会議の準備は、会議が企画されて時から始まっている。会議が始まってから、事前に配布しておく必要がある資料が配られたり、議題や目的をどうするか検討されるようでは、会議が成功するはずがない。況わんや、会議が始まってから準備を始めるなんて言語道断である。
継続的な会議は、前回の会議が終わった時には、ある程度の準備も終わっていなければならない。
家を建ててから設計図を描くのではない。設計図に基づいて家を建てるのである。当たり前なことである。その当たり前な事が、会議では為されていない。会議の直前になって議題の打ち合わせや式次第をどうするかが検討されたりする。
会議の準備は、一つ前の会議が終わった時から遅くとも始めなければならない。なぜならば、会議の準備は議事の進行に基づいてなされなければならないからである。さらに、会場の手配や資料の準備は、それ以前に始まるものすらある。会議の準備というのは、想像以上に早く始めなければならないのである。
会議には、設計図が必要である。
そして、会議の設計は、都市計画や建国、組織設計にも繋がるスケールの大きなものなのである。それでいて、誰でもやろうと思えばできる。さして、専門知識もいらない仕事なのである。
設計図なしにできる仕事というのもないわけではない。しかし、それには、前提がある。先ず小規模な仕事であると言うことである。それから、それを担う者が仕事に精通しているという事が前提となる。個人の邸宅ぐらいなら、腕のいい職人なら図面なしに立てることは可能かも知れない。しかし、ちょっとしたビルとなるとそう言うわけにはいかない。大体、図面がなければ、違法建築になる。通常、企業のちょっとした業務は、三年が工期である。建築や建造物で三年を工期としている仕事というのは、かなりの大きな仕事である。つまり、企業の業務というのは、日常業務は大したことがないように見えても仕事そのものは、かなり大規模なものなのである。それを図面なしで行うというのは、最初から無謀である。また、小さな家であっても図面なしに建てられるには、相当の修練が必要である。素人が建てられるものではない。それを設計図もなしにいきなり仕事にかかろうとする。挫折するのは、当然の帰結である。
ちょっとした企業には、大概、会議室がある。議場、裁判所、閣議と国家は、会議体を組み合わせることによって成り立っている。それなのに、どちらかと言えば会議は邪魔物扱いをされている。会議はないにこした事はないとか、無駄な会議をいかに省くかという具合にである。そして、会議をまともに扱った本や研究は、あまり、なされていない。会議には、ルールが必要だと古来から言われているのに、会議のルールは確立されていない。確立されていないどころか端緒にも付いていない。だから、会議が無駄になる。そして、無駄な会議は有害である。結局、会議撲滅運動が盛んになるのである。しかし、企業は一種の会議体である。組織は、一種の会議体だとも言える。ならば、会議の在り方を明確にし、どの様に会議を準備するかを明らかにする必要がある。
会議を準備する時、一回一回の会議を独立したものとして捉える傾向がある。しかし、会議は、単独で存在するものではない。前後の会議や作業、仕事、組織全体からの関連で捉えないと何を準備すべきかが解らない。会議の準備は資料の作成だけではないのである。むしろ資料の作成は、主体作業ではなく、また、絶対不可欠な作業ではなく。どちらかというと補足的な作業である。会議の資料が間に合わなくても会議は開けれるが、会議場の手配が済んでいなければ、また、出席者への通知、会議の招集手続き、日程調整が終わらなければ、会議は開けないのである。
会議を開催する際、まず最初に問題になるのが、会議は、誰によって、何のために招集されたのかである。
会議の招集は、誰が、どの様な権限に基づいて、誰に対して行うかが問題となるのである。そして、会議の招集に関わる費用と労力を誰が負担するのかである。
会議の設立意義である。この点を日本人は蔑(ないがし)ろにする。面倒くさいことや厄介なことは後回しにしてとりあえず会議を開いてしまえ、やってしまえ、始めてしまえとやる。その結果、会議が座礁(ざしょう)する。失敗の原因は、面倒くさいこと、厄介なことを後回しにしたからである。なのに、言い訳ばかりをして、原因をハッキリさせようとしない。そして失敗を繰り返す。挙げ句に、会議無用論である。永久に問題は解決されない。そして、独裁者を待望するようになる。
どんなに小さな会議でも主旨、目的がある。それを曖昧にしていたら、何を準備していいのか解らない。面倒臭がらず、先ず、その主旨、目的を明らかにすることである。準備段階で、主要なメンバーが集まって協議することである。当然な事だが、これを協議する場も会議である。
会議を準備するためには、先ず、会議の成立要件の確認が必要である。会議の概念を明らかにしなければ準備に入れない。何を目的として、何をしようとするのか。それによって準備する物が違ってくる。好例が資料である。資料は、議題の論旨に沿って作られるべき物である。だとしたら、議題の論旨の組み立てがハッキリしないと、資料は作れないのである。
これらの問題が片づいたら、次に、本会議の具体的な設計である。
会議の設計は、第一に概念設計である。第二に、人のレイアウト。第三に、構成のレイアウト。第四に、時間のレイアウト、第五に、空間のレイアウトがある。
会議の主旨目的は、概念設計の部分である。この概念設計の部分が済んだら、次に役割分担、即ち、人的レイアウトの設計をしなければならない。
会議の準備を担当する部署には、第一に、会議を主催する者。第二に、議長、あるいは、議事の進行を司る者。第三に、事務を司る者。第四には、議題に関わる者。第五に、出席者。第六に、記録係の六つがあり、それぞれに仕事がある。第一が主催者である。第二が、議長ないし、司会者である。第三が、事務局である。第四が、発言者、提案者、報告者である。第五が出席者である。第六が、書記である。
議事を司る者は、第一に、議案の検討。第二に、議事進行の手はず。第三に、議事の段取り。第四に、式次第の検討。第五に、書記との打ち合わせ。第六に、発表者との打ち合わせ。第七に、会場のレイアウトの指示と確認をしておく必要がある。
議事を司る者は、議事の進行全般に責任を有するからである。
特に、議事の時間管理は、議事を司る者が最も注意しなければならない要件である。会議が一定の時間で終わるように配慮するのは、議長の最低限の条件である。
次に、実際の会議の招集手続きと事務である。これは、事務局の仕事である。
事務方の仕事は、第一に、会議場の準備。設営。第二に、招集手続きと事務。第三に、日程の調整。第四に、事前通知事務。第五に、器材・資料の準備。第六に、事前手続き。例えば、事前の決済事項、報告事項、閲覧事項の正式手続き。事前の資料配付等である。第七に、関連事務。例えば、会議費用の出金手続き等である。第八に、当日の受付、出欠の確認、来賓の送迎と言った事である。
最初に考えなければならないのは、会議場の広さ、環境、レイアウトである。会議場の広さ、環境、レイアウトは、会議の主旨、目的、会議の規模によって決まる。会議の規模は、主として出席者の数である。
会議の場所であるが、本来、会議の場所は、人が集まれる場所ならば何処でも良い。喫茶店でも、ちょっとした広場でも、会議の主催者が、納得すれば、会場はここでなければならないと言う絶対的理由はない。ただ、会議の成果は、会議場に左右される。場所の設定を誤れば会議を成功させる確証がとれなくなる。会議の場所は、基本的に何処でも良いが、反面、会議の成否を決定付ける要因でもある。
会議場のレイアウトは、会議の主旨、目的、そして、種類によって決まる。特に、会議の種類は、会議のレイアウトを決めるための決定的要因となる。
会議のレイアウトは、目的によって違ってくる。場合によっては、必要な数だけ会場を用意する必要がある。情報を伝達する会議と、意思決定をする会議では、その目的からして違い、必然的に会議の進行の仕方も違ってくる。ただ、通常の会議は、複数の目的を持って開かれる上に、予算的、時間的制約を受けている。それでも、会議を成功に導きたければ、目的によってレイアウトの変更ぐらいはすべきである。
会議場の席のレイアウトには、第一にロの字型、第二に、コの字型、第三に、円卓型、オーバルテーブル型、ペンタゴン型、第四に、教室型、第五に、講義室(日本や米国の議会型)型、第六に、劇場型、第七に、対面型(英国議会型)、第八に、裁判所型、第九に、司令室型(閣議型)、第十に、宴会型、それに、日本固有のお座敷型がある。その他にも、それぞれの民族や宗教によって固有の形を持つものがある。
情報の伝達や説明会などは、第四の教室型や第五の講義室型が適している。それに対し、討論を含むような会議は、第七の対面型や第八の裁判型が適している。また、問題解決やグループワークを目的とした会議には、宴会型やお座敷型が有効である。また、対等な会談を前提とする国際会議などは、円卓型が適している。この様に会議のレイアウトは、会議の目的や用途によって決められるべき事である。
また、短時間の打ち合わせには、立ったままでするスタンディングオペレーション形式の会議もある。
事務局の主要な仕事は、会議のコスト計算と物的な準備である。会議費用に関して、以外と見落としがちである。しかし、会議費用は、馬鹿にならない。それは、会議にかかる直接的経費だけではなく、会議に出席する者の費用が馬鹿にならないからである。業務上の会議では、出席者の人件費も忘れてはならない。また、誰が、その費用を負担するのかも重要な問題である。
資料が揃っていなければ、会議を開くなと言うぐらい会議資料は、重要な必要項目である。会議資料を準備するのは、事務局である場合と、発表者である場合がある。大体の場合は、発表者が原稿を用意し、事務局がそれを資料にまとめ上げ、出席者に配布する。いずれにしても、資料の準備には、事務局は関与しなければならない。
定例定期な会議は、業務の一環の中で位置付けられる。それ故に、仕事の締め日と会議の議題、提出資料とは密接な関係が生じる。この様な会議は、業務の一部なのである。
作業は、動的なものである。最終的には、動作に還元できる。それに対し、会議は、静的なものである。それ故に、計画を作成する時は、予め会議を設定し、その後で会議と会議を繋ぐように作業を組み立てると計画は、立てやすい。言い換えると、個々の作業そのものが、会議の準備となるのである。
また、会議の資料の作成過程は、作業に置き換えることができる。例えば、調査資料の作成過程は、調査そのものの作業を意味する。その為に、調査という無形の作業を組み立てるより、調査書の作成という有形のものの作成過程に置き換えることで、作業を検証することが可能になる。つまり、計画は、会議の式次第と、会議に提出する資料によって目に見えるように、即ち、視覚化できるのである。
発表者は予め自分が発表する内容に関して、議長と事務局に打ち合わせをしておく必要がある。それによって議事の式次第や処理に重大な影響が生じるからである。特に、必要な資料、器材に対しては、事前に準備しておく必要がある。この重要で、当たり前のことが満足になされていない例が多く見られる。これでは、一定の時間内で自分の担当している議題を処理することはできない。会議が失敗する最大の原因は、事前の準備不足に負うところが大きい。
また、常に対案が出せるように、準備をしておく必要がある。問題を一括的に処理するのか、個別的に処理するのか、今回の会議でどの程度の結論を出そうとしているのか、予め考えておく必要がある。
よくオール・オア・ナッシング的な発想をする者がいる。会議も一回限りであるような捉え方をする。そう言う者に限って結論を焦って会議を台無しにする。
例えば、旅行を計画する場合にも一足飛びに宿泊地を特定するのではなく、まず参加者の希望を聞き、幾つかの地域に絞り、その中で、候補地を選びという具合に段階的に決定されていくのが通例である。
何回ぐらいの会議で、どの程度の結論を出すべきか、その大枠を最初に設定し、その範囲内で段階的に決定していくことを予定すべきなのである。そうなると一つの会議だけで考えるのではなく。一定の段階の範囲内で会議を位置付ける必要がある。そのことを発表者はよく熟知して会議に臨まなければならない。
出席者は、予め主旨、目的を事前に理解し、また、時間や場所、そして、準備しておく事、やっておく事をよく確認しておく必要がある。また、会議に出席するに当たっては、自分に課せられる権利と義務を理解し、必要な手続きを終わらせておく必要がある。会議の性格によっては、重大な責任が生じることもある。しかし、会議は、民主主義の原則であるから、怖れずに積極的にいろいろな会議に参加することは有意義なことである。
会議の記録は、会議に出席した者の、責務になる。それ故に、会議の記録は正確に取られる必要がある。また、記録された内容に関しては、出席者に確認をとり、承認を受ける必要がある。会議の議事録は、決裁書や契約書に準じる扱い、効力を発揮することがあることを忘れてはならない。一例を挙げれば、株主総会議事録は、公文書である。
議事録をとらない会議が多くあるが、日常的会議であっても決済事項は、業務上の指示書、決裁書、稟議書と同じものである。否、それ以上の効力を持つこともある。また、他部門、他者との打ち合わせは、それが契約書に準ずる扱いを受けることもある。記録もないのでは、後でトラブルの原因となる。場合によっては、民事上の訴訟の種にもなる。簡単な打ち合わせでも記録を残し、遺漏の内容に務める必要がある。
日本人は、会議好きと言われる反面、会議が下手だとも言われる。会議、打ち合わせと言いながら、会議などいらない、会議など無駄と言っている者が多い。会議を軽視したり、甘く見る傾向がある。また、会議で何も決められなかったり、何も処理できなかったりする。会議ばかりしている癖に、会議の成果、効果が上がらないのである。公家の長談義、小田原評定という言葉もある。
日本人は、集団で行動すると言われる。集団で行動するためには、意思統一が不可欠である。なのに、公式の会議が開けない。開いても出席者はどう行動したらいいか解らない。会議というと、格式張った、形式的な会議を思い浮かべて、そこまでしなくても勝手に思い込む。ルールなんて言うと堅苦しいと決め付けて、最初から従う気がない。それでは、会議を開いても生産的な事は何も生まれない。ただ時間ばかりが過ぎていく。退屈で、無駄な時間に過ぎない。そして何も決まらない。片づかない。処理できない。会議を開いたことで余計な仕事が増えたり、無用な摩擦が生じて、かえってややこしくなったりする。こうなると会議なんて、やめたやめたになる。これでは子供である。失敗するようにしていて、失敗したと言って投げ出す。要するにやる気がないのである。そのツケはいつか払わなければならなくなる。しかし、多くの人は、ツケが廻ってくるまで先送りする。
正式な会議で物事が処理できないことが、誰が見ても明らかになる。しかし、問題は解決しなければならない。物事は処理しなければならない。目の前の障害を片付けなければ、仕事は先に進まない。そうなると、裏会議が横行する。日本の組織の特徴として、根回しがある。根回しと言うけれど、要するに裏会議、非公式な会議なのである。ただ日本人は、それを会議だと思っていないだけである。ざっくばらんに話してとか、腹を割って話してとか、気取らずに話してと言うが、要するに、正式、公式の会議で、話し合いができないと言っているのに過ぎない。酒を飲んだり、ゴルフをしたり、食事をしながら、打ち合わせ、即ち会議を知らす知らずしているのである。しかも、その裏会議のルールの方が公式の会議のルールなどよりもずっと厳しい。裏会議を無視すれば、、その社会にいられなくなるほど厳しいのである。日本人は、改まって開かれる会議だけを会議だと勝手に決め付けているが、それはただ会議のなんたるかを知らないだけである。会議というのは、関係者が集まって集団的意思決定や問題の処理をする過程を指して言うのであり、公式の場を設けて話し合う事だけを指すわけではない。
それに日本人の多くは、会議の基本的ルールを知らないし、知ろうともしない。会議なんて、とりあえず開けば何とかなると思い込んでいる。
それが、会議の準備不足を招いている。準備不足の会議は、それ自体が業務の障害にすらなる事を自覚すべきである。その事をよく心しておかなければ、確かに、会議など開いても無駄である。準備をしていない会議は、弊害でしかない。
結局、日本人は、会議に責任をなすりつけて自分達の責任を放棄しているに過ぎない。会議がうまくいかないのは、自分達の責任である。何の準備もせずに会議を開けば、うまくいくはずがないのである。
本当に、真剣に問題を処理しようと考えているならば、先ず、ちゃんと会議の準備をし、出席者も言われたことをちゃんと終わらせ、会議の進行に対し責任をもって望むべきなのである。チャランポランな会議は、チャランポランの結論しか出せない。それは、出席者全員の責任である。自分達の怠慢を会議の責任にするのはお門違いである。