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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第3章第6節  重層場

 その場の雰囲気と言う言葉をよく聞く。その場の雰囲気に流されてとか、その場の空気に酔ったとかという具合いにである。人気歌手や俳優の舞台を見ると日頃大人しい少女や分別のある女性が熱狂して我を忘れて叫びだしたりする。狭い映画館や劇場内で地震や火災が発生するとパニックに陥る事がある。群衆心理である。逆に教会や儀式に参列すると厳粛な気持ちになる。信仰心の高まりはこの様な教会の雰囲気によるのである。人間にとって人生の節目に儀式が必要なのは彼を取り囲んでいる場の状態を変えなければならないからである。大自然の中にいると心がおおらかになる。霊場にいくと身が引き締まる思いがする。一人でいると臆病なくせに、徒党を組むと大胆なったりする。孤独は人間から希望を奪うものであり、同じ目的や志しを持った仲間同志といると勇気がでてくるものである。家族的な雰囲気は人間に安心感を与える。試合に勝とうと思ったら選手の志気を高めなければならない。なぜならば、人間はその場の雰囲気でやる気やモラル、志気が高くなったり、逆にやる気をなくしたり志気を阻喪したりするのである。戦争になると人間は平然と人を殺したり、街を破壊したりする。極限状態になると人間は自分の本性をむき出しにする。その場の力は人間の価値観や品性までその根底から覆してしまうこともある。火事場の馬鹿力と言うように普通では考えられないような力をその場の雰囲気によって発揮したりすることもある。一体なぜこの様な事態が発生するのであろうか。なぜこの様な心理に陥るのであろうか。その場の雰囲気によって群衆はパニックに陥ったり、また厳粛な気持ちになったりする。人間は多少の差はあれ場の力に支配されやすい傾向がある。しかも、戦争や人災の多くはこの様な場の力によって引き起こされるのである。場の力は人間の本性まで変える力があるのである。しかし、この様に絶大の力を持つ場の力と言うものほど曖昧で漠然としたものはない。そして、この様に絶大な力がある場の持つ力の意味を正しく知り、正しい方向に向けることが人間の未来を開く鍵でもあるのである。
 場とは、空間の各点でその位置によって個体がある特性を備えた力の作用を受ける空間を指して言うのである。場はその作用する力の性格によって分類される。個々の場はお互いに直接干渉し合うことはなく、個々独立している。これを独立場という。通常、我々が生活している空間は複数の場が同じ空間を共有しているものである。この様な空間を重層場という。重層場に存在する個々の独立場は、個体の位置と運動を媒介にして不可分に結び付いているのである。一般に場は空間内の位置によって変化し、時間によっても変化する。
 ここで言う場の概念は必ずしも物理学的な意味での場の概念に限定しているわけではない。
 空間にせよ、場にせよどの様な条件下においても又どの様な前提に対しても一様かつ等方、定常であると限定することは出来ない。空間や場の一様性とは与えられた座標系に対して一様なのである。又、場と単なる空間(一般的に三次元空間のようなものを指す)とは本質的に違う。つまり空のコップとガラスの円柱ほどの差があるのである。ただ、場の中の物体の運動や場の状態を測定する際、座標系を活用する関係で場と空間が混同され易いのである。故に場は座標系によって特定された空間に対し一様であるとは限らないのである。例えば水道管の中をながれる水が作り出す空間を一つの場だとすれば水道管の作り出す形が一つの場の形だと考えることが出来る。この様に場の形は一意的に決定できるものではなく、場が構成する空間の状態によって左右されるのである。
 場は、自然に存在するだけではなく、人為的な社会にも存在する。人為的な場とは何か、それは複数の人間における合意に基づくことによって生じる空間である。例えばスポーツのルールに基づく空間である。即ち、お互いが合意に基づいて一つの法則や原理を共有した時、そこには特性を有する力によって支配されることになる。この様な考えに立てば国家も一つの場だと考えることが出来る。無論人為的な場と自然の場とは違うものである。人為的場は、人間の合意によって成立し、人間の意志によって維持されるものであり、自然の場のように人間の作為に左右されないものとは本質的に違う。しかし、人間の合意にせよ特性を持った力が人間の意志に働くことを考えればそれも一つの場だと考えることが出来る。この様に場とは必ずしも全ての物体や状態に対して作用するものではないのである。特定の条件や状況下に作用する場や特定の物質にのみ作用する場もあるのである。物理的な反応がなくても存在する場があるとすればそれは物理的な実験だけでは観測することは出来ない。また、ある特殊な状況下に於て顕在化する力は、その様な状況が発生しないかぎり観測することは出来ないのである。この様に場というものは潜在的に作用する力であり、我々が知らないところで作用している未知の場が存在しているのかもしれないのである。また、精神や霊的な場というものがひょっとしたら存在するのかも知れない。しかし、我々は、まず既知の場や何等かの手段によって観測することの出来る場について考察することにする。なぜなら我々に何の影響のない場が存在したり観測の仕様のない場が存在したとしても我々には何の意味もないからである。ただ敢えてここでその様な場が存在し得ることを示唆したのは、将来、その様な場を考察することが我々の社会や科学において必要になる可能性がある点と場が持つ意味を明らかにするためである。
場を我々は直接知覚することは出来ない。物体の運動や現象を仲介してその背後にある場というものを観測するのである。場の概念は直接知覚できる対象によって説明することは出来ない。場の存在は五官によって直接認識されるのではなく物体の運動や現象を通して間接的に認識されるのである。我々が存在というと一般的には、五官によって直接知覚できる対象を指して言う。しかし、空間や場は直接手に触れることも目で見ることも鼻で臭いをかぐ事も出来ない。空間や場の存在と言われた時何か違和感を感じるのは空間や場を五官によって捉えることが出来ないからである。故に場の存在は多分に直観的なものとなる。この様に間接的かつ直観的に物事を理解すると言うのは人間は苦手である。そこでかつては、宇宙空間は何等かの媒質に満たされていると考えられたのである。そしてその様な媒質をエーテルと呼んでいたのである。今日従来のような形でこの様なエーテルが存在していると言うような考え方は一応否定された。それに代わって場の概念が導入されたのである。場の概念を理解するときはこの様に事情を念頭に置いておかなければならない。
 我々は、自分達が知覚し得ない対象を説明しようとするとき、既知の知覚し得る対象からその概念のいくつかを転用することによって説明する場合が多い。確かにそれは、説明しようとする相手に描像を抱かせるためには有効な手段に違いがない。しかし、それと同時に我々の思惟を知覚できる対象に拘束させてしまう可能性がある。喩話を現実の話と混同することである。我々が前提としているのは対象や現象の存在であって、形態や変化の様相ではない。対象や現象の存在を前提としたとき、その形態や変化の様相は属性に過ぎなくなるのである。属性である形態や様相に拘泥して真実を見失ってはならない。況や形態や様相を概念を説明するために他の概念から転用することによって元の特性をかえって不明にしてしまったとしたら愚かなことである。場や空間の概念はそれ固有の特性があり他の概念を援用することによってかえって混乱を招くことがある。また場を構成する力にかんしても極めて抽象的なものであり、力も直接知覚することが出来ない。故に、直接知覚し得ない対象の概念を理解するためには自分の直観力を磨いて極力他の概念からの援用を避けなければならないのである。また、概念の意味を理解したら援用された概念から開放されるように努めなければならない。論理は形式に過ぎない。しかし、一度論理的に体系化された観念は強い説得力を持つようになる。又、人間は一つの観念を信じてしまうと今度はその観念に捕らわれてしまうことになり易い特質を持っている。特に空間や場のように直接知覚できない事柄には捕らわれ易い傾向が強くある。それ故に観念と実体が遊離しないように絶えず論証を繰り返す必要があるのである。言葉に惑わされてはならない。大切なのは事実である。事実を知るためには、観念に拘束されることのない自由な立場を保障し合わなければならないのである。
 問題なのは観念と実体の遊離である。観念と実体が遊離すると観念は虚構となり実体は発展性を失う。学者の犯す誤謬の最たるものは、言葉を知っていて概念を知らないことである。教育者の犯し易い過ちは、知識を知っていても生徒を知らない事である。つまり、教えなければならない事を知っていても、教えるべき相手を知らないことである。同様に科学者の犯し易い誤謬は、法則を知っていても現象を知らないことである。法則を知っていても法則が指し示す現象を知らなければ、法則の持つ意味を理解することは出来ない。仮説に合わせてデータを改竄するような事が昂然と行われるようになったら科学はその成立基盤を失うのである。計画を立てても現実を知らなければそれを実行することは出来ない。計画を立てなければ現実を克服することは出来ない。科学が観念によって支配され現実から乖離すれば科学はその根拠を喪失してしまう。科学の生み出した法則や原理を絶対的な真理だとして神聖視した場合、科学はその本質を失うのである。特に空間や場と言った抽象的な概念を扱うときにはこの点をよく念頭に置いておかなければならないのである。
 真理は我々の身近なところにあり、意外と気が付いていないのである。真理を探究するとは、自分の被っている帽子を捜す様なものなのかもしれない。場の概念を理解するためには直観力が必要である。現象を通して場と言うものを直観的に捉えることが必要なのである。何も信じることの出来ないものは何も理解することは出来ない。どんなに単純な事でもそれを厳密に説明しようとすると複雑になる。しかし、法則を活用する側からみると厳密に論証より結果の信憑性の方が重要なのである。信憑性が高ければ活用側の人間は安心して活用できるし応用することも出来る。ではどの様にして信憑性を高めるのか、本質的にはデータの集積である。論証も重要だが信憑性を高める為には、事実を観察し実験を積み重ね法則を実用化してデータを集積する事がより重要なのである。
 一度公式化された仮説は現実を拘束する事がある。理論や概念が先行して事実や真実が隠されてしまう例はたくさんあるのである。言葉に意味される対象や概念がない言葉は思索を混乱させるためにかえって有害である。無論それを説明することも出来ない。現象や対象に法則や意味を当て嵌めることはできても法則や仮説に現象を当て嵌める事は出来ない。我々が立てた仮説が重要なのではなく現実の方が大切なのである。原因や動機を探究することは重要なことだが自分の都合によって事実を歪曲したら本末転倒である。説明できる出来ないは真実とは無縁な事である。実証性を重んじるにせよ、その根本にある現象やデータが間違っていては意味がないのである。その根本にあることが偽りであればその後の仮説や理論が如何に精緻正確なものであっても無意味なことである。空間や場に対して誤った認識を持てばそこから導き出せれる世界観も実体とはかけ離れたものになる。大切なことは我々を取り囲む場の力をどの様に捉えるかである。特に社会の中で形成される人為的な場の力と作用を正確に知らないと社会現象を正しく理解することは出来ないのである。
 一つの理念を理解しようとする時、表面的な矛盾に惑わされてはならない。場や個体について考察する時、場や個体の運動は前提条件や特定された座標系によって変化する。しかし、その様な表面的な変化に幻惑されてはならない。また、導き出された法則や方程式が矛盾していると結論するのは早計である。肝心なのはその理念の前提条件となっている座標系間の変換性である。座標間に互換性がありその変換に整合性がある場合そこから導き出された法則には、包括性があると言うのである。個体の運動を場や空間との関連で捉えていく際、注意しなければならないことは、場や空間の前提となる座標系の存在である。座標系の設定の仕方によって場や空間内の現象も変化することを忘れてはならないのである。そして、現象に対する仮説の信憑性即ち正当性は、座標系間の包括性によって決まるのである。
 個体の運動の方向や目的は、場が個体に及ぼす力の合力によって決定する。ここで言う個体とは、自己を含んだ物体を意味するのである。個々の独立場は独立しており、個体に及ぼす影響は個体の運動を仲介にしないかぎり個々独立している。故に、個体の方向、目的は、個々の独立場における方向性や目的性を複合したものである。つまり、個体は同時に性質の違う複数の力の影響を受けるのである。これを作用の同時性という。個体とは、場をつなぐ媒介物と考えても良い。個体の運動は、場の力の影響を受け、場の作用する力は個体の運動によって変化する。この様に場は個体の運動を仲介にしてお互いに同時に作用しあうのである。複数の場に同時に作用する事を個体の作用反作用という。個体を媒介にしてお互いの場に作用を及ぼすと言っても個々の場は独立したものであることには変わりがない。故に個々の独立場の方向や目的は明確に区別しておく必要がある。つまり、個体の運動の方向や目的は単一な方向によって定められるのではないのである。但し個体の運動の方向や目的は統一されたものでなければならない。即ち、個体に働く力は、個体内部で分裂してはならないのである。個体内部で分裂した場合、それは個体の分解を意味するのである。そのためには個体は力の集中した点即ち重心を持たなければならないのである。個体は個体が影響を受けている場の力が最も均衡した所に位置づけられ、または特定の座標系に対し静止する。この様にして同じ場に属する個体は場の力を媒介にしてお互いが関係付られるのである。この様にして複数の個体が関係付られる事を構造化という。
 私は客観的実在の場と主観的存在の場を結び付ける個体が自分であると定義する。そして、客観的実在の場に存在する自分を個人と呼び、主観的存在の場に存在する自分を自己とする。自己の内部に生命を持つ生物は自己の内部に動因を持つ。そして、自己の行動を決する内的な世界と外的な世界は別の世界である。内的な世界を自分の肉体を使って外的世界に投げ出しているのが自分である。つまり、内的な世界と外的な世界はお互いに独立しており、その独立した内的な空間と外的な空間とをつないでいるのが自分である。当然自己の内的な場の方程式と外的な方程式は違う。それ故に内的な世界と外的な世界の葛藤が生じその葛藤を通じて内的な世界と外的な世界の双方に影響力を行使するのである。同時にこの葛藤こそ人間の苦悩そのものなのである。人間の苦悩は人間の存在の根源から発しているのであり、苦しみから逃れようとして自分を見失うと人間は内的な世界と外的な世界との結び付きを失うのである。その結果内的な世界と外的な世界は分裂し行動の整合性を喪失するのである。人間の苦悩は、宿命である。人間は苦悩によって強くなり、苦悩を克服することによって成長するのである。人間の苦悩は丁度陣痛のようなものであり、創造の苦しみなのである。
 人間は、自分の行動を通じて自己の内的な世界と外的な世界双方に影響力を同時的に行使しているのであり、その結果人間は内的な場と外的な場の双方から同時に力の作用を受けるているのである。個人の行動は観念的な場と実在的な場の双方に同時に作用する。人間の行動は自己の内的な世界の発展と社会的な影響の両面を持っているのである。この合力によって人間の行動の方向は定まるのである。社会的行動は心理的な変化を同時にもたらせる。この様な双方向的な働きを自己の行動の作用反作用と言うのである。
 個体の自由度は、個体に与えられた運動に対する選択因子の量によって決められる。即ち個体における選択可能性の幅がその個体の運動の自由の幅を決定するのである。選択因子は個体の固有な決定因子と個体に作用する場の力の質によって形成されている。個体が実際に自由を実現、体現する為には、個体の内的な力と場の力の方向を一致させ個体の運動を円滑にしていくことである。個体の運動を開放するとは、個体が属している場の法則や作用をなくすことではなく、個体の決定因子の幅を広げ個体に作用する力の選択因子を増やすことによって個体に作用する力の法則を有効に活用し、個体の運動力を最大限に発揮させることである。この様に自由は内的な欲求と外的な制約の中で決定されるものである。物体のように個体の内的な決定因子が画一的なものの運動は、場の作用によって一意的に決定する事が可能であるが、人間や動物のように内的な決定因子が複雑な場合、場の力だけでは、物体の運動を一意的に決定することは出来ない。それでも個体の運動は場の力によって制約を受けている事実は動かし難いことである。人為的な場において場の構造が歪められると個体に働く力は均一均質なものでなくなり、個体即ち個人の選択因子に差が生じる。一般的な場は必ずしも一様なものでなく個体に働く力に差が生じることはやむおえないものであるが、派生した差が正当的な理由によるものでなく個人の自由度を不当に縮めるような社会構造は人間の能力を不必要に抑圧する性質のものである。この様な不当な差が生じるような社会構造を差別と言うのである。自由な社会とは選択因子の幅が均質均一に保たれるような社会を指して言うのである。人為的場と自然の場を同一の次元で語ることは出来ない。ただ、人為的場を自然の場に近付けるように努力する必要がある。それが人間を自由にすることだからである。自然の場に人為的な場が接近すればするほど人間行動の自由度は増すのである。なぜならば人為的な空間の不自然な歪みは人間の行動の選択の幅を縮め自由な行動を阻害するからである。そのためにも人為的場をなるべく平等な状態にしなければならない。不平等が何よりも人間の行動を不自由にしているからであり、最も不自然なものだからである。
 人為的場を考える時、スポーツのフィールドを考えてもらえばいいのである。スポーツのフィールドは人為的な場である。決められたフィールド内に入ると規定された法則即ちルールに従って行動しなければならないのである。ルールは人為的な運動法則である。ゲームの最中にはボール即ち個体の運動が場に作用して競技者の守備位置や守備体系を変更させ、次のボールの運動方向を決定するのである。この様に個体の運動は場が個体に及ぼす作用によって決定付られるのである。また個々の個体は場の力によって関係付られるのである。
 個体、物体に対する概念も相対的なものである。場を水平方向に作用する力に満たされていると考えれば、個体や物体は垂直方向に作用する力だと考えることも出来る。また、個体は場が反転したものと仮定したり、場の空間の一部を占有したものと考えることも出来る。また、場の歪みももしくはしわの様なものと考えることもできる。必ずしも場と個体が不連続なものとして考える必要もない。この様に個体に関する概念も絶対的なものはなく相対的なものである。個体に関する概念が相対的なものである以上個体の運動に対する概念も相対的なものである。個体の運動は場の歪みの軌跡として考えることも出来る。また、個体は一度消滅して、それと同僚の個体が別の場所に生じる、即ち個体の運動を不連続なものとして捉えることも出来るのである。場が個体に及ぼす作用も遠隔的なものと見なすことも近接的なものと見なすことも出来るのである。この様に運動や作用の概念も相対的なものである。また、場に関する概念も相対的なものである。例えば物体の落下運動にともなう加速度運動を場の歪みから生じるものとして考え場の歪みを修正すると直線運動に変換することも可能である。また、場は個体の存在によって一様でなくなる場と個体の存在に左右されない場とがある。また、特定の個体にのみ反応する場もあれば特定の条件下で発生する場もある。場を構成する要素はエーテルの様な媒質的なものに満たされていると言う理念もあれば潜在力として見なすかこの点も議論が分かれるところである。この様に場の概念も相対的なものである。
 ルールが定まればルールを守っている限り競技者はどんな行動をしても許される。ルールに習熟し体を鍛え技能を高めれば高めるほどその人の行動の幅は拡大する。ルールが定まっていなければいちいち自分の行動を考え判断しなければならない。それはかえって不自由である。法則を明らかにすれば人間は空を飛んだり、長時間海に潜ったりする事が出来るようになる。ルールがあるから人間は不自由だと考えるのは間違いである。ルールがあるから人間は自分の意志を決定できるのであり、ルールに習熟することによって人間は自由になれるのである。学習は、自由な時間を奪うと考えるものがいる。しかし、それは間違いである。学習を重ねると人間は知識を豊富にし自分の可能性を高めることが出来る。体を鍛えることによって人間は自分の限界を克服することが出来る。技能を高めればそれだけ多くのものを創造することが出来るのである。人間は、学習を重ね体を鍛え技能を磨けば磨くほどそれだけ選択の幅を広げ自由になれるのである。つまり、我々はより自由になるために学習を重ね肉体を鍛え技能を磨くのである。何の制約もないことを自由という言うのではない。数多くの制約を克服し自己の行動半径を拡大することを自由と言うのである。労働は、人間を拘束するものだから極力労働時間を少なくするべきだと言う意見がある。しかし、労働は、自己実現の手段であり、職場は自己実現の場である。確かに無理な労働は自己の肉体も精神も荒廃させる。しかし、それは労働が自己を荒廃させるのではない。労働条件や環境が劣悪なだけである。労働条件や環境が劣悪だからと言って労働を不必要なものだと否定するのは短絡的過ぎる。自己実現の場を否定したら自由を実現することは出来ない。目先の苦しみに目を奪われてその苦しみから開放されることが自由なのだと錯覚してはならない。自由とは何の努力もせずに獲られるものではないのである。
 我々は、理性的な力を買い被り過ぎているのではないだろうか。人を動かす最大の力はその場の雰囲気である。善悪の判断はただ是々非々の問題である。何を是とし、何を非とするかは、何を信じ何が信じられないかによって決まる。人が何を信じるかはどの様な力がその人を信じさせる力となるかで決まる。そして、人を信じさせることの出来る力とは理性に訴える力より情緒に訴える力の方が強いのである。納得したから信じるのではなく、それに感銘をしたから信じるのである。なぜなら人間の人生は不条理なことに満ちており、人間の死は理性的に受け止めるにはあまりに謎に満ち、また、否定的であり過ぎるからである。人為的な場の力を維持しそれを充足するために思想はある。つまり、理論は、その場の法則を帰納的に見いだし、その場の力をより有効に活用するために形成されるのである。法則を見いだそうとするときは帰納法的に、それを実用化する時には演繹的に求めるのである。思想はあくまでも観念的なものである。それ故に、思想は、実体を建設するための設計図となり得ても、それ自体が実体とは成り得ない。実体的なのは思想ではなく現実の場である。現実の場を観察して法則を見いだし、または現実の場を支配する法則を定め、その法則に基づいて諸々の実体を建設していく、それが人間の英知である。
 概念は、情緒の海に浮かぶ島である。概念を生み出すのは感性である。概念と概念の隙間を埋めるのは人間の感性と情念である。人間の思想の根底には常に怨念や苦悩、執念、憤激といった情念が隠されているのである。理想は現実の場から生まれるものである。現実の矛盾や不満、悲惨、悪、絶望が理想を生み出す源泉である。現状に満足している者から理想は生まれない。だからこそ現実の矛盾や限界に立ち向かっていこうとする激しい激情がなければ理想は生まれないのである。理想を実現するためには理性の力だけでは駄目であり、人を揺り動かすような熱気や熱情がなければならないのである。現実の場を動かしているのは人間の感性だからである。この様な場の力を正しい方向に向け、制御するのが理性の力である。個人の力でこの場の力に坑する事は困難である。場の力は丁度プロパンガスのようなものである。プロパンガスは、容器や器具を使用してその力を制御すれば安全なものであり、人々の生活の利便に役立つものである。しかし、その取扱を間違えば多くの惨禍を招くものである。理想を生み出しそれを実現するためには感性の力が必要である。しかし、感性の力を制御できなければ人間は破滅してしまう。理性とは、プロパンガスを取り扱う際の容器や器具のようなものである。また、容器や器具を安全に取り扱うためには社会制度や法律が必要なように現実の場の力を制御するためには何等かの社会的な仕組みや取り決めが必要となるのである。それ故に、人間は理性が働くような体制や制度を整えておく必要があるのである。人間から理性を奪えば社会的な責任は果たせなくなる。感性にのみ支配されていたら人間は共通の基盤を失うことになる。だからこそ人間にとって場を制御する法の力や感情を抑制する理性の力が必要とされるのである。我々は理性の力と感性の力の働きを正しく理解しその作用するところを正確に把握しておかなければならないのである。
 確かに物理の法則を知らなくても車の運転は出来る。車の免許を与えるのに物理学上の高度な試験をするのは現実的ではない。物理の法則を知っているだけでは何の役にも立たない、物理学上の法則は実用化されてはじめて人の役に立つのである。物理の法則が有効なのは自動車を実用化していく過程である。自動車を発明し実用化するための人間の数より自動車を活用する人間の数の方がずっと多いのである。だからこそ現実の社会では、自動車を活用するためには物理の法則よりも自動車を安全に運行するための法律の方が重要なのである。現実の世界で必要な是々非々の判断は、理性的な判断ではなく直観的な判断である場合が多い。現実は理性の力だけで断定するには複雑過ぎるのである。理性は、人間が自分の考えを整理し一つの体系にまとめ上げるときに必要なのである。また、自分の行動を管理し抑制するために必要なのである。
 その様な理性は、自己の価値観を形成するときに必要とされるのであり、現実の意志決定をする時にはあまり表面には現れないものである。現実に何等かの災害や事件に遭遇してから対策を考えても遅いのである。それ故に、人間は自分の経験や教育から予め何等かの事態が生じたらどの様に対処するかをある程度は決めておかなければならないのである。理性は、事前に起こり得る事態を数多く予測し、それに対する対策を備えている場合にのみ働くのである。理性は、理性の力が効果を発揮できるような体制や価値観を準備してある事柄に対して働くのである。咄嗟的な判断が必要な時、現実の社会で問題にされるのは結果や結論である場合が多く、原理や原因まで考慮する時間がない場合が多いのである。事の善悪の判断は確固たる価値観に基づいて行うものである。その様な判断の基準は予めある程度の結論を出しておく必要がある。それが道徳観や人生観である。また、咄嗟的な判断を要求された時に困らないように予め知識や情報を蓄え整理しておかなければならない。それが、常識である。それ故に、多くの人々にとっては、なぜ、平和が正しいかについて厳密な論証をするよりも、平和とは何か、如何にしたら平和が実現する事が出来るのか、平和を維持するためにはどの様なことを守らなければならないのかと言うことの方が大切なのである。なぜなら成否の判断を変えることはたやすく出来ることではないからである。そして、予測し得ない事態や状況に陥ると人間の理性の力は無力となり、その場の力に押し流されてしまうものである。故に、その場の力の作用を計算しないで理性の力だけで物事を処理しようとすれば多くの場合失敗する。一見合理的な世界や行動であるようの事柄でもその背後には必ず何等かの場の力が働いているのであり、社会を正しい方向に向けたり社会の平和を維持するためには社会の根底で働いている場の力を常に正しく認識しておく必要があるのである。
 言葉や観念によってのみでは人を導くことは出来ない。共通の経験や共通の悩み、共通の目的、共通の利害に直接訴えることによってのみ人を動かすことが出来るのである。お互いに共鳴するところがなければ、人はその相手を信じないのである。そうした、人間の共感や情念を育むのは現実の場の力である。全ての活力の源は場の力である。自己を育むのは内的な場の力即ち気力である。それ故に、理屈だけで人間の社会を成立させることは出来ないのである。ただ、我々が自然の法則を応用して自分達の生活の利便を図ろうとするならば、我々は自然の法則を解明し、それに基づかなければならないのと同じ様に、我々が人為的な場の力を正しくかつ有効に活用するためには、人為的な場に体系的で明確な法を与えなければならないのである。しかも、自然の場の法則を解明する為には自然を観察すればいいのだが、人為的な場はそう言う訳にはいかないのである。自然の場が与えられたものであるのに対し人為的な場は自分達の意志による合意に基づいて自分達の力で創造するものだからである。だからこそ人間の社会に思想が必要なのであり、哲学が必要なのである。ただ、それはあくまでも物理学が近代科学技術に果たした役割と同じ程度のものであり、思想や哲学が社会の全てを支配しているのではなく、人間の社会の底辺には、必ず感性や情念のような論理によっては割り切れない力が存在することを忘れてはならないのである。
 人間の社会は、重層的な構造をしている。社会が形成されるためにはその社会の根底に必ず何等かの場が存在しなければならない。人間の社会は場を積み重ねていくことによって成立をしているのである。どんなに小さい集団でもそれが集団として何等かの関係が成立しているならば必ずその根底には何等かの場が存在している。当然この様な場は場の力が広範囲に亘れば亘るほどその結び付きは希薄となる。つまり、合意度は低下するのである。故に、人間の社会は自己に接近するほど重層度が厚くなるのである。重層度が増せば増すほどその場の力の密度も増すのである。逆に言えば人間は自己から遠くなればなるほど合意度が低下し、場の重層度も薄くなるのである。
 自然の場の上に人間としての場が積み重ねられ、人間としての場の上に国民としての場が積み重ねられ、国民としての場に地域住民としての場が積み重ねられと言う具合いに場が積み重ねられていくのである。また、こう言った地域的な場のみではなく、会社員になれば会社という場が積み重ねられる。最後に自己の内的な場が上乗せされるのである。また、公的な場や私的な場という分類もある。この様な場の重層性には個人差があり、場の重層度が高まれば高まるほど所属する社会の合意度は高まるのである。場を構成する合意事項は必ずしも成文化されているものとはかぎらない。寧ろ暗黙の合意や規範に基づいている場合が多いのである。つまり場を構成する力とは必ずしも顕在化した力ではなく潜在的な力である場合の方が多い、寧ろ潜在的な力と言うよりも論理化し得ない要素が多いと言う方が正しいかも知れない。とにかく場の力とは目に見えない要素によって生み出されていると思えばいいのである。目に見えないだけに場の力はより強い影響を社会に与えているのである。世の中はその場の力の作用によって構成され動かされていると言っても過言ではないのである。故に、人間が一つの事を行おうとすれば、例えば一つの事業を興そうとする場合、各々の場の力を充足し、場を構成する要素に働きかけ場の活力を高めなければならないのである。また一つの組織や社会を成立させるためには集団の合意事項を積み重ねなければ出来ない。合意とは集団の意志が凝縮し、凝固したものであるから集団の合意力を高めるためには場の凝集力を高める必要がある。場の凝集力を高めるためには、その場の力を集約させいくような組織や個人、理念と言った核が必要である。場の力が充実するに従って場の力によって関係付られた要素が一つの体制を作り上げ場の力を保存するようになる。この様にして社会は形成されていくのである。故に人間の社会はその社会を構成している場即ち合意が破られたときに解体を始める。人為的な場を維持するためには法や制度を公式かする必要がある。この様に場の力を維持するために法律や組織が公式化されてきたのである。 
 人為的な場の力は、その社会の文化、歴史、伝統、民族性、地域性、風俗習慣、思想、教育、改革、宗教等の要素が集積して漸次充足していくのである。強力な指導者が現れてその場の力を急激に凝縮したり、また新しい要素を加えたり、方向性を変えることはあるがその場合でも、その場の力を無視することは出来ない。人間の社会の根底にはこの様な場が潜在的に存在し、人々の日常生活に隠然たる作用を及ぼしているのである。そして、この様な場の力は必ずしも理念化されているわけではなく、公式化されたり論理化されていない場の力の構成要素は神話や伝説のような形で象徴化された上で伝承されている場合が多いのである。この様に公式化されたり論理化されていないような場の力が突発的に顕在化しその社会の情念として予期せぬ集団行動を誘発する場合がある。この様な行動は内部の指導的な人間や中心勢力でもなかなか制御することが出来ず、社会体制や秩序を破壊し、その社会の成立基盤まで解体してしまうことすらある。また、集団内部に長い間かかって怨恨や、怨念が集積され集団間に解消できない対立的な要素を生み出すこともある。故にその社会の場を成立させている場の力の要素を正しく知り、如何にしてその場の力のを建設的な方向に向けるかが為政者達の最大の課題となるのである。また人間の行動半径が拡大し続けている今日個人の権利と安全を確保するために人為的な場の統一と体系化が要求されているのである。即ち同じ地平線上に全人類が立つことが要求されるようになってきたのである。
 自然科学は、その成立基盤を自然の場に置くことによって個々の社会間にある障壁をなくすことに成功したのである。即ち自然の場が最も均一、均質なものであるからである。近代的合理精神は、この様な自然科学の成果を踏まえ、人的な場の統一と体系化という要請に基づき、自然の場の様な均質な場に根拠を置くことによって場の力の異質さを解消し、そこから一つの体系を作り上げることによって人為的な場の再構築を計り、人為的な場の統一性と整合性を高めているのである。近代的合理精神とは、この様な科学的な発想を基盤に発展してきたのである。このことは近代社会を特徴付る四つの要素即ち科学、民主主義、近代会計学、近代スポーツの基盤的な発想でもある。つまり、全人格的な合意をいきなり求めるのではなく、合意できる事から合意事項を積み重ねながら、その合意事項の整合性を計ることによって社会の場の統一性を高めたい経過しようとするのが近代的民主主義の基盤的発想なのである。つまり、民主的な集団とは集団を形成するために必要な最大公約数に基づく最低限の合意を前提とした社会である。
 スポーツに国境はない。それは、スポーツがルールに従って作る出す場が万国共通なものであるからである。近代スポーツ以外で近代になってこの様に万国に通用しそれが地球的規模で一つの体系を作り出したものに近代科学、近代会計、民主主義の三つがある。概念と概念、また、個体と個体を関係付結び付けているのは、場の力である。そして、その場の法則に着目し解明したのが近代科学である。ルールに基づいて人為的な場を設定し、行動の自由を実現したのが近代スポーツである。複式簿記にはじまり経済行為を一つの方程式に体系づけ経済を一つの場として捉えたのが近代会計学である。主権在民思想に基づき法によって国家を一つの場として成立させたのが民主主義である。この四つの考え方には、それらが機能する場を一つの法体系によって特定すると言う共通点がある。そして、この場の概念こそ近代を近代として成立させた重大な要素の一つでもあるのである。そしてこの様な万国共通の場を設定し得たことによって近代は国境という障壁を乗り越えることが出来るようになったのである。
 近代スポーツと近代科学の間には、多くの類似点がある。近代スポーツの発展と近代科学の歴史は、妙に符牒が合う処がある。しかも、スポーツは、自由、平等、公正を自然に実現しているのである。私は、スポーツの中に未来社会の原型があるように思えてならないのである。また、スポーツのゲームや選手を見ているとモラルや志気も高く、効率もいい。これらは、自由や平等、公正を実現するとモラルや志気、効率が最大限によくなることを証明しているようなものである。スポーツ選手や観客はルールを理解してもルールを作り出したシステムや原理を理解しているわけではない。大体近代スポーツはまだまだ解明されていない多くの謎を持っているのである。スポーツの選手はスポーツのルールや基本的な技術の修得に専心すれば良いのである。つまり、学習より訓練や修養といった要素の比重の方が重く、理論よりも実践的な要素が高いのである。選手達にとって与えられたポジションを如何にこなすかが重要であり、その目的に沿って自分の訓練方法や理念を組み立てているのである。そしてそこで下される判断は直観的なものであり、いちいち基本的な動作や判断を考え込んでいたら試合には勝てないのである。試合の勝敗を決定付る重要な要素は、無論選手一人一人の技能やチームワークも大切な要素ではあるがそれ以上にチームの志気や勢いに左右されるのである。試合中名選手と言われる選手ほどいちいちルールが意識の表面に現れることは少ない、プレーは無意識に行うものである。ルールや技能は試合が始まるまでに体得しておくべきものであり、試合中は、反射的に判断し運動をしなければならないのである。選手達が自分の意識をゲームに集中させ忘我の境地になれるのは、スポーツが一定のルールを持ち、選手が予めそれに習熟し、技術を体得しているからである。人間はこの様な状態になった時、自己の持てる力を最大限に引き出し自由になれるのである。 
 場から個体に働く力の作用や場を構成する要素が個体に及ぼす作用が安定していてかつ整合性が高いときもっとも個体の運動は円滑でかつ活発になる。人間は、社会生活を営んでいるかぎり必ずいくつかの人為的な場に所属している。しかし、自分が所属している場が総て同じ方向に力を及ぼしているわけではないのである。通常の場合自分が進みたい方向に反する場の力が絶えず存在しているものである。この様な抵抗に合うと人間は自分の行動に不自由を感じるのである。自分が進みたい方向と場の力を一致させようとして我々は自己内面や外的な世界に働きかけるのである。場の力と自己の欲求が矛盾しないで済むような体制を作ることが自由な体制を実現することなのである。
 自己内部にもいくつかの場が存在する。そして、人間の人生はその自己内部の場を純化し、浄化し、活力や英気を養うことによってより実りあるものになるのである。この様な場の力を体現化していくのが自分の行動である。人間の行動を引き出すエネルギーの源泉は内的な場の力である。しかし、我々は、日常生活の中で内的な場と言うものを明確に意識することはない。例えば性的な衝動は、人間の内面に潜む情欲の力によって引き起こされる。しかし、この様な情欲を衝動的な力としてではなく理念的な力として意識することは一般的にはない。通常理性の力とはこの様な得体の知れない情欲の力を抑制し、制御するために必要とされるのである。この様な理性と言うのは通常一つの理念によって構成され知性や意識によって管理されているものである。つまり、理性や道徳観とは人間の行動の原動力となるエネルギーを蓄えておく器や器具の様なものなのである。この様に人間の内面にも人間の行動のエネルギーを生み出す力の場とそれを制御し行動を方向付ける理性的な価値体系の両面があるのである。そして、人間の行動はこの様な両面性によって引き起こされるものであり、情欲が悪で理性が正しいと言うように単純に割り切れる問題ではないのである。故に、人間の行動を判断する際、どの様な基準や作用がその行動に及んでいるかを確認することが重要なのである。人間の内面を形作る要素は一意的に善悪の判断によって割り切れるものではない事を忘れてはならない。ガス事故が発生した時、原因を明らかにしないでガスが存在すること自体が悪いと一方的に決められないように、人間の罪は人間の情念が存在することだと決めつけることは出来ないのである。電力にせよ、石油にせよ、原子力にせよエネルギーは、あらゆる産業や生活の活力源であると同時に、それをコントロールできないかぎり危険なものなのである。その上で人間の行動を触発するものの多くは衝動的なものであり、情念や情欲がその源である場合が多いことを忘れてはならないのである。 
 人間は、いくつかの場に属している。人間であるかぎり当然自然の場に属している。そして、人間の場に属している。自分の国籍や住んで居る国の作り出す場に属している。また、何等かの信仰を持っていれば信仰している宗派が形成する場に属している。会社員であればその企業が作り出す場に属している。人間は生まれたときから家族が属する血族が作り出す場に属している。何等かの団体に属したならばその団体の形成する場に属する。この様に人間は、否応なく一生の間に幾つもの場に属することになるのである。そして、この様な場は、人間によっても時間によっても成長過程によっても場所によって変化するものである。場が及ぼす力も地域、時間、効力の及ぶ範囲、その人間の立脚する位置によって変化するのである。場の力が作用する次元も空間的な次元、観念的な次元、情念的な次元、感性的な次元と等質なものではない。つまり、場や場に働く力は等方一様なものではなく、個性的なものである。しかも人為的な場は、人間の主体的な意志によって成立するものであり、社会の成立基盤そのものが幾つかの場が集積されているものであるために、人的な空間では数多くの場が複雑に錯綜しているのが実情である。社会的な場とは複数の個人が一つの場を共有することによって成立する。また場の力の及ぼす範囲を国境によって特定できるようなものは寧ろ例外であり、大多数の場は国境線のようなものによって一線を画す事の出来ないものなのである。その上に、集積した場の数だけ個体に作用する場の力、法則が発生する事になり、しかもその法則間の整合性は必ずしもとれているわけではない。忠ならんと欲すれば、孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならずとか、義理と人情の板挟みと言うように、場と場の力が厳しく拮坑し個体を分裂させてしまうことすらあるのである。また、場の力は拡散すればするほど希薄となり、質的な変化を伴うことがある。キリスト教や仏教が時間や地域的な広がりによって質的な変化を生じ、多くの宗派を生み出したのが良い例である。この様な場の変化は、ますます人間社会を複雑にし、場の統一性を損なうことになるのである。故に、人間の行動半径が地球的な規模に拡大した近代と言う時代は、この様に矛盾した場を統一し場の整合性をとる事が時代的要請として要求されてきたのである。自由と平等、博愛を一つの基調とした公正な社会の建設が民主主義の基本的な目標として成立したのはこの様な時代の要請に基づくのである。民主主義と一緒に人間性が唱えられているのも人類という共通の場を基礎として基本的人権によって統一した場を再構築しようとする意図が隠されているからである。即ち統一した場とは、場と場との対立を解消し自由と平等を確保することによって成立するものであり、その基調となる場の力は博愛精神であるとの考え方が民主主義の基本的な考え方なのである。この様な考え方からすれば主権を人民に置き、合意に基づく契約的な世界を基本とするという考え方が生まれるのは必然的な帰結なのである。そして、民主主義が最も急進的な形で新大陸アメリカで開花したのも過去の歴史や伝統に捕らわれない統一した場を前提とすると言う民主主義的な観点からみれば当然なことなのである。また、長い歴史や伝統と言ったしがらみに縛られた社会において旧態然とした因習を徹底的に破壊すると言う革命的な行動によって近代への道が開かれたと言うのも場の統一と言う時代の要請から見れば必然的なものなのである。
場の力は直接知覚できない。空気のようなものだと思っても差し支えない。空気が作り出す空間も一種の場だと考えられなくはないがこの点に関しては場を物質的なものとして捉えるべきか、非物質的なものとして捉えるべきか異論があり、この問題は、純然たる物理学的な課題であるからここではその議論に立ち入ることを控えたい。とにかく、場の力は、空気のように我々に重要な役割を果していながら目に見えるものではないのである。直接知覚することの出来ない力によって現実の世界が動かされていると言うことを発見した時から、しかもこの力には何等かの法則があり恣意的なものではないと言うことを発見した時から近代は始まったと言っても過言ではない。それだけに場の概念と言うのは革命的であり、解り難いのである。この様な場の整合性を如何にしてとるのかが近代人にとって最大の課題となったのである。この課題に対して元々人間の観念は不完全なものであり、個人の判断に委せると必ず何等かの誤謬が生じる。故に、この様な不完全な人間の観念に基づく恣意的な判断を排する為に複合的な意志、即ち、合意に基づく意志統一という考え方が取られたのが民主主義である。つまり一人の天才による意志の統一ではなく、選挙や会議によって制定された法の力による意志の統一である。また場を規定するのは民主的な手続きに沿って成文化された法の力に基づかなければならないと言うのが民主主義の基本的理念でもある。つまり、場の力を制度や法、手続きといったいわゆる社会的な容器や器具、装置によって制御しようと言う考え方である。それは、古代人が火力や自然の持つ力に対して超自然的な神の意志を見いだし、神の慈悲にすがってその場を治めようとしたり、独裁者や封建的な勢力が恐怖や武力に絶対的な信を置き人民の意志を無視して暴力的な権力によってその場を支配しようとする考え方を否定し、場の力を直接支配する存在に働きかけるのではな、間接的なシステムによって制御していこうとする考え方なのである。故に近代的な精神とは感性とか情念と言った目に見えない力を決して否定しているわけではない。寧ろ目に見えない力を積極的に活用しそれを制御していこうとする考え方なのである。故に、知覚し得るもののみを実在的なものとしてこの世の全てを物質的なものとして捉えていく唯物的な考え方は、反近代的な考え方であり、また、非科学的な考え方なのである。
 我々は、全ての場を解明したわけではない。また、我々は、常に全ての場を完備した空間に住んでいる訳ではないのである。更に、人為的な場は、創造的な場であり、故に、状況や必要によって新たに創造し付け加えることも可能なものである。人間の内面の世界は暗黒大陸であり、まだまだ未開未踏な世界である。また、今日超自然現象として非科学的な現象と見なされている現象でも、新たな場が解明されることによって科学的なメスを入れられる可能性も、まだ残されているのである。特定な個体や条件下に対してのみ反応する場が存在することも考えられるのである。この様な場の力の持つ本質と言うものは、まだ謎に包まれいる部分を多く含んでいるのである。今後潜在的に存在する場やまたはまだ発見されていない場の解明が人類の最大の課題となるであろう。そして、新たな場の創造や発見が人類の未来を握っているのである。
 場の力を有効に活用するためには、場の状態が重要である。場の状態を制御することによって場の力を安定した状態を保ったり、また、一定の方向に発揮させることが出来るのである。場の状態を保ち場の力を安全に活用するためには、何等かの装置が必要である。人為的な場では法と制度が必要である。また、人為的な場の力を充足するためには、儀式やシンボルすなわち演出が必要なのである。会議は出席者の意志の方向性を統一し、法則化するのに効用がある。そして、場の力を保ちまた充足し、活用、発揮する装置や制度を設計し作り出すために理論が必要なのである。この様な装置や制度を生み出す理論が体系化されていなかったり、統一されていないと生み出される装置や制度は多種多様なものとなる。今日、近代医学が発展し世界の医療はある程度統一されてきたが、西洋医学が発達する以前は呪術的なものも含めて民族や宗教、思想によって医学すら全く異質なものだったのである。今日まだ人為的な場に関して統一的な理論が確立されていない。そのために世界はいくつかのブロックに分裂しているのである。
 情緒や情感が生み出す場すなわち心を無視した形で人間関係全般に対して判断をする様な考え方には、私は承伏することは出来ない。情緒や情感が生み出す場は、内的な世界にも外的な世界にも存在する。情緒や情感を生み出す内的な場が心であり、外的な場が群衆心理である。そして、この目に見えない場の力が人間の行動や社会の変動に重要な役割を果していることを見落としてはならない。
 世の中を変革したり、新しい社会を作り出そうとする場合、指導者達は大衆を扇動したり、何等かの運動を興す。また、大衆を味方にしようとした時、行進や演説によって民衆を興奮させる。それは、大衆の中に潜む場の力を引き出し変革のエネルギーとしようとするからである。光と音を使って群衆を熱狂させ、陶酔状態に導く。そして、大衆を組織化することによってそのエネルギーを結集させ一つの方向性を持たせ、また爆発させる。革命や変革には民衆の力が必要だからである。そして、指導者達は民衆の力を支配するのは場の力であることを知っているからである。
 この様な場の力を無視して個体と個体、個人と個人との関係を点と線だけで結び付けるような考え方は、野蛮な考え方であり、その考え方自体が自分達の世界を狭めているようなものである。個体間を埋める空間の中で図式化できない部分を塗りつぶしてしまうか、空白となる部分に潜む力を見落としているからに他ならないのである。場の力に押し流されて主体性を失うのも、場の力を無視して論理的に割り切ろうとするのも、結局は場の力を考慮していないと言う点では同じ事である。その様な発想法から生まれる理念は筋ばった貧困な理論にならざるを得ないのである。情欲に身を委ねてしまえば人間は破滅する、しかし、冷悧な理念で全ての人生を割り切ってしまおうとするのは人間性を否定することである。
 人間の愛情をただ貞操観や純潔性によって閉じ込めてしまったり、快楽や肉欲を無条件に開放せよと言うのは乱暴な話である。愛情はもっと激しく、もっと猛々しいものであり、その反面においてより抑制的で節度のあるものなのである。その様な愛情の力を引き出すためには、我々は、その根底ある場と言うものを正しく理解しておく必要があるのである。人間や人間の社会の深層に潜む場の力を探究も理解もせずに、人間の本質を理解したと考えるのは愚かである。人間の内面の情念や怨恨を無視して人間の善意だけを手放しに信じるのは皮相な事である。かといって人間の内部に潜む信条や価値観を無視して、ただ人間は利己的なものであり、自分の欲望や利益を満たすことだけを考えていると決めつけるのもおかしい。それは人間を愚弄している以外のなにものでもないのである。人間の人生の意義を心理学的な側面だけで説明することは出来ない。しかし、それは心理学を否定することではない。ただ、人間の行為は言葉や論理では割り切れないものを持っており、それを正しく認識することが心理学を発展させる上にも大切なのだと言うことを忘れてはならないのである。
 行為や現象面だけに注目をしてその背後で行為や現象を引き起こしている場の力を見落としているかぎり人間を理解することは出来ないのである。人間の内面の場の中で最も大切なのは心である。心は人間の気持ちや感情、情緒の源泉である。心が生み出す情味、滋味抜きに人間の行動を理解することは出来ない。自己の心を研ぎ澄まし、力を充実することが人間に適度な緊張と弛緩をもたらし、人生を意義深いものとするのである。我々が人間として修養を積むのは、現世利益や死後の救済を求めるのが目的ではなく、あくまでも人間の心を浄化し清浄なものにするためにである。現世利益や死後の救済はあくまでも付帯的なものであり、それ自体が目的ではない。なぜなら現世利益が得られないからと言って自己の修養を止めるわけではなく、死後の救済が得られるか否かは神のみが知ることであり、何人も保障できるものではないからである。心の中が洗われ清浄な状態になった時、人間は物事に対する洞察力を身に付けることが出来るのである。人間が自分の志しを成就する為には、自分の心を常に無色透明ニュートラルな状態に保ち、如何なる事態にも冷静な判断を維持できるよう心がけていくことが肝要である。その時、人間は、自分の人生の可能性を最大限に発揮する事ができるのである。
 人間の社会が作り出す場の力が一つの目的に向かって結集した時人類は新しい時代を切り開くことが出来るのである。しかし、場の力は一度道を誤れば狂気ともなる。人間の一生を破滅させ、社会を破壊し、人類を滅亡させる原因ともなるのである。人類にとって新しい世紀が創造的なものとなるか、破滅的なものとなるかは、場の力をどの様に活用するかにかかっているのである。そして、場の力を創造的なものにするためには、人間一人一人の心を建設的で創造的な方向に導かなければならないのである。

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