経済と陰陽五行(実績編)

経    済

 現代の経済は、変化を前提とし、加速し続けていかなければならない仕組みになっている。しかし、それでは、経済は、過熱していつかは破綻してしまう。自動車の運転を考えればいい。アクセルだけでは、自動車を制御する事はできないのである。

 現代経済の問題点は、経済現象を金銭的な現象だと思い込んでいることである。経済の本質は、生きる為の活動である。
 生産性や効率ばかりを追い求め、働いている人々の生活が成り立たなくなったら本末転倒である。

 派遣問題が好例である。なぜ、派生が問題なのか。それは根本から人間の問題が欠落しているからである。
 経済というのは人間の問題である。根底は、人々の生活である。人々の生活が成り立たせるために、経済は存在する。それが経済の存在意義である。
 派遣の問題は、あくまでも企業収益の問題である。企業が利益を上げる事が大前提で考えられている。その為に、人の問題が疎かにされているのである。単純に利益を上げるためならば、人件費から人間的属性を一切削除してしまえばいい。そうすれば、人件費、単なる費用である。そうなると、必要な時に調達できて不必要な時に簡単に削減できる費用であることが一番都合が良いのである。つまり、全ての社員を派遣に置き換えることである。しかし、それは経済本来の目的を明らかに逸脱している。
 だからといって何等かの法的処置を施せばいいと言うのも本質を見誤っている。派遣の問題は、思想の問題であり、道徳の問題であり、人間をどう考えるかの問題、そして、経済の本質の問題なのである。

 経済とは、人々に生きる場所、居場所を作ることである。金を儲けるために経済主体が存在するわけではない。金儲けは、生きる為の糧を得る手段である。目的ではない。
 経済を構成するのは、人、物、金である。経済は、金が全てではない。現代社会では、金儲けばかりが先行している。利益を上げるために、平気で人々の生活を犠牲にする。しかし、経済の本義は人にある。人を生かすことにある。

 経済にも天・地・人がある。天とは、法である。地とは、物理的世界である。人とは人の世界である。経済には、貨幣的な経済と物的経済、人的経済がある。経済は、金だけが全てな世界とは違う。その根本は人である。人の暮らしである。人生である。

 生きていく上で、お金が必要だから金儲けをするのである。金儲けのために生きているわけではない。お金は大切である。それは生きていく上の手段として大切なのであり、お金を生きる目的にする事はできない。

 何をもってか位を守る。曰く仁。何をもってか人を聚(あつ)むる。曰く財。財を理め辞を正しくし、民の非を為すを禁ずるを、義と曰う。(周易繋辞下伝)

 現代の経済思想の中には、市場万能主義的な傾向がある。極端な場合、犯罪といった人間道徳に関わる問題、男女の恋愛や結婚、離婚、そして、親子の絆、家族の絆、又、人間の健康や出産といった生命に関わる問題も市場経済によって解決できるといった節まであるほどである。

 ここまでいくと、倫理とか、徳とか、正義といったものの存在し無意味になってしまう。神や天道、自然の法則までも貨幣取引の対象にしてしまう。

 そして、夫婦も、家族も、企業も、国家も単なる機関に堕してしまう。則ち、経済的目的を達成したら速やかに解消されるべき存在なのである。結婚は、売春行為と何ら変わらないと言ってのける者まで現れる始末である。彼等にとって愛情は性欲に取って代わられるべきものである。男女間にある愛情も、夫婦間の愛情も、仕事に対する愛情も、国家に対する愛情も、人類に対する愛情も唾棄すべき感情でしかない。
 家族も企業も国家も機関に過ぎず。愛情を要とした共同体ではないのである。共同体とは、運命共同体であり、生活共同体である。助け合い、信じあえる空間を前提とするのである。

 家族や、企業、国家を機関と見なす事で、家族や企業、国家から命が失われ、結局、人と人とを繋ぎ止める絆が失われ離散するのである。共同体を機関としてしか見れないのは野蛮である。それは、有史以前にも見られないほどの野蛮さである。
 経済の目的は、金儲けにあるわけではない。人々の生活を豊かにし、人々を幸せにすることである。少なくとも、人々が飢えや寒さで苦しむことのない環境を整えることにある。それが経済なのである。

 経済には、形と相がある。

 現代人は、利益を結果でしか捉えない。利益を結果として判断し、利益が上がらないと利益が上がらないこと自体を問題とする。それでは問題の抜本的な解決には結びつかない。赤字だから悪いのではない。赤字になる原因が問題なのである。何が利益を上がらないようにしているのか、その仕組みと原因が問題なのである。
 病気に罹ること自体が悪いのではない。病気の原因とその治療法が問題なのである。
 利益が上がらない仕組みにしておきながら、利益が上がらないと責めるのはお門違いである。
 利益というのは、一つの目安である。利益を診てその背後にある経済のは仕組みや相を解明することが肝要なのである。それが経済の形、相である。

 経済というのは、経世済民、経世致用である。

 経済を考察するには、先ず、自分の立ち位置を確認し、明確に設定する必要がある。
 経済に対する認識、味方は、人それぞれ自分の立ち位置に、視点によって違ってくる。そして、その立場、視点は、経済に対する認識、又、経済を考察する目的を明らかにする上で、決定的な要因、前提となる。

 個体と全体の関係がある。個としての自分と全体の中の自分を位置付けることによって生じる関係がある。個というのは、視点を変えると何等かの一部であり、また、全体でもある。
 個としての働きは、全体に位置付けられて機能を発揮する。個々の機能は全体との関係を形成する。
 主体的存在である自己を客体化すると個人となる。個人が集まって社会、則ち、全体が形成される。社会が象を持つと国となる。

 政治家、、官僚、企業経営者、個人事業者、消費者、皆それぞれ、経済に対する見方、関わり方が違う。自分がどの様に経済に関わるかによって経済に対する捉え方は、自ずと違ってくる。故に、自分の立ち位置を明らかにしないと相互の意見交換にも支障が出るのである。先ず、自分を知る事である。自分にとって経済とはどの様な意味を持ち、自分が生きていく上で、或いは、生活や暮らしにどの様な関わりがあるのか。それが経済に対する自分の意見を持つ上での大前提となるのである。

 次ぎ、経済を認識上での手がかりとなる対象を見極め、経済を考える上での目的を明確することである。その上で、前提となる条件を設定にする。目的や前提条件に基づいて認識の核となる因子、基準を決め、分析の方向性を定める。その上で、客観的データを収集、整理するのである。

 経済における実物量は、有限である。即ち、経済現象は、一定の範囲内で生起する。物量には、上限と下限がある。際限のないのは、貨幣である。貨幣は、観念的な数値だからである。頭の中ならば無限に数値は生み出すことができる。
 自分に与えられている時間や物には限りがある。そのことを、常に自覚し、前提にする必要がある。そして、人間は、自分に与えられた時間と物の範囲内でしか生きられないし、考えられないのである。与えられた物と時間を最大限に活用する。それが経済である。
 しかも、人間には、生病老死の四苦がつきまとう。どの様に健やかで剛健な者にも老いが訪れ、病になり、死んでいく。若さに驕ることなく。その時その時に最善を尽くす。それが、経済である。そして、その最善とは、決して浪費を意味するのではない。経済にとって消費が全てなのではない。消費は経済の一部に過ぎない。

 経済の物理量が有限であるから、経済は、相対化できるのである。有限の者を無限の尺度で測る。そこに経済の問題点が潜んでいる。その点をよく理解した上で貨幣価値は理解する必要がある。経済的価値は、物理量による制約を常に受けている。故に、全体に占める割合が重要となるのである。

 又、経済的価値の意義も物理的限界を前提としている。即ち、何等かの全体を基本として成り立っており、経済財の分配を目的として経済は成り立っている。分配の為の運動は、循環であり、その循環を成り立たせているのは差である。差がなければ物流は機能しない。しかし、極端な格差も物流を阻害する。故に、重要なのは仕組みと均衡になる。

 自他の関係を設定するという事は、自己と他者との境界線を明らかに、自己に所属する範囲を画定することである。即ち、内外の関係を明確に設定する事である。

 経済をよく診る者は、内外の体制、仕組みを熟知する必要がある。その上で、体制や仕組みを構成する要素間の関係や相互の結びつき、働きを明らかにする必要がある。
 内外の関係には、表裏を成す要素が多い。表裏の関係にあるものは、内外の動きを直接的に反映する。故に、よく注視することが肝要となる。

 好例が経常収支と資本収支である。経常収支と、資本収支は、国家経済における内外の関係によって生じる。経常収支と資本収支は、表裏の関係にある。そして、この関係を調節しているのが、為替相場である。
 そして、為替相場の変動は、国内の物価や景気にも重大な影響を及ぼしている。

 為替相場の動きは、内外で逆方向になる。円とドルの関係で言えば、円が上がればドルは下がる。円が下がればドルは上がる。必然的に働きも内外で逆方向になる。

 会計には、内と外を前提としする事によって内部取引と外部取引が派生する。内部取引と外部取引は均衡している。そして、我々はそれに誤魔化される。
 内部取引と外部取引が均衡するのは、認識上の問題だからである。つまり、取引というのは、一つの行為を取引だと認識する事によって成立する。それは外形的な現象であり、実体は、一つの行為として解消されている現象なのである。その為に、意識上、観念上は一つの作用に対し、反対作用の働きを想定することによって解消する性格を持つ。故に、会計上の取引は、発生時点で双方向の作用が想定される。そして、その働きは表裏の働きを持つ。
 例えば、内的な仕入れという行為は、売るという反対取引を反映した行為であり、又仕入れは、資産の増加という内部取引に変換される。この外部取引は内部と外部とを表裏の関係によって関連させ、内部取引は、表裏によって内部の関係を形成する。これらの関係は相互に均衡していることを前提としている。この前提を変化させるのが時間である。それは取引が認識作用の一つだからである。
 これらの働きは、認識上において発生する現象であるから虚である。

 又、家計には家内労働と家外労働がある。家内労働は内的な労働であり、市場経済や貨幣経済から独立している。それに対し、家外労働は、外的な労働であり、外部から所得や資源を得るために労働である。その為に、家内労働は、貨幣価値に換算されず。家外労働は貨幣価値によって測られる。しかし、その重要性に変わりはない。

 経済的価値を全て貨幣価値に還元することは危険な行為である。例えば景気回復と言うが景気回復の基準が企業業績の回復にのみ依拠したものならば、本来の人々の生活の実態が反映されているかが、居ないかが見落とされがちになる。しかし、本来経済の基盤は、人々の生活にある。いくら景気が良いと言っても人々の生活がよくならず失業率も高くなっているとしたら、それは真の景気回復とは言えない。

 企業業績の回復だけを目的としたら、冒頭で述べた派遣問題のように、人を単に費用の問題だけに還元して解決すればいいのである。だから、安ければ良いという発想は危険なのである。あくまでも適正な価格、利益とは何かであり、どの様な仕組みによって価格や利益を決定するかである。

 経済には、順逆の働きがある。順逆の働きは、自他、内外、表裏、虚実の関係を元にして発生する。

 市場取引は、同量の債権と逆方向の債務、そして、現金を生じる。現金とは、貨幣価値を実現した物である。

 貨幣がどちらの方向に流れているかが重要となる。

 資金の流れには、投資の方向と回収方向の働きがある。公共投資や金融政策を有効たらしめるためには、資金が発散する方向に流れているのか、回収する方向に流れているかが重要となる。

 経済現象を予測する時、重要なのは、働きの方向と、その働きの虚実である。

 市場経済、貨幣経済は観念の所産である。人間の意識が生み出した事象である。
 経済現象を考察する上で重要なのは、経済現象に潜む虚実である。

 経済政策を評価する際、量的な側面ばかりが強調される傾向があるが、実際には、資金が流れる方向が重要なのである。即ち、市場に供給された資金が流通の方向に流れているのか、回収の方向に流れているかである。

 資金の流れ方向に重大な役割を果たしているのが、家計と企業であり、家計が消費に、企業が投資に振り向けている場合は、資金は市場に供給されるが、返済に振り向けている場合は、資金は回収の方向に流れることになる。

 資金の流れる方向を知るためには、企業活動の規模を見ることである。企業活動の規模は、基本的に総資本と費用を足したものである。

 陰陽には、元となる性格と変化の方向の二つの働きがある。その二つの要素が合わさって陰陽、いずれかの働きを発揮する。

 元亨利貞。

 労働と成果、所得は、表裏の関係にある。又、労働と評価、成果と生産、所得と消費も表裏の関係にある。この表裏の関係が経済現象を引き起こしている。

 何が経済の根本なのか事由なのか、利益優先主義の落とし穴がそこにある。利益優先主義は、経済の根本事由を利益に求める。しかし、経済や景気を定めるのは利益だけではない。

 入れる者あれば出す者あり、出す者あれば、入れる者あり。貨幣経済では、収入と支出は表裏の関係にある。故に、総和は零である。利益は、差によって生じる。差は時間と空間によって生じる。
 市場全体の利益は、市場取引の総量の増減による。市場が拡大均衡している場合は、市場に参加する全ての経営主体が利益を上げられるが、市場が停滞ないし、縮小均衡している場合は、利益を上げられる経営主体は限られてくる。
 市場取引は常に均衡している。故に、取引によって生じる貨幣価値の総和は零である。取引を相殺して残るのは、取引によって生じた実体と貨幣、現金である。現金の本は借金である。故に、現金が流通している限り、借金はなくならない。問題は、通貨、則ち、借金の量である。

 基軸通貨国は、経常収支を赤字にすることで国際市場に基軸通貨を供給せざるを得なくなる。それは国の借金を積みますことを意味する。

 最近の企業業績を関する新聞記事を読んで感じる事は、増収増益でなければならないと言う思い込みがある様に思えることである。黒字でありながら減益という事で低い評価がされる。則ち、景気が後退していると言っても縮小均衡は許されない風潮がある。
 増収増益を前提としているという事は、則ち、市場の無限の拡大や際限のない成長を前提としなければ成り立たない。しかも、競争と均衡を前提としている。
 しかし、実際の市場は、有限な空間である。市場が限界に達し、縮小均衡に向かえば、必然的に競争ではなく、生存闘争になる。そして、市場は独占、寡占に向かうのである。寡占、独占は、競争の原理の対極にあり、競争を否定する事である。

 競争が過熱し、適正な利益がとれない場合は、競争を抑制すべきであり、経済が停滞し、活力をなくしている時は、競争を促す政策がとられるべきである。

 安いとか、高いとかは、相対的なものであり、時代や場所によって違ってくる。問題は、価格は、どの様な働きや仕組みによって決定し、又、何を根拠にその適正性を評価するかである。単純に安ければいいと言うのは短絡的である。
 価格にせよ、利益にせよ、問題なのは、妥当性である。限りなく安いことが良いわけでも、又、ギリギリの利益が良いわけでもないのである。

 一つ、二つの会社が赤字なのは、個別の企業の問題であるが、全ての企業が赤字なのは、その産業の全体構造の問題である。

 単年度決算の結果だけを問題とし、増収増益のみを是とする姿勢は、中長期的均衡を蔑ろにしてしまう。
 その結果、結局、技術革新や人材的育成と言った中長期的利益よりも目先の利益が優先されてしまう。それは、人や物の経済は、忘れられて、金だけ頼っているからである。
 利益を結果だとするならば正直に仕事をすれば利益が上がる仕組みでなければならない。それが大前提である。

 企業というのは、長期的均衡を本来の目的としているのである。そして、企業の役割は、利益を上げることだけに集約できる程、単純ではない。

 経済で重要なのは、第一に雇用である。そして、所得、物価、経済活動に必要な資源である。なぜならば、経済の本質は、生きる為の活動であり、その為の労働と分配だからである。その上での利益と資金の流れである。利益を否定するのもおかしいが、利益だけを重視するのも又偏りである。

 また、利益は、最終的に資金の流れに還元されてはじめて有効となる。いくら利益を計上しても資金の供給が断たれれば、倒産する。それが黒字倒産なのである。

 経済は、結局、モラルハザードに行き着くが、モラルハザードを問題とする時、モラルが明確にされ、尚かつ、確立されていなければならない。モラルが確立されていることを前提にしなければモラルハザードは起こりようがないのである。

 現代経済の錯誤は、生産手段や生産技術をごく限られた一部の国家だけで独占できるという前提に立っていることである。しかもまだ、多くの国がこの幻想から抜けきれないでいる。
 生産手段や生産技術は、条件さえ整えば、容易に転移することが可能である。肝腎なのは、前提となる条件なのである。特に、人々の生活水準や所得に負う部分が大きい。則ち、格差の是正が基本的条件となる。自分達だけが利益を享受しようとしている限り、経済の持続的発展は望めないのである。






                       


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