国家の威信について



 国威や国家の威信を、我々は、頭から否定してきた。
 第二次世界大戦、大東亜戦争、アメリカからすると太平洋戦争の惨禍と敗戦に打ちのめされ。それまでの文化や歴史、伝統、思想を全否定し、ただひたすらに恭順するしか生きていけなかった。その時代におった心の傷が長く日本人を支配し続けたことが、第一の原因である。
 結果、愛国心なんて生理的に受け付けられなくなり、日本人としての誇りを持てないように洗脳された。
 しかも、戦後、ながい平和がつづき、さらに、高度成長によって生活も物質的には豊かになった。それが、非武装中立という幻想をあたかも現実のように錯覚させてしまったのである。しかし、平和と言っても実際は、東西関係の危うい均衡の上に成り立っていた。
 メディアも教育界も、戦前は、戦意を鼓舞し、国威を発揚してきたというのに、戦争が終わると、あたかも、自分達は、最初から戦争に反対し、自由と平等の為に戦っているかの如く振る舞ってきた。
 こういう時代になると言論界にいる者は、反体制、反権威を標榜していれば、結局、安全である。
 銃口の前で反体制を叫ぶことは、勇気のいることである。しかし、いくら相手を侮辱したところで、裁かれることがないとしたら、反体制を唱えているのが、何よりも無難である。

 檻の中にいる虎をからかったとしても勇気ある行動とは言えない。

 所詮、メディアの人間は、戦前も、戦後も、同じ体質であり。いくら武張ったところで意気地がないのである。

 権力は怖ろしいと言うが、ならば、国家はなくていいのかと糾すと黙して語らず。ただ横を向いて国に対する不平不満ばかりを言うばかりである。
 国に反対するだけで、自分達がどの様な国にすべきなのかを明らかにしない態度は、卑怯である。

 ところが、卑劣、卑怯な者の意見ばかりがもてはやされ、真に国を憂う者が侮られ続けてきた。その結果、いつの間にか、国を護ろうという気概のある者がいなくなってしまったのである。かくて日本は、無政府主義に支配されてしまった。

 戦後の長い偽りの平和の中で、日本人にはどうしようもない甘えが芽生えてしまった。戦後、日本人は、安全と空気は、タダだと思っていると揶揄されてきたし、実際、そう思い込んでいる節がある。
 日本人にの多くは、平和というのは、何もせずに放っておけば自然になる状態なのだと思い込んでいる。平和とは、無為自然な現象だと信じ込んでいる。
 国防などと言うから平和が乱されるのだと真顔で言う。
 しかし、国際社会に於いて戦争がない状態の方が希有なのである。それが現実である。自由自由と言うが日本人の言う自由は、家畜の自由に過ぎない。買い主の都合でいつでも屠殺されしまうのである。
 今でも多くの国が戦争状態に置かれている。なぜならば、国際社会は、力が支配する無法な社会だからである。
 平和は、自分達の力で守り通す状態なのである。だからこそ、軍や警察の存在意義がある。

 尖閣諸島に於いて中国漁船と海上保安庁との間で小競り合いがあり、その時の状態の映像が、許可なく、インターネット上に流された。
 この問題に対する日本の政府やマスコミの対応が好例である。

 何が正しくて何が悪いのか。その根本を明らかにすることは、国家を治める者の務めである。
 何が正しくて、何が間違っているかは、国家理念に基づく事である。
 国家理念は、国法の根源であり、国家の規矩である。
 国家理念の根源は、また、国家の主権と独立に依拠する。国家の主権と独立が保たれなければ、国家理念はないに等しいからである。
 故に、国防や国家理念を最初から不可侵の事項にしてしまうことこそ独立国として論外なのである。

 非武装というのは、思想であって、真理ではない。それは、国民を信じて警察をなくせば犯罪は起こらなくなると言うの同じ事である。そうなると、武装を放棄するというのは、思想と言うより、ある種の宗教的信条、信仰だと言える。
 宗教的信条をもって国家理念とするのは狂信である。

 国法を犯す者をかばって、国を命懸けで護ろうとする者を罰すれば、国家の威令は失われる。国法は、国体を護持するためにあるからである。だからといって国体を護持するためならば何をやっても許されるという事ではない。
 どうする事が国を護る事になるのかであり、何が大義であるかであるかが最後の基準となるのである。

 少なくとも、テロリストを法の番人にしたり、革命志向の人間を治安の責任者にすべきではない。

 何が国のためになるかである。それを忘れて法律論争に堕してしまえば、物事の本質は見失われてしまう。
 権力者が自分達は、国家への忠誠を否定しながら、国民に対して忠誠心を求めるような姿勢が問題なのである。
 肝心なのは、規律の問題、綱紀の問題である。

 何から国民を護るのか。その本質を忘れてしまっては、議論の焦点が定まらない。一方に言論の自由と言い。又、国民の知る権利をいいながら、他方に於いて、知らせたくない情報を隠蔽しようとする。それを無法とは言わないのか。
 法は、国家の威信があって保たれている。国家の威信がなくなれば、法は効力を発揮できなくなり形骸化する。形骸化した法は、かえって障害となる。
 国法を支えているのは、国民国家においては、国家に対する主権者、国民の忠誠にある。形骸化した法は、国民の国家に対する忠誠心を損なうからである。

 根本にあらねばならないのは、国家の根本理念であり、何をもって国家正義とし、公の義とするかである。

 法治国家においては、国家の秩序は法によって護られる。法は、国民の国家に対する信認によって効力を発揮する。国家に対する国民の信認は、国家の威信にかかっている。国家の威信を支えるのは、国権の権威である。国家の権威の本源は、建国の理念である。建国の理念は憲法として表される。それが国民国家の道理である。
 国権の権威、即ち、憲法の権威が弱まれば、国家の威信は、保てなくなる。国家の威信が保てなくなれば、法に対する国民の信認は薄れる。法に対する国民の信認が薄くなれば、国家の規律、綱紀は、保たれなくなり、秩序は乱れる。

 国の秩序を護るべき者が国の権威を蔑(ないがし)ろにすれば、国家の威信は損なわれる。国家の威信が損なわれれば、法の信認は失われ、秩序は乱れる。国の権威の本性は、独立自尊にある。国を護ろうという覚悟のない者には、独立自尊は保てない。

 戦後の日本人は、国防について話すこと自体が悪い事のように吹き込まれた。国を護ろうとすることは愚かなことであるかのように意識の奥底に刷り込まれたのである。
 それ故に、戦後に於いては、国家の威信を語ることさえ憚れるような風潮があった。しかも、その風潮を醸成したのは、他でもない、教育界と新聞を代表とした言論界である。
 国を護ろうとすることは、戦争を鼓舞することであり、平和を乱す行為だと彼等は主張する。平和という状況は、放っておけば自然に成る状況でと言う考え方である。
 平和にするのではないとされたのである。しかし、平和は努力なくして維持できる状況ではない。それが彼等の主張の論旨である。
 しかし、平和は守られるべき状況であり、自然に成る状況ではない。人々の絶え間ない努力によって平和にするのが真実である。

 なぜ、日本は敗戦後国威を否定するように仕向けられたのか。
 国家の威信が傷つけられることで誰が得をするのかを考えれば解る。国家の威信が傷つけられれば、秩序が乱れ、国家の主権と独立が危うくなる。国の秩序が乱れ主権や独立が危うくなることで得をする者は、政府の転覆を画策する者か国力を弱体化しようとする国家内外の敵である。

 若い頃に正義感にかられて反体制を標榜しても、年をとれば責任ある立場に立たされる。それが自然の理(ことわり)である。
 大人になれば、秩序を維持し、規律を保たなければならない立場に立たされるのである。それが指導者である。いつまでも反体制を気取るのは、無責任極まりない態度である。
 経験が浅く未熟な者は、とかく先人達の粗(あら)や失敗、過ちが目に付く。特に、戦後世代からみれば戦前の人間は、一方的に間違え、日本を破滅の際(きわ)にまで追い込んできたように見える。だから、何でもかんでも自分達以前の世代のやることを批判し、反対すればいいと思い込んでいる。彼等にとって叛逆こそ美徳なのである。否、美徳だったのである。
 しかし、実際に自分が責任ある立場に立たされれば、物事の本質が違って見えてくるものである。自分が責任を持って決断をすれば、自分の言動が、そのまま、自分の問題に跳ね返ってくるのである。いつまでも、反対ばかりはしていられない。自分が自分の行いに対して、断固として責任をとるという覚悟が求められるようになるのである。
 今の為政者の多くは、戦前、日本を戦争に追いやった人間を責めたててきた。しかし、今、自分達が国家に対して責任ある行動をとらなければ、結局、自分が批判し、責め立てている戦前の為政者と同罪である。むしろ、反対することばかりに意義を見出し。自分の行いを人のせいにして、進んで責任をとろうとしない分、戦前の為政者よりも質(たち)が悪い。
 それでなくとも、人の親は、自分達が、自分達の責任に於いて、国や社会や家族を護らなければならなくなるのである。
 況や、政治家は、国家に殉ずる覚悟ができなければその責任を果たすことは、はじめから不可能である。
 国家が国民を擁護することが責務ならば、国民は国家を護ることが使命なのである。
 然こそ(さこそ)、権力を守る者には、それなりの人徳と言動が求められるようになるのである。

 国体は、国家の身体である。身体は魂があって保たれる。魂のない肉体は、屍に過ぎない。しかし、肉体が健全でなければ、生きられない。精神は、肉体を通して外に表れる。肉体と魂は一体なのである。
 国家の魂は、国民の意志である。国民の意志は、国民の使命として現れる。国民の使命は、国民国家においては、国家権力に凝縮される。国体と国民の意志は、不離不可分の関係にある。故に、国家に対して国民は責任を負うのである。
 国民の意志は、国体を通じて外に表される。国体が国民の意志を表せなくなることは、国体が病んでいることである。国体が健全だからこそ国民精神も健全でいられるのである。国体が病めば、国民も狂う。つまり、国家が国家としての自制心を失うのである。
 国民の精神が健全でなければ、国家権力が健全でなければ、国体の自立は保てないのである。国体の自立とは、国家の主権と独立を保つことにあるのである。




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