構     造

基礎構造

 なぜ、不景気なのか。それは、企業が儲かっていないからである。企業が儲からないと税収も減少する、所得も伸びない、失業も増える。要するに分配構造が、機能しなくなるのである。経済を論じる者の多くは、そのことがわかっていない。特に、市場を絶対視する学者は、市場の効率が悪いから、景気が良くならないと頭から決めてかかっている。
 効率性は、幸せの基準にはならない。経済というのは、元々、人々の福利厚生、幸せを求めるものである。それを忘れて、ひたすら、生産性や、効率性に走っても景気は良くならないのである。
 企業が儲からないから、不景気なのである。儲かる儲からないは、認識上の問題である。儲からなければ、儲かるようにすればいいのである。そうすれば、景気も回復する。
 では、補助金を出せば企業は儲かるようになるのか。それは、違う。補助金を出しても資金的には楽になるかもしれないが、利益がでるとは限らない。収支と損益は、目的が違うのである。
 補助金は収益ではない。資金繰りを良くすると言うのと損益を均衡させるというのは、計算の基盤が違うからである。補助金を出して補填するのと、利益を出すというのは、本質が違うのである。儲かるようにするためには、仕組みや基準を変える必要がある。
 重要なのは水準の問題である。収益の水準と費用の水準が合っていないのである。

 会計制度を基盤とした市場経済は、会計的利潤を前提とした経済体制である。故に、経済主体、即ち、企業、家計、財政が利益を上げられることが必要要件である。企業、家計、財政が利潤を追求できる仕組みが成立してる事が大前提となる。利益は、搾取であり、悪だでは成り立たないのである。

 構造不況業種というのがある。構造不況業種とは何か。
 構造不況業種とは、構造的に利益が上がらない業種だと言う事である。経営者や従業員がどれ程努力しても儲からないような仕組みになっている業界だと言う事である。では、構造不況業種、つまり、儲からないような仕組みになっているから、不必要か。儲からないからと言って不必要な産業だとは限らないのである。むしろ、鉄鋼や石油、鉄道と言った基幹産業と言われる産業に構造不況と言われる産業が多く見られる。儲からない産業は、社会的に貢献しなくなってきたのだから淘汰すべきだなどと、乱暴なことを言う識者がいる。しかし、儲からなくなって原因は、社会的な役割をなくしたからとは限らない。認識上の問題である。
 社会にとって、また、国にとって必要であるか否かの基準と、収益性の問題は、別なのである。それは、公共事業を見れば解る。公共事業は、儲からないのではなくて、儲からない仕組みが出来上がっているのである。だいたい、公共事業には、儲けの基準がない。最初から儲けることを考えていないのである。それでは、儲かるはずがない。収支と儲けとは考える基準が違うのである。
 公共機関に委せていたら、赤字になるばかりだと言うが、その前に仕組みも基準も違うことを見落としている。何でもかんでも民営化してしまえと言う前に、なぜ、公共事業は儲からないのかを明らかにすべきなのである。そうしないと、財政赤字を解決する手段は見つからない。

 儲かる仕組みは、条件次第で、儲からない仕組みにもなる。また、儲かる仕組みと言っても常に、儲かるとは限らないのである。会計というのは、儲かるようになる仕組みでなければならないのである。だから、損益によって企業実績を測ることができるのである。最初から、儲からないようになっているのならば、企業実績など測りようがない。考えようによっては、会計制度が儲けを作り出しているのである。その点を間違ってはいけない。ならば、なぜ、儲ける必要があるのかを明確にしておく必要がある。基準とは、本来合目的的なものでなければならないからである。目的が定かでない基準というのは無意味なのである。

 最近、どんどん構造不況業種が増えているのである。とくに、先進国において構造不況業種が増えている。アメリカにおける自動車業界が代表的なものである。なぜならば、構造不況におちいるのは、市場が成熟してきた証拠なのである。産業が成熟してくると市場は、飽和状態になる。そうすると、市場は拡大から縮小に転じるのである。成長を前提としていた産業構造だと市場が収縮してくると必然的に個々の企業は儲からなくなる。競争で良かったのが、奪い合いになる。だから、産業が成長し、市場が成熟してくると構造的に不況になる。それを効率化によって改善しようとしても固定的費用の上限が確定してれば自ずと限界がある。仕組みや基準を変えない限り、構造的不況から脱出することはできないのである。

 重要なことは、社会や国家の底辺で、経済や生活を支えている産業の多くは、成熟した市場にあり、放置すれば、収益があげられなくなるという事である。だからといって、独占的市場にしたり、公共事業にしてしまうと、効率性や生産性が低下してしまう。それ故に、産業を構造的に制御する必要が生じるのである。

 まず第一に言えるのは、その産業が国や社会にとって不可欠なものであるか否かを判断することである。
 次ぎに、その理由を明らかにすることである。
 例えば、産業が生み出す財は、必ずしも、国や社会の将来にとって不可欠なものとは言えないが、その産業が生み出している雇用が重要だとなれば、雇用の問題である。新しい産業で、雇用を吸収できるのならば、それもまた良しなのである。
 問題なのは、何等かの利権や既得権益化している場合である。利権化していたり、既得権益化していてもあからさまに言う業者はいない。故に、産業が必要か否かの判断は、国家構想に基づく必要がある。
 その次ぎに検討するのは、何が、その産業を儲からなくしているかの原因である。一時的な原因なのか、それとも恒久的な問題なのかによって対策が違ってくるからである。また、制度上の欠陥なのか、運用上の間違いなのか、認識の違いなのかを明らかにする必要がある。
 その上で、仕組みや基準、枠組み、ルールを変更していくのである。

 国家にとって必要、不可欠な産業を選別するための基準は、その産業の機能にある。そして、産業が果たす役割、機能が必要か不可欠であるかどうかは、国家ビジョン、国家構想の上に成り立つ。その上で国家政策や国家戦略が構築されるのである。戦術や政略は、まだその先の話である。
 国家にとって重要な役割は、第一に雇用の創出である。経済は、労働と分配であるから、働く場の確保は、産業を組み立てる上で欠くことのできないことである。闇雲に効率を求めることは、この雇用の場や機会を奪うことになる。
 第二は、国防上、治安上、防災上、必要な産業である。国防というのは、軍事的な意味だけではない。むしろ軍事産業が突出するのは、国を危うくする。国防上必要な産業とは、国家の独立を維持するために不可欠な産業という意味である。
 これらは、自給率と密接に関係してくる。何を自給すべきなのかである。自給できなければ、何をそれに代えるかである。
 第三に産業や国の基幹産業であることである。基幹産業というのは、インフラストラクチャーを意味する。それは、社会のインフラストラクチャーと産業のインフラストラクチャーの双方を指して言う。
 第四に、国民生活に不可欠な産業である。国民生活に不可欠な産業は、それだけ制約も多い。きれいな町並みを維持するためには、建築基準が厳格であるというようにである。国民生活に不可欠な産業というのは、国民の健康と安全に密着しているからである。
 第五に、将来性のある産業である。未来への布石、国家の発展を促す産業を育むことは不可欠なのことである。ただ、そればかりが脚光を浴びるのはおかしい。どんな産業にも産業を下支えする基礎がある。そして、その基礎を安定させることが産業を育む上で重要なのである。

 国家に必要不可欠な産業の多くが、古典的産業であり、成熟した産業である。故に、これらの産業をいかに、保護すると同時に、効率化していくかが重要となるのである。それが国の産業政策の根底を成す。元々、産業政策というのは、地味で地道な行為なのである。だからこそ、政治の力が試されるのである。

 成長が止まった産業、成熟した産業をどうするのかが、経済政策の根底をなしている。その上で、未来の産業、これからの産業をどう育成していくかが重要なのである。
 産業の礎は一朝一夕で築けるものではない。長い歴史と伝統によって育まれるものであることを忘れてはならない。

 景気の悪化は、経済主体の内的要因による。
 つまり、企業も、家計も、財政も赤字だから所得が減るのである。企業の資金の調達力が低下しているから消費も投資も伸び悩んでいるのである。
 そして、お金が廻らないから、買いたくても買えない。欲しくても手が出ない状態なのである。その結果、景気は回復しない。
 そのうえ、設備投資も雇用も民間企業の収益力に依存している。企業収益が改善しない限り、いくら、金融を緩和しても設備投資も、雇用も増えない。
 
 景気対策として、常に比較されるのは、公共投資と金融政策である。しかし、民間企業や家計にとって公共事業も金融政策も外的要因なのである。しかし、企業や家計を実質的に動かしているのは、内部経済、即ち、企業や家計の内部の動機なのである。そして、この内部経済は、市場の原理の働きによって動いているのではなく。組織の仕組みの働きによって動いているのである。

 景気の悪化は、バランスシートが毀損したために、資金の調達が困難になったことに起因するとして、バランスシートを改善すればいいと言う考え方もある。
 確かに、景気の後退はバランスシートが悪化したことが一因ではある。しかし、バランスシートを改善したからと言って設備投資に、即、結びつくわけではない。結局は、収支と損益に還元される。収益が改善される見込みがなければ、いくらバランスシートが改善されても投資も、雇用も伸びない。儲かるあてもないのに投資したり、人を雇う馬鹿はいないのである。バランスシートを改善するのは、あくまでも資金の調達能力を改善することが目的なのである。

 景気対策というのならば、経済を構成する経済主体を健全化、即ち、黒字化する以外にないのである。そして、その目的によって市場の仕組みを構築することなのである。経済と制度は、元々、合目的的な構造物である。

 現在の経済の構造で重要なのは、固定部分と変動部分の区分である。ただし、何を固定とするか、何を変動とするかは、相対的な概念であり、何を基準にするかを決定することに伴って決まる。
 固定と変動とを区分する基準は、第一に、時間、周期である。長期的な部分を固定的とし、短期的部分を変動的とする。第二に、変化の度合いである。変化の度合いは差によって測られる。変化の度合いとは、基準に対する率と幅として現れる。第三に、フローとストック。流動性である。つまり、現金化の速度である。現金化の速度とは、貨幣価値の実現するための時間を言う。第四に、分母と、分子である。何を基準にして、何を導き出すかである。第五に、相関関係である。つまり、何に対して、何が連動しているかである。関係である。第六に、元と付加価値である。
 固定と変動の違いが意味するのは第一に、静と動である。第二に、位置と運動である。、第三に、回転である。 第四に、安定と不安定である。第五に、定型と不定形である。第六に、保証と損得である。第七に、不動と可動。変化の度合いである。変化とは、動きである。何等かの基準に対する比率と指標である。
 固定と変動を科目によってみると、第一に、貸借と損益である。第二に、資金の運用は、総資産と費用に区分される。第三に、資金の調達は、総資本と収益に区分される。第四に、総資産は、固定資産と、流動資産に区分される。第五に、総負債は、固定負債と、流動負債に別れる。第六に、借入金は、長期借入金と短期借入金に区分される。第七に、収益は、定収入と不定期収入に別れる。第八に、収益は、費用と利益に区分される。第九に、負債は、元本と金利からなる。第十に、純資産は、資本と配当からなる。第十一に、費用は、固定費と変動費に区分される。第十二に、資産と利益に区分される。第十三に、収入は、定収入と不定期収入、臨時収入に別れる。第十四に、可処分所得と不可処分所得に別れる。第十五に、貯蓄と消費に区分される。
 この様に、経済を構成する要素には、不動的か、可動的か決定的な要素となる。

 経済現象は、この固定的部分と変動的部分の割合と関係によって引き起こされる。重要なのは、経済現象は、固定的な部分に依拠しているのか、変動的部分に依拠しているかである。

 問題点が固定的な部分で起こっているのか、変動的な部分の問題なのか。例えば、貸借上の問題か、損益上の問題かを見極めることが重要である。その場合、注意すべきなのは、一見して流動性の問題に見えても、実際の原因は、ポジション、位置付けの問題であったりすることがあることである。

 現在の経済は、予測の上に成り立っている。予測に基づいて、予定や計画、予算を立て実績、実際に出た結果と照らし合わせて予定を変更、修正、管理する。それが経済活動の基本である。
 つまり、予測や想定に基づいて意思決定や準備がされる事が前提となる。そうなると予測の精度が重要となる。予測をの精度を高めるためには、確実なことと不確実なことを見極めることが大事なのである。
 確実な事というのは、当たり前な事柄、普段は、無自覚な事象が多い。例えば暦や日没時間、自然の法則、法律、組織の規約のようなものである。また、枠組みの多くも予め設定されている。
 現代社会においては、不確実なことを過剰に評価する傾向がある。重要なことは、予測を立てる上で必要な要素の大多数は、確実なことである。ただ、成否を握る部分に不確実な要素が多く含まれていると言うだけである。確実だと思われることをより確実なものとしておかないと土台から成功は期せないことを忘れてはならない。

 予測を基盤とした社会で一番に問題になるのは、予測不能な状態や予測不能な状態を作り出す仕組みである。

 多くの事業は、始まる前は、楽観的に考え、現実に始めると悲観的になるがちである。捕らぬ狸の皮算用ではないが、商売を始める前は、バラ色の未来を描き。いざ商売を始めるとこんな筈ではなかったとすぐに壁にぶち当たって挫折するのが通例である。しかし、現実とは、始めに考えるほど甘くはないが、絶望するほど厳しくもないものである。要は、どこまで現実を直視し、状況や環境に適合できるかによっているのである。

 市場は、拡大と縮小を繰り返している。それに合わせて市場は、構造的な変化も繰り返している。また、市場には、人的な市場、物的な市場、貨幣的な市場があるが、それぞれ独自の運動をしていると見なして良い。それを結び付けているのは、存在物である。
 経済主体は、市場と均衡することが常に求められている。つまり、経営に要求されるのは、市場の拡大と縮小に合わせて均衡できる構造をも構築することなのである。現代の経済構造で問題なのは、この様に拡大と縮小を繰り返す市場に均衡できる仕組みが経済主体にも、市場にもないことである。
 現代経済体制は、常に拡大均衡前提として成り立っている。それ故に、市場が縮小均衡に向かうととたんに、市場は機能不全状態に陥るのである。

 経済の構造的歪みの原因は、拡大均衡から縮小均衡へ、あるいは、縮小均衡から拡大均衡への変換点において発生する場合が多く見られる。つまり、経済構造の変化が、恐慌やバブルと言った経済現象、経済的災害を引き起こす一因と考えられるのである。
 市場が拡大している時のインフレーションと市場が縮小している時のインフレーションでは、同じインフレーションでも、原因が違う。拡大均衡から縮小均衡に変化する段階で、拡大均衡の時と同じ、仕組みや施策を採っていると逆効果になるの場合が多い。拡大均衡時の施策と縮小均衡時の施策とは、表に顕れている現象が同じでも、正反対なものなのである。
 また、貨幣的要因が原因のインフレーションもあれば、物的要因によるインフレーションもある。人的要因によるインフレーションもあり、それぞれの要因によって対策が違ってくる。しかも、一般的に原因は複合的、構造的なものである。

 経済の構造的な変化というのは、一朝一夕に来るものではない。変化には時間がかかる。故に、何等かの予兆があるはずである。そして、その予兆を的確に見抜いて構造的な対策を立てる必要があるのである。

 何が原因なのかを見極める必要がある。資金が流れないことに原因しているのか。資金量が少ないことが原因なのか。需要がないことが原因なのか。供給力がないことが問題なのか。生産に支障をきたしているのか。
 そして、例えば、生産に支障をきたしているのならば何が原因なのか。原材料が不足しているのか。原材料の価格が高騰しているのか。技術がないのか。需要に生産が追いついていないのか。人手不足なのか。在庫が不足しているのか。価格に問題があるのか。為替の変動が原因しているのか。流通、交通に不都合が生じたのか。何等かの災害によるのか。災害も天災なのか、何等かの事故か、それとも戦争や革命の様な人災なのか。それとも人為的、作為的な思惑が働いているのか。
 それによって採るべき施策も違ってくる。

 市場は、取引によって成り立っている。故に、経済の歪みは、取引を通して現れる。故に、取引によって成立する経済構造を点検すれば経済の歪みの原因は明らかになる。

 市場経済において重要な原則は、経済現象を成立させている個々の取引は、その取引が成立した時点において均衡しているという事である。つまり、一つの取引には、必ず反対取引が生じることを意味している。反対取引は、相対取引とも見なす事が出来る。取引と反対取引は作用、反作用の関係にある。そして、取引と反対取引は、相対していて、一対一の関係にある。方程式である。
 また、取引の内容、構造は、非対称なのである。そして、市場の歪みは非対称性から生じる。そして、取引と反対取引は、取引が成立した時点において同量の貨幣価値を有する。それが、取引の均衡を意味する。取引が成立した時点で、同量の貨幣価値を実現する。それが現金価値である。
 取引の構造が非対称であるという事は、取引と反対取引、または相対取引は、各々、別個の価値を形成し、時間的な変化も独立しているという事である。ただし、取引と相対取引は、それぞれ独自の価値構造を形成するが、それぞれが実現した貨幣価値によって関連付けられる。そして、決済によって取引は終了する。決済とは、貨幣価値を実現し、清算することを意味する。つまり、取引と相対取引の関係は、各々が貨幣価値を実現し、清算した時点で解消される。
 例えば、商品は、仕入れた時点で債権と債務が生じる。債権は、販売によって貨幣価値を実現し、債務は支払によって貨幣価値を実現する。その実現された貨幣価値を清算することによって売上利益が確定する。そして、取引は、決済されて終了する。
 
 取引、相対取引の時間の経過に基づく構造的変化の差が利益を生むのである。つまり、構造に歪みがあると利益は生まれない。かえって損失が生じる。

 これが会計、基盤である複式簿記の基準でもある。故に、市場経済の原則でもある。
 そして、この事は、一つの事象に対して必ず相対する事象を想定していることを意味する。

 例えば、借入に対極には、貸出がある。経済主体内部では、借入は、債務を形成し、貸出は、債権を形成する。同時に借入は、借り入れた側の内部において債権化され、貸出側の内部では債務に変換される。借り入れた側は、その内部変換によって資産を形成する。その資産の生み出す価値の変化と借り入れたとはの債務の構造と均衡によって貸借関係は形成される。そして、借りた側の債権、債務、貸し出した側の債権と債務の関係が、経済主体の基盤を形成するのである。
 住宅ローンを借りて住宅を購入したと仮定した場合、住宅を購入した側は、住宅の市場価値と住宅ローンの返済義務を形成する。資金を提供した側は、住宅ローンを受け取る権利と住宅ローンの資金の調達義務が生じる。そして、住宅ローンが成立した時点において取引によって生じた貨幣価値が確定する。この取引は、取引によって生じた貨幣価値が清算され、解消されることによって終了する。取引を終了させる行為が決済である。
 この過程で何等かの支障が生じた場合、取引は不良なものとなり、資産は不良債権化するのである。しかし、問題は、不良債権とされた資産にだけあるのではなく。四つの要素、全てに生じているのである。

 四つの要素で重要なのは、借りた側の債務では、返済の在り方である。債権では、使途の性格、状態である。貸し手側の債務では資金の質であり、債務では、貸出条件、貸出前提である。

 設備投資で言えば、借り手側の返済計画で言えば、収益と資金計画の問題になる。使途から見ると償却資産の実質的価値、設備の更新計画等が問題になる。減価償却費と税引き後純利益が基準である。貸し手側から見ると貸出条件の変化とは、外部環境の変化とそれに伴う担保としたものの相場の変動である。資金の性格は、資金の流動性であり、銀行であれば、預貸率の変化や資本規制の動向など言う。リースなどで言えば、借入規制などである。また、会計基準の変更なども資金の質を変質させる要素がある。

 資金の質とは、資金の信頼性である。信頼性は、第一に、資金源である。資金源には、収益、負債、資本がある。第二に、資金に対する制約条件である。制約条件は、第一に、収益力の変化。第二に、返済を必要とするかどうか。返済を必要とした場合、返済条件。第三に、資本規制である。
 貸出の前提条件とは、第一に、何を担保とするかである。担保とするものには、第一に、将来の収入。第二に、担保した物の名目的価値。第三に、担保した物の実質的価値である。貸出の前提条件の第二は、貸し出した時点での状況である。貸し出した時点での状況、前提条件とは、金利動向、相手の信用力、保証、保険等である。
 返済の在り方とは、第一に、月々の返済額である。第二に、返済期間である。第三に、元本と金利の関係である。第四に、返済不能に陥った時の処理の仕方である。これらは、契約内容の根本でもある。
 第四に、使途の目的と対象である。使途の目的とは、第一に、使途が消費に向けられる物なのか、資産に向けられる物なのかである。消費に向けられる物ならば、消費によって得られる効果や代償である。資産に向けられれば、資産の実質的価値である。そして、使途の対象とは、最終消費者なのか、投資なのかである。
 四つの要素どう関連付けられ、また、相互どの様に影響、作用を及ぼしあっているかが重要になる。
 例えば、貸出の前提条件の変化に返済の在り方がどう影響しているかである。
 そして、経済政策は、これら四つの要素に、構造的に働きかけることによって成就する。例えば、金融危機に際しては、資本を注入すると同時に、支払原資の確保のために公共事業を増やし、返済の猶予を働きかけ、資金援助を行うと伴に、収益の向上策を立てるというようにである。

 これらの要件に対し、どの様な施策、規制がされるかによって実質的与信の量の増減や資金の流れの方向が変化する。表立っては、関連付けられていないか、一部の関連づけで終わってしまっている。

 借り手側では、第一には、返済計画の当否。支払のための原資がどうなっているかである。第二に、使途の効果である。つまり、使途が消費に向けられればその結果がどう収益に結び付けられたか(コストパフォーマンス)であり、資産に向けられれば資産の実質価値である。
 貸し手側では、第一に、貸出条件や貸出前提の変化。何を担保し、その担保の状態がどうなっているかである。第二に、貸出資金の制約条件の変化である。例えば、預金ならば、預金量の変化。また、借入ならば借入条件、規制の変化(自己資本率規制)等である。

 貸出の前提条件が変わっているのに、返済方法、返済の在り方が変わらない。景気の悪化によって収益が落ちているのに、返済額に変更がない。もっとひどい場合は、収入が減って資金繰りがつかない相手に、資金の提供を拒んだり(貸し渋り)、返済条件を厳しくしたり、無理矢理資金を回収する(貸し剥がし)。その結果、潰れなくて良い企業が潰れたり、また、社会的に潰してはならない企業が淘汰されたりする。

 また、物価が高騰し、資金繰りが困難になることが解っている時期に、監督官庁が資金動向を厳しく監視すれば、勢い、金融機関は、資金を絞らなくなる。この様なことは、政策の誤謬である。

 金融機関は、輸血を必要としている病人から自分を生かすために、血を抜くような行為を平然と行うようになった。しかし、その様な行為をせざるを得ないような状況、環境に追い込んだのは、経済政策や現在の市場の仕組みである。

 金融機関は、一回の損失、過失で過去の経緯(いきさつ)や利益を忘れてしまう。融資をした時の前提であり、その時の合意とその後の状況の変化である。

 こうなると金融や監督官庁の本来の働き、目的とは何かと言う事が問われる。

 不良債権処理は、慎重を期す必要がある。先ず、何をもって、つまり、何を基準にして不良債権とするのかである。
 そこには、市場取引の構造がある。
 市場は、取引によって成り立っている。市場とは、取引の集合体と見なしても良い。取引を成立させる要件は、取り引きの時間と場所、取り引きの当事者、取り引きの条件、そして、その取り引きによって生じる貨幣価値である。取引によって成立、実現する貨幣価値が確定する。市場取引によって確定した貨幣価値に基づいて債権、債務関係が生じる。
 
 不良債権の前提には、債権者と債務者の存在が前提となる。つまり、債権者、債務者のおかれている状況や前提を確認する必要がある。その上で債権者と債務者の関係である。関係とは、双方の権利と義務、権限と責任関係を意味する。権利と義務、権限と責任は、作用反作用の関係にある。つまり、同じ働きが立場の違いによって権利と義務、権限と責任を構成しているのである。確認するのは、前提条件と双方の力関係である。この関係によって最終的な決裁者と範囲が画定される。最終的な帰結は、債権者主義(ノンリコース)によるのか、債務者主義(リコース)によるのか、つまり、思想上の問題である。
 貸し手側には、第一に、資金源。調達先、調達手段。第二に、貸し出し条件、担保するものが設定される。借り手側、債務者側には、第一に、返済の在り方。第二に、使途と資産が発生する。仕訳上は、貸出側、借り手側の第一の要件は貸方、つまり、調達側に記載され、貸出側、借り手側の第二の要件は、借方に記載される。
 この四つの要素の相互関連の在り方、契約上の条件や制約によって不良債権は定義されるべきものであり、一概に、資産価値が低下したことだけを指すわけではない。資産価値が何に関連されているか、また、何に対して劣化しているかが不良債権を処理する上で、重要なのである。

 資金源と貸し出し条件が連動しているとは限らない。また、担保している物と返済条件が結び付けられているとも限らない。貸し出し条件と返済の在り方が結び付けられていない場合が多い。担保と資産価値が最初から結び付けられて条件が設定されているとも限らない。どこかの関係が途切れれば、取り引き全体の構造が破綻する危険性がある。また、権限と責任の均衡が保たれなくなる可能性もある。それが不良債権問題を複雑にしているのである。

 不良債権の構造を分析する。前提条件は、地価や株価が大幅に下落している。景気は、後退期にあることを前提とする。
 第一に、資金の質の問題がある。これは、貸出側の貸借対照表の貸方に表れる。
 銀行の貸出資金は、預金を基盤としている。預金とは、何か。預金は、銀行にとって借入金である。この点を忘れてはならない。つまり、預金には、金利がつくと言う事である。その為に、預金を運用しなければ、銀行は成り立たない。
 預金は、小口の預金者の資金を集めたものである。また、預金は、いつでも引き出せるものでなければならない。故に、銀行は、預金が、いつ引き出されてもいいように準備しておく事が義務づけられている。
 預金を圧縮することは原則できない。その為に、貸出金が劣化した場合は、資本金が圧縮される。圧縮された資本を補填する手段として増資がある。
 第二に、貸出条件、前提の変化である。
 貸出資金は、貸し手側の貸借対照表の借方に表れる。貸出の多くは、不動産を担保にして長期の貸出が多い。長期の貸出は、元本の部分を指し。基本的には、回収は、長期に分割して返済をする性格の長期債権である。貸出金は、約定によって拘束されている。
 増資された場合、増資によって資金は、増える。ただし、国債のような物によって増資された場合は、現金が増えるのではなく。有価証券が増えるのである。そのままでは貸出に廻す原資は、増えない。
 また、現金で支払われたとしてもそのまま貸出資金に廻されるのではなく。不良債権の清算に廻される場合が多い。不良債権の清算とは、債権の決済である。
 バブルの時やサブプライムローンは、土地や株の値上がりを前提として担保を設定された。それが、地価や株が暴落した時、問題を引き起こしたのである。
 対策は、貸出条件の見直しである。
 第三に、借り手側の返済の在り方である。支払は、可処分所得の範囲内に設定されるのが一般である。その為には、一定、又は、安定した収入があることが前提とされる。
 借り手側は、景気が後退している場合は、収益力が低下している。つまり、返済の資金繰りが厳しい状態にある。この様な場合の対策は、返済方法の変更であるが、景気や地価の動向と返済の在り方は連動していない場合が多い。
 サブプーライムローンの多くが当初の返済額を低く抑えていた。その為に、返済額が上昇した段階で破綻してしまった。
 第四に、使途の状況である。使途は、本来、収益源であり、また、担保される資産でなければならない。それが借入の裏付けとなるからである。資産の場合、取り引きが成立した時点の価値に基づくのか。それとも、時価、現在的価値に基づくのか。将来的価値に基づくのかによって債権の評価が違ってくる。それは借り手側が借入金の使途をどう考えているか、貸し手側がどう評価しているかの問題に行き着く。要するに、評価の問題であり、事業観の問題である。
 不良債権は、多くが不動産や株であり、地価の上昇や株価の上昇を前提とした物件が多い。相場が著しく劣化している場合が想定される。しかも短期的には損失は回復できず塩漬け状態にあると見られる。しかし、長期的に見ると簿価に水準までは回復する可能性がある。問題は、担保価値であるが、これは金融機関との相対取引であるために、財務諸表上には表れてこない簿外取り引きである。本来は、返済が滞らない限り、表面には表れてこない。
 対策は、資産の長期的な対策である。

 収益は、費用と利益の構造からなる。その相対する構造に時間軸を加えることによって時間的価値が生じる。時間的価値は、利益、金利、配当、地代、家賃等である。

 公正な競争とは何か。同一の競争条件が実現しなければ、公正な競争は、成立しない。好例が、人件費である。人件費というのは、費用の中でも大きな部分を占める。必然的に価格に決定的な影響を及ぼし、競争力を左右する要素である。
 人件費を構成する要因は、多様である。費用には、名目的なものと実質的ものがある。名目的というのは金額に現れた人件費である。価格に反映する人件費は名目的な部分である。それに対して、実質的な人件費というのは、人件費の持つ実際的な価値の総額を指して言う。名目人件費と実質的な人件費が一致するというのは稀である。なぜならば、人件費には、労働の対価という側面だけでなくいたような側面を持つからである。人件費は、第一に、労働に対する対価、つまり、コストである。第二に、人件費は、所得だと言う点である。つまり、人件費は、生活の糧である。第三に、労働に対する評価でもある。
 つまり、人件費は、一律の条件で決められているわけではない。産業の空洞化が叫ばれる背景に、人件費の問題が大きく影響していることは、衆知の事実である。人件費が安い地域で生産を行えばそれだけ費用を低く抑えることが可能なのである。しかし、人件費が安いという理由が、労働条件にあるとしたら、それは問題である。つまり、人件費が安いのではなく。労働条件が悪いところに生産拠点を移しているにすぎないからである。
 人件費を低く抑えるためには、一つは、労働条件の問題がある。もう一つは、費用の負担を企業が負うのか、公が負うのかの問題もある。例えば、医療保険や年金を国家が負担している場合と私企業に負担させている場合では、当然、名目的賃金は違ってくる。また、国家間には、為替の変動の影響がある。公正な競争力は、名目的だけではなく、実質的な面からも捉えないと実現しない。
 故に、競争条件を一律に扱うことは出来ないのである。一律に扱うことは、公害や貧困、劣悪の労働条件を輸出することにもなりかねないのである。
 経済的要因は、政治的な要因でもあり、社会的な要因でもあり、文化的な要因でもあり、制度的な要因でもあり、思想的要因でもある。
 公正な競争を実現する事は、公正な社会を実現する事でもあるのである。

 構造を決定付けるのは、位置と運動と関係である。即ち、構造とは、複数の要素、部分を個々の働きによって結び付けた全体だからである。この様な構造の位置と運動と関係は、力によって保たれている。そして、位置と運動と関係を決定付ける要素は、時間と力である。

 力には、内的な力と外的な力がある。外的な力の中でも場の作用による力が重要な役割を果たしている。
 力には、引力と斥力があり、その均衡が重要となる。正の力と負の力の均衡が重要となる。

 位置とは、任意の空間の中心から対象となる点、あるいは、要素との距離、又は差を言う。運動とは、対象の一定の時間における変化を言う。時間は、変化の単位であるから、運動は、時間の関数である。関係は、位置と運動を決定付ける法則、ないし、力である。

 空間を構成する座標軸に時間の座標軸を加えることによって変化が生じ、運動を認識することが可能となる。運動は時間の関数である。

 貸借は、一定の時間における位置を貨幣価値で示しものであり、損益は、時間内の運動を表し、会計基準は、関係を表す。損益とは、一定の時間内の運動によって生じた差を指す。問題なのは、貸借の中に内的運動が含まれることなのである。この内的な運動と外的な運動をどう整合性をとるかが、最大の課題である。

 構造は、集合体である。故に、全体と部分からなる。部分の動きと全体の調和が一番重要となる。それが制御の問題である。部分も成り立たず。全体も調和がとれなければ構造そのものを維持することができなくなる。

 個という部分は、全体を前提として成り立っている。故に、個が全体を代表し、あるいは、個が全体に置き換わると言う事は認められない。それは、個人主義ではなく、全体主義である。個人主義の対極にある思想である。

 全体の制御、部分の制御がある。全体の制御は、部分の制御の調和により、部分の制御は全体の制御に統制・統御される。

 部分の最適な動きが、全体の動きに不都合を生じさせることを合成の誤謬という。つまり、部分の動きが全体の調和を欠くことである。この様な状態が発生するは、構造的欠陥による。経済現象には、往々にして起こる。それは、経済体制が合目的的な体制であるのに、目的や機能が明確にされていないからである。

 例えて言えば成長や効率性を目的だと錯覚するようなことである。成長は目的ではなく、手段である。効率に至っては、手段と言うよりも一つの指標に過ぎない。この様なことは、旅客機が速度だけを目的に設計されるようなものである。それでは、旅客機、本来の目的である安全で、快適に、より多くの人を運ぶという目的が見失われ、犠牲にされてしまう。

 経済の目的は、国民の幸せを実現する事である。国民の幸せを実現するために、生活に必要な物資を必要な量を生産し、必要に応じて分配することである。経済の目的は、大量生産、大量消費にあるわけではない。金儲けにあるわけでもない。また、効率にあるわけではない。それは手段に過ぎないのである。
 効率を高めたら、無駄や浪費がなくなったかと言えば、むしろ、無駄や浪費が増えているのである。それは、無駄や浪費を生み出す仕組みになっているからである。これでは、資源の有効活用、効率的活用などお題目に過ぎない。
 本当に効率的な構造にしたいのならば、無駄や浪費が発生しない仕組みに変えなければならないのである。それが構造経済である。

 それぞれの体制や環境にあった最適な構造を構築するのが構造主義経済である。

内部構造と外部構造


 構造には、内と外とがある。外部の動きは、構造内部に影響を与える場合がある。とには、構造そのものを破壊することもある。故に、外部の動き、運動、働き、力が内部のどの部分に作用、関係付けられているかを把握する必要がある。

 貨幣にも内部貨幣と外部貨幣がある。例えば、日本では、円が内部貨幣であり、ドルや元、ユーロ等は外部貨幣である。
 銀行業務の始まりは、為替と両替だと言われている。両替や為替は、内部貨幣と外部貨幣を変換する仕組み、装置である。この事は、銀行の役割を考える上で重要な意味がある。近代的な金利も為替業務の中で形成されたと言われている。(「知っておきたい「お金」の世界史」 宮崎正勝著 角川ソフィア文庫 )

 例えば為替の変動が国内の経済要素のどこに連動しているかを認識し、為替の動きに併せて内部の仕組みを変化させる必要がある。変わる部分と、変わらない部分を見極めることである。ただし、内部から見て変化がなくても外部から見て変化する部分があることも忘れてはならない。

 為替も、物価も、問題は水準である。
 経済主体、即ち、企業、家計、国家の内側に働く経済を内部経済と言い。外側で働く、経済を外部経済という。基本的に共同体や組織内部に働く経済を内部経済と言い、市場経済を外部経済と言うが、国家や企業は、一部市場を内包している。
 外部経済の水準に変動が、内部構造の変化を誘発する。急激な為替や物価の水準の変動は、産業構造や家計構造に打撃を与える。物価の水準の変化に所得の水準の変化に追いつかなくなり、蓄えがなければ家計は、破綻する。家計の場合、所得と支出によってしか家計の状態は理解できない。

 為替の変動は、基本的には国家の外部経済の変動を内部構造がどこまで耐えうるかという問題である。国家の内部構造には、企業、家計、財政があるが、為替の変動がどの部分にどの様な影響を与えるのかを見極めない限り、是か非かを明らかにすることは出来ない。しかも、変化のタイミングや個々の要素間の変化の時間差、速度が重大な要因となる。

 経済単位は、基本的に共同体である。経済単位を結び付けているのが市場という場である。逆に言うと、市場という場があり、市場という場を結び付けている媒体が経済単位だとも言える。
 この様な経済単位には、内部構造と外部構造がある。そして、共同体の内部構造は、外部構造とインターフェース、接続部分によって繋がれている。

 外部構造と、内部構造とを調節するための変圧器のような仕組みを必要とするのは、内部経済や構造を保護するために当然なことである。

 為替相場の急激な変動に対し、国内の市場を保護するための、仕組み、装置、制度を設けるのは、当然の権利であり、義務である。また、何等かの政策や行動をとるのも国家という共同体を守るためには、必要な処置である。

 国家というものを一個の共同体と見る。その共同体内部の生産、分配、支出から市場の貨幣的規模を計算したのが、国民計算である。
 生産、分配、支出の額は、基本的には一致する。これを、三面等価の原則という。つまり、生産、分配、支出は一つの経済を三面の側面を現しているのに過ぎないという事である。
 生産は、国内の消費財の生産額と国内の投資財の生産額からなる。
 所得(分配)は、付加価値、即ち、賃金、地代、利子、利潤からなる。付加価値は、即ち、賃金を除く、地代、利子、利潤は、時間的価値の素となる。また、賃金と物価上昇分も時間的価値を構成する。
 支出は、消費と投資からなる。投資は、設備投資、住宅投資、公共投資があり、それぞれ投資主体の違いによる。投資主体は、家計、民間企業、公共機関からなる。

 国民総生産は、一国における一定期間の経済活動規模を貨幣価値で表した指標の一つで、国内総生産(GDP)に海外からの純要素所得を加えたものである。日本では、経済企画庁が、2000年の国民所得総計から、GNP(国民総生産)をGNI(国民総所得)に変更している。
 GNIは、GNP(国民総生産)を分配面から見たもので、GNP(国民総生産)を支出面から見たものは、GNE(国民総支出)となる。また、これらは等価であり、これを「三面等価の原則」と呼ぶ。

 この様な、経済の三面等価は、経済構造を現している。
 また、三面等価というのは、経済の三次元性を示しているといえる。これに時間軸を加える時空間が構成される。即ち、経済的運動は、三方向のベクトルをもっているとも言える。

 国民総生産は、国内の生産に国外からの流出入を加えたものである。国外からの流出入は、輸出が超過している場合は、プラスになり、輸入が超過している場合は、マイナスになる。

 賃金は、定昇分の上昇を常に見込んでおく必要がある。そして、少なくともそれは物価上昇分に見合うものである必要がある。

 物価は、時間軸の基準でもある。実質と名目という形で物価変動は、時間軸の中に取り込まれる。

 人件費が、単なる賃金として割れきれないところが問題なのである。人件費は、賃金であると同時に、生活費であり、その人に対する評価でもあるからである。
 それは、経済単位が共同体であることを意味している。かつては、経済単位である共同体が内部で生活に必要な物を生産し、足りない物を外部から調達していたのである。ところが今は、生活や活動に必要な物、全てを外部から調達しなければならないようになっている。その為に、物資が充分に行き渡らなくなってしまったのである。

 所得と支出は、作用反作用の関係にある。収入と支出は作用反作用の関係にある。受取側の収入は、受け渡し側から見ると支出であり、受取は、必ず受け渡し側の存在を前提としている。この様に収入という行為は、反対側に支払と言う行為が伴っている。そして、この二つの行為は均衡している。
 支出は、消費と投資に分配される。投資とは、将来の支出の繰延である。
 所得と消費、所得と投資は作用反作用の関係にある。投資は、債権と債務になる。債権と債務は、作用・反作用の関係にある。

 家計も基本的に共同体である。つまり、市場とは違う原理が作用している。夫と妻、母親と父親の関係は、貨幣的、雇用的関係ではない。
 家計は、経済構造の縮図である。つまり、家計は、産業構造の鏡である。また、市場構造や構成の鏡でもある。
 第一に言えるのは、消費性向は、産業構造を反映しているという事である。衣食住と言った生活の基盤にかかる出費、それから、教育と言った未来への投資、また、遊興費や小遣いと言った使い道とその占有率が経済の軌跡を現している。
 第二に、貯蓄と借金の比率である。貯蓄と借金の混在は、違和感を覚えるかもしれないが、それは、貨幣の現在価値への嗜好を現しているとも言える。即ち、流動性の問題である。何れにしても、国民の経済感覚を如実に現していると言える。

 アメリカ人と日本人の違いとして預金率のことが言われる。日本人は、貯金を好み、アメリカ人は、借金を好むと・・・。しかし、それは、消費性向と流動性に対する考え方の違いであり、貯金と借金というのは、費用の前払いか、後払いかの違いに過ぎない。貸すか、借りるのかである。問題は、現在の状況をどう捉えるかの違いなのである。ただ、預金と借金では、経済に対する働きが違うのである。それ故に、それぞれの位置が重要となる。

 家計の構造的変化は、産業の構造的変化を促す。家計は、家族の有り様によって決定付けられる。つまり、生活様式の変化が決定的要因となる。その根本は、国民の価値観の問題に還元される。故に、経済は文化なのである。

 人間関係なき社会。人間関係が築けない社会。その様な社会において経済の根本を考えてみたところで何もならない。経済というのは、人間関係の中で成立するものなのである。人間関係が成立しないところで、いかに、効率性や生産性を議論しても経済的には何の意味もないのである。

 経済主体が経済的に成立するためには、収入と支出が均衡している必要がある。それは、収入と支出の水準の問題である。損益は、それを一定の期間の収益と費用の問題に還元したものである。基本的に、会計上においては、負債、資本、収益が収入を意味し、資産と費用が支出を意味する。資産と費用を分けるのは、速度の問題である。
 負債や資本の減少は資金の流出である。負債と資本、収益の増加は、資金の流入を意味し、逆に資産や費用の増加は、資金の流出であり、資産の減少は資金の流入である。これが重要なのである。
 同じ資金の流入でも負債や資本の増加は、債務の増加を意味し、収益は、債権の増加を意味する。逆に、資金の流出でも資産は債権の増加、費用は債務の増加を意味する。

 企業の収支と損益とを分離したのは、その様な水準の変化を直に企業業績に反映すると企業経営が環境の変化に適応できなくなるからである。会計は、資産や負債、収益、費用などを分離し、それぞれの勘定の仕方を変えることによって環境や状況の変化を緩和できるような仕組みになっている。収支というのは、収入と支出という現金の動きを時価に表したものであるから、環境や状況の変化に対応しきれないのである。収支と損益を切り離した理由も、収支だけでは、水準の変動を単純に説明が付かない事も一因である。

 資金さえ回っていればとりあえずは企業は、存続できる。問題は、企業活動の費用対効果の対比なのである。

 また、企業会計は、損益であるのに対し、家計や財政は、収支である。それ故に、国家全体の損益は均衡しないでいる。何等かの形で、企業、家計、財政の整合性をとらない限り、統合的計算に遺漏が生じてしまう。得に、公会計と会計制度の整合性がとられなければ、市場の基準を、損益によって統一する事が計れない。

 共同体内部で生産される生産財を貨幣換算し、費用化すると共同体全体としては、赤字なる。経済的価値は市場だけで生み出されるものではない。市場は、経済の仕組みの一部に過ぎない。市場に経済的価値の全てを還元しようと言うのは、最初から無理がある。強引にそれを行えば、経済は、破綻してしまう。
 共同体の働きを否定する事で、その兆候は現れている。市場価値だけで家計や企業、財政の収支を均衡させようとしたら、家計も、企業も、国家も全て赤字になる。市場の働きは、重要であるが、市場は経済の一部に過ぎない。一部である市場を経済全体に替えることには、最初から無理がある。本末転倒である。

 経済を市場だけで限定的に捉えていると経済の本質を見誤ることになる。また、経済そのものは、合目的的なものである。そして、経済の目的は、本来共同体の側にある。つまり、内側にある。市場は、その為の媒体に過ぎない。その為に、市場で問題になるのは、市場の機能である。市場の働きである。故に、市場経済だけで限定的に経済を捉えようとすると目的が見失われ、機能的なものに陥りがちである。しかも、貨幣経済体制下では、市場の機能は、貨幣によって実現する。その為に、貨幣が必要以上に力を持つことがある。状況によっては、貨幣が絶対的な力、全てであるような働きをする場合すら生じる。
 貨幣は、経済目的を達成するための道具に過ぎない。また、その為だけに働きを限定すべきなのである。

 金儲けを悪い事のように言うが、企業が利益を上げなければ、所得も、納税も増えないし、金利も支払えないのである。増えないどころか、減る。下手をすれば、企業は倒産し、失業者が増える。経済は悪循環に陥る。また、家計が消費しなければ、企業は儲からない。国庫も豊かにならない。要するに、企業は利益を上げることが経済を活性化し、安定化させることに繋がるのである。
 不当に暴利を貪ることは許されない。しかし、企業が、適正な利益を上げることは、経済を安定させることである。それはひいては、民生を安んじることである。企業が適正な利益を上げられるような施策や仕組みを作ることが国家の役割なのである。

産業構造


 基幹産業は、国家が育成するものである。産業を保護育成するのは、国の仕事である。国際分業という考え方がある。しかし、国際分業というのは、結果論に過ぎない。根本にあるのは、国家としての在り方である。
 例えば、かつては、自動車も家電製品も特定の国に偏ることなく、それぞれの国がその国の国情にあった独自の製品を製造してきた。
 ところが、大量生産方式が定着することにより、廉価な商品が、津波、洪水のように押し寄せて個々の国の産業を押し流してしまった。だからといって市場を閉ざして良いというのではない。近代国家は、鎖国をしていた江戸時代のように一国だけで成り立っていける時代ではないのである。
 それ故にこそ、明確な国家観、世界観が要求される時代になってきたのである。

 産業構造には、工場、工程、機械・設備、原材料と言った要素によって構成される物的構造、組織も人事制度、給与体系と言った人的構造、会計制度、原価といった貨幣的構造がある。
 また、産業を構成する要素には、市場、経営主体、消費者、国家などがある。
 これらの要素の最適な組み合わせを構築するのが、構造経済である。

 産業は、個々の経営主体、企業の集合によって成り立っている。企業は、貨幣的存在である。つまり、貨幣価値を基盤として成り立っている。今日の貨幣経済のリテラシーは、会計制度である。産業を構成する経営主体、企業は、会計上の利潤を追求する事によって成立している。会計上の利潤は、収益によって成り立っている。収益は、利益と費用の階層構造を成している。この階層構造が、基本的に産業構造を表している。
 費用構造は、産業構造の断層を表している。さらに、費用構造は、分配構造でもある。分配には、内的分配と外的分配があり、それぞれ、範囲と構造が重要になる。

 市場経済において、市場価格が景気を左右する。即ち、市場経済を正常に運営するためには、市場価格を制御する事が鍵になる。市場価格を制御すると言う事は、適正な市場価格を維持することである。適正な市場価格は、公正な市場の競争によって実現する。公正な市場の競争は、市場の規律、即ち、ルールによって保たれる。市場の規律は、市場を成立させている前提によって規制される。つまり、市場を成り立たせている目的、機能によって市場の規律は制約されるのである。
 市場の規律は、絶対的な法則や原理ではなく。相対的な体系であり、何等かの強制力によって有効となる。その強制力は、国家権力や契約、慣習、宗教的権威などによって発生する。

 市場は、取引の場である。取引とは、財の交換を前提とする。物々交換は、財と財の直接交換を意味する。貨幣経済では、交換の仲立ちを貨幣取引が行う。
 貨幣は、取引の手段、道具である。即ち、市場取引は、財の貨幣価値価格によって成り立っている。市場取引の鍵は価格が握っている。
 市場は、適正な価格によっ維持される。適正な価格とは、適正な利益が上げられる価格である。価格は、市場取引を通じて設定される。市場取引は、市場の仕組みによって制御される。即ち、適正な価格は、市場の仕組みによって維持される。

 一つの財によって市場取引において発生する価値の総和は、単価×数量である。更に細かく言うと、顧客数×単位消費量×単価である。これは、人と物と貨幣の積である。

 収益構造は、変動費+固定費+利益として表される。
 損益は、損益分岐点を一つの目処として成り立っている。限界利益が均衡する点が損益分岐点である。限界利益とは、売上高−変動費。あるいは、固定費+利益と言う式で表される。
 単価は、単位あたりの価格である。収益は、販売数量の総和として計算される。
 単価は、単位あたりの変動費+固定を販売数量で割った物+単位あたりの利益として計算されれる。単価に換算される限界利益は、単価−単位あたりの変動費である。この値の総和が、固定費を上回っ点から利益が生じる。

 全てにおいて成熟し、かつ閉ざされた市場を想定してみよう。
 全てにおいて成熟した市場では、市場取引は均衡していると仮定される。
 時間的な作用が働かない事を前提とすると所得も物価も均衡している。つまり、上昇も下降もしていない。
 技術革新もない。人員も毎年、一定の人数だけを採用し、同じ人数だけ退職しているとする。賃金の上昇は、規定の人事制度に基づいて計算される。基本給の上昇はない。
 その為に、固定費は、一定である。故に、価格の変動には、供給側では、変動費だけが変動要因として作用している。
 価格は、市場取引によって需要と供給によって決まる。需要を作り出すのは、消費者の欲求、必要性である。つまり、消費側は、その財の必要性が価格に影響する。
 この事は、成熟した市場では、本来、経済を変動させる要因は、変動費にあることを意味する。

 変動費を左右するのは、収穫量や生産量である。
 消費者の必要性を作り出す核は、消費者の欲求、欲望、主として生理的欲望、欲求である。

 時間的変化の重要な要因のもう一つが人口問題である。つまり、成熟した市場において、重要な要素は、気候の変動と、戦争、そして、人口の変化である。

 つまり、市場価格は、外的環境と人間の欲望とが作り出すのである。

 経済の変動要因、混乱要因は、旱魃や台風、地震、洪水と言った災害や戦争、侵略、内乱といった人災である。

 市場の取引が、一つの限られた範囲の市場の内部で完結するならば、その内部では、貨幣価値の総和は、増えもしなければ減りもしない。自給自足的体制がこの様な閉ざされた経済空間である。
 市場取引が市場内部で完結しないから、つまり、必要な物資を他の市場から調達しなければならないから交易が始まるのである。
 また、時間的な変化を前提としない。即ち、時間的にも閉ざされた空間ならば、貨幣価値の総和は、増えもせず、減りもしない。

 人間の経済活動には、一定周期の波が認められる。その波は、日単位、週単位、月単位、四半期単位(季節単位)、半期単位、年単位、人生単位に区分される。波は、循環運動を基本とする。この様な周期的循環運動は、主として人間の生理的要件によって引き起こされる。生理的要件は、生理的欲望に変換されるからである。それが経済の周期運動や循環運動の基礎となる。

 天体の運行にも周期がある。大体、時間そのものが周期運動である。時間は、地球と太陽と、月に位置と運動に基づく関数である。地峡と太陽と月の位置と運動と関係は、地球の公転、自転、また、月の公転を意味する。この様な天体の運行は、外的な環境に影響を与え、規制する。内的な人間の生理的欲望と、天体の運行による外的な環境の変化が時間の規則、周期的な運動を生み出しているのである。そして、経済は、この時間に支配されている。

 財の需要は、資金需要に連動する。資金需要にも、波や循環がある。日単位、月単位、季節単位、年単位が主な周期である。それが経営の周期にも影響を与える。

 この様に、時間的に価値が作用していない市場では、市場取引は、均衡している。この様な市場では、物価の上昇や所得の上昇は、通貨の流量と市場取引の総和によって決まる。市場に供給される財の量と通貨の量が一定で在れば、実質的な物価上昇や所得の上昇もない。
 市場に供給される財の量は、生産量や収穫量を基礎として、在庫の量によって調整される。かつては、貯蔵がきかない生鮮物によって物価の趨勢は決定付けられた。

 産業革命以前、日本では、明治維新以前においてはこの様な産業構造が一般的だったと考えられる。

 今日でも、物価上昇を名目的なものと実質的なものとに分類した場合、実質的な物価や所得の上昇が認められない場合をよくある。

 また、伝統的産業なもよく見られる形である。

 価格に影響を与えるのは、物理的変化と貨幣的変化である。
 変化とは、時間の関数である。即ち、物理的変化や貨幣的変化は、時間の関数である。
時間の関数と言う事は、時間的軸を組み込むことを意味する。つまり、物理的価値と貨幣的価値に時間軸を組み込んだのである。
 物理的変化というのは、収穫量の変化や生産量の変化である。
 貨幣的価値の時間的価値は、金利と減価償却である。

 この様な経済体制では、所得は、金利以外の付加価値によって形成される。つまり、所得を構成する要素は、人件費、地代、家賃、租税公課、減価償却費である。つまり、分配のための価値である。
 金利という概念が働かなければ、地代は、複利的な増殖はしない。地代は、地価が変化しない限り、一定である。つまり、地価に対して単利的な働きしかしない。しかし、地価に金利がつくと地価に連動して増大するようになる。

 近代市場経済がそれ以前の経済と決定的に違うのは、通常の取引の中に、金利、即ち、時間的価値が加わったことである。

 金利にも、単利と複利がある。単利は、元本に対して、費用としてみることが出来るのに対して、複利は、時間価値として作用する。

 金利によって時間軸が経済の仕組みの中に組み込まれる以前は、収益は、付加価値によってもたらされた。金利という時間価値が組み込まれる事によって利益の持つ意味が変わってしまったのである。

 金利という概念は、経済を構成するあらゆる要素の中に組み込まれた。地代も、金利がある時代とない時代では全く違った意味を持つ。そして、その時間価値を裏付けるのが、債務である。つまり、債務に金利の概念が加わったことで、経済を構成するあらゆる要素に時間軸が組み込まれる事となった。それによって貨幣価値が経済全体に浸透したのである。

 金利は、将来の債務が増え続けることを前提として成り立っている。それに対して、債権の将来的価値は、増加し続けるとは限らない。不確実なものである。それが、バブル現象を引き起こす一つの要因となっている。

 貨幣価値は、物理的制約を受けない。貨幣価値は、財との交換によって清算され、解消される。債務は、貨幣的価値である。その為に、物理的な制約を受けにくい。その為に、貨幣価値は、際限なく増殖することがある。即ち、貨幣価値の暴走である。

 現代の経済体制は、給与所得者に還元しようとする思想が強い。それでありながら、その点が見落とされがちである。定収入を前提とするか、不定収入を前提とするか、また、賃金収入を前提とするか、非賃金収入を前提とするかによって経済体制は根本的に違ってくる。それは、負債構造に影響を与えるからである。

 負債は、所得の時間的価値が増加することを前提として成り立っている。つまり、所得が右肩上がりに増え続けることを前提としている。この前提が崩れると負債は、成り立たなくなる。

 債権が単利的に変化するのに対し、債務が複利的に変化し、債務が債権の名目的価値を形成すると、債権の実質的価値と乖離し始める。それが極限にまで拡大する現象をバブルというのである。

 問題は、この債権と債務の乖離をいかにして解消するかなのである。

 もう一つ、近代市場経済を特徴付けているのが、減価償却という思想である。減価償却費と言うが、これは、あくまでも、仮想の費用である。つまり、現金の出費を伴わない費用である。現金の出費を伴わないと言うと語弊があるが、現金取引に依らない費用だと言う事である。つまり、費用が現金取引として発生した時点に一度に処理するのではなく。一定の期間で分割して費用として処理することである。

 単価を構成する固定費の中に、この減価償却費が含まれる。この減価償却費は、償却期間の設定や償却率の設定の仕方で伸縮することが可能な費用だという特徴を持つ。つまり、設定の仕方で利益操作が可能なのである。
 極端な話し、無限に償却期間を伸ばせば限りなくゼロに設定することが出来る。その為に、見せ掛け上の利益を計上することが可能となるのである。これが、廉価販売を可能とし、大量生産を有利にする仕掛けである。

 しかし、減価償却費を少なく見積もることは、経費の計上の先送りであるから、結局は経営を圧迫することになる。

 また、この事は、資金力の大きい者が圧倒的な優位に立てることも意味する。それは、資金力、言い換えれば、資金の調達能力に優れた金融機関や資本家の市場の支配を促進してしまう事態も招く。それは、市場本来の機能の低下も招くのである。場合によっては、市場経済を終焉させてしまう。
 ただ安ければいいではなく。経済に与える影響をよく吟味した上で、規制すべき事である。

 変動費と固定費は、フロー(流動性)とストック(固定性)に関係した要素である。

 流動性は、金ばかりにあるわけではない。人や物にもある。そして、現実の経済は、人や物の関係によって動かされている点を見逃してはならない。ただ、貨幣経済体制、市場経済体制では、金の動きが、人をや物の動きを作り出し、表しているのである。

 貨幣経済、市場経済において経済効率を考える場合、重要なのは、生産力ではなくて、雇用である。なぜならば、経済の本質は、労働と分配にあるからである。労働と分配を円滑にするために、生産量と消費量が問題となるのである。充分な量の財が確保されなければ、円滑に分配が実行されない。だから、生産量、生産力が問題になる。しかし、同時に、貨幣経済、市場経済では、必要な財を、貨幣を使って市場から調達することが前提となる。
 その為には、各個人に貨幣が、必要なだけの量、行き渡っていなければならない。その為には、雇用が、即ち、所得の前提となる労働、即ち、仕事の量を確保する必要があるのである。
 そうなると固定費や付加価値の内訳が重要になる。つまり、固定費や付加価値に占める人件費と減価償却費の割合が重大な意味を持ってくるのである。

 減価償却費は、償却資産に連動し、金利は、長期負債に連動している。問題になるのは、非償却資産であるが、それは、長期債権として資本に連動するのである。

 個(部分)と全体の中に含まれるフロー(流動的な部分)とストック(固定的な部分)の働きと相互作用を理解することが必要とされる。

 個人の所得は、消費として市場に直接的に現れる流れと貯蓄として固定的な部分とになる。この固定的な部分は、金融機関を経由して間接的な流れを生み出す。貯金として金融機関に預けられる、言い換えると家計から融資された部分が、信用を生み出す素となる。
 消費の部分は、企業の収益に反映される。このバランスが重要なのである。

 金融危機は、金融機関が持つ債権の劣化が問題なのである。金融機関の持つ債権というのは、金融機関から見て貸付金を意味し、相手側から見ると債務を指す。信用は、貸し付けを通じて創造される。つまり、いくら金融機関の資本を増強しても、即、信用が創造される、つまり、資金が市場に流通するわけではない。貸付金に転化されて始めて資金は、流通する。仮に、注入された資金が劣化した貸付金を補うために使われれば、資金は、市場に供給されない。
 問題は、金融機関の債権と債務、即ち、総資産と総資本が不均衡になっていることが問題なのである。金融機関の債権の劣化を是正するためには、金融機関の債務を圧縮するか債権価値を高めるしかないが、金融機関の債務は、預金であるために、これを圧縮することは出来ない。そうなると、債権価値を高める以外には、資金を市場に流通させる手段はないのである。
 公共投資もこの債権価値を高める効果があるならば、金融危機に対しては有効な手段であるが、債権価値に影響を与えない場合は、あまり、効果は期待できない。

 大体、金融危機の背後には、金融機関の収益の悪化がある。金融機関の収益の悪化の原因は、貸付先の減少とそれに伴う不良かである。貸付先が減少した結果、ある程度のリスクを処置の上で住宅ローンや株式投資に傾斜したのである。そして、一方は、証券化、他方は、ヘッジファンドを生み出し、混乱の種を蒔いたのです。

 金融機関がなぜ、優良な貸付先を失ったかと言えば、市場の成熟が考えられる。つまり、市場が成熟し、設備投資が一巡すると新規の資金需要が減る。また、新たな資金需要があったとしても企業は、資本市場から資金を調達するようになる。その為に、金融機関は、優良な貸出先が減少し、貸し付けが減少する。貸し付けの減少は、信用の減少を招き、市場に流通する通貨を減少させる。それが企業収益の悪化に繋がるのである。通貨の減少は、デフレを発生させ、企業収益を招くのである。

 金融機関や企業の収益を改善しない限り、経済は安定しない。それは、市場が成熟し、変化に乏しい状態になりつつあることを前提とするのか、それとも、新たな技術革新が始まり、市場の拡大成長が見込めるのかの見極めにかかっている。ただ市場は単一ではなく、絶え間なく変化し続けている市場と変化が停滞している市場が混在としている。成長発展が、つまり、変化が、是か、非か。あるいは、停滞を、即ち、不変を是か、非かという議論ではなく。今、市場は、変化発展しているのか、あるいは、成熟しているのかを明らかにすることが重要なのである。

 陰陽でいえば、変易、不易、簡易である。絶え間なく変化し続ける部分と不変的部分、それらを結び付ける道理、それは、単純、反復、繰り返しが基本なのである。ゆえに、その法則を知れば、流動性と固定性の関係が理解できる。

 変化を前提とすべきなのか、それとも不変を前提とするかによって経済の在り方は違ってくる。しかし、それは何れが正しくて、間違っているかと言った問題ではなく。何を前提とすべきかの問題なのである。

税制度と構造


 税制は、思想である。それは、何に対して税を課すかという事は、国家論の本質に関わる問題であるからである。しかも実利的な問題でもある。それ故に、税制度の本質は、国家観、国家思想に根源がある。
 ところが、世間一般の認識では、実利に直結している事を、思想としない傾向がある。それが、思想や哲学を不毛としているのである。人間の生き方に何の影響も与えないような思想や哲学は、研究するのに値しない。そう言う意味では、税制を考えることこそ最も思想的行為であり、哲学的行為である。

 税を考える場合、まず、国家観を明らかにする必要がある。階級的国家を前提とするのか。平等を前提とした国家にするのか。自由主義的国家にするのか。国民とは何か。私的所有権を認めるのか。私的所有権を認めるとしても、私的所有権をどの様な範囲で認めるのかと言った点を国家を建設するにあたって定義する必要がある。その上で、どの様な国家を目指すのかを明確に定義する必要がある。そして、国民国家においては、それが憲法として明文化されることを原則とするのである。

 今日の国民国家は、自由と平等を原則とする。
 この様な国民国家においては、自由とは何か、平等とは何かを制度を持って定義することを前提とする。いくら観念的な美辞麗句を並べても、制度的に矛盾していれば、それは、国家体制が国家の思想に矛盾することになる。言葉よりも法や制度の方が、その国家の思想を体現することになる。
 特に、税制は、国家の基盤となる思想を形成する。
 税制は、国民国家の有り様を規定する。故に、何が平等か。また、どの様な状態にしたいのかを明らかにする必要がある。
 その根本は、課税対象を何にするのか、課税者は誰なのかが、決定的な要因になるという事にある。

 課税対象には、フローに対するものと、ストックに対するものとがある。
 フローに対するものは、生産(付加価値)、分配(所得)、消費を課税対象とする。ストックな対するものは、所有と存在に対するものである。基本的に、ストックに対する課税は、受益者という事が、フローに対する課税は、経済の実体を反映しするという事が根本にある。

 課税対象を何にするのかは、本来、思想である。その思想を構成する意義は、対象の働きによるものである。つまり、課税となる対象が国家理念に対してどの様な働きをするかが重要となる。
 平等を国是としていながら、税が不平等を増長したり、格差を制度化する働きがあれば、それは国家理念に反することとなる。

 私的所有権を肯定し、組織的な働きや市場の自由の活動を前提とするならば、個体差を受け容れる必要がある。
 また、経済的自由は、私的所有権を前提とする。自由と平等を両立させるためには、個体差の中の何を受け容れ、何を認めないかを制度的に明らかにする必要がある。それが思想なのである。哲学なのである。そして、思想や、哲学の使命なのである。
 自由と平等を実体的にする制度の一つが税制度である。

 企業と家計と財政は、何れにも明確に属さない境界線的部分がある。それを何等かの形で分担している。たとえば、育児や介護と言った部分である。家族、国家、企業が、育児や介護といった公と私が重なる部分を何等かの形で分担している。その部分をどの様に考えどの様に分担するかが、重要なのである。その境界線の部分に税と給付金のような福祉制度が入り込むのである。それによって、私的所有制度や所得の差によって依って生じる経済的偏りを是正するのである。

 財政と、企業と家計の分担を明らかにするためには、国家、経営主体、家族の有り様を明確にする必要がある。
 国家とは何か。仕事とは、何か。婚姻とは何か。家族とは何か。親子の絆とは何か。産まれると言うことは何か。病むとは何か。老いとは何か。死とは何か。人生とは何か。個人の幸せとは何か。それは思想である。自然の原理ではない。
 故に、税の根本は、思想であり、国家の思想を体現化した制度が、税制度なのである。そして、広義の税制度とは、徴収から消費まで過程を指して言うのである。

 企業に年金や医療保障を負担させるならば、税制度として、あるいは、福祉制度として、市場制度として、企業経営に反映できるようにしなければならない。一方的に企業に負担を押し付ければ、企業経営はなりたたなくなる。

 多くのアメリカの企業は曲がり角に立たされている。かつて、多くのアメリカの企業は、理想を掲げていた。今日、アメリカの企業は、金儲けの手段にしかならなくなりつつある。投資家にとっては、企業は、金の卵を産む卵に過ぎない。世界一の自動車を作るとか、人々に快適な生活を提供し、その利益で、志を同じくする仲間の生活を保障すると言った事業本来の夢や使命は、色褪せ、衰退してしまった。
 アメリカは、企業に理想を求めながら、企業の置かれている現実を直視してこなかった。多くのアメリカの企業が目指したのは、経済的に独立した運命共同体である。
 アメリカの企業が苦況に追い込まれた背景は、夢や使命に裏付けされた実業の部分が失われたことにある。企業を成り立たせているのは、金だけではない。それを忘れると企業は、魂のない屍のような存在になってしまう。

 企業は、貨幣的機関であると同時に、人的機関でもあり、物的機関でもある。人的機関だと言う事は、企業は、共同体である事を意味する。つまり、人間関係によって成り立っていると言う事である。

 これは、家計にも言える。家族は、単なる同居人ではない。金銭的な関係だけで繋がっているわけではない。大切なのは、愛情である。家族の絆である。その部分を否定してしまったら、家族は成り立たなくなる。家計だけで家族は成り立っているわけではない。

 公と私の問題もしかり。人間は、社会的生き物である。個人には、公の部分と私の部分がある。公が全てではなく。私が全てではない。公と私の均衡によって個人の立場は保たれているのである。税制度は、その公と私の間にあって公と私を成り立たせている仕組みなのである。

 税の必要性と目的を明らかにする必要がある。その上で、税の働きを検討するのである。税の必要性は、国家目的から求められる。国家目的は、国家の存在意義から導き出される。国家目的の第一義は、国家の存在と独立である。故に、国家目的は、国民の生命財産の保障にある。つまり、治安と国防である。つまり、これが税の使い道の第一義である。その上で、民生の安定と国民の福利である。その為に、社会資本の充実と維持がある。そして、国家の存立意義、即ち、建国の理念である。これらが、税の使い道である。
 そして、税の問題は、必然的に歳入と歳出の問題になる。つまり、国家目的を実現するための資金をどの様に調達するかの問題である。それは、必然的に貨幣制度の問題に転化する。なぜ、国家は、税に頼らず、必要な資金を必要なだけ発行しないのかである。それは貨幣の働きにあるからである。
 貨幣は、市場における財の総量に規制される相対的価値基準である。故に、貨幣の総量は、市場から切り離されると成り立たなくなるからである。通貨の発行は、現実の経済と実態的に関連付けられていなければならない。それが、税と貨幣制度を規制しているのである。それ故に、税として回収され放出されることによって市場と通貨の流量は規制されるのである。この点をよく考慮しないと公共事業の効用は理解できない。問題は、税の波及効果の範囲なのである。
 故に、税の働きは、貨幣の働きに連動している。また、必然的に財政機能をも規定する。

 市場や経済を反映するというのならば、税でなくて、収益でもかまわないのである。要は、経済に連動していれば良いのである。何が本質かを常に見極める目を養わなければならない。

 税の機能は、税を徴収する目的と税の使い道双方から、検討されなければならない。税というのは、ただ闇雲に徴収して良いというのでもなく。無目的に使われて良いというものでもない。不必要に税を徴収するのも、税の無駄遣いも国家社会の在り方を歪める原因となる。税は、納税者、徴税者、双方から厳しく監視される必要がある。

 税の働きというのは、重要である。需要であるという認識はあるが、増税、減税論議が先行してしまい。税の機能や働きというのが見逃されている場合が多い。増税や、減税は目的ではない。また、税は、利権に結びつくと始末が悪い。税は、国民のために活用されるべきなのである。その本質を忘れると、税は、国民に負担を強いるだけの制度になる。大切なのは、税の働きである。
 税は、税が掛けられる対象や考え方によって、その働きに大きな違いが現れる。そして、それは、経済全般に多大な影響を与えるのである。
 また、税の活用方法も然りである。税は、納税者にとっても徴税者にとっても重大な意義があるのである。
 その意味では税制そのものが思想だと言っても過言ではない。

 税のために、企業が倒産したり、成り立たなくなったり、継承できなくなったり、利益が上げられなくなったら、本末転倒である。税は、納税者を、生かさず殺さずといった発想が封建時代にはあった。しかし、国民国家においては、国民を生かすことが税の目的である。国民生活や企業、そして、国家財政が成り立たなくなるような税の在り方、使い方は、封建時代よりも猶、質が悪い。税は、国民にも、企業にも、財政にも負担に働くことがあることを忘れてはならない。逆に、税は、その在り方によっては、国民の為にも、企業の為にも、国家の為にもなるのである。

 何に対して税を掛けるべきかなのである。また、税とは何か。税にどの様な働きがあるかである。その働きも、税を納める側と、税を徴収側それぞれのどの様な作用を及ぼすかが重要なのである。また、経済全体にどの様な作用を及ぼすのか。税の性格は、どの様なものなのか。それは、税の種類によって違ってくるのかである。
 税は、利益に対して掛けられるべきなのか。それとも、資産に掛けられるべきなのか。企業の存在や外形に掛けられるべきなのか。また、税は費用なのか、利益処分なのか。
 税は何等かの対価を伴うものかである。経済効果というのは、基本的に作用反作用の働きを持つ。例えて言えば、納税者側に対しても、徴税者に対しても作用反作用間の働きがある。つまり、納税という行為は、常に、それの伴う反対側の作用がある。その双方の作用、働きを見極めることが重要なのである。

 税は、資産を対象とすべきか。個人を対象とすべきなのか。それとも、所得や利益を対象とすべきなのか。消費を対象とすべきなのか。外形を対象とすべきなのかそれは、税の目的によって変わる。税の目的とは、税に期待すべき役割、機能、それから使い道である。つまり、税に期待されているのは、本質的にその機能、働きなのである。どの様な働きを税に期待するのかが明らかにされてはじめて、増税や減税の議論が成立する。ただ、政治家の人気取りや選挙対策として税が用いられれば、最悪の結果がもたらされる。それは、国民の生活を根底から覆してしまうのである。景気対策と言うだけで、公共事業を発動するのはリスクが大きすぎる。問題は、公共事業の内容であり、波及効果の範囲の大きさである。また、その効果の持続力である。

 税というのは、制度の在り方そのものが思想なのである。

 経済の実体が問題なのである。一方に、家のない人間がいて、もう一方に家が余っている。それが、現実である。なのになぜ、家が分配されないのか。それは、経済の仕組みがおかしいのである。

経済政策に求められるもの


A 経済政策に求められるもの


 経済政策の当事者に求められるのは、消防士の役割なのか、それとも、ボイラーマンの役割なのかである。事故が起こってから対処しても遅いのである。故に、当然求められるのは、後者の役割である。第一、経済危機というのは、自然災害とは違う。経済の仕組みは人工的な産物なのである。人間が作りだした仕組みなのであるから、その制御に人間が責任を負うのは、当然のことなのである。
 万が一、事故が起こった場合も人間が善処しなければならない。
 何れにしても、経済がどの様な機構、仕組みによって動いているかを明らかにする必要がある。その上で、監視装置や制御装置を市場に組み込み、どの様に対処するかを予め想定しておく必要がある。

 大きな景気の変動、時には、経済危機のような激変は、何等かの経済政策を引き金にして起こる場合が往々にしてある。多くの場合、経済政策は、手遅れだったり、対処療法的なものになりやすい。だからといって何もしない方が良いというわけではない。

 医療業界が典型であるが、所得の体系に偏りが生じると、産業自体に不均衡を生み出す。看護、介護と言った仕事に過重な負担がかかる。この様な偏りは、健康保険の在り方や賃金制度の在り方のような制度上の欠陥によってもたらされる。特に、所得の偏りは、産業そのものを成り立たなくしてしまう。
 重要なのは、どの様な医療体制を築くかなのである。そして、必要な産業が、必要なだけの収益をあげられるようにするためには、どの様な施策を採るかなのである。結果がよければいいと言うわけには行かないのが経済政策の難しいところなのである。根本は、価値観であり、思想である。
 悪が栄える、つまり、悪徳業者が儲かるような経済体制は、それ自体、悪徳なのである。儲かればいい。儲けた奴が正しいというのは、道徳を否定していることである。詐欺師や麻薬の売人、恐喝者、ギャング、暴力を取り締まれなければ、経済の正常さは保たれない。
 現代の市場経済は、反道徳的な在り方が横行している。この様な経済体制は、人間の叡智に対する冒涜ですらある。経済は、本質的に道徳的なものである。だから、法によって支配される必要があるのである。

 これから、環境問題や公害問題、食糧問題、資源問題などが深刻になった場合、抑制的、統制的な施策を採用する必要も出てくる。
 その場合、規制をただ悪いとしていたら、必要な施策もとれなくなる。何でもかんでも規制を緩和しろ、なくしてしまえと言うのは、自由な市場を維持するという観点から逆行している場合があることを忘れてはならない。

 過剰流動性は、結果であって原因ではない。不況は、結果であって原因ではない。
 現象であって起因ではない。
 経済対策は、予防的な施策なのか。治療的な施策なのか。災害は、起こってからでは遅すぎる場合がある。人類の歴史は、自然災害との戦いの歴史でもあった。毎年のように氾濫する大河や台風、嵐、地震に対し、人類は、堤防を築き、あるいは、護岸工事をして災害を防いできた。台風や地震という防ぎようのない災害は、建物を堅牢にしたり、強風に耐えられるように工夫して対処してきた。それなのに、人工的な産物である経済にたいして、無為自然に任せればいいと言うのは、理解に苦しむ。

 何に対して過剰なのか。なぜ、過剰なのか。過剰なことのどこに問題があるのか。その点を明らかにしないで、ただ過剰だから悪い、悪いというのでは、対策の立てようがないのである。そこで問題となるのは、政策の目的である。

 つまり、経済政策は、常に合目的的な方策であり、その目的が妥当であるか、否かが、最初の問題なのである。

 行政府は、規制によって市場や産業を間接的に制御してきた。規制は、規則であって制約とは違う。

 なぜ、経済政策は、手遅れになりがちなのかというと、一つは、認識の問題がある。現象として現れた事柄から経済危機の兆しを読みとるのは、極めて難しい。
 また、多くの場合、渦中にある者が判断することになるので、どうしても認識が甘くなる傾向がある。なるべくならば良く思いたいからである。その為に、事態を正しく認識するのに時間がかかると言う事がある。
 例えば、バブル現象は、欲に目がくらんで熱に浮かされるようにして金儲けに奔走しているのである。しかも、バブル現象が起き始める時は、誰もが、儲かるように錯覚している。また、同じように投機に走らないと儲け損ない。下手をすると破産してしまう。逆に、バブルが弾けると一斉に資金を引き揚げてしまう。その時に、投資に走っても資産価格が下がっているから、資金を回収することが難しい。結局、全体の流れに乗る以外に手立てがないのである。

 対策を立てるのに時間がかかると言う事もある。危険を察知してもその危機の原因まで認識しているわけではない。多くの場合、経済の変動を引き起こしている仕組みが解明されているわけではない。原因が分からなければ、抜本的な対策を立てるわけには行かない。どうしても、その為に、応急処置、対症療法的な対策で終わりがちになる。つまり、当座の危機を脱する事だけで終わってしまうことになる。
 また、それを実行する以前に手続に手間取るという事がある。国民国家の宿命は、行政に与えられている権限には限界があることである。抜本的な処置を執るためには、立法府の後ろ盾が必要となる。その為に、必要な手続を行うために時間が費やされることになる。
 尚かつ、指示を関係部署に浸透させるのに時間がかかると言う事がある。対策は、組織的に、かつ広範囲に亘って行われなければならない。
 更に、それが効果を上げるまでに時間がかかると言う事がある。また、即効性のある政策というのは限られている。多くの政策は、実行されてから効果が上がるまでに時間がかかる場合が多い。そうなると効果を検証することも難しい。
 もう一つは、政策の一貫性を保つことが困難だと言う事もある。問題を認識してその対策を立て、実行し、効果が上がるまでに時間がかかるために、その間に政策の変更を受けやすい。その為に、当初、予定していた効果が上げられずに終わる場合もでてくる。

 また、経済政策を執行するにあたって広範囲の合意を取り付けなければならない。その為に、経済政策は、それが潜在的な危機であるうちは、広く合意を取り付けるのが困難であり、危機が顕著にならないと対策を打ち出しにくい性格がある。
 その上、経済危機を上手くやの過ごしたとしても、それに対処した者は、評価されにくいという事がある。
 医者は、病気を治すことによって評価されるが、病気を予防してもあまり評価されることはない。同様に、為政者は、問題を解決することによって評価されることはあっても問題を未然に防いだからと言って評価されることは少ない。
 うまくいって当たり前であって失敗すると、その結果だけで、為政者は、評価されてしまう。つまり、待ったなしなのである。

 だからといって手を拱いてみていて良いというのではない。何かをしたから経済危機が発生したというのではない。それは、結果に過ぎない。経済危機は、何もしなくても起こる。むしろ何もしないという事は、最初から経済現象を制御する事を諦めていることを意味する。経済の仕組みというのは、人工的な仕組みである。人間が制御することを諦めれば必然的に制御不能な状態に陥るのである。神の力に委ねるのは、愚かと言うよりも、無責任な所業である。
 経済危機というのは、一度起きると何年もの間、経済のみならず、社会全般に社会不安のような深刻な悪影響を及ぼし続ける。場合によっては、戦争という惨禍を招きかねない。
 例え、誰からも評価されずとも経済政策は、適時、早めに対処されるべきものなのである。

 経済政策には、金融危機や経済危機のような緊急事態に対する対策とインフレーションやデフレーションと言った経済の全般的流れや状況に対処する施策の二つがある。
 いずれも、対処療法的な施策と構造的な施策があるが、諸般の事情を鑑みると経済政策、中でも、産業政策は、対処療法的な施策よりも産業や市場の仕組みを構築するような構造的な施策である方がよりよいと考えられる。

 現代の経済で問題なのは、家計も、企業も、財政も赤字だと言う事である。
 そして、なぜ、赤字になるのかが理解されていないことが経済現象を混乱させているのである。
 赤字の原因を考えずに、何でもかんでも生産性を上げ効率化を計れば解決できると、短絡的に考えていることにある。

 なぜ、商品が売れないのか。それは、人々が、その商品を必要としていないからである。では、なぜ、必需品は儲からないのか。それは、必需品の多くは、大量に生産され、大量に消費されているために、過剰生産、過剰消費に陥っている場合が多いからである。

 経済は、人的な場、物的な場、貨幣的な場の三つの場からなる。
 それぞれの場は、それぞれ独立した場を形成している。そして、人の動きや、物の動き、貨幣の動きによって結び付けられている。
 人も、物も、貨幣も、三つの場から受ける働きによって運動が規制されるのである。故に、経済現象にも、人的現象、物的現象、貨幣的現象がある。主として経済現象と我々が称するのは、貨幣的座標軸に写像され現象は事象を指して言う場合が多い。

 つまり、経済的な現象には、人的現象、物的現象、貨幣的現象がある。
 そして、経済的空間は、市場と経済主体からなる。市場は、場であり、経済主体は、要素である。経済は、部分(個)としての要素と全体(集合)の二つからなる。

 また、空間を構成する個々の要素の動きを触発するのは、情報と規範である。

 経済政策は、人的な場、物的な場、貨幣的な場、各々の場に対して何に対し、何を使って、どの様に働きかけるかの問題である。
 そして、その答えは、問題を設定する上で、何を目的とし、何を前提するかによって決まる。経済政策は、合目的的施策である。
 その為に、経済の仕組みを予め明らかにしておく必要があるのである。

 典型的なのは、金融危機である。金融制度は、貨幣経済の根幹をなす。金融制度の基盤は、決済制度である。金融危機の多くは、この決済制度の障害によって引き起こされる。ところが為政者の多くは、決済制度に無理解である。その為に、政策が対処療法的な対策になりがちなのである。

 経済、市場、経済主体は、生き物である。動物は、呼吸をしている。脈も打っている。栄養や水分を補給しないと衰弱し、やがては死に至る。経済や、市場、経営主体も同様である。
 経済や市場、経営主体にとって必要な物は、資金である。利益は、体温のようなものであり、体の変調を知らせてはくれるが、それ自体が経済や市場、経営主体に不可欠な物というわけではない。:経済、市場、産業、経営主体を実質的に動かしているのは資金である。その資金を取り仕切っているのが決済制度である。

 資金の増減、流れには、波がある。それは、人間が呼吸をし、脈を打ち、栄養を補給するような事である。動物にとって呼吸や脈拍、栄養、水分が命に関わる大事であるように、経済にとって貨幣の流れは、存亡に関わる大事なのである。

 例えば、通貨の発行にも波がある。波がある。月でみると上旬は、還収超(通貨の回収が発行より多い)になり、下旬は、発行超(通貨の発行が回収より多い)になる。季節の要因では、行楽シーズンの前には、発行超になり、行楽シーズン後には、還収超になる。また、夏冬の賞与の前、決算前、納税前には発行超になり、国債の利払いの季節になると還収超になる。

 資金の流れや波を金融機関が乱せば、経済、市場、産業、経営主体は死んでしまう。資金の流れを制御しているのが決済の仕組みである。
 状況は、時々刻々、変化している。状況の変化を的確に読み、適切な処置を、行政も、金融機関も、行っていく必要がある。
 金融機関がマニュアル通り、決められて事以外の判断が出来なくなれば、状況に適した判断が下せなくなり、金融市場は危機的な状況に陥り、結果的に、産業や景気を悪化させてしまう。

 当たり前なことだが、良い時は良いのであって悪い時は、悪いのである。そして、悪い時にこそ、資金を必要としているのであり、良い時は、資金は、集まってくるのである。企業が資金を必要としているから融資をするのであり、資金を必要としていないときに融資をしても意味がないのである。その当たり前なことが金融機関は解っていない。
 解っていないから、表面的な決算数字だけを問題にするのである。そして、黒字でなければ融資をしない。だから、中小企業は無理をして数字を作るようになるのである。事業をどう評価するかが肝心なのである。

 資金の波は、長期的な要因と短期的な要因からなる。
 経営主体による波は、長期的な要因は、主として初期投資や設備投資からなり、短期的な要因は、運転資金を言う。長期的な資金は、固定的な要素を形成し、短期的な資金は、流動的な要素を形成する。そして、長期的な資金は、長期的な波を短期的な資金は、短期的な波を起こす。
 運転資金には、市場や産業、企業の消長による資金の拡大や収縮がある。また、季節変動に基づく資金の波がある。在庫の増減に基づく波がある。為替や物価の変動による資金の流れがある。
 個々の企業の波が寄せ集まって産業の波を作り、個々の産業の波が寄り集まって経済の波を形成する。

 長期的な波動、短期的な波動の持つ性格をよく把握して政策を立てることが重要になる。資金繰りが悪化しているときに教条主義的な政策をとって資金のバルブを閉めてしまえば、産業は壊滅的な打撃を受ける。地価が下落している時に不良資産の査定を厳しくして、生産を迫れば、かえって不良資産を増やしてしまう。デフレ期に時価会計を導入すれば、収益を圧迫する結果を招く。
 施策とその効果をよく見極めた上で、政策を立てる必要がある。前提や状況を見誤った政策は、決済制度そのものを破綻させてしまう危険性すらある。

 貸し渋りと言った現象が起こる原因は、むろん、個別的、あるいは特殊な要因による場合と、状況や融資側の行動規範による場合とがある。つまり、貸し出して言う行為を抑止する何等かの要因が働いていると考えるべきなのである。
 個別的、特殊な事由による貸し渋りは、通常の融資行為の範疇にはいる。それに対し、状況や融資側の行動規範に基づく行為は、その状況に対する認識や行動規範に問題がある場合が想定される。

 問題なのは、景気の悪化に伴い収益が低下した場合である。この様な状況化で、従前の貸出基準を適応したり、あるいは、更に厳しい基準を当て嵌めようとすれば、当然、貸出可能な企業の数は減少する。また、全ての産業を一律の規制や規則で統御しようと言うのにも無理がある。
 それは、例えば、景気の悪化によって資金需要が増大している状況で、貸出を絞ることになるような事態を起こし、景気は益々悪化させるという悪循環を引き起こしたりする様な状況になりかねないからである。
 その場合、その様な事態を引き起こしのは、融資側の姿勢に問題がある。企業の業績の悪化が、どの様な要因に基づき、また、一時的なものであるのか、恒久的なものであるのかを、個々の事例毎に融資側が行っていない、判断できないことが原因なのである。

 景気が悪化している時に、収益の悪化を、あるいは、資金繰りが苦しくなる環境の時に、キャッシュフローを理由に融資をことわったるのは、病人に、病気を理由に治療をことわるのに等しい行為である。それは、人道的な問題でもある。金融機関の人間が倫理観が欠如しているのではと言われる要因もその点にある。
 重要なのは、収益が悪化した原因であり、また、資金繰りが苦しい原因である。症状が一時的な原因なのか、慢性的な原因なのか、構造的原因なのかによって違う。また、固有の問題なのか、産業全体の問題なのか、経済状況の問題なのか、為替の変動なのか、政策の問題なのかによっても違う。また、外生的な要因か、内因的な問題なのかによっても違う。その点を見極めないと、治療法は定まらない。
 今の経済政策は、経済診断をせずに、外見や表面的上に現れた現象で判断した、対処療法的な施策に終始している。それが最大の問題なのである。
 
 金融の機能が発揮されなければならないのは、景気や企業業績が悪化した時である。その時、資金を引き揚げられてしまうのでは、何のための金融機関なのか金融機関の存在意義が問われる。

 合成の誤謬とは、自分の視野の狭さの言い訳に過ぎない。語彙性の誤謬というのは、目先の現象にとらわれて全体の状況を見落としているのである。木を見て森を見ずである。

 市場というのは、人為的な場である。人為的な場というのは、人工的に作られた空間に、人工的に作られた働きや力が作用している場だと言う事である。市場は、天然自然にある空間とは違う。それは、スポーツのフィールドのように人間によって作られ人口の空間なのである。
 人為的空間である市場には、人為的な範囲がある。人為汽笛な範囲は、法や要素が影響を及ぼす範囲を指している。国家は、国法の及ぼす範囲であり、必ずしも物理的空間に拘束されているとは限らない。つまり、それは観念的な空間であり、契約に基づく空間である。
 即ち、人為的空間は、有限な空間である。また、人為的な場も有限な空間である。これが物理学的空間との決定的な違いである。

 国家間には、制度的な歪みがある。典型的なのは、税制や会計制度、金融制度である。この国家間の歪みの是正は、経済政策上、重要な条件である。

 また、経済を現象は、情報によって引き起こされる。経済にとって情報は、重要な要因である。

 情報に基づいて結論を出す場合は、その情報と結論との因果関係をよく見極める必要がある。ある結果が出た時、その結果の原因となったのが、自分達が発信した情報という事さえあり得るのである。
 重要なのは、目的であり、手段ではない。手段は、目的に規制されるべきものなのである。手段によって目的が歪められるのは本末転倒である。
 格付けによって倒産する会社があるという事である。つまり、本来は、倒産を予測するはずの基準が、倒産の原因になるという事である。それによって倒産の予測値がよくなったとしても、それを精度が上がったと言いきれるかどうか。自分が事故を誘っていて事故の発生原因を突き止めたとしても事故を予測する精度が高くなったというのは、詐欺に近い。ウィルスを蔓延させて、そのワクチンを売るような行為である。

 倒産を予測することも大事だが、それ以上に大事なのは、倒産を防ぐ手立てを講じることである。

 人的な場である市場は、人間の手が加えられなければ、無秩序な空間である。
 つまり、自然の空間、ジャングルと変わりがない。支配するのは、個々人の力、暴力による力関係である。この様な力は、市場を偏らせたり、経済体制に歪みを生じさせたりする。
 むろん、だからといって、ただ、規則を定めただけ、そのまま放置し続けるならば、一定の水準に均衡してしまう。

 歪みや偏りは、産業間の収益格差や経営主体内部の所得格差として現れる。
 収益の格差は、貨幣価値体系に歪みが生じるさせてしまう。貨幣価値の体系の歪みは、人間の価値観、倫理観にをも歪めてしまう。拝金主義が好例である。
 楽をして金を儲けることばかり考えて、汗水垂らして働くことを厭うようになり。金を儲けの為ならば、どんな悪事をしようとも平気になり、人間としての誇りを失う。何が、人生にとって必要で、何が生きていく上で大切なものか、人間として何を守らなければならないのかを忘れてしまう。
 本来は、必要性が高い財ほど、価値が高ければならないはずなのに、不要な物、特殊な物、異常な物に高い価値が付けられたりする。
 つまり、産業間の収益力の差をなくすことは、経済政策の重要な指標、目的の一つである。

 価値観の歪みは、経済の選好に偏りを生じさせる。この様な偏りは、産業の収益力の差となって現れる。
 問題は、この歪みを必然的な結果として予防的な処置をとっていないことにある。
 産業の収益力は、一律に決まるものではない。個々の市場が持つ特性や環境、状況によって収益力に差が出る。その差を是正するのは、規制である。
 例えば、成長段階にあるIT産業と成熟産業である繊維産業や生鮮食品産業とでは、市場の環境も状況も全く違う。

 偏りが発生する原因は、過当競争、不当廉売、急激な技術革新、資金力の差(設備投資の差)、寡占・独占、闇協定・闇提携、人件費の差等である。しかし、これらの原因は、視点を変えると市場や経済に必ずしも負の働きをするというわけではない。一つは、捉え方問題であり、状況の問題なのである。大前提は、経済や市場をどの様な状態に保とうとしているのかである。そして、市場や経済の状況を維持しているのは、市場や経済の仕組みである。

 何が、正しくて、何が間違っているか。是々非々の判断は、その産業がおかれている状況や環境、前提によって違ってくる。設備投資に莫大な投資を必要とする鉄道やエネルギー産業と個人の能力に依存するソフトウェア産業とでは、採るべき政策が違うのが当たり前なのである。それを何でもかんでも闇雲に規制をなくし、自由に競争させれば、予定された調和に至るという発想は野蛮である。大体、調和に達することが本当に良いのかどうかも怪しいのである。

 市場原理主義者の中には、何が何でも規制は悪い者だと決め付けている者がいる。規制緩和という言葉にも、規制を単純に緩くすると言う意味合いしか感じられない。しかし、規制を緩和すると言っても、実際には、規制の一部を変えたり、また、規制を変更しただけに過ぎない場合が多い。なぜならば、規制を単純になくしたら、市場の規律は、保てなくなるからである。

 市場が飽和状態に陥っているのに、産業構造を抜本的に変革をしないと過剰生産、過剰消費、過剰債務、過剰雇用、過剰設備を生み出す原因となる。そして、余剰な財を社会に溢れさせる。
 競争原理を働かせて仕事の効率を図る、それは、無原則な競争を放置することではない。
 無原則な競争を放置する事は、伝統的産業や生活必需品の低廉化を招く。社会にとって必要な仕事、必需品を生産する産業が、コモディティ化し、人手不足に陥り事になり、反面、贅沢品の産業に人手が過剰に集まる事になる。

 市場を制御するのは、市場の仕組みである。市場の仕組みは、制度や規制、罰則、報償という観念的な仕組みを言う。

 経済政策とは、この市場を制御する仕組みを使って伝達され、発動される。行政府は、市場の仕組みを使って経済を制御するのである。

 市場原理主義者の者には、(よく彼等を市場至上主義者という言い方をするが、市場の機能、働きを正しく理解していないので市場市場主義者というのには、語弊がある。)規制を全て撤廃しろと言った乱暴な考え方をする者がいるが、それは、市場そのものを正しく理解していない者である。彼等が市場を重視しているというのは、とんでもない誤解であり、彼等こそ、市場を軽視しているか、無視しているのである。

 経済の円滑に機能しないとしたら、規制そのものが悪いのではなく。規制の在り方が、状況や環境に不適合なのである。

 硬直的な規制や偏った規制が問題なのである。規制が良いか、悪いかのが問題ではなく。適正な規制であったか、否かが問題なのである。その場合、規制の目的が基準となる。

 規制は、市場の自由な働きを阻害しているというが、では、自由な市場とは何かと言うことである。

 自由な動きを阻害する規制は不適合だと言う事は出来ても、規制が自由を阻害しているというのは、間違った認識である。
 規制は、規則であって、阻害ではない。
 それは、法が罪を作るのだから、法がなければ罪が生じない。だから、法をなくせと言うのに相当する。確かに、法によって罪は定められる。しかし、法を否定してしまったら、自由主義社会は成り立たないのは、自明な事である。
 規制が経済を作る。それは、事実である。だから、規制をなくせと言うのは論外である。問題は、規制の在り方なのである。
 また、自由が全てではない。仕組みとは、自由を抑制することによって成り立っている部分もある。問題の焦点は、経済の目的であり、規制がその目的に適合しているかなのである。

 付加価値、付加価値と新興産業ばかりに収益の偏りが生じると農業や漁業と言った伝統的産業や生活必需品、消耗品の産業が衰退してしまう。それは、伝統的産業や必需品、消耗品は、技術革新の速度が弱まり、産業の標準化、平準化が浸透しているからである。
 基幹産業が貧者の産業化してしまうのである。

B 財政と経済政策


 経済政策の鍵を握るのは、財政である。
 財政というのは、本来、合目的的な構造を持つ。今日の財政の問題は、財政が手段と化している事である。公共事業の目的が問題なのではなく。公共事業をすることが目的と化している。借金をする目的が問題なのではなく。借金をすることが目的と化している。その為に、財政本来の目的が見失われ、本来の機能が発揮できないでいるのである。

 では、財政本来の目的とは何か。それは、国家建設と国家運営にある。国家建設や国家運営に必要な資金をどの様に調達し、どの様に活用するかにある。故に、財政の目的の根源は、国家理念であり、憲法によって規定されるべき理念である。

 言い換えると憲法によって確立された理念に基づいて国家を建設するための手段として財政は、位置付けられるのである。
 故に、財政は、合目的的でなければならないのである。

 現在、国家財政は、破綻の危機にあると言われる。実際に破綻の危機にあるのか。また、何に照らして破綻の危機にあると判断されるのか、その基準は、現在市場経済の原則にある。

 現在の市場経済は、会計の文法、文脈によって成り立っている。それに対し、財政は、違う基準によって成り立っている。財政赤字の代表される。財政の問題点は、この会計の文脈と財政の基準の違いに起因している。
 
 財政と会計制度を基盤として市場経済との違いは、財政と市場との連続性が保てなくなっている。その結果、財政赤字の本質が理解されていないのである。

 故に、市場経済を基盤としている国家では、財政と、会計の違いには、どの様なことがあるのか。それを明らかにする必要がある。

 財政を考える時は、収入と支出両面から考える必要がある。
 国家収入には、第一に、税収。第二に、借入。第三に、事業収入。第四に、資産運用益。第五に、通貨発行益がある。
 支出面とは、使い道を考えることである。

 財政は、第一に、期間収支を基本としている。それに対して、会計は、期間損益を基本としている。第二に、現金主義である。それに対して、会計は、実現主義である。第三に、予算主義である。会計は、実績主義である。実績主義とは結果主義である。予算主義は、言い換えると先決主義である。先決的な体制が維持できる前提は、全ての事象が予見できる事である。つまり、あらゆる生産と消費、収入と支出が予測可能で、予め設定できなければならない。それに対して、会計は、全てを予見することは、不可能であり、それ故に、状況に合わせて適時、各々の権限によって決断できる仕組みを前提とするのである。だからこそ、モラルハザードが問題になるのである。
 多くの人は、財政の破綻の原因は、官僚の横暴さにあるように言う。しかし、私は逆だと思う。あまりにも、官僚は権限を与えられていない。予算が決められたら、その範囲でしか判断が下せない。その為に、官僚制度が硬直化しているのである。むしろ、大幅に官僚に権限を与え、その代わりに責任を明確にした方が財政は健全化できる。
 これらの財政に対する現在の原則が今日の財政問題の元凶である。
 特に、財政の原則と会計の基準との相違は、決定的な要因の一つである。

 財政には、第一に、資本という概念がなく、経済主体の所有権と経営権が未分離だと言う事である。これは、主権者と政府との関係が未分離であることを意味する。
 第二に、期間損益ではなく、期間収支である。故に、利益という概念がなく、残高が基準となる。基本は、一定期間における現金収入と現金支出の残高である。
 利益は、情報であり、現金は現実である。問題なのは、利益が示す情報の意味であり、現金が表す現実である。情報の意味は、即ち、情報を成り立たせている観念、思想である。それがあって現実は意味を持つ。
 第三に、現金収支という観点から、財政は、長期均衡ではなく、単年度均衡を基本としているという事である。その為に、減価償却という概念がない。また、財政には、費用の繰延という思想がもてない。会計は、継続を旨として長期均衡主義の立場にある。故に、償却という概念と費用の繰延という思想が成り立つ。単年度均衡に基づく制度は、時間価値が成立しにくい仕組みなのである。
 第四に、複式簿記ではなく、単式簿記を基盤としている。単式簿記というのは、現金主義であることを意味している。現金主義というのは、現金取引を基礎とした思想である。現金取引は、取り引きの軌跡だけを示しているのであり、取り引きの内容、構造まで明らかにしているわけではない。つまり、現金によって明らかにされるのは、資金の動きである。資金の動きとは、その時点、時点で実現した貨幣価値の軌跡である。
 現金主義では、貨幣価値の実現は表現できても取り引きの内容までは理解できない。また、取り引きの背後にある貨幣価値も捕捉できない。ただ、貨幣価値の過不足だけによって取り引きを認識せざるをえないのである。
 第五に、資産、負債、資本、収益、費用、資本の区分がない。基本的には、財政で重要なのは、現金残高だけである。つまり、財政では、負債と資産、収益と費用の因果関係が確立されていない。

 もう一つ重要なのは、自由主義経済の前提は、貨幣経済主義だという点である。注意しなければならないのは、貨幣には、実物貨幣と表象貨幣があるという点である。そして、自由経済における貨幣とは、表象貨幣を意味する。
 実物貨幣と表象貨幣とでは本質が違う。実物貨幣は、貨幣その物が価値を持つが、表象貨幣は、貨幣価値を指し示す表象にすぎない。
 そして、表象貨幣の源は、借金なのである。
 表象貨幣は、決済する事を前提として成り立っている。決済とは、同量の貨幣価値を実現する事によって債権債務関係を解消し、それをもって取り引きを完結させる行為を意味する。その前提は、債務と債務を保障する者の存在を前提とする。つまり、表象貨幣というのは、貨幣価値を何者かが保証することを前提としているのである。国民国家では、貨幣価値を保証する者は、国家であり。国家が、貨幣価値と支払を保証するという点において表象貨幣は、国家の債務でもあるのである。

 財政の問題を論じる時、近年は、常に、赤字問題でしかない。赤字を論じる場合でも、いかに赤字が多いか、あるいは、いかにして赤字をなくすかの問題が主であり、なぜ、赤字か生じるのか。財政赤字とは何かについて論じられることがあまりない。

 財政赤字が深刻だから財政再建は、喫緊の問題だと内外、政府、メディアが大騒ぎをしている。しかし、ではなぜ、財政赤字は問題なのかと改めて問い直すと、赤字だから悪いと言った類の解答しかない場合が多い。要するに解っていないのである。

 財政赤字の議論は、財政は、赤字だから悪いのであって、それ以上でも、それ以下でもない。しかし、本来は、財政の在り方である。健全な財政とはいかなる物なのかの問題なのである。その上で、財政赤字がどの様な影響をもたらすかが問題なのである。

 その意味では国債の活用が重要になる。
 国債というのは、国の借金を意味すると見なされている。しかし、国債を所謂(いわゆる)個人の借金と同一視するのはおかしい。

 国の借金、国の借金と言うが、国債の働きを、ただ、国の借金としてしか捉えられないとしたら、それは間違いである。
 国債を負の作用だけで見るべきではない。国債には、信用を創出するという作用や資金を調達するという働きがある。更に、通貨を発行するための根源でもある。
 つまり、国債は、通貨を制御するための重要な手段ともなるのである。問題は、国債を発行する際の財政規律である。国債が悪いのではなく。国債を無原則に発行することが悪いのである。
 国債は、財政破綻の補填という機能よりも通貨の制御するための手段と言う事の働きの方が重要なのである。問題なのは、財政が国債本来の機能を阻害することである。財政の規律があって国債は正常に機能する。故に、財政の赤字が問題なのではなく。財政の赤字によって国債が本来の機能を発揮できなくなり、経済が混乱することなのである。

 また、財政赤字問題では、財政赤字の背景も重要となる。そして、財政の背景となる仕組み、構造を明らかにするためには、複式簿記に基礎を置いた会計制度に依る必要があるのである。
 民間企業と財政とは、経済的価値の基準が違うのである。故に、赤字と一口に言っても赤字の持つ意味が違うのである。
 家計が赤字だと言っても大地主や資産家の家計と所得だけで生計を立てている家計とでは赤字の意味が違う。
 赤字だと言っても財産や蓄えが豊富にあれば、収支が合わなければいつか蓄えを食い潰してしまうと言うだけで、すぐに破綻するというわけではない。
 相続税対策のために、年収の何十倍もの借金を故意にする者すらいるのである。

 赤字国債というものをどう考えるかによる。確かに、借金は、返済することが原則である。しかし、国債を家庭や企業の借金と同列に考えるのは、おかしい。国債には、信用の創出と紙幣の発行の動機と言う事がある。むしろ、財政の延長線上でのみ国債を考えることの方が問題なのである。
 それに、借金があまりに巨額になると返済しきれなくなる。公債の歴史は、この財政赤字をどうするか、そして、返しきれなくなった公債をどうするのかの歴史だと言って良い。これは、税の有り様にも重大な影響を与えてきた。
 公債を返せなくなった時、どうするのかというと。一つは、返さなくていいいものに置き換えるという手段をとると言うことである。第二に、貨幣価値を下げる。第三に、借金そのものの価値を下げる。第四に、債務不履行である。第五に、凍結してしまう。第六に、体制を根本から変えてしまう。
 第一の返さなくていい物に置き換えると言った場合、返さなくていい物とは何かであるが、それは、第一は、紙幣、証券である。第二は、資本である。つまり、株である。第三に、税である。第四に資産である。第五に、負債、借金の付け替えである。第六に、預金、貯金に替えてしまう。
 実は、この六つは、資本主義経済の黎明期に行われた事なのである。そして、バブル現象を引き起こしている。
 借金を構成する要素は、第一に、元本。つまり、借金そのものの本体であり。第二に、金利。これは、時間経過から生じる価値。第三に時間。第四に貸し手。第五に借り手。そして、第六に担保。第七に、返済方法です。借金を解決する手段はこの七つの要素の中に隠されている。
 公債の歴史というのは、ただ返却すればいいと言うのではなくて、返せなくなったらどうするのかと言うところからはじまっているんである。それが、議会を生み、戦争や革命を引き起こしている。
 そして、それが結果的に近代の貨幣制度の在り方を変革してきたとも言える。つまり、国債を考えることは、貨幣制度を考えることに繋がるのである。ただ、借金をどう返すかの問題だけで終わるわけではない。

 ただ、払いきれない借金は、踏み倒してしまえばいいと考えられたら困る。やむおえないから、また、財政の赤字や国債が貨幣の正常な働きを疎外するようになるから、窮余の策として考えられたのである。財政の赤字や国債の大量発行には、必ずと言っていいほど戦争や濫費が絡んでいる。これらは明らかに人災なのである。問題は、財政の規律にある。財政の規律が保たれなくなると貨幣の信認も失われるのである。

 最初に景気対策、公共事業ありきで赤字国債を垂れ流しすべきではない。同様に、財政再建が全てに優先され国際に対する柔軟性が失われるのも困りものである。
 大切なのは、国家百年の計である。
 公共事業こそ、巨額の資金と長期の時間を必要としている。故に、単年度、単年度で事業を捉えようとすれば、事業として均衡するのは難しい。
 景気対策は、資金が巨額な上、長期間、人手を必要とする事業だからこそ、調整することができるのである。それは、事業計画に沿って為されるべき施策であることを忘れてはならない。

 借金というとすぐに返すことばかりを思い浮かべる。借金は、返さなければならないと言う、それが圧迫感や威圧感を生む。しかし、貸す側から見て返して欲しくない借金もある。
 その意味では、貸付金や借入金のことを考える上で、預金の事を考えるといい。
 預金は、典型的、借入金であり、貸付金である。預金というのは、預金者が金融機関に資金を貸し付けることである。しかし、預金者のほとんどは、自分が金融機関に貸し付けている。つまり、融資しているという自覚はないと思われる。預金者は、預金という言葉から見ても解るように、お金を預けているという感覚である。
 預金は、貯金、貯蓄と言う意味合いが強いのである。それは、資金を貯めている(プール)していることを意味している。
 しかし、現実には、預金は、金融機関への融資なのである。預金の数だけ貸付金の種類があるといえるのである。だから、借金のことを考える場合、預金を考える事は、いろいろと含蓄があるのである。

 我々は、取引の一面しか見ない傾向がある。借りると言う事は、貸すという行為の表裏を為す行為、取引である。売ると言うことも買うという取引の表裏を為す行為である。つまり、取引には、必ず、同量の反対取引が存在する。債務には、同量の債権が生じる。これを取引の作用反作用という。銀行が融資を実行すると言う事は、借りる側に債務と現金収入が生じると、同時に、貸した側に債権と現金支出が生じると言う事を意味する。そして、その元は、金融が預金者から資金を借りること中央銀行から融資を受けることなのである。
 借金というのは、反対給付のない一方通行的な行為ではない。借りたから返さなければならないのである。逆に言えば、借りなければ、返す義務は生じないのである。借りてもいない物を返すと言う行為は、返済ではなく、強奪である。
 もう一つ、借りたから、信用取引が生じるのである。売掛金も買掛金も信用によって成り立っている信用取引である。この信用取引が、貨幣制度の前提となる。貸借関係がなければ、現在の貨幣制度は成り立たないのである。
 国債の問題を考える時これを忘れてはならない。貨幣制度の根本は、融資、即ち、借入にあるのである。信用収縮というのは、この貸借関係が収縮することによって始まる。
 借金の原点は、資金調達なのである。つまり、資金、現金を調達したから、得たから支払義務、返済義務が生じたのである。そのことを忘れてはならない。
 もう一つ、借入を行ったから、信用関係が生じたという事である。
 
 返済とは、融資と関係から捉えるべきなのである。それは、元本の返済と利払いの違いにも表れる。会計的に見て元本と金利は、本質が違う。故に、会計上の処理の仕方も違てくる。
 高利貸しは、借りる時は、仏に見え、返す時は、鬼に見えるとも言われる。先ず、金を借りる必要があるから、返す責任が派生するのである。
 もう一つ重要なのは、借入を立てた時、金融側から見ると貸し付けた時、つまり、融資が実現したときに一番、信用の度合いが強い時、信用枠が大きい時である。そして、回収、即ち、返済が始まるとその信用枠は、収縮していくのである。

 貸す側は、借金を返されると信用枠が収縮するのである。逆に言うと貸付金によって信用枠は拡大する。つまり、金融機関は、金を借りてもらわないとなりたたない。また、金を借りてもらわないと、信用量、即ち、紙幣の裏付けも拡大しないのである。

 住宅ローンが典型である。住宅ローンは、住宅ローンが設定されたが、一番、与信枠が拡大した時である。そして、非償却資産である土地の価格が上昇している時は、元本の保証は、土地の価格によって為されるのである。そうなると、金融機関は、金利さえ、確実に払ってもらえるのならば、借金を返してもらうことよりも、借金をしつづけていてもらう方が得なのである。それがサブプライム問題の背景にある。これが現代の経済の根幹にある原理である。この点を理解してないと、今の金融危機や財政の本質が見えてこない。
 国債も返されては困る部分があるのである。

 預金をされて困ることもある。つまり、貸付金が減り預貸率が下がると金融機関は、借入の負担が高まるのである。つまり、むやみやたらに預金を集めるという行為は、むやみやたらに借金をする行為なのである。しかも、高利で預金を集めるという行為は、高利貸しから借金をすることと変わりないのである。
 
 もう一つ、覚えてなく必要があるのは、現金勘定というのは、支払準備を意味するという事である。支払を準備するために、現金預金が必要とされる。
 融資と言っても現実に現金のやりとりが行われる取引は少ない。多くは、帳簿上で行われ、実際には、金融機関内部での取引に置き換えられる。

 金融機関からの借入金と支払に充てた現金とが全く同じだと仮定した場合、金融機関が現金を支払って購入し、借り手側が使用料を支払っているという解釈も成り立つ。ただ、その場合、最終的所有権の問題が発生するが最終的に資産の所有権も移転するとなると、実体は、融資と変わりない。その実例が、ファイナンスリースである。
 この事は、借金、即ち、貨幣の働きの持つ一面を現れているとも言える。つまり、貨幣というのは、信用で成り立っていて、実際に現金という物を介さなくても成り立つのである。そして、貨幣経済の根底となる信用の規模というのは、負債によって成り立っているのである。

 急速な信用収縮は、金融機関の貸付金の毀損が原因となり、これは、借り手側の債務の毀損より生じる。借り手側の債務の毀損とは、貸し手が担保としている債権の毀損である。この事は、金融機関の債権の毀損を意味する。金融機関の債権を圧縮しても、金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の持つ債権を健全化したことにはならない。つまり、何等かの形で金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の経営は健全化されないことを意味している。必然的に、預金の価値を圧縮することも含まれる事を意味するのである。

 負債とは、負の債権というニュアンスからマイナスのイメージを持たれやすい。しかし、信用制度の基盤は、信用を担保とする負債であることを忘れてはならない。

 借金というのは、決して、社会、国家に対して負の作用だけをしているわけではない。負債には、第一に、資金を貯めておく、貯蔵しておくという働きがある。第二に、信用を生み出し、貨幣の裏付けをするという働きがある。第三に、支払を準備するという働きがある。また、決済という機能もある。
 この様な点を考えると、元本の保証である債権が急速に収縮したからと言って不良債権の回収を急ぐと急激な信用の収縮が起こり、信用制度を根本から瓦解させてしまう危険性があるといえる。
 むしろ、借金があるから、市場は成り立っているのだとも言える。国債は、通貨の量を決定付ける重要な要素なのである。表象貨幣の根源には、国債があるとも言えるのである。故に、国債は、残高水準が重要なのである。

 国債は、担保する基となるの物が、国家の信用なのである。そして、それが信用制度の基盤の本質である。

 経済の問題は、最終的には、金、即ち、貨幣価値に還元されるが、本質は金の問題ではない。経済の問題は、誰が、何を、どの様に負担するかでの問題であって、それに必要な資金をどうするかの問題なのである。
 高齢者や未成年者、病人を誰が、どの様に世話をするかの問題があって、それを具現化するのが財政である。
 例えば、年金の問題の根本は、誰が、高齢者の面倒を見るかであり、その為に、どの様な仕組み、年金制度が適切かの問題なのである。最初に、年金制度ありきではない。
 財政の問題は、経済の問題である。それは、自分の国をどの様な国にするのかの問題なのである。

C 市場に対する経済政策


 2008年に端を発する金融危機も背景には、サブプライムローンや証券化に対する規制の問題がある。規制を問題とする時、どの様な目的で何を規制するか、あるいは、したか、また、どの様な手段を用いたかが問題なのである。それを実証的に分析することである。ただ、規制をなくして市場の原理に任せてしまえと言うのは、一種の宗教的信条に近い。

 かつて、外資の圧力で市場開放を多くの市場で行った。その結果、企業収益が悪化して結果的に進出した外資も撤退を余儀なくされた。それは、目的と手段の不適合が原因である。市場を開放する事と規制を緩和することは必ずしもイコールではない。

 経済的現象は、時間の関数である。経済現象は、経済の表層に現れてくる動的な現象と深層にある静的存在によって引き起こされる。例えば金利は、元本と時間の関数である。また、償却資産の価値も資産価値と償却費とによって計算される。
 経済政策は、この動的(流動的)部分と静的(固定的)部分に対するどう働きかけによって為される。そして、その手段は、経済の仕組みが、どう動的な部分や静的な部分に作用するかによって決まる。

 また、動的な部分を基礎とするか、静的な部分を基礎とするかによって現象の捉え方かが微妙に違ってくる。なにが正しいかは、状況や事情、前提、目的に従って任意に決める事である。

 動的な部分や静的な部分の働きをみる上で重要になるのは、個々の要素の有り高、残高の水準である。

 ストック(固定)部分の水準が重要な意義を持つ。例えば、為替の水準、在庫の水準、失業者の水準、人口の水準、年齢構成の水準、生産量・収穫量の水準、通貨量の水準、金利水準、国債残高水準といった水準である。
 水準には、失業率のような人的な水準、生産量、収穫量などの物的水準、為替の水準や金利水準のような貨幣的水準がある。また、名目的水準と実質的水準がある。
 また、これらの水準は、絶対量の水準と相対的率の水準の両面から考える必要がある。
 相対的水準というのは、第一に、時間の経過に基づく推移を表したもの、第二に、ある全体に占める割合を示した割合、第三に、何等かの対象と比較し、その基準や対象に対する比率を示したものがある。第四に、何等かの基準を設けて指標化、指数化することである。
 これらの水準は、一つの目安となり、また、経済政策を執行していく上での計器の役割を果たす。
 水準をみることによって変化しない部分(不易)、変化する部分(変易)をよく見極め。それを単純化、法則化すること(簡易)が肝心なのである。
 経済的現象は、単価×数量×時間で表される。即ち、貨幣価値と数量(物・人)と時間の関数である。貨幣価値と数量と時間の、何を基数とし、何を変数とし、何に働きかけるかが経済政策の要点である。

 経済は、人為的な空間に生起する現象であるから、経済制度や経済機関というのは、任意な設定条件に基づいている。
 市場や経済の仕組みは、所与の条件が与えられているわけではない。経済制度を設定した時の条件は、条件を設定する上での前提条件によって成り立っている。故に、経済政策の働きを理解するためには、この設定条件と前提条件を確認する必要がある。つまり、初期設定が重要になるのである。そして、合目的的である経済政策は、その目的が決定的要因となる。

 経済政策は、何を前提とするかによって違ってくる。経済政策を立案する上での前提要因には、制度的前提、原理的前提、物理的前提、環境的前提、主体などがある。制度的前提には、会計制度や為替制度、金融制度、貨幣制度、市場制度、法制度、経済体制、政治体制などがある。
 原理的前提には、会計公理や会計原則、複式簿記の原則、市場原則、取引原則などがある。
 物理的前提としては、人口、資源、気候、交通、インフラストラクチャーと言った前提がある。
 この様な経済の設定条件を左右するのは、経済に対する思想である。

 保護主義的な政策は、間違っているというような意見がみられる。しかし、その場合、何が何でも保護は悪いと言っているような者も見受けられる。しかし、問題は、何から、何を保護するかであって、消費者保護や金融制度の保護まで保護主義的だと断罪するのは行きすぎである。
 ただ言えることは、保護すべきなのは、市場であって、特定の企業だったり、産業ではないという事である。

 今の日本は、何でもかんでも、基本的に安いことはいいという前提に立っている。しかし、ただ安ければいいと短絡的に考えるべきであろうか。価格を維持するための努力は、社会悪と決め付けていいのであろうか。安く売るという事は、安くできるという事である。ところがこの安くできると言うところに落とし穴がある。ある限界を超えて安くするためには、何かを犠牲にしなければならないという事を忘れてはならない。

 製品と貨幣を生み出して、ただ、流せばいいと言うような経済構造になっている。それが問題なのである。そこには、経済とは何か。経済本来の目的や機能が忘れられている。

 なぜ、安売りが横行するのか。それは、現在の産業構造が原因である。多額の設備投資をし、その投資を回収するためには、設備の稼働率を高めるのが最も効果的だからである。つまり、巨額の投資と生産性の向上が至上命題となるから、安売りが横行することになる。いわば、大量生産によって安売りが横行し、大量消費を促すという構図になる。
 この様な安売りは、巨額の設備投資を前提とする。故に、設備投資に必要な資金を調達できない企業は淘汰されていく。しかし、何でもかんでも大量生産がいいというわけではない。大量生産は、財の質を同質化する特徴がある。その為に、消費者にとって選択肢が狭められる結果を招くことになる。また、市場の独占や寡占をもたらす。また、巨額の初期投資は、巨額の負債を前提とし、長期の返済、費用の固定化を意味し、廉価販売は、恒久的な収益の低下をもたらす。それが実物市場を衰退させる原因ともなる。つまり、構造的不況の要因となるのである。

 安ければいいではなく。あくまでも、適正な価格を維持することが重要なのである。

 この世の中には、金で片付かないことはいくらでもある。金に代えられないものもいくらでもある。また、金に換算できないものはいくらでもある。一番、良い例が、愛情である。親子や恋人の愛情を金に換算するほど野暮なことはない。
 金は、相対的な基準である。絶対的なもの、つまり、比較対照する物がない物の価値は、計れないのである。神への信仰心は計れない。愛国心も計れない。友情も金に代えられる物ではない。つまり、基準が違うのである。市場は、貨幣によって支配されている。故に、不道徳な世界なのである。不道徳だから、法によって規制するのである。
 逆に、家族や仲間、地域コミュニティ、学校という共同体は、道徳的世界である。だからこそ、法以外の基準に拘束されるのである。
 この世の中には、共同体的世界と市場的世界がある。つまり、金銭的な世界と、金銭的でない社会とがある。それぞれの世界が共存することによって世界は成り立ってきた。その境界線を超えて市場が全てを支配しようとしている。それが、現代社会の問題の根底にある。
 妻の作る料理とレストランで作る料理とは別世界の料理なのである。家庭内の労働を市場の基準や論理で金銭に換算することは不可能ではないが、意味のないことである。心を込めて作った料理と高価な料理を比較したところで何の意味もない。要は、どちらを選ぶかに過ぎない。ただ、家庭と言った共同体、人間関係を頭から否定してしまうとただ技術的な、人間性を否定した価値しか残らないと言うだけである。むろん、一方的に家庭内の労働を押し付けるのは問題である。ただ、それは家庭内の問題であって、市場の問題ではないという事である。
 主婦は、売春婦ではない。快楽を目的としただけの人間関係ではない。家庭内の労働は、金に換算できる性質の物ではない。
 年老いた両親の世話は、金でできるものできない。肝心な事は、誰が、最後まで面倒を見るのかの問題である。設備や施設を整えることではない。設備や施設は金で買えても愛情は金で買うことができないからである。そのことを議論しないで、ただ、施設や設備を整えればいいと言うのは市場の論理に毒されているからである。
 子供の世話を誰が見るのかである。金を出して施設に預けることが良いのか。自分が外に働きに出て、後の世話は金で片付けるのが良いのか。それとも、自分の両親に頼むのが良いのか。地域社会で面倒を見るのが良いのか。それとも母親が世話をするのが飯野かの議論が先ずあるべきなのである。その後で、それを税金で賄うべきか、否かの問題が議論されるべきなのである。ところが今は、何よりも先に金の問題が先行する。それは、共同体の論理が崩壊した証拠である。
 この世の中には、金に代えられない物がある。金で片付かない世界がある。それを前提として、経済は成り立っている。もし仮に、全てを市場の論理で計算したとしたら、経済的には成り立たないであろう。利益は、望めないであろう。共同体内部の労働には、制限時間がないからである。時間に換算できないからである。
 税という制度を考える時、税のことを考えるのではない。どの様な社会を、どの様な国を造るために、どの様な税が必要かを考えるべきなのである。経済は、国民生活の結果に過ぎない。経済のために、税という制度があるわけではない。国民の生活、もっとありていに言えば、国民の幸せを実現するために税制度はあるのである。
 我々は先ず何を護らなければならないのかを明らかにしなければならない。守るべき仕組みが自由主義体制なら自由主義体制を守るための規制をすべきである。確かに、規制によっては、自由主義体制を崩壊させるものもある。だから、一律に規制は悪いというのは、短絡的すぎる。自由主義体制を崩壊させる規制が悪いのであって、全ての規制が悪いわけではない。
 同様なことは、税制度にも言える。酷税と言い、税によって国民が苦しむのは、税が悪いのではなく。税の在り方が悪いのである。税は本来、国民の福利を実現するために徴収され、使われるのである。税のために、経済が悪化したり、国民生活が成り立たないとしたら、税の在り方を改めなければならない。しかし、だからといって税をなくせと言うのは乱暴な話である。
 国民の生命と財産を守るために、軍や警察があるのである。軍や警察のために、国民生活があるわけではない。

 経済とは何か。経済の目的は、国民生活の安寧にある。必然的に、経済政策もその延長線上にある施策でなければならない。経済政策によって国民生活が圧迫されたり、極端な偏りが発生したらそれは、明らかに、経済政策が破綻したのである。
 その根本には、国民生活をどの様なものにするかという考えがなければならない。

 現代経済は、大量生産、大量消費を前提としている。そして、その為に、巨額の初期投資を行い、それを長い時間かけて償却する方式を採用したのである。その為には、設備の稼働率を一定に保つ事が大前提となる。稼働率を保つ、操業度を保つと言う事は、製品を絶え間なく続けることを意味する。それは、大量に商品を製造する結果を招き。対極に、それを捌く、つまり、大量に消費し続けることを意味する。それが大量生産、大量消費型経済である。
 この大量生産、大量消費型経済は、ただ、大量に生産し、大量に消費すればいいと言う単純な考え方を基本としている。この大量に作ればいいという考え方に落とし穴がある。余剰生産物の処理が問題なのである。

 余剰に生産された物は、価値が低下し、やがては無価値になってしまう。そこには、その生産財が社会にとって有用であるか、否か、また、どれ程、それに労働力が費やされたかは問題とされない。生産に費やされた労働とそれに対する対価という思想は入り込まない。

 必要以上に生産された商品は、洪水のように他の国に押し寄せ、状況によっては、その国の経済構造、経済体制を根刮(ねこそ)ぎ破壊してしまうのである。

 国内で捌ききれないほど大量に製品を製造してしまえば、必然的に海外市場で製品を捌かなければならなくなる。そして、それが相手国との間に、重大な摩擦を引き起こすのである。

 相手国の経済が何を必要としていて、何を目的としているのかなどお構いなしである。とにかく、大量に生産した以上生産物を捌く必要がある。要するに売れればいいのである。その為に相手国の雇用がどうなろうと、消費者の倫理観がどうなろうと関係ないのである。
 これは、市場の問題であり、経済の問題ではない。それを勘違いしてはならない。

 もう一つ忘れてはならないのは、経常収支は、世界全体では均衡しているという事実である。どこかの国が黒字になれば、他のどこかの国が赤字になる。それを総合的に見て判断しなければ経済の実体は理解できない。

 ただ安ければ善いとマスコミは、悪徳業者をのさばらしておいて、市場が荒廃してから、商業道徳が廃れたと言ってもはじまらないのである。それ以前に、マスコミのモラルが問われるべきなのである。悪貨は、良貨を駆逐するという言葉が示すように無原則な競争は、悪徳業者を蔓延らせ、良質な業者を市場から駆逐してしまう。限界以上に価格を下げるのには、それだけの根拠があるのである。大切なのは適正な価格である。不当廉売ではない。

 空気は、必要な物資ではあるが、市場価値はない。それは、空気は、人間が生存するのに必要な量が、自然の状態で確保されているからである。しかし、空気が希少価値な場所、例えば、水中では、空気も市場価値を持つ。そうなると空気を製造しようと言う業者が現れる。それが市場経済である。市場価値は、空気が必要か否かではなく。空気が有り余っているか否かの問題に矮小化されてしまうのである。空気に市場価値があるか否かと空気そのものの価値とは違うのである。空気に市場価値がないからといって空気を無価値なものとして大気を汚染し続ければ、我々の生活、即ち、経済は立ちいかなくなる。

 大量生産、大量消費というのは、あらゆる生産財を過剰に生産してしまう。その一方で、雇用の不足を引き起こす。物は沢山あるのに、働く場、即ち、所得を得る場がなくなることを意味するのである。それによって、労働と分配の仕組みが上手く機能しなくなる。それは、必要性という要素が介在しなくなるからである。

 現実に、多くの人は、自分は、社会から、誰からも必要とされていないのではないのかという強迫概念に悩まされている。それが疎外である。

 経済政策の本質というのは、国民の生活に何が必要で、どの様な環境を必要としているかを、貨幣の振る舞いに惑わされることなく、見極めることにある。その上で、どの様な対策を貨幣を用いて行うかを考えるべきなのである。

 バブル後の長期不況の前提となっているのは、過剰債務、過剰設備(投資)、過剰雇用、つまり、全てが過剰なのである。そこから派生するのは過当競争であり、安売り合戦である。その結果市場が荒廃し、個々の企業が利益を上げられなくなっているのである。不必要な競争を抑止し、企業が適正な利潤をあげられるようにすれば、不況から脱出できる。そうなれば、必要以上の生産を抑止することも可能となるのである。また、企業が収益をあげられれば資金が金融市場に滞留することもなくなるのである。

 バブルというのは、局所的なストックインフレである。原油や食料、貴金属価格の異常な高騰は、狭い市場の中に大量の通貨が流入したことが原因である。しかし、それは物的な市場と貨幣的市場の双方が作用していることで、過剰流動性が、即、インフレに結びつくと考えるのは、短絡的である。

 余剰資金が経済の質的な面に向かうか、量的な面に向かうかによってインフレの有り様も変化する。

 重大な問題は、なぜ、何のために利益を上げる必要があるのかが判然としていないと言う点にある。

 経営は、合目的的な行為であると言う事を忘れている。それ故に、企業評価、実績の全てが利益によって計れる事になるのである。
 経営分析が企業の経済的機能に結び付けられていないことが問題なのである。何に対する利益なのかが、利益を考える上で重要となる。
 利益は何に連動して生み出されるのかを考える必要がある。

 利益を上げる目的が明らかでないから、利益その物を罪悪視する傾向が生じるのである。そして、何でもかんでも安ければいいという事になる。重要なのは、適正価格であるか否かであって、安いか高いかは表面的な問題に過ぎない。
 安ければいいと言う発想の最たるものは、金利である。金利は、安ければいいからなければいいと言うところまで来てしまった。利益も何れはそうなるのであろう。それが市場原理主義というものの正体なのである。収益を否定する事は、市場経済、ひいては、市場を否定する事である。市場を否定する者が否定市場主義を標榜するのだから、これ以上の皮肉はないであろう。お陰で金利生活者など絶滅してしまった。金利だけでは生活ができないのである。

 負債は、元本の部分と金利の部分から成り。金利は、変動的なものと固定的なものの二種類がある。元本というのは静的の部分であり、金利というのは、動的な部分を指す。
 静的な部分は、いわば力を蓄えておく部分であり、動的な部分は、力を放出していく部分、活躍している部分とも言える。元本は、金利を計算する基となる数字であり、金利は、元本によって導き出される価値でもある。金利を元本に組み入れるか否かによって価値を生み出す構成が変わってくるのである。

 利益にも、同様な構造がある。つまり、資産に投資した部分とその資産が生みだした価値とから収益構造は構成されており、生み出された価値が利益だと言えるのである。

 この利益や金利は、時間と伴に圧縮されていく傾向がある。

 故に、会計上の勘定は、基となる数値の残高水準が重要になる。残高が外部要因に連動して伸縮する勘定と外部要因に影響を受けない勘定、連動しない勘定がある。
 外部の影響を受けない勘定、連動しない勘定の典型が借入金である。

 担保は、この基となる物に対して掛けられる。この担保される物は、質権に端を発している。担保される物は、長期的な借入物件、差し押さえ物件である。
 担保された物の貨幣価値は、時価で変化する。それに対し、担保する債務の貨幣価値は、額面によって変化しない。

 担保権の行使や元本の一括返済は、通常では、余程のことがない限りありえない。特に、ノンリコースの場合は、担保物件を回収すれば取り引きが終了するのであるから、返済が余程滞らない限りありえないのである。
 ところが、外部環境の変化によってこの原則が破られる。貸し手の都合で返済に滞っていないのに、担保割れしたという理由で不良債権視され回収圧力がかかるのである。これは当初の目論見と違うのである。
 金利は、信用収縮には結びつかない。なぜならば、金利は費用処理されるからである。信用収縮を引き起こすのは、負債である。故に、元本の返済圧力が信用収縮を引き起こしていると言えるのである。

 また、返済に上限が設定されていないのも現在の負債の特徴である。その為に、返済能力にお構いなく、返済額が膨張する。極端な話し、天井知らず、無限大なのである。

 サブプライム問題にもこの担保する価値と担保される物の価値の間に生じる乖離がある。サブプライム問題の根底には、住宅問題がある。そして、雇用問題がある。住宅も、雇用も、不足しているという現実がある。その為に、無謀な住宅ローンが組まれ、証券化され、それが破綻した結果、金融市場が大混乱をきたしたのである。その前に、なぜ、住宅もあり、仕事もあるのに、住宅不足が生じ、失業が蔓延したかである。それを突き止められれば解決の糸口が見つかるはずである。

サブ・プライム問題について

 私は、サブプライム問題は、現象論的な対処療法では解決できないと考える。なぜならば、典型的な構造問題だからである。(2008年9月16日)
 サブプライム問題は、一種の通貨制度の崩壊である。金融不安は、その結果に過ぎない。原因は、信用制度にある。原因から治さないかぎり、根治できない。
 サブプライム問題のキーワード、住宅ローン、証券化、信用制度である。
 紙幣は、元々、証券が発達したものである。紙幣が創造されると、紙幣は、貨幣価値とそれと同量の債務と債権を発生させる。
 紙幣は、一種の証券であるから、市場に流通するようになり、債権を背景にして、貨幣としての効力を発揮させる。この証券は、元々は、債務、即ち、借金を根底に持っている。つまり、債務の信用を根拠にして、債権としての働きをするのである。
 債権は、流動性を持つと現金と債務を派生させることが出来る。この様にして信用制度の基盤は、形成されるのである。
 債務の信用が保たれている内は、紙幣は、貨幣としての働きを果たすが、債務の信用が失われると信用システムが土台から崩れてしまうことになる。
 サブ・プライム問題は、住宅ローンという債務を基礎とした信用システムの崩壊なのである。これを根治するためには、信用システムそのものを立て直す必要がある。
 サブ・プライム問題の構造は、先ず土台の住宅ローンという債務の信用が失われたことにある。
 もう一つ、重要なのは、悪質の証券が流通したと言う点である。悪貨が、良貨を駆逐したという典型的な例である。つまり、土台が腐っている上に、信用システムを支える柱が朽ちたという事である。
 故に、第一に、基礎固めからはじめなければならない。この場合のキーワードは、与信である。つまり、債務の信用を取り戻すことである。
 債務の信用を取り戻すという事は、住宅ローンの信用を取り戻すことを意味する。むろん、その為には、住宅ローンの土台にある住宅市場を建て直すのも一つの手段であるが、例え、住宅問題が解決できたとしても、債務の信用を取り戻せるとは限らない。
 むしろ、債務の信用を回復することが先決だと思われる。その為には、債務の買い取りや肩代わりによって、債務そのものの返済を保証することも一つの手段だと考えられる。何れにしても、原因は、住宅市況でなく。信用システムの土台である債務の与信の問題なのである。
 もう一つは、悪質な証券を切り分けることである。つまり、悪貨と良貨とを分離する事である。悪貨と良貨を判定する基準は、元々、証券は、数式的に作られた物であるから、、数式から基準を割り出すことが可能だと思われる。
 金融に関しては、金融不安の拡大を最小限に抑えることである。金融不安の問題は、金融市場の規律が失われることである。危険なのは、金融不安が拡大して他の信用システムまで波及することである。その為には、緊急処置的な対策もやむおえないと私は、考える。ただ、金融不安というのは、あくまでも、結果として現れた現象に過ぎない。原因を明らかにし、本から断たない限り、例え、症状は軽減されたとしても、何れは、何等かの問題を引き起こすことになる。それも予測できないようなところから問題が噴き出す危険性がある。再発も怖い。
 住宅市場(これは、日本のバブル崩壊後の例を見ても解るが)が、好転したとしても住宅ローンを基礎とした債権市場の建て直しに直接結びつくとは限らない。
 いろいろなバブル現象は、債権と債務の相乗作用によって引き起こされていることがわかる。つまり、バブルを上昇させるのは、一見債権市場の高騰に見えるが、その背後に債務が働いているという事である。債権が高騰するときは、それと、同規模の債務が派生していると考えるべきである。その債務が債権価格を上昇させるが、一転して、下降局面になると債権の価格を押し下げる方向に作用する。それが、過剰な値動きを引き起こすのである。これは、市場の当事者ではどうにもならない圧力なのである。債務があるために買い。債務があるために、売るのである。

 機関投資家は、資金運用を通じて金利以上の収益をあげる必要がある。しかし、市場が過飽和な状態になると企業は、なかなか収益をあげられなくなる。そうなると、機関投資家は、資本市場や金融市場を操作することによって利益を稼ごうとする。それがバブル現象を加速することにもなる。

 今の金融システムは、丁度、底の抜けたバケツのようなものである。流れを堰き止めようとしても止まるものではない。抜けた穴を塞ぐような政策こそ求められているのである。

 サブプライム問題を見ても解るように、現代社会は、ある意味で土地本位制度のようなところがある。ただ、その土地の価格水準が必ずしも安定していないところに問題があるのである。

 現代社会で、問題なのは、経済的問題を卑しめることである。経済を罪悪視する傾向はいまだに残っている。その反面において、金銭に対する節操がない。つまり、経済的倫理観が確立されていない。一方で金を馬鹿にしながら、一方で金儲けのためならば手段を選ばない。だから、経済がよくならない。
 経済の問題は、企業が儲からないように出来ているという事です。財政も赤字にならざるをえない仕組みになっている。つまり、経済の仕組みを正直者が馬鹿をみないような、真面目に働いている者が損をしないような仕組みに組み替えることなのである。

 問題なのは、価値の一般的前提である。価値の一般的前提とは、価値を成立するための一般的前提条件である。つまり、どの様な前提の基に、どの様な価値を形成したかである。それによって、その後の論理の展開が確定する。
 例えば、現在のサブプライム問題を例にとると、サブプライム問題が生じた前提条件は何かである。サブプライムローンの基盤となる住宅ローン何を前提とし、何を担保していたかである。
 住宅ローンは、本来何を前提とするのか。地価なのか。返済能力なのか。ローン、即ち、借金は、本来、返済能力を土台にして設計されるものである。
 返済能力には、所得と資産がある。通常は、返済能力は、所得を基本とする。しかし、不景気になると資産、即ち、担保力を問題にするようになる。その事によって重大な齟齬か生じるのである。地価が下落したとたん、新たな融資が出来なくなったり、また、一括返済を求められると、充分に返済能力があり、それまで、返済を滞った事もない者まで、生活や経営が破綻してしまう。しかも、その時には、担保力まで低下しているのである。最悪の時に最悪なことを要求する。だから、事態はますます悪化するのである。それは、金融が金融本来の機能、金融機関が存在するための前提を忘れてしまうからである。

 最初に、何を前提とし、その前提とのどこが変化し、どこが崩れ、どこが問題なのかを正確に見極めることからはじめる必要がある。

 作用には、常に、反対の作用が隠されている。プラスには、マイナスの、入には、出の、陰には、陽の作用が働く。この反対の作用が及ぼす影響を常に明らかにしながら対策を立てる必要がある。

 一つの取引には、反対取引がある。
 貸出は、相対に借入がある。そして、借入の額は、貸出の額と等しい。貸出と借入が一組になって取引は成立する。そして、取引の時点で成立する貨幣価値が現金である。
 貸付金は、借入金でもある。つまり、金融機関の貸出金は、融資され側から見ると借入金になるのである。借入金、即ち、債務であり、負債である。この負債の相対にあるのが資産である。この借入金の延長線上にある資産の質が問題なのである。

 債権は、債務がある。債権とは、反対側に債務がある事を意味する。
 債権の問題は、債務という問題からも捉え直す必要がある。
 経済的事象には、名目的な表現と実質的な表現がある。名目的な表現とは、外形的な表現である。それに対し、実質的というのは、内容的な表現である。
 名目的価値は、固定的、あるいは、不変的な絶対額として表現される。それに対し、実質的というのは、流動的、あるいは、変動的な相対額として表現される。つまり、名目的価値は、唯一なものであり、実質的価値は、多様なものとなる。
 不良債権というのは、資産と負債の名目的な価値と実質的価値が乖離している状態によって引き起こされるのである。つまり、不良債権というのは、債権者から見た場合であり、債務者から見ると不良債務を意味するのである。
 債権は、資産を形成し、債務は、負債を構成する。不良債権を分析する場合、資産の構造と負債の構造を分析する必要がある。
 資産の名目的価値は、取得原価である。そして、実質的価値は、時価である。
 名目的価値とは、取引という実体に基づく。取引が実現したかどうかが名目的価値の根拠となる。それが、取得原価、歴史的価値である。また、資産は、資金を調達した時点で名目的価値によって担保される。
 実質的価値は、基本的には時価を指す。しかし、時価と言ってもいろいろある。一つは、市価である。市場で実際に取り引きされている価格である。実際に市場で取り引きされていると言っても時間や場所によって市場価格は絶えず変化している。第二に、清算価値である。第三に、更新価値である。第四に、仕入れ原価である。第五に、販売価値である。第六に、路線価のような法定価値である。第七に、残存価値である。残存価値の何かは、マイナスのものもある。そして、何れも認識の時点に影響されて計算方法が違ってくる。
 どの値を選択するかは、認識の目的と前提に基づいて、当事者間の合意によって決まるのである。
 この資産に対応するのが、負債、あるいは、資本である。負債の名目的価値は、元本である。そして、実質的価値は、返済額である。返済額は、返済総額と実際の返済計画の二つがある。また、資本の実質的価値は、株価と配当を合算したものである。しかし、実際には、株価と配当は区分して計られる。
 名目的価値が実質的価値を上回っている場合、未実現利益、含み益がある。それに対し、名目的価値を実質的価値が上回ると未実現損失、つまり含み損が発生する。含み損がある資産を不良債権というのである。
 どの様な状況を前提とするかによって採るべき政策は、制約される。
 市場が拡大し、経済が成長している状況では、実質的価値は、名目的価値を上回って表現される。それに対して、市場が収縮し、経済が成熟してくると実質的価値は、名目価値に対し、基本的に下回って表現される。
 会計上は、名目的表現を原則としている。それに対し、資金の流れは、実質的表現を重んじる。
 資産は、会計上、名目的に表現されるが、資金的には、実質的な計測される。即ち、担保価値を基礎として測られる。それに対して、負債は、原則、名目的価値と実質的価値が一体である。
 負債の構造は、元本と金利となり、返済額は、元本の部分と金利の部分から成る。ただし、元本の部分の返済額は、貸借上も損益上も現れない。資産価値は、貸借上も損益上も名目的な価値しか、本来、表現されない。そして、資金は、資産は、実質的部分を、負債は名目的な部分を基礎としている。
 これが前提である。
 不良債権で問題になるのは、負債で言えば、元本の部分であり、資産で言えば、担保の部分なのである。
 市場が拡大すると元本の部分が拡大するから、調達力が高まり、一転して市場が縮小すると元本の部分が圧縮され、返済圧力が高まる。
 しかも、資金の調達力は、資産の担保力を裏付けとしているために、市場が拡大し始めても資産の担保力が回復しないかぎり、新たな資金調達は阻害されることになるのである。また、銀行は、貸し渋っているのではなく。担保に基礎を置いている限り、貸したくても貸せない状況に陥るのである。この場合、収益に基準をおいて事業を捉え直す必要がある。つまり、担保還元方式から収益還元方式に基準を変える必要があるのである。
 不良債権を構成するのは、資産担保価値、即ち、名目的価値である。
 故に、収益の見通しが立った時点で、この資産価値の修復を画策する必要がある。しかし、資産価値の修復は簡単にはいかない。なぜならは、資産価値は、外部要因だからである。
 資産担保価値を修復する必要がある。名目的価値の変動は、経営者にとって不可抗力である場合がほとんどである。しかも、名目的価値はリセットする事が原則的にできない。結局、名目的価値が回復するのを待つしかない。

 名目的価値と、実質的価値は、常に乖離している。そして、名目的価値が実質的価値の乖離は、資金に流れに影響を与えている。実質的価値が名目的価値を上回っている時は、資金の調達力が向上する。実質的価値が名目的価値を下回ると返済圧力がかかる。

 市場が拡大、発展している時は、名目的価値を上回るように実質的価値が形成される。しかし、成熟期になると実質的価値が名目的価値を下回るようになる。
 それを資金の流れから見ると市場が拡大成長している時は、資金は、調達側に流れ、市場が縮小すると資金は、返済側に流れる。それが、企業の資金調達を絶えず圧迫するようになるのである。
 また、名目的価値は、蓄積、累積する傾向がある。その為に、慢性的な債務超過に陥りやすいのである。
 この様な状況を打開するには、何等かの形で名目的価値を解消する方策を準備する必要がある。

 上昇局面では、名目的価値、絶対額が重視され、下降局面では、実質的価値、相対額が重視される傾向がある。

 重要なのは、前提が変わっていることである。資金を調達した時点において何を前提としたかである。本来、事業は、事業収益を前提として資金を調達している。故に、貸借は、名目的価値を前提として取引が成立するのである。状況が変化したからと言って名目的基準を実質的基準に切り替えるのは、ルール違反である。

 先ず収益を確保できるようにするのが先決である。次ぎに、資金の流れを見る。指して長期的展望に立って事業観を確立する必要があるのである。その事業観基づいて長期的に資産価値を見直す必要がある。
 事業は、本来継続を旨とし、長期的均衡を前提としている。それに対し、目先の収益や資産価値をもって事業の価値を推し量ろうとすることに無理があるのである。肝心なのは、事業目的であり、社会的機能、役割である。その点を考慮し、適切な方策を講じることが金融機関や行政に求められるのである。

 不良債権というのは、貸し手側から見ると、回収が困難な債権を意味する。不良債権を借り手側から見ると返済が困難な債務である。つまり、不良債務である。

 不良債権を発生させている原因は、貸付金の劣化である。

 問題は、貸付金の質の低下にある。
 貸付金の質の低下は、借入金の質の低下を意味する。借入金の質の低下とは、借入によって実現した価値の劣化である。借入によって実現した価値の劣化とは、借入によって得た生産手段が生み出す所得の減少と借入によって獲得した現在的価値の低下である。つまり、借入金の質の低下は、収益の悪化と資産の劣化に原因がある。
 収益の悪化と資産の劣化は、収益と資産の質に依拠している。

 貸付金、即ち、投融資には、経常投資と資本投資とがある。
 経常投資は、生産手段に対する投資と費用からなる。経常投資は、収益に還元される。収益は、企業のおける経済活動の源とみなされる。

 不良債権、債務で重要になるのは、何によって企業は、成り立っているのかである。企業を成り立たせているのは、資金の流れである。
 不良債権、不良債務が問題になるのは、資金の調達が困難になるからである。
 資金が調達できなければ、企業経営は継続できなくなる。逆に言えば、何等かの形で資金を調達できれば企業は継続できる。資金の供給を断たれると、企業は、存続できなくなる。その意味では、企業は生き物なのである。

 企業の経営活動は資金によって成り立っていると言える。どんな形にせよ、必要な資金を調達することが出来れば企業は経営活動を継続できる。資金調達、言い換えると、資金を生み出しているのは、融資と、投資と収益である事を忘れてはならない。

 その中で収益は、企業が、経営活動によって生み出す価値である。収益は、費用と利益からなる。通常は、企業収益によって金利が支払えれば問題とならない。しかし、企業収益が悪化して金利が滞るようになると資金の調達が難しくなる。即ち、収益による資金調達が難しくなる上に、借入や投資による資金調達が困難になるからである。そして、更に元本に対する返済圧力も強くなる。しかも、元本の返済は、損益上も貸借上にも表れない。

 何が収益を、悪化させたのかが、重要なのである。そして、収益の悪化が、一時的なものなのか、恒常的なものなのか、構造的なものなのかが問題なのである。ところが、その様な原因や前提を確かめずに結果だけを問題にする傾向がある。

 また、融資は、実際には、金利に対する支払い能力、収益力ではなく。元本に対する返済能力、担保力を問題にされる場合が多い。結局金の出しては、結果しか評価しない。その為に、事業内容が正当に評価されないのである。

 費用は、固定費、変動費からなる。また、原材料費、人件費、その他、経費からなる。費用は利益の元になる部分であり。収益は、費用に利益を加算したものである。収益が悪化した場合、これらの中のどこに収益を悪化させた要因があるのかを経営者も金融機関もよく見極める必要がある。経営を悪くしようとする経営者は、詐欺師でもない限りいないのである。

 また、貸付金の劣化の原因の一つは、レパレッジにある。

 借入金にサブプライムローンや証券が含まれている。サブプライムの問題は、地価の下落によってサブプライムローンの回収力が低下したことと、サブプライムを証券化したことによってリスクが増幅され、かつ拡大した点にある。
 サブプライムの貸し倒れがどれくらいあり、しかも、レパレッジをどれくらい効かせているかがハッキリしないことが問題なのである。

 実質的資産価値が重要になる。つまり、実物経済との接点をどこに求めるかが鍵を握っているのである。

 貸付金の劣化を招いているのは、資金の回収圧力である。資金の回収圧力の原因は、収益の悪化と資産価値の劣化である。

 例えば住宅ローンの構造であるが、第一に、住宅ローンの貨幣価値総額、第二に、住宅ローンの資産、第三に、住宅ローンの負債からなる。
 住宅ローンそのものの構造は、元本と金利からなる。住宅メーンの名目的価値は、この元本と金利を足したものである。
住宅ローンを成立させている要素は、支払い能力と返済計画である。支払い能力は、住宅ローンの持つ資産価値と債務者の将来の収入を意味する。返済計画は、返済期間と月々の返済予定額を基礎として計算される。
 
 住宅ローンの資産というのは、住宅の持つ価値、土地と建物の価値である。住宅ローンの負債というのは、元本と金利と期間からなる。

 返済額は、その時点時点における貨幣価値の実現を意味する。そして、返済額は、債権と債務の性格を反映する。
 返済額は、基本的に取引が成立した時点での負債額を基礎として算出される。つまり、返済額は、債権から切り離されたところで決定される。返済額の根拠は、債務者の支払い能力に依拠するのではなく。取引が成立した時点での借り手側から見て借入額、貸し手側から見て貸付額、融資額を基礎とするのである。そして、金利も基本的に取引が成立した時点における貨幣価値を基礎として算出される。
 さらに、返済額は、金利の動向によって連動して決まる。
 返済額は、地価の相場や景気、所得に連動していない。つまり、支払い能力は根拠とはされない。企業収益が悪化しても、また、失業して収入がなくなってもそれらは、原則として返済額の算出において考慮、斟酌されないことになっている。それが、借金の決まりであり、仕組みである。
 その為に、借り手側の都合に関係なく月々の返済が滞ると返済圧力が強まる。また、元本を保証しているのは、資産価値であり、主に、土地の価格である。の為に、地価の下落は、元本の返済圧力として作用する。しかも、元本の返済は、損益上も貸借上にも表れてこない。つまり、表面に表れない資金の流れである。資金繰り倒産の一番の原因でもある。

 債務の元となる負債は、固い数値として表現される。それに対し、債権の元である資産は、日々変動している。故に、資産の変動は、債務を梃子とした働きをする。資産価値が上昇しているときは、新たな信用を生み出す基礎となるが、資産価値が下降し始めるととたんに返済圧力して、また、回収圧力として作用する。それが資産効果、あるいは、逆資産効果と言われる現象である。 

 借入先の資産が拡大しているときは、資金を生み。資産が劣化すると回収圧力として作用する。回収圧力が極端に強まると資金が市場から吸い上げられ、流動性が枯渇してしまう。いくら市場に資金を供給しても資金が流れなくなるのである。

 返済、回収というのは、現在的価値の解消を意味する。つまり、負債の返済は、信用の解消、信用収縮を意味するのである。金融市場の内部運動である。
 よく儲けはどこへ消えたという人がいるが、それは、利益というものを理解していないが故の発言である。利益というのは、現金化されて始めて実現する。それまでは、通常、債権と債務という形で保持されている。債権が収縮すれば必然的に債務も収縮し、その間に得た利益も解消されてしまう仕組みになっているのである。
 つまり、決済というのは、債権と債務の解消を意味するのであり、それは、信用収縮を意味し、現金価値の減少を意味するのである。

 株で、何億円、儲けたと言ってもそれを現金でもっているわけではない。通常、株という債権で所有している。儲けは、株を売って現金化した時に実現する。株を売れば、株価は下がる。株が下がれば、必然的にそれまでの儲けも解消されてしまうのである。

 重要なのは資金の量よりも資金の流れる方向である。資金の流れが回収される方向に向かうと資金の流通は阻害され、貸出が抑制されることによって新たな信用も創出されなくなる。






                    


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