実際に会議を開催する時、肝心なのは、会議の設計である。会議は予め設計されるべきものである。なぜならば、会議は無形な装置だからである。
日本人は、会議が予め準備、設計されるものだと言うことが解らない。結局、集まって話し合えば、事足りると思っている。だから、日本的な会議は、耐久性が不足している。過熱したらすぐに壊れてしまう。そのことを日本人は理解していない。最初から耐久力がない装置をフル活動させようとするから、会議は暴走する。暴走した後で、会議の参加者や事務局、責任者の性にする。しかし、その様な会議は、最初から破綻しているのである。
会議の成否は、準備段階で決まる。準備をするためには、会議の目的と機能を明らかにしなければならない。会議というのは、繊細な装置なのである。それも人が構成する装置なのである。
会議の基本的機能は、事業管理と組織管理の二つがある。ただいずれにしても、プロセス管理である。つまり、事業や組織の制御である。
会議の主要な機能は、プロセス管理である。プロセス管理のための会議の機能は、第一に、立ち上げ・開始。第二に、中継・連絡。第三に、接続。第四に調整。第五に、意思決定。第六に、広報。情報伝達。第七に、統合、統一。特に、意思統一・作業統一。第八に、記録。第九に、終了である。
事業や組織の制御のために、情報処理、情報交換、情報伝達がある。情報処理とは、情報の加工であり、情報交換とは、双方向の情報の働きであり、情報伝達とは、一方通行の情報の働きである。
情報処理には、意思決定、調整、選別、分類、整理、選択などがある。ただ、情報の処理は、最終的には、意思決定に繋がる。
故に、会議の機能は、第一に意思決定、第二に、情報の交換、第三に、情報の伝達の三つに要約される。
この様な会議の機能は、会議を成立させている、即ち、会議を部品とする事業や組織全体から要請されることによって形成される。
会議の機能は、上位の事業や組織の機能に制約を受ける。そして、最終的には、事業の遂行、組織運営に収斂する。
この様な関係は、国家と議会に端的に現れている。間接民主主義国の議会は、選挙制度が支えている。選挙制度は、会議の在り方から機能まで決定付ける。つまり、議会と選挙制度は一体の構造物である。
会議の機能は、基本的に情報系統である。故に、情報の流れと処理に関連した働きである。即ち、プロセス管理である。
会議の結論に注目する人は、会議の結果に囚われがちであるが、実際は、会議で重要なのは、プロセス管理である。この点の錯誤が会議の設定間違いを生じさせる最大の原因となっている。つまり、結果を重視して過程を忘れているのである。
プロセス管理である会議は、一種の無形な装置、仕組みである。つまり、会議設計の要領は、無形の装置を設計する点にある。
会議の機能は、会議を構成する要素によって発揮される。つまり、会議が要求される機能は、上位の事業(しごと)、組織からの要請によって個々の要素の集約されるからである。
会議を設計するためには、会議を成立させる機能の要素の特性を理解しておく必要がある。更に、上位の事業、組織の全体像、前後の作業、上下の組織を把握している必要がある。会議が成立するためには、前提条件がある。それが会議の要件である。
会議の運動を構成する機能の要素は、第一に、決める。裁く。承認する。第二に、聞く。第三に、話す。話し合う。第四に、伝える。第五に、提案する。第六に、説明する。教える。第七に、調整する。調停する。第八に、交換するである。これらの要素が組み合わさって会議の機能は、発揮される。
第一の決定する、裁く、承認するは、基本的に表決を必要とする。表決にも、多数決、全会一致、全員一致、投票、一任などがある。第二の聞くには、質疑応答がある。第三の話すには、具申、意見交換がある。第四の伝えるには、通知、通告がある。第五の提案には、上申、答申がある。第六の説明や教えるには、オリエンテーション、教育、研修がある。第七の調停には、打ち合わせがある。第八の交換には、相談、連絡がある。
この様なパーツを組み合わせ事業や組織の段階に応じて情報を処理をしていくのが会議である。更に、会議を設定するためには、処理の仕方によって状況や場所、段取り手順を決める必要がある。つまり、会議設計とは、この様な部品をどの様に組み合わせ、組み立てるかに要領がある。
例えば、意見具申の上、質疑応答をした後に表決に移り、その結果に基づいて、指示を通達するという具合である。
このプロセスを議題、テーマ毎に繰り返す。それが会議の基本である。
会議の機能は、個々の議題の目的に反映される。その上で、個々の議題テーマの処理方法を確定する。即ち、会議は、個々の議題毎に目的やプロセスを設定し、それを束ねることによって成立する。それ故に、会議の機能を決定するのは、会議を構成する個々の要素である。
会議の全体を設計するには、更に、会議の全体の枠組みをする必要がある。この枠組みは、会議の前後の作業との接続部分を含む。即ち、前回の議事録の確認、ないし、決定事項の確認、経過報告と会議の成立要件の確認と議長の紹介、今回会議の予定、議事進行上の注意、そして、事後処理と今回の会議議事録の確認である。
会議における決定事項。つまり、会議で決められることはどんなことがあるか。これは、会議の基本的な機能に関わることである。第一に、法。ルールや規則である。第二に、やるべき事。やるべき作業。第三に、役割分担と、それに伴う権限、責任。第四に、期日。日程。第五に、予算。第六に、資産、財産の処分。第七に、手続き。第八に、権利と義務。権利と義務には、構成員の入退会、除名が含まれる。第九に、他の組織、団体との交渉や契約。国家で言えば条約の締結。第十に、宣言。これは基本的考え方や方針、構想、誓約などである。そして、決定には、採用、否決、承認、信任、保留、改正、変更、廃棄、削除なのどがある。
出席者の判定には、賛成、否決、棄権の三つがある。採決に際し、出席者は、いずれか自分の意志を明確に表示しなければならない。
これらが会議の機能を決定付ける。つまり、会議は、会議を構成する事業や組織を制御する事が本来的な役割なのである。故に、会議の機能を有効にするためには、人が集まり、情報を交換し、一定の決断をするという要素を一連の過程の中に配置する必要がある。その上で個々の会議を位置付け、会議の目的を決定する必要があるのである。
日本人は、会議に対する思いこみや先入観が強い。決めつけがある。例えば何でも多数決で決めなければならないとか。だから、表決に至ると当惑をする。大体、日常生活で物事を多数決で決めると言う事はあまり見ない。力のあるものに従うのが通例である。力のあるものと言っても根拠はない。声が大きいとか、強引な人間の意見に従っているだけの場合が多い。そのくせ、会議では責任が曖昧になる。これは、おかしい。会議は、責任の所在を明らかにするとともに、公平、公正な決定を保障する集まりでなければならない。
例えば多数決原理である。多数決と善悪は、関係ない。多数決は、議案の処理方法の一つに、選択肢の一つに過ぎない。ところが、多数決を絶対視する傾向がある。即ち、多数決で決められた事は、正しいとか、民主主義は多数決であるといった考えである。多数決と言っても、多数の定義にはいろいろある。また。多数決の取り方にもいろいろある。会議において多数決という場合、会議場において要件を定義し、冒頭に承認をとる必要がある。つまり、勝手に多数決を決め付けたり、定義されることは許されないのである。この様に、会議は、一つ一つの定義をその都度確認し、了承をとらなければならない。それが会議の基本的ルールなのである。
表決も会議のルールである。反対意見が通らないからと言って表決を遅らせるのは、議会政治そのものを否定する事である。大体、党員の数で、最初から成否が決まっているのでは、会議を開催する意味がない。会議の基本は、話し合って決める事である。話し合いの結果、考えが変わることもあり得る。また、それを前提として会議は成り立っている。会議の途中で自分の意見を変えられないのでは、会議は、機能しない。会議とは、話し合いの上、決めるための集まりなのである。だからこそ、表決、採決が必要なのである。そして、表決や採決のルールを予め決めておいてから会議は開かれなければならないのである。もし仮に、自分が行った採決によって懲罰を受けるようだと、会議の構成は保たれない。投票は、自分の責任かで行うものであって、強権を持ってこれを抑圧すれば、議会制民主主義は有名無実となる。特に、国会議員の身分は、選挙民が保障するものである。国会議員が、自分の意見によってその地位を危うくされるとした、既に、議会制民主主義は破綻している。
質問する側と質問する側では、一般的に質問する側が攻撃側である。日本時は、何でも、話している方が攻撃的に見るが、実際は、質問をする側が攻撃側なのである。意見具申と質疑応答の基本的な差が解っていない。先日も国会の予算委員会で質疑応答の場面で意見具申をしていた国会議員がいる。これは、議員としての基本的資質の問題である。国民を代表して国政に参加する国会議員が、意見具申と質疑応答の区別もできない。これは、国民として恥ずべき事である。
結局、日本人は、会議をどう運用したらいいのか解らないのである。と言うよりも会議そのものが解っていない。だから、下を向いてうつむいているか、わけの解らないことをわめいているしかない。基本的ルールが守られていないのである。