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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第3章第4節  時間

 過ぎゆく時は、無情である。大切な一時を色あせたものに変えていく。思いだしてみよう昔の事を、自分が子供だったときの事を、幸せだった時の事を、記憶は、だんだん薄れ濃い霧に包まれていってしまう。去る者は日々に疎し。薮の中と言うが過去の記憶は、曖昧模糊としたものになっていってしまう。歴史的な真実とは、何か、今となっては解明できないことの方が多いのである。一つの出来事に対し人々の記憶はまちまちである。冤罪裁判を調べてみると如何にアリバイを確認するのが困難であり人々の記憶がいいかげんであるか思い知らされる。一寸先は闇。未来は深い闇にの中にある。来年の事を言えば鬼が笑う。明日の命も解らないと言うのに誰が未来に対し確定的な事を断言できるであろうか。時間。時間。人間は移り行く時間の中で生きているのである。悠久の時間。時間は遥か昔、恐竜の時代から今日まで絶えることなく流れ続けている。日は昇り、日は沈む。月は満ちて、また欠ける。無窮の時間。例え、私が死に、人類が滅亡したとしても、時間は流れ続けるであろう。しかし、私が死んだ後の世界や時間が自分にとってどれほどの意味があるのだろう。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。過ぎ去っていく時に、人は、人生の無常を感じ、そこから哲学が生まれ、宗教が生まれたのである。逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎てず。時は止まる事なく、人を彼岸へと誘っていくのである。歳月人を待たず。歳月の流れを前にして、何と人間の無力な事か、嘆き哀しんでも過ぎ去った日々は帰らず、ただ思い出だけが鮮やかに残されるだけである。人生五十年。下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。しかも、人間に与えられた時間には限りがある。一度生をうけ。滅せぬ者のあるべきや。大切なものは失われたときはじめて気が付くものである。後悔先に立たず。時の流れは、愛する人々、若さ、希望と人々から大切なものを次々と奪い去っていく。去る者は日々に疎し。そのうえ時間は、人々から大切な記憶まで奪っていってしまう。光陰矢の如し。過ぎ去っていく時は速く、取り戻しようがない。青年老い易く、学成り難し。おごれる者も久からず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もついには滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ。城蹟に立てば昔の栄華を思い、夏草にもののふの心を感じる。歴史は時間の抜け殻なのか。一体時間とは何か。過ぎゆく時を止めることは出来ないのであろうか。人生如何に生きるべきか。死のうは一定。ただ、時にもてあそばれて終るのも人生ならば、時間を味方に時を得て、青雲の志しを遂げるのも、また、人生である。
 古代人は時間を一つの滔々した大河の様なものだと考えていた。そして、その流れの始源と行き着く果てを考えたのである。万物は流転する。人が時間という言葉の響きの中に何ともいえぬ切ない思いがこめられている様に感じるのは、時間が森羅万象の変化を意味するからである。自然の四季の移り変わりは時間の一つの姿である。そして、人々は漠然と物事の変化の究極には全ての終末、無があると予感しているのである。時間はあらゆる現象の根源的なことである。それでありながら時間ということほど曖昧としたものはない。一度この世に生をうけた者に滅せぬ者が在るものか。人間の一生は正に時間である。人間の成長は時間の一つの現れである。この様な人生の終わりに何が待っているのか、時間が尽きる果てに何があるのか、人間はそこに果てのない奈落の底をのぞき込む思いがするのである。過ぎ去っていく日々。失われた時は、取り返す事が出来ない。禍福は糾える縄のようなものだ。出会いには必ず別れがある。幸せな時もいつか失われる。そして、幸せであればあるほど失ったときの哀しみは大きい。
 生と死。時間には、死の影がつきまとう。時間の経過は人間を死や老いへ刻々と近付けていくのである。始まりには、必ず終りがある。人類の滅亡、破滅。この世の終わり、終末。人は老い、死んでいく。如何なる権力者も富豪も最後に願うのは不老不死だという。草木は、いつか朽ち枯れ果てる。この様な終末観、終局観が時間にはついてまわる。無常観とは、この様な虚無観がその背景に潜んでいる。釈迦が世俗を捨て、真理を求めたのもこの無常観が為せる業であり、また、人々を狂おしいほどに自己の救済に向かわせるのは、どんな宗教にも必ず因果律や終末論があるからである。そして、自己の永遠の救済への願望が宗教的な情熱を生み出し献身的な信仰をもたらすのである。因果応報。人は自分の一生が終った時、たとえ自己の存在が無に帰すにせよ、地獄に墜ちるにせよ、なにものかによって自分の一生に対する何等かの裁きを受けなければならない、そんな思いが誰しにもある。それ故に、人々は、その時に備えて自己の行動を律しているのである。天を恐れ、神を敬う心を起こさせるのはこの様な自己を裁く者に対する畏れからである。しかし、人間は決められた戒律の全てを護りきれるものではない。中には超人的な取り決めすらあるものまである。故に、罪や過ちを侵さずに一生を終るものの方が少ないのである。罪人である人間は、自分の罪から生じる恐怖感から逃れようとして、神に祈り、永遠の命を願うのである。その様な切ない思いによってある人は輪廻を信じ、ある人は極楽浄土を夢見るのである。また、自分の未来に不安を感じるから占いや予言に耳を傾けるのである。多くの人々が永遠の生命を求めて不老不死の妙薬を捜して世界中を駆け巡ったのである。そして、同じ思いが人々が進歩へと駆り立てたの、人間に理性をもたらしたのである。この様に哲学や宗教、科学を生みだした原動力は、時間の変化を超越した永遠不滅の真理を求める情熱である。
 我々は時間を当り前な事、即ち、自明なことだと思っている。しかし、時間とは何かと改めて問われると当惑してしまう。我々は時間を日常的な体験の中で直観的に捉えているのに過ぎないのである。時間は、物体ではない。故に、人間は、直接時間を知覚することは出来ない。時間は自己の存在と同様間接的認識対象である。我々は、物体の運動や変化によって時間の存在を知ることが出来るのである。暗闇の中で何の変化も知覚できない状況におかれたら生理的な変化がなければおそらく人間は、時間を認識することは出来ないだろう。そして、その様にして知る時間は、地球の自転による時間とは異質のものであろう。しかし、人間は、一般的には一日や四季の変化によって時間を捉えているのである。桜の花が咲きだし、鴬の鳴き声を聞くと春が来たなと感じ、雷や夕立に夏の訪れを知る。蜩が鳴き、山々が色づき始めると秋を予感し、舞落ちる枯葉にものの哀れを感じる。北風が吹き初雪が降り始めると冬の寒さを覚悟する。この様に人間は暗黙的に時間の本質を直観しているのに過ぎないのである。人は、習慣的、慣習的に時間を捉えているのである。人間は自分を取り囲む世界の変化によって時間を直観的に知るのである。
 時間の単位が天体の運行や地球の自転や公転から決められる事から考えても時間は最も地球的、かつ天文学的な概念である。同時に天体の運行がなければ時間を計る尺度を人間は見いだすことができなかったであろう。人間にとって地球の自転や地球と月の公転を時間や暦の概念の基礎にしたことが時間に対する考え方を特徴づける事になったのである。時間を周期運動または循環運動と結び付けて捉える傾向があるのも天体の回転運動が時間の概念の根底にあるからである。この様な周期にも、太陽日、太陰日、恒星日の別があるのである。そして、天体の運行との相関関係から設定された時間の概念は天体の運行を当然反映しかつ結び付けたものになるのである。この様に時間の単位は宇宙的、天文学的な単位なのである。また、時間の概念の基盤を形成している考え方は昼夜の別であり、一日の変化である。当然それは、一日の光の変化を基底としたものである。最初から時間には光が関係しているのであり、時間は光学的な単位でもあるのである。
 現代人の時間に対する概念は、時刻と結び付いており、時刻は、時間を正確に計測する機械の発達、即ち、時計の発展に結び付いているのである。今日の近代社会の時間の観念は定時法であるが、時計ができる以前の時間の観念は不定時法だったのである。不定時法による時間の概念は生活空間の変化によって成立しているのである。つまり、不定時法に基づくと昼夜、四季により時間の長さは違ってくるのである。即ち、時間の観念は、時計の発展によって著しく変化してきたのである。この様な変化は、人類史上それほど昔の事ではない。日本に限って言えば明治維新後の事である。また、時間は、人間の風俗習慣によっても違う。現代人は、時刻に縛られている。時計が発達する以前の人々は、時刻に縛られずに一日の変化に従って生活を営んでいたのである。現代でも時刻に縛られずに生きている人々がいる。彼らの時間に対する考え方は、時刻に縛られている我々とは異質なものなのである。即ち、我々が当然な事として捉えている時間に対する概念も実は、最近、形成されたものに過ぎないのである。
 天文学的な時間も、振子時計やゼンマイ時計と言った機械時計の発展で、力学的なものに変化してきたのである。そして、近代科学はこの様な時間の力学的な捉え方によって発展してきたのである。一定の間隔で一様かつ不可逆的な時間これが力学的な時間観である。この様な前提に基づいて変化を時間の関数として表現しようとしたのである。即ち時刻を基本単位とした時間観を基礎とし力学的な現象をその時間の関数として捉えることによって科学の法則は成立しており、この様な捉え方が近代社会に重大な影響を与えたのである。つまり、近代的な社会は、生活空間の移り変わりによって体感する時間に従って生活をしていく社会から、時計によって正確に刻まれる時間に従って一日の生活のリズムが決められる社会へと変化してきたのである。それは時間によって規定される計画的な生活を基礎とした社会を生み出すことになるのである。このことによって一日の行動が明確に分化し労働時間が規定されるようになったのである。そして、それは、人間の人生観まで大きく変え、今日では、自分の一生すら計画的に過ごしていこうとする考え方が支配的になってきたのである。そして、国家も計画を中心に据えて運営していこうとする思想すら生まれ、大きな力を持つようになってきたのである。しかし、この様に時間を時刻によってのみ規定していこうとすることには限界がある。時間そのものを空間的、かつ、場的なものと結び付けて考える必要が生じてきたのである。それは、変化が直線的なものではなく、空間的、構造的なものであるからである。即ち、変化を支えているのは単一な要素ではなくたくさんの要素が複雑に絡み合って相乗的に作用しながら進行するものであることが判明してきたからである。特に経済的な問題は不確実な要素が多く、一つの計画によって制御することは不可能なのである。それ故に、計画的に社会を運営するのではなくシステム的に社会を構成し、それをその時の状況に合わせて制御していくべきだと言うのが構造経済である。それは、時間を構造的に捉え直すことを意味するのである。
 時間的な変化が確定的なものか、不確定なものかについてもいろいろな考え方がある。人生は止めることの出来ない時限爆弾のようなものか、それともあてのない旅のようなものなのか。結論から言えば確定的なものとして捉えるか、不確定なものとして捉えるかはも相対的なのである。死は一定といってもこの本の読者達は、少なくとも生きていなければこの本は読めない。その意味で我々は過程、道程、途上にあるのであって、死を経験したわけではない。ただ、経験的に死は確定的なものだと信じているのに過ぎないのである。我々が一つの現象や法則を考える時、それを確定的なものとして捉えるか否かは、その捉え方によるのである。例えば死を確定的なものとして捉えたとしても、いつどの様に死ぬかまでは確定できないのである。人間の一生と言うものに一定の形があったとしても、現実に生きている人間一人一人の一生は個性的なものである。それを第三者が特定したり強制的に一つの型に填めようとしても土台無理である。人を愛することが一般的だと言っても、誰を愛するかまでは決められないのである。この様に確定的な要素と不確定な要素は混在しており、それを明確に区分しながら社会を組み立てることが重要なのである。全てを一意的に一つの枠組みの中に押し込もうとすることは無謀なことである。
 時間の概念は、天文学的、力学的なものであると同時に生物学的なものでもある。生物の内面にある時間の基準とは生物学的な時間即ち生理的なものである。時間と時計は別のものである。しかし、時間の概念と時計の概念は混同される場合がある。そのために時間を常に長さで捉えていこうとする傾向が生じるのである。しかし、時間とは長さでのみ計るものではなく、変化のあり方や形態からも計られなければならないのである。その様な視点で捉えると生物学的な時間とは、成長の段階、過程として現れるものでもあるのである。
 人間の一生を考える時、それが一つの過程であることが解る。また、人間の進化も一つの過程である。そして、その一つの過程の段階には、一定の時間の長さが決められているわけではなく個人差があるのである。しかも、この様な過程は一方通行的なものであり、周期的なものではないのである。時間の概念にはこの様に直線的なものもあるのである。そして、近代人の時間の概念は、直線的な概念へと変化しつつあるのである。
 また、体内時計は、生理的なものであると言われている。この様な時計は、周期的なものである。しかも、最近流行っているバイオリズムのような例を見ても解るように人間の生理的なリズムは、一つではない。つまり、生理的なリズムは構造的なのである。しかし、この様な体内時計も天文学的なまたは、力学な時計とは違うのである。つまり、周期の時間の長さが一定しているわけではなく、周囲の環境によって変化するものなのである。この様に時間の概念も一様なものではなく、何を基準にするかによって微妙に変化するのである。故に、睡眠と覚醒の変化や生理的な変化によってのみ人間の時間を考えるのはおかしい、また、人間は、人生を生理的な変化としてのみ捉えているわけではないのである。同様に時間を直線的なものと限定するのもおかしいのである。つまり、時間の概念も相対的なものなのである。
 時間の概念も相対的なものである。観察者としての自己 観察する対象、観察するための基準や基準系これは対象を相対化し認識する上での三つの要素である。時間の概念も例外ではない。すなわち、時間の概念を成立させているのは、自己の内的時間と対象界の時間(外的な時間)、そして、その内的時間と対象界の時間との間を結び付け相対化するための基準となる時間系である。内的な時間も外的な時間もそれだけでは概念化しえない。時間の概念は、一つの過程を他の過程と自己の内的な過程に置き換えて比較することによって対象化されるものである。
 時間の単位は、変化の単位である。時間の単位は、一定の周期や規則で反復したり、発生したり、循環する現象を基準にして一つの過程を等間隔に刻んだ体系である。過去、現在、未来という様に対象の変化を捉え、同時にいつからいつまでという形で時間の長さを計るのである。
 時間の持つ相対性を最も身近に感じるのは時差を感じるときである。時計の刻む時と特定の空間内の時間(標準時)がずれるとその日の時間が替わってしまう。しかし、時計が壊れたのでもなく、また時計が使えなくなるわけでもないのである。時計は一定した規則で時を刻んでいるのである。この様に同じ地球上においてすら地域によって時間は違うのである。また、物体の運動を計測する際、ストップウォッチを使用して出発点の時間を特定しても時間の本質が変わるわけではない。何時間、何分間と任意の時間を切り取ったとても時間の本質を変質することはできない。一秒の長さを変更しても物体の運動に影響を及ぼすことはない。考え方によれば時計の数だけ時が存在すると言えなくもない。ただ、その様な考え方は無意味なだけである。一つの基準を選択しようとして基準を選択する為の条件に重大な差がないとしたらいくつかの基準をあげて混乱させる事は無意味なことである。現象を観察する際、共通の時間系で測定した方がお互いの意志の疎通に好都合なのである。
 人間の重大な錯覚の一つに時刻と時間を混同してしまうことである。時間とは地球の自転の周期をを基準とした一つの基準系ではなく、物体の変化の根源にあって物体の運動を支える力なのである。その様な時間を等間隔に刻んだのが時刻である。故に時刻は空間に対する座標系のようなものであり、相対的なものである。この様に考えると時間を一つの次元として捉えると時間も一種の場だと考えることも出来るのである。
 人間は自分の犯した罪を一生背負っていかなければならない。自分の過去をいかに消そうとしても消せるものではないのである。人間は、それがどんなに苦痛であったとしても、自分の過ちや罪を自覚しその苦しみを克服しながら生きていかなければならないのである。過去を変えることはできない。過去が変われば現在も変わるものである。タイムマシーンはあくまでも空想上の機械であり、我々は、時間を遡ることはできないのである。
 時間は不可逆的な事象である。そして、時間は継続するものであり、時間的に継続的に継起する事象の、時間的前後関係即ち順序は不変的なものである。物事には必ず順序がある。生まれる前に死ぬものはいない。生あるものに滅せぬ者はない。若返りたいといくら念じても人間は若返ることはできない。人は皆老いさらばえていく。子が親より先に生まれることはない。この様に継起する物事の順序は不変的なものである。物体の位置は空間の中で成立し、変化の順序は時間の中に位置づけられる。これは、因果律の最も根本的な概念である。最近小説や映画でタイムマシーンやタイムトンネルといったものが流行っている。それらは空想の世界としては面白いが現実には有り得ない事である。学生時代に戻りたいと思っても、また過去の罪を消したいと思っても、人生をやり直したいと思っても我々は時間を遡ることは出来ないのである。どんなに逢いたくなってもこの世では死んだ人と逢うことは出来ない。どんな大切な宝物でも一度壊れてしまえば二度と同じものを手にすることは出来ない。この様に逝った者への惜別、失われた時への哀感がものの哀れである。そして、ものの哀れは無常観の最も根源的な概念である。
 現象は、一回かぎり。一期一会。人生は、一回かぎりであり、やり直すことはできない。同じ時間は二度とないのである。自分が新しい人生をやり直すと言うこと把握までも観念の上での話である。同じ現象は二度と起こらない。それは時間の一回性と関係している。同じ現象と思えることでもそれを取り囲む状況や環境は同じものではない。再現された現象と元の現象とは違う。同じ人間でも一人一人個性があるように、同じ現象に見えるものでもそれぞれ個性がある。同じ人でも日々刻々変化しているのである。時間が不可逆なものであり、変えることのできないものならば現在は一回限りであり、同じものは有り得ないのである。
 時間の一様性は、選ばれた基準系によって決まるものである。近代人は、時間を一様なものだと考えている。それは一日の長さがほぼ同じ長さだからである。そして、人は時間の基準を一日においている事に由来するのである。一日の長さは地球の自転の周期に一致する。地球の自転に準じて時間の長さが決定されているからこそ時間の長さを一定なものとして捉える事が出来るのである。今日地球の自転は一様でなく一日の長さも一定していないことが判明した。そのために今日では時間の単位は地球の自転に基づくのではなく原子の内部で進行している周期的な運動に基づいて決定されている。しかし、科学研究や技術開発の様に精密な時間測定を要求されるような分野を除いて一般的な人が通常の生活を送るのに困らない程度、また知覚し得ない程度の誤差、変動であるため、人間はおおよそ慣行的、習慣的に時間の長さを一日の長さを基準にして一定したものとして考えているのである。この様に人間が時間を一様なものと考えるのは、一日の長さがある程度規則的に決っており、一定していたからに他ならないのである。その上、この様な時間の長さの単位も任意に選定されたものである。しかし、内的な時間感覚は外的時間を一様なものとして一定にとらえていない。心理的に感じる時間の長さは、状況によって変化する。恋人に待たされたり、試験の結果が出るのを待たされている時はやたらと時間が長く感じる。また、楽しい一時は瞬くうちに過ぎていく。更にこの様な心理的な時間は個人差がある。つまり、時間の一様性は、かなり主観に左右されているのである。しかも時間は天体の運動や物体の運動世界の変化に対応して決められる概念である。故に、時間の一様性は、基準系によって変化する相対的なものである。そして、時間の一様性が相対的である以上、時間の概念もまた相対的なものである。ある意味で時間こそ最も相対的な概念を象徴したものなのかも知れない。しかし、日常生活や通常の運動を観察する場合、時間は一様なものと考えてもさしつかえがないのである。また、時間を一様なものとして考えることによって時間に従って我々は明日を予測し、計画的に生きていくことが出来るのである。
 時間は等方なものである。時間は一定の方向に向かっている。時間は、変化に対応して決められるものである。そして、物体の運動は時間と空間の関数である。自己は変化によって自己の存在を自覚する。つまり、自己の存在は変化の中にある。変化がなければ自己は対象を捉えることもなく、自己の存在を自覚することも出来ないのである。変化のない時間と言うのはそれ自体矛盾しているのである。つまり、変化がなければ時間を感じることが出来ないからである。この様な時間が一定の方向に向かっていなければ、物体の変化は同一の空間内に現れることはない。逆に同一の空間に現れる現象は、同一で等方向の時空間を共有していると考えても良い。そして、我々は、経験的に時空間を飛び越えるような現象がないことを自明な事として前提としている。本来的には、時空を越えるような現象が観測されない限り、時間の等方向性は否定できないのである。
 ただし、時間の一様性や等方性もアインシュタイン以後従来考えられていたような意味では、素直に受け取られなくなったのである。つまり、我々がこれまで前提としていた基準系を土台にして考えているかぎり、従来時間の一様性という点からみれば時間軸は、収縮したり伸びたりするのである。また、時間系が個別なものだとすると当然時間の方向も個別的なものとなるのである。変化や現象も基準となる時間軸によって異なるのである。この様な差が生じるのは、一様性や等方性に対する空間的な概念が相対的なものであるからである。同時に変化や現象は、任意に選択された時空間によって異なるからである。この様に時間や空間が個別的なものだとすると、結局、人間の内的な時間や空間のみ絶対的なものだといえるのである。科学や客観性というのは、この絶対的な時間や空間を相対化することによって成立するのである。内的な絶対空間や時間はそれだけでは意味を持たない。意味を持たない限り、それらは対象化されないのである。この様な絶対的な空間や時間を相対的なものに変換することにより、近代科学は成立しているのである。即ち、科学的認識とは、時間の一様性や不可逆性も絶対視することなく、時間をより空間的構造的なものに結び付けながらその前提に基づいて使い分ける必要があるのである。
 時間や空間は、本来個人的なものである。人間は、歳をとっていく。歳は、自分の時間である。人間は、本来自分の視点でしか世界を捉えることが出来ないからである。れが最も明確に示されるのは、信仰である。神を信じるか否か、またどんな神を信じるか否かは神の実在とは関係がないのである。自己にとって自己が情報を受け取ったとき出来事は現実のものとなる。自己が情報を受け取らないかぎりそれは現実のものではないのである。それは、一つの出来事が自己の内面において現実化されるためには、情報が伝達されるまでに一定の時間が経過することを意味するのである。しかし、その様な時間をいちいち計算していたら現象を一般化することは困難である。また、自己と他者との間で一定の合意を形作ることも難しい。それでは自己と他者との関係が保てなくなる。また、自己を対象化して別の視点から反省することが出来なくなるのである。つまり、自己の狭い世界から抜け出せなくなってしまうのである。そこで自己の内部にある時間や空間を自己の外部に投げ出して相対化することによって自己の内的な時間や空間を対象化するのである。しかし、本来は自己の内部にあるのが絶対的な空間であり、時間なのである。即ち自分の居る空間、自分が感じる時間が自己の空間であり、時間である。
 この問題は、世界の同時性とも関連がある。今日のように情報が即時的に伝達されるようになると世界の同時性の問題に関してそれほど違和感を持っている者はいなくなったのであるが、考えてみると我々に地球の裏側で起こっていることが直接影響を及ぼしてくるのはかなり時間が立ってからである場合が多い。自己の世界を中心に考えている場合、自己に伝わった時に、はじめて自己にとってその現象が現実になるのである。例えば、仮にある人の親しい友人が死んだとしても、その人がその友人の死を知らなければ、その人は、友人が生きているときと同じ行動、例えば手紙を書いたりするであろう。彼にとって友人の死は友人の消息を知った時、現実のものとなるのである。それ故に、情報の伝達する速度が現実の時間を拘束するのである。しかし、本来世の中は、その人間が知覚しているか否かは、別にして複数の現象が同時に進行しているのである。それ故に、情報が素早く伝達されている現代社会では、その様な時差を考えずに世界で生起する現象は、同時に進行していると見なしている。
 ただし、これが一旦人為的な世界、即ち、社会活動となるとそう簡単にはいかない。遠く離れているところで共同に仕事を進める場合、予め各自の仕事と分担を決めて、それが同時に進行している事を前提として平行的に作業を進めるのか、お互いが随時連絡を取り合って進めていくかによって制度上において重大な差が生じるのである。前者は、世界を同時的な空間として前提とし、後者の場合、世界は、情報の伝わる速度で進んでいることを前提としている事になる。仮に、時間の作用を自己の内的な世界にかかわりあいが生じた時、ないし、情報が伝達された時と仮定すれば時間の経過は、自己から遠くなるに従って遅くなることになる。しかし、その様に自己と対象との時間的距離を前提とした場合、空間も時間的な広がりによって歪んでしまう。それでは、時間や空間は主観的な世界から抜け出せなくなり、あくまでも個別なものとなる。故に、今日では、空間を一様なものとして前提とするためには、自己の内的時間を外に投げ出し、外的な世界は同時に進行していると考える事によって一般化しなければならないのである。そして、それは、時間の相対的変換と客体化を意味しているのである。そのうえで近代社会は一部の例外を除いて現象の同時性を前提とし、社会制度を成立させているのである。そのために現代の組織や制度にとって時間の作用は陰なものなのである。しかし、それは、その様に世界を同時的なものとして捉えることの方が都合がいいからであり、世界の同時性というのも、相対的なものである事には変わりない。すなわち、便宜的な概念なのである。
 世界を同時的に捉えると言う考え方に変化しつつあるということは、近代社会が人対人から、制度対人、世界対世界といった体制に変化しつつあることを意味する。そして、それは法と制度による統治という民主主義の前提となっているのである。全ての現象を人類が一つの前提で考察していくためには世界が同時に進行していくと考えた方が都合がいいのである。
 現象が同時に生起し、それが同時に作用しているということは世界を構造的に捉えることを意味している。つまり、一つの出来事は、同時に相乗的に効果を発すると言う考え方である。空間的にみれば機械の仕組みや組織の構造がこれを指しているのである。同様に時間を構造的に捉えると現象には段階や型があり、また一定の順序があるのである。近代的合理精神とは、その様な段階や型を類型化することによって成立しているのである。つまり、それまで個人的な勘に頼っていた予測を、物体の変化や運動を論理的な方程式に還元し公的な前提とする事によって科学的な予測に変えていこうとする精神なのである。確かに一つの情報が伝播する範囲と速度によって効果が現れると言う考え方が一方に存在する。同時代に活躍した思想家でもお互いの面識どころか思想すら知らないで終る場合は過去いくらでもあった。しかし、この様な考え方に立脚すると時代の本質を見失ってしまう。故に、同時性という概念を持って時間を考えることによって世界を捉えた方が便利なのである。このことによってそれまで一つの塊としか捉えられなかった集団や社会をいくつかの要素が同時的に進行するシステムとして捉える見方がはじめて可能となったのである。このことが近代社会に果たした役割は重大なものがある。
 この同時性は、他の時間の観念の前提となっていることを見落としてはならない。現象の同時性とは、個別の現象を捉えて時間の概念を規定しているのではなく世界と世界を連続的に考えていくことを意味するのである。その事によって空間の持つ時間的広がりを解消し、また、個別の現象が持つ特異性を否定することによって時間の概念は成立するのである。また、時間の概念の相対化は空間の同時性を前提とすることによって成立することは先に述べた通りである。
 この様に時間を構造的に捉える為には、時間を空間的、かつ、場として捉える必要も生じてきたのである。量的な変化は、質的な変化を伴う。この様な変化に対する考え方は質、量、密度との関係で場や空間の変化として現れるのである。時間に対する観念もただ物体の変化からより空間的、場的なものの考え方へ発展しつつある。質的な変化、量的な変化が時間的な概念に結び付けられて考えられるようになりつつあるのである。また、それらはたんに物理学的な見地からだけではなく、社会学的な見地からも捉えられているのである。時間の変化も確率論的、統計学的なものとなりつつある事を意味しているのである。それは、時空間的な発想によって更に発展していくものと思われるのである。
 時間の一様性や不可逆性を無視して、変化の形態を観察するとそこに一定の形態がある変化とそうでない変化があることが解る。また、現象の変化には一定の順序や規則に従っているものとそうでないものとがある事が解る。全ての現象が一定の順序や規則によって循環している、ないし、反復していると考え運動の循環性を一つの法則と見なしているのが循環論的立場である。私は、そこまで極端に考えないまでも運動の基本的な形態の一つが回転運動である事は認める。波動や循環運動、反復運動も回転運動の一つと見なすことが出来る。一定の間隔で規則的な周期が認められる運動の場合、それは一つの時間の単位の基準となる。暦や時計は、時間を循環的なものとして捉えることによって成立しているのである。一般的に人間はその様な現象を時間的なものとして捉えているのである。つまり、人間は、歴史は繰り返す、四季の巡る、万物は流転する、そして輪廻思想と言う様に規則的な回転運動や循環運動に時間の本性を見いだす傾向があるのである。そして、それがより一層発展すると因果律となるのである。仏教はこのような因果律が輪廻の根底にあり、この因果律を克服することが自己の救済となると考えるのである。
 原因があって結果が生じ、その結果がまた原因となる。親が生まれる前に子供が生まれることはなく。出会いがなければ愛は生じない。因果律は時間の一様性や不可逆性を考慮せずに継起する現象の順序の形態を法則化することによって成立するものである。因果関係に空間や構造的なものを結び付けることによって成立したのが縁である。この様な諸々の関係を方程式化したのが法則、法(ダルマ)であり、時間の不可逆なものとして認め、変化を普遍的な真理としその究極に到達するのが死であるとしたのが無常観である。そして、仏教は、生病老死といった時間の循環性が人間の苦の根源にあり、未来永劫続くこの繰り返しから開放されないかぎり、人間は苦しみから開放されることはないと考え、この循環性から開放されることによって苦から開放される事を目指したのである。つまり、苦の根源である欲望と欲望が生み出す因果律を否定することによって時間を超越して普遍的な境地に立脚する、それが仏教で言う悟りなのである。そして、時間を超越し、普遍的な境地に立脚した世界が曼陀羅の世界なのである。この様な考え方も時間を一つの循環運動として捉えることによって成立するのである。また、時間の一様性より因果律を重視するのが仏教の一つの特徴でもある。こうして見ると仏教は極めて時空的な思想である。しかも、仏教的な時間とは、長さの関数と言うより、構造的なものなのである。
 近代社会はこの因果律をより一層体系化し法則化したことに特徴がある。つまり原因と結果を明確にしそれを時間的な長さによらないで順序づけたことによって組織化をし、また計画や、分業を可能としたのである。それが近代社会における産業革命の根底を支えているのである。速度は時間の関数である。この様に近代科学は、運動や変化を法則化することによって成立しているのである。当然物体の変化を関数化しようとすれば時間がその関数に対して陽に作用することになる。そこから時間的な位置と運動と関係を与えることによって世界は時間的に構造化されるのである。逆に言えば一つの関数に時間が印に作用していることは時間に影響を受けない事象即ち普遍的な事柄なのである。
 現実の現象は不可逆的なものである。現実の人間の成長は、逆戻りすることはない。しかし、多くの人間の事例を考察すると人間の成長には一定の型があることが判明する。一旦時間の不可逆性という特性を外して物象の変化を考察すると一定の形態、法則が見えてくる。そして、この様な成長や段階を考察することによって我々は多くの法則を発見することが出来るのである。また、一連の仕事をいくつかの要素、即ち、作業に分解しそれを一定の順序や規則によって定式化し並べたのが手順や手続きであり、それに時間の単位を結び付けてのが計画や日程である。この様に変化を定式化することが可能になってはじめて仕事は分業化され集団は組織化され社会は成立することが可能となるのである。論理は成長や段階、手順、手続きを形骸化し時間の影響を受けないようにする事によって成立したものである。音楽は時間の芸術だといわれる。そして、音楽は、時間を最も構造的なものとして表現したものである。旋律、和音、拍子の三要素は時間の形態を長さとしてでは一つの構造として捉えている良い一例である。楽曲を演奏する時間の長さは特定されて居らずその速度が規定されているのに過ぎない。この場合我々は、我々は、時間を長さとして捉えるのではなく、構造として捉えているのである。
 近代に至って時間の概念も多様なものとなってきた。また、それと同時に時間と他の概念を結び付けグラフ化する事によってそれまで触覚的であった変化、例えば温度変化の様なものも定式化、視覚化されるようになってきたのである。このことによって目に見えない変化、視覚的に捉えることが可能となり、現象や空間に対する認識も変化してきたのである。つまり、時間や空間を視覚的に捉えようとする試みが盛んになってきたのである。また、交通や通信の世界では、時間と距離が結び付けられることによってそれまでの空間的距離観とは異質な時間距離という様な概念も生まれてきているのである。この様な、時間距離という考え方は、人間の空間や時間に対する概念を根本的に変えようとしているのである。また、スポーツの世界では、一つの段階を時間の長さによってではなく結果によって測定するようなものもある。例えば、野球は、スリーアウトで攻守が交替するのである。これらの発想は、変化や時間の概念を長さから開放する事によってより自由で多角的な運動を可能としたのである。そして、この様な考え方は、近代の組織やシステムの概念の根幹に重要な影響を与えたのである。この様な時間に対する概念の変化は、知らず知らずのうちに人間の価値観を変化させ、社会を革命的に変革してきたのである。それは、ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学への発展によくにているのである。即ち、時間を測定する基準が変化しつつあるのである。それによって変化の測定もただ長さの単位としてのみ表現されるのではなくなりつつあるのである。
 時は金なりという諺がある。近代経営は、時間の有効活用と資源化によって成立しているのである。それは有効時間の密度を高めることを意味している。人生に与えられている時間は有限である。その有限な資源を如何に有効に活用するかそれが近代経営の最大の関心事である。そこから、行動管理や工程管理、スケジュール管理の技法が開発されたのである。そのためには時間の構造を明らかにしていかなければならない。時間の構造を明らかにすると言うのは変化を方程式化していくことである。つまり、最初は、空間的な分業から発展して流れ作業という具合いに作業の時系列的な分業になり、これが近代の産業革命の根底を形成するのである。一つの仕事をいくつかの作業に分割し、それを手順、手続きに従って再構築したものである。即ち、定形化、定式化去れた作業や動作と一定の時間を組み合わせることによって近代的な組織は成立している。この様な事は、組織を人的な要素と機能的な要素に分離させる傾向を当然派生させるのである。このことによって一つの塊として見なしていた仕事を時空間の連続体として捉える考え方が定着したのである。そして、近年これらは、社会のシステム化によって加速されたのである。これらの考え方は時間を長さの単位として捉えるのではなく変化の要素を一つの単位として捉える発想である。将棋やチェスは、手順、手続きのゲームである。変化を一定の長さの単位としての見みる考え方は、一定の間隔で将棋の手順を再現する様なものであり、現実の将棋の試合とはかけ離れてしまう。自然現象的な時間と意志的な世界の時間とは、別のものである。現代社会は意志的な時代である。そして、この様な変化は加速度的にましている。時間を長さの単位としてのみ考えているだけでは、社会の趨勢から鑑みても、この様な変化についていけなくなるのが予想されるまでに至っている。
 また、時間を構造的なものとして捉えていくことは当然全体と部分を時間的なものに結び付けて考えることを意味するのであり、一つの要素である変化や作業に要する時間や一つ一つの変化や作業が連結していく場合の伝達速度、時間差が重要な問題となる。特に政治や経済の世界ではこの時間差が重大な過失を招き世界を混乱させている原因となっている場合が多くみられるのである。今日経済情勢と政治的な判断が同時的に進行している。しかし、本来、政治的な決断が発効するのには総統の時間がかかるものである。そのために政治的な判断が下った時経済情勢は全く正反対の状況を呈している場合がよくあるのである。それ故に意思決定からそれが実効する迄の一つの過程を正しく把握した上で一つの政策は立案されなければならないのである。それは時系列的な日程によるだけではなく、計画を組織や、作業、時間と組み合わせて体系づけていく必要があるのである。
 現代人は時間を未来まで拘束しようとすらしている。人間は自分達の子孫の時代まで運命付てしまうほど遠い未来までの事を決定しているのである。親の負債は子々孫々迄負債として残されていく。近代科学は子孫の繁栄を決するばかりでなく、存亡を危うくすることもある。今日、価値は時間的なものと結び付けられている。そして、時間的なものに結び付けられることによって経済の基幹を形成する要素は物的な財から無形な権利や情報へと変化しつつあるのである。それによって経済のあり方は革命的な変化をしているのである。新しい価値が時間的なことに結び付けられることは、今の判断が未来の価値まで決定付てしまう事を意味するのである。それだけに我々は、原理原則を明らかにして、それに基づいて未来を洞察し、明確な意志によってあたらいしい科学の枠組みや経済の仕組みを築き上げることが子孫に対する重大な責務なのである。人類は、子孫に対し莫大な借金を残すのか、それとも新しいシステムを築くのかは今日我々の判断に委ねられているのである。経済を時間的な価値と結び付けることによってより奥行きの深いものにすることが今日我々に課せられた重大な課題なのである。
時間の単位は、直進運動と回転運動を複合することによって成立しているのである。季節に四季があるように人間の成長にはいくつかの段階がある。そして、その段階の基本的な形態は同じものである。四季の変化は毎年変わるように人の一生に同じものはない。それは、丁度人間の顔の基本的な構成は同じであっても、その構成する要素の一つ一つが違うことによって同じ顔の人がいないのと同様である。但し四季と人生が違うところは、季節は毎年巡ってくるが人の一生は一回かぎりである。この様に人間は、一つの人生を一つ一つの段階を経て成長していくのである。そして、人間の成長段階の原則、即ち変化の形態は大体同じものであるが人生そのものは人それぞれ違うものであり、同じものはない。なぜならば、一つ一つの段階を形成する要素や構造は大差がなくても、要素の内容や条件に差があるからである。つまり、目鼻だちといった人の顔を形作る要素は大差なくとも、目や鼻の形や位置が違うことによって似た顔の人は居てもまったく同じ顔の人はいないようなものである。そして、人間の一生は、直線的なものであるがその段階は、人類全般に通じる一定の周期や形態をを持っているのである。
 時間の経過に伴う変化をを成長とみるのか、衰退とみるのか。また、創造とみるのか、崩壊としてみるのか。成熟としてみるのか、堕落としてみるのか。発展としてみるか、荒廃としてみるのか。継続的な変化として見るのか、反復として見るのか。この世を無限的な反復とみれば未来永劫人間は同じ事を繰り返さなければならないのであろうか。つまり、人間の時間に対する考え方は、その人その人の人生観や哲学に深くかかわっている。人間にとって時間を考えると言うのは人生を考えることなのである。それ故に、時間に関する考え方は一様なものではなく、多様なものである。そして、どの一つをとってもそれで時間の全てを言い表しているというものはない。時間の観念は相対的なものである。ただ、人間の人生にとってこれほどかかわり合いの深い時間を否定的なものとして捉えれば人生そのものを否定的なものにしてしまう。人間の世界は、意志的な世界である。核兵器や環境破壊、公害と言った人類の存亡にかかわる危機の原因の大多数は、人間が生み出したものである。人類は自分の影におびえているに過ぎない。それ故に、その危機を回避するのも人間の意志に頼るしかないのである。人間の世界が退廃的で絶望的な状況になると終末論や末世思想が流行る。しかし、その様な考え方によって人間の危機を乗り越えることは出来ないのである。危機や状況を打開するのは人間の意志である。人間はどの様な危機に直面しても希望を失ってはならない、明日を信じなければ生きていけないのである。時間を創造的で意志的なものとして捉えるようになった時、人生は創造的で意志的なものとなるのである。そして、その時代は、創造的で意志的なものとなるのである。
 時間の作用にも陰と陽がある。時間の影響を直接受けない事柄を時間が陰に作用しているという。時間の影響を受けないこととは変化をしない、変わらないことである。時間が陰に作用している事柄は普遍的なものと見なされやすい傾向がある。しかし、時間が陰に作用している事柄でも普遍的なものとそうでないものとがある。時間が陰に作用する事柄でも任意に設定された事柄は相対的なものである。例えば一見普遍的に思える重さや距離の単位も本来的には相対的なものである。しかし、一旦単位が定められ、それが時間の影響を受けなくなると普遍的なものと同じ様な概念となるのである。自己の意志に関わりなくかつ時間の影響を受けない事柄を永遠、普遍の真理であるというのである。例えば自然な法則や人間の死といったものは時代の変化や歴史の流れに影響を受けない。この様な事柄を普遍的な真理という。また、真空中を運動する物体の体積を計算する場合方程式には、時間の影響を受けない。この様な変換を時間が陰に作用しているというのである。
 論理は時間が陰に作用しているものである。即ち、論理には前後関係があるがそれを平面的なものに並べると時間の経過は潜在的なものになる。その前後関係も逆転することが出来る。しかし、論理には文脈や流れがあり過程や経過がある。それ故に論理は時間に左右されることのない変化がある。機械やシステムも同様である。機械に動力が通じなければ機械は起動しない。起動しなくても機械は一つの過程を内蔵している。機械は動力が通じないかぎり時間的なものにならない限り機能しないのである。しかし、機械は、その機械の仕組みの中に時間的な変化を潜在的に内包しているのである。また、計画や手続きは、それが実行されない限り静態的なものである。つまり、計画や手続きはそれがそあんであり形式であるうちは、時間を内包した変化といえる。この様な変化を時間が陰に作用するというのである。時限爆弾は、もっともこの様な変化を象徴しているものの一つかも知れない。時限爆弾は入力されていない限り時間とは無関係なものであるが一度そのスイッチが入れられるとこれほど時間的なものはないのである。つまり、入力されていない時限爆弾のようなものを時間が陰に作用しているというのである。
 時間を連続したものか、瞬間のつながりとしてみるのかは議論の分かれるところである。現象を空間的に見るか、時間的にみるかの差によって生じるのである。物体の運動は映画のフィルムのようにいくつかの空間を瞬間的につなぎ合わせることによって生じる残像のようなものか、それとも直線的に連続した時間軸を垂直的に空間が移動していくものと見なすのかの差である。これは、時間の作用が陰な作用なのか、陽の作用なのかの問題でもある。しかし、この様な差も所詮は観念的なものであり、相対的なものとして考えるべき問題である。時間を連続的なものか不連続なものかとして考えるのかの考え方の差は、存在は今しか存在しないのか、それとも存在は恒に連続的なものなのかの見解の差でもあるのである。即ち、存在の根源的な問題でもある。しかし、根源的な問題であるにしてもそこから導き出される結論は相対的なものに過ぎないことを忘れてはならない。存在を普遍的なものと見なすか、それとも時間的なものと見なすかは、それを問題とするときの前提によって違うのである。
 人間の人生は有限なものである。時間が無限であるか否かと言うことよりも人間の一生からみれば無限に近い長さを時間は持っていると見なして差し支えない。この様な時間に関して人間が持ち得る観念は相対的なものにならざるをえないのである。人間にとって自己の時間の始まりは、自分が生まれた時であり、時間の終わりは、自分が死ぬ時である。自己は、今しか存在しない。そして、あらゆる存在は、今存在しているのである。その様な今の延長線上の上に世界は存在している。生きて生きて行き着く先で神や仏に出会い、普遍の法を知り、無窮の時に出会う。この様な自己の時間が静止したならば一体時間の行き着く先を考えることにどれほどの意味があるであろうか。それは哲学的な意味を持ち得たとしても現実の前には空虚であることを忘れてはならないのである。
多くの人々は、いま自分の下している判断を正しいものだと思っている。さもなければ人間は決断がつかなくなる。人間の善は所詮自己善に過ぎない。それ故、人々は自分の正義を主張してあい争うのである。しかもその判断が最終的に正しかったかどうかは時間が経たなければ判断できないのである。歴史的な評価の評価は非情である。栄耀栄華を極めたものも悪に変じ、自分の判断を神の判断と壮語した絶対の権力者も暴君となる。逆に反逆者、裏切り者と呼ばれたもの革命児や英雄ともてはやされる。権力者として人を裁いた者も政権の権力者の交替や戦争、革命によって裁かれる者となる。実に時代の流れは恐ろしいものである。それ故に人は、普遍的な真理や価値を追い求めるのである。非情な時間の流れの前に誰が他者を裁くことが出来るのであろう。
 是非善悪に新旧老若の別はない。自然の法則は物理法則が発見される以前から作用している。人間は、自分の観念を中心に物事を見るからその背後にある真理を見落としてしまうのである。進歩といい、発展というのは人間の目から見て人間がそう判断しているのに過ぎない。しかし、地球的な意味で考えれば、生物学的な目でみれば退歩であり、荒廃なのかも知れない。時間の観念もそれを変化と関連付ない限り人間はその意味を見いだすことは出来ないが時間の本質は、変化とは無縁なものなのかもれない。時間を突き詰めたところに普遍的な原理に至る。そして、普遍的な真理、即ち究極的な原理とは時間が陰に作用している事なのである。
 神の意志とは、普遍的な意志である。つまり、時間の影響を受けない意志である。しかも意志的なもの即ち既に与えられたものではなく自分達が生み出した信念こそ神の意志なのである。諸行無常と言うことに拘って諸々の宗教に共通する戒律を見落としている傾向がある。これらいくつかの宗教や倫理観の間にある共通項は、十善とか、十戒と言われる程度のものであり、それほど数多くあるものではない。その普遍的意志を要約してみると次のようなものになる。一、汝、人を殺してはならない。一、汝、人を傷つけてはならない。一、汝、人のものを盗んではならない。一、汝、人を欺いてはならない。(約束を守らなければならない。)一、汝、人の主権を侵してはならない。一、汝、人の主体を奪ってはならない。(魂を売り渡しても、奪ってもならない。)一、汝、偶像を崇拝してはならない。(虚偽を敬い、迷信を信じてはならない。)一、汝、定められた法以外のもので人を裁いてはならない。(法を定め、法に従わなければならない。)一、汝、淫らな行いをしてはならない。一、汝、正しい教えを示し広めなければならない。そして、この様な意志の根底にある原理は自由、平等、相互扶助である。人間の人生は有限なものである。しかし、世界は無限である。故に、組織が崩壊するのは、人間が神の普遍的な意志に従わないからである。人間の社会は、神の意志に基づいて建設された時、普遍的な基盤を得るのである。従前の組織は個人の意志に委ねられいた。そのために創業者がいなくなれば創業の精神は失われるか、指導者の交替によって組織全体の意志まで変質してしまったものである。つまり、組織が生命を持っているのではなく、機械的なものに過ぎないのである。 人生は悲しい。人間は、自分が犯した罪を一体いつ何処で清算できるのか。無垢に生まれた精神を時は世故の垢にまみれさせてしまう。罪は時間と共に累積し、過去の記憶の中に蓄積されていく。故に、人生は哀しみに満ちている。生きているかぎり世間のしがらみに絡まれ、逃れる事の出来ない罪に汚されていくのである。それだからこそ、人は夢を持たなければ生きていけないのである。幸せになりたくともなれず、生きているかぎりあがき苦しみ死ねば地獄へ落ちていかなければならないような生き方をしているものが多くいる。また、全ての人々がお互いが理解をしあう為には人間の人生は短すぎる。そのくせ人間の一生は取り返しようのない過ちや失敗に満ちているのである。だからこそ人間は時の流れに流されることのなく汚れを知らない普遍的なものに憧れるのである。そして、その普遍的なものに触れることによって自らの罪を浄化しようとするのである。
 多くの人達は、自分達の世界の背後に普遍的なものが存在していることを直観している。そして、その普遍的なものは自分達が直接近くすることが出来ない、目に見えないものだと思っている。そうした普遍的なものを象徴するものとして人間は神を考えだしたのである。今日の人間にとって時間が陰に作用している事柄は、普遍的な事柄である。我々が考えている事が相対的なものであり、自分達が捉えている表象や認識が相対的なものであってもその根底には何等かの普遍的な原理が働いていることを現代人は直観している。物理学的な法則や学説がたとえ変化したり、相対的なものだとしてもその根底にある原理が普遍的なものであることを我々は直観的に知っている。つまり、科学は、現象を時間の関数としている一方でその根底にある法則を普遍化しようとする試みなのである。時間を突き詰めたところにこそ現代人は、時間を超越した一つのダルマ(法)を見いだしつつあるのである。そしてそのダルマは、曼陀羅のように複雑に入り組んだ構造を有しているのである。そして、その普遍的な世界人類が到達しうる最高の境地なのである。
 現代人にとって時間は静止したものになりつつある。科学文明の発達は夜から闇を奪い、季節毎の味覚や気候の変化を喪失しつつある。またそれにともない一日一日の行動や一週間の計画は、一つの枠組みの中で定型化し、同じパターンを繰り返しているのに過ぎなくなっている。そして、人の一生も一つの方向に向かって画一的な競争に駆り立てるのである。判で押したような生活の中で人々は時間を肌で感じることがなくなり、いつの間にかただ歳をとっていく自分に気が付くのである。つまり、変化を実感できなくなってしまうのである。人間の力で変えられる変化と人間の力で変えることの出来ない変化がある。決まりきった毎日の中で人は目先の変化を求めるようになる。目先の変化に気を取られていると人間はその背後にあるどうしようものない変化を忘れてしまう。人間の力ではどうしようもない時間的な変化を見失うことはそこにある先天的な個人差をも喪失していくことでもある。そして、一人一人の成長の違いや能力の差が無視され標準化された時間の中で個人の生き方や存在感が無色透明なものに変質していくのである。そのために人間の時間は、内面や生理的、主体的な時間から計測された客観的な時間に変質してきているのである。それは自分の時間を喪失していくことでもある。自分の時間を喪失することは、自分の一生の選択の幅を狭めることである。それではただ生きんが為に生き馬齢を重ねるだけの日々になってしまう。その結果人々は、時間の変化の本質を見失いつつある。今日と同じ明日がいつまでも巡ってくるという錯覚である。そのために現代人は生死という事に対する問題意識が希薄となり、死を現実的なものとしてとらえることが出来なくなりつつある。そのために生命に対する畏敬心を失い。生きる目的を見失って粗暴となり。新鮮な感動を忘れ、新しい刺激を求めて刹那的になっているのである。新鮮な魂を再生できなければ、魂は腐敗して好く。腐敗した魂は精神の堕落をもたらすのである。生きるということは時間的なことである。人の一生は、過ぎ去っていく一瞬一瞬に自己の生命を燃焼し尽くし、新しい自己を再生していくことの繰り返しに他ならないのである。ただ一日一日を漫然として暮らしていくことは命の無駄使いに過ぎないのである。人間にとって日々自らを進歩成長させることに意義がある。それは自分の時間を取り戻すことである。科学文明が人類にもたらした恩恵を否定する気持ちは私はない。しかし、人間にとって生きることの意義をもう一度問い直すためには時間の持つ意義をもう一度見直さなければならない時機に来たのではないだろうか。 
 人の人生、つまり、自己の人生に限りがあり、自己の認識が、有限のものだとしたら、時間というのは、きわめて、個人的なものだ。自分にとって生まれる以前の時間や死後の時間は、関わりない時間であるし、知るうる事のできない時間の経過も無縁である。仮に、ある人と別れた後、その人が死んだとしても、その人の死を自分が、知らなければ、その人の死は、自分にとって現実ではない。そう考えると、時間は、自分の基準でしか、自分の視界でしか捉えられない。だからこそ、自分にとっての時間が大切であり、いとおしいのである。

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