自由の前提


自由を論じる時、自分は存在論から入ります。
全ての存在の前提は、自己の存在であり、自己の存在を前提とした上での対象の存在(カントで言う物自体)ですね。
哲学は、一般に、「存在論」「認識論」「論理学」の三つを備えていないとならないと言われますので、自由は、自分としては哲学の範疇に属します。
自己存在、この部分は、僕の哲学の中核を増しています。
絶対的存在を自己に自分は置きます。そして、自己存在の欠如が欧米哲学の特徴だとするのが僕の哲学の骨格となります。
もう一つ、自己の定義を主体的な存在とすると同時に、自己は、間接的認識対象だとするのが僕の哲学の特徴です。つまり、自分だけでは自己を認識する事ができず、自己存在を認識するためには、自己を外部に写像し、その投影された像を認識する事で自己存在を間接的に自覚する。そのために、外部に投影された像を自己と錯誤する危険性があるというのが僕の理念です。
コギトエルゴスムは、自己証明に過ぎないと考えます。
故に善悪は、自己善しかないと考えます。自己善とは、自己と外界との相互作用から形成される物であるというのが、僕の基本的認識です。相対かが絶対かの問題は、認識上の問題、認識論の問題であり、存在論とは別次元の事としています。

自己とは主体である。
自己は間接的認識対象である。
自己は、唯一である。
自己は、絶対的である。
自己は今しか存在しない。

人は、存在において自由であり、平等である。
故に、自由、平等は、無条件であり、無規定。
それが、自由、及び、平等の前提。

自己が主体的であるが故に自由であり、平等である。
故に、自由と平等は所与である。

つまり、自由であるが故に自由。
平等であるが故に平等。
それは自己存在の唯一性に起因する。

天上天下唯我独尊。

それに対して善悪は認識上の事である。
善悪は内面の規範。
内面の規範には、善悪、以外に、美醜、真偽、損得等がある。

法やルール、掟は、外部の規範。
規範は、自己の行動を制約する。

人は、内面の規範と外部の規範、そして、自己の行動を介し、自己の内面と外界の相互作用によって自己善を形成する。
外界への働きは、内面への認識となり、内面への働きは、外界に対する認識になる。

自分の内面と外部の存在とは鏡像関係にある。
鏡に映った自分を自分とするのである。
故に、鏡が歪んでいると自分の姿も歪んで見える。
これは確かめようがない。信じる以外にないのである。

自己の行為は、自己の内面への働きと外部との働きに対する作用反作用として現れる。

以上が自由と平等の前提条件。

人は、やりたいことが思い通りにやれるわけではない。肉体的にも精神的にも限界があるし、また、世間の取り決めや状況によって許されないことも多くある。
やりたい事がやりたいようにできないと不自由に感じる。
何が不自由に感じさせるのか。それは自分の意志が阻害されるからである。

考えている事と、言っている事、やっている事が乖離すると自己の同一性が保てなくなり、主体性が崩壊する。
自己表現には、考える段階、言葉に置き換え体系づけ、整理する段階、行動として表現する段階がある。そして、外の表出された自分を再認識することに自意識を深めていくのである。
そして、一度外に表現された人の言動は、自己の内面と外部に双方に働きかける双方を変化させる。これが自己運動の作用反作用である。

言動や行動として自己の外に表現された行為は、自己が間接的認識対象であり、自己認識が外部に依存せざるを得ないことから強く、自己の意識を制約する。例えば、約束とか、契約とか、公約、思想などに人は、支配されやすい。そして、その延長線上に社会的規範、法や規則がある。

人間は、社会的動物である。社会的動物である人間は、集団的意志決定、組織的意志決定に基づいて自分の生活を維持している。人間は、一人では生きられないように運命づけられているのである。

集団は、全体と部分からなる。
個人にとって全体を何とし、部分を何にするかが大切なのである。
集団にとっても何を全体とし、何を部分とするかが鍵を握ることになる。
全体とは、個人であったり、家族であったり、会社で会ったり、組織で会ったり、国家であったり、世界であったり。
部分は、個人であったり、家族であったり、会社で会ったり、組織で会ったり、国家であったり、世界であったり。全体であるか、部分であるかは、視点・目的によって変わってくる。相対的なのである。

個人的意志決定は、内面の規範に従い、集団的意志決定には、外的規範が働いている。
最も価値観と行動規範に影響を及ぼすのは、自己の内面の規範と自己の外部にある規範である。

集団には、やらせなければならないという意志が働く。やらせなければならないは、やらせられているという意識を生み出し。また、組織は、やらねばならないという意志によって動かされる。

社会的規範や、法等は、やらなけばならないという強制力を持っている。
やりたいことが許されずに、やらなければならないことを強要される。
それが続くと無力感に襲われ、諦めに囚われる。
それが昂じる自分の内面を隠し、外面を粧うようになり、いつの間にか自分の本心を見失うことになる。

考えるというのは、観念的なことであり、言動、行動は実際的なことである。
道徳は観念の所産であり、法や制度は現実の結果である。

禁欲的であるか、快楽的であるかが問題なのはではない。自己本然の価値観や考え方に反した行動を強制されると思想と行動規範との間に亀裂が生じるのである。

意識によって行動を制御するためには、意識によって形成された価値観と行動によって形成される行動規範との間の整合性、統一性が保たれる必要がある。

価値観と行動規範の整合性や統一性が保てなくなる場合がある。そうすると、価値観と行動規範が切り離されてしまうような事態が生じる。

価値観と行動規範が乖離すると自己の内面に強烈にストレスがかかる。意に反した行動をとらされることは苦痛である。

例えば、つきあいだからと言ってしたくもない事、自分の信条に反する行為を強要されれば極度の緊張状態に陥ることは想像に難くない。況んや、戦争によって殺人のような行為を強要されると自己の精神が保てなくなる事が生じる。
性的行為も同様である。
自分や自分の家族の生命財産が危機に瀕する中で決断が要求された時、必ずしも自己の心情に従って行動することができない場合がある。

また、掟とか、暗黙なルールによって自分の意志に反する行為を強いられといった外的規範による制約や抑圧との軋轢が内面の規範と行動規範とを反目させる原因となる。
俗に言う義理と人情の板挟みというような状況である。

又、宗教的な戒律と自分の感情などである。一方が絶対的な規範として他方を拘束した場合、この様な相克は、決定的な働きをする場合がある。

内的規範と行動規範の同一性、統一性が保てなくなると自己の主体性が保てなくなり、人格が崩壊する。自己のアイデンティティ(同一性)が失われるからである。

行動規範は、外的な環境、状況、法や規則といった外的制約に基づいて形成される。行動規範は、物的、生理的、肉体の維持を目的として形成されるからである。
それに対して道徳のような倫理観、内的規範は、意識や養育者から幼児期に刷り込まれたもの、道徳は意識、観念によって形成される。
つまり、行動規範は、生物として生きるための形成される規範だからである。それに対して、価値観や道徳、思想は、人として生きるための規範である。
内的規範は囚われる事が少なく、外的規範には制約が多い。

行動を触発するのは感情である。人は感情によって決断し、行動する。論理的に意志決定をしているわけではない。論理的判断には時間がかかる上に、全ての事象を論理的判断で網羅することは不可能だからである。
論理だけでなく、いくつかの基準・尺度がある。
行動を触発する基準には、真偽、善悪、美醜、損得、強弱などがある。

アジア人は感情を重視し、欧米人は、心理で説明しようとする傾向がある。

気をつけなければならないのは、最終的にやるかやらないかの判断を促すのは感情である。決断は理性的に為されるものではない。決断は感情的に為される行為である。
なぜならば、いくら論理を極めても決断には必ず幾ばくかの不確定要素が入るからである。故に、決断は論理的な飛躍がなければできない。
だからこそ、第一感を研ぎ澄まさないと決断はできなくなる。
決めてから考えるのであり、考えたら決められなくなるのである。

集団は、興奮状態の中で決断する。だから、イベント、セレモニーが重要な働きをするのである。

精神疾患になると感情の表出ができなくなったり、逆に、感情を制御できなくなったりする。
無表情かと思うと、急に泣き出したり、怒り出したり、衝動的な行動に走ったりするのは、感受性が狂ってしまっているからである。
人として感情、相手を思いやる気持ちや愛情が欠如すると正常な決断ができなくなる。

精神疾患を癒やす時には、情操教育が鍵を握っている。

情緒、情感に対する教育や指導を怠ると意志決定力は鈍る。情操教育が重要なのは、冷静で適切な判断をくださるようにするためである。
単に論理ばかりを極めても適切な判断が下せるわけではない。

欧米では自己概念が欠如している。それ故に、外延的考察によって客観的哲学・科学を発達させる契機となった。
日本人は何かというと自分の問題、自己の問題で片付けてしまう。
だからかえって自分が見えなくなっている。

価値観と行動規範の分裂は、強制や抑圧から生じる。
それは、自己存在と自己の生命に関わる亀裂だからである。
生物として生きられるか、人として生きられるか、その相克に苦しめられるからである。

例えば、自分の意見を頭から否定され、或いは無視され続けると自分の考え意見を表出、表現すること事態を恐れるようになる。
自己を否定される事によって自己表現を諦め、自分が傷つくことを恐れ、自分の内面の自意識を保護しようとして外面を取り繕う様になるからである。しかし、この行為は、自己の同一性を著しく損なわせることになる。
器質性以外の障害のほとんどが自己のアイデンティテイ、主体性の喪失にあると私は考える。主体性の喪失が自己否定に結びつく危険性があるからである。
主体性の喪失すると、人格、主体性の崩壊し或いは、人格・主体性が分裂する。

この様な障害を最終的に修復する手段は信仰に頼らざるを得ない。なぜなら、精神障害は自己存在に関わっているからである。





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