会議の後処理


 我々は、会議が終了し、一定の結論が出たとしても、だからどうするの。それで、どうしたらいいの。それから、どうしていのと言う思いに捕らわれる事が多い。それは何か。多くの人が会議開く事、会議で結論が出ると問題が解決されてしまったような錯覚に捕らわれるからである。しかし、実際は、何も片づいていない場合が多い。
 大凡(おおよそ)の会議は、終わりではない。多くの会議は、始まりである。
 つまり、会議というのは、一応の結論、決着を出したのに過ぎず。実際の仕事は、会議の終了後に始まるのである。

 だとしたら、本当に、重要なのは、会議の終了後の作業、仕事にある。むろん、会議の結論を軽視するわけではない。むしろ、会議の結論を尊重すればするほど、会議後の処理が重要になってくるのである。ところが、多くの会議の出席者達は、閉会後の問題には無関心である者が多い。だから、会議の実効力が上がらない。結果、会議なんて無駄だと言うことになる。しかし、それは、会議が無意味なのではなく。後処理をハッキリ決めていないことに原因がある。

 ここでは、便宜的に会議の後処理と私は書いた。しかし、会議後に会議での結論を実現するためには、後処理そのものが、会議の目的と化す場合が多い。つまり、会議は、会議が終了した時点でその本来の目的が姿を現すとも言える。
 憲法を制定する会議が終了した時、新しい国家の全体像が姿を現すように。
 そこに会議の本質が隠されている。

 会議の後処理というのは、後始末というのではなく。むしろ、後処理を決める事が会議の目的だと言ってもいい。会議とは、本来そういうものである。
 会議というのは、過去回帰的なものではなく。本来は、未来志向なものである。会議で決めたこと、どう達成するのか、どう実行していくのか、どう守らせるのかが重要なのである。会議でどんな立派なことを決めてもそれが実行されなかったり、守られなければ意味はない。決める事が目的なのではなく。決めた事を実行することが真の目的なのである。

 故に、会議は、目的志向の集まりなのである。ただ単なる話し合いの場ではない。会議は、目的があって開かれる集まりなのである。
 では、その目的とは何か。一つは、社会の規律、規範、即ち、掟や法を制定することである。今一つは、事業を為すことである。さらもう一つは、裁いたり、判断、意思決定をすること、即ち、決める事である。この事を忘れては、会議の意義は失われる。
 第一の会議の形は、議会型である。二番目の会議の形は、閣議型である。三番目の会議の形は、司法、裁判型である。しかし、いずれの会議も事後処理が為されないければ、会議の実効力はない。

 一見、何の目的もなく開かれているように思える会議でも、何らかの目的が隠されている。ただ、その目的に気が付いていないだけである。会議を成功させるためには、その隠された目的を明らかにして、爾後(じご)の活動にどう活かしていくか、繋げていくかにかかっている。目的を理解しないままに、漠然と会議を終わってしまうことは、最も避けなければならないことである。なぜならば、単に会議の効力が発揮されないだけでなく、爾後(じご)の会議の障害となることがあるからである。逆に言えば、無意識でも目的に合致したプロセスを踏めば、会議の有効性は保たれる。

 会議の目的には、一次的目的と二次的目的がある。一次的目的とは、会議を成立させている要因の目的であり、二次的目的とは、会議を主催、運営するための目的である。
 例えば、議会は、立法を目的とするが、それは、二次的目的であり、一次的目的は、国家国民の安全と福利を図ることにある。
 一次的な目的が明らかでないと二次的な目的が定まらない。一次的な目的が明らかでも、二次的な目的が明らかでないと会議を計画することはできない。つまり、一次的目的と二次的目的は、補完的な働きをしている。
 個々の会議の機能は、一次的な目的と会議の位置付けによって決まる。そして、会議の二次的な目的は、会議の働きから導き出される。
 
 企業にとって利益は、二次的な目的である。一次的な目的は、関係者、中でも、そこに働く者を幸せにすることである。会社がどれ程繁栄したとしても、そこに働くものが鬱々として喜ばず、また、幾多の取引業者の犠牲の上に成り立っているとしたら、何のための、誰のための繁栄であろうか。偽りの繁栄である。かといって、会社を食い潰してしまったら、元も子もない。利益を上げられない会社は、その存在そのものが社会悪なのである。

 会議にも同じようなことが言える。会議の二次的な目的に目を奪われると、会議の一次的な目的を見失う。しかし、一次的な目的ばかりを問題とすると会議が抽象的な集まりになり、実質を失う。一次的な目的と、二次的な目的を検証するのが、事後処理である。会議が終わった後に何をするのか、何を護るのかによって、会議の目的と成果は、測られるのである。

 会議の後処理は、会議の一次的目的によって規定される。つまり、会議に掛けられた案件は、会議で問題が処理された後は、本来の目的に帰るのである。法は、法が定まった後は、国家の規律を守るために発効されなければ意味がない。どれ程、崇高な理念でも、それが実現されなければ意味がない。必要な法であっても守られなければ、効力を発揮しない。問題は、会議で出された結論、決定をいかに実現し、守るかである。そして、会議の真の成果は、事後処理によって確定するのである。

 また、会議の成否も、会議の後処理によって決まる。会議の後処理を円滑にするためには、会議の議題をどう処理したかにかかる。逆に言えば、会議の成否は、会議の議題をどう処理するかによって定まるのである。そして、会議の成否は、会議の目的と成果、事後処理によって決まるのである。つまり、事後処理を意識して会議は進行されなければならない。自己完結的な会議は、それ自体が矛盾しているのである。

 会議の事後的な作業としては、会議そのものに関連した作業、議題や会議の結果に関連した作業がある。

 会議の事後処理は、会議の議題に直結している。事後的な処理に必要な要件を満たさなければ、会議の決議は無効である。旅行の計画で行き先を決めなければ、他の全ての項目を満たしたとしても旅行計画は向こうである。行き先が決まっていたとしても行く日が決まっていなければ、その旅行計画もまた向こうである。事後処理に必要な要件全てを満たしていなければ、会議の決定は効力を発揮しないのである。

 会議には、表に出ない、裏仕事が多くある。会場の予約、準備、機材の設営、出席者への連絡、出欠の確認と言った仕事がある。ごく小規模な会議を除いて、事務方を決めておく必要がある。小規模の会議でも最低限の事務は派生するから、議長以外、事務方を決めておく必要はある。事務方は、書記とは違う。しかし、書記が事務方を兼ねることが多くある。それによって、事務局と書記とを混同する者がいる。しかし、事務と書記とは、全く別のものである。同時に、書記は、兼務することができるが、事務は、独立した業務を持っている。故に、議長と事務だけは、担当を明確にしておく必要がある。

 会議に関連した作業には、後処理的な作業と次会の会議の為の予備的作業がある。これらの会議は、分けて考えた方がいい。会議の事務方は、あくまでも裏方に徹すべきなのである。

 事務方は、必ずしも会議に出席するとは限らない。事務局は、会議の裏方である。少なくとも大きな会議だと、事務局を担当する者が、全て会議に出席してしまうと、会議が成り立たなくなる危険性もある。会議中、議場の外の仕事、外との連絡事項などもある。しかし、事務方が一人も会議に出席していないとなるといろいろと支障をきたすことが多い。会議の結論は、次の会議の前提となるからである。また、会議の展開そのものが次の会議の下準備になることが多いからである。

 会議の成果は、会議に投入される資源(リソース)と会議によって生み出される生成物、成果物、生産物(プロダクト、デリバラブル・Deivaerable)によって現される。故に、事後の処理、事後の作業は、資源と生産物(プロダクト)を解析することによって洗い出される。
 リソースとプロダクトは、インプットとアウトプットと言い変えることもできる。入力と出力、投入物と産出物とも言えるのである。いずれにしても会議という、装置、ブラックボックスに情報を何らかの形で入力し、その情報を加工して出力する。ただ、会議の場合、それを出力するだけでは目的を果たしたことにはならない。それを事後的問題に繋げる必要があるのである。
 この様な会議のリソースやプロダクトは、会議が開かれるタイミング、背景、位置付けによって決まる。つまり、どの様な過程、状況を前提として、いつ、会議が開かれたのかによって決まるのである。前処理、前段階で開かれる会議におけるリソースとプロダクト(成果物)は、形式は同じ物でも、全く異質な物である。当然会議の目的も違う。たとえ会議の形式が同じものだとしてでもである。
 また、生な情報では、会議では処理しきれない、また、会議から出力される情報もそのままでは活用できない。故に、会議は、本会議とそれと前後して開かれる予備会議とによって構成される。本会議単一で存在するわけではない。

 会議に入力される情報で重要なのは事実である。会議は事実に基づかなければならない。会議中には、いろいろな意見が出されてもかまわない。しかし、会議に提供される資料、情報は、事実に基づかなければならない。なぜならば、偽りを前提とした結論は、いかに過程が精巧、正確、精緻でも偽りの結果しか出せないからである。つまり、会議は論理的なものでなければ、その信憑性が保証されない。それ故に、会議提出される資料情報は、どの様な根拠に基づき、どの様な経過、加工を経たのかを明らかにしなければならない。

 最近、国会がメールの問題で紛糾した。しかし、そのメールの信憑性が失われたとたん、国会の審議そのものが瓦解してしまった。元々、メールは、その信憑性を証明することが困難な媒体である。資料、情報は、その情報源が疑われたら、そこから導き出されたもの全てが疑われてしまうのである。それでは、議論が成立しなくなる。結局、国会の審議そのものがどこかへ霧散してしまい。発言者の責任問題だけが残ることになった。無惨なことである。国会の権能・意義すら疑われかねない事態まで発展してしまったのである。あまりに稚拙である。

 会議のリソースの信憑性は、その出典にある。それ故に、会議資料は、その根拠、情報源を明らかにする必要がある。
 資料には、一次的資料と二次的資料がある。株主総会を例にとると、決算書や計算書類は、二次的な資料で伝票や証憑は、一次的資料である。当然、二次資料である決算書は、一次資料に依拠される。一次資料の信憑性が揺らげば、二次資料の信憑性も揺らぐのである。

 会議のリソース(資料)は、前会議のプロダクト(成果物)によって決められる。そして、会議と会議を繋ぐ作業は、基本的には、会議資料の作成である。この様に、会議と会議は、プロダクト(成果物)とリソース(資料)によって結びつけられる。

 会議の後処理は、事実に基づいて為されなければならない。事実確認は、記録に依る。会議の記録は議事録である。それ故に、議事録は、内容が正確に再現されるものでなければならない。会議の決定事項に、憶測や推測、仮定が入り込んではならない。会議の結果は、意見ではなく。事実なのである。

 会議中にいかに議論、意見が闘わされようが、一旦会議が終了すると、それは事実となる。そして、事後処理は、会議によって出された結論、決議を事実として受け容れなければ成り立たない。つまり、会議の結論、決定は、事後処理の大前提となるのである。それを保障するためには、事後的記録である議事録が、会議の結論を正確に再現できるものでなければならない。
 もし、議事録に、議事録を賛成する者の意見、憶測、推測が入り込んだら、会議そのものの信憑性が失われる。つまり、議事録は事実に基づいて書かれなければならない。また、出席者の確認があってはじめて、効力を発揮する。故に、議事録の確認は、会議終了後直ちに行われなければならない。

 共産主義では、書記長が権力を掌握した。つまり、書記局とそれに繋がる事務局が党の実権を、そして、国家の実権を握ったのである。

 共産主義は、会議の事務局を支配することが、実権を握ることに直結した例である。この様に、事後処理と言っても会議の事後処理を甘く見るのは、間違いである。国家の最高意志決定機関の下準備をするという事は、結局、国権を掌握することにも繋がるのである。

 会議は、情報系の接合点である。会議は、いわばインターフェース部分である。それ故に、会議は、接合する組織や作業との関わりの中で位置付けられる。機能する。つまり、会議は、過程の一部、部品である。それ故に、会議を経由する情報は、追跡が可能で、検証することが可能なものでなければならない。逆に言えば、会議を一つのポイントとして情報を管理、制御することが可能であり、可能にしなければならない。会議と会議を辿れば、その時々の経過が解るものでなければならないのである。会議と会議が整合性がなかったり、順序が逆転していた場合、その過程そのものが成り立たなくなる。つまり、会議には、順序があり、過程があるのである。会議が成立しない原因の多くは、この過程や順序が無視されているからである。そして、この順序を決定付けるのが事後処理である。

 会議は、一定の過程の中に位置付けられる。先ず導入部分に位置付けられる会議。次に本論に位置付けられる会議。最後に結びの部分を構成する会議である。そして、それぞれの段階、過程において、会議は、その姿形を変える。その姿形は、後処理にも影響を与える。

 会議に求められる成果は、会議が開催されている段階、過程、位置によって違う。当然処理の在り方も違ってくる。

 会議の成果は、会議によって何が為されたか、達成できたかによって決まる。何を話し合ったとか、何を決めたかと言うよりもその後どうなったのか、つまりは、会議が終了してからが問題なのである。
 その意味では、会議では、会議後に何をするのか、何を護るかが、主要な問題点だとも言える。特に、キック・オフ・ミーティングやオリエンテーションは、その会議の性格上、会議そのものがその後の作業の洗い出しや段取り、役割分担に目的があると言ってもいい。

 会議のエンディングは、最終的には、コミュニケ、声明、宣言にまとめられるものもある。その場合は、一つの帰結に至る。しかし、そこで一つの終結に至ったとしても、結論を出すまでには幾つかの過程を経なければならないし、また、出された結果は、次に、やるべき事に繋がるものでなければ意味がない。次に繋がるものでなければ、それは、会議のための会議になってしまうからである。大切なのは、何を為すべきかである。

 会議は、会議なのである。会議上において、何らかの作業や行動が為されるわけではない。会議は、何らかの行動や作業、仕事、法を伴うことによって実質ができる。何も行動や作業、仕事、法に結びつかなければ、会議は、ただ単なる話の話になってしまう。決議や宣言が為されても実行されなければ意味がない。法を定めても効力を発揮しなければ無意味である。

 会議の本来の目的は、また、成果は、事後処理の成否にかかっているのである。




        


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