裁判型


 法治国家は、お役所仕事に陥りやすい。それは、法と道徳とを同一視した時に、現れる。法さえ守っていれば、良いのだという錯覚である。法治国家が、この様な錯覚に陥ると、たちまちに秩序は乱れ、生産性は低下する。法治国家こそ高い精神性と道徳によってその効果を発揮しうるのである。

 裁判型の会議は、同じ意思決定でも判定を主たる目的、機能としている場合に開かれる。

 裁判型とは、ディベート型でもある。

 裁判官や判定官を前にして、賛否二手に分かれて討議するのである。そして、両者の意見を聞いて判定を下すのが、この裁判型会議の特徴である。
 賛否がハッキリしている分、裁判型の会議は、一騎打ち的な激しい討議になることがある。それは、裁判が、多くのドラマになるように、劇的な要素を含んでいるからである。さらに、結果が明確に示されるのも裁判型の会議の特徴である。

 裁判型では、自分の考え、立場を明確にする必要がある。

 判定者が専門家である場合と一般人である場合によって裁判の在り方が違ってくる。
 予め決められた法に基づいて行われる裁判と裁判を通して隠された法を明らかにしていこうとする裁判とでは、最初から思想が違うのである。
 それは、会議や討議に対する根本的な思想が違うことを意味している。つまり、隠された法を明らかにしようとするのは、討議をただの討議として捉えるのではなく。法や審理を明らかにする手段として考えていることであり、もともと帰納法的な考え方に基づいている。それに対し、制定法は、演繹法的な考え方に基づいている。
 それは、法に対する根本的な思想の違いである。法は、不文律なのか、成文法なのかといった法そのものに対する認識の違いでもある。

 日本で裁判員制度を導入することになった。陪審員制度の変形と思われる。しかし、裁判制度と陪審員制度の違いは明確にされていない。
 だいたい、日本においてなぜ、陪審員制度を導入する必要があるのであろうか。その動機も国民に明らかにされていない。

 陪審員制度は、確かに、フランスやドイツといった制定法の国にも見られる。しかし、陪審員制度は、本来、コモン・ローを土台とした国家において有効なのである。制定法の国においても法の正義に対する確固とした信条が存在すること前提となる。国民国家としての国家理念である。

 陪審員制度は、一種の人民裁判である。

 国民国家としての理念が確立されていてはじめて陪審員制度は正当化される。つまり、国民が、確固とした正義の理念が確立されていなければならない。陪審員制度は、信じうる実体が明らかでなければ、ただのリンチになる。

 コモン・ローとは何か。それは、コモンセンスによって成り立つ。コモンセンスを常識と訳した日本人では、コモン・ローの真の意味は理解できない。コモンは、人民であり、コモン・センスは、人民の意志である。だからこそ、国民国家である英米において陪審員制度は成り立っている。
 コモン・ロー、即ち、法の背後にある何らかの実体、原理、基準、規範の存在を前提として成り立つものである。ならば日本人は何を信じるというのであろうか。

 翻(ひるがえ)って我が国はどうか。思想や言論界では、無思想の思想とか。反国家、反体制的な思想が支配的である。さらに、明確な国家理念や愛国心を全体主義的と否定している者が思想界を牛耳っている状況にある。しかも、日本人は、空気や言霊に支配されかねない国民性を持っている。つまり、国家正義や統一的な倫理観を頭から否定していて、また、自分の国を自分達の手で守ろうという意志がなくて人を裁くことなどできるはずがないのである。
 倫理や国家正義なくしてどうして人を裁けるのか。国家権力、国家正義を信じずに国家権力に基づいて人を罰することができるのか。それこそ暴力的である。

 制定法が国是である日本においては、法の解釈は、専門家に任せるべきである。

 民法ではなく刑法ならば問題ないという考えがあるが、それは間違いである。刑法であるならば尚更のことである。なぜならば、刑法は、人間性、人間の倫理、道徳に基づいた法だからである。
 裁判員制度が刑法、それも、死刑や無期懲役に相当する重罪を対象としているから問題ないとしているのはおかしい。それは裁くべき基準、特に、倫理的、動議的基準が明確であることが大前提である。何を善とし、何を悪とするのかを明らかにできないままに、ただ機械的に人を裁き、それが極刑となれば、それは、裁いた者も罪が問われることになる。裁かれる者が、死刑や無期懲役に処せられる可能性があるのであるから。間違えは、自分が殺人を犯す危険性があるのである。

 日本人は、何を信じて会議をしているのか。会議を通じて何を明らかにしようとしているのか。国民の意志や人民の正義に対する確信もないままに、制度だけを導入するのは、神を冒涜する行為である。
 先ず日本人は、何に信を置いて裁判をそして国家を建設しようとしているのかを明らかにすることが専決である。




        


このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano