経済と陰陽五行(実績編)

前   提


 前提が間違っているのである。
 規制のない競争はない。規制がなければ競争は成り立たないのである。規制の内容の良し悪しはあるが、規制そのものが悪いと決め付け、規制をなくすか、極力少なくしてしまえと言うのは乱暴な話しである。
 規制を撤廃してしまうのは、スポーツをただの喧嘩にしてしまう様なものである。規制が悪いと言うより前提の問題なのである。

 空港や有料道路が、大赤字になり、需要予測の制度が問題になっている。元々、前提が間違っている上に、前提そのものが政治的目的によって歪められているのだから、話にならないのである。需要予測をするための方程式の是非を論ずる以前に、需要予測を建てる意味に対して問い直す必要があるのである。

 男は、男であり、女は、女である。男と女は、違う。それが前提である。その上での、男女平等、男女同権である。男と女の違いも識別できないのでは、いかにして、男女平等、男女同権を実現すべきかを論じることもできなくなる。第一、性別差別そのものが存在しなくなってしまう。男は男、女は女、それが前提なのである。

 事ほど左様に前提というものは大事なのである。

 しかも、前提は、了解を前提としている。つまり、前提の前提は了解可能性なのである。更に、了解可能性というのは、暗黙の了解を前提としている場合が多い。多くの人は、相手の了解を得ずにいきなり一つの合意に対していることを前提として話し始める。特に、日本人には、その傾向が高い。
 例えば、規制は、悪いという決めつけである。又、規制は、競争を阻害するという断定である。需要予測のように最初に結論ありきでは、前提の意味が違ってくる。つまり、空港を作るという結論が前提なのである。それは需要予測とは言わない。強いて言えば裏付け調査である。
 そして、故意に前提をねじ曲げてしまうから、結果に対して最初から責任が持てなくなるのである。失敗すると言う事が、事前に解っていてやらされれば、責任のとりようがなくなるからである。収益が上がらないならば、収益が上がらないことを最初から前提とすべきなのである。問題はそれでも空港を作る必要があるか、ないかであり、そこに政治的な判断が求められるのである。
 無神論者は、いきなり神の存在を否定したところから話を始める。これでは信心深い人と会話は成り立たない。
 先ず前提の確認から始めるべきなのである。特に、是非善悪が絡む問題は、慎重に行うべきである。

 如何なる前提も合意に基づく。科学的前提も合意に基づく仮定に過ぎない。この点を忘れてはならない。つまり、前提を設定する以前の目的や意図が大事なのである。

 故に、全ての前提の根源的な前提が重要となる。

 そして、全ての大前提は、存在にある。つまり、存在確認こそが全ての意識の始まりである。

 前提は、自己の存在である。そして、自己の存在を存在たらしめている存在である。即ち、超越的存在である。

 考える故に、我、在りは、自己の存在証明である。考えるという部分は、自己を知覚できる行為なら何でも良い。見るでも、聞くでも、歩くでも、食べるでも、良い。特に、痛みや感情は、自己を認識させる。ただ肝腎なのは、我は在るである。その我、在りの前提は、他者の存在である。

 自己の存在に対する自覚は、他者の存在を意識させる。他者を意識することは、他者の存在を認めることである。つまり、自己の存在に対する自覚は、他者の存在に対する認識を生むのである。故に、自己の存在は、全ての認識の前提である。他者の存在は、自己の存在の前提となる。自己は他者の存在の前提となり、自己は他者の存在なくして成り立たない。人間に意識が芽生えた時から人間は社会的動物とならざるをえないのである。それが人間社会の前提である。

 人間の社会は、観念を土台にして形成されている。観念は、意識によって成立している。意識は認識によって形成される。認識は相対的なものであり、幾つかの前提を基に形成されている。そして、人間の社会の前提は、合意によって成り立っている。故に、人間の社会は、合意による前提を基礎としている。
 まず、その前提の確認から始める必要がある。

 人間は、生物であることが前提である。故に、人間は、生きる為の活動をしなければならないことを前提とする。生きる為の活動とは、先ず、食べる事である。次ぎに、寝ることである。それから、熱さ、寒さといった環境や外敵から身を護ることである。そして、子孫を残すことである。つまり、衣食住に関わる問題と生殖に関わる問題、出産、育児、婚姻である。それが経済の基本である。

 経済とは生きる為の活動を言う。生きる為の活動とは、生活である。故に、経済は、生活の延長にある。生きる為には、生き物としての活動が前提となり、人間としての活動が前提となる。次ぎに物質的な活動が前提となる。主となるのは、生き物として、人間としての活動であり、物質的な活動は従となる。貨幣的活動は、人的、物的活動から副次的に発生したものである。

 経済とは、生きる為の活動である。
 故に、経済を考えると言う事は、金を儲けることを考える事ではない。
 経済を考えると言う事は、人生を、そして、生きる事を考える事なのである。

 もう一つの前提は、人間は社会的動物だと言う事である。つまり、人間は、一人では生きられないと言うことである。
 そして、国家が発達した今日、人間は、いずれかの国家に所属していることも前提となる。

 現在、地球上に存在する国家も経済も思想の産物である。これが一つの前提である。

 国家も経済も放置しておけば自然に成る物ではない。人間の意志によって構築された構築物である。故に、経済現象、特に、市場の出来事に対する責任は人間にある。神にあるわけではない。経済現象は、人間が統治すべき現象である。貧困も戦争も人間の為せる技であり、神を呪うのは、恥知らずな行為である。

 物理的現象に対する合意は、観察と実験によって実証することが可能である。人為的合意は、任意の手続によって承認される。

 故に、国家や経済の仕組みや法則について明らかにするのは、この世界に存在する全ての存在に対する人間の責務である。

 思想は、複数の前提の上に成り立っている。任意であるか、暗黙であるかは別として国家や経済を成り立たせている前提は、合意によって成立している。なぜならば、国家も経済空間も人間の作為に基づく空間だからである。

 少なくとも法治国家においては、法に従うことは暗黙の合意として前提とされている。そして、法による合意に反した行為をした者は、犯罪者として罰せられる。なぜならば、法治国家は、法を前提として成り立ち、法を前提として体制が維持されているからであり。国民が法を守る事に対する合意を前提としなければ国民国家は、成立しえないからである。
 これが、国民国家における前提である。

 如何なる法治国家も合意に基づく法を前提とし、強制力を持って法を守らせようとする。法治国家は、法による合意を前提として強制権を行使する。即ち、近代的法治国家は、法による強制力を前提としている。そして、強制力を発揮することによって結果的に合意の形成が促される。この強制力が国家権力である。

 近代国家は、法と制度から成り立っている。法や制度は、人為である。人間の認知能力は、相対的な認識を前提としており、相対的認識とは、不完全な認識を前提としている。法や制度は、人間の意識によって形成され、人間の意識は、認識の上に成り立っている。限界がある。人間の意識の所産である法や制度には、自ずと限界がある。

 法や制度に限界があるという事は、法や制度には、その効力が及ぶ範囲に限界があることを意味し、その効力の及ぶ範囲において、一定の閉ざされた空間を形成する。その効力の及ぶ範囲を境にして境界線が生じる。

 合意に基づく法を前提とした国民国家においては、法の根本理念を周知することを前提としている。国民に法の理念が、周知されていないと、法の正当性が保たれないからである。それが教育の義務化の前提であり、目的である。

 国民国家が国民の合意を前提として成り立っている以上、反体制的国家というのは存在し得ない。なぜならば、それは、国民を否定する事であり、国家の自己否定を意味するからである。
 故に、公の立場で反体制的教育も容認されない。個人的に反体制的な思想を持つことと、公の場で反体制的な教育をすることとは違うのである。

 経済が人的、社会的活動を前提として成り立っているという事は、経済は、文化活動の一種である事を意味する。経済とは文化なのである。

 現代の日本人は、この点を理解できていない。それは、日本の民主主義が敗戦よってもたらされたことに起因していると思われる。国民国家という存在は、国民の合意の基に成立する。そして、建国というのは、きわめて思想的な行為である。
 この点を理解していないために、現代の日本国民の多くが現行の国家や経済を所与の法則、与件のように思い込む傾向がある。しかし、国家体制も経済体制も国民の意志によって保たれるものである。誰も守ろうとしない国の主権も独立も護りきれるものではない。国民が守ろうとする意志を放棄した時、その国の主権も独立も失われる。

 経済は、人間の営みである事が前提である。生きることの活動という定義で言えば、経済の意味を広義に捉えれば、生き物全てに経済があるとも言える。しかし、一般に経済問題として扱われるのは、人間社会の問題であり、人間の問題である。故に、以後は人間の経済の現象として経済の意味を特定したい。

 即ち、経済は、人間を前提としている。人間は、生き物である。人間を前提としているという事は、人間関係、人間の社会を前提として経済は成り立っている。
 人間関係には、血縁関係と非血縁関係の二つがある。
 人間社会の根底は、家族、即ち、一組の男女と親子関係からなる事を前提とする。
 家族関係の基盤は、親子と、男女である。そして、親子は血縁関係で結ばれ、男女は非血縁関係によって結ばれている。この様な家族関係を核として社会は形成される。

 そして、家族は、家計を成立させる。家計は、経済の根本である。

 私は、経済が人間の活動の結果として生じることを自明の事として前提としているが、現代社会は、人間としての存在を前提としていない体制が多く見受けられる。その証拠が、家族の否定であり、男女の否定である。
 個体差があるのは、事実である。個体差によって処遇をかえるのは意識である。差別は、意識が生み出すものである。そして、差別を解消するのも意識である。差別を解消するためには、個体差を認識する事が前提となる。
 家族の否定や男女差の否定は差別に繋がる。家族や男女差が差別を有無のではない。差別を生むのは意識である。
 家族や男女差を前提とすることによってのみ、差別は解消できる。家族や性差の存在を否定する事は、否定する事自体差別である。

 世襲や同族の是非には、利点も欠点もある。世襲、同族の問題は、私的所有権の継承の問題でもある。それ故に、世襲や同族は、制度として固定すれば階級や差別の原因になる。
 この様な弊害を充分考慮しても人間の生活の場の根本が家族にあることは否定できない。
 人間の生きる活動が経済ならば、人間の生活の場の基盤である家族は、経済を構成する要素の一つであることは明らかである。この事を前提として経済は考えられなければならない。

 資本主義も社会主義も世襲の否定という点では共通しているのである。そして、世襲の禁止というのは、私的所有権の制限を意味するのである。即ち、家族の問題は、私的所有権と表裏の関係にある。
 故に、世襲の否定は、家族の否定にも結びつく。家族を否定したら経済は成り立たない。
 世襲という問題抜きに経済体制や税制の問題を理解することはできない。世襲という問題、則ち、一族、血族という問題をあからさまに議論することは少ない。その根底に、家族問題や民族問題が隠されているからである。しかし、経済を考える上で、家族問題や民族問題は、そして、更に宗教問題は、避けて通れない問題である。
 最初から絶対視するのもおかしいが、頭から否定するのも間違いである。事実を基にして、原則を導いて合意を形成すべきなのである。その為の手続の在り方に対する思想、考え方を民主主義というのである。

 経済というのは、人間の生きる為の活動の結果生じるのである。

 人間が社会的存在であることを前提とすると、人間の生きる為の活動である経済を構成する空間は、必然的に人為的空間だと言う事になる。経済的空間は、放置すれば自然に一定の状態になる空間ではなく。人為的に状態をつくり出さなければならない空間だと言う事になる。つまり、経済体制は、人間の肉体のように神から与えられた仕組みではなく、機械のように人間によって作られて仕組みだと言う事である。故に、経済現象に対して責任を負うのは人間であって、神や自然ではない。貧しいからと言って神を呪うのは筋違いである。
 人為的空間である経済空間は、何等かの合意を前提として成り立っている。経済空間は、自然空間と違って所与の空間ではなく、任意の空間である。

 この様な経済空間は有限であり、相対的である。また、経済的空間は閉鎖的な空間である事が前提となる。なぜならば、人間の認識の及ぶ範囲は、有限であり、相対的だからである。見える範囲しか見えないのである。

 経済における実物量は、有限である。即ち、経済現象は、一定の範囲内で生起する。物量には、上限と下限がある。際限のないのは、貨幣である。貨幣は、観念的な数値だからである。頭の中ならば無限に数値は生み出すことができる。
 以前、著名なコンピューター技術者が、世の中には、三馬鹿が居ると言っていた。それは、数学屋、電気技師、SEの三者だ。どんなに理論的に可能だと言って建設の設計技師は、月まで届く様なビルの設計はしないし、造船技師は、海一杯になるような船の設計はしない。物理的限界を知っている。しかし、数学屋や電気屋、SEは、平気で理論的に可能だと言うだけで暴走する。現代は、この三者に金融工学を加える必要がある。
 経済における物理量は有限なのである。第一、人間に与えられた時間そのものが有限なのである。

 政治的、経済的に閉ざされた空間を圏とする。圏は、範囲と境界線、一つの制度に依って成り立つ。例えば国家圏は、国民と国境と統一された国家制度によって成り立った圏である。

 為替取引では、通貨圏が前提となる。通貨圏を構成する要素は、範囲と境界線、単一の通貨制度である。為替市場は、取引の存在を前提して成立する。

 現代日本の経済体制は、第一に、資本主義、第二に、自由主義、第三に、市場経済、第四に貨幣経済、第五に、近代会計制度を土台とし、一部に社会主義的な仕組みを組み込んだ混合経済体制である。
 注意しなければならないのは、資本主義、自由主義、貨幣経済、市場経済は、同一な思想ではなく、各々独立した思想、体制だと言う事である。
 特に、資本主義という体制は、曖昧な部分があるが、それは、資本という概念が、会計的概念であることを見落としているからである。逆に言うと資本という概念は、会計的に定義しないと理解できない概念なのである。

 自由主義国家、国民国家における国家の目的は、国民の生命の財産の保障である。そして、その為に国家の独立と主権の維持がある。国家経済の目的は、国民生活に必要な物資の生産、調達と分配にあるといえる。

 社会主義国と自由主義国では、この物資の生産、調達、分配の手段や仕組みが違うのである。

 共産主義国や社会主義国、全体主義、独裁主義国、君主主義国にも市場は存在する。ただ、社会主義国や共産主義国と市場の在り方が違うのである。市場の在り方の違いは、市場の仕組みや機能の違いにもなる。しかし、市場が存在しないわけではない。同じ事は、貨幣にも言える。
 貨幣経済が確立されていない社会でも市場はある。物々交換でも市場は成り立つのである。
 同じ自由主義国といっても貨幣制度は一様ではない。
 つまり、自由主義、市場主義、貨幣主義、そして、資本主義は一体ではない。又、私的所有権も然りである。

 政治体制が違っても経済体制が違うとは限らない。政治と経済に対する認識は一様ではないのである。

 ただし、今日の自由主義というのは、私的所有権と市場経済を前提として思想である。つまり、自由主義国と称する国の前提は、私的所有権と市場経済と貨幣経済である。
 現代の日本は、純粋に市場主義的経済だけで成り立っているのではなく。一部に社会主義的な仕組みを組み込んで市場経済を補っている。それが公共事業である。

 我々の生活は、自由主義経済体制の上に成り立っている。現在の自由主義経済は、市場経済と貨幣経済を前提として成り立っている。又、自由主義経済は、私的財産制の上に成立している。

 かつて、一部の共産主義国で、貨幣制度と市場制度を廃止した。その結果は、経済活動の破綻であり、政治体制の崩壊である。一概に、市場制度や貨幣制度を絶対視することはないが、かといって市場制度や貨幣制度の有効性を頭から否定するは愚かである。

 今、日本で生活する我々の生活は、貨幣経済を前提として成り立っている。貨幣経済は、貨幣制度を基礎にして形成される空間である。この様な空間を多くの日本人は、所与の空間だと錯覚している。貨幣を所与の物だと錯覚している者にとって貨幣は、丁度空気みたいな存在である。しかし、貨幣と空気とは違う。少なくとも、空気は、機械によって創り出されているものではない。それに対して、貨幣は。人間が機械によって製造している物である。

 貨幣とは、交換価値を表象した物である。

 貨幣経済では、財の分配は、貨幣を媒体として市場を媒介として実現する。

 貨幣経済では、経済現象は、相対的な現象であることを前提としている。それは、貨幣が相対的基準であることを前提として成り立っているからである。
 貨幣経済を構成する要素は、相対的な要素である。例えば、価格を構成する費用は、相対的である。原材料が上昇すれば人件費の占める割合は、相対的に低下する。自国の通貨の上昇は、輸入品の名目的価格を下落させ、相対的に国内生産物の実質的価格を上昇させる。
 この様に経済的価値は相対的な価値である。

 貨幣価値は数値に依って表示される価値である。故に、、貨幣価値は数値的空間や場を形成する。貨幣経済は、数値的空間の中で成立している。

 現在の貨幣経済というのは、全ての経済的価値を数値化する事を前提として成り立っている。故に、今日の貨幣経済と、貨幣がある経済とは異質な経済である。今日の貨幣価値とは、全ての経済的価値を貨幣価値に換算することで成り立っている。部分的に貨幣価値に換算するのではない。即ち、貨幣がなければ経済活動ができないのである。
 全ての経済的価値を数値化する事を前提とすると言うことは、全ての価値を数値に返還する手続を前提としていることを意味する。
 数値化するとは、数えられる量、計測できる量に置き換える操作である。そして、その為には、財を経済的価値に変換する装置が必要となる。それが市場と組織である。

 算数の教科書には、四則の演算は、同じ種類、同じ質、同じ単位、同じ要素の集合でしか成り立たないと書かれている。ところが経済的価値は、違う。その点に誰も気がついていない。そして、気がつかないという事が貨幣価値を成り立たせているのである。

 全ての経済的価値を数値化するという事は、質的に違う価値も数値化する事によって四則の演算が可能となることを意味する。
 又、もう一つ重要なのは、時間の概念を経済的価値に持ち込むことを可能とすることである。即ち、経済的価値の数値は、経済的価値は時間の関数で表すことを可能とするのである。
 例えば、原材料と労働力といった物と力と時間の掛け算も又可能となるのである。自動車と家を足したり引いたり、労働力と労働時間をかけて報酬を計算する事ができるようになるのである。

 ただし、注意しなければならない点は、数値に全ての価値を還元すると言う事は、価値から質的な側面を削ぎ落としてしまう危険性があるという点である。

 貨幣経済体制下では、人的経済と物的経済、金銭的経済がある。
 また、自由主義経済において経済を構成する要素は、家計と、企業と財政である。
 人的経済から見ると家計は、労働力を提供し、企業は、所得を分配し、財政は、所得の分配と再分配、失業対策、そして、分配の手段を提供することである。それらの要素を前提とした上で会計は、分配のための基準を設定する。
 物の経済から見ると家計は、財の購入と消費を担い。企業は、財の生産と販売。財政は、社会資本の整備を担う。
 貨幣的経済では、家計は、投資と貯蓄。企業は、設備投資と借入。財政は、貨幣の信用の保証、貨幣の供給を担う。

 会計、財政、家計には、制度的連続性がない。会計制度は、期間損益、実現主義に基づき、財政制度と家計は現金主義に基づいている。制度的連続性がないという事は、制度的整合性がとれない事を意味し、情報の互換性もない事も意味する。

 故に、現行の経済体制は、経済主体間に制度的整合性は存在しない。経済主体間を結合しているのは、金銭的関係、即ち、貨幣である。だから「金」「金」「金」なのである。

 現代日本経済は、自由主義、民主主義、貨幣経済、市場経済の上に成り立っている資本主義国家である。しかし、資本主義とは何かというと曖昧である。特に資本主義と貨幣経済、市場経済、そして、自由主義経済の見分けがつかない人が多い。
 資本主義は、近代会計制度上に成り立つ思想である。それが大前提である。
 資本主義や民主主義ほど、主義として曖昧な思想はない。それは、民主主義や資本主義を従来の思想の枠組みの中で理解しようとするからである。民主主義は、現実の政治や制度の上に発言する思想である。つまり、民主主義を構成する政党の理念や政治活動、政策、更に、制度を観察しないと民主主義は理解できない。
 同様に、資本主義というのは、近代会計制度上において成立した思想である。故に、近代会計制度が理解できないと資本主義は理解できない。

 人的経済、物的経済は、各々独自の価値を形成する。形成された価値は市場を経由して貨幣価値に換算され、更に、時間的価値が加えられて会計的基準によって計られる。

 時間的価値は、名目的価値と実質的価値を派生させる。名目的価値と実質的価値比較して、値が大きい方に向かって資金は流れる性格がある。故に、実質的部分が縮小し始めると実物経済から名目的経済へ資金が逆流し、名目的部分が経済を圧迫するようになる

 物の価値と貨幣価値とは表裏を成している。物の価値が上がると貨幣価値を下がる方に働く。逆に、物の価値が下がると貨幣価値を上げる働きがある。同様に貨幣価値が上がると物の価値は下がり、貨幣価値が下がると物の価値は上がる。インフレーションやデフレーションといった現象は、物の価値が原因で起こるのか、貨幣価値が原因で起こるのか、一概に言えない。それは、前提条件や状況、環境によって違ってくるのである。

 財は、物的な要素と人的な要素、貨幣的な要素からなる。そして、財には、その物自体としての価値の寿命と貨幣的価値の寿命と会計的価値としての寿命がある。そして、財の性格によって価値の寿命は、財の時間的価値を形成する。
 物の価値の寿命は、物の更新の周期を形成し、貨幣的価値の寿命は、資金計画の周期を意味し、会計的価値の寿命は、償却の周期を意味する。
 この様な財の価値は、資産価値を構成する。資産価値の中でも費用性資産の時間的価値の総和は、物的価値、貨幣価値と会計的価値が一定の時間の範囲において均衡することを前提している。
 財の物的寿命の周期、貨幣的寿命の周期、会計的寿命の周期、これらの周期が複合されて景気の周期を形成する。故に、景気の周期は、単一の要素によって形成される性格の現象ではなく。構造的な現象である。
 故に、会計的価値だけで景気の周期を捉えようとしても経済の実体は見えない。むしろ、会計的周期に囚われて景気の周期を見失うこととなる。

 貨幣経済下で万能の施策などありえないのである。貨幣は道具であり、施策は、手段である。貨幣とは尺度である。尺度である貨幣が相対的であり、また、手段である施策は、状況や目的、則ち、前提条件に応じて選ぶべきものである。あらゆる病に効く万能薬がないように、万能の施策はないのである。

 恒久的な格差は、所得による階層を形成する。所得による階層化は、国民生活を階層毎に分裂させる。国民生活の分裂は国家の分裂に繋がる。国家の安寧は国民生活の均衡に依ってもたらされる。国家経済の本質は、財の分配にある。

 次ぎに、市場経済を前提と成り立っている。市場とは空間である。市場空間は、情報によってつくり出される空間である。市場は交換の場である。交換は、取引を成立させるから市場は交換の場である。

 市場の法則には、結合の法則、交換の法則、分配の法則がある。

 経済の根源は、交易、則ち、交換にある。交易、交換は取引に依って成立する。取引とは、貨幣を媒介した交換行為である。

 経済の問題は、交換によって成立する労働と分配、生産と消費、需要と供給、収入と支出、フローとストックの均衡の問題である。
 そして、これらの要素は相関関係にある。

 市場は取引の集合によって成り立つ。取引は、連鎖的に発生する。

 現行の市場制度では、市場取引は会計原則によって処理されることになっている。会計上の取引は、取引が成立した時点において貨幣価値は均衡している。貨幣価値が均衡しているという事は、交換価値が均衡していることであり、交換価値とは、財と現金、債権と債務が均衡していることを意味する。故に、市場における貨幣価値の総和は、均衡している。

 取引は市場を形成し、市場は、場を形成する。市場には、制約条件があり、故に、市場には、範囲と境界線が生じる。市場は閉ざされた空間である。

 所詮、市場も経済の仕組みの部分、部品に過ぎない。経済制度は、生活に必要な物資を生産し、それを消費者に分配する目的で作られた仕組みである。つまり、経済制度は、労働と分配を目的とした仕組みである。市場は、その仕組みの部品である。しかも、最終的な分配は、経済の最終単位である家計や企業、財政が組織的に行う。即ち、市場は、組織と個人、組織と組織、個人と個人との隙間を埋める部品に過ぎないのである。この事を忘れて市場を経済全体の仕組みだと錯覚すると経済現象を解明することができなくなる。

 取引には内部取引と外部取引がある。内部取引とは、内的要素間の取引だけで完結する取引である。外部取引とは、外部の対象との取引を言う。
 内部取引と、外部取引は、取引が成立した時点では均衡している。

 取引には物の受払とお金の支払という二つの側面がある。そして、この二つの取引が同時に完結するとは限らないのである。物と金の取引に時間的なズレがある場合が多い。

 現代の経済は、成長を前提とし、加速し続けていかなければならない仕組みになっている。しかし、それでは、経済は、過熱していつかは破綻してしまう。自動車の運転を考えればいい。アクセルだけでは、自動車を制御する事はできないのである。
 経済は、一定の水準に達したら加速運動から等速運動へと変化させる必要がある。又、状況によっては減速する必要もあるのである。
 則ち、状況に合わせて速度を制御することが可能な仕組みこそが、経済体制に要求されていることなのである。

 経済は、成長といった変化の有り様を絶対視するのではなく。変化といっても状況や環境を前提とし、その前提条件の変化や推移に基づいて体制を整えるべきなのである。

 市場には、競争の原理が働いているのではなく。競争の機能が働いている市場が自由主義市場なのである。即ち、競争は、原理ではなく。機能である。競争を前提としていない市場もあるのである。例えば、共産主義国や社会主義国のような計画経済、統制経済国の市場では交換と分配だけを前提とし、競争を前提としていない。競争を前提として市場は、自由市場である。故に、戦後の統制経済下の日本や共産主義や社会主義国は、闇市が形成されたのである。

 自由市場は、競争関係と協力、提携関係を前提としている。前提となる競争は、原理ではない。一つの手段である。しかも、前提に基づく手段の一つである。又、協力や提携を総て否定したら市場は成り立たない。
 競争は、それ自体で成り立っている法則ではない。競争を成り立たせているのは、競争を成り立たせる仕組みや規制があって成り立っているのである。仕組みや規制を取り除いたら競争は成り立たなくなる。仕組みや規制を緩和することはあっても規制を全廃することは、かえって競争を否定する事である。
 生存競争と言うが、自然界にあるのは、競争ではなくて、力による闘争である。市場から規制を取り除く行為は、野蛮な行為である。
 競争が成り立つのは、規則があっての上である。そして、規則とは、人為的な取り決めであって、規則間にある矛盾は、誤謬は取り除いて整合性をとるべきだが、所与の自然法則のような物とは性格が違う。それを自明な法則と同一するのは間違いである。

 市場は、希望や願望によって制御できるわけではない。況や、神の責任に帰すことはできない。市場を制御するのは、人間の意志であり、叡知がつくり出す仕組みである。市場を暴走させ、破綻させるのは人間の愚かさと欲望である。
 競争状態を維持するのは国の役割である。競争を過熱するのが国の役割ではない。競争は過熱すれば争いとなる。最後には生存闘争となる。市場から規律が失われれば競争は成り立たない。あるのは、殺戮だけである。それは市場ではなく、戦場である。そして、市場は荒廃し、やがて寡占、独占状態になる。寡占、独占は市場の死滅である。市場原理主義者と証する者達は、実は市場経済の破壊者なのである。

 だから、プロスポーツでは、勢力の均衡を保つためにいろいろな施策や仕組みを講じている。スポーツを自由にするのはルールである。自由とは、ルールに精通することを意味する。努力をせずに人間は自由にはなれない。




                       



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