経済と陰陽五行(実績編)

財政の実際


 日本では、財政赤字が深刻な問題として社会問題化している。しかし、財政赤字が意味するのは何か、財政赤字がなぜ悪いのか。財政赤字によってどの様な不都合が生じるのかについて、明確な答えがあるわけではない。

 財政赤字と言うが、財政赤字とは何か。又、財政赤字という前に、赤字とは何かが、それを明らかにしておく必要がある。赤字というと、赤字と言うだけで、何かわかった気がするが、実際には、赤字の真の意味を理解している者は少ない。
 なぜ、赤字になるのか。赤字というのは、期間損益上の概念であることを忘れてはならない。つまり、赤字というのは、収益よりも費用が大きい場合を言うのである。収入よりも支出が大きいわけではない点に注意しなければならない。
 故に、期間損益を基盤としていない財政上、赤字というのは、あたらない。
 財政赤字を問題とする者は、先ず、何を以て赤字とするのか。赤字の定義から始めなければならない。

 大体、単純に国債を国が借金をしている事と説明するから誤解が生じるのである。借金というと、サラ金や高利貸しから金を借りて返せなくなって生活破綻した人の印象が強い。そして、その印象で財政破綻も捉える。だから大変だという事になる。つまり、多額の借金をして首が回らなくなった印象である。借金が返せなくなったらどうしようと思い倦(あぐ)ねる。
 借金だから何が何でも返済しなければならないと思い込んでしまっている。その為に、心配ばかりが先に立って国債の働きやそれから生じる弊害について冷静な議論ができないのである。
 しかし、現代社会は、借金というか、負債の上に成り立っていると言える。個人でも借金があるのが当たり前になっている。借金がない方が少数派である。だからといって、借金があるから、即、返せなくなって生活、即ち、経済が破綻するというのは短絡的である。

 是々非々は、別にしても、現代経済というのは、負債を前提とした経済である。負債を否定したら成り立たないのである。負債を、ただ、否定的なものとして捉えている限り、根本的解決はできない。
 負債は、過剰であるのも問題だが、負債はまったくできないと言うのも又問題なのであり、負債は、単純に返せば片付くという対象ではないのである。

 先ず財政赤字の正体を見極めることが肝腎なのである。その為に、財政とは何かを明らかにしていきたい。怖がってばかりいないで、先ず現実を直視することが財政問題を解決する糸口なのである。

 財政とは、国家思想そのものである。国家理念、建国理念、国家観は、財政として実際的に表される。つまり、財政とは、国家思想を表した施策なのである。それが現実の国家に施される策だけに財政という思想は、言論によって表現された思想よりも実体的な思想だといえるのである。

 故に、財政の目的は、国家目的の実現である。
 国家目的は、第一に、国防、第二に、国際条約や同盟、対外折衝、第三に、治安維持、及び、防災、第四に、社会資本の充実、第五に、殖産興業、第七に、公衆衛生、社会保証制度の整備、第八に、教育、および、科学技術の振興、第九に、国民の権利と義務の保護管理(戸籍管理等)、それに伴う、法制度の整備、維持、第十に、公有財産の管理、第十一に、所得の再分配、格差の是正、第十二に、景気対策、第十三に、失業対策、第十四に、通貨管理である。
 国民国家の存在意義は、国民の生命と財産を守ることにある。財政は、国家目的を実現するための手段である。

 国防と治安は、国家の独立と自治に関することである。社会資本の充実、公衆衛生、国民の生活に関わることである。教育や育児、法制度の整備は、国民の権利に関わることである。殖産興業、科学技術の振興、所得の再分配、失業対策、通貨管理は、国民経済の基盤に関わることである。

 国防計画は、何から、何を、何のために守るのかが明確でなければ立案できない。国家か生存、即ち、国民の生命、財産を守るためには、何が最低限必要で、その為には、何を守らなければならないのかを、実際的なする事が、国防計画の始点である。即ち、国防は、きわめて実利的な問題である。決して観念的な問題ではない。そして、国防は、外見は政治的に装ってもそのほとんどが経済的動機に基づくものである。なぜならば、一般に人間は、自分や家族が生きる為に必要な物資を確保するために、命をかけて戦っても、抽象的な理念のために、命懸けで戦うことは稀だからである。飢えれば、どんな生物も生きる為に戦うのである。人間もまた例外ではない。

 専守防衛を国防思想とすると言うのは、おかしな事である。専守防衛というのは、国防という点で言うと同義反復的な言葉である。元々国防というのは侵略を前提としたものではない。日本は、敗戦によってその根本を見誤っているのである。大多数の国は、防衛を専らとし、侵略を目的としてはいない。それは大国においても然りである。例え、侵略国のレッテルを貼られた国でも軍事行動を起こす時は、正当防衛であることを主張する。
 問題の本質は、何から、何を守るかであり、防衛の姿勢ではない。専守防衛と言うだけでは、何から何を守るかを明確にすることはできない。

 江戸時代には、中東産油国の出来事は、別の星の出来事くらいにしか考えられていなかった。況や、遠く離れた他国のために、自分の親や子を出征させるなどと言うのは思いもよらなかったであろう。誰も好き好んで戦をするわけではない。戦わなければならない理由、原因があるから戦うのである。戦争をなくすためには、その根本の原因を除く必要がある。そして、その根本の原因の多くが経済的な原因なのである。

 国防費は、諸刃の剣であることを忘れてはならない。国家財政の破綻、或いは、国債を発行する契機は、歴史的に見て軍事費や軍事行動に起因している場合が多い。つまり、国を守るためにしたことが国を滅ぼす原因にもなりうるのである。

 防災も国防の一環として捉えられるべき事業である。ただ、防災は、国防以上に国家観を根底にした事業でなければならない。今日では、防災の一つとして環境維持も位置付けられなければならない。公共事業の目的で多いのは、交通と防災である。それだけ防災というのは、国家の存在意義に関わっているのである。黄河を制する者は、国を制するとまでいわれたのである。
 ところが防災は、国防ほど脚光を浴びない。自然災害、事故と闘う者は、戦士以上の勇者である。

 治安の維持にかかる費用も財政において欠かすことができない。夜警国家という思想がある。この言葉は、夜警、即ち、治安維持にかかる費用だけは、除けないと言う意味が含まれている。つまり、治安維持にかかる費用は、国家にとって最低限必要な費用だと言う事を意味している。

 公共事業というのは、本来国家観から発生する事業であり、経済的事由から発生する事業ではない。特に、目先の景気対策によって左右されるべき事業ではない。
 公共事業は、国家財政の基幹を成す事業である。その反面において、既得権益として利権に結びつきやすい事業である。

 国民国家における教育の目的は、建国の理念を明らかにして、国家の仕組みを周知し、国民の権利と義務を認知させることにある。そして、共通の価値観の形成を促すことにある。

 決して、反体制、反権威、反権力思想を浸透させることにあるわけではない。
 教育の主権者は、教育者にあるわけではない。教育者は、教育の主権者の委託を受けて教育を請け負っているのに過ぎない。教育の内容を決めるのは、教育の主権者にある。教育の主権者は、国民にある。更に直接的な主権は、保護者にある。そして、地域社会にある。それは、利害が生じるからである。いくら言論の自由があるからといって、保護者の許可なく反社会的、反国家的、反体制的、反道徳的、反権力的教育をする事は容認されるものではない。反国家的、反体制的教育は、それ自体、憲法に反する行為なのである。
 だからこそ、教育には、財政的な裏付けが成されるのである。又、教育が義務であり、権利である根拠も国民国家において建国の理念を国民の権利と義務の前提としているからである。

 社会保障の目的は、所得の再配分と社会的弱者の保護にある。社会保障費制度は、国家と国民の関係に対する思想を具現化する過程によって構築される制度である。あくまでも根本にあるのは、国家思想である。そして、思想であって所与の原理ではない。国民の合意が前提にあるのである。だから、国民国家においては、国会の決議を前提としている。

 財政は、本来合目的的なものである。なぜならば、財政は、国家が国民の委託を受けて執行するものだからである。国家目的が明らかにされないと財政そのものが無目的なものになる。無目的では、国民の信託に答えられないからである。
 財政が本来の目的を見失えば、場当たりで、対処療法的なものにならざるをえない。財政は、その時の経済情勢と国家目的との均衡の上に成り立っている。場当たり的な財政では、破綻するのは必然的帰結である。

 過激な反体制主義者の中には、国家が国家目的をもつ事自体否定している者すらいる。そこまでいくと彼等は、反体制主義者というと無政府主義者である。無政府主義は、個人的な主義主張としては成り立ち得ても国家理念としては成り立たない。為政者が無政府主義、反体制的になれば国家が滅亡するのは、必然である。国家は、国民が必要とするから存在するのである。
 皮肉なことに、国家が機能している時は、国民の多くは国家の存在する意識することがない。国家の必要性を意識するのは、国家が有効に機能していない時である。

 財政支出には、この様に何等かの国家目的が前提となる。逆に言うと、国家目的、事業目的が明らかでない支出は認められないという事になる。そこにも財政の公開と単年度主義と予算主義がある。財政支出は、財源という制約条件がある。財源とは、財政収入の源、資源である。

 財政で問題なのは、国家目的であり、それに対する支出の規模である。その支出を裏付けるのが収入である。つまり、先ず、やるべき事、即ち、事業があってそれに必要な支出がきまるのである。先に予算があって次ぎに、事業計画があるわけではない。そして、当然、事業計画は、収入、即ち、財源の範囲内という制約条件がある。

 財政規模には、自ずと制限がある。その制限の境界線を何処におくかが重要となる。財政規模は、経済規模の範囲内でなければならない。これは原則である。経済規模を特定するためには、どの時点での経済規模を指すかが重要となる。つまり、前年度、本年度、次年度、どの時点での経済規模を基礎とするかによって財政規模の基本が決まるからである。

 そこで国家財政で問題となるのは、財源である。
 現在の国家財政は、単年度均衡を原則としている。そして、財政上における単年度均衡は、現金収支を基盤としている。
 財源は、税収と国債と事業収入である。問題になるのは、この財源の内訳なのである。

 現在の財政は、財源の中心は、税収である。税収は、税制度に依拠する。税制度は、その在り方そのものが思想である。つまり、税制の在り方は、本を正せば国家観、国家思想に行き着くのである。

 税収を基礎に財政を組み立てるとしたら、今度は、税とは何かが問題となる。つまり、税の目的と性格である。

 税収は、会計上で言う収益と性格が違う。故に、財政赤字と会計上の赤字とは異質なものである。同一には語れない。この事を前提としなければならない。

 また、税の働きには、財政支出の財源という働き以外に、通貨の循環と回収、所得の再分配、景気の調整がある。所得の再分配は、格差の是正の働きがある。財政支出の財源以外の働きが経済に重要な影響を及ぼしている。税制度を設計する場合はこの点を見落としてはならない。又、税制度を変更したり、増減税といった施策を採る場合は、制度変更や施策が税の制度の働き全体にどの様な影響を及ぼすかを事前に検証しておく必要がある。

 税制中心の財政であることによって財政にいろいろな弊害が生じる。なぜならば、税は、手段であり、目的ではないからである。ところが、財政収入を税収に依存すれば、税制が手段から目的に転じる危険性がある。つまり、税の在り方によって財政が歪められる危険性が生じるのである。
 財政の目的は、目的は、国家事業である。税の目的は、財政に準じるものであり、故に、税制の在り方は、国家目的に準じるものでなければならない。
 税収は目的ではない。税は、財源の一つである。財源も税だけに特定するのは危険である。今日の税制の目的は、単に、財源だけに留まらない。なぜならば、国家経済に与える税の働きが税制の目的を規定しているからである。国民経済に税制が与える影響は多岐にわたっているからである。故に、税の目的も財源という目的だけで判断することができない。

 財源を税収にのみ求めるという財政は、歳出の根拠が前年度の税収に制約されざるを得ないという欠陥を持っている。つまり、歳出に必要な要件と、前年度の経済情勢を反映した税収、即ち、前年度の経済状態との間に直接的な関係があるわけではない。むろん、まったく無縁というわけではなく。景気対策という要素も当然ある。しかし、その場合でも、前年度が不景気にならばその対策として支出が増加するという意味でである。税収不足というのは、市場の状態によるものであり、歳出は、社会の要請に基づくものだからである。

 税収の次ぎに問題になるのは、国の負債である。
 国債と個人の借金とは意味が違う。国債は、確かに、国の債務である。しかし、国債は、単に債務と言うだけではない。

 国債は、単に国の債務と言うだけでなく、国債は、債権でもあり、通貨を供給する手段でもある。実は、債権であり、通貨の供給手段だという点に国債の重要な働きが隠されているのである。

 国家の国民に対する債務と言う事である。しかし、国家の主権者は国民であるから、国民の国民に対する債務とも言える。即ち、国民は、債務者であると同時に、債権者でもあるという関係になる。

 最後に、事業収入である。実は、この事業収入が問題なのである。財政では、原則的に事業収入、或いは、事業収益を正式な収入とは認めていない。つまり、財政上は、市場経済を認めていないのである。財政は、市場経済外に位置する。市場経済外とは、統制経済、計画経済を意味する。つまり、財政は、社会主義的な性格を持つ事になるである。

 もう一つ重要なのは、財政思想では、事業収益が認知されていないことである。事業収益というのはないわけではない。しかし、それは、副次的な収入としてしか認知されていない。しかも、利益をあげることを目的とすることが許されていない。理由としては民業の圧迫があげられているが、基本的には、市場経済を認めていないのである。つまり、営利事業は、公共機関はすべきではないと言う思想である。これは思想である。つまり、利益は悪だという思想である。不思議な話だが、自由主義経済は、自由主義を保証し、実現すべき行政や公共団体が営利事業を認知していないのである。

 事業収益も利益も認知されない為に、財政では、期間損益という思想が成り立たない。利益という概念が成り立たないのだから、必然的に損失という概念も成り立たない。
 だから、赤字といっても財政赤字と期間損益上の赤字は意味が違うのである。

 財政が自由主義経済の中に位置付けられるためには、事業収益をもっと見直すべきなのである。事業収益は、取引を前提としており、会計制度と同じ基盤を持っているからである。

 過去において、事業収益がなかったかというとそうではない。ただそれが博打やたばこの専売である。また、国鉄や電信である。いずれも国がやることではないといって廃止されるか、或いは、国がやっていたら効率が悪いと民営化された。
 確かに、賭博やタバコを公共機関が奨励するのは、経済的だけでなく道義的にも問題がある。
 しかし、なぜ、鉄道や電話事業を国が経営すると効率が悪いのかは、その原因が明らかにされたわけではない。ただ、頭から公営は効率が悪いと決め付けているだけである。それでありながら、経営責任が問われるでもない。
 財政問題の本質は、このような事業収益に対する考え方に如実に現れている。つまり、収益や利益という考え方を受け容れないことに根本的な原因がある。
 本来ならば、収益の改善を計るべきであり、収益の改善というかぎりは、事業収益を見直すべきなのである。

 事業収益と税収との違いは、期間損益に基づくか、現金主義に基づくか、即ち、単位期間内での費用対効果を基準とするのか、単位期間内の資金収支を基にするのかの違いである。

 事業収益に基づく公共事業と税収による公共事業との差は、有料道路と一般道路の違いによく現れている。
 税によって賄われた一般道路は、収益に必要な処置や設備は不要である。又、費用対効果を計測する必要がない。故に、期間損益という思想に結びつかない。
 それに対し、有料道路は、常に、費用対効果が計測され、費用対効果が釣り合わなくなると強制的に廃止される事になる。
 ただし、有料道路による国家からの補助は、収益や負債的な働きではなく。資本的な働きがある。

 民間企業を政府が救済することの是非が社会問題化、政治問題化しているが、最後に問題となるのは手法である。当座問題になるのは資金不足である。民間企業が行き詰まる最大の原因は資金不足だからである。一時的に資金手当をすれば事は片付くのか。何等かの補助金を出すのか。又は、何等かの債務保証をして、借入の補助をするのか。資本を注入するのかである。
 しかし、いずれの策も収益の改善が見られなければ、民間企業として再生することはできない。その場合、国営化、公共化する以外に手立てはない。
 補助金や国家保証、債務保証は、収益の改善には、結びつかない。なぜならば、補助金や債務保証は、資金上の問題であって損益上の問題ではないからである。収益に計上できなければ費用に結び付けて費用対効果を測定することは不可能である。恒久的に資金を補助することは、増資と同じである。ただ、増資と違っているのは、取り分や経営権に制限が加えられることである。

 収益か費用に計上されないかぎり、利益に反映することは出来ない。当然収益構造の改善は計れない。この点を忘れたら、有効な収益の改善政策は施行できない。

 故に、政府が民間企業を救済する、これは、金融機関が企業救済する場合も同様だが、収益の見通しが立たない限り、効果を期待することはできない。問題の本質は、その企業が収益の悪化に陥った原因であり、それが経営者の手腕の問題なのか、不可抗力の問題なのか、即ち、技術の様な内部要因に依る問題なのか、環境、状況のような外部要因による問題なのか、或いは、外形、現象的問題なのか、構造的な問題なのかなのである。

 現行の財政の原則は、第一に、現金主義、第二に、単年度均衡主義、第三に、予算主義、第四に、法定主義(事前承認主義)、第五に、租税法律主義、第六に、公開主義である。

 会計の原則は、事後主義、結果主義である。即ち、経営者は、結果に対して責任を持たされているが、事前の予算に拘束されているわけではない。事前に与えられているのは、権限であって予算ではない。そうしないと状況の変化に対応できなくなるからである。
 それに対し、財政の原則は、事前承認主義であり、法定主義である。予算が予め決められていて、その範囲内でしか、予算の執行者には、権限が与えられていない。

 財政で問題なのは時間である。現金主義にせよ、単年度均衡主義、予算主義にせよ、法定主義にせよ、時間の捉え方が違うと百八十度違った体系になる。
 国家百年の計と言われるが、国家が、国家の目的を実現するのには、遠大な時間を必要とする。短期的な視野では、国家目的は実現できないのである。
 つまり、財政で重要なのは、時間の捉え方である。

 財政と会計とのこの根本的な違いは、財政の成立起源に原因があると考えられる。

 今日の財政思想の根幹は、財政が成立時点において成立した考え方や前提が本にある。その際たる者は、歳入に対する考え方である。

 現代のような財政思想の根幹がどの様にして成立したのか。それは、財政が成立した起源に遡る必要がある。

 財政は、当初、宮廷官房と軍事費の目的で生じた。宮廷官房とは、宮廷を維持するための経費である。その為に、税を課したのである。そして、税の不足分は、国債を発行して補ったのである。
 その為に、税収と歳出が深く関わることとなる。また、事業収益の認知がされない原因ともなっている。

 また、公式に国家に認められた紙幣は、税だけでは、国家の経費が賄えなくなったときに税収を補う目的で国の借金を元に生じた。

 近代国家を成立させた要因として、戦争と税、そして、国債があげられる。そして、その根本は財政破綻である。財政破綻は今に始まった事象はない。

 戦争、そして、税金や国債の問題が民主主義を成立させたと言っても過言ではない。

 そして、国会の設立と独立、司法の独立といった三権分立という制度の確立も財政問題に深く関わっているといえる。つまり、国家権力に対する不信感が根っ子にあり、国家財政を厳しく監視するという目的で財政原則は設定されているのである。

 この様な国家認識は、君主主義国家や封建主義国家の下で形成された。しかし、現代の日本は、君主主義国家ではない。国民国家である。建国の前提理念が違うのである。当然、国家に対する認識も改めるべきなのである。逆に、意味もなく反権力的立場や反国家主義、反体制的立場をとり続けることは、君主主義国家の時の思想に囚われている証拠なのである。負け犬根性である。

 国民国家が、一般国民の合意の上に成り立っていることを前提とすると権力を全て否定するわけにはいかない。国家の主権は統一されたものでなければ国家は分裂してしまうからである。故に、国権の発現は、単一な主体でなければならない。

 国家という概念は、国民という概念と表裏を成す概念である。つまり、近代的な概念である。それ以前は、特定の王族や貴族、領主、君主と臣民、奴婢という関係しかなかった。しかし、国民国家の前提は、君主国の前提とは違うのである。国家に対する忠誠といっても特定の個人や一族に対する忠誠を指すわけではない。国民国家に対する忠誠とは、主権者である国民に対する忠誠であり、国家理念に対する忠誠である。
 当然、国民を主権者とする事で成り立っている国民国家においては、権力に対する認識を変えなければならないのである。反体制、反国家一点張りでは、国民としての責任を果たせなくなる。国民が自らの意志で建国をしたそれを前提としているからこそ、国民国家においては、国民に権利と義務が課せられているのである。権利と義務を行使して国家権力の暴走を抑止することが国民としての最低限の責任なのである。その為に、国民国家では、国民には、より積極的に国政、特に、財政に関わっていくことが要請されている。

 また、財政原則を考える上で重要な大前提の一つに、環境や状況は絶えず変化しているという事がある。環境、状況は、絶え間なく変化をしていて、完全に予測することは不可能だという事である。つまり、世の中というのは、自分達の思い通りにはならない。それが大前提なのである。
 環境や状況の変化に対応するためには、統一された意思が必要だという点である。
 さらに重要なのは、決断は事前に行われるという事である。そして、決断を実行に移すためには、何等かの権力が必要とされるという事である。
 決定された事象を実際に執行するのは組織であり、組織を動かす力がなければ組織の統一性は保てなくなるからである。そこで重要になるのは、思想なのである。

 権力は一体でなければならない。この事は、財政は、統一された体系でなければならず。又、予算は、統一されなければならないことを意味する。それは、国家理念も統一された体系である必要があり、故に、憲法を必要とし、憲法の無謬性、整合性が問われるのである。
 この様な権力が絶対化すると権力を制御し、権力の暴走を抑制することが妨げられなくなる。故に、三権を分立し、相互牽制を働かせるべきだという思想が生まれてきたのである。そして、民主主義というのは、この権力の仕組みの在り方をそして言う。即ち、要件定義に基づく体制といえる。
 この民主主義の前提から、財政の原則は導かれた。しかし、現在、その民主主義の前提も見直されるべき時代に入りつつある。国民の主権が確立された以上、反権力的な思想だけでは、国権の維持がむずかしくなってきたのである。

 確かに、税は、国家を運営するための必要経費、又は、軍事費を賄う目的で生じた。しかし、税が国家の必要経費を支払うための原資だというのは、錯覚である。

 この様なとらわれが財政原則を歪めている。財政原則は、財政本来の働きから求められるべき原則である。

 財政は、反体制、反権力的な思想では成立しない。思想信条の自由は、否定しない。個人的に反体制、反国家、反社会的、反権力的な思想、無政府主義的思想を持つことは容認されるかもしれないが、それが国家の中枢を担う者が国政上において実現しようとする事は容認できない。それを容認すれば国家は解体してしまう。国家に対する叛逆だからである。
 現代の日本は、その反権力、反体制、反国家、反社会的な思想が国家の中枢に蔓延している。それが財政の危機を招いている一因でもある。

 起源と働き、機能とは必ずしも一致するとは限らない。そして、現実には起源よりも働きの方が重要なのである。つまり、なぜ、税は、生じたかよりも、税は、どの様に作用しているかが、重要なのである。

 重要なのは、財政の働きである。財政が国家経済に対してどの様な働きをしているかである。その観点から財政原則は見直す必要がある。

 財政で、税の働きで重要なのは、所得の再配分と通貨の回収であり、公共投資の働きは、通貨の供給である。金融政策の働きは、時間価値の管理にあるといえる。
 国防や防災のように費用対効果が直接的に計れない様な事業と行政サービスのように費用対効果が計測な事業とは、区分して考えるべきである。

 費用対効果の関係を明らかにするためには、行政サービスは、事業収益に基づき、国防や防災は、税に基づくというように収入源を支出に結び付ける必要がある。それは、収入源によって費用対効果を測定する場所や手段に違いが生じるからである。 

 予算主義は、財政の根幹をなす思想である。しかし、現行の予算制度は、予算主義に対する誤った認識に基づいている。。
 予算主義に対する誤った認識とは、予算主義は、単に予算に基づく財政だという認識である。そして、予算そのものを立てる過程のみが重視されることである。又、一度立てた予算は、変更することの出来ないものだという認識である。
 予算主義の基盤は、予算そのものを指すのではなく。予算の根底にある国家事業だと言う事である。予算主義の本質というのは、国家事業を遂行するための手段として予算を活用することにある。予算に囚われたら、予算の本質が見失われるのである。そして、この誤った予算主義と単年度均衡主義が財政破綻の元凶なのである。

 与えられるべきは、権限であって、拘束性の強い予算ではない。予算は予算であって、前提となる数値は、予測、推測の域を出ないのである。予算に囚われれば状況に合わせた迅速な行動がとれなくなる。だから、会計は、事後承認型の決算主義なのである。確かに、会計は、不正を全て妨げることはできない。しかし、それは、事前承認型の予算主義でも同じである。仮に、民間企業で株主総会で決議されて予算通りの経営しか許されていないとしたら、どんなに優秀な経営者でも経営は立ちいかなくなるだろう。

 単年度均衡主義には、時間の作用が働かない。単年度均衡主義を維持せんが為には、結果的に現金主義を採用せざるを得ない。それが期間損益との決定的に相違である。

 単年度均衡主義は、国家事業という観点からして当初から無理がある。先にも述べたように、国家百年の計というように国家的事業というのは、遠大な計画の基に行われるべきものである。一時の景気対策という目的だけで行われるべき事業ではない。それでも、計画の速度を加減するだけで充分景気対策に対応できる。ただ目先の利益だけで公共事業を決める事は、百害あって一利なしである。

 結局、財政赤字で最後に問題になるのは、財政規律が失われることである。つまり、際限がなくなりだらしなくなるという事である。そして、通貨の制御ができなくなることである。

 また、財政規律が失われることに依る深刻な問題点の一つは、資金の流れに偏りが生じ、格差や社会的不公平の原因となる事である。

 財政の問題は、収益と収入が直接結びついておらず、その為に、因果関係から財政規律を保つための仕組みがないという事である。即ち、収入から支出を抑制する作用が働かないと言う点にある。
 この問題点は、会計制度では、期間損益を確立する事によって費用対効果を計測することを可能とすることによって解決した。故に、財政でも期間損益を採用するか否かが焦点となる。

 期間損益上の赤字と言った場合、収益から費用を引いた差額がマイナス、即ち、収益より費用が大きい場合を言う。
 財政赤字という場合、税収から歳出を引いた数値がマイナス、即ち、税収より歳出が大きい場合を言う。歳入から歳出を引いた数値がマイナスした場合を言うわけではない。歳入から歳出を引いた数値がマイナスしたら、それは財政赤字ではなく、財政破綻である。現在は、税収のみを正当的財源としている。国債や事業収益は、補助的な財源という位置付けである。故に、税収から歳出を引いた値がマイナスすれば財政赤字とするのである。

 歳入を決定するために働く要因と歳出を決定するために働く要因は違うと言う事を念頭に置いておく必要がある。その因果関係を明らかにするために、会計、即ち、期間損益が考案されたのである。

 現代の経済で問題になるのは、経済の専門家は、会計に詳しくなく。会計の専門家は、経済を知らないという事である。

 財政上の赤字とは、税収に対して支出が多かった場合か、税収に事業収益を加えた値に対し、支出が多かった場合を指して言う。

 財政赤字を改善する手段は、税収や事業収入を増やすか、支出を減らすかしかない。ただ、厄介なのは、支出を減らすと税収も減少することがあるからである。つまり、個々の要素が相互に結びあっているという事である。故に、対策は、複合的、構造的な施策にならざるをえない。

 財源不足を単に税制を変えることで補填しようとする発想は危険である。税収は、単に内部要因だけで決まるのではなく。経済情勢という外部要因によっても左右される性格があるからである。予算の都合だけでは、税収は決められないのである。

 税の効果は、税制度自体が発揮する場合がある。税制は、景気を発揚したり、抑制したり、また、所得の再分配の機能を制度自体が持つ。景気を調節する機能を税制度に持たせ、経済制度に組み込むことによって景気の調整機能を制度に持たせることもある程度可能である。又、税制を変えることによって産業の在り方や消費の構成を変化させることも可能である。その為には、税制を設計する際は、税をどの部分にどの様に、どの程度化すべきかが重要となる。

 又、税制を考える上で重要となるのが、税の目的と使い道である。税は、どの様な目的で課せられ、どの様な理由で徴収される。

 問題点の一つは、財政、会計、家計との間に制度的連続性がないという事である。当然制度的整合性もない。その為に、税制が折衷的な制度になっている。
 財政、会計、家計の間に制度的整合性がないと税の効果、即ち、税が会計や家計のどの部分にどの様な作用があるのかの因果関係が断ち切られてしまうことになる。さらにそれは、税制度が生産や消費の局面に対してどの様な影響があるのかを不明瞭にしてしまう。経済にたいする税制度の直接的な影響を、測定することがむずかしくなる。
 また、財政、会計、家計情報に整合性がないために互換性がないという事にもなる。

 税収は、収益と資本を一緒にしたような性格がある。税収は、返済する義務を持たない資金という性格上資本に近い性格を持っている。また、費用と直接結びついていないと言う点において収益とは異質である。資本には、元金と利益という二つの意味が隠されているが収益から費用を差し引いた値である利益とも質が違う。故に税収は、元本に近い性格を持つ。
 税収というのは、収益、即ち、売上という概念になじまない点がある。それは、収益は、常に、費用対効果を測定する目的によって成立した概念であり、利益という概念の基礎となる概念だからである。
 税は、その徴収手段や徴収対象、徴収場所という点から費用対効果に結び付けにくい性格がある。費用対効果の関係が成立するためには、取引の存在が前提となるからである。税は、取引によって生じるものではない。ただし、税制の前提に、国家と国民という関係が存在することを忘れてはならない。この関係は、財政が成立するための大前提でもある。

 現行の財政政策は、国債は、国の借金だから悪いとし、税収に拘っていると歳出の削減に拘っている。拘っているから、財政赤字が問題となるのである。拘らなければ、もう少し、国債に対して柔軟になれる。ではなぜ、税収に拘るのかである。

 財政の働きを考える上で、財政規模が経済全体の規模に占める割合、比率が重要なのである。

 次ぎに、財政赤字を補填するためにどの様な手段があるかである。増税をして増加した税収で補填するのか、又、事業収益を増やすか、支出を減らすか、国が借金をすることである。其の中で国が借金をする場合に発行されるのがそれが国債である。国債以外には、直接国が紙幣を発行する手段がある。

 民間企業が資金繰りにつまった時とる手段が、第一に増資等による資本の増強、第二に、収益の改善、第三に、支出の削減、第四に、遊休資産の売却、第五に、借入、第六に、債務の圧縮、減免である。財政も同じである。ただ、民間企業と違うのは、国家は、通貨制度を掌握しているという点である。

 究極の手段としては、政府が直接紙幣を発行して国債を買い取ることも理論上は可能である。しかし、その時問題になるのは、財政規律と通貨の流通量である。強引に実行すれば、通貨制度の根幹を揺るがしかねない手段である。よくよく慎重にしなければならない。
 政府の借金と言うが借金する相手が国民である場合、貸出主体と借入主体が同一であることを意味する。それが家計上、会計上の借金と違う点である。そして、これは決定的な違いなのである。

 国債を問題にする時、量ばかりを問題にするが、量が示すのは、位置である。国債の総合的な働きを知るためには、位置だけでなく、国債による運動、働きと国債と他の要素との関係による働きを明らかにする必要がある。国債の量的な部分だけでなく、資金の流れる方向やそれによって生じる働きも重要なのである。

 資金の働きを考える時、負債によって発生する資金の流れの方向が重要となる。資金がどちらの方向に向かって流れているのか、運用の側に向かって流れているのか、回収側に向かって流れているのか、又は、実物市場に向かって流れているのか、金融市場に向かって流れているのか、資本市場に向かって流れているのか、労働市場に向かって流れているのかが景気対策には重要な要素となる。そして、景気対策の鍵は、どの方向に向かって資金の流れを誘導し、促すかにある。

 突き詰めてみると財政最大の役割は通貨管理である。通貨管理とは、貨幣価値の安定と通貨制度の維持にある。通貨制度は、一つの通貨圏に一つの体系を持つ。言い換えると、一つの通貨制度は、一つの通貨圏を形成する。

 通貨制度の維持には、他の通貨制度との接合と自通貨制度の独立性の維持にある。その為に通貨準備制度、決済制度の整備が要求される。その上に、通貨政策が執行されるのである。

 通貨管理は、主として、通貨量の管理をいう。その為には、国債残高や金利よりも通貨の発行残高が重要となる。

 何が国家国民にとって必要なのかを中心に考えるべきなのである。






                       



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