経済数学

1 経済数学

1−10 集合


 全体は一から始まり、部分も一から始まる。一つ一つが集まって、一つの全体を作る。それが集合である。故に確率も集計されると一となる。百%は一である。

 集合というのは、複数の要素や物の集まりを言う。ただし、今日では、必ずしも複数でなければならないと限定されているわけではない。何等かの全体、集まりが形成される可能性を意味している場合がある。

 国民国家は、国民の集合である。国民がいなければ、国民国家という集合は形成されない。しかし、一度、国民国家が成立し、国民が定義されれば、たとえ、国民がいなくとも国家という概念は成立する。

 対象を一つの塊、全体として、その全体を複数の要素の集まりだとするのが集合の考え方である。要素は、物であったり、点であったり、変数であたり、作用であったり、操作であったりする。

 この様な集合の考え方は、現代、あらゆる数学の基礎に位置付けられるようになってきた。

 まず第一に言えば、数を集合で表すことが基本となってきたことである。その上で関数の概念を集合の概念で表すことが一般的になってきた。

 集合を構成する部分や要素を元という。

 視点を変えると集合の様相はがらりと変わる。
 例えば、今、両親と男の子、雄犬と雌犬のつがい、雄の子猫、が同居する家族を想定する。この家族を性別で分類すれば男性が4、女性が2である。人間と動物分類すれば、人間が3で、犬が2で猫が1。足が2本の存在は、3で4本の存在は3である。大人と子供で分類すると大人が4で、子供が2。夫婦は2組というように、集合の構成は変化する。
 つまり、集合の構造というのは単一ではない。
 集合の構成を区分する基準は性質である。つまり、集合の構成要素、元は質と量からなる。

 全体は、全体を構成する部分、要素を関連付けられることによって成り立っている。部分や要素を関連付けるのは個々の部分や要素の働きである。全体の働きは、場の力として個々の部分や要素に働く。部分や要素は関連付けられる事によって全体に対する位置と運動が定まる。

 集合を定義するためには、対象を特定し、範囲を設定する必要がある。対象を特定とするとは、何を元とした集まりかを明らかにすることである。

 例えば、机の上にあるリンゴとか、日本中のリンゴというように、集合を定義するためには、範囲と対象を、特定する必要がある。

 集合の元とは、集合の全体に対し他とは明確に区分できる部分である。この様な元は、一つ二つと数えられる。この様に数えられる元から数を抽象化する事によって数は形成される。抽象化された数を順序づけることによって数は量化される。

 机の上にあるリンゴを、例えば、リンゴ一つ一つ、白紙一枚一枚に置き換える。その時、リンゴ一つと白紙一枚に必ず対応させる。この様な対応を一対一対応という。白紙を点に置き換えれば、リンゴは点の集合になる。
 次ぎに、白紙だけを集めて一つ一つ別々の数字を重複することなく書き込んでいく。そして、白紙に書いた数字に順序をつける。この様にしてリンゴの数量は、明らかになる。

 明らかになった数量に対し、リンゴ一つの価格、即ち、単価を対応させる。この操作によってリンゴは貨幣価値に換算され、経済的価値を数量化させられる。
 数量化された経済的価値は、演算が可能となる。例えば、リンゴの数量に単価を掛け合わせたり、また、足したり、引いたりすることが可能となる。
 貨幣的価値は、取引によって実現する。取引は認識によって現実化される。即ち、リンゴの単価、或いは、価格は、取引によって決定される値である。
 この様にして抽象化された経済的価値は、リンゴという実体から離れて一つの体系を構成することが゜可能となる。この様な操作によって成立したのが会計的空間である。

 経済とは、経済的な価値のある物や行為の集合だといえる。経済的価値とは、生きる為に必要な物や行為を言う。経済的価値の一部に貨幣価値や市場価値が含まれる。即ち、貨幣価値や市場価値は、経済的価値の部分集合である。

 数には、一つ、二つと数え上げていく数と、全体を一とし、又、部分を一とし、その比によって成り立つ数がある。数え上げていく数には、際限がなく、全体を一つとする数には限界がある。

 経済を構成する部分を一つ、二つと数えていくことが経済的全体から数を抽象化することである。そして、数を抽象化した物に順序をつけることによって経済的対象を量として認識する。それが経済の順序集合である。

 経済的価値から数字的属性を抽出し、量化した上で、単価と掛け合わせることで貨幣価値は合成される。経済的価値を有する物を財とする。財は、貨幣価値に還元されることによって演算する事が可能となる。
 貨幣価値は、経済的価値を等質化するための手段である。貨幣は、財を貨幣価値に還元するための媒体である。

 経済を構成する要素には、人と物、金がある。故に、経済は、人と物と金を元とした集合である。即ち、経済は、人の集合と物の集合と、貨幣の集合からなる。

 貨幣経済は、貨幣価値の集合である。

 貨幣価値は、極言すると自然数である。故に、貨幣経済は、自然数の集合である。貨幣単位は、数直線である。自然数は無限に拡散する。故に、貨幣価値も無限に拡散する。貨幣価値を抑制するのは、人と物の経済である。

 貨幣価値は、人的要素の集合、或いは、物的要素の集合と単価の集合(財の単位価格)との積である。即ち、貨幣経済は、人的要素、物的要素と貨幣価値要素の依る線形関数に還元できる。それが貨幣経済の最大の特徴であり、長所である。

 経済とは、余程のことがない限り無限な対象を扱うことはない。だからといって経済を対象とする数学は下等だと決め付けるのは過ちである。

 国家予算と比べれば、我々が日頃扱っているお金など微々たるものである。しかし、それでも限りはある。有限なのである。かつて、石油は、無尽蔵にあると信じられてきた。しかし、実際は、有限なのである。ただ、限界が未知数なのである。

 身近に感じる金銭と貨幣経済全体とが、かけ離れていることによってあたかも貨幣は、無限の対象のように錯覚する。
 人生には限りがあり、自分が使える貨幣の総量にも限界がある。
 その為に、資源にも、お金も無限にあると錯覚しがちである。その為に、貨幣は、本来、比を基礎とした相対的基準であることを忘れ、無限に数え上げられる数値だと思い込んでしまう。そこに、過ちがある。

 基本的には、経済的対象は、有限である。ただし、時間軸が経済的基軸に加わると話は別である。経済的対象も無限な要素が入り込んでくる事になる。

 事業会社は、最初、当座事業を対象としてきた。当座事業は、一回一回、事業の成果を清算してきた。しかし、一回、一回、事業を清算していたのでは、効率が悪いので、事業を継続的なものに置き換える仕組みが作られた。それが株式会社である。その結果として期間損益が成立したのである。
 期間損益が成立することによって事業は、継続的なものに変換され、期間損益は、基本的に無限を前提とすることになる。そこに利益の概念が確立される動機がある。

 指数的な事象や変化は、解析しにくい。故に、変化や事象を線形的な事象に置き換えて対象を分析する。
 それが、会計であり、算術である。抽象数学を重んじる者は、算術を軽んじる傾向があるが、数学と算術は表裏一体となって効果、機能を発揮する。
 実用性ばかりを重んじて、数学の基礎を軽んずるのは間違いだが、純粋な数学をばかりを追究して、算術を軽んじるのも誤りである。

 元々、当座事業というのは、一回限りで清算していたのであるから、利益が累積されることはない。つまり、収支は、線形的な数値である。事業が継続される事によって事業の成果が指数的な数値に置き換わったのである。ここに本質的な差がある。
 指数的な収支は、そのまま活用することが困難であるので、時間を単位期間に区切って会計の対象を線形的に事象に置き換える操作、或いは、仕組みが必要となる。その操作、又は、仕組みが、会計制度なのである。

 経済は、全体と変化する部分と固定的な部分から成る。固定的な部分と変化する部分は、定数と変数、或いは、既知数と未知数といえる。
 固定的な部分は、変化する部分の元となり、変化する部分は、固定的部分に働きを実現する。

 例えば借入金で言えば、元本と金利である。
 元本部分は、金利を成立させるための基礎としての働きがあり、金利は時間価値を付加する働きがある。この双方の働きが機能することによって経済に時間的価値が付加されると同時に、固定的部分と変動的部分の働きによって時間的が保証されることになる。即ち、固定的部分が、変動する部分の変動幅を制限することによって過剰な変化を抑制する働きがある。又、固定的部分は、実体的価値に直接的に結びつくことによって実体以上の貨幣の変動を抑制する働きがある。

 変化する部分を固定的な部分に置き換えることによってレバレッジ効果は、発揮される、その結果、本来、固定的な部分も変動的なものに変質してしまうのである。
 その結果、実体経済と貨幣経済とが乖離する現象が起こり、本来、影であるべき貨幣が、貨幣自体で価値を形成するようになる。貨幣価値は、財と線形的関係にあるべき、一対一の関係にあるべきなのが、累積されることによって指数的に価値を増大させる結果を招く。実体経済の影であるべき対象、本来線形的であるべき対象が、指数的に増大し、それに比例して危険性も増大する事になるのである。そして、貨幣は、一方で、実物市場から閉め出され、他方で、予測不可能な動きをするようになる。又、固定的な部分が流動化されることになる。その結果、余剰の貨幣が市場に流通する結果を招く。

 貨幣は、単位貨幣毎に範囲が特定され、通貨圏を形成する。単位貨幣間の価値の差は、貨幣間の交換取引によって裁定され、決済される。
 貨幣の濃度は一様である。ドル、円、元、ユーロの濃度は同一である。
 貨幣単位は、順序集合であり、可算集合である。

 貨幣価値は、単価と数量に分解できる。単価とは、単位あたりの価格であり、数量とは、人的、物的量を言う。つまり、貨幣価値とは、貨幣と物的、人的価値の積である。

 経済の数学は、抽象的な数学ではなく、現実的な数学である。又、普遍的な数学ではなく。特別性を求める数学である。一般的な数学ではなく。個別的な数学である。

 貨幣の集合とは、作用の集合である。作用とは、働きである。貨幣の働きとは、人や物を陽の働きとすると陰の働きである。陽の働きとは、表に現れ、実際的な働きであり、正の働きである。それに対し、貨幣の働きは、経済の裏で働く、いわば影の働きであり、負の働きである。即ち、人や物の働きを貨幣が作り出す空間に写像する事によって貨幣経済は、成り立っている。貨幣経済が拡大するのに従って正の部分も負の部分も比例して拡大する。

 自己は、主体的存在であり、主体は本性である。本性は形相によって表されて対象化される。対象は、客体的存在である。客体的存在は、形相によって認識される。自己は、主体的存在であり、認識主体である。自己は、自己を直接認識できない。故に、自己を外的空間に写像し、投影する事によって自己を客体化して認識する。即ち、自己は間接的認識対象である。

 それが数や関数の根源である。一は、自己の一であると同時、対象の一である。自己と対象とは一対一の関係にあり、この関係が写像されることによって認識は、成立する。そこから数が生まれる。

 数の概念は、数単独に成り立つ概念ではなく。自己と対象との関係や認識上の操作から派生する構造的概念である。これは言語も同様である。故に、数も言語も操作によって成り立っている体系なのである。
 主観的数の観念と対象のもつ形式的属性が結びついた時、数の概念が確立される。

 独立変数とは、主体的変数であり、従属変数というのは、客観的変数である。

 集合の中でも特異な位置にあるのが、単位集合と空集合である。

 重要なのは、単位集合と空集合の働きである。
 
 単位集合とは、一の集合である。一を掛けても本の集合に変化がなく。一で割っても本の集合に変化がない集合である。この様な性格を持つ集合を一の集合、単位集合とするのである。ゼロは無意味ではない。

 空集合というのは、即ち、ゼロの集合である。ゼロというのは、無次元の集合を意味する。

 野球を例にとると解る。野球は、ルールによって成り立っている。つまり、野球はルールの集合である。野球は、二つのチームがなければ成り立たない。野球チームというのは、人の集合である。そして、野球の部分集合である。野球には、守備位置がある。つまり、野球は守備位置の集合である。野球は、攻撃がある。野球の打順は、順序集合である。野球は数の集合である。
 この様な野球チームは、人のいない状態では空集合である。しかし、空でも、野球を成り立たせている要素が働いていないわけではない。例えば、人が揃わずに、チームとして成り立たなくても、働きに応じて練習をすることはできる。
 又、一つのチームの基本的要素は単位集合である。

 数字以外の意味、属性を取り去る。数字は本来無意味である。無意味だから働く。しかし、現実に当て嵌めようとすれば、数字に意味を持たせる必要がでてくる。

 数から意味を取り去る働きがあるのがゼロと一である。数に意味を持たせるのもゼロか一である。極限も無限も一とゼロの狭間にある。

 野球の基数は、9で、底は3ある。試合に出れる選手の数は、9人である。選手は背番号によって認識される。かつては、背番号にも意味があった。一試合、9回を基本として、9回で決着がつかなかったら延長戦になる。一回は、裏表となり、攻守を交互に行う。攻守は、スリーアウトで入れ替わる。スリーストライクでアウトとなる。
 攻撃、即ち打撃には順序、打順があり、それを順繰りに繰り返す。打順は、打順に応じた役割がある。守備には、位置が9つあり、それぞれ役割が違う。
 フィールドは、スリーベースとホーム、即ち、ゼロベースからなる。
 この様に、野球は数の集合である。

 集合の元が複合的な要素である集合で重要になるのは、集合の階層である。

 純粋数学では、集合を無限化することが重要な意味を持つが、経済数学では、無限な自然数の集合をいかに有限化するかが重要となる。

 数は、一般化、抽象化を突き詰めたところに成り立っている。しかし、現実の世界は、特殊化、個別化、具象化された現実である。

 お金には色がないという。言い換えると数字は数以外の属性を持たないという事である。色がないことでお金はいろいろな働きをする。しかし、色がないだけではお金は何の意味もない。つまり、お金は色がないから便利だけれど、お金は色がないだけでは役に立たないのである。
 つまり、最初に色をなくして使うときだけ色づけをする。それが、お金の特徴である。

 貨幣というのは、無意味な物である。要するに、数を表象しただけの意味しかない。図柄や形式に芸術的価値や希少価値を見出す者がいたとしてもごく限られている。

 貨幣的価値と貨幣とを同一視すべきではない。貨幣とは、貨幣価値の尺度に過ぎない。尺度が価値を持つのではなく。
 貨幣的価値とは、貨幣その物を指すのではなく、貨幣が指し示す対象にあるのである。しかも、貨幣価値は、固定的なものでも絶対的基準でもない。貨幣価値は、その時、その時の条件によって変化する。即ち、相対的価値である。貨幣価値は、取引によってその時点その時点で決まる数値である。

 事業とは、いろいろな要素や働きの集合である。
 又、事業は、要素の集合と働きの集合に分けることができる。
 今日のような貨幣経済下における事業を構成する要素の集合は、人の集合、物の集合、貨幣の集合からなるのである。
 働きの集合には、第一に、組織を成立させるための働きの集合、即ち、権限と責任の順序集合、第二に、作業、動作の順序集合、貨幣取引、市場取引による働きの集合がある。

 又、働きを構成する順序集合には、階層がある。

 働きの集合は、場と構造を形成し、場や構造を構成する要素、部分を関係によって結び付ける。

 個々の場は、独立しており、場の働きは、一様である。

 仕事は、作業の集合であり、作業は、動作の集合である。仕事には、始点と終点がある。仕事は、作業の連鎖であり、作業は動作の連鎖である。故に、動作を辿っていけば、仕事の始点に戻る事ができる。
 仕事は、作業の連鎖だとすれば、作業には、一定の並びがある。作業が動作の連鎖だとすれば、動作にも一定の並びがある。一連の作業の並びは、一つだとは限らない。一連の動作の並びは、一つとは限らない。一連の作業の並びが一つだと限らないという事は、作業の並びは、直列的なものとは限らず、並列的作業の並びがある可能性を示唆している。一連の動作の並びが一つだと限らないと、動作の並びは、直列的なものとは限らず、並列的な並びがあることを示唆している。作業に一定の並びがあるとすれば、作業には、一定の順序がある。動作に一定の並びがあるとすれば、動作には一定の順序がある。作業に一定の順序があるという事は、作業の並びには、一定の規則がある。動作の並びに一定の順序があるとしたら、動作の並びには一定の規則がある。
 作業が全体の仕事の部分だとすれば、作業の集合は、仕事の部分集合である。動作が作業全体の部分だとすれば、動作の集合は、作業の部分集合である。作業が、仕事の部分を構成する要素すると、個々の作業は独立した行為である。動作が作業の部分を構成する要素だとすると、動作は、個々の独立した行為だと見なす事ができる。作業は、仕事の単位であり、動作は作業の単位と見なす事ができる。個々の作業が独立した行為であるとすれば、作業には、始点と終点がある。個々の動作が独立した行為の単位だとしたら、動作には、始点と終点がある。作業が部分であるとすれば、一つの作業には、前後の作業がある。動作が、作業の部分だとしたら、一つの動作には、前後の動作がある。即ち、仕事は、作業の時系列的順序集合であり、作業は、動作の時系列的順序集合である。これが仕事のアルゴリズムである。この様な、仕事の集合体は、自己相似的な性格を有する集合であり、フラクタルな対象である。

 事業は、系統だった仕事である。大規模な事業、系統だった仕事は、組織を背景として成立する。
 組織は、部門の集合である。部門は、人の集合である。組織は、人の集合である。組織を一つの全体とすれば、部門は、組織の部分集合である。部門を一つの全体とすると人は、部門の部分である。部門は、組織の単位であり、人は、部門の単位である。
 組織は、個々の部門が関連して一つの全体としての意思決定をする仕組みである。部門は、部門を構成する一人一人の働きを関連つけて統一された意思決定をする仕組みである。
 組織は、部門が結びつくことによって成立している。部門は、人が結びついて成立している。結びつくとは関連付けられることであり、関連つける力は、働きである。即ち、組織は、仕事の働きの集合である。働きは、権限の集合である。
 組織は、部門の働きの結びつきによって成り立っている。部門の働きは、権限の結びつきによって成り立っている。組織が部門の結びつきによって成り立っているとしたら、部門には、一定の関係がある。部門が、人の関係によって成り立っている。
 部門を構成する単位は、人である。組織を構成する単位は、部門である。個々の人間の能力には、限界がある。個々の部門の働きには限界がある。個々の権限には、境界がある。個々の部門には、境界がある。個々の権限には、範囲がある。個々の部門には範囲がある。部門の決定権には、優劣がある。権限には、優劣がある。部門間には序列がある。権限には、序列がある。個々の部門は階層的な構造を持つ。部門を構成する人には、上下の関係が生じる。組織を構成する部門には、働きに優先権が生じる。これが組織のアルゴリズムである。

 全体の方向を左右するのは、個々の要素間の働く力と個々の要素の働き、場に働く力である。組織には、全体の行動規範からくる力と個々の個人の倫理観、人間関係からの力が働いている。この様に組織に働く力が時には、熱狂や恐慌、暴走を引き起こすのである。

 会計は、取引の集合である。取引は、勘定の集合である。

 事業は、仕事と組織、会計の積である。

 会計とは、経済的価値を取引という操作を通じて会計的空間に写像する為の仕組みである。

 Aの運動や働きに連動してBの運動や働きが変化する場合、AとBとは関係しているという。AとBが集合である場合は関数という。

 市場経済は、取引の集合である。取引は、物的取引、人的取引、貨幣的取引に類別される。

 取引を分解すると単価×数量、或いは、単価×時間の単位に二つの型になる。

 この事は、物的取引の集合と貨幣的取引の集合の積、物的取引の集合と貨幣的取引の集合の積を意味する。

 この事は市場経済が、単純な貨幣取引上に成り立っているのではなく、人的取引や物的取引と掛け合わせた結果であることを意味している。

 会計現象も、また、取引の集合体である。

 集合において重要なのは、何を対象とし、何を全体としているかである。
 会計を例に挙げると、先ず、会計は、何を対象とし、何を全体とするのかを明らかにする必要がある。それは、何を目的としているのかによって導き出される。

 対象や全体は、範囲と働きによって定義される。範囲と働きは、目的によって規定される。即ち、合目的的なものである。

 会計の目的は、単位期間における費用対効果の測定と評価にある。費用対効果は、労働と分配(報酬)を調和させる目的で測られる。

 会計は、取引の集合である。故に、会計の対象は、取引である。取引は、勘定によって分解され要素化される。故に、会計が直接対象とするのは勘定の集合である。

 故に、会計の元は、勘定である。勘定は、勘定の持つ性質、即ち、属性に基づいて分類される。

 要素の性質とは、色や、形などがある。又、性質は、要素の位置や運動からも形成される。位置や働きは、関係を生じる。

 勘定は、性格に応じて任意に分類された位置と働きがある。

 勘定の性格は、現金との関わり方や時間価値との関係、利益との関係によって形成される。現金とは、実現された貨幣価値である。利益とは、会計の原則に従って測定された費用対効果の結果である。

 全体の構造を明らかにするためには、全体を幾つかの塊に分類する必要がある。更に、部分に分解していく。分類するための基準は、前提となる条件や目的に応じて決まる。

 更に、目的に応じ勘定は、幾つかの塊に分類することが可能である。例えば、資産を貨幣性資産と非貨幣性資産に分類したり、費用性資産と非費用性資産、流動資産と固定資産に分類したり、費用を固定費、変動費に分類することも可能である。

 会計は、関数である。

 先ず、数量、或いは、単位時間を単価に掛け合わせ、経済的価値を貨幣価値に還元、統一する。その後、勘定(類、class)に仕訳し、同じ類の勘定を加算、合計する。その後、単位期間に配分し、借方、貸方の差によって損益、貸借の残高を計算する。

 会計取引は、認識、記帳、仕訳、転記、集計、決算仕訳と操作されて変換される。

 会計では、先ず、取引を勘定に分解し、分解した勘定を、借方、貸方に仕訳する。次ぎに、仕訳された勘定を資産、費用、負債、資本、収益に分類し、総勘定元帳に転記する。

 会計は群である。会計は、勘定を元とした集合である。勘定は、単価と数量の積によって構成される。会計は、加法、乗法に関して群である。故に、会計は環である。

 数学というのは、対象を抽象化する事によって成立する。集合が数学の基礎として重視されるようになってきたのは、この具象的な対象と抽象化された対象との中間、接点に集合という概念が介在するからである。逆に言うと、集合は、抽象的な概念を具象化する際にも重要な役割を果たしていると言える。

 その典型が会計である。しかし、会計を集合や群という概念で捉えようという試みはまだされていない。それが、会計が数学としての発達を妨げている。しかし、会計が数学的事象であることは紛れもない事実である。

 しかも、会計が現代の経済の根幹をなす部分に位置することも厳然たる事実である。会計を数学として確立しない限り、現代経済、特に、資本主義の実体は明らかにできない。なぜならば、資本主義は会計制度の上に確立されている思想だからである。

 会計は、純粋数学と違い、現実の事象と深く関わっている。つまり、何の力もない数字の塊ではない。会計の数字には、現実の生活に働きかける力が宿っている。
 権利とは、何等かの強制力である。故に、債権というのは単なる数値ではない。債権には、対極に、同量の債務が発生する。この様な債権や債務には、経済を動かす力がある。債権や債務は、数字として表されているだけではない。強制力を持った、場合によっては、人の一生や社会を変えてしまうほどの力を持った数字なのである。

 日常、我々が生きていく為に必要な身近で起こっている細々な事と経済全体という現象とを結び付けて考えるのは困難なことである。しかし、経済というのは、我々の暮らしの延長線上にあることは確かなことなのである。
 集合というのは、経済というのを一つの全体として捉え、その中から、身近で細々とした出来事、事象を再認識していこうという試みなのである。




       

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