会議の種類

 現代日本人の多くは、会議と言っても漠然としたイメージしか浮かばないと思う。その為に、会議は、一種類であり、会議には、いろんな種類があるという事に気が付かないか、気が付いていても軽く考えている人間が多い。本質的に会議に無関心なのである。
 大体、会議というと、議長が居て、書記が居てと言う程度のイメージでしかない。それでいて、いろいろな会議に出席してもまともに議長が決まっている会議に、出会したことがない。あったとしても儀礼的な会議である。
 それで、漠然とした考えてとりあえず会議を開く。会議と言うより、話し合いの場を持つ。それで話し合いが付かなくなる。
 会議には、予め準備が必要である。会議の成否は、事前の準備で決まると言われている。会議を準備するためには、会議の目的や役割、そしてそれに基づくルールが明らかにされている必要がある。ところが、日本人の多くは、会議に対する基本的認識が欠けている。だから何の考えもなしに、会議を開く。それで会議か紛糾し、収集がつかなくなる。それでありながら、会議の主催者は、会議が紛糾した原因が解らない。会議が紛糾した原因を出席者のマナーの悪さに転化するのが関の山である。自分達が悪いのではなく、出席者が物わかりか悪さの性にする。
 会議の準備と言っても日本人は、基本的に会議の準備、即、根回しだと思っている。しかし、根回しと言うのは、基本的に非公式な打ち合わせ、話し合いである。公式な会議ではない。いわば談合である。だから、後で表沙汰になり、問題になると収集がつかなくなる。その為に、日本人は、物事を表沙汰にすることは、事を荒立てることを意味して、極端に嫌がり、内々に処理することを好む。日本人以外から見ると、日本人でも部外者から見ると密談、秘密めいて見える。つまり、排他的に、目に見えないところで秘密裏に処理されているように見える。それが誤解を生む。密室政治、談合と言われる所以(ゆえん)である。
 さらに、日本人は、一人では何も決められないのに、話し合いによって決めるというのも苦手である。なんとなく、既成事実を作っておいて、不本意だけけれども、先例、前例と言った既成事実に則り、また、合議によって決められた様に見せかけるのが好きである。つまり、会議は、予め決められていることを追認するためのセレモニーに過ぎないのである。その為に責任の所在が明らかにできない。やってしまった事に対する責任は、取るが、決断したことに対する責任をとるというのが嫌いである。やったことに責任をとるというのは、潔いが、決めた事で責任をとらされるというのは、潔くないのである。だから、日本では、実行した者の責任は、問われるが決めた者の責任は問われにくい。
 大東亜戦争の御前会議が好例である。一体、御前会議というのは何だったのか。天皇陛下に発言権、決裁権が実質的にあったのか。なかったとしたら、では誰が実質的に決済を下していたのか。それが判然としていない。誰も決断をしないまま、国家の命運が定まったというのであろうか。陛下は、戦争を望んでいないとしたら、陛下が望んでいない戦争をなぜ防げなかったのか。
 また、戦前の日本人の行動も典型的である。結局、なぜ、日本があの泥沼の日中戦争に突入していったのか、誰が首謀者なのか、未だに、判然としない。一体いつどの様な会議で中国に対する政策が決められたのか解らない。気が付いてみたら、日本軍は、中国問題に深入りをしていた。それが、今でも国際紛争の火種になっている。こう考えると日本人にとって会議の在り方というのは、国家の根幹に関わる問題なのである。
 また、今日でも儀礼的な会議は、事務局が実質的に全てを取り仕切っていて、簡単な質疑があるくらいで、まともな議論がされた例(ため)しがない。事務局側も出席者に余計な発言をして欲しくない。議長がこの体(てい)たらくだから、書記など言わずもがなである。記録などまともに取られているのを見たことがない。むろん議事録の確認などされようもない。これでは、会議を、既成事実を作るために、ただ開いているというのに過ぎない。法的に決められた会議は、特にこの傾向が強い。ただ、法律で開催が義務づけられているから開いているに過ぎず、実質は、儀式に過ぎない。株主総会に代表される、総会が典型である。会議というのは、ただ開けばいいと言うのではない。
 それではかつての日本が判断を過ち戦争に突入したように、国民が国家を制御する事ができなくなる。会議の種類を理解し、会議の目的と機能によって使い分けることを覚えることが、我が国の独立と安全を守るために、不可欠なことなのである。

 会議は、予めルールが決められていなければならない。日本人は、何でも暗黙の合意を前提として行動しようとする。日本人の会議も典型である。腹芸が好例である。自分の腹の中を曝さない、即ち、自分の考えをお互いに最初、明らかにしておかないで、話し合いをする。そして、話し合いの成り行きを見て、お互いの腹のさぐり合いをしながら、落としどころ、決着点を模索する、それが腹芸である。しかし、それでは、武術のようなものと変わりがない。近代スポーツやゲームは、それでは成り立たない。近代スポーツやゲームは、先ずルールを決めて、それに従う事を明らかにしておかなければならない。それが科学である。
 スポーツを手本にしてみると解る。スポーツは、予め、ルールが決められている。ルールが決められているから公正さ、公平さがある程度保てる。ルールがなければ、公正も、公平も保てない。プレーの途中でルールが変更されたら、スポーツは最初から成り立たない。予め取り決めがされていなければならないのである。また、スポーツには、いろいろな種類があり、それによってルールも違う。故に、その種類毎にルールを覚えておかなければ会議は開けない。
 暗黙の合意に従った場合、同じ合意であれば問題がない。しかし、考え方の基本が違えば、合意も必然的に違ってくる。また、会議の目的や役割、形式によって適用されるルールも違ってくる。この様な複雑多岐にわたる様な物事は、広い世界では、暗黙の合意が成り立たない場合が多いのである。

 会議は、予め準備されていなければならない。そして、会議の種類は、基本的に会議のルールによって確定される。この様なルールは、事前の会議によって決められる。
 会議は、会議が生み出すのである。この母なる会議、原初的会議だけは、他の会議とは異質である。つまり、会議の規約が定まっていないのである。この準備会議だけは、慣行や慣習、一般に公正妥当と思われる規則によって開かれる。この原初的会議が準備組織として機能するのである。この準備会が発足した後で正式の第一回の会議が持たれるのが通例である。故に、通常、正式な会議が持たれる場合は、必ずその前に準備会が設定される。

 なぜ、会議の種類を分類しておく必要があるのか。それは、会議の機能による。つまり、会議は、部品に過ぎないからである。会議の種類は、会議の役割によって決まる。逆に言えば、会議の種類が解らないと会議の役割や目的も明らかにできないのである。
 会議の種類は、会議の必要性から求められるものである。会議の必要性は、組織における会議の役割によって決められる。会議の必要性は、組織からの要請である。組織における会議必要性を分類する基準は、目的、機能、形式によって決められるべきものである。また、会議は、規模によっても性格が違ってくる。

 故に、会議は、第一に目的、第二に、形式別、第三には機能別に分類できる。

 会議の目的には、第一に意思決定。第二に、調整。第三に、情報交換。第四に、情報伝達。第五に、情報整理、問題解決、第六に、儀式の六つがある。

 会議の目的による分類には、公式、非公式の分類がある。

 会議の形式による種類には、第一に議会型。第二に、閣議型。第三に、裁判型。第四に、円卓型。第五に、交渉型。第六に、教壇型がある。

 また、会議の形式による分類には、定型的会議と非定型的会議がある。

 会議の機能には、第一の採決。第二に、意見交換。第三に、質疑応答。第四に、指示、命令、通知、通告。第五に、確認。第六に、記録。第七に、指導、教育がある。

 また、会議の機能による分類には、定例的会議、非定例的会議がある。定例的会議は、発展して部門会議や幹部会のよう機関化することもある。
 また、時系列的に、定期的会議、非定期的会議の分類がある。非定期会議は、臨時会議とも言う。
 更に、時系列も過程に沿た分類もある。即ち、第一に、開始(イントロダクション)、第二に、中継的、また、個々の段階の節目の会議、マイルストーン会議、第三に、閉会、クロージングの会議である。

 月例会議のように、定型的、定例的、定期的会議もある。

 会議の性格は、目的、形式、機能の三つの要素の組み合わせによって決まる。また、一つの会議の中に議題や状況によって複数の要素が組み合わせられることがある。例えば、先ず、情報交換を目的として閣議型の会議で始まり、会議が始まったら、意見交換、質疑応答、採決という手順で最後は、意思決定を目的とした会議で終了したと言うようにである。会議そのものがプロセスであり、変化していくのである。その変化を予め予測し、会議を制御するのが、主催者や議長の役割である。

 会議の性格は、目的によって方向付けられ、機能によって制限され、形式によって制御される。この様な会議の性格は、会議を成立させている組織や仕事によって確定する。つまり、会議の目的は、組織や仕事からの要請に基づくものだからである。
 この様な目的、形式、機能は、会議の構成、原則、規則、権限、資格、配置、議題、式次第、出席者、役割、段取り、手順、手続きを決定付ける。
 これらに基づいて会議は設計され、準備される。

 会議は、規模によっても性格が異なる。第一は、数人で行う、打ち合わせのような会議である。第二は、十人前後の会議。第三に、二、三十人の中規模の会議。第四に、五、六十人から百人ぐらいまでの総会のような会議。第五に、百人以上の大会と言われる会議である。ただ、人数は一つの目安であり、規模によって会議の性格を特定できるわけではない。

 会議の種類は、構造的な分類をすべきである。構造的な分類というのは、対象を構成する要素を分析、分類し、その要素を組み合わせて上位の概念を分類することである。会議も外延的に種類を分類することが困難である。故に、内包的に分類する必要がある。

 会議は、公式・正式な会議と非公式な会議がある。公式、正式な会議は、厳格な規則によって行われる。それは、会議そのものに社会的な責任が生じるからである。正式な会議で決定されたこと、又は、承認された事は、法的な、又は、道義的、社会的拘束力が派生する。それ故に、必要な要件を満たしていて、尚かつ、それが記録され、立証されなければならない。それに対し、非公式な会議には、原則的にその様な拘束力は派生しない。ただし、それでも話し合われた内容によっては、責任を問われる場合もある。会議の重要性を自覚していなければならない。

 会議は、合目的的な集まりである。会議の目的は、会議の上位に位置する事業からの要請に基づいて決まる。会議は、部分である。部分である会議は、事業を構成する。事業は、会議と作業から成る。故に、全体としての事業からの要請によって会議の目的は特定されるべき性格を持つ。即ち、会議は、何らかの事業を遂行する過程で生じる集まりなのである。
 全体としての事業は、時系列的なものと、組織的なものに分類される。組織的な事業の部分を構成する会議の一部は定例化し、やがて機関化する。この様に機関化した会議は、会議の性格によって分類される。

 例えば、本会議、臨時会議、定例会議、委員会、評議会、理事会、代表者会議、準備会議、分会、事務局、役職者会議、部門会議、担当者会議、連絡会議などである。この様な分類は、機関としての会議を成立させる。そして、組織を設計する場合、組織の一部となる。この様な会議は、何らかの組織権限を有する場合がある。ただし、会議の全てを網羅しているわけではない。組織上における常設的な会議を指している場合が多い。
 また、時系列的に分類する仕方もある。例えば、準備会、説明会、反省会、打ち合わせと言ったようにである。この様な会議は、時系列的な順序を持っている。そして、それによって役割・機能が特定され、形式も想定される。

 通常会議は、前後に打ち合わせ会議のような補助的会議、予備会議を持っている。これらの会議は、本会議を準備したり、後処理を指示、確認する会議であり、機能的には、本会議に従属するか、一部に属する性格の会議である。しかし、目的も、機能的にも、形式的にも、異質な会議である。事務の連絡や会場の手配と言って実務的な準備的な打ち合わせの傾向が強く、事後の会議は、議事録の確認や決定事項に基づく指示、反省会と言った事後処理的、継続的、連絡的処理傾向が強い。それに従って会議の形式も違ってくる。即ち、事前の会議は、会議の準備の打ち合わせや式次第の確認といった連絡型会議なのに対し、事後の会議は、事後の確認や指示と言った伝達型会議に基礎になる。

 会議は、目的を特定できるか、目的を特定できないかによって単一的な会議と複合的な会議に分類できる。単一的な会議は、大会や総会のように、最終的な目的を限定的にし、目的を明らかにした上で開催される会議である。この様な会議は、事業や組織の立ち上げや最終報告や決定を行う場合に内容を集約する形で開催される。
 それに対し、複合的な会議とは、何らかの事業活動や組織活動の過程で、活動の調整や情報の交換と言った事業や組織の遂行上の必要性から開催される会議である。

 会議は、いわばインターフェースである。インターフェース、接続端子としての種類を会議は持っている。複合的会議は、この接続的な位置でその機能を発揮する。

 複合的会議は、仕事、組織の断面である。この様な会議は、組織や事業を内包しているものがある。この様な会議は、会議の構成と、組織、事業計画が一致していなければ有効ではない。
 複合的会議の目的は、限定できない場合が多い。会議は、一連の作業や情報を集束した集まりである。その一つ一つの束、線によって目的が異なってくるからである。つまり、会議を構成する要素によって会議の目的は、異なってくる。そして、一つの会議は、複数の要素が寄り集まって形成されている。

 作業や情報は、個々の要素毎に集約され案件となる。そして、案件毎に処理の仕方が違ってくる。この様に複数の要素を集合させて一括的、又は、個別の案件とし、それを議題化して処理するのが複合的会議である。

 ある意味でスポーツも会議の一種といえないことはない。言葉を動作に置き換えた者である。オークションのような集まりも会議の変形といえなくもない。会議というのは、基本的に人々が集まって、物事を処理する場である。この様な情報を処理する場は、人間関係、生活の中心をなす場である。特に、近代国民国家は、会議を中心にして発達してきた。会議の在り方は、国家の在り方そのものを決めときたと言っても過言ではない。

 会議の在り方を漠然と一つに決め付けている人達がかなりいる。そして、自分の漠然としたイメージで何の準備も用意もしないで会議を開く。そして、会議は無駄だと決め付けるのである。

 特に、地方自治において、会議は形骸化している。スイスや、アメリカでは、地方の会議の方が力を持っている場合すらある。彼等にとって遠い国家の話よりも、身近な話の方が重要なのである。また、自分達が手作りで、直接作り上げたのが、地域コミュニティだからである。そこに日本人は錯覚がある。

 民主主義、地域コミニティが築き上げてきた。古代ギリシャにしても、中世ヨーロッパにしても、アメリカにしても都市国家に代表される地域コミュニティが民主主義の担い手であり、上からの改革によって民主主義はもたらされたのではない。民主主義の原点は、国民一人一人の権利意識、義務感であり、それが会議に集約されたことによって成立したのである。この事を理解せずに民主主義は成り立たない。それ故に、スイスは武装中立を打ち出したのである。非武装というのは、それ自体で、地域コミュニティを土台にした発想ではない。なぜならば、地域コミュニティは、常に、国家権力も含めた外敵からの侵略に襲われていたからである。自分の権利と義務は、自分達一人一人の力で守る。その意志がなければ国民国家は、成立しない。そして、その国民の意志が凝縮された場が会議である。故に、民主主義は、国民国家は、会議から生まれたと言っても過言ではない。つまり、会議は、民主主義の国民国家の母胎なのである。
 会議の原則や規則を理解し、また、作り上げていかないかぎり、民主主義は護ることはできない。そのことを日本人は理解していない。

 国民国家では、自分達で国を作れる、国を変えられるという確信がなければならない。その中核は、議会、閣議、司法、即ち、会議である。国民国家は、会議を中心にして設計される。

 規則を作ると言う事。ルールを取り決めると言う事。かつて、イギリスでは、フットボールやスポーツをする際、予め、代表を出し合って話し合いを持った。スポーツは、その話し合いから始まるのである。日本人は、何でもルールは、所与の決まり事だと考えている。法というのは、御上が決めるもの、天の定めのように受け止め、その解釈ばかりに務める。その為に、取り決めたことの本質さえ失われることすらある。法やルール、契約の本質は、約束なのである。その約束を決める場が会議である。だからこそ、民主主義において議場は、神聖な場なのである。国民国家において、全ての母、始源の場が会議場なのである。

 とりあえず、ここでは、会議を意味する英語の意味を書いておこう。(「企画者用語事典」 忰田進一著  明日香出版社)

 まず、ミーティング(meeting)とは、会うこと、接触することからひろく、会議打ち合わせの意味に使われている。

 ギャザリング(gathering)とは、集まり、集会を意味し、集めること、収集や採集の意味もある。

 アセンブリ(assembly)とは、集まり、(一般に)議会を指す。(ジーニアス和英辞典)

 シンポジウム(symposium)とは、論文集を意味し、特定のテーマについての自由な討論会を指す。

 フォーラム(forum)とは、古代ローマの大広場を意味し、一般に感のあるテーマを討論する場である。

 パネルディスカッション(panel discussion)とは、テーマと討論者を予め決めて行う公開討論会である。

 ディスカッション(discussion)とは、論文などを指し、討論や考察に用いる。

 ディベート(debate)とは、二つに分かれて討論をすることである。

 ネゴシエーション(negotietion)とは、交渉の場、談判を指して言う。

 セッション(session)とは、立ち会いとか、開会、そして、会議の意味である。discussionの略式の意味もある。

 コミッティ(committee)とは、委員会を一般に言う。

 コングレス(cogress)とは、米国議会を指して言い、正式な会議や国際会議、大会をいう。

 コンファレンス(conferrence)とは、会議、相談、面談を言う。

 コンベンション(convention)とは、合意、(国家、個人間)の協定、協約をいい。教育、宗教、政治などに関する公式の集会や代表者会議、年次総会などを言う。また、社会的な慣例、因習、仕来りなども意味もある。

 コート(court)とは、法廷、裁判し世の意。また、宮廷、王宮、大邸宅などにも使われ、御前会議のような用いられ方もする。委員会や重役会議にも使われる。

 カウンシル(council)は、1(公の)会議、評議、審議。2評議会。各種機関の公式名称にもついる。3地方自治体。4代議員団、閣僚団。5宗教会議。6(形容詞的に)議員用の;公営のの意である。(ジーニアス英和辞典)

 ハウス(house)、文字通り家のと言う意味だが、アメリカでは議院、議事堂、議会を指す。

 ダイエット(diet)は、議会、そして、(政治的、宗教的な)公式の会合を示す言葉である。

 ボード(board)とは、第一に、会議。第二に、委員会、評議会、協議会、役員会などを指して言う。また、a board of directors で理事会や重役会を言う。

 パーリメント(parliament)とは、話し合う(parlia)ところ(ment)から議会の意に用いられる。

 パーティー(party)とは、社交的な会。宴会。集まりを指し、政党の意味にも使われる。

 テーブル(table)とは、文字通り、テーブルを囲む、テーブルにつくで会議そのものを指す。

 オリエンテーション(orientation)とは、方向性や方針を示すという意味で、立ち上げのための説明会のような会議を指す。

 ブリーフィング(briefing)とは、指示や報告のための短い会議を言う。ブリーフだけだと、要領書のような文書を言う。

 ガイダンス(guidance)とは、指導、案内、指揮、手引きと言った意味で、説明会を指して言う場合が多い。


参考文献 「スポーツルールは、なぜ、不公平か」 生島 淳著 新潮社
       「スポーツルールの社会学」 中村敏雄著 朝日選書
       「オフサイドはなぜ反則か」  中村敏雄著 平凡社
       「企画者用語事典」 忰田進一著  明日香出版社




        


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