が多く存在しまたそれを正当化するための理屈も多く用意してある。また、人間はただでさえ他の生き物を犠牲にしなければ生きていけない宿命におかれているのである。その意味では、キリストが人間に変わって贖った罪は、現代人の上にも重く伸し掛かっているのである。人間が、自分の信念を貫き通した一生を送ると言うのは至難の技なのである。
 人は、皆、罪人。この世に罪を犯さない者が在ろうか。ちょっとした弾みで話した言葉で人を傷つけたり。何気なくしたことが惨禍を招いたりする。しかも、愛すれば愛するほど、責任ある立場になればなるほど犯す罪は重大となり、愛する者を絶望の淵に追いやり、一国の運命や人類の未来をも左右しかねない事になる。人間は、好むと好まざるとに関わらず一生の間に罪を犯し続けるはめになる。殺生を罪というならば、人は、毎日幾千もの罪を重ねていることになる。これは、人間に与えられた宿命である。何人も避けることは出来ない。自分の悪行の報いは自分が受けなければならない。しかも、小さな悪行でも大きな報いを受けることも在れば、大きな悪行でも小さな報いの時もある。只、報いは報いである。今日の正義も明日には罪となり。明日の義人も明後日は罪人となる。とりよう一つ、考えよう一つで何事も罪となり、何を言っても弁解となる。交通戦争の事を思えばいつ加害者の立場になるか解らない。悪い病を患えば知らず知らずのうちに悪疫を人々の間に振り撒くことになる。自分の利益を求めれば他人を犠牲にせねばならない。生きている限り人は愛するものを傷つけ自分以外の者を利用せずにはいられない。ならば幸せに成ろうとすること自体罪なのか。人は、一生の間にこの様にして知らず知らずのうちに日々の罪が累積して億兆もの罪を重ねることになる。戦争は人類の犯す大罪である。しかし、その罪を逃れようとすれば自らに災難が降り掛かる。罪は人を外から圧迫し、内から打ちのめす。生きんと欲すれば罪を犯し、死を望めば望むこと自体罪となる。この罪の重圧を考えると人間は片時も安心できない。ならば、人間は、罪を犯すことを恐れて何もしなければ良いのか。罪を恐れて罪を見逃すのは罪を犯す事以上の罪である。かと言って自らを滅ぼすのは父母に対する根源的な大罪である。進んでも退いても罪は深まるばかり。誠にこの世は苦娑婆である。人間は業の深い生き物である。しかし、考えてみると生きているうちに人間が責められるべき、罪は、そのうちの極僅かに過ぎない。しかも、神はこの僅かな罪をも許して下さる。そして、この人間の罪を許すことの出来る存在は神のみである。人間は自己の存在を超える存在を信じるから自己の罪を許し、また他人の過ちに寛容になれるのである。自分以外の存在を信じられなくなった時人間は、自分すら許せなくなってしまう。人間は何者かに生かされていることを実感するから生きる勇気が湧くのである。それでも生きている。生かされていると思った時、人間は神の意志を感じるのである。それすら、信じられなくなってしまったら、人間は生きていく勇気すら失うであろう。故に、いくら強がりを言ってみても神に対する信仰がなければ、人間は、寸刻も心の休まる時がないのである。自分の命の温もりを感じた時、自分の存在を感じ、その背後にある神の存在を直感するのである。
 子供達を見ている時、幻想を抱くことがある。遊び疲れてふと気が付くと砂浜に一人取り残され泣きながら親を捜している子供の姿が目に思い浮かんでくるのである。それは、残酷な幻影である。二十世紀はお祭りの時代であったように思えてならない。しかし、祭りもいつか終るときがある。また、毎日がお祭りでは目眩く思いに惑わされてしまう。祭りが過ぎ去った後の寂寥感、祭りの最中にそんな思いに取り付かれるのは愚かなことかも知れないが、しかし、誰かが祭りの後始末の事を心配する必要もあるはずである。自分達が浮かれている間に現代人は子供達の事を何処かに忘れてきてしまったのではないだろうか。一人海岸に残され、また人混みにはぐれて親の姿を求める子供達の姿を思うのは、誠に切ないことである。現代は、密室の中で巨人同士が諍いを起こし、互いに爆弾を抱えてにらみ合っているようなものである。一方は、自由主義の理想を唱え、いま、一方は共産主義の大義を振りかざす。しかし、争えば生き残るものはいない。滅び去ってしまえばどんな理想も大義も無意味である。なぜこの様な馬鹿げた事態になったのか誰にも解らない。ただ、一つ言えるのは憎しみ合っているうちに神の存在を見失うか、否定するかしている事である。そして、それは人間の思い上がりを意味していると言うことである。その人間の思い上がりが子供達から未来や夢、そして、神を信じていこうとする心を奪い孤独にし、やがて地球上から子供達の居場所を奪っていってしまうのである。
 現代人は、恐怖に囲まれて生きている。死に対する恐怖、病気に対する恐怖、離別に対する恐怖、飢えへの恐怖、戦争に対する恐怖、不況対する恐怖、職を失う恐怖、災難に対する恐怖、破滅破局への恐怖、人類滅亡への恐怖、一家離散への恐怖、失恋する恐怖、失敗への恐怖、孤独に対する恐怖、不幸に対する恐怖、地位や名誉、富を失う恐怖、漠然とした恐怖、恥をかくことへの恐怖、馬鹿にされることへの恐怖、この様に、人間は、恐怖に囲まれて生きているのである。現代の恐怖は、科学的であり、それ故に、なおさら現実観や説得力があるのである。しかも、今の子供達は、その生々しい恐怖の中で生きているのである。特に人間を苦しめるのは、死に対する恐怖である。この様な恐怖に取り付かれると人は身も縮み心も塞ぐ。寸刻も耐えることが出来なくなる。自暴自棄になったり、自分の将来に絶望したりする。甚だしい時は自分の命まで失ってしまう。恐怖を克服するためには自信を取り戻さなければならない。自信を取り戻すために必要なのは、自己を存在せしめる存在即ち神への信仰なのである。神は、人間を苦しめる目的だけでこの世に人間を生かしているわけではあるまい。自己が生きていると言う事実が大切なのである。自分がこの世に存在している。自分を存在せしめている存在を信じるからこそ人間は自己を責めたてる恐怖に打ち勝つことが出来るのである。沈む太陽が明日登ってこないと思ったら人間は耐えられるであろうか。人間は自分が死んでも世界が終るとは思ってはいまい。しかし、自己にとって自分の死は自分の世界の終わりなのである。神を信じない者でも自己を超越した世界を無意識のうちに前提としている。さもないと自分の一生が無意味なものになる事を知っているからである。自己の存在が無に帰すこれほどの恐怖はあるまい。だからこそ人間は自分の死んだ後もこの世界が存続することを願うのである。そうした、自己を超越した世界を支えている存在こそ神であり神の摂理なのである。この神に対する信仰が強ければ強いほど自己の存在への確信は高まり、自己のうちなる恐怖を打ち破ることが出来るようになるのである。現代人の恐怖の根源はにあるのは信仰心の喪失なのである。
 一体神は、憎しみや諍いを教えたであろうか。然るに、彼の信者達や彼の子の弟子達は自分達の正当性を主張し、憎しみや諍いの種を蒔散らす。宗教が信仰を滅ぼす事があるのは、宗教が世俗的権威と結び付くことによって信仰の本質を見失わせてしまうからである。信仰がその結果として現世利益をもたらしたとしてもそれは信仰の本質ではない。信仰による代償を求めたり、神の存在の証を求めるのは愚かである。信仰は信仰そのもの即ち魂の救済に目的があり、信仰を持つことによる結果として何等かの利益を得ることが目的なのではない。なぜなら魂の救済は、信仰によって得られるのであり、現世利益は魂を救済するどころか人間を堕落させる危険性の方が強い。しかし、信仰の力は強くそれを利用すれば現世の利益を結果的にもたらすことが多い。その為にその力を利用しようとする者が現れる。信仰が現世利益の為に利用される時、その対象が無条件絶対的なものだけに信者達に無条件絶対的な服従を強いることを意味する。その上それが特定の個人や団体の闘争の為の道具や利益追求の手段として利用された場合、信仰本来の目的である魂の救済からむしろかけ離れ魂の荒廃や堕落を招く恐れもある。故に、宗教団体が信仰の代償として、現世利益を約束しまた自らもその恩恵に浴した時、信仰も宗教もその本質が喪失し堕落が始まるのである。人間は弱くそれ故に信仰の力を借りなければならない。しかし、その弱さに信仰の名を借りて付け込もうとする者が居る事を忘れてはならない。信仰は、本来、一人一人の心の問題である。心の中にある神聖なものを大切にすることこそ信仰の目的であり、信仰によって心の在り処や自分の心を失うとしたら、それは誤った信仰である。信仰は自分自身を見つめ直すために必要なのであり、信仰によって自分を見失うことがあったらばそれは信仰に似て全く違うもの寧ろ信仰を否定するものである事を忘れてはならない。真の信仰とは、神を心の中に思い。心の中で静かに祈ることなのである。
 内的な神性を自己実現していく過程で実体化するのが信仰である。自己の存在を存在たらしめる存在への自覚が信仰であり、自己の存在から自己善へと方向付ける力が意志である。そして自己善を判定する基準が価値観である。信仰と意志と価値観によって人間自己の行動の方向性を一定させることが出来るのである。自己の行動の方向を一定させる事は、自己の生き方のに整合性や統一性を持たせるために不可欠なのである。いわば信仰は自己の行動を一定させる為のおもり、錨のようなものである。この様な信仰は純粋に個人的なものであり、行動の方向が社会秩序や他者の権利に対し危害を加えないかぎりその選択は自己の意志に帰さなければならないのである。故に、どの様な教団に属しどの様な神を信じるのかは純粋に個人の問題である。もし、宗教に何等かの弊害があるとしたらその様な純粋な個人の心を利用して特定の個人や集団の権益や権力を伸ばそうとする者が居る事であり、教団と教団が権力を伸ばし合いその争いに人々が巻き込まれ、妥協のない闘争を続けることが問題なのである。どの様な国に生まれ良心がどの様な神を信じていようと最終的にどの様な信仰を持つかはその人個人の問題である。故に信教の自由は守られなければならないのである。同時に信仰の対象も尊重しなければならない。信仰は純粋に個人の心の問題である。どの様な宗派に属していても信仰の基本は代わらないはずである。純粋の信仰心とは神を心の中で念じることである。故に、信仰が他者の権利や権益を侵犯しないかぎりはこれを尊重しなければならない。信仰はその人の存在感から発生するものである。その信仰をみだりに否定したり愚弄するのはその人の人格や存在をも否定することにつながるからである。無論信仰のあり方が他人に対し何等かの脅威を与える場合は別である。例えば信仰を強要され従わなかった時身体や家族に危害が加えられる危険性があると言った場合は別である。その様な場合を除いて何を信仰の対象とするかは純粋に個人の選択の自由に帰するべき問題である。
 始めに言葉ありきではなく、存在ありきである。絶対的権威は目に見えない。また、神意は言葉で伝えられるのではない。目に見えないからいろいろと想像したりまた敬い畏れもする。只信じ難い、信じ難いから象(カタチ)に現そうとする。これが第一の過ちである。釈迦にせよ、キリストにせよ、自分が信じていることを文章と言う象で現そうとはしなかった。それが無意味であることを知っているからである。著名な科学者達も、少なくとも真理に対する信仰心は持っていたはずである。持っていなければ現象の背後にある普遍的原理を探究することなど出来はしない。只彼らの成果を利用しようとする者は違う。彼らの成果を目に見えるもの耳で聴けるものにつまり形あるものにしようとしたのである。その時、宗教は広がったが信仰の本質は失われたのである。絶対的権威は、只それを信じる意外にないのである。そして、それを信じる心即ち信仰心なのである。つまり信仰とは漠然と全てを信じることであり、水平線の彼方を、遠いところを見るように神を信じることなのである。 
 絶対的権威、存在である神は、直接象(カタチ)として表すことは出来ない。只、神を間接的に象(カタチ)によって感じさせることは出来る。そこに芸術の意味がある。芸術は、自分が感激したこと、感動したこと、感銘を受けたことを再現したり、神や普遍的な存在を表現しようとすることによって成立する。そして、そこから発展して美であろうが、醜であろうが、自分の生に感じたものをそのまま再現表現しようとする傾向が強くなり芸術が成立したのである。絶対的な存在が無為なものであることに気が付いたからである。しかし、それでもそこに表現されたものが神そのものを意味するのではないことを忘れてはならない。信仰の対象は象(カタチ)ではなく神そのものでなければならないのである。
 象(カタチ)は変化するものである。また、象など状況に合わせて幾らでも変化させることが出来る。肝心なのは、信仰の本質であり、本質は象(カタチ)を変化させることが出来るが象(カタチ)によって左右されるものではない。キリストは、決して過去の律法を否定してはいない。只、過去の律法に囚われていないだけである。それは律法の持つ本質を理解しているからである。同様に教団を否定してはいないが教団に盲目的に服従するわけでもない。信仰の対象は、律法でもなく、教団でもなく神自身だからである。教団や律法は、信仰の依り処に過ぎない。象(カタチ)は、状況に適合しなくなったならば変えれば良いのである。象に真実や本質があるわけではなく事実や変化が示すことにこそ真実があるからである。その意味で変わる事の出来ない象(カタチ)と言うものは寧ろ、神の摂理に反するのである。象を信じるのではない。象を象たらしとめる存在を信じるのである。聖書や教典を金科玉条のごとくあがめる教条主義者達に創立者の意志を継ぐことは出来ないのである。
 人間は、観念の動物である。人間の社会は観念に依って形成される。また、自己は間接的認識対象であるから、自己の存在意義や内的世界を直接的な対象として認識しようとする欲求が生じる。その為に観念を何等かの外的対象に依って表現しようとする。そう言った要素が重なって人間は目に見えない観念を象(カタチ)で現そうとする。しかも、自己の内的世界と、外的世界への働き掛けは作用反作用の関係にある。人は、何者かを自分が信じ、愛し、認め、頼ることに依って自分を信じ、愛し、認め、頼ることが出来るのである。また、何者かに自分が信じられ、愛され、認められ、頼られるから自分以外の人間を信じ、愛し、認め、頼ることが出来るのである。愛情は愛情の中で育まれ、信頼は信頼の中で成長し、礼儀は礼儀に依って磨かれるのである。父母の愛や周囲の人々のを囲まれる事に依って、他者への愛が生まれるのである。同様に自己に対する強い確信は信仰に依って得られる。信じ、愛し、認め、頼ると言う心の作用の四つの要素の中で、一つの要素もなければ、自己は自己の内面の世界を維持することが出来ない。心の四つの要素の一つでも欠ければ人間は不安から開放されないのである。信じ、愛し、頼り、認めると言う心は象(カタチ)では現せない。しかし、象(カタチ)に現さなければ相手に自分の気持ちを伝えることは出来ない。そこに、唄が生じ、絵が描かれたのである。また、哲学や思想が生まれ、価値観や恋愛観又は婚姻制度が作られたのである。しかし、では唄や文学又は哲学や思想に依ってその真実を伝えることが可能であろうか。又、婚姻制度に依って愛は保証されるであろうか。文学や哲学は信頼や愛の姿を伝えることはできてもその本質を伝えることは出来ないし、婚姻制度は夫婦の関係や権利を保証できても、愛情を保証することは出来ない。況や存在を存在たらしめる存在。絶対的存在である神は象(カタチ)によってその本質を表現することは出来ないのである。なぜ偶像崇拝を否定するのかは、芸術的な動機で表現することを否定するのではなく又象(カタチ)を恐れるのでもなく、象が本質を差し置いて雄弁に語り始めるのを恐れるからである。その象とは、只、彫像のみを指すのではなく教典や旗象徴と言ったもの一切を含んでいるのである。
 信仰とは、志しの反作用である。志しとは、意志である。善や美を志向する心である。外に向かって善や美を希求する心が強くなればなるほど本来内面の絶対的存在に対する信仰心は強くなるのである。その様な信仰心とは、自己の道や生き方に徹しようとする強い信念となって現れ。それがよりいっそう意志の力を強めるのである。故に、信仰は人間を至純にし、志しは人間を絶対の境地に導くのである。自己を純化し得たものは、自己の存在に対する疑念や迷いから開放され、自己の行動に陶酔することが出来る。恍惚として、自らの生を楽しむことが出来る様になるのである。それが忘我無我の境地である。自己の存在を信じることに依って、自己の行動に罪悪感を感じることが無くなりそれ故に自己の行動を正当化する必要もなくなる。それは、圧倒的な信仰の力の賜である。それだけに、信仰心は、あらゆる誘惑や迫害弾圧に耐え自己の内心の規範や道徳を護る強い力になると同時狂信的で排他的なものに変じる危険性も伴うのである。 
 信仰は、人間を至純にする。人間は自己の人生に酔うべきだ。自己の生に酔った時、人間は、我欲を捨て、自己の信念に徹することが出来る。そのためには、儀式によって自己を演出したり、礼節によって自己の生き様や行動を美的にすることに、逡巡する必要が何処にあろう。自己の一生を意義あるもの美しいものに出来る者は自己以外に居ないのである。美を重んじ、善を尊ばぬ人間は、それだけでも人間性を持ち合わせてはいない。信仰は、人間に美や善に対する強い志向をもたらす。それ故に、信仰心は最も人間らしい感情なのである。そして最も人間らしい感情だからこそ人間は信仰をあり方次第で人生のあり方まで定まるのである。それだけに信仰の持つ意味を人間は正しく理解していなければならない。人生を心地よく酔うか悪酔いをするかそれは上質の信仰心か否かによって決まる。不純な動機や野心によって神を信じれば人生は悪夢となるのである。同様に神以外の存在を神と錯覚すればその人は地獄に墜ちてしまう。心の信仰とは、自己の魂の救済であり、自己の自立を阻害するものではなく、自己に盲目的な服従や迷信、破滅的な行為を求めるものではない。
 故に、信仰の対象を誤ることは危険なことである。信仰は自己の意志を強く拘束する。それ故に、自己の信念を絶対的なものとする傾向が強く。それが行き過ぎてしまうと排他的なものになったり、人格を破綻させたり、狂信的なものに変化させてしまう危険性がある。故に、信仰の対象は慎重に選び、同時に儀式典礼戒律の持つ意味を正しく理解しなければならない。象(カタチ)あるものは変化する。変化する象を、信仰の対象とすれば、象の変化に囚われ翻弄されてしまう。特に、失われるもの、滅びるもの、移ろい易いもの壊れるものは信仰の対象としてはならない。また、人格を有するもの、世俗的権威に利用され易いものは信仰の対象としてはならない。また、神秘的な力や現象を信仰の対象としてはならない。権力や世俗的権威、富、名声といった実体のないものを信仰の対象としてはならない。それらは世俗的な世界でこそ役に立つのであり、それと絶対的権威が結び付くことは、最も危険なことである。世俗的権威と絶対的権威とは明確に分離しておかなければならない。世俗的な体制や力や富に絶対性を与え、その絶対性を独占しようとするのは愚かなことである。国を愛する心とは、親が子を慈しみ、子が親を慕い、夫が妻をいたわり、妻が夫をいとおしむ様な自然な感情である。その時の体制を指示するにせよ、否定するにせよその様な感情を前提としたものでなければならない。その国に住む人々や土地風土、風俗歴史、文化や生活、自然を愛するからこそ大義が生じ又変革にせよ体制擁護にせよ議論に参加することが許されるのである。国に対する愛情を前提としなければその議論は不毛で空しいものである。そして、その愛情は体制即ち世俗的権威向けられるものではなくその背後にある絶対的なものに向けられる向けられるべきなのである。それを突き詰めたところにあるのが信仰である。故に、信仰心とは、至上の愛を指すのである。人間が忠誠を誓うのは、そうした、自己の存在のよって立つところである。体制が滅んでもその国の国民や文化が残れば国は再建できる。しかし、その国の国民が国家としてのアイデンティティ同一性一体感を失えば国は成立しない。その一体感を支えるのが愛国心である。故に、真の愛国心とは、体制に対する忠誠心を指して言うのではない。体制や権力者が国民の利益や存亡に反する存在になったり、又背信的な行為をした時、その体制や権力者を倒すのも又愛国心である。自分の肉体を失う時人間は死ぬときである。国民が愛国心を喪失した時国が滅びるときである。世界が人間としての秩序や統一性を失った時世界平和は終局する。地球の自然の調和が乱れた時人類としての種は滅亡する。人が死んでも国は滅びない。国が滅んでも人類が滅亡するわけではない。人類が滅亡することが地球の崩壊を意味するのではない。しかし、地球が失われれば人類は存続できない。人類が滅亡すれば、国は滅びる。国が滅びれば家族も無事ではいられない。目先の小さな事や自己の利益によって信仰の対象を選べばより超越的な対象を見失い結局押し潰されてしまう。故に、信仰の対象とは大宇宙をも支配し普遍的で超越的な存在でなければならない。星や太陽は壮大な宇宙を感じさせてくれる。海や山は、雄大な自然の息吹を感じさせてくれる。壮大な宇宙を感じたとき、独立不羈の気概が生じ、雄大な自然に肌で接触したとき、神聖な存在な対する畏敬心が生まれ敬虔な気持ちになる。朝夕、それを祈りその気概や畏敬心を日々新たにするのも良かろう。そうした人間の内面から湧き上がってくるような敬虔な気持ちや畏敬心こそ信仰心の自然なあり方である。人類を貴ぶことによって戦争の愚かしさを知るのも又良し。信仰の対象は世界平和や子供達の幸せへの願いといった崇高な精神や理想、真理への探究心や自然に対する憧景と言った感情の対象が最も自然なものである。自分を生み、育んでくれた文化や風俗を愛するから文化や風土自然を公害や侵略といった荒廃から護ろうとする精神が生まれる。そうした、普遍的なものへの愛情こそ信仰心の母胎である。そこに、民主主義の原則が生じる。この様に、信仰は至上な愛。絶対的な愛である。故に、民主主義は愛国心や信仰、忠誠心によって支えられているのである。つまり、民主主義は国民の愛国心を前提として、その献身的姿勢によって支えられているのである。制度や言葉と言った変化する象(カタチ)を信じるから、変化する状況に対応できず身を危うくするのである。権力や富といった淡くうつろい易いものに取り付かれるから権力や富に取り殺されるのである。だからこそ信仰の対象は絶対的なものでなければならず、世俗的権威から独立していなければならないのである。そうした注意を怠らなければ現在世界的な宗教と呼ばれている既存の宗派に所属しても危険性はないと思われる。 
 現代は、科学技術に対する信仰の時代である。現代人は科学技術の成果に神の力を見いだしている。だが、これほど危険な信仰の対象はない。科学技術は所詮利害得出の術に過ぎない。科学技術は確かに人間の生活を豊かにした。しかし、技術は技術に過ぎない。いくら不妊技術が発達し、中絶手術が発達したとしても生命の貴さに変化はないのである。かえって技術の発達はそれを使用する人間の理性の発達を伴わなければならない。兵器が発達したからと言って人類が神の力を自分のものにしたわけではない。寧ろ本来神の力である理性は奪われ人間から自制心すら失われようとしている。人はパンのみに生きるにあらずと言う言葉が今こそ真実味を帯びて聞こえる時代はない。生計は、生きる為の手段に過ぎない。生計によって根本義の生命の真実を歪めることは本末の転倒である。本来科学の本質は技術ではない、真理の探究である。真理を探究する過程で技術が生じ発展した。その結果として技術の発展は莫大な利益を人類にもたらしたのである。しかし、あくまでも技術は科学の副産物に過ぎないのである。技術が莫大な利益をもたらすと思われなかった時代では科学は一部の好事家の趣味の域を出なかったし、科学者は変人奇人、時には狂人扱いを受けたものである。それが技術が莫大な利益をもたらすと言うことが判明すると科学者は聖人扱いになり、科学的研究に莫大な資金が投じられるようになった。しかし、その反面で科学は逆にその本来の本質を失ってきたのである。それは既成の宗教が教団の発展や教典の絶対化とそれに伴う世俗的権威との癒着によって信仰の純粋性が失われたように、科学は技術の発展に伴う現世利益によってその本質が見失われようとしている。私は、文明や科学、技術を否定するつもりはない。しかし、技術や文明がその効用を発揮するのは、自然や真理に対する畏敬心があるときだけである。現代人が技術を過信し過ぎた結果公害を蔓延させ、非人道的な兵器の発展を促した。挙げ句の果て、技術の優劣によって民族や国家の優劣まで左右しようとする風潮まで生み出したのである。資源を浪費を未来の技術を無邪気に信じることによって正そうとはしない。驕慢なり人間。これを科学技術に対する誤った信仰の為せることである。技術それは、人間の生み出したものに過ぎない。それも、自然の摂理に従ってはじめて生み出し得たものである。
 不遇な時は天を恨み。一度、栄華を極めると天を侮る。人間とは、勝手なものである。だが如何に、天を恨んでみても、天を侮ろうとも天は天である。人間の都合でどうなるものでもない。神様がなんとかしてくれると考えるのは、人間の身勝手である。天が人間に役に立つか立たないか、それは人間の都合である。自分の都合で対象を見ているから本質を見失うのである。人を侮れば、自分が侮られ。海を汚せば自分も汚れる。天に唾吐けば自分の顔に掛かる。天は常に、あるがままの姿でいる。恬淡たるものである。それ故に、畏れ敬うのである。それは天が自分に利するからでも害するからでもなく。天は天であり、それを信じることによって明日を信じることが出来るからである。信仰の在りようとはそうゆうものだ。ただ信じんが為に信じるのである。
 よく小説や芝居に他人を自分の思い通りの人間に作り替えようとする作品がある。女性を小さいときに引き取り自分が気に入るような教育をして理想的な女性に育て上げようと試みたり、人間を改造して自分の野心の道具に仕立てようとするのがそうである。現実に国家教育と言うものは多少はあれその傾向を持つものである。しかし、教育とは本来その人の個性に応じて為されるもの出なければならない。それはあるがままの相手をあるがままの姿で愛することである。姿形のある人間にすらその様な願望を持つくらいであるから直接知覚できない神に対して人間は自分かってそのイメージを作り上げてしまう。しかし、それは神に対する冒涜以外の何物でもない。そして、自分達に取って都合の悪いことは、悪魔や妖怪変化のせいにしてしまう。全くどちらが悪党なのか判らない。大切なのはこの世の存在をあるがままの姿で信じることである。この世の存在をあるがままに信じること即ち現実を直視することによって初めて我々は問題の本質を理解し解決することが可能となるのである。この様にただ虚心にその存在を信じることそれが即ち信仰心である。
 信仰は心の余裕から生じる。窮してから信じるのでは必ず下心がある。故に本来純真な神への信仰とは余裕のある時にこそ生まれる。故に、信仰は遊び心に通じているのである。遊びとは、自己の緊張を解し、自己を拘束するしがらみから開放し、明日への活力を養う事である。遊びは、生活から開放し、自己を陶酔させるものを言う。故に、典型的な遊びとは、歌舞音曲、詩歌、読書、映画や演劇講談の観賞、スポーツ、探検、酒宴会食、ゲーム、談論、静座瞑想、園芸書画骨董、茶道生け花、登山旅行と入った、生活から自己を開放し、心に安らぎを与えてくれるものである。遊びを台無しにするのは賭博、暴飲、淫逸である。賭博は、生活の基盤を台無しにし、勤労意欲を失わせる。賭博は、人間の悲しむべき習い性なのかも知れない。淫逸は、人間から情味を奪い、艶や円やかさをなくす。つまりは、人間性を奪う。泥酔は、健康を損ね、精神を荒廃させる。遊びとは、心を研ぎ澄まし、情緒情感を養う事である。歌を唄い、音楽を奏でることによって心の平安を求め。スポーツで汗を流すことによって勇壮の気を養い。旨いものを食べて滋養を蓄え。旅や読書によって見聞を深めるそれが真の遊びである。そう考えると現代人は遊びを知らない。自制心をなくし欲望の赴くままに行動することを遊びだと考えたいる節がある。その結果遊びによって健康を害し、不和を招き、精神を荒廃させている。それでは遊ぶ意味がない。遊びとは本来健全なものである。遊び心とは気宇で在ればあるほど自然に近寄る。大体遊びたくて遊ぶのではなく遊ばなければいられないから遊ぶのである。自分の心を緩め自分を上手に遊ばせることそれは、心を豊かにする必須条件である。  
 本来遊びは信仰や愛情から生じるものである。祭りは遊びの原点である。恋は遊びの源泉である。神を強く信じることによって自分を許し。天に全てを委ねることによって自分を開放する。神を祭ることによって日常的な拘束やタブーから解き放たれ。無条件に何かを信じることによって安堵し心の平安を保つ。それは、深く愛し合った恋人達に似て楽しそうに幸せそうにまた自由に見えるものである。本当に愛し信じ合うからお互いに自分の全てを明らかにし甘え合うことが出来る。そして、その信頼があるから、本当の厳しさも同時に生み出すことが出来るのである。恋をすれば何をしても楽しく、苦しみから開放される。だから恋は最高の遊びなのかも知れない。常に、不安を抱き、オドオドしている人間は、心にゆとりを持つことが出来ない。心に余裕のない人間は自分の心を遊ばすことが出来ない。至上の愛や信仰を持つものは、常に安住できる。故に、信念や信仰を持つものはどの様なときにも自分を遊ばせることが出来る。愛情に包まれている者は、苦しみを喜びに変える術を知っているものである。疑る事を知らない無邪気な子供は遊びの天才である。それは、両親の愛情に包まれまた両親への絶対的な信頼があるからである。信仰なき者は親に見捨てられた子供のようにはかないものである。
 最近の言論界の専横には目に余るものがある。ペンは剣より強という格言があるがそれはペンを持つものに対する警句でもある。今のマスコミの人間は、自己の言動に対する責任を自覚していない。犯罪を誘発しながらその犯罪を種に一儲けする。小火を煽って大火と為す。これはもう立派な犯罪である。反戦を標榜しながら、革命や内乱惹いては戦争を誘導する。漫画家は漫画が子供達に与える影響は少ないとして、どぎつい漫画を正当化する。言論の自由を盾に取って性表現の緩和を求め金儲けを隠して正義漢面する。一体糖尿病の患者が甘いものをほしがったからと言って砂糖を大量に与える医者がいるであろうか。子供に刺激の強いものを与えれば成長に良くないことは解っているはずである。今のマスコミは子供達に麻薬を与えているようなものである。自分の悪行を隠蔽する為に理想を持ち出すのはもっとも卑劣な行為である。
人間にとって労働は天職である。天が與えたもうたものであり、それによって人間は生活をしているのである。労働や勤勉を軽視するのは間違いである。ただ労働を苦痛ではなく歓びに変えられるような環境や条件を整えることが肝心なのである。労働は自己の生存即ち存在意義の根源である。つまり、労働は日々の糧をもたらすと共に、社会的使命を人間一人一人に与える。それは、人間が人間として生きるための根源的な意義を人間一人一人に問いかけてくるものである。労働は故に、神が與えたもうたものであり神聖なものである。労働生活にこそ信仰の本質はあり、日々の労働に感謝し労働の成果を大切にし神にこれを捧げ真剣に働くことこそ信仰の最も自然な現れである。故に、信仰は信仰によって得られる利益に意義があるのではなく信じることに自体に意義があるように労働は労働の成果に意義があるのではなく労働そのものに意義があるのである。
仕事を選ぶとき必要なのは志すことである。自分の仕事を天職と思い定めそれによって自分の生活を支え、社会的責任を果たすことを覚悟することである。労働の成果に対し正当な分配を得るのは当然の権利である。しかし、肝心のは、労働から得られる報酬ではなく自己の信念である。有名になることでも金持ちになることでも地位を得ることでもない。自分の労働に誇りを持ち自分の生活に見合った報酬で満足することである。大切なのは自己の存在意義と自己の信念である。誘惑に負けて贅沢や快楽に身を委ねれば際限なく欲望は広がり、やがては自分で制御することが出来なくなってしまい結局欲望の奴隷となってしまう。自己の一生を意義有るものにし自由に生きるためには、自己の欲望を制御し、社会的責任を自覚することである。そして、その本質は自分を自分として在らしめる存在に対する信仰と自分を自分たらしめる為の志しにあるのである。
 文筆家や芸術家、学者は虚業家である。文章は影である。実体はその背後にある。歴史を文章にしたところで、史実の前には、生彩がない。その影が本体を差し置いて雄弁に語り始めた時が怖いのである。元来文章とは、志しを言葉で表現しようとすることに端を発する。例えば、事実や真実を民衆に伝えるとか、大衆の心を代弁するといった具合いに何等かの使命や社会的責任を志したときに本領を発揮する。つまり、言論家が実を持ち得るのは志しを持った時だけである。それは、取りも直さず、自分が建設的な立場から、是是非非を明確に打ち出すことに他ならない。ただ外野席から無責任な言動を弄する事でもなく、興味本位や面白半分で社会を混乱させることでもない。それは、事実を曲げ真実を見失わせることであり極端に言えば警察が泥棒をするようなもので下手な放火魔よりも質の悪い社会的犯罪である。しかるに現代の言論界は金儲けを第一義にし志しなど時代遅れの戯言位にしか思っていない。金の為ならばどんなに醜い事、汚い事でもする癖に、本当に醜い事や汚い事怖い事、不愉快な事は人々から隠蔽し民衆にあらぬ幻想を抱かせては人民を愚弄している。また、事件とは時空間的に発展するものである。迅速さや新奇さを競う事によって、事件の時空間的発展を無視し時には犯罪者に情報を漏らしたり荷担することによって事件の解決を妨害する例すら見受けられ、また、犯罪者や過激な人間を挑発して犯罪を引き起こしたりする例さえある。金にすらなれば、その結果などどうでもいい。責任は国か社会にとらせればいいと考えている様にすら見受けられる。強い刺激のある情報を流すことによって人間の情緒情感は破壊される。毒性のガスを流すことが身体的に危険なことは明かであり、取締われても精神に有毒な情報は野放しにしろと主張するのか。しかもその都度引合いに出されるのは言論の自由である。言論の自由はいつからそんなに薄汚れてしまったのだろう。言論の自由は尊い多くの血によってあがなわれたものである。言論の自由がうす汚いこそ泥みたいな輩によって危機に瀕するのは耐えがたいことである。言論を生業にする者に限らず、必ず仕事には志しが必要である。志しを欲望にすり替え、ただ自分の欲望を充足することだけを目的としたら、資本主義体制は退廃化し敗北するのである。そして、その様に退廃から人類を救えるのは志しであり、志しを支えるのが信仰なのである。資本主義や物質文明が信仰を葬り去れば人類は滅亡するであろう。子供達を見るがいい、人間の善意や愛情など信じようとすらしなくなりつつある。夢や理想など愚か者の夢想であり、犠牲だの奉仕なんて有り得ないと思い込んでいる。金の為なら人を欺き体を売り、恥も外聞もかなぐり捨てどんな事でも平気で行ってしまう。人を利用することしか知らないから無償の行為など信じたりはしない。自分達が生まれたのは親の快楽の結果であり、自分達は親が勝手に生んだものだと思い込んでいる。子供達は信じることを忘れようとしている。現代人が子供達に与えたのは愛情もなく信じられる確かなものもない不毛の世界である。
 人間は物ではない。命も心も感情もある生身の生き物である。唯物論は人間をただ単なる物体と見なす論ではない。ただ、命や心といった論理によって表現できない対象について語らず現象についてのみ語っているのに過ぎない。唯物論がどうの、唯心論がどうのと議論することほど不毛な議論はない。なぜならば我々が対象としている問題は一つの事実を問題にしているからである。レッテルを張り替えることによって一党一派を為すのは売名行為に過ぎない。本当の真理や物自体の存在について我々は語り得ないのだからそれを無条件に信じる以外にない。人間はとっくの昔にその事に気が付いている。現代の最先端をいく科学者にしても、マルクスにしても、釈迦やキリストにしても気が付いていたはずである。孔子はだからこそ吾怪神乱魔を語らずと言ったのである。信仰は、人格神が存在するか、心霊現象や超自然現象が起こるか、死後の世界が存在するか否かの議論以前の問題なのである。一体神がどうあろうと死後の世界がどうあろうと信仰には問題にならない。死後の世界があろうとなかろうと信仰心の本質が変わるわけではない。もし仮に変わるのだとしたらもはやそれは純粋な信仰心ではない。信仰は、人間に取って必然の問題であって語るべき事もないほど当然な事だからである。両親の事をどう思おうと両親がいなければ我々は生まれなかった事は事実であるし、両親がどんな人間であろうとその存在を信じなければ我々は自分の存在を信じることは出来ないのである。両親の事をどう思うかそれはそれ以後の問題である。同様に神をどう思うかは、神への信仰以後の問題であり、神を否定してしまったら自己の存在そのものが信じられなくなってしまうのである。つまり、神は万物の母であり父なのである。律法に拘泥する者は、今一度新約聖書を読み直す必要があるのではないだろうか。我々は、どう仕様もないほど確かな存在を目の前にし、少なくとも今はそれを信じているのではないか。何をそれ以上信じる必要があろう。神は存在するのみ。信仰とはあるがままの世界を素直に信じることを意味するのである。
 それ故に神を越えることも越える可能性もないのである。神は光のようなものである。光の速度を越えるものはない。神は自己の存在を存在たらしめるものであり、神を否定することは、自らの存在をも否定してしまうことになるからである。神を越えようとすることは自らの存在を越えようとすることであり、それは自らの存在を否定してしまう事になる。この様な神を信じるからこそ人は、この世に存在する全てのものを肯定し、自らを絶対視することなく、自らの生存を計ることが可能なのである。
 人間は何かを信じなければ生きていけない。人間は生きているうちに多くの過ちを犯す。自分以外のものを利用しなければ生きていけない。生きていく為には他の生物を犠牲にしなければならない。誰しもが欠点を多く持っている。人間を取り囲む環境や人間の価値観ほど移ろい易いものはない。だから自分の自分を許し自分の生き方を保つためにはなにものかを信じなければ生きていけないのである。何の為に自分は生きていくのか。それは、何を信じて生きていくのかと裏腹の関係にある。人を信じ人の為に働けば亡くすことや裏切られることを覚悟しなければならない。名誉や富、地位を信じて生きていけば失われる事におびえなければならない。国家や体制を信じれば利用されることや不正に目をつぶらなければならなくなる。思想や哲学を信じれば己の生活や行動を拘束したり感情を無視しなければならなくなる。自分の仕事をよりどころにすれば自分の仕事に固くなになり人の意見を受け入れ無くなり生活をも苦しくする。家族の為に生きていこうとしても家族は思うように言うことは聞いてくれない。特定の結社や組織、集団を信じれば外の社会、世間に対し孤立し秘密を守らなければならなくなる。何れにせよそれは隷属である。故に、ただ自己の存在とその存在を存在たらしめる存在即ち神を信じるしかないのである。
 人間という動物はどうし様もない動物なのである。それを前提としない限り人類は良くならない。自然界の動物は欲望のままに行動したりはしない。意味もなく他の生物を殺したりはしない。厳しい自然界の掟に従って生きている。しかし、人間は快楽を求め欲望は絶えることがない。自分の楽しみの為に他の生物を情け容赦なく殺戮する。いくら理想的な戒律でも簡単な掟でも人間は護った例はない。そのくせ万物の霊長などと気取っている。この思い上がりこそ問題なのである。信仰心を失った人間は自己を抑制することが出来なくなる。何物も信じることが出来なくなり人間不信に陥る。自己の存在感を求めて強烈な刺激を求めるようになる。明日を信じることが出来なくなり刹那的な快楽に溺れることになる。又、畏敬心や思いやりの心を失いただ欲望の赴くままに行動するようになる。その行き着く先は、精神の荒廃と砂漠のような荒涼とした世界である。理想社会は戒律に縛られた世界でも又快楽の世界でもない。愛と創造に満ちた意志の世界である。そして、それこそ自由な社会であり、その世界は信仰によって支えられているのである。人類が滅亡の不安から開放されより豊かで幸せな世界を築くためには、信仰の力を今一度取り戻さなければならないのである。


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